「井伊直虎はなぜおんな城主となったのか?」
(BS-TBS・2017/1/9放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/
<感想>
井伊直虎を取り上げた番組を視聴するのは、これで3本目となります。それぞれ微妙にエピソードの紹介が異なるので、ほぼこれで大河ドラマのあらすじはコンプリートできたかもといった感じです。「にっぽん!歴史鑑定」はドラマの時代考証を担当している小和田哲男先生が出演していますから、ほぼ断定的に“直虎=女性説”採用での話でした。
・【歴史秘話ヒストリア】おんな城主 直虎のイロハ
・【歴史秘話ヒストリア】それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎~
興味深いエピソードでいえば井伊家を窮地に追い込んだ小野政直、政次親子のところですね。どちらもドラマでそれなりの役者さんが当てられています。既に政直が井伊直満を死に追いやったところは「おんな城主」の第1話で放送済ですが、まだ政次は直虎や直親の幼馴染み役ということで…今後どういう形でブラック化していくのかちょっと楽しみといえば楽しみなトコロです。
ということで、とりあえず大河ドラマの中だけは「おとこ城主」説のことは忘れて観ることにしたいと思います。もう今更変えられないし…ね。今後の新発見でお蔵入りになるようなことがあったら、逆に観る機会が得られなくなるかもしれないですしね(苦笑)
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・江戸時代末期の安政7年(1860年)3月3日。江戸城桜田門の前で幕府を震撼させる暗殺事件が起こった(桜田門外の変)。暗殺されたのは幕閣の最高職・大老の井伊直弼、日本を開国へと導いた人物だ。歴史を動かすほどの存在となっていた井伊家。
・しかしそれほどの権力を持つことが出来たのも、一人の女性がいたからこそ。戦国の世に生きた「おんな城主」井伊直虎。女として生まれながら男の名を名乗ることになった直虎。その人生は悲劇と試練の連続だった。
・許婚が行方不明に。それでも一途に待ち続ける直虎が最後に下した驚きの決断とは。
・2度にわたる家臣の裏切り。城も領地も奪われた直虎、井伊家を守り抜いた奇跡の逆転劇とは。
・井伊家の菩提寺に伝わる秘蔵史料を徹底検証。謎多き直虎の実像に迫る。
<井伊直虎の生い立ち>
・静岡県浜松市は、かつて遠江国と呼ばれていた。ここに井伊谷と呼ばれる地域がある。もともと井伊家はこの辺り一帯で15ほどの集落を治めていた弱小の地頭(国人領主)だった。
・戦国時代、遠江国は駿河の大名・今川義元の領地となり、井伊家は井伊谷の地頭のまま今川の家臣となった。当時の井伊家について戦国史に詳しい静岡大学名誉教授の小和田哲男氏に伺った。
井伊家は本領の井伊谷支配を許されたので、他の地域より恵まれていた。だから安定的な支配が続いている(小和田氏)
・そんな中、天文5年(1536年)頃に生まれたのが井伊直虎。父は井伊家の22代当主・直盛。直虎は唯一授かった子どもだった。井伊家の歴史が記された「井伊家傅記」にはこうある。
女にこそあれ井伊家惣領に生まれ候
(惣領=跡継ぎ)
・当時、女性が当主となることは出来たのか。
江戸時代は家督は男しか継げない決まりがあったが、戦国時代は女の子しか居ない場合は当主になっているのでこの場合も当主になれた(同上)
・父・直盛は一人娘を大事に育てた。礼儀作法や読み書きなどを教え、教養を授けたという。しかし直盛は迷っていた。
「女が当主となれば領民がついてこない可能性もある」
・そこで結局、婿を取りその者に家督を継がせることにする。
養子を迎えてもよかったが、せっかく自分の子どもがいるわけだからその子に婿を迎えれば自分の血が残ると考えたのは(同上)
・直盛が許婚にしたのは、叔父である直満の子・直親だった。幼馴染みだった二人は仲が良く、ともに井伊家を盛り立てていくのだと気持ちを寄せ合った。
・今回は直虎(幼名不明)と直親が同じ年代だという説に基づく。二人が婚約したのは7歳の頃。このまま結婚すれば直虎がおんな城主になる必要はないが、時は戦国時代。彼女は乱世の渦に巻き込まれた。
<井伊家筆頭家老の裏切り>
・井伊家筆頭家老の小野政直が今川義元に対し、直親の父・直満が今川家に謀反を起こそうとしていると讒言した。
・直満とその弟(直義)は謀反の疑いを晴らすため、すぐさま駿府に赴き申し開きを行った。しかし義元は許さず、二人は殺されてしまった。このとき息子である直親にも危機が迫っていた。
・親族らは穀物を入れる袋に直親を隠して間一髪、城を脱出させ長野の寺に預けた。居場所はもちろん生死さえもごく限られた者だけにしか知らせなかった。
・家臣である小野政直はなぜ井伊家を裏切ったのか。江戸幕府がまとめた大名や旗本の記録集「寛政重修諸家譜」に、こんな記述がある。政直は直満と不仲だったため直親が家督を継ぐことを嫌い、今川義元に讒言した。
・小野政直は井伊家を監視するため今川家から送り込まれたスパイだったとも言われている。そのため政直は将来、直親が当主になり反今川色が強くなることを未然に防ごうとした。
・時は下克上の世。政直はあわよくば井伊家を乗っ取りたいとも考えていた。そのため事件後、平然と息子の政次を井伊家の婿養子にしてはもらえないかと持ちかけたという。直盛は当然、首を縦に振ることはなかった。
<直虎の出家>
・直虎も気持ちは同じ。一途に許婚の帰りを待ち続けた。しかし何年経っても帰って来なかった。何度父にその生死を問いただしても答えてくれない。
・すると直虎は出家するという周囲を驚かせる行動に出た。父は思いとどまるよう説得するが、彼女の決心は変わらなかった。
・浜松市にある古刹・龍潭寺。井伊家の菩提寺であるこの寺で直虎は出家した。現住職である武藤宗甫氏はこのときの直虎の気持ちをこう推察する。
直親への一途な思いが出家を決意させた。弔いのため一生涯独身で過ごすという強い思いがあったのでは(武藤氏)
・出家した直虎は「次郎法師」という法名を授けられた。名付け親は当時の龍潭寺の住職で、直虎の大叔父でもあった南渓瑞聞。しかしなぜ男の名だったのか?
井伊家の惣領は代々、備中次郎を付けていた。その次郎を頭に持っていきたいというのが一つの選択肢にあったのかもしれない。その下に法師と付けたのは当時としては男性の方が還俗(一度出家した者がもとの俗人に戻ること)しやすかったからというのが推測される(同上)
・将来、井伊家に戻る可能性を残し直虎は出家したが、何歳で出家したかについて諸説ある。事件後すぐに出家した9歳頃。また20歳ぐらいだったという説もある。
事件後すぐというのは自分で判断できる年齢ではないのではないか。また小野政直が死亡して直親が帰ってきているので20歳というのも遅いと思われる。直虎の出家は事件後5~6年後ぐらいではないか(小和田氏)
<井伊直虎を襲った2度目の悲劇とは>
・弘治元年(1555年)20歳になった直親が井伊谷に戻ってきた。直盛は娘・次郎法師を還俗させ、直親と結婚させようとしたが彼女は還俗する気はないと一度決めたことを曲げることはなかった。
・父は諦めて直親を自分の養子にし、他の女性と結婚させた。俗世間を離れ仏の道を選んだ次郎法師。それでもなお井伊家の安泰、そして想いを寄せた許婚の幸せを祈っていたに違いない。
・そんな彼女に再び悲劇が襲った。今川義元が領土拡大のため織田信長が治める尾張への進軍を開始。こうして永禄3年(1560年)桶狭間の戦いが起こった。
・このとき父・直盛は同じ今川の家臣である松平元康(後の徳川家康)とともに先発隊として出陣。織田軍の拠点を奪取すべく進軍したが、信長の奇襲により今川義元が討ち死に。深手を負った直盛は自刃してしまっった。
・直盛亡き後、井伊家の跡を継いだのが養子となっていた直親。翌年には待望の跡取り・虎松(後の井伊直政)が生まれた。
・こうして井伊家に一筋の光が差したその矢先の永禄5年(1562年)12月14日、直親が今川家の手によって暗殺の憂き目に。このとき28歳。
・事の発端はまたも井伊家家老の裏切りにあった。小野政次が今川に密告した。政次は直親の父・直満を死に追いやった小野政直の子。政次は直親が松平元康(徳川家康)と結んで謀反を起こそうとしていると讒言した。事実、直親は元康と密書を交わし、味方となる誓いを立てていた。
桶狭間の戦い後、跡を継いだ今川の力も衰え、直親も松平元康に付いた方がいいと考えて今川から離れようとしたふしがある(小和田氏)
・家臣・小野家の2度の裏切り。当主・直親を失った井伊家は追い詰められた。直虎の曽祖父の井伊直平が73歳で当主に返り咲いた。
・しかしほどなく直平も今川家によって毒殺されてしまった。このとき残されたのは直親の子・虎松ただ一人だったが、僅か2歳。井伊家滅亡の危機だった。
・浜松市にある城山公園。高さ115mの小高い山の上に井伊家の居城・井伊谷城があった。地頭としてこの地を治めていた井伊家だったが、戦乱の中で次々と当主が死亡。このままでは直親を死に追いやった家老・小野政次が井伊家を操る形となってしまう。
・思い悩む次郎法師に龍潭寺の南渓和尚は、井伊家の家督を継ぐよう伝えたという。仏門に入った身、結婚は出来なくとも当主にはなれる。次郎法師は覚悟を決めた。名を直虎と改め、井伊谷を治める地頭となった。このとき29歳。ここでも直虎という男の名前を付けた。
誰が直虎と名付けたのかは分かっていない。自分が付けたのか、南渓和尚が付けたのか、その辺りではないか。ただ直虎は男として井伊家を継いでいく決意をしたことは間違いない。当主が女性だと知られれば周囲から攻め込まれる危険性があった。また自分は虎松が元服するまでの繋ぎだと考えていた(小和田氏)
<おんな城主となった井伊直虎の政治手腕とは>
・おんな城主となった井伊直虎。その存在を今に伝える貴重な書状がある(「関口氏経井伊直虎宛書状」浜松市博物館蔵)。直虎の署名の下に書かれているのは「花押」と呼ばれるもので、今でいうところのサイン。
・花押は身分の高い男で、土地と民を治める者だけに許されたもの。筆致の力強さから直虎の覚悟と、決して女であると悟られない細心の注意が感じられる。
・しかし直虎が当主となった頃、井伊谷は苦しい状況にあった。井伊谷は今川の領国である遠江の中にあり、今川の支配下にあった。今川が戦をするとなれば、その戦費を捻出しなければならなかった。
・領民からの年貢で賄ってきたが、世は戦国時代。戦の費用は増える一方で台所は火の車。当時、井伊家は地元商人からの借金で何とか持ち堪えていた。そんな中、永禄9年(1566年)今川家から書状が届く。
「井伊谷の農民から不作であるという訴えがあったので、徳政令を出すように」
・徳政令とは借金を棒引きにするという法令。実は農民も生活苦や農具などの購入のため、商人からかなりの借金をしていた。そこに不作が続き、借金を返済できない状態に陥っていた。しかし直虎は徳政令を出すか否か悩んだ。
徳政令を出すと井伊家の借金がなくなり助かるが、商人たちが大打撃を受け借金ができなくなる(小和田氏)
・しかし徳政令を出さずにいたら、困窮する農民が一揆を起こすかもしれない。また今川からは命令に背いたと討伐を受けるかもしれない。どちらにしても井伊家は窮地に。
・実はそれこそが今川家の狙いだった。井伊家を追い込み、井伊谷を奪おうと目論んでいた。商人、農民そして今川家に挟まれ悩む日々。そして決断した。
「井伊家のため徳政令は出さぬ」
・商人を守ることで財源を確保するのを選んだ。そこで直虎は今川家への対応策を講じた。実質的には命令に背くことになったものの徳政令を出さないとは伝えず、商人や農民への説明に時間を要していると時間稼ぎを行った。
・苦境に立たされたままの農民たちに対して直虎がどうしたかという史料は残されていない。しかしこのとき一揆が起こっていないことからみると、徳政令はいずれ出すと言いながら何らかの措置をしていたのではないかと考えられる。
・引き延ばすこと2年。いつまで経っても徳政令を出さない直虎に今川は苛立ち、直虎を非難する書状を送りつけてきた。
「いまもって徳政令を実行しないのは、はなはだ呆れたことだ」
・直虎は今川の圧力に屈し、遂に徳政令を布告(永禄11年・1568年)。しかし直虎はそうなることを見越して策を講じていた。2年の間に商人たちに徳政令免除の書状を出し、徳政令が出てもその命令には従わなくてもよいという特別措置をとっていた。
・戦わずしてお家の危機を救った直虎。実はこのとき直虎が守りたかったものはもう一つあった。出家後に身を寄せていた井伊家の菩提寺・龍潭寺。直虎が南渓和尚に宛てた書状は今も寺に大切に保管されている。そこにこんな記述があった。
「龍潭寺は井伊家の菩提寺である。徳政令によって利益が損なわれることはない」
・当時、寺社には金融業のような役割もあった。お布施などで得た金を貸し、その利子を寺の修繕などに充てていた。そのため徳政令を出してしまえば寺が貸した金が戻らず、商人同様に破たんする可能性があった。
今川が出した徳政令であっても、私が城主なので守りますという文言だった(住職の武藤さん)
・知略を尽くし大切なものを守り抜いた直虎。その切なる思いが書状の最後に記されている。
「子孫繁栄の懇祈」
・全ては井伊家を守るため、それこそが直虎におんな城主となる決意をさせた最大の理由だった。
<井伊直虎はどうやって領地を取り戻したのか>
・しかし今川は直虎には統治能力がないと言いがかりをつけてきた。永禄11年(1568年)直虎は地頭から罷免。領地を奪われ、城を追われた。しかも直虎に代わって井伊谷の支配を任されたのが、かつての許婚・直親を死に追いやった小野政次だった。
・直虎たちが身を寄せたのは龍潭寺。この時点で井伊家は滅びたとも言えるが、直虎は悲観していなかったという。
「きっとこちらに良い風が吹く。憎っくき今川家も風前の灯」
直虎はこの時点で今川が危ないという情報は掴んでいたと思う。武田信玄からも見放され、家康も今川から独立して遠江の国境まで来ている(小和田氏)
・直虎は時代の風を読んでいた。その読み通り井伊家が城を追われて僅か2か月後、徳川が武田が示し合わせて東西から今川領に攻め込んで、今川家を滅ぼした。井伊谷を支配していた小野政次は今川家滅亡の知らせを受けすぐに城を脱出したが、追っ手の手にかかり死亡。
・今川家の支配下にあった遠江の地頭たちは、徳川と武田どちらに付くか選択に迫られた。直虎も同じで、どちらに付くべきか。見誤ればお家再興どころではなくなる。直虎は他の地頭たちの動向に目を配った。しかし徳川、武田に付く者はほぼ同数だった。
直虎が選んだのは徳川家だった。許婚だった直親が家康に付こうとした経緯も知っていたので、そういう選択をしたのではないか(小和田氏)
・直虎は生涯ただ一度の恋の相手・直親の遺志を継いだ。そして直虎の願いは許婚の忘れ形見である虎松を家康の家臣に出仕させることだった。
・しかし井伊家はまだ領地を取り戻しておらず流浪の身。家康にお目通りするのは難しい立場。一体どうすればいいのか直虎は考えた。
<井伊直虎が起こした奇跡の大逆転劇とは>
・天正3年(1575年)虎松15歳。直虎は満を持して行動を起こした。江戸幕府の公式記録である「徳川実紀」にはこう記されている。
鷹狩りの道にて只者ならざる面差しの小童
・家康が鷹狩りに行く途中でたまたま虎松を見掛けたとある。しかし「井伊家傅記」を見てみると、それは偶然ではなかった。実は家康が大の鷹狩り好きだと聞きつけた直虎が、家康の行動を調べ上げ綿密に仕組んだものだった。
「御小袖二つ御仕立て遣わされ候也」(「井伊家傅記」より)
・つまり家康の目に留まるように、自ら仕立てた着物を虎松に着せたという。直虎のこうした努力が報われ、虎松は家康に仕えることになった。
・虎松は家康から万千代という名を授けられその後、目覚ましい活躍をみせた。戦では常に先頭に立って敵軍に突っ込み、多くの戦功を挙げた。その武勇は敵味方を問わず驚かせたという。そして22歳のとき井伊直政と名乗り、井伊家当主となった。
・直虎は自らの役目は終わったと再び出家。男の名を捨てた彼女にようやく平穏な日々が訪れた(祐圓尼)。
・しかしその後、本能寺の変が起こり、家康が従っていた織田信長が自刃。このとき家康は堺に居た。天下を揺るがす一大事。一刻も早く三河に戻って態勢を整えなければならなかった。
・敵軍の目をかいくぐり、伊賀国の山中を抜ける大脱出劇。家康が生涯最大の苦難と語る「伊賀越え」の際、側近中の側近として警護を任されたのが直政だった。
・このとき病に伏せっていた直虎は病床でかつての許婚の子ども、直政の無事を祈ったと言われている。そして直政の無事を聞いた直虎は安堵したのか、その3か月後にこの世を去った(享年46)。
・井伊家はその後、彦根に移り徳川幕府の大大名に。そして大老を輩出する譜代大名筆頭の家柄になった。それは直虎なくして決して成し得なかったことだろう。彼女の一途で真っ直ぐな強さがなければ。
・井伊家の菩提寺・龍潭寺。乱世に翻弄された直虎は、ここに眠っている。かつての許婚・直親のすぐ近くで安らかに。
(2017/1/14視聴・2017/1/14記)
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井伊直虎 (歴史新書y)
おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」完全ガイドブック (TOKYO NEWS MOOK 591号)
2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」完全読本 (NIKKO MOOK)
おんな城主 井伊直虎と井伊直政の真実 (別冊宝島 2528)
井伊直虎と謎の超名門「井伊家」 (講談社+α文庫)
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