「復興サポート みんなでつくる楽しみの場~熊本・南阿蘇村~」
(NHK総合・2016/11/27放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/
<感想>
熊本地震から半年余り、多くの被害が出た南阿蘇村の住民たちがどのように暮らしを復興させていくのか話し合いが行われました。東日本大震災の復興サポーターでお馴染みの民俗学者・結城登美雄氏が参加して、現在の被害の実態や、これまで各地で取り組まれたことなどを紹介する内容でした。
東日本大震災の際にも問題となったことですが、行政が被災者の仮設住宅への入居を進める際に画一的に対応して集落がバラバラになってしまうということが、南阿蘇村でも起こっていました。集会所の箱モノは作られても自治会が組織されないため、鍵が掛かって誰も使えない状態になっている。そして「個人情報保護」のご時世ですから入居者名簿も配られず、入居している人たちが孤立状態となっている。これは村として何をしているのかと、きちんと指摘すべきだと思いました。
おそらく南阿蘇村という行政単位で、そこまできめ細やかな対応ができていないのでしょう。村としても人手不足など言い分があるかもしれません。だからこそ被災自治体へは、全国的に応援職員を派遣するなどすべきです。ましてや南阿蘇村は「平成の大合併」という(私から言わせれば国の無為無策以外の何物でもない)自治体リストラで広大な村となったわけですから尚更です。
そして平素、あまり意識してこなかった元からの住民と分譲住宅の移住者との隔たりも、地域の人間関係の分断というか、誰か住んでいる分からないというような人間関係となってしまっていました。せめて地域の自治会といった組織が最低限地域で組織されていないと、有事の対応が違ってくるのではないかと思いますね。
南阿蘇村のような地方でもそうなのですから、都市部では奇跡のような団地自治会があるようですが(→【ETV特集】日本で一番住みたい団地~孤独死ゼロ・大山団地の挑戦~)、それ以外の平場では相当厳しい状況なのかもしれませんね。
何だか話が「楽しみの場づくり」から離れてしまいましたが、人と人との関係をつくっていく手法として「共同菜園づくり」という提案がされました。それ以外でも独自の地域でのお祭りやイベントなどもいいと思いますし、要は多くの人々が共同体の一員であることを意識させる取り組みを進めていき、人間関係を積み上げていくことが必要なのではないでしょうか。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
※見出しは当方で付けました。
・美しい阿蘇の山並みが多くの観光客を魅了してきた。熊本地震で壊滅的な被害を受けた南阿蘇村。地震から半年、地元の大学の学生たちの呼びかけで慰霊祭が行われた。
・今年4月、熊本県を震度7の地震が二度にわたって襲った。南阿蘇村では、家屋の倒壊や豪雨による崖崩れなどによって19人が犠牲になった。物流の動脈だった阿蘇大橋は崩落、道路は今も至る所で寸断されたままだ。
・南阿蘇村で全壊または半壊した家は1430棟余り、今もガレキの多くがそのままの状態で残されている。さらに村の美しい景観の象徴だった棚田が崩落。地割れも至る所で発生している。また都会からの移住者が住んでいた分譲住宅地も壊滅的な被害を受けた。
・南阿蘇村では仮設住宅が完成し、住民は引っ越しを始めている。しかし、もともと暮らしていた集落の人々はバラバラになり、住民の多くが孤立している。
・今回の復興サポーターは民俗研究家の結城登美雄氏。東日本大震災で被災した農漁村を回り、その復興にアドバイスを続けてきた。今回は結城氏の話を聞きたいという南阿蘇村の住民の要請を受けて現地を訪ねた。
・10月下旬、話し合いの場が設けられた。どうしたら仮設住宅で安心して生活していけるのか。どうしたら観光と農業が支えてきた村の暮らしを再建できるのか、話し合った。
・集まったのは南阿蘇村の住民と支援者、観光業に関わる人々、美しい南阿蘇村の分譲住宅地に移り住んだ人々も参加した。
<南阿蘇村の住民の声>
・番組ナビゲーターは後藤千恵氏。結城登美雄氏が復興サポーターとして会場に登場。
ここに来て、すさまじい被災なんだなと改めて感じました。住民の方、相当ショック受けておられるだろうし、何とお言葉をかけていいか分からなくて。でも僕なりにささやかでも、何か復興への手がかりみたいなのがお示しできたらいいなと思って、今回伺いました(結城氏)
・住民の皆さんが今どんな気持ちでいるのか尋ねた。
当時1階に寝てまして、朝までガレキの中で過ごして、ようやく自力で何とか脱出できたという。今後もこの村に住みたいと思いながらもですね、再建できるかどうかというのが見えない状況です(自宅が全壊、仮設住宅で生活する男性)
旅館業を営んでおりまして、行政が土石流で埋まったものを土石をのけて頂いて、そして建物を取り壊して頂いて、2年ぐらいはかかるだろうと。復興に対して強い気持ちを持って今、一歩一歩進んでいるところです(旅館が全壊、仮設住宅で生活する男性)
実は移住してきたわけです。やっぱり南阿蘇というのは非常にね風光明媚で水もきれいということで、退職後の第二の人生をここで送ろうということで、何とかここでですね、もう一度住み続けたいなと思っております(首都圏からの移住者、仮設住宅で生活する男性)
この先、どうなっていくんだろうと。まだ不安で何も思いつかないです。夜、風が吹いたら、もう山の崩れた音がもう頭から離れんからですね、何かもう毎日が不安で眠れないです。今みんなバラバラだけど、やっぱりみんなと一緒に住みたいです。それが私の本音です(自宅が全壊、仮設住宅で生活する女性)
<南阿蘇村の被害の現状>
・阿蘇の山々の南に位置する熊本県南阿蘇村、人口およそ1万2000の農業と観光の村だ。今回大きな被害を受けたのは村の西側、交通の要衝だった阿蘇大橋は崩落した。熊本から大分や宮崎に抜ける物流の大動脈が分断された。復旧の見通しは、まだ立っていない。
・阿蘇大橋に近い黒川地区。今回、最も大きな被害を受けた地区の一つ。285世帯が暮らし、およそ1000人の学生が通う東海大学農学部があった。現在、大学の施設は閉鎖され、学生は熊本市内で授業を受けている。学生たちが住んでいたアパートは地震当時のまま。この地区で3人の学生と6人の住民が亡くなった。
・ゴルフ場のある栃木地区も大きな被害を受けた。都会からの移住者向けに分譲された95戸の住宅地。6割近くが全半壊。地震後の豪雨などで一部に地滑りが起き、近くの川に崩落する危険もある。復旧の見通しは立っていない。
・美しい棚田が広がっていた山里、袴野地区も壊滅的な被害を受けた。山の中腹にあった家の殆どが全半壊した。今住んでいる人は一人もいない。集落の棚田には地割れが走り、一部は崩落している。水路も破壊され、農業がいつ再開できるのか分からない。
・8月末に入居が始まった加瀬ノ上仮設団地。別々の集落から集まった63世帯が暮らしている。この団地で毎朝一人で道の掃除をしている古庄則光さんは、棚田の美しい袴野地区に住んでいたが自宅は全壊。集落の人々はバラバラとなり、古庄さんは2か月前に妻とここに移った。未だに住民同士の繋がりが薄いことに古庄さんは危機感を抱いている。
これは仮設住宅の配置図。どこに誰がおるか本当に分からない(古庄さん)
・仮設住宅には古庄さん夫婦の知らない住民がたくさんいる。入居者の多くは高齢者。孤独死を防ぐための見守り活動が必要だと考えているが、自治会もなく手の打ちようがない。
なかなか難しいですね。誰がいらっしゃるかも分からないし(妻・ツタ子さん)
誰が誰に連絡していいかも何も、そういうのが出来とらんけんですね(古庄さん)
・人の繋がりを作るため話し合いの場を設けようとしても、集会所には鍵がかかっている。住民が使うためのルールがまだ出来ていない。
鍵は行政が持っているみたいで中に入れない。どういうふうに進んでいくか、行政と一緒になって、このままではいかん(同上)
・都会からの移住者向けに売り出された栃木地区の分譲地。家が全壊または半壊し、移住者の多くは仮設住宅に移った。全壊した家で、仮設住宅に移るための荷造りをしている人がいた。島﨑政光さんは10年前にこの家を買い、定年退職を機に移り住んだ。美しいこの村で老後を過ごしたいと思っていたが、これからどうすればよいのか分からない。
野鳥がしょっちゅう来てまして、すごくこの場所が気に入ってました。「なんでうちがこうなったんだろう」という思いはありますよね(島﨑さん)
・この日、島﨑さんが入居した下野仮設団地には、様々な地区から65世帯が移り住む。移住者向けの分譲地からここに入居したのは、島﨑さんだけだった。島﨑さんをはじめ移住者の多くは、これまで地元の住民と交流する機会は殆ど無かった。今後、生活上の困り事や悩み事などを誰に相談したらいいのか、不安を募らせている。
ゼロから築き上げないといけない。うまくやっていけるのかなという不安ですよね(同上)
・南阿蘇村で大きな被害を受けた地域の一つ、黒川地区。避難所から戻って住み始めている人がいた。断水が今も続くこの地域で唯一水が出る仮設水道。水を汲んでいるのは、ここに住む佐野徳正さん。
水の出ない所へ2、3軒配ってあげようかと(佐野さん)
・壊れた家を片づけに来ている人を見つけては声をかける。
こんにちは、大変ですね。お水を届けに来ました(同上)
・この水がなくては、大変な片づけの作業をすることができない。震災前はカラオケも歌える店を経営していた佐野さん、自宅でもあった店は地震で大きな被害を受けた。被害にショックを受け、一度は黒川地区から離れることも考えた。
・しかし家の目の前に仮設水道が設置され、片づけに来た住民が立ち寄るようになり、この店を「誰もが気軽に集まれる場所」として再開させようと思い立った。
・この日も次々に仮設住宅から家の片づけに来た人たちが集まってきた。佐野さん夫婦は、なるべく明るく声をかける。この集落の住民もバラバラに仮設住宅に入った。佐野さんはこの店を「みんなで心から笑える場所にしたい」と願っている。
(仮設では)周り誰も知らないから、どこも行かんときは一口も喋らんです。テレビ観とるだけ(女性)
ここは何でも話して、甘えて(別の女性)
こんなして集まると笑いが出る(女性)
<結城氏のアドバイスと参加者の声>
仮設は何か寂しそう、苦しそう。でも一方、佐野さんのとこのサロンは明るくって笑いがあって(結城氏)
まあ、みんなの集まる場所にちょっとでもなれば、それが一番いいかなとは思ってますけどね(佐野さん)
後藤:島﨑さん、どういうふうに?
仮設住宅で生活を始めて、やっと3週間ぐらいですかね。私は立ち止まってお話をするという方は6人ぐらいになったんですね。それぐらいしかいないんでね。一つのヒントは、佐野さんのお宅でやられたような、ああいうのが集会所になったらいいのかなと思いましたよね。それをどうやってやっていったらいいのかというのは、まだアイデアないんですけど、考えることはあるのかなと思いますね(島﨑さん)
後藤:仮設はどうですか?
なかなか、人とは会うとですよ。会うけど、どこの人かも分からんし、やたらに声かけてもですね、こんちにはの挨拶からというけど、なかなか声はかけれんですね(仮設住宅で暮らす女性)
後藤:仮設でバラバラに入ってらっしゃるというのが、やっぱりちょっと。
緊急時だし、結果的にバラバラになったんでしょうけど。僕は仮設の住み替え、住み直しみたいなことだってあっていいんじゃないかと思うんですよ。昔のコミュニティー、この間まで「おはよう」「こんにちは」とか「元気?」ってやってた人同士が毎日顔を合わせていく。そうすると話し合いができる。それ大事なんじゃないかなと思いました。でも佐野さんのとこのサロンは笑顔とか笑いで、あそこに何かヒントないかななんて思いながら見てました。
やっぱり地域に楽しみの場所つくらんとダメなんですよ。あそこに行くと何かあるかなといって行ってみようかなみたいな。冗談言いながら「実はよ」とかって愚痴言ったり、悩み打ち明けたり、みんなの心の持ち寄り場所、要るんじゃねえかな(結城氏)
後藤:集まると、やっぱり皆さんの力がこう湧いてくるというか。
東日本大震災で福島のね川内村というのがあるんですよ。本当に少ない村なんです。もう殆ど戻らない。寂しいねって。でもここはね、楽しみの日にはね、餅をついて食べたんです。それをみんなに話したら、若い人たちが子どもに餅ついて食わせたいって言って臼を買って。そしたら笑顔がどんどん生まれるんです。そうすると、何かお父ちゃん元気になってくるんですよ。我が子のために。
そうしてる間に、この餅、自分たちだけじゃなくて、離れた仮設にいる人たちにも届けたいねというんで、みんなで正月用の鏡餅をつこうっつって1700個も作っちゃった。それで仮設に届けに行ったんですよ。「よう、しばらく」とかって。「餅ついたからよ」って。おばあちゃん嬉しくて「元気か、子どもは」とかって昔の会話ができるわけ。
そうしたら役場が東京とか遠く離れている村人にも送ってあげようと鏡餅を袋詰め始まりました。千葉県船橋の娘のところにいた人、川内から餅が届いたよってやったらお雑煮餅にして食べるんですよ。そしたら「やっぱりふるさとの餅はうめえ」となったんです。久々に笑顔が。だからちっちゃなお餅でも何かみんなで一緒にやるって大事じゃないかなと僕は思いました(結城氏)
後藤:どうですか?
さっき映像にも出てきました、あのお餅なんかですね、年末近づきますからね。まずやっちゃえばいいんですよ。仮設の中でお餅つきしましょうというとこから始まって、それが離れた人たちに届くというようなところまで広がれば、もうその時点でそこの仮設のみんなは仲良くなってると思うんですよね。そこをやっぱり30代から50代の若手がちょっとやらないといけませんね。反省してます、はい(仮設の住民の男性)
<旧山古志村の再生の取り組み>
・新潟県旧山古志村、現在の長岡市山古志地域は美しい棚田が広がる人口1000人の山里。この静かな里にひときわ賑わっている場所がある。
・農産物の直売所、店を切り盛りしているのは集落の住民たち。土日限定で営業している。山古志にはこうした直売所が合わせて10か所あり、新鮮な野菜を目当てに多くの観光客が訪れている。
(新潟県)五泉市からです。ここまで(車で)1時間半かかります(女性)
・山古志でいち早く直売所を始めた主婦の一人、星野京子さん。家の畑で大根や小松菜、食用菊などを育てている。名物は「かぐら南蛮」、見た目はピーマンに似ているが唐辛子の一種でピリっと辛い野菜。特産品として直売所で売られている。
野菜でお金が取れるなんて思わなかった(星野さん)
・山古志にたくさんの直売所ができたきっかけは12年前の中越地震だった。2004年10月、山古志を震度6強の地震が襲った。家屋の多くが全半壊し道路は分断。集落は孤立し住民は取り残されてしまった。孤立した集落からヘリコプターで助け出された星野さん一家、孫の手を引きながらの脱出だった。
・地震の2か月後、隣の自治体だった長岡市に仮設住宅が完成し、ここでの暮らしが始まった。仮設の集会所では、お茶飲みサロンをはじめ様々な催しが開かれた。しかし、次第にこうした活動だけでは満足できなくなってきた。星野さんたちは田畑の土が恋しくなったのだ。
・そこで行政や支援者の協力で被災者が一緒に畑仕事をする共同農園が誕生、「畑の学校」と名付けられた。共に汗を流すうちに気心が知れ、集落を越えて人と人との繋がりが生まれていった。
・当時、畑の学校には40人の主婦が参加。たくさんの野菜が収穫できたため、それを長岡市の直売所に出すようになった。新鮮な野菜は評判を呼んだ。生きがいが生まれ、ちょっとしたお小遣いが手に入るようになり、星野さんは元気になった。
・地震から3年後の2007年、星野さんは避難生活を終え、山古志に戻った。仮設住宅で知り合った仲間との交流は今も続いている。荒れていた耕作放棄地を借りて1反の畑で野菜を作っている。「山古志・畑の学校」と名付けた。仲間はそれぞれ違う集落に住んでいるが、畑ではいつも一緒。
気の楽な仲間。最高。
うちらはもう“つながり”絆になっていると思います。
1人では何もできないの。こうやって5人でも6人でもグループができていることは、すごく心強い。
・10月23日、中越地震からちょうど12年を迎えた。山古志の広場に様々な特産物を売る店が並んだ。星野さんたちも直売所を開いた。自慢のかぐら南蛮も並んでいる。
・この日の売上は4万円。直売所も畑と同じ楽しみの場だ。
ここではお客さんとの対話ができるので楽しい(星野さん)
・地震前3か所だった山古志の直売所は、今では10か所に増えている。「畑の学校」で知り合った女性たちが、思い思いの場所で直売所を開いた。山深い山古志に交流の輪が広がり、村に楽しみの場が増えた。
<星野さんの報告と参加者の声>
・会場に星野京子さんが登場。
後藤:星野さんも仮設住宅に2年半ですか?
2年とちょっとで出てきました。私たちの方は集落ごとに仮設住宅に入れて頂いたんですよ。だから皆さんが朝起きても、隣の人に「どう、元気?」って一人暮らしの人に話ができる。だから周りに誰かがいてくれるんだという、そういう心強いあれがあったと思うんですよ。集落の人たちがね、一緒に入れたら最高にいいんじゃないかなと思います(星野さん)
後藤:仮設で暮らしていらっしゃる時に農作業のできる場所が作られて、そこで皆さん。
畑で仲間でもって作業するというのは、すごく楽しいんですよ。芽が出て実がなる、それを収穫する。それがね何よりの楽しみで。だから皆さんもね、ぜひ引っ込まないで自分から出て、そして1人でも2人でも仲間を作って、そしたらいろいろなね、悩み事なんかも話し合いもできる。だからその本当にね、仲間というのは最高に私は素晴らしいことだと思うんですよ(星野さん)
後藤:どのように?
いやー、すごいと思いました。私たちもまねしたいと思います(仮設の住民の女性)
地域の人たちがそれぞれが前向いて、そして仕事をされてる。農業などいろんな形で関わっているというのは、やっぱり素晴らしいんじゃないかなと思いますよね(支援者の男性)
後藤:小さなところから始められて、今やそのこのバッジされてる「かぐら南蛮」が本当に大きな特産物になっていって、すごいですよね。
野菜でね、お金が取れるなんて考えたこともなかったんですよ。でもそのお金でね、私たちはグループで貯金をしていったんですよ。そして沖縄まで旅行に行ってきました。そういう楽しみがありますので、ぜひ皆さんも苦しい、どうしよう困ったねと焦る気持ちもあると思いますけれども、自分たちがやればできるんだという気持ちで一歩一歩前に進んでいっていただきたいと思います(星野さん)
<南阿蘇村の農業被害の実態について>
・10月半ば、結城氏は棚田の景観が美しい袴野地区を訪ねた。伺ったのは仮設住宅で暮らす古庄さんの家。先祖代々住んできた築100年の家、天井は抜け柱に亀裂が入っている。「全壊」という判定を受けた。
・この地区は米作りが盛んだった。しかし地震で棚田に地割れが走り一部は崩落。今年は田植えはできなかった。
今年は耕作不能だということで全部諦めて。涙も出らんだったね、どうするかと思って(古庄さん)
・農地も家も大きな被害を受けた古庄さん。しかし唯一、無事に残されているものがあった。
我が家の“しゃえんばたけ”です(同上)
・「しゃえん」とは菜園のこと。古庄さんの家庭菜園だけが残っていたのです。雨水を頼りにおよそ1反の畑で栽培しているのは、小豆などの豆類にネギ、トウモロコシ。ユズやカボスなどの柑橘類も育っている。この日、収穫したのは里芋。
これで芋汁やったら、うまかろうね(同上)
こんなのみんなで収穫やったら、気持ち盛り上がるんじゃないですか(結城氏)
野菜は美味しいですもんね。野菜も米も美味しかですよ(古庄さん)
・古庄さんは正月のおせち料理のために黒豆を育てていた。袴野地区の住民は昔から家族のために、しゃえん場で野菜や果物を作ってきた。
大きいでしょう。一番安心、無農薬で肥料も使うとらんし自然(同上)
・しかし今でも、しゃえん場を耕しているのは古庄さんを含めほんの数人。地域の土に親しむ人がどんどん減っているという。
農地はいっぱい余っとる。何にも植えないで、ただ空いとる。そういう農地いっぱいある。もったいなか(同上)
<結城氏のアドバイスと参加者の声>
後藤:今「しゃえん場」と出てきましたけど、何か生かすことができるんでしょうか。
古庄さんの見たときに、おっ、これが宝物だと。これを一人で耕すの大変ですよね。それをここにやって来る人たちみんなの畑にしていく。共同の畑、そしてレストラン、食堂もやる。それの方法みたいなのについての一つのヒントとして、ちょっとご紹介したいと思うんです。
宮城県の加美町。店もないし何もないよという。ところが村を回ると、しゃえん場があるんですよ。ずいき(いもがら)、つゆなんかに入れるといいだしが出るんですよ。おかずを常に家族のために用意している。持ち寄りなんです。「頼むよ、かあちゃん1品ずつ」と言ったら持って来ました。そこにテーブル並べるからと言ったら「あいよ」って来たわけ。家族みんなで作るギョーザ、いろりのそばで味噌付けた焼きおむすび、こういう素材を持って来てくれる人もいる。それを体育館に800品集まった。人なんか来ないところに1万人見に来た。ふだん会話をしたことない知らない同士が「塩何パーセント?」とか会話が弾むわけですよ。
そうしているうちに古民家を改築してレストラン出来ないかしらなんてなった。じゃあ200食作りましょうって、私は2000円と言ったんです。そしたらお母さんたち「バカ」って言うんですよね、500円だって。もめにもめて1000円で手を打ちました。当日売り出しました。400人並びました。200人分が5分で売り切れ。お母ちゃんたち何て言ったと思います?「あー2000円にすればよかった」。
さて、そういうしゃえん場がもうみんなの食堂にもなってくわけですよ。一つの例、青森(弘前市)です。直売所で余ったらそれでおかずを作って、100gなんぼっていうことで好きな分だけ取って計りで値段が出る。テーブルがあったり、弁当で持っていける対応もしています。
決め手は青森産。ここが南阿蘇産、しゃえん場野菜ね。そういう意味で食を通じて仲間づくりができるんです。それを仕事にもできていく。だから、しゃえん場小さいのじゃなくて、これを大きな可能性とみんなの楽しみの場と、新しいみんなの気持ちに張りを与えていったりできるんじゃないかな(結城氏)
後藤:どのように思われました?
私、漬物好きでいろんな人に配ってしているんです(仮設の住民の女性)
うちの分譲地も結構、家庭菜園やってる人がいるんですよ。実は私の家内がそれにはまっておりまして(分譲地の住民の男性)
今年の地震で畑が駄目なんですよ。来年からの楽しみに修復しています(分譲地の住民の女性)
家内が今、一生懸命菜園やってたんですけどね、古庄さんの所は土地が余ってるということなもんですからね、畑をそういう相互交流みたいな形ができれば(分譲地の住民の男性)
土地はなんぼでもあるけん、いきましょうという話。はい、無料で貸します(古庄さん)
今度、直売所できたら売りませんか?こちらのお母さんたちが積み上げてきた料理なんかでコラボレーションなんかできたら、新しい阿蘇のお料理が生まれて、お弁当が生まれたり、みんなの心、気持ちを寄せ合って一緒にやろうよ、外の人にもつながっていく。これが僕、大事じゃないかと思います(結城氏)
<参加者の感想>
後藤:最後に今日の感想を聞かせていただけますでしょうか?
本当に今日の話は興味津々と聞きました。私たちも前に出れる出れると、しっかり思います。復興とかいろんなことにできるだけ参加していきたいと思います。ありがとうございました(仮設の住民の女性)
この5か月間はうじうじと、もうどうしていいか分からなくて本当ぐずぐず考えてたんですけど、最初の第一歩を踏み出すことがすごく大事だなと。この気持ちを大事に頑張っていきたいと思います(仮設の住民の女性)
僕も強くならないかんなと。絶対強くなるぞと。皆さんに負けないぞという思いでございます。ありがとうございました(分譲地の住民の男性)
やっぱり南阿蘇村の復興・復旧なくして私の復興・復旧はないと。どんどん参加して、村が良くなるようにしていきたいなと思っています(分譲地の住民の男性)
亡くなった方もいらっしゃる。学生さんたちも亡くなったりしました。でも今日のお話を聞いたり、地震がなければ絶対顔を合わせることのなかった分譲地の皆さんとも今日お話ができたりして、言葉が不謹慎かもしれませんけれども地震があってよかったというそっちの部分をどんどん大きくしていってあげて、被害に遭われた方とか亡くなられた方も、そのことで多分あの世で喜んでいただけると思うんですね。だから前よりも、もっと素晴らしい阿蘇、九州一の南阿蘇にしたいと頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました(旅館が全壊、仮設の住民の男性)
私が勉強するときの支えにした先生がいます。柳田國男さんという民俗学者です。日本全国を本当に歩いて柳田さんはこう言っています。
美しい村など 初めからあったわけではない
美しく生きようとする村人がいて 美しくなる
阿蘇は歴史の中の初めから美しかったわけじゃないと思うんです。ここをよい暮らしの場所にしようや、楽しい所にしようやと、先輩たちが積み上げてきたわけです。でもこういう震災にも遭った。でも皆さんが、こうしよう、美しくしよう。人が手をかけて温かいものにしていく。それがこの南阿蘇の皆さんならできるなというふうに私は確信しました。ありがとうございます。頑張ってください(結城氏)
・地震から半年経ったこの日、南阿蘇村で行われた慰霊祭。主催したのは阿蘇の自然に抱かれて学んできた東海大学農学部の学生たち。
今後の元気になったり活力であったり、そういう元になればいいなと(学生)
・灯籠には地元の小学生や学生などがメッセージを書いた。南阿蘇村の未来を照らす明かりだ。
(2016/11/29視聴・2016/11/29記)
※関連ページ(東日本大震災関連)
村長選挙 旅する投票箱
証言記録 東日本大震災 千葉県浦安市~液状化の衝撃 水と闘った1か月~
拝啓 10年後のあなたへ~震災前からの手紙 福島・飯舘村~
廃炉への道2016 第2回 膨らむコスト~持続的な仕組みは作れるか~
響け!未来への“鼓動”~全国太鼓フェスティバル 岩手・陸前高田~
証言記録 福島県須賀川市~放射能の不安と闘った病院~
復興サポート ボランティアの力で被災地を元気に~熊本~
復活 石巻市立病院 震災2000日 被災地医療の今
すべてが流されたこの場所から~福島・南相馬~
命を守れ津波模型~岩手から高知へ高校生たちの夏~
証言記録 東日本大震災 宮城県東松島市~二本の列車 明暗を分けた停車位置~
復興サポート 放射能汚染からの漁業再生~福島・いわき市 Part3~
3.11からの夢 よそ者の私ができること
こころフォトスペシャル 6回目の夏 大切なあなたへ
一人一人の“生きた証”を求めて~岩手県・大槌町~
証言記録 岩手県大槌町~行政機能を失った町役場~
選・きたれ!マグロ漁師 ~宮城県気仙沼市~
明けない夜はない ~福島・いわき 奇跡の横丁をゆく~
証言記録 東日本大震災 福島県南相馬市~原発事故バス避難 試練の2週間~
三十一文字の思い~生島ヒロシと“震災の短歌”~
復興サポート みんなで描く ふるさとの再生~宮城・岩沼市Part5~
そして村は動き始めた~東北から熊本へ 被災地・2か月の記録~
渡辺謙 僕に、できること 再会 6年目の希望と苦悩
証言記録 東日本大震災 ピアノよ 被災地へ届け
廃炉への道2016 核燃料デブリ 迫られる決断
スポーツでわが町に夢を!~宮城県・女川町~
悲しみもよろこびも~認知症グループホームの5年~
きたれ!マグロ漁師 ~宮城県気仙沼市~
北のどんぶり飯物語
証言記録 東日本大震災 宮城県石巻市~3000枚の命のカード~
復興サポート 放射能汚染からのふるさと再生~福島・南相馬市 Part3~
フクシマ再生 9代目・彌右衛門の挑戦
巨大災害 MEGA DISASTER Ⅱ 日本に迫る脅威 地震列島 見えてきた新たなリスク
ひとりじゃない ボクとおばちゃんの5年間
傷む心
シリーズ東日本大震災 “26兆円” 復興はどこまで進んだか
甦れ!東北の鉄路 1750日の記録(2)
甦れ!東北の鉄路 1750日の記録(1)
被災地縦断800km
こころフォトスペシャル 家族と過ごした風景
証言記録スペシャル いつか来る日のために 心の復興をめざして
私を襲った津波~その時 何が起きたのか~
風の電話~残された人々の声~
ゼロから町をつくる~陸前高田・空前の巨大プロジェクト~
ふるさと
復興サポートスペシャル 自分たちで描く ふるさとの未来
はじまりのごはん 3・11 写真と付箋
証言記録 東日本大震災 宮城県石巻市~復興の煙をあげろ!製紙工場の挑戦~
1000の笑顔を届けて~ヘアスタイリスト 野沢道生の挑戦~
証言記録 東日本大震災 福島県浪江町~放射能と闘った消防士たち~
復興サポート 高校生が描く地域の未来~宮城・気仙沼市~
復興サポート “おらほの舞”でよみがえれ!~福島県浜通り地方~
証言記録 東日本大震災 岩手県釜石市~土葬か火葬か 安らかに送りたい~
証言記録 東日本大震災 福島県飯舘村~廃業か継続か 牛飼いの決断~
漂流ポスト…あなたへ
復興サポート 命を守るコミュニティーをつくろう~岩手・大槌町 Part2
証言記録 東日本大震災 宮城県多賀城駐屯地~自衛隊員 遠い家族~
復興サポート 今こそ若い力でボランティア!
忘れじの旅~2015・秋~
ふるさとに咲け 未来のなでしこ~福島・高校女子サッカー部の挑戦~
被災地 極上旅~福島県いわき市~
シリーズ東日本大震災 “津波の海”を潜る~三陸・破壊と回復の5年間~
証言記録 東日本大震災 岩手県大槌町吉里吉里~待たずに動け 自主災害対策
復興サポート“楽しい介護”で豊かな地域をつくろう~宮城・気仙沼市 Part2~
きっかけ食堂~京都から東北へ~
ふくしま 鎮魂の祀り~詩人 和合亮一の“言葉神楽”~
証言記録 東日本大震災 福島県双葉町~原発事故 翻弄された外国人~
復興サポート 村に楽しみの場をつくろう~福島・川内村 Part2~
ぼくらの描いた町の未来~震災を越えたタイムカプセル~
いつか来る日のために~証言記録スペシャル 学校で命を守る~
こころフォトスペシャル~幸せの記憶とともに~
証言記録 東日本大震災 宮城県石巻市~避難所と在宅避難者のモノ語り~
ふるさとの記憶~福島県・富岡町~
母さん食堂営業中!あったかご飯で待ってるよ~福島県・南相馬市~
東日本大震災 岩手県大槌町・陸前高田市~神戸市水道局の100日間~
復興サポート 放射能汚染からの漁業再生~福島・いわき市 Part2~
真っ赤に輝け! 夏イチゴ ~IT×熟練農家 宮城山元町~
三十一文字の思い~福田こうへいと“震災の短歌”~
証言記録 東日本大震災 福島県~原発事故 想定が崩れたとき~
復興サポート・笑顔の商店街をつくりたい!~岩手県山田町~
いくぞ~!北の出会い旅~東北・宮城~
シリーズ東日本大震災 元気に老いる~生活不活発病・被災地の挑戦~
生命に何が起きているのか~阿武隈山地・科学者たちの挑戦~
海辺の街のコンテナカラオケ
証言記録 東日本大震災 宮城県石巻市雄勝町~子どもたちを守れ 決死の救援要請~
ようこそ!槌音が響く丘へ~被災女将 笑顔が戻るその日まで~
復興サポート・子どもたちで祭りを創ろう~宮城・岩沼市 Part4
ボクらの夢は、終わらない ~福島・南相馬に集う若者たち~
あったかい“まち”をつくりたい~宮城・石巻市~
証言記録 東日本大震災 第40回“いのちの情報を届けろ”広報臨時号~岩手