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【明日へ―つなげよう―】復興サポート みんなでつくる楽しみの場~熊本・南阿蘇村~

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【明日へ―つなげよう―】
「復興サポート みんなでつくる楽しみの場~熊本・南阿蘇村~」

(NHK総合・2016/11/27放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 熊本地震から半年余り、多くの被害が出た南阿蘇村の住民たちがどのように暮らしを復興させていくのか話し合いが行われました。東日本大震災の復興サポーターでお馴染みの民俗学者・結城登美雄氏が参加して、現在の被害の実態や、これまで各地で取り組まれたことなどを紹介する内容でした。

 東日本大震災の際にも問題となったことですが、行政が被災者の仮設住宅への入居を進める際に画一的に対応して集落がバラバラになってしまうということが、南阿蘇村でも起こっていました。集会所の箱モノは作られても自治会が組織されないため、鍵が掛かって誰も使えない状態になっている。そして「個人情報保護」のご時世ですから入居者名簿も配られず、入居している人たちが孤立状態となっている。これは村として何をしているのかと、きちんと指摘すべきだと思いました。

 おそらく南阿蘇村という行政単位で、そこまできめ細やかな対応ができていないのでしょう。村としても人手不足など言い分があるかもしれません。だからこそ被災自治体へは、全国的に応援職員を派遣するなどすべきです。ましてや南阿蘇村は「平成の大合併」という(私から言わせれば国の無為無策以外の何物でもない)自治体リストラで広大な村となったわけですから尚更です。

 そして平素、あまり意識してこなかった元からの住民と分譲住宅の移住者との隔たりも、地域の人間関係の分断というか、誰か住んでいる分からないというような人間関係となってしまっていました。せめて地域の自治会といった組織が最低限地域で組織されていないと、有事の対応が違ってくるのではないかと思いますね。

 南阿蘇村のような地方でもそうなのですから、都市部では奇跡のような団地自治会があるようですが(→【ETV特集】日本で一番住みたい団地~孤独死ゼロ・大山団地の挑戦~)、それ以外の平場では相当厳しい状況なのかもしれませんね。

 何だか話が「楽しみの場づくり」から離れてしまいましたが、人と人との関係をつくっていく手法として「共同菜園づくり」という提案がされました。それ以外でも独自の地域でのお祭りやイベントなどもいいと思いますし、要は多くの人々が共同体の一員であることを意識させる取り組みを進めていき、人間関係を積み上げていくことが必要なのではないでしょうか。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・美しい阿蘇の山並みが多くの観光客を魅了してきた。熊本地震で壊滅的な被害を受けた南阿蘇村。地震から半年、地元の大学の学生たちの呼びかけで慰霊祭が行われた。
・今年4月、熊本県を震度7の地震が二度にわたって襲った。南阿蘇村では、家屋の倒壊や豪雨による崖崩れなどによって19人が犠牲になった。物流の動脈だった阿蘇大橋は崩落、道路は今も至る所で寸断されたままだ。
・南阿蘇村で全壊または半壊した家は1430棟余り、今もガレキの多くがそのままの状態で残されている。さらに村の美しい景観の象徴だった棚田が崩落。地割れも至る所で発生している。また都会からの移住者が住んでいた分譲住宅地も壊滅的な被害を受けた。
・南阿蘇村では仮設住宅が完成し、住民は引っ越しを始めている。しかし、もともと暮らしていた集落の人々はバラバラになり、住民の多くが孤立している。
・今回の復興サポーターは民俗研究家の結城登美雄氏。東日本大震災で被災した農漁村を回り、その復興にアドバイスを続けてきた。今回は結城氏の話を聞きたいという南阿蘇村の住民の要請を受けて現地を訪ねた。
・10月下旬、話し合いの場が設けられた。どうしたら仮設住宅で安心して生活していけるのか。どうしたら観光と農業が支えてきた村の暮らしを再建できるのか、話し合った。
・集まったのは南阿蘇村の住民と支援者、観光業に関わる人々、美しい南阿蘇村の分譲住宅地に移り住んだ人々も参加した。

<南阿蘇村の住民の声>
・番組ナビゲーターは後藤千恵氏。結城登美雄氏が復興サポーターとして会場に登場。

ここに来て、すさまじい被災なんだなと改めて感じました。住民の方、相当ショック受けておられるだろうし、何とお言葉をかけていいか分からなくて。でも僕なりにささやかでも、何か復興への手がかりみたいなのがお示しできたらいいなと思って、今回伺いました(結城氏)

・住民の皆さんが今どんな気持ちでいるのか尋ねた。

当時1階に寝てまして、朝までガレキの中で過ごして、ようやく自力で何とか脱出できたという。今後もこの村に住みたいと思いながらもですね、再建できるかどうかというのが見えない状況です(自宅が全壊、仮設住宅で生活する男性)

旅館業を営んでおりまして、行政が土石流で埋まったものを土石をのけて頂いて、そして建物を取り壊して頂いて、2年ぐらいはかかるだろうと。復興に対して強い気持ちを持って今、一歩一歩進んでいるところです(旅館が全壊、仮設住宅で生活する男性)

実は移住してきたわけです。やっぱり南阿蘇というのは非常にね風光明媚で水もきれいということで、退職後の第二の人生をここで送ろうということで、何とかここでですね、もう一度住み続けたいなと思っております(首都圏からの移住者、仮設住宅で生活する男性)

この先、どうなっていくんだろうと。まだ不安で何も思いつかないです。夜、風が吹いたら、もう山の崩れた音がもう頭から離れんからですね、何かもう毎日が不安で眠れないです。今みんなバラバラだけど、やっぱりみんなと一緒に住みたいです。それが私の本音です(自宅が全壊、仮設住宅で生活する女性)

<南阿蘇村の被害の現状>
・阿蘇の山々の南に位置する熊本県南阿蘇村、人口およそ1万2000の農業と観光の村だ。今回大きな被害を受けたのは村の西側、交通の要衝だった阿蘇大橋は崩落した。熊本から大分や宮崎に抜ける物流の大動脈が分断された。復旧の見通しは、まだ立っていない。
・阿蘇大橋に近い黒川地区。今回、最も大きな被害を受けた地区の一つ。285世帯が暮らし、およそ1000人の学生が通う東海大学農学部があった。現在、大学の施設は閉鎖され、学生は熊本市内で授業を受けている。学生たちが住んでいたアパートは地震当時のまま。この地区で3人の学生と6人の住民が亡くなった。
・ゴルフ場のある栃木地区も大きな被害を受けた。都会からの移住者向けに分譲された95戸の住宅地。6割近くが全半壊。地震後の豪雨などで一部に地滑りが起き、近くの川に崩落する危険もある。復旧の見通しは立っていない。
・美しい棚田が広がっていた山里、袴野地区も壊滅的な被害を受けた。山の中腹にあった家の殆どが全半壊した。今住んでいる人は一人もいない。集落の棚田には地割れが走り、一部は崩落している。水路も破壊され、農業がいつ再開できるのか分からない。
・8月末に入居が始まった加瀬ノ上仮設団地。別々の集落から集まった63世帯が暮らしている。この団地で毎朝一人で道の掃除をしている古庄則光さんは、棚田の美しい袴野地区に住んでいたが自宅は全壊。集落の人々はバラバラとなり、古庄さんは2か月前に妻とここに移った。未だに住民同士の繋がりが薄いことに古庄さんは危機感を抱いている。

これは仮設住宅の配置図。どこに誰がおるか本当に分からない(古庄さん)

・仮設住宅には古庄さん夫婦の知らない住民がたくさんいる。入居者の多くは高齢者。孤独死を防ぐための見守り活動が必要だと考えているが、自治会もなく手の打ちようがない。

なかなか難しいですね。誰がいらっしゃるかも分からないし(妻・ツタ子さん)

誰が誰に連絡していいかも何も、そういうのが出来とらんけんですね(古庄さん)

・人の繋がりを作るため話し合いの場を設けようとしても、集会所には鍵がかかっている。住民が使うためのルールがまだ出来ていない。

鍵は行政が持っているみたいで中に入れない。どういうふうに進んでいくか、行政と一緒になって、このままではいかん(同上)

・都会からの移住者向けに売り出された栃木地区の分譲地。家が全壊または半壊し、移住者の多くは仮設住宅に移った。全壊した家で、仮設住宅に移るための荷造りをしている人がいた。島﨑政光さんは10年前にこの家を買い、定年退職を機に移り住んだ。美しいこの村で老後を過ごしたいと思っていたが、これからどうすればよいのか分からない。

野鳥がしょっちゅう来てまして、すごくこの場所が気に入ってました。「なんでうちがこうなったんだろう」という思いはありますよね(島﨑さん)

・この日、島﨑さんが入居した下野仮設団地には、様々な地区から65世帯が移り住む。移住者向けの分譲地からここに入居したのは、島﨑さんだけだった。島﨑さんをはじめ移住者の多くは、これまで地元の住民と交流する機会は殆ど無かった。今後、生活上の困り事や悩み事などを誰に相談したらいいのか、不安を募らせている。

ゼロから築き上げないといけない。うまくやっていけるのかなという不安ですよね(同上)

・南阿蘇村で大きな被害を受けた地域の一つ、黒川地区。避難所から戻って住み始めている人がいた。断水が今も続くこの地域で唯一水が出る仮設水道。水を汲んでいるのは、ここに住む佐野徳正さん。

水の出ない所へ2、3軒配ってあげようかと(佐野さん)

・壊れた家を片づけに来ている人を見つけては声をかける。

こんにちは、大変ですね。お水を届けに来ました(同上)

・この水がなくては、大変な片づけの作業をすることができない。震災前はカラオケも歌える店を経営していた佐野さん、自宅でもあった店は地震で大きな被害を受けた。被害にショックを受け、一度は黒川地区から離れることも考えた。
・しかし家の目の前に仮設水道が設置され、片づけに来た住民が立ち寄るようになり、この店を「誰もが気軽に集まれる場所」として再開させようと思い立った。
・この日も次々に仮設住宅から家の片づけに来た人たちが集まってきた。佐野さん夫婦は、なるべく明るく声をかける。この集落の住民もバラバラに仮設住宅に入った。佐野さんはこの店を「みんなで心から笑える場所にしたい」と願っている。

(仮設では)周り誰も知らないから、どこも行かんときは一口も喋らんです。テレビ観とるだけ(女性)

ここは何でも話して、甘えて(別の女性)

こんなして集まると笑いが出る(女性)


<結城氏のアドバイスと参加者の声>
仮設は何か寂しそう、苦しそう。でも一方、佐野さんのとこのサロンは明るくって笑いがあって(結城氏)

まあ、みんなの集まる場所にちょっとでもなれば、それが一番いいかなとは思ってますけどね(佐野さん)

後藤:島﨑さん、どういうふうに?

仮設住宅で生活を始めて、やっと3週間ぐらいですかね。私は立ち止まってお話をするという方は6人ぐらいになったんですね。それぐらいしかいないんでね。一つのヒントは、佐野さんのお宅でやられたような、ああいうのが集会所になったらいいのかなと思いましたよね。それをどうやってやっていったらいいのかというのは、まだアイデアないんですけど、考えることはあるのかなと思いますね(島﨑さん)

後藤:仮設はどうですか?

なかなか、人とは会うとですよ。会うけど、どこの人かも分からんし、やたらに声かけてもですね、こんちにはの挨拶からというけど、なかなか声はかけれんですね(仮設住宅で暮らす女性)

後藤:仮設でバラバラに入ってらっしゃるというのが、やっぱりちょっと。

緊急時だし、結果的にバラバラになったんでしょうけど。僕は仮設の住み替え、住み直しみたいなことだってあっていいんじゃないかと思うんですよ。昔のコミュニティー、この間まで「おはよう」「こんにちは」とか「元気?」ってやってた人同士が毎日顔を合わせていく。そうすると話し合いができる。それ大事なんじゃないかなと思いました。でも佐野さんのとこのサロンは笑顔とか笑いで、あそこに何かヒントないかななんて思いながら見てました。

やっぱり地域に楽しみの場所つくらんとダメなんですよ。あそこに行くと何かあるかなといって行ってみようかなみたいな。冗談言いながら「実はよ」とかって愚痴言ったり、悩み打ち明けたり、みんなの心の持ち寄り場所、要るんじゃねえかな(結城氏)


後藤:集まると、やっぱり皆さんの力がこう湧いてくるというか。

東日本大震災で福島のね川内村というのがあるんですよ。本当に少ない村なんです。もう殆ど戻らない。寂しいねって。でもここはね、楽しみの日にはね、餅をついて食べたんです。それをみんなに話したら、若い人たちが子どもに餅ついて食わせたいって言って臼を買って。そしたら笑顔がどんどん生まれるんです。そうすると、何かお父ちゃん元気になってくるんですよ。我が子のために。

そうしてる間に、この餅、自分たちだけじゃなくて、離れた仮設にいる人たちにも届けたいねというんで、みんなで正月用の鏡餅をつこうっつって1700個も作っちゃった。それで仮設に届けに行ったんですよ。「よう、しばらく」とかって。「餅ついたからよ」って。おばあちゃん嬉しくて「元気か、子どもは」とかって昔の会話ができるわけ。

そうしたら役場が東京とか遠く離れている村人にも送ってあげようと鏡餅を袋詰め始まりました。千葉県船橋の娘のところにいた人、川内から餅が届いたよってやったらお雑煮餅にして食べるんですよ。そしたら「やっぱりふるさとの餅はうめえ」となったんです。久々に笑顔が。だからちっちゃなお餅でも何かみんなで一緒にやるって大事じゃないかなと僕は思いました(結城氏)


後藤:どうですか?

さっき映像にも出てきました、あのお餅なんかですね、年末近づきますからね。まずやっちゃえばいいんですよ。仮設の中でお餅つきしましょうというとこから始まって、それが離れた人たちに届くというようなところまで広がれば、もうその時点でそこの仮設のみんなは仲良くなってると思うんですよね。そこをやっぱり30代から50代の若手がちょっとやらないといけませんね。反省してます、はい(仮設の住民の男性)

<旧山古志村の再生の取り組み>
・新潟県旧山古志村、現在の長岡市山古志地域は美しい棚田が広がる人口1000人の山里。この静かな里にひときわ賑わっている場所がある。
・農産物の直売所、店を切り盛りしているのは集落の住民たち。土日限定で営業している。山古志にはこうした直売所が合わせて10か所あり、新鮮な野菜を目当てに多くの観光客が訪れている。

(新潟県)五泉市からです。ここまで(車で)1時間半かかります(女性)

・山古志でいち早く直売所を始めた主婦の一人、星野京子さん。家の畑で大根や小松菜、食用菊などを育てている。名物は「かぐら南蛮」、見た目はピーマンに似ているが唐辛子の一種でピリっと辛い野菜。特産品として直売所で売られている。

野菜でお金が取れるなんて思わなかった(星野さん)

・山古志にたくさんの直売所ができたきっかけは12年前の中越地震だった。2004年10月、山古志を震度6強の地震が襲った。家屋の多くが全半壊し道路は分断。集落は孤立し住民は取り残されてしまった。孤立した集落からヘリコプターで助け出された星野さん一家、孫の手を引きながらの脱出だった。
・地震の2か月後、隣の自治体だった長岡市に仮設住宅が完成し、ここでの暮らしが始まった。仮設の集会所では、お茶飲みサロンをはじめ様々な催しが開かれた。しかし、次第にこうした活動だけでは満足できなくなってきた。星野さんたちは田畑の土が恋しくなったのだ。
・そこで行政や支援者の協力で被災者が一緒に畑仕事をする共同農園が誕生、「畑の学校」と名付けられた。共に汗を流すうちに気心が知れ、集落を越えて人と人との繋がりが生まれていった。
・当時、畑の学校には40人の主婦が参加。たくさんの野菜が収穫できたため、それを長岡市の直売所に出すようになった。新鮮な野菜は評判を呼んだ。生きがいが生まれ、ちょっとしたお小遣いが手に入るようになり、星野さんは元気になった。
・地震から3年後の2007年、星野さんは避難生活を終え、山古志に戻った。仮設住宅で知り合った仲間との交流は今も続いている。荒れていた耕作放棄地を借りて1反の畑で野菜を作っている。「山古志・畑の学校」と名付けた。仲間はそれぞれ違う集落に住んでいるが、畑ではいつも一緒。

気の楽な仲間。最高。

うちらはもう“つながり”絆になっていると思います。

1人では何もできないの。こうやって5人でも6人でもグループができていることは、すごく心強い。


・10月23日、中越地震からちょうど12年を迎えた。山古志の広場に様々な特産物を売る店が並んだ。星野さんたちも直売所を開いた。自慢のかぐら南蛮も並んでいる。
・この日の売上は4万円。直売所も畑と同じ楽しみの場だ。

ここではお客さんとの対話ができるので楽しい(星野さん)

・地震前3か所だった山古志の直売所は、今では10か所に増えている。「畑の学校」で知り合った女性たちが、思い思いの場所で直売所を開いた。山深い山古志に交流の輪が広がり、村に楽しみの場が増えた。

<星野さんの報告と参加者の声>
・会場に星野京子さんが登場。

後藤:星野さんも仮設住宅に2年半ですか?

2年とちょっとで出てきました。私たちの方は集落ごとに仮設住宅に入れて頂いたんですよ。だから皆さんが朝起きても、隣の人に「どう、元気?」って一人暮らしの人に話ができる。だから周りに誰かがいてくれるんだという、そういう心強いあれがあったと思うんですよ。集落の人たちがね、一緒に入れたら最高にいいんじゃないかなと思います(星野さん)

後藤:仮設で暮らしていらっしゃる時に農作業のできる場所が作られて、そこで皆さん。

畑で仲間でもって作業するというのは、すごく楽しいんですよ。芽が出て実がなる、それを収穫する。それがね何よりの楽しみで。だから皆さんもね、ぜひ引っ込まないで自分から出て、そして1人でも2人でも仲間を作って、そしたらいろいろなね、悩み事なんかも話し合いもできる。だからその本当にね、仲間というのは最高に私は素晴らしいことだと思うんですよ(星野さん)

後藤:どのように?

いやー、すごいと思いました。私たちもまねしたいと思います(仮設の住民の女性)

地域の人たちがそれぞれが前向いて、そして仕事をされてる。農業などいろんな形で関わっているというのは、やっぱり素晴らしいんじゃないかなと思いますよね(支援者の男性)

後藤:小さなところから始められて、今やそのこのバッジされてる「かぐら南蛮」が本当に大きな特産物になっていって、すごいですよね。

野菜でね、お金が取れるなんて考えたこともなかったんですよ。でもそのお金でね、私たちはグループで貯金をしていったんですよ。そして沖縄まで旅行に行ってきました。そういう楽しみがありますので、ぜひ皆さんも苦しい、どうしよう困ったねと焦る気持ちもあると思いますけれども、自分たちがやればできるんだという気持ちで一歩一歩前に進んでいっていただきたいと思います(星野さん)

<南阿蘇村の農業被害の実態について>
・10月半ば、結城氏は棚田の景観が美しい袴野地区を訪ねた。伺ったのは仮設住宅で暮らす古庄さんの家。先祖代々住んできた築100年の家、天井は抜け柱に亀裂が入っている。「全壊」という判定を受けた。
・この地区は米作りが盛んだった。しかし地震で棚田に地割れが走り一部は崩落。今年は田植えはできなかった。

今年は耕作不能だということで全部諦めて。涙も出らんだったね、どうするかと思って(古庄さん)

・農地も家も大きな被害を受けた古庄さん。しかし唯一、無事に残されているものがあった。

我が家の“しゃえんばたけ”です(同上)

・「しゃえん」とは菜園のこと。古庄さんの家庭菜園だけが残っていたのです。雨水を頼りにおよそ1反の畑で栽培しているのは、小豆などの豆類にネギ、トウモロコシ。ユズやカボスなどの柑橘類も育っている。この日、収穫したのは里芋。

これで芋汁やったら、うまかろうね(同上)

こんなのみんなで収穫やったら、気持ち盛り上がるんじゃないですか(結城氏)

野菜は美味しいですもんね。野菜も米も美味しかですよ(古庄さん)

・古庄さんは正月のおせち料理のために黒豆を育てていた。袴野地区の住民は昔から家族のために、しゃえん場で野菜や果物を作ってきた。

大きいでしょう。一番安心、無農薬で肥料も使うとらんし自然(同上)

・しかし今でも、しゃえん場を耕しているのは古庄さんを含めほんの数人。地域の土に親しむ人がどんどん減っているという。

農地はいっぱい余っとる。何にも植えないで、ただ空いとる。そういう農地いっぱいある。もったいなか(同上)

<結城氏のアドバイスと参加者の声>

後藤:今「しゃえん場」と出てきましたけど、何か生かすことができるんでしょうか。

古庄さんの見たときに、おっ、これが宝物だと。これを一人で耕すの大変ですよね。それをここにやって来る人たちみんなの畑にしていく。共同の畑、そしてレストラン、食堂もやる。それの方法みたいなのについての一つのヒントとして、ちょっとご紹介したいと思うんです。

宮城県の加美町。店もないし何もないよという。ところが村を回ると、しゃえん場があるんですよ。ずいき(いもがら)、つゆなんかに入れるといいだしが出るんですよ。おかずを常に家族のために用意している。持ち寄りなんです。「頼むよ、かあちゃん1品ずつ」と言ったら持って来ました。そこにテーブル並べるからと言ったら「あいよ」って来たわけ。家族みんなで作るギョーザ、いろりのそばで味噌付けた焼きおむすび、こういう素材を持って来てくれる人もいる。それを体育館に800品集まった。人なんか来ないところに1万人見に来た。ふだん会話をしたことない知らない同士が「塩何パーセント?」とか会話が弾むわけですよ。

そうしているうちに古民家を改築してレストラン出来ないかしらなんてなった。じゃあ200食作りましょうって、私は2000円と言ったんです。そしたらお母さんたち「バカ」って言うんですよね、500円だって。もめにもめて1000円で手を打ちました。当日売り出しました。400人並びました。200人分が5分で売り切れ。お母ちゃんたち何て言ったと思います?「あー2000円にすればよかった」。

さて、そういうしゃえん場がもうみんなの食堂にもなってくわけですよ。一つの例、青森(弘前市)です。直売所で余ったらそれでおかずを作って、100gなんぼっていうことで好きな分だけ取って計りで値段が出る。テーブルがあったり、弁当で持っていける対応もしています。

決め手は青森産。ここが南阿蘇産、しゃえん場野菜ね。そういう意味で食を通じて仲間づくりができるんです。それを仕事にもできていく。だから、しゃえん場小さいのじゃなくて、これを大きな可能性とみんなの楽しみの場と、新しいみんなの気持ちに張りを与えていったりできるんじゃないかな(結城氏)


後藤:どのように思われました?

私、漬物好きでいろんな人に配ってしているんです(仮設の住民の女性)

うちの分譲地も結構、家庭菜園やってる人がいるんですよ。実は私の家内がそれにはまっておりまして(分譲地の住民の男性)

今年の地震で畑が駄目なんですよ。来年からの楽しみに修復しています(分譲地の住民の女性)

家内が今、一生懸命菜園やってたんですけどね、古庄さんの所は土地が余ってるということなもんですからね、畑をそういう相互交流みたいな形ができれば(分譲地の住民の男性)

土地はなんぼでもあるけん、いきましょうという話。はい、無料で貸します(古庄さん)

今度、直売所できたら売りませんか?こちらのお母さんたちが積み上げてきた料理なんかでコラボレーションなんかできたら、新しい阿蘇のお料理が生まれて、お弁当が生まれたり、みんなの心、気持ちを寄せ合って一緒にやろうよ、外の人にもつながっていく。これが僕、大事じゃないかと思います(結城氏)

<参加者の感想>

後藤:最後に今日の感想を聞かせていただけますでしょうか?

本当に今日の話は興味津々と聞きました。私たちも前に出れる出れると、しっかり思います。復興とかいろんなことにできるだけ参加していきたいと思います。ありがとうございました(仮設の住民の女性)

この5か月間はうじうじと、もうどうしていいか分からなくて本当ぐずぐず考えてたんですけど、最初の第一歩を踏み出すことがすごく大事だなと。この気持ちを大事に頑張っていきたいと思います(仮設の住民の女性)

僕も強くならないかんなと。絶対強くなるぞと。皆さんに負けないぞという思いでございます。ありがとうございました(分譲地の住民の男性)

やっぱり南阿蘇村の復興・復旧なくして私の復興・復旧はないと。どんどん参加して、村が良くなるようにしていきたいなと思っています(分譲地の住民の男性)

亡くなった方もいらっしゃる。学生さんたちも亡くなったりしました。でも今日のお話を聞いたり、地震がなければ絶対顔を合わせることのなかった分譲地の皆さんとも今日お話ができたりして、言葉が不謹慎かもしれませんけれども地震があってよかったというそっちの部分をどんどん大きくしていってあげて、被害に遭われた方とか亡くなられた方も、そのことで多分あの世で喜んでいただけると思うんですね。だから前よりも、もっと素晴らしい阿蘇、九州一の南阿蘇にしたいと頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました(旅館が全壊、仮設の住民の男性)

私が勉強するときの支えにした先生がいます。柳田國男さんという民俗学者です。日本全国を本当に歩いて柳田さんはこう言っています。

美しい村など 初めからあったわけではない
美しく生きようとする村人がいて 美しくなる


阿蘇は歴史の中の初めから美しかったわけじゃないと思うんです。ここをよい暮らしの場所にしようや、楽しい所にしようやと、先輩たちが積み上げてきたわけです。でもこういう震災にも遭った。でも皆さんが、こうしよう、美しくしよう。人が手をかけて温かいものにしていく。それがこの南阿蘇の皆さんならできるなというふうに私は確信しました。ありがとうございます。頑張ってください(結城氏)

・地震から半年経ったこの日、南阿蘇村で行われた慰霊祭。主催したのは阿蘇の自然に抱かれて学んできた東海大学農学部の学生たち。

今後の元気になったり活力であったり、そういう元になればいいなと(学生)

・灯籠には地元の小学生や学生などがメッセージを書いた。南阿蘇村の未来を照らす明かりだ。

(2016/11/29視聴・2016/11/29記)

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【NNNドキュメント’16】青い目の人形の涙~子どもたちとあの戦争~

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【NNNドキュメント’16】
「青い目の人形の涙~子どもたちとあの戦争~」

(日本テレビ系列・2016/11/28放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 昭和初期に日米親善で来日した「青い目の人形」。太平洋戦争の際に“敵”とされ多くが焼かれたり竹槍などで突かれたという話は、ドラマで観たか本で読んだか判然としませんが、知識としては知っていました。当時の関係者の多くが高齢化が進んでいる中、歴史の事実として取り上げる価値のあるドキュメントだったと思います。

 資源の乏しい日本がアメリカやイギリスなどの連合国を相手に戦争に突き進んだこと自体、当時の為政者の馬鹿さ加減を如実に現していると私は思っていますが、人形を敵に見立てることなど、およそマトモではないことは明らかです。

 戦後、冷静になって考えれば分かるのでしょうけど、当時の人々は分からなかった。それが戦争がもたらす「狂気」というか集団心理というか、人間をそこまで変えてしまう。本当に恐ろしいことだと思います。

 そんな中でも人間の良心を持っていた人たちが残っていたことで、戦禍を免れた人形たちもいました。調べてみると全国的には3桁を超える人形が「生き残って」いたということなので、日本人全てが狂っていたわけではなかったようです。ちなみに一般公開されている人形は「横浜人形の家」で観ることができるようなので、機会があったら是非観てみたいと思います。

 もうこんな愚かなことを繰り返させてはなりませんが、それでも気になるのはヘイトスピーチにみられるような他国への憎悪を駆り立てるような輩が未だにいるということ。そういう動きに対して警戒しなければなりません。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・今年2月、アメリカからある物が届いた。厳重に梱包され一路、静岡へ。89年ぶりの里帰りだ。長旅を終え、姿を現したのは日本人形。名前は富士山三保子。昭和の初めに静岡からアメリカに贈られた人形だ。
・太平洋戦争が始まる10数年前、日本とアメリカは平和の使者として互いに人形を贈り合った。このときアメリカからやって来たのが、青い目の人形。
・しかし、あんなに大切にしていた人形なのに…戦争は子どもたちの無垢な心さえ狂わせてしまったのだろうか。青い目の人形は燃え盛る炎の中で何を見つめていたのだろうか。

<日米の親善大使となった人形たち>
・今年、静岡県内各地で開かれた「富士山三保子里帰り展」。90年も前に作られたとは思えない美しさ。
・会場には同じ頃、アメリカから贈られた青い目の人形も展示された。戦争を知る世代の思いは複雑だ。

青い目の人形というのがグサッと胸に刺さる(見学者の女性)

人形を見ていると戦争中のことを思い出す(別の女性)


・日本に青い目の人形を贈ったのは、アメリカ人宣教師で親日家のギューリック博士。アメリカと戦争を始める10年以上前のことだった。

“日本人は入店するな”

・当時、アメリカでは安い賃金で働く日本からの移民に労働者が仕事を奪われ、日本人を排除する法律が作られた。日本でも対米感情が悪化、これに胸を痛めたギューリック博士は全米から寄付を募って約1万3000もの人形を用意した。
・そして昭和2年のひな祭りに合わせ、親善大使として日本へ贈った。子どもの頃からの交流が将来の日米友好につながると考えたのだ。
・一方、日本側も実業家の渋沢栄一を中心にお礼の人形を贈ろうと、クリスマスに合わせて58体が日本各地からアメリカに旅立った。その一つが静岡県を代表して海を渡った富士山三保子だった。優雅に着飾った日本人形を初めて目にしたアメリカの子どもたちは、胸を躍らせた。
・58体の人形は日本の子どもたちからの募金をもとに人形職人が制作。中でも富士山三保子は、ひときわ優れた作品だった。作者は後に人間国宝となる人形師、若き日の平田郷陽だった。

目力が違いますよ本当に。とにかくこれだけ生き生きとした表情を作り上げているということが見事です。後に人形界最初の人間国宝になる平田郷陽が若く日に作った傑作だと、あらためて思いました(日本人形店 吉徳 林直輝資料室長)

<太平洋戦争によって“敵”とされた人形たち>
・富士山三保子をはじめアメリカへ贈られた人形の多くは、美術館や博物館に収蔵された。そしてその殆どは90年近く経った今も大切に保管されている。
・一方、日本各地に贈られた青い目の人形は、大半が既に失われてしまった。それは一体なぜなのか。青い目の人形がやって来た14年後、平和への願いもむなしく日本とアメリカは戦争に突入した。
・戦況の悪化とともに子どもたちも薙刀や竹槍の訓練を強いられた。敵国となったアメリカへの憎しみが子どもたちにも植えつけられていった。70年前の少女の記憶は鮮明だ。

(敵兵に見立てたわら人形に)竹を突いて遊ぶことはやらされた(小柳津いずみさん)

田んぼの中でわら人形を作ったり農道へ作ったりして、そこに竹槍があってみんなてんでに突いた(山本千鶴子さん)

・そして戦争が始まって1年と2か月が経った頃、新聞に青い目の人形を敵視した文字が躍った。さらに人形の処置について、ある学校が子どもたちに聞いた調査結果も。

「破壊89名、焼いてしまえ133名 送り返せ44名 目のつく所へ置いて毎日いじめる31名 海へ捨てろ33名」

・平和の使者だったはずの青い目の人形を待ち受けていたのは…。

同校では10日の陸軍記念日に全校児童の目の前で憎い親善使節を焼き捨て敵愾心の高揚に努めることとなった。なおその他各国民学校でも叩き壊すか焼き捨てることになった(1943年3月9日 讀賣報知 遠州版)

・別の新聞にも「仮面の使節 皆殺し」の見出し。

静岡の掛川第一国民学校では青い目の人形に厳重なる処断を下すことになった(1943年3月9日 毎日新聞 静岡版)

<目の前で人形が焼かれる姿を見た女性>
・その国民学校に通っていた女性に辿り着くことができた。西東京市に住む坪井照子さん(84)は終戦後に上京、美術大学で油絵を学んだ。

朝から校長の言うこと復唱。校長が壇の上で“米英撃滅!”(坪井さん)

・そんなある日、もともと家にあったキューピー人形なども処分するよう学校から命じられた。

ある日突然ですよ。敵国の人形ということなんでしょうね。“家にある人形を川に捨てなさい”と言われて。橋の上から見ると人形がいっぱい川の中に落ちてる(同上)

・坪井さんに古い写真を見てもらった。アメリカに旅立つ前の富士山三保子。そこには後に坪井さんが目にした青い目の人形も一緒に写っていた。

かわいい顔しているのにね、本当に(同上)

・それは幼い目に焼き付いた校庭での出来事。記憶を頼りに鉛筆を走らせる。

一番大きい校庭に全校生徒、周り集まってその真ん中にわらと竹で小屋を作って中に人形を(入れた)。上級生が火炎瓶を投げて燃やした。私なんかはね、何の憎しみもない人形がどうしてこんなことになるのかなと子ども心に思ったんですけども(同上)

・少女の胸に刻まれた戦争の記憶。70年以上の時を超えて浮かび上がった戦争の爪痕だ。

やっぱり教育でそういうことが行われるのは怖い(同上)

<戦争中、人形を匿った人たちがいた>
・罪のない人形すら葬り去ってしまったあの戦争。そんな中でも必死に人形を守り抜いた人たちがいた。
・静岡県御前崎市の図書館に戦禍をくぐり抜けた青い目の人形が保管されていた。89年前にアメリカから現在の浜岡北小学校に贈られた“マーベル・ワレン”。なぜ無事だったのか。

当時の用務員の山田さんが、とても焼き殺すことはできないと考え、学校にあったヤギ小屋のわらの中にワレンちゃんを隠した。戦争が終わってワレンちゃんを懐かしむ声があがり、山田さんがヤギ小屋の中に隠したことを話し外に出てきた(浜岡北小学校の石谷和親前教頭)

・この小学校では、アメリカから人形が届いた4月16日を「マーベル・ワレンの日」として、子どもたちに平和の尊さを伝えている。
・別の小学校にも青い目の人形が残されている。静岡県小山町の明倫小学校に贈られた“ミルドレッド”。季節ごとに衣装を手作りして世話をしているのは、元教諭で学校ボランティアの冨川雅江さん。
・青い目の人形ミルドレッドは、どうして焼かれたり壊されたりせずに済んだのか。

その当時の校長先生は隠したということを、どこにも知られずにいたようです。ここに勤めていた小林護先生のたぶんお父さん。秘密裏に隠されて昭和27年まで見つからなかった(冨川さん)

・ミルドレッドは終戦から7年後、古い校舎を建て替えるときに校長室の棚から布で包まれた状態で見つかった。戦時中、校長を務めていた小林有悦さんが匿ったのではと言われている。
・息子の護さん(78)によれば、父・有悦さんは筆まめで日誌でも何でも細かく記録を残す人だった。なのに青い目の人形に関してだけ、一切記述がなかった。

命令に反する行為だから人にも話さないし、文章にも載っていない。(父は)剣道や柔道の有段者だった。武士道は情けがある面も含まれている。敵を許すのも武術。厳しい父だったが、人形を通じて優しい気持ちが表れた(護さん)

・戦争中、難を逃れたミルドレッドは今、明倫小学校の入口に飾られている。この日、全校生徒が集まった。みんなで歌ったのは昭和2年、人形を贈るときに作られた歌。あの富士山三保子の里帰り展に参加するため、ミルドレッドがしばらく学校を離れる。

戦争によって友情もなくなってしまうという悲しい歴史もミルドレッドは背負っている。これからも明倫小の誇りとして大切にして、平和のありがたさをかみしめてほしい(明倫小学校の小松孝和前校長)

<戦禍をくぐり抜けた人形たち 再び戦争を繰り返さないために>
・89年ぶりに里帰りした富士山三保子の展示会。会場には、戦禍をくぐり抜けた青い目の人形たちも。静岡県に贈られた青い目の人形は253体。そのうち今も残っているのは僅か6体。展覧会の見学者たちは次々に語る。

よく戦争中もとってあった。もし見つかったらそれこそ大変(男性)

かわいそう。人形には罪はない(女性)

もったいないことをした。人形には心がある(女性)

こういう歴史があったのは知らなかった。戦争はしない方がいい(男性)

戦争は大切なものを破壊して残念(女性)

鬼畜米英の下に叩き壊したとか竹槍で刺したとか非常に無残。昭和史の貴重な実例(男性)

死ぬような苦しみを味わったからこそ、今の平和がすごくありがたい(女性)


・つい昨日まで小さな胸に抱いていた人形を川に捨て、叩き壊し、焼いてしまえとまで言い放った時代の狂気。

せっかく人形が来てくれたのに私たちのせいで壊されてしまったりしたので、すごく人形がかわいそうに思いました(児童)

人形が辿って来た時代の流れがよく分かって、戦争っていけないことだなと…(児童)

けんかをしちゃうと戦争が始まっちゃうので、けんかをしても譲れるようになりたいと思いました(児童)


・あの日、人形の青い瞳に映った過ちを、私たちは二度と繰り返さない。

(2016/11/30視聴・2016/11/30記)

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【映画感想】この世界の片隅に

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【映画感想】
「この世界の片隅に」

(2016年公開・「この世界の片隅に」製作委員会)

<感想・あらすじ(ネタバレ)が含まれています>

 今日は久しぶりに劇場に映画を観に行ってきました。前回はスター・ウォーズの新作でしたから1年ぶりぐらいになりますね。今年は「シン・なんとか」とか「君のなんとか。」とか色々「流行」した作品がありましたね。作品の出来はいいのかもしれませんが…どうも大手広告代理店が煽っているフシがありありと感じられたので、劇場での鑑賞はスルーさせていただいております。天の邪鬼な性格なもので(笑)

この世界の片隅に

 それはさておき、今回観た作品は「この世界の片隅に」。公開前からちょっとした話題になっていました。というのも、この作品自体がクラウドファンディング(一般からの投資)を募って制作されたことと、アニメーション作品なのですが、主人公すずの声を「のん」さん(本名・能年玲奈さん)が演じているということ。原作は未読ですが、もちろん描かれている場所・年代ともに知ってのうえでの鑑賞でした。

 まだ公開中の作品なので完全にネタばらしはしないでおきますが、舞台は昭和初期から太平洋戦争の終結するまでの時期で、舞台は広島市と呉市。主人公のすずは広島市で育ち、呉にいる男性の家に嫁ぎそこで終戦を迎えるというストーリーです。

 映画全般を通して「日常」を切り取ったようなシーンが続き、その中に戦争という「非日常」が段々色濃く重なっていきます。

 ストーリーの中で派手なシーンもありませんし、何か突出するようなシーンというのはありません。すべてを通して観ていく中で、自然と胸が熱くなり、そして涙が止まらなくなる。そんな不思議な作品です。

 唯一ネタばらしになってしまうかもしれませんが、主人公のすずはある「大切なもの」を戦争によって失います。それは彼女にとって本当にかけがえのないものだったに違いありません。そして終戦を迎えたときの喪失感、そして復興に向けて再生していく姿で一筋の光のようなものがみえていく。そこに観る人を追体験させる力を感じました。エンドロールが終わっても涙が止まりませんでした。

 この映画の素晴らしいところは、こうした戦争の愚かしさ、戦争なんて絶対にダメだよねというメッセージを、ある意味で特定のイデオロギーでプロパガンダしていくような左翼的な「臭さ」が全くないところです。だからこそ押し付けられた感がなく自然に沸き起こる気持ちになれる。それは作り手の力というほかないと思います。

 ちなみに舞台は呉なので戦艦などの描写が多数ありますが、あれが違うこれが違うというような無粋な突っ込みは右翼たちの仲間内で勝手にやっていてください。物語の素晴らしさに何ら関係ない話ですから。

 いずれにしても、これほどの映画が広告代理店の肝いりではなく一人ひとりの力で出来たというのは、日本もまだまだ捨てたものではないなと感じました。おそらく大手広告代理店が関与するような作品だったら、声優も話題性の高い人たちが充てられて、ストーリーも改変されてしまっていたことでしょう。それが無くて、すず役をのんさんが演じたことがこの作品の完成度を相当高めたと言っても過言ではないでしょう。彼女の演じる作品を観るのは「あまちゃん」以来ですが、また新たな境地を開いたと私は思います。

 本当に素晴らしい作品に出会えたことに感謝したいと思います。制作者をはじめ、この作品に携わった全ての人たちに心から拍手を送りたいと思います。もちろん、ブログ主として自信を持って鑑賞をお薦めする作品です。

(2016/12/1視聴・2016/12/1記)

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【にっぽん!歴史鑑定】流転の王妃・愛新覚羅浩

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【にっぽん!歴史鑑定】
「流転の王妃・愛新覚羅浩」

(BS-TBS・2016/11/28放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と妻・浩の波瀾万丈の人生と、二人の夫婦愛を描いたストーリーは以前ドラマにもなりましたし、NHKでも昨年取り上げられました(→【歴史秘話ヒストリア】満州のプリンセス愛の往復書簡~夫婦の心をつないだ55通~)。なので、私にとっては今回は残念ながら新しく知った話はありませんでしたが、それでもご存命の嫮生さんのインタビューもあり、再現ドラマもきちんと作ってあって見所のある内容だったと思います。

 本当に歴史に、時代に翻弄された二人。晩年のお二人の穏やかな表情の写真を見ると、本当に仲の良いご夫婦だったのだなと感じることができます。羨ましい限りです。もちろん愛情というのは誰かに貰うものではなく、努力によって積み重ねていくものでしょう。私も溥傑を見習わなければと思いました。

 ちなみにそんな二人の新婚生活を送った家が千葉県稲毛に残されているということですので、ぜひ伺いたいと思います。そのときはこの記事に写真を追記したいと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今から約70年前の太平洋戦争直後。混乱を極める中国に幼い娘を連れ彷徨う日本人女性がいた。(旧姓)嵯峨浩、夫は満州国皇帝・溥儀の弟、愛新覚羅溥傑。この結婚と戦争こそが華族の令嬢であった浩の人生を大きく変えた。
・なぜ浩は政略結婚させられたのか、そこに隠された巨大な陰謀とは。
・夫・溥傑が囚われの身に、再び人生が一変。いわれなき罪に問われ、死と隣り合わせの壮絶な日々を送ることになった浩。1年5か月、余りにも過酷な試練を耐え抜くことができた理由とは。
・広大な中国大陸を実に6000km。長い流転の日々を浩はどのようにして逃げ延びたのか。奇跡の脱出劇の真相にも迫る。

<浩の生い立ちと溥との結婚>
・大正3年3月16日、浩は嵯峨侯爵家の長女として誕生。嵯峨家は皇室に極めて近い公家華族だった。妹たちがすぐに生まれたこともあり、浩は結婚するまでの殆どを祖母の濱口家で暮らした。
・その家は現在、タイ王国大使公邸となって残っている。イギリス風3階建の立派な洋館は、浩の運命を大きく変えた見合いの場でもあった。その相手が愛新覚羅溥傑。浩より7つ年上の溥傑は、清朝の皇族である醇親王載灃の次男として北京で生まれた。兄はラストエンペラーとして知られる、清朝最後の皇帝・溥儀。
・なぜ日本人の浩が溥傑と見合いすることになったのか。昭和3年、溥傑は21歳のときに日本に留学。それから約8年の間、日本語を習いながら陸軍士官学校などで勉学に励んでいた。
・そんな中、日本と中国との関係は悪化の一途を辿った。昭和6年(1931年)満州事変が勃発。翌年には中華民国から満州国が独立。その皇帝に担がれたのは、既に滅亡していた清朝最後の皇帝、兄である溥儀だった。当時の満州国について近現代史に詳しい関西学院大学文学部教授の高岡裕之氏に伺った。

満州国は中国東北部に展開していた関東軍という日本軍の傀儡政権。溥儀には何の権限もなかった(高岡氏)

・当時、溥儀には子がいなかった。妻である婉容皇后は阿片中毒。さらに溥儀は男色だったとも言われ、側室との間にも子ができなかった。そこで関東軍は次期皇帝を溥傑だと見定めた。日本人を妃にすることで、満州国の傀儡化をより強固にしようと目論んだ。
・昭和12年(1937年)1月18日、見合いは軍の主導により浩が暮らしていた濱口家の一室で行われた。現在のタイ王国大使公邸「ルイの間」。出席者は関東軍司令官や浩の両親、祖母など11人。浩は桃色の着物、溥傑は軍服姿で臨んだ。互いにゆっくり話す時間もないまま、縁談はその場で決められてしまった。
・そして4月3日、現在の九段会館(旧軍人会館)で結婚式が執り行われた。溥傑29歳、浩23歳、見合いから僅か3か月足らずというスピード結婚だった。

<日本の敗戦、満州国解体 終戦流転の日々の始まり>
・日本と中国を行き来する生活を送っていた浩と溥傑の間に2人の女の子が生まれた(長女・慧生、次女・嫮生)。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)、学校に通うようになっていた慧生を日本の実家に預け、浩は夫・溥傑と次女・嫮生とともに東京からまだ戦禍の及んでいなかった満州国首都・新京に戻ることに。
・しかし戦争の終結が近づいていた。日本の敗戦が確実なものとなっていたのだ。8月8日には不可侵条約を結んでいたソ連が突如として日本に宣戦布告。事実上、日本が支配していた満州国にも攻め込んできた。
・すると満州国に駐留していた関東軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。浩と溥傑を守っていた日本兵はもう居なかった。
・身の危険を感じた浩たちは急いで住み慣れた家を離れることにした。しかし荷造りをする浩に対して溥傑は死ぬかも知れないと告げ、彼女も死を覚悟した。由緒ある短刀を忍ばせると、5歳になった次女・〓生を連れて家を後にした。
・8月14日、朝鮮との国境に近い大栗子に到着。そこでさらなる厳しい現実を突きつけられた。8月15日、日本敗戦。その3日後に満州国が解体され、皇帝・溥儀の退位が決定した。
・しかも浩たちのいる中国東北部は、続く内戦により共産党軍と国民党軍に分裂。逃げ遅れた関東軍の残党や暴徒と化した民衆が乱暴を働くなど混沌とした状況にあった。拠り所のなくなった愛新覚羅一族は途方に暮れた。

中国の人々にとって満州国とは日本の中国支配の道具。その存在自体が許されないものだった。浩たちは満州国の支配者の一族なので、捕まれられて裁判にかけられる可能性があった(高岡氏)

・もはやここには敵しかいない。浩たちが生き残る道は日本への亡命だけだった。日本政府から何とか亡命許可が下り8月22日、溥傑や兄の溥儀ら男性陣が通化という町から飛行機で日本へ向かうことに。浩たち女性陣は列車と船を乗り継いでその後を追うことになった。浩は溥傑に洗面道具や下着類を用意し、旅の無事を祈った。これからは日本で待っている慧生を含め家族4人穏やかに暮らせると信じていた。
・しかし驚くべき知らせが届いた。溥傑たちが途中で立ち寄った飛行場で、待ち構えていたソ連軍に捕らえられたと。それ以後、夫の消息を知ることはできなかった。日本からの指示もなく、浩と溥儀の皇后・婉容など愛新覚羅一族200人を超える一行は大栗子に置き去りにされてしまった。1年5か月、6000kmにも及ぶ流転の日々の始まりだった。
・昭和20年(1945年)11月、浩たちは大栗子から臨江に移動した。

臨江に移動した人たちは朝鮮人宿舎で集団生活を始めたが、すぐに共産党軍が進駐してきてきて監視下に置かれた。浩たちはこのとき隠しておいた溥儀の私有財産などの全てを没収されてしまった(高岡氏)

・居場所も財産も失った浩たち。より安全な場所を求めて極寒の中、通化に移動することに。幸運にも共産党軍のトラックに乗せてもらうことができたが、崖伝いに細い道が続く道中。谷底には転落した車と凍った死体が転がっていた。浩は嫮生をきつく抱きしめ、寒さと恐怖に震えながら3日間トラックに揺られた。

<銃撃戦の危機 浩たちを救った人物とは>
・しかし通化で共産党軍公安局の一室に軟禁されてしまった。それでも待遇は良い方だった。食事は白米と2~3品のおかずにスープ。屈託の無い次女・嫮生はすぐに職員たちと仲良くなり、お菓子まで貰えた。当時5歳だった嫮生さんは現在76歳、通化でのことを今も鮮明に覚えているという。

わりと自由にさせてもらえて兵隊さんと散歩をさせてもらっていた。母たちは鍵にかかったところに入っていた。町でりんご飴やもんじゃ焼きのようなものを食べ、半分ほど母に持って帰った(福永嫮生さん)

・しかし穏やかな日々も束の間。浩たちはここで悪夢のような夜を迎えた。昭和21年(1946年)2月3日深夜に発生した通化事件。闇を切り裂くような銃声で浩は飛び起きた。すると男たちが浩のいる部屋に乱入。関東軍の残党だった。通化を奪回するために武装蜂起したのだ。
・すぐに共産党軍が反撃し、関東軍と激しい撃ち合いが始まった。布団を被り息を殺す浩たち、助けてくれたのは意外にも2人を監禁していた共産党軍だった。

一緒にいた共産党軍の方たちが、布団の上から身を挺してくださったおかげで弾に当たらずに済んだが、その方たちは弾に当たって亡くなってしまった(同上)

・地獄絵図はさらに続いた。

乳母は右腕に砲弾が当たって手首が飛んでしまい出血多量で亡くなった(同上)

・浩たちは奇跡的に助かった。しかしその後マイナス30度にもなる極寒の中、廃墟となった建物の中で飲まず食わずのまま1週間も監禁された。
・そんな過酷な環境から解放されると、浩たちは長春に移動させられた。しかしそこで待っていた共産党軍の対応は今までとは違った。

当時の中国は国民党と共産党が内戦を始めていた。そのどちらの側も浩たちを捕まえる可能性があった。しかし浩たちに対する統一した方針はなく、同じ共産党の幹部でも対応はバラバラだった(高岡氏)

・生かすも殺すも担当者の気まぐれ次第。浩たちは危険な状況にあった。

<なぜ浩は過酷な流転の日々を耐え抜いたのか>
・愛新覚羅家とその従者たち200人は、長春に連れてこられた時点でほぼ解放され、このとき囚われの身となっていたのは婉容皇后だけだった。
・浩は義理の姉にあたる皇后を見捨てることはできなかった。そのため一旦釈放された身でありながら皇后とともに吉林に連行され、そこで再び共産党軍に捕らえられると刑務所での暮らしを余儀無くされた。ここで浩は嫌な顔一つせず、自分で用も足せなくなっていた皇后の世話をし続けた。
・やがて浩たちは延吉へと移動させられた。そこではろくに食事も与えてもらえず、浩は栄養失調になり歩くこともままならないほど衰弱していった。
・そんな状況で浩は嫮生と婉容皇后とともに荷馬車に乗せられ市中を引き回された。「中国の裏切者、ニセ満州国の皇族」という旗をつけられ晒し者にされた。民衆たちから浴びせられる罵声に怒号。浩は下を向かず唇を噛み締めて耐え続けた。

そのとき溥傑がソ連にチタにいることが判明した。苦難を乗り越えてきたのは夫に会うためだった。溥傑が生きていることを知って力が湧いたのではないか(高岡氏)

・浩と溥傑が結婚した直後に暮らした家が千葉の稲毛に残されている。僅か半年足らずであったが、浩は陸軍歩兵学校に通う溥傑を毎日送り出し、つつましくも幸せな新婚生活を送っていた家だ。
・深まる夫婦の絆、満たされた日々。娘たちへの愛情も格別だった。結婚の翌年に生まれた長女・慧生の成長を記した育児日記が残されている。これによると乳母がいたにも関わらず、浩が自らの母乳で慧生を育てたことが判る。百日目の御食初には赤飯や鯛の塩焼などご馳走を用意。慈しみ大切に育てた。
・溥傑は愛用のカメラで事あるごとに慧生の成長を記録、溺愛した。そしてもう一人、慧生をとても可愛がったのが満州国皇帝にして溥傑の兄・溥儀。最初、溥儀は浩を日本軍のスパイだと恐れ、遠ざけていた。

それまで溥儀は男の子が生まれれば自分と弟は関東軍にとって不必要な存在になり殺されるかもしれないと恐れていた。しかし生まれてきたのが女の子で安堵した(高岡氏)

・溥儀は慧生と一緒に楽器を演奏するなど、とても可愛がるようになり、浩との距離も一気に縮まっていった。自分は愛新覚羅家の嫁である、その浩のプライドが過酷な流転の日々に屈することを許さなかった。身を呈して皇后に付き添ったのも、自分が一族を守るという強い思いがあったからだった。

<浩たちの脱出行 ついに日本へ>
・浩は昭和21年(1946年)6月中旬、延吉から満州北部の佳木斯に移動させられる際、皇后と離れ離れになってしまった。その2か月後、皇后は誰にも看取られることなく朝鮮国境の町・図們で亡くなった。
・浩と嫮生は佳木斯でも監獄に収容されたが、そこで所長から疑いが晴れたと釈放された。二人は共産党軍に送られハルビンへ。浩はここで「濱口幹子」という偽名を使った。再び捕まらないよう慎重を期してのことだった。
・2か月後、日本への引揚港でもある葫蘆島に到着。このとき撮影された貴重な写真が残されている。髪を短く切り、男の子に扮した嫮生。これもまた身を守るためだった。
・しかし運命とは皮肉なもの。金に目が眩んだある日本人によって浩たちの居場所が密告された。引揚船を待っていた浩たちは国民党軍に捕らえられてしまった。監禁先は国民党軍の支配下にあった北京。
・理由がないまま自由を奪われた浩と嫮生。二人は今度は上海に送られ、旧松井公館という建物の2階の一室に監禁された。門には銃剣を持った衛兵が立っていて、広い庭を取り囲むように鉄条網が張り巡らされていた。
・奇跡の始まりは、旧松井公館に一人の医師がやって来たことだった。その医師は濱口と偽名を使っていた浩に何やらただならぬ気配を感じ取った。そしてすぐに日本人の引揚業務の窓口機関に報告。そのとき担当した職員が田中徹雄だった。彼は独自に調査を開始、濱口と名乗るこの女性が愛新覚羅浩であることを突き止めた。
・しかし監禁理由に根拠がないことを知ると、まともな解放交渉は無駄であると判断。奪還作戦を練った。密かに旧松井公館を探り、警備の緩い場所が建物の裏手であること。さらに手薄になるのが夕方であるとの情報を得た。
・そして昭和21年(1946年)12月27日、田中は一人で浩たちの奪還作戦を実行した。日が傾いたのを見計らい、高さ2mほどのススキが生い茂る裏口から潜入。監禁されている浩たちを見つけ、一緒に逃げるよう告げた。浩は冷静沈着にみえた田中を信頼し付いていった。彼らを乗せた車は猛スピードで走り、監禁された建物から脱出することができた。
・翌日、浩たちは上海から出た最後の引揚船に乗った。昭和22年(1947年)1月4日、遂に日本へ帰国。こうして1年5か月、6000kmに及んだ流転の日々は終わりを告げた。

<日本へ帰国した浩たち 溥傑の消息が分かったが、その後に訪れた悲劇とは>
・壮絶な流転の日々を経て、ようやく日本へ帰ってきた浩と嫮生は長女・慧生と再会。一緒に暮らすことに。しかし浩の心が完全に晴れたわけではなかった。溥傑は昭和25年(1950年)にソ連のチタから中国・撫順に移され抑留されていた。そのことを浩が知ったのは4年後のこと。溥傑から1通の手紙が届いた。
・全ては長女・慧生のおかげだった。彼女は母に内緒で当時の中国の首相である周恩来に父との再会を熱望する手紙を出していた。これに心を動かされた周恩来は溥傑に手紙を送ることを許可した。
・かすかな光明を見い出し喜ぶ浩だったが、まもなく思いもかけない不幸に見舞われた。夫の消息を知るきっかけをつくってくれた慧生が天城山中で亡くなった。付き合っていた男性と添い遂げるためだったとも、無理やり心中させられたとも言われている。

<夫・溥傑との16年ぶりの再会>
・建国10周年記念特赦の一環として溥傑が釈放されたのは、その3年後の昭和35年(1960年)。溥傑は北京で浩と一緒に暮らしたいと望んだ。
・翌年、浩は嫮生とともに愛する夫のもとへと行った。中国・広州の駅で実に16年ぶりに夫・溥傑と再会した浩。その腕の中には慧生の遺骨があった。謝る浩に溥傑は何度も頷いた。そして遺骨をそっと受け取り、しっかりと抱きかかえると片肘を浩に差し出した。そこには新婚当時と何も変わらない優しい夫がいた。

16年ぶりに会ったことで、また新婚生活のような温かいものを傍で見ていても感じた。日本にいたとき姉が亡くなり母を独り占めしていたこともあったので、ちょっとジェラシーも感じるほどだった(嫮生さん)

・愛する夫・溥傑との16年ぶりの再会。ようやく一つ屋根の下で穏やかに暮らせるようになった。戦争に、時代に翻弄されながらも強く生きた愛新覚羅浩。その流転の人生はようやく夫との再会によって本当の終わりを告げた。このとき浩47歳、溥傑54歳になっていた。
・離れていても繋がっていた心と心。激動の歴史が二人の間に誰にも負けない深い愛情を育んでいった。
・浩は昭和62年(1987年)死去(享年73)、溥傑は平成6年(1994年)死去した(享年86)。

(2016/12/2視聴・2016/12/2記)

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【空から日本を見てみよう+】埼玉県秩父

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【空から日本を見てみよう+】
「埼玉県秩父」

(BSジャパン・2016/11/29放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

 秩父方面は2013年の夏に訪れたことがあるので、ちょっと懐かしい映像もありました。

三峰口駅

 秩父鉄道の三峰口駅。

三峰口駅

 SLは運行していない日でしたが、転車台はバッチリ撮影しました。

三峯神社

 そして三峯神社の特徴のある鳥居。

三峯神社

 拝殿も塗り替えられて鮮やかでした。

三峯神社

 そして御神木。私も触りましたが、みんなが触った跡でツルツルしているのが特徴でした。

 秩父三十四ヶ所観音霊場巡りも、ちょっと興味が湧きましたね。四国の八十八ヶ所よりはライトに出来るということなので、まとまった休みが取れたら行ってみたい気がしました。法性寺のお船観音は凄い所にあるようですが(高所苦手なので間近で拝むのは厳しいかも)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※写真は全て番組のものではなく、私が個人的に撮影したものです。

<埼玉県皆野町周辺>
・人口:9,959人(県60位)面積:63.74平方キロメートル(県17位)(2016年8月1日現在)
・バナナマン設楽統の出身地。

<埼玉県小鹿野町周辺>
・人口:11,874人(県56位)面積:171.26平方キロメートル(県4位)(2016年8月1日現在)
・歌舞伎の舞台が6か所もある。
・1700万~1500万年前、この辺りは海の中にあった。砂岩と泥岩が交互に堆積した地層は海の中に砂と泥が混じって流れ込んで堆積した証拠。かつて秩父に生息していたパレオパラドキシアの姿を再現したプロジェクションマッピングをしている。

<埼玉県秩父市周辺>
・人口:62,885人(県35位)面積:577.83平方キロメートル(県1位)(2016年8月1日現在)
・祭りが年間400程開催される祭り好きな市。
・フネンアクロス秩父工場。排水実験用の便器がある。
・札所第一番 四萬部寺。基本的な巡礼用品は約1万円で揃う。納経帳に御朱印をもらう。秩父三十四ヶ所観音霊場は多くが街中にある。
・札所第十六番 西光寺。回廊堂には1~88番まで四国霊場の模刻本尊が並び八十八ヶ所巡礼と同じ功徳を得られるという。
・札所第二十八番 橋立堂。橋立鍾乳洞がある。洞内の3分の2が縦方向に延びた竪穴式の鍾乳洞で入口と出口の高低差は33m。
・札所第三十二番 法性寺。お船観音。聖観音が船に乗って到来したことが起源で奥の院の大岩を船に見立てている。
・札所第三十四番 水潜寺。近くに満願の湯がある。
・旧秩父国際劇場。現在はイタリアンレストラン。
・秩父神社。「子宝・子育ての虎」「つなぎの龍」など様々な彫刻がある。秩父神社の御神体山である武甲山の伏流水におみくじを浸すと良運が授かるという。
・秩父夜祭。毎年12月2~3日開催。笠鉾2基と屋台4基が曳き回される。
・景観に配慮した街づくりをしようと10年程前から建物の表面を和風に造り変える取り組みが行われている。
・秩父豚肉味噌漬本舗せかい。かつて秩父ではイノシシの肉を保存するために味噌に漬けていたが、それを豚肉に応用し商品化。
・田中捺染加工場。養蚕業が盛んだった秩父では普段着の織物が盛んに作られていた。手軽なおしゃれ着「秩父銘仙」として大正から昭和初期にかけて全国的な人気を誇った。秩父銘仙の特徴は経糸だけを先に染めること。表裏が同じように染色されるため裏返しても同じように着られる。染色した経糸を一度蒸し色を馴染ませ乾燥する。
・羊山公園。毎年春になると芝桜が鮮やかに。
・武甲山。推定可採鉱量約4億トン(現在のペースで約57年分)
・秩父珍石館。前館長が顔のような石に魅了され荒川の河川敷を中心に50年程で1000個以上の人面石を集めた。
・秩父ミューズパーク。メープルシロップの原料カエデの樹液は冬の寒い時期に採取。木に穴を開けパイプを刺し樹液を採取する。カエデの樹液を40倍の濃度になるまで煮詰めてメープルシロップにする。
・三峰口駅。SLの転車台がある。
・大陽寺。2011年に日経新聞で「初心者におすすめの宿坊ランキング」1位に選ばれた。月に数回ヨガの講師を招き、宿坊と合わせて体験ができる。
・三峯神社。拝殿は創建1900年を記念して塗り替えられた。拝殿参拝後に深呼吸をして御神木に手をつけてお祈りすると御神木の気をいただけるという。
・栃本集落。耕作放棄地を利用して今年からワイン用のブドウの栽培を開始している。約20年ぶりに20代の若者が移住してきた。普段は秩父市内でキハダの樹皮を使ったサイダーを作る工場で働いている。

(2016/12/3視聴・2016/12/3記)

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【BS時代劇】子連れ信兵衛2・第4話「十手の誇り」

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【BS時代劇】子連れ信兵衛2・第4話
「十手の誇り」

(NHK・BSプレミアム・2016/12/2放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kozure2/

<感想>

 与力役でご出演の伊吹吾郎さん。彼のイメージはどうしても「水戸黄門」での格さん(渥美格之進)というイメージが私には強いので「悪役」というのは違和感ありまくりでした(苦笑)

 ちなみに伊吹「格」さんは第14部~第28部まで演じられました。。奇しくも2代目・黄門様の西村晃さんの初回から3代目・黄門様の佐野浅夫さんの最終回までとのことです。

 ということで、今回の信兵衛は何だか伊吹さんの存在感が目立ちすぎて…。別に誰か小悪党の役を演じさせて、榎戸の亡き父と盟友という設定で伊吹さんを特別出演させればよかったのになあと思えてしましました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・ある夜、折笠五郎左衛門(笹野高史)は殺しの現場を目撃する。殺されたのは岡っ引きの伝兵衛だった。
・さらに常磐津の師匠おとよが殺される。以前おとよの夫を殺した下手人の又八(武田航平)を捕らえたのが伝兵衛で、島流しになったが赦免で江戸に戻ってきたという。
・又八は逆恨みで殺しをしているのではないかと噂となり、怖がる折笠は松村信兵衛(高橋克典)に用心棒を頼むが結局、本郷美玖(黒谷友香)がすることに。
・一方、与力の園部(伊吹吾郎)は、榎戸誠三郎(宮田俊哉)を呼び出し、又八が次に狙う可能性がある人物がいると告げ捜査に力を尽くせという。
・その夜、信兵衛は呉服問屋の田島屋の前で屋敷に入ろうとしていた又八を見つける。声をかけると又八は逃亡。榎戸が警戒して張り込んでいたのは、昔の事件の目撃者だった田島屋の与左衛門(東根作寿英)だった。
・信兵衛は昔の事件について不審に思うが、当時の記録がなぜか残っていないことを知る。
・ところが榎戸が目を離した隙に与左衛門が何者かに殺されてしまう。
・園部と榎戸の前に又八が現れる。5年前の事件は濡れ衣だと又八は言うが、園部は又八を斬ろうとする。そこに信兵衛と源吉(新井康弘)が現れ又八は捕らえられる。
・昔の事件の真犯人は田島屋与左衛門で、奉行所ぐるみで又八を犯人に仕立てていた。園部も冤罪に加担し、田島屋から金をせびっていた。そして邪魔になった田島屋を殺し、又八のせいにしていた。
・信兵衛は園部に榎戸の父・誠右衛門が残していた書き付けを突きつける。そこには動かぬ証拠が記されていた。園部は逆上するが、周囲は誰も味方せず観念する。

(2016/12/4視聴・2016/12/4記)

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【ドキュメント72時間】六本木ハロウィーン 仮面の告白

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【ドキュメント72時間】
「六本木ハロウィーン 仮面の告白」

(NHK総合・2016/12/2放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 ハロウィーンの起源は番組でも紹介されていましたが古代ケルト人の収穫祭というのが定説であり、世界各国でいろいろな形に派生しているようです。

 私が印象に残っているのは、1992年にアメリカで起きたある事件のことです。ハロウィーンの衣装を着た日本人の留学生(高校生)が訪れる家を間違えて、そこの家人に銃で撃たれて亡くなりました。その子がちょうど私と同年代だったのと、その当時は日本でハロウィーンの習慣が殆ど無かったため大変ショッキングな事件として覚えています。アメリカの銃社会の問題とも関わり、日米両国で大きな議論にもなった話です。

 それから24年、日本のハロウィーンは「大人たちの仮装パーティ」となっているようです。もはやルーツとも違うし、子どもにお菓子をあげる習慣も殆どみられない、文字通り「和製ハロウィーン」でしょう。

 そんな光景が繰り広げられた六本木交差点を定点観測した72時間。番組を通しての感想ですが、1年に1度ぐらいは仮装して子どものようにはしゃいでみたいという『大人たちのお祭り』として、それはそれであってもいいのかなと思いましたね。

 「仮装」という習慣は日本古来から民俗芸能としてあったわけですから、決して目新しいものではありません。まあ、ゴミを散らかしたり騒音などが一部では問題になっているようですが、祭りの一つとみて、仮装でデモンストレーションする場所などを決めたりして一定のルールを定めれば、ことさら禁止するようなものでもないと、私は寛容的な立場です。

 しかし…10代から20代の頃にこんなイベントがあってほしかったな。もうその頃に2倍近い年齢になってしまったので、今から仮装に参加するには相当自らのハードルが高いですね。やれなくはないと思いますが…来年どうするかは、今のところ内緒にしておきます(苦笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・東京・六本木。年に一度のカオスな週末が始まっていた。過激さを増すハロウィーン、カボチャの面影はどこへやら。今や何でもあり。
・カメラを据えるのは、街の中心にある六本木交差点。ハロウィーンの期間、2万人の人出で賑わうという。素顔を隠し彷徨う人々。仮面の下の彼らの言葉を聞いてみよう。

・10月28日(金)20時。10月最後の週末に撮影開始。雨のせいか人は少なめだけど…。
・世界有数のIT企業にお勤めの人たちは「サザエさん」の衣装で統一。晴れの舞台はやっぱりクールジャパンで勝負らしい。
・ビルの前でキョロキョロしている2人組。広島から来た会社の経営者らしい。取材中にナンパが始まっちゃった。ナンパが成功、ハロウィーンは出会いの場にもなっているみたい。
・1時5分。ビルの前に人だかり。どうやらクラブの入場を待っているらしい。六本木のハロウィーンはオールナイトが定番。女の子が無料で入れる店も多いそう。
・ビルの最上階には1時間12万円のVIPルームも。アメリカから帰国し、静岡でハンバーグ屋さんを経営しているという男性。毎週のようにVIPルームで過ごしているという2人。ハロウィーンの喧騒とはまるで別世界。
・午後2時、雨が上がるとたくさんの人が路上に。記念撮影で盛り上がるイギリスからの旅行客。ロンドンのハロウィーンはあまり面白くなく、東京のほうが何倍も楽しいという。
・本来ハロウィーンは古代ケルト人の収穫祭。
・夜の街・六本木では十数年前から大人が熱狂するお祭りに。
・2時3分。段ボールを被っている2人組。箱を被った男が都会を彷徨う小説をモチーフにしているらしい(安部公房の「箱男」)。穴から世界を覗いてみると新しい発見があったという。素顔を隠した彼女たちに交差点を行く人はどう見えているんだろう。
・今度は随分大掛かりな仮装。入れ歯をモチーフにしているという女性、体に電飾を巻いた男性。毎年ここで再会するハロウィーンだけの友達らしい。男性はショーパブを経営していたけど、お客さんが減り閉店。今はハローワークに通う日々だという。この日は元従業員と一緒に仮装コンテストに出場したらしい。真夜中の街で彼らは輝き続けていた。

・10月29日(土)7時30分。早朝の交差点、仮面を脱いだ人々がゴミ拾い。
・家族連れが集う土曜日は毎年恒例のパレードも。
・16時33分。辺りが暗くなると仮面を被った人々が再び街に繰り出してきた。みんな気合いが入っている。
・黄色い体に赤い服。あのキャラクターかな?「くまのプーさん」に扮したお手製の衣装に身を包み、静岡からやって来たという39歳男性。普段は沼津の駅前で母親と一緒に床屋さんを経営しているという。もともと一人が好きで内気な性格。でも店のお客さんにハロウィーンに誘われて以来、なぜかはまってしまったそう。いつもは誰かを引き立てる黒子だけど、今夜だけは自分が主役。
・21時9分。人混みをかき分けて歩く76歳の女性。六本木のマンションに住んで半世紀。街の変化をずっと見てきたそう。
・10時過ぎ、交差点の人出はピークに。
・仮装姿にも世相が現れる。ゴジラにポケモン。今年最も世界を沸かせた二人(トランプとクリントン)に扮する人も。
・仮面をつけたまま女性をナンパする集団がいた。どうやら断られたみたい。物騒な世界の安全を守っているというけど…。素顔も本音も見せない仮面の男たち。本当に探しているのは何だろう。
・3時55分。シャッターの下りた駅で始発を待つ3人組の男性。幼馴染みで、社会人になって会える機会は減ったけどハロウィーンだけは必ず一緒に来るという。
・始発の時間になると、遊び疲れた人で行列が…。仮面の余韻をまとったまま日常へと戻っていく。

・10月30日(日)6時2分。派手な特攻服を着た女性がやって来た。埼玉から来た歯医者さん、昔作った服に10年ぶりに袖を通したという。仲間6人でいつも集まり、ハメを外していた中学時代。最近ふとそのときの情熱を取り戻したくなって出かけてきたそう。あの日の仮面を借りて、今日は思いっきり羽を伸ばす。

・10月31日(月)16時26分。最後に出会ったのは70代の夫婦。手を繋いで仲良くしている。結婚50年だという。お店で仮面を買って被っている。
・1年に1度だけハロウィーンの魔法にかかった交差点。

(2016/12/4視聴・2016/12/4記)

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【大河ドラマ】真田丸・第48話「引鉄」

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【大河ドラマ】真田丸・第48話
「引鉄」

(NHK総合・2016/12/4放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 今回最大のハイライトは、真田信繁(幸村)に仕える忠実な忍びの佐助(藤井隆)。幸村に命じられて大御所(家康)暗殺に向かう前に勇気を振り絞って、きり(長澤まさみ)にプロポーズしますが即答で拒否されます(大苦笑)

 そして暗殺したはずの家康は影武者だったというオチ。もしも、きりがプロポーズOKしていたら大御所本人を見破って成功していたかも!?本当に歴史を変え損ねてしまいました、惜しいっ!

 いよいよ「真田丸」もあと2回。幸村は決死の覚悟で千利休が隠しておいたピストル(馬上筒)を使って最後の勝負に出ようとします。ああ…歴史と違ってもいいから幸村の勝どきが見たいです(涙)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・豊臣と徳川が和睦。しかし、真田丸は取り壊され、城は堀も埋め立てられた。裸同然となった大坂城。真田信繁の本当の戦いが、ここから始まる。

・真田幸村(堺雅人)の策で、後藤又兵衛(哀川翔)や毛利勝永(岡本健一)たちが家康本陣に夜討ちをかける。
・徳川家康(内野聖陽)は早々に京に引き上げることになり、幸村はその道中を狙うよう佐助(藤井隆)に命じる。
・大蔵卿局(峯村リエ)や織田有楽斎(井上順)は牢人たちの存在を疎ましく思っていたが、豊臣秀頼(中川大志)は彼らを厚く遇すると考えている。
・幸村は織田有楽斎が徳川と内通していることを突き止め、大坂城から追放する。千利休の弟子でもあった有楽斎はその後、茶道に専念し穏やかな余生を過ごした。
・佐助は家康のもとに潜入し暗殺は成功したかにみえたが、殺した相手は影武者だった。
・年が変わり慶長20年、家康は駿府に戻り、秀忠(星野源)も江戸に帰った。集められた大名たちも陣を払い始めたが、大坂城には牢人たちが未だ溢れていた。
・幸村は大野治長(今井朋彦)らと再び徳川が攻めてくるときの対応策を練っていた。家康や秀忠が陣を置いた茶臼山と岡山の間に空堀をつくり要害をつくると言う。
・秀頼は幸村の助言を受け、牢人たちの家族が大坂城に出入りを許すお触れを出す。牢人たちは戦の合間に和やかな一時を過ごすことができた。
・幸村は大助(浦上晟周)を連れて真田の陣に行き、信吉(広田亮平)、信政(大山真志)、矢沢頼幸(迫田孝也)、小山田茂誠(高木渉)と会う。
・大坂城内のかつて茶室があった場所から千利休が隠しておいた馬上筒が出てきた。それを手にした幸村は策を考える。
・牢人たちの扶持も尽きかけて不満が高まっていた。幸村たちは要害が出来て徳川との再戦するまで我慢するよう抑えさせていただ、大野治房(武田幸三)が自分の配下の牢人たちのために勝手に蔵を開け、金銀米を持ち出した。
・それを知った秀頼は全ての蔵を開けて応分の扶持を与えざるを得なかった。
・ところがそれが裏目に出た。金を貰った牢人たちがこぞって武器を買い求めた。
・さらに悪いことは続いた。大野治房が治長を襲撃し、さらに徳川が埋めた堀を掘り返し始めてしまった。
・それを聞いた家康は諸大名に再び戦支度を命じる。
・幸村は兄・信之(大泉洋)に書状を送る。それを読んだ信之は幸村が家康と刺し違える覚悟であることを悟り、大坂へ赴くことを決意する。

<真田丸紀行>
・岡山県岡山市。岡山城は大坂五人衆の一人、明石全登ゆかりの城。戦国時代、宇喜多秀家に仕えていた全登は家老として岡山城で政務を取り仕切っていた。
・市内にあるキリスト教の殉教者の墓。処刑のため彼が長崎に向かう途中、護衛を務めたのは全登だったと伝わる。
・岡山市の隣に位置する備前市もまた全登ゆかりの地。市内には全登の屋敷があったことを伝える石碑が残されている。
・切支丹武将・明石全登。信仰を守るため信繁とともに最期の決戦へと挑む。

※岡山城(JR「岡山」からバス「県庁前」下車 徒歩5分)
※明石掃部介守重宅跡(JR「吉永」からバス「板屋」下車 徒歩2分)
※聖ディエゴ喜斎記念公園
※八塔寺ふるさと村

(2016/12/5視聴・2016/12/5記)

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真田丸 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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※関連ページ
第47話「反撃」
第46話「砲弾」
第45話「完封」
第44話「築城」
第43話「軍議」
第42話「味方」
第41話「入城」
第40話「幸村」
第39話「歳月」
第38話「昌幸」
第37話「信之」
第36話「勝負」
第35話「犬伏」
第34話「挙兵」
第33話「動乱」
第32話「応酬」
第31話「終焉」
第30話「黄昏」
第29話「異変」
第28話「受難」
第27話「不信」
第26話「瓜売」
第25話「別離」
第24話「滅亡」
第23話「攻略」
第22話「裁定」
第21話「戦端」
第20話「前兆」
第19話「恋路」
第18話「上洛」
第17話「再会」
第16話「表裏」
第15話「秀吉」
第14話「大坂」
第13話「決戦」
第12話「人質」
第11話「祝言」
第10話「妙手」
第9話「駆引」
第8話「調略」
第7話「奪回」
第6話「迷走」
第5話「窮地」
第4話「挑戦」
第3話「策略」
第2話「決断」
第1話「船出」

※真田ゆかりの地関連
【ブラタモリ】#54 大坂城・真田丸スペシャル~大坂城はなぜ難攻不落?~
【ブラタモリ】#31 真田丸スペシャル・沼田~真田は沼田でどんな城下町をつくった?~

※関連ページ(真田一族関連)
【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の最期
【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の半生
【歴史秘話ヒストリア】徹底解明!これが“真田丸”だ
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 前篇
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 後篇

【NHKスペシャル】戦艦武蔵の最期~最新科学が迫る“真実”~

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【NHKスペシャル】
「戦艦武蔵の最期~最新科学が迫る“真実”~」

(NHK総合・2016/12/4放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 夏に放送されたドラマ「戦艦武蔵」は今回のドキュメントの伏線だったのでしょうか(→【NHKスペシャル】ドラマ 戦艦武蔵)。それはともかくとして、今回の番組は歴史検証の点から見ればなかなか興味深い内容だったと思います。

 ただ、やはり戦艦大和とともに武蔵も「大艦巨砲主義」という旧日本海軍の愚かな戦術の犠牲になった感は否めず、犠牲になった乗組員たちのことを考えると気の毒でならないと思います。

 こうした悲しいことを繰り返させないためにも、戦争というものの本質が何ら正当化できるものではない「絶対悪」だということを、特に為政者たちが肝に銘じるべきでしょう。番組の最後で武蔵の乗組員たちを靖国神社で慰霊するシーンがありましたが、あの施設が戦争犠牲者の英霊が祀られているのは分かりますが、神社自体が反戦平和の思想とかけ離れていることから、私は残念ながら参拝する気持ちにはなれないですね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・フィリピン沖1200mの深海。70年以上眠り続けていた日本の戦艦が発見された。その名は武蔵。太平洋戦争末期、日米が激突した史上最大の海戦・レイテ沖海戦。その切り札として出撃した巨大戦艦・武蔵。日本の技術の粋を集めた鉄壁の防御力から無敵の不沈艦と呼ばれていた。
・しかし武蔵の戦いを記録した写真や資料は殆どなく、どのような最期を遂げたのか、真相は謎に包まれてきた。
・今回NHKは武蔵を発見したアメリカの探索チームから100時間を超える未公開映像を入手。最新の映像解析技術によって、沈没の真相に迫った。
・浮かび上がったのは、定説を覆す新たな事実。明らかになった武蔵の思わぬ弱点と、海軍がそれを知りながら放置した実態。
・生き残った元乗組員の証言と新たな発見から謎に包まれてきた武蔵の最期を完全再現した。歴史の闇に埋もれてきた戦艦武蔵の真実。知られざる最期に迫る。

<歴史的瞬間 深海の大発見>
・去年3月、フィリピン・シブヤン海。マイクロソフトの共同創業者で実業家のポール・アレン氏による海底探査プロジェクト。世界屈指の沈没船調査のプロを結集し、武蔵の捜索が進められていた。手がかりは残された僅かな写真。沈没地点の特定には、膨大な歳月が費やされた。
・8年にわたる捜索の結果、遂にその時が訪れた。武蔵発見の歴史的瞬間。世界の研究社が探し求めていた巨大戦艦が70年ぶりに姿を現したのだ。
・全長5m、重さ15トンともいわれる巨大な錨。艦首に残されていた菊の紋章の痕跡。武蔵発見のニュースが世界を駆け巡った。公開された映像はごく僅か。今回NHKは100時間を超える未公開映像を入手した。そこには知られざる武蔵の姿が記録されていた。

<“未公開映像” 知られざる武蔵>
・武蔵が見つかった場所は深海1200mの海底。微生物の少ない低水温が、腐食を最小限にとどめていた。武蔵の甲板の一部、張られていたヒノキの板が今も残っていた。
・武蔵の甲板では時々、娯楽映画が上映されていたという。そのフィルムと思われるものが海底で見つかった。軍靴や鉄かぶとなど、映像には乗組員たちが身につけていたものも映されていた。
・探索チームはソナー探知機で海底の状況も詳細に調べていた。音波を使い、残骸の大きさや形などデータを収集。その結果、驚くべき事実が明らかになった。武蔵は1km四方の広範囲にバラバラに散らばっていたのだ。
・ちぎれた艦首の残骸、そして150m離れた場所に裏返った艦尾が見つかった。それ以外のパーツは原形をとどめないほど粉々に砕け散っていた。

<無敵の不沈艦 新たな“謎”>
・太平洋戦争勃発の3年前、極秘に建造が始まった武蔵。その存在は軍の最高機密で、関連の資料は戦後殆ど焼却された。詳細な姿を捉えた写真は僅かで、全体の図面は戦後復元されたものしかない。
・最大の特徴は、絶対に沈まない不沈艦といわれた構造だ。内部は1000以上の区画に細かく分けられ、多少の浸水では沈没せず戦い続けられるよう設計されていた。さらにエンジンなどの心臓部を守る装甲板は世界一の厚さを誇り、あらゆる攻撃に耐えられるとされていた。

<映像解析 巨大戦艦の全容>
・なぜ技術の粋を集めた無敵の不沈艦は沈み、そして粉々に砕けたのか。今回NHKでは100時間を超える映像を徹底的に解析し、武蔵の最期に迫るプロジェクトを立ち上げた。集まったのは造船技師や歴史学者、爆発の専門家など7人。
・専門家たちも初めて目にする実物の武蔵。まず取りかかったのは、武蔵とはどのような戦艦だったのかの検証だった。そこで駆使したのが最新の映像解析技術。海底に散らばる武蔵の全体像を探っていく。入手した映像を1000万枚の画像に分解、それらを1枚1枚繋ぎ合わせ3次元の立体モデルを作成していく。
・最初に復元されたのは、戦艦武蔵の中枢である巨大な艦橋。高さ31m、10階建てのビルに相当する。そこにちぎれた艦首を繋ぎ合わせる。全体像が徐々に蘇っていった。復元した史上最大の戦艦・武蔵。その全長は263m、ジャンボジェット3機分の大きさだ。
・元造船技師の岩﨑裕さんが注目したのは、世界最強といわれた武蔵の攻撃力。

円筒形なので砲塔の一部(岩﨑さん)

・この構造物は武蔵の主砲の一部だということが明らかになった。人間と比較するとその巨大さが分かる。内部には160発の主砲弾が格納されていたと見られる。

攻撃力としては世界最強だった。どんな相手でも打ち倒すことができた。そう信じて設計された(同上)

・その攻撃力とは、どのようなものだったのか。海底の映像と残された資料を基に再現した。武蔵が想定していたのは、戦艦同士の砲撃戦。圧倒的な長距離砲で攻撃される前に敵を殲滅する戦術だった。
・世界最大の46センチ砲は前方に2基、後方に1基の3基を搭載。40km先の敵艦を正確に撃破することができたとされる。主砲を撃つ武蔵を捉えた唯一の写真がある。強烈な爆炎の熱で海面に水煙が立ったといわれる。
・軍事史が専門の一ノ瀬俊也さん。映像解析でよみがえった巨大戦艦の姿から伝わるのは、不利な対米戦を覆そうとする当時の軍の思惑だという。

アメリカの「量」に対して日本は「質」で対抗するしかない。まともに戦っても勝てないから、アメリカが思いつかないような突拍子もないことで日本は勝つしかない(一ノ瀬さん)

<無敵の不沈艦は なぜ沈んだのか>
・武蔵の構想が始まったのは、艦隊の強さが重視された大艦巨砲主義の時代。1933年、日本は国際連盟を脱退し世界的に孤立。軍縮条約で主力艦の保有比率をアメリカの6割に制限され、追い詰められていた。
・こうした中、進められたのが数を補う強力な巨大戦艦。大和と武蔵の計画。武蔵は構想から9年の歳月をかけ、極秘に建造された。
・太平洋戦争末期。サイパン、グアムなどが次々に陥落し、窮地に立たされていた日本。南方の重要拠点フィリピン・レイテ島に侵攻するアメリカ軍を殲滅するため、武蔵は大和とともに出撃した。しかしその作戦の途中、シブヤン海で沈没した。
・武蔵はどのような最期を遂げたのか。映像解析を進めると、その真相が徐々に明らかになってきた。30年にわたって武蔵の研究を続けてきたノンフィクション作家の手塚正己さん。注目したのは艦首左側の部分。鉄板が3.5mにわたって大きく曲がっていた。

俗に海軍言葉でいう“まくれ”。これの典型的なもの。魚雷が命中していると思う。ここに前部に(手塚さん)

・損傷していたのは分厚い装甲板の外側。魚雷の爆発で鉄板がまくれ上がったと考えられる。手塚さんは水の抵抗と浸水で機動力が落ちたのではないかと指摘した。

スピードが落ちる。それから舵の効きが悪くなる。ということは攻撃側からすれば動きが鈍いわけだから、爆弾、魚雷が当てやすい(同上)

・実はこの損傷は武蔵が想定していた戦艦同士の戦いによるものではなかった。レイテ沖海戦で武蔵の攻撃作戦に参加した元アメリカ海軍中尉のボブ・フリーリーさん(95)。彼はアメリカ海軍の元パイロットで、武蔵を攻撃したのは航空機だった。至近距離から魚雷を命中させる訓練を繰り返し重ねていたという。

4機が左側から、さらに4機が右側から挟み撃ちにする。そして別の4機は前後から攻撃する。戦艦がどのような動きをしても絶対に逃さないためだ(フリーリーさん)

・日本の真珠湾攻撃(1941年12月8日)で、空からの攻撃の脅威を知ったアメリカ。戦況を左右するのは航空機であるという認識を新たにした。アメリカが最高機密だった武蔵の情報を掴んだのは、レイテ沖海戦の半年以上前。空からの波状攻撃で撃沈する戦術を練り続けていたのだ。

アメリカはレイテ沖海戦が始まる1944年の秋までに航空機による戦術を磨きあげようとしていた。統率された複数の航空機による新たな攻撃方法を開発し、敵の戦艦に対処しようとした。巨大な主砲を搭載し圧倒的な攻撃力を持つ武蔵は、恐るべき存在だった。日本を倒すためには、この戦艦を排除する必要があった(歴史学者のジョン・プラドスさん)

・アメリカの航空機の攻撃で生じたまくれ。艦首には大量の浸水があったと考えられる。攻撃を受けた後の武蔵を捉えた写真があるが、浸水で艦首が沈み込んでいるのが分かる。こうした武蔵は原形をとどめたまま沈んだというのが、これまでの定説だった。

<“深まる謎” 沈没の真相は>
・しかし艦首からの浸水だけでは武蔵は沈まないという、新たな事実が今回明らかになった。分析にあたったのは、船舶工学が専門の橋本博公さん。艦首の部分を浸水させるシミュレーションを行った。船体は前のめりに傾く。しかし中央部と後方に浮力が残り、これ以上沈まないという結果が出たのだ。

艦首部いわゆる装甲板より前方部、ここは完全に浸水してしまっても船としては十分浮力がある状態。これだけで転覆・沈没に至ることは、まずあり得ない(橋本さん)

・では武蔵沈没の原因は何なのか。なぜ粉々に砕け散ったのか。その謎を解くには、バラバラになった残骸の詳細な検証が必要となった。しかし武蔵の内部構造は軍の最高機密で、その特定は困難を極めた。
・武蔵の最期を解明するため、ある未公開資料の取材が初めて許可された。建造にあたった三菱重工が70年間、部外秘としてきた200枚を超す詳細な内部の図面。海底に散らばっていた残骸が武蔵のどのパーツなのか、一つ一つ特定を進めた。
・その結果、散乱していたのは機関室のボイラーなど武蔵の心臓部を形成していた部分であることが明らかになった。絶対に壊れない、装甲板に守られていたはずの部分だ。
・無敵の不沈艦の象徴、装甲板はどうなったのか。その手がかりを探った。専門家が注目したのは、データに記録されていたある構造物。映像を確認すると30mにわたる巨大な鉄の壁が横たわっていた。装甲板の一部が見つかった。
・見つかったのは船体の側面を覆っていた装甲板の部分。一体何があったのか。武蔵の装甲板は戦艦による遠距離からの砲撃に耐えられるよう、世界一分厚く作られていた。しかし当時の溶接技術では分厚すぎる装甲板を繋ぐことができず、リベットといわれる鉄の留め具で固定されていた。
・武蔵のリベット工事に携わっていた会社が今も大阪にある。当時の様子を特別に再現してもらった。繋ぎ合わせるのは、2枚の分厚い板。穴に通した鉄の棒を両側からハンマーで叩いて潰すことで固定する。武蔵の装甲板は4万本のリベットで繋ぎ合わされていた。

リベットが問題だと思う。リベットが外れたら、板が厚くてももたない(造船技師の和田隼夫さん)

・専門家たちはこのリベットが鉄壁の装甲板を破られた原因ではないかと指摘した。専門家の分析はこうだ。遠距離からの戦艦の砲撃の角度に対して強度を高めていた武蔵の装甲板。しかし航空機の魚雷は真横からのものだった。複数の魚雷が繋ぎ目付近を直撃。リベットが外れ、板ごと中に押し込まれる。その隙間から大量に浸水し、武蔵の沈没に繋がったのではないかというのだ。

戦艦対戦艦の砲撃による戦闘を主体に考えているから、そのための構造なので。魚雷、航空爆弾は至近弾も含めると本当に無数に受けたということなので、それは設計の思想からいけば想定外のことであった(元防衛大学校教授の堤明夫さん)

<見過ごされた“弱点”>
・装甲板の繋ぎ目の弱点は、実は早くから危惧されていたことも明らかになった。武蔵の元乗組員が生前、語り残した証言の録音。レイテ出撃の10か月前、同じ構造の大和がたった一発の魚雷で装甲板の繋ぎ目をやられたと聞いていた。

大和の連中に聞いた。あのときに受けた魚雷攻撃で、アーマー(装甲板)は何ともなかったが、びょう(リベット)が緩んだと。ここから少しずつ水が入ったと報告を受けている。だから何発も魚雷を食うと水がどんどん入ってくるんじゃないかと、それは最大の欠点だなと(元乗組員・中尉だった野村治男さん)

・更に海軍上層部は、その弱点を知りながら対策をとろうとしていなかった。武蔵の建造に携わった呉海軍工廠設計主任・牧野茂の手記。

結局艦政本部では漏水対策さえすれよいとして、根本的改正の要はないと決定した。これが最後まで気がかりであった(「艦船ノート」より)

・日本の行き詰まった戦局の打開を武蔵に託した海軍。しかし致命的な弱点は最後まで放置された。18歳で武蔵に乗った元乗組員で水兵長だった大石正弘さん(91)。多くの若者が武蔵は無敵の不沈艦だと信じ、戦い続けたという。

魚雷が1発や2発当たったって、へともしやせんと。水が入らないよということを言われていた。とにかく偉大な船だと。武蔵が沈んで死ぬなんて絶対に考えなかった。こんな大きな船、やられるわけないと(大石さん)

・決定的な弱点を抱えたまま、2400人の乗組員を乗せ出撃した武蔵。その最期とはどのようなものだったのか。

<映像解析と証言 “壮絶な戦い”>
・元乗組員たちに映像を見てもらい、武蔵の最期を検証した。当時17歳、元乗組員で水兵長だった塚田義明さん(89)。

あそこはもうひどいものでした。機銃はもうがれきのようになってしまったし(塚田さん)

・航空戦に対応するため急遽、設置された機銃。乗組員たちは防御壁がないむき出しの状態で戦った。大きく歪んだ台座は、爆弾が近くに落ちた痕跡と見られる。配置されていた機銃員は9人、塚田さんは機銃員たちが吹き飛ばされる様子を間近で見ていた。

もうそこは陣地が全滅していた。木っ端みじんに跳ね飛ばされるし、機銃のがれきの破片、そういう所に肉片がこびりついて、それが人間のあれとは思えない(同上)

・大石さんが目の当たりにしたのは、アメリカの航空機による攻撃でヒノキの甲板が遺体で埋め尽くされた光景だった。

機銃の分隊の負傷した人、戦死した人が本当に山になっていた甲板上に。それを見たときは本当に言葉にならない。大変な苦労をなさって戦死されたなと思う(大石さん)

・艦長をはじめ中枢の士官たちがいた艦橋付近が大きな被害を受けていたことも明らかになった。艦橋の右側で見つかった幅6mの巨大な穴、爆弾が直撃した痕跡と見られる。そのそばにいて奇跡的に助かった乗組員がいた。一等水兵だった大塚健次さん(92)は、この爆弾で艦長が重傷を負ったほか士官たち50人以上が戦死したという。

あらゆる机、椅子、すべて左舷の方へ吹っ飛んで、戦死した方の遺体も左舷の壁に重なった状態で亡くなって、私らの所も爆風が飛んできて数名やられて(1人は)喉から上、全部なくなっていた状態で、私の3m脇の椅子に座ったまま戦死されておりました(大塚さん)

<“完全再現” 巨大戦艦の最期>
・生存者の証言や専門家の映像解析を基に武蔵の最期の戦いを再現した。1944年10月24日午前10時頃、晴れ渡る空から米軍機40機以上が武蔵がいる艦隊に押し寄せた。

対空戦闘用意のラッパが鳴って、あっという間に(空が航空機で)いっぱいになった(元乗組員)

・武蔵を襲う航空機の波状攻撃。

何て大きい船だと思った。狙いを定める必要さえなかった(元米軍パイロットのボブ・フリーリーさん)

・魚雷が武蔵の船体を捉える。アメリカの空襲は5度にわたって繰り返された。魚雷攻撃で側面にまくれが生じ、速力を失い始める。

船のスピードは全く出ないし、よけることも逃げることも勿論できないし、だから本当の標的(元乗組員)

・午後3時過ぎに始まった最後の攻撃は100機以上が殺到。10発以上の爆弾が命中した。さらに魚雷を積んだ航空機が挟み撃ちで武蔵に襲いかかる。複数の魚雷が装甲板のある中央部に命中、武蔵に致命傷を与えた。
・速力を殆ど失った武蔵。ついに艦長や士官たちがいた艦橋付近が狙い撃ちされた。武蔵はこれ以上戦うことができなかった。5時間を超える戦闘の末、武蔵は沈み始めた。左に大きく傾くと同時に、乗組員の多くが海に投げ出された。

助けてくれってのか、親を呼んでいるのか、ものすごい声がざわめきがある中を、波の中へ吸い込まれていって。何百人という人。身震いした(同上)

・乗組員の証言によると沈没の直前、煙突に海水が流入し小規模な爆発があった。それでも船体は形をとどめたまま、ゆっくりと沈んでいったという。

<残された“謎” 粉々の残骸>
・しかし海底の武蔵は大きく破壊され、バラバラになって見つかった。なぜこのような姿で武蔵は沈んでいたのか。爆発のメカニズムに詳しい吉田正典さん。沈没した武蔵が水中で大爆発を起こしたのではないかと指摘する。

本当にバラバラになるというのは、やはり火薬の爆発以外にはなかなか考えづらいと思う。中で爆発が起きたとしたら、中のものはかなりバラバラになる(吉田さん)

・何が大爆発を引き起こしたのか。吉田さんが注目したのは、ある残骸だった。それは最強の攻撃力を誇った主砲の一部。弾を格納していた頑丈な部屋が激しく損傷し、散らばっていたのだ。

比較的分厚いであろう鋼材がぐにゃぐにゃ曲がっている状況は、単に船が落ちたというだけではこういう状況は起こりえないので、やはり爆発があったのではないかと推定するのが自然。火薬というのはある条件が整えば空気なしで、水の中でも燃焼爆発させることができる(同上)

・想定していた戦艦同士の戦いにならず、武蔵は戦闘で主砲を撃つ機会が殆ど無かった。そのため160発以上の弾と、それを発射するための100トンの火薬が残っていたと見られる。吉田さんはこれらが爆発したと考えたのだ。前後の主砲付近の船体は原形をとどめているため、爆発したのは2番目の主砲だと推測した。
・主砲付近の火薬が爆発すると、船体にどのような影響を与えるのか。吉田さんはコンピューターでシミュレーションを行った。その計算結果は、爆発の衝撃で鋼鉄で覆われた船体は大きく破損。船体が2つに分断された上に中心部はバラバラになって砕け散った。損傷状況は海底に散らばる武蔵とほぼ一致した。

大量の火薬が燃焼して爆発して、しかも船が真っ二つになるところでは、近くの部屋には相当の圧力が伝ぱしていったと思うので、それはおそらく致命的なものになったと思う(同上)

・水中爆発を裏付けるかのように海底に散らばっていた大量の火薬の缶の残骸。日本の命運をかけ戦況を覆すための攻撃力が仇となったのか、武蔵は砕け散った。乗組員およそ2400人のうち1000人以上が戦死した。

<武蔵の沈没が私たちに語りかけるものとは>
・10月24日、武蔵が沈没した日。元乗組員や遺族が集まって慰霊祭が行われる。武蔵に乗っていたことを70年以上、誇りに生きてきた元乗組員たち。深海に眠る無残な武蔵の姿は、不沈艦が幻想だったことを突きつけるものだった。最後まで武蔵を信じ、疑うことなく戦死していった仲間たちのことを今も悼み続けている。

乗組員がいかに戦い死んでいったのか、知ってもらいたい。武蔵はそういうことを望んでいると。武蔵という船はこういう船だったと。いかに戦い、いかに沈んだのか、その悲惨な結末を知ってほしいと。戦争のむなしさというか、そういうものを感じてほしいということだと思う(元乗組員の塚田義明さん)

・武蔵乗組員2399人のうち、最終的な生還者は430人。沈没時に救助された乗組員の多くが、陸上戦に動員され玉砕した。

(2016/12/5視聴・2016/12/5記)

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【ETV特集】漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~(1)

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【ETV特集】
「漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~」

(Eテレ・2016/12/3放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<感想>

 いやはや姜尚中さんをはじめ世界各国の夏目漱石研究者たちが続々と登場して彼の作品と足跡から思想の潮流を辿っていく骨太な内容。1時間と思いながら観ていたら1時間30分もの長編だったので、本当に一つの講演会をきっちり聞いたという「充実感」が視聴後の率直な感想です。

 夏目漱石の作品といえば10代の頃に全部というわけではありませんが、そこそこ読んだ記憶があります。しかし読む視点と書かれた歴史的背景というのを踏まえた上でまた読むというのも悪くないかなと思いました。しかも今や紙ベースでなければ全集が“びっくりぽん”なお安価で手に入る時代、漱石先生もそんな時代が来るとは想像していなかったでしょうね。

 それにしても旅行でハルビン駅を訪れた漱石、その1か月後に伊藤博文が暗殺されるという偶然。さらにこの二人が後の世で同じ千円札になる。何か縁のようなものを感じましたね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・中国東北部・大連。かつて日本の統治下にあったこの町には、当時建設された西洋風の建物が今も見られる。政治学者の姜尚中氏は一人の作家の足取りを追い、中国にやって来た。
・明治の文豪・夏目漱石。名作「坊ちゃん」などで知られる漱石が中国と韓国を旅していた。漱石が描いた近代に生きる人々の葛藤を「悩む力」として読み解いてきた姜氏。漱石の知られざるアジアの旅に関心を抱いてきた。
・漱石は日露戦争の戦跡を精力的に歩いている。さらにハルビンも訪れる。漱石が立ったプラットホームでその直後、伊藤博文が暗殺される。
・最近、漱石が中国の旅を記した文章が見つかった。当時、中国で発行された新聞に掲載されていた。ハルビンで伊藤が狙撃された事件も記していた。日露戦争後、中国進出を始めた日本。その有り様を冷ややかな目で見ていた。

「無闇に忙しい人々」「事物を能く含味する暇がない」

・日本の行く末を見つめた漱石。近年、中国や韓国でも漱石への関心が高まっている。

西洋中心主義にどう立ち向かうべきか、悩み考えた末に文学を表した漱石の功績は、非西洋世界にとって非常に大きな遺産だと言えます(韓国の研究者)

・姜尚中氏が辿る夏目漱石の旅。日本とアジアの近代化をどう見つめていたのか。没後100年、漱石の文明批評を読み解いていく。

<熊本で生まれ育った姜氏が漱石ゆかりの地へ>
・漱石が暮らしていた町・熊本。今年4月、震度6の大地震が襲った。熊本は姜氏が生まれ育ったふるさとだ。今も震災の傷跡が残っている。
・あの日、姜氏も熊本にいて被災した。度重なる震災に衝撃を受け、改めて漱石を見つめ直そうとしていた。

5年以上前に東日本大震災を経験した。私地震はちょうど還暦だったんですね。やっぱり自分の人生みたいなものを見直すというか、個人的な非常に純粋にパーソナルな動機ですけども、あの震災は何か私にとっては単なる自然災害に思えなかった。5年後にまさか熊本でこのような震災に遭うとは。僕は熊本で生まれましたし、漱石は4年3か月ここで過ごした。彼は20世紀的な文明史のばく進する世界の危うさを最初に理解した人。一体、漱石は100年前になぜ今、僕が疑問に思うような問題を彼はどんな形で予見したんだろうか(姜氏)

・姜氏がまず訪ねたのは漱石の旧居。震災で被害を受け、一部だけ公開されている。

長女・筆子さんが生まれた、産湯をつかったと言われている跡(同上)

・漱石が暮らした当時の姿をしのぶことができる。
・漱石が熊本に来たのは明治29年(1896年)。東京帝国大学を卒業後、松山の中学校で英語を教えた後に赴任。ここで結婚し長女が生まれた。
・熊本大学五高記念館、かつての第五高等学校の校舎だ。漱石は五高の教授として4年余り英語を教えた。漱石が五高の開校記念式で読んだ祝辞の原稿が残されている。この頃はまだ「漱石」の号ではなく、夏目金之助だった。

夫れ教育は建国の基礎にして
師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ

(教育が国づくりの基本で、教師と生徒の信頼関係が大事である)

・この頃、日本は日清戦争に勝利する(1894~95年)。欧米列強が進出するアジアで、日本は独立を守るため「富国強兵」の道を歩んでいた。

今日ハ国家汲汲ノ時ナリ

・明治のエリートだった漱石の危機意識だ。

アジアの中では稀有な国。かろうじて独立国家を保っている。一歩間違えば、清(国)のようになりかねない。隙を見せたらいつ乗っ取られるか分からないという、そういう危機意識の中で明治のエリートたちっていうのは、国を背負って立っているという気概があるんですね(熊本大学五高記念館 客員准教授の村田由美さん)

やっぱり漱石は率直に素直に、国の元気というものは若者にかかっているし、教育にかかっているという。そういう国家の一大事業に自分はやっぱり関わっているという責任感みたいなね、そういうものを感じさせられますよ(姜氏)

・姜氏が漱石に関心を抱いたのは、熊本で中学生のとき。日本は高度経済成長のただなかだった。東京をこの目で見てみたい。15歳の姜氏は親に内緒で友人とともに憧れの東京へ向かった。そのころ出会ったのが漱石の「三四郎」だった。

「三四郎」を読んでびっくりしたのは、三四郎のあれがね、よく分かった。彼が東京に出てあたるわけですよ。僕と同じように(同上)

・小説「三四郎」は、熊本の五高を卒業した青年・三四郎が東京帝大に入学し成長していく姿が描かれている。上京するとき、三四郎は汽車で乗り合わせた男に尋ねる。

「然し是からは日本も段々發展するでせう」。するとかの男はすましたもので「亡びるね」と云つた。

僕は中2の秋ぐらいに「三四郎」を読んで、そのときはこの「亡びるね」も深い意味を持って読んでなかった。ただ、だんだん読む間にこの「亡びるね」の意味が漱石の中になぜ生まれたのか。それは何を彼は暗示していたのか、それを知りたい。その意味をこれからの旅で知りたいと思います(同上)

・五高の教育者として日清戦争後、国づくりの一翼を担おうと意気込んでいた漱石。その後、日露戦争の勝利を経た1908年に「三四郎」を発表する。その中で発した「亡びるね」の言葉。そこに漱石のどのような思いがあったのだろうか。

<漱石が留学したロンドンへ>
・漱石は熊本で勤務した後、明治33年(1900年)ロンドンに留学する。ここでの体験に、漱石が変化していった鍵があるのではないか。姜氏はロンドンにやって来た。漱石はロンドン到着後まもなく、テムズ川にかかるタワーブリッジを訪れる。

これを見て驚いたでしょう。僕でさえこうやって見ると本当、圧倒されそうな気がする(姜氏)

・タワーブリッジの展示館、漱石が来た頃の映像が上映されている。産業革命を経て近代化を進めたイギリス。当時ロンドンは人口600万人を超え、世界最大の都市だった。
・開閉式のタワーブリッジ、その原動力は蒸気機関だった。当時の蒸気機関が橋のたもとに復元保存されている。石炭を燃やし、沸騰した水蒸気の力を動力に変える蒸気機関。18世紀のイギリスで実用化され、大英帝国発展の源となっていた。

最初にここに降り立ったときは、やっぱりとにかく動転したと思うのね。結局、日本にいるとき、いろいろな形で知っていた西洋の文明を生身で実体験するある種のイニシエーション(通過儀礼)を受けたわけですよね(同上)

・漱石が留学したのは、文部省から英語研究を命じられたためだった。ロンドン大学で聴講を始めるが、次第に足が遠のいていく。

University Collegeへ行って英文学の講義を聞た。講義其物は多少面白い節もあるが、日本の大学の講義とさして変った事もない(漱石から狩野ら宛て手紙)

・この頃、漱石が記したノート。その関心は開化や文明の問題、さらに文芸へと向かい語学研究から離れていく。

日本ハ西洋ニ圧迫セラレツツアル。文芸ノ事ニ於テハ余ハ余ガ日本人トシテノ立脚地ヨリ此圧迫ニ反抗セントス(「ノート 生存競争」より)

・欧米の近代化に対抗しようとした漱石は、大学へ行かず独学を始める。そのころ漱石がよく通ったのが、カーライル博物館だ。
・19世紀のイギリスを代表する歴史家トーマス・カーライル、漱石が来た頃は既に亡くなっていた。来館者が記帳した名簿に「K.Natsume」のサインが残っている。彼はカーライルの蔵書や遺品を見に来ていた。

漱石は後にここを書いていますが、最初に訪ねたときの体験だったはずです。案内したストロング夫人のことも書いています(博物館管理人のリンダ・スキッピングスさん)

内から五十恰好の
肥つた婆さんが出て来て
御這入りと云ふ
やがて名簿の様なものを出して
御名前をと云ふ
四階へ来た時は縹渺として
何事とも知らず嬉しかつた
嬉しいといふよりは
どことなく妙であつた
ここは屋根裏である
カーライルは書斎として
こゝに立籠つた
彼をして天に最も近く
人に尤も遠ざかれる住居を
此四階の天井裏に
求めしめたのである
(「カーライル博物館」より)


・カーライルは近代文明を批判している。

現在は機械主義の風潮が人間を窒息させている。世界は人間を粉々に挽きつぶそうとしている(「衣服哲学」より)

カーライルはエッセイスト、ヒストリアン、歴史家でもあり、作家でもあり評論家なんだけど、結局大学のアカデミズムとか、そういう制度化されたエスタブリッシュメントというんでしょうか、そういう中にいる人ではない。ここに閉じ籠って世俗に受け入れられることを自ら拒絶しているわけでしょう。やっぱり何かこう孤高の人ですよね。世俗的な功利主義、商業主義に対する非常に強いシニカル(冷笑的)な文明批評というのは持っていたと思うから。そこが僕はやっぱり漱石を惹きつけたんではないか(姜氏)

・壁に掲げられているカーライルの写真は片手を頬に当てているものだった。

もしかしたら(漱石は)カーライルを真似したんじゃないか(同上)

・近代文明の中心地で見るその現実。漱石はさらに影の部分を感じていく。漱石は凱旋パレードに出くわす。南アフリカの第二次ボーア戦争(1899~1902年)、その義勇兵たちだ。当時イギリスは南アフリカに兵を進め、現地のボーア人からダイヤモンドと金の利権を奪い植民地にしようとしていた。

南亜ヨリ帰ル義勇兵
歓迎ノ為メ非常ノ雑踏ニテ
困却セリ
(「日記 1900年10月29日」より)


・セントポール大聖堂、凱旋した義勇兵たちが戦勝を感謝する礼拝を行った。

全国ノ寺院ニテ
Thanksgivingヲ行フ
自ラ戦端ヲ啓キ
自ラ幾多ノ生命ヲ殺シ
自ラ巨万ノ財ヲ糜シ
而シテ神ニ謝ス
何ヲ謝セントスルヤ
馬鹿馬鹿シキコトナリ
(「ノート 1902年6月1日の記述より)


彼にとって文明は光輝いて非常に人間を幸せにしてくれる、そういうものだけではなくて、その裏側にいつもこのように悲惨をもたらしたり人間の愚かさを作り出すもの。そういうところを漱石は的確に見抜いた。ボーア戦争も結局は腕力で物事を解決して自分の領土や野心を、そういう増長したこの文明のやり方、こういうものに対して鋭い感覚を持っていた。しかもそれが荘厳ないろんなセレモニーによって装飾されるような、なお一層のこと彼はそれに対して強い違和感を持った(姜氏)

・漱石の留学中、時代は20世紀を迎える。インドや中国などアジアの国々は欧米列強の進出に苦しんでいた。漱石はロンドンで中国人を蔑視する風潮に反発を覚える。

支那人ハ嫌ダガ
日本人ハ好ダト云フ
之ヲ聞キ嬉シガルハ
世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ
面白イト思ツテ
自分方ガ
景気ガヨイト云フ御世辞ヲ
有難ガル軽薄ナ根性ナリ
(「日記 1901年3月15日」より)


・やがて漱石は下宿に閉じ籠って読書に没頭するようになる。ロンドンの南、クラパム地区。そのときの下宿先が今も残っている。研究に打ち込む漱石、本国では神経衰弱で「夏目狂せり」と噂された。今も個人宅として使われている。持ち主の計らいで姜氏だけ部屋の中を見せてもらった。

もう完全に中がリノベートされているから当時のイメージはなかなかつくり難いですけど、でもこの3階の所にいたという。とてもやっぱり狭い。空間としては3階が一番狭くて、やっぱりそういう狭い所に漱石はずっと籠っていたというのを考えると、それが1年であれ何であれね、大変な日々だったんだと思う(姜氏)

・漱石が自らの文学の構想を記したノート(「大要」)。

世界ヲ如何ニ観ルベキ
日本ノ進路ヲ助クベキ文芸ハ如何ナル者


やはり近代文明の先進の地で何を見い出したのかというと、ある種の限界だったと思いますね。これはどこかに限界をはらんでいる。イギリスを手本にしてそこに到達するため、それまで以上に無理を重ねている日本の姿にある種の危うさを感じた。それはやはり近代日本というものが、まだ自分のよって立つしっかりとした基軸を持ちえないまま。漱石の言葉を借りれば、外形だけは広く間口を内実をみると空洞的。そういう問題意識を持って、じゃあ自分は日本に帰って何ができるんだろうかと考えたときに「自己本位」の立場に立って、そういう日本の中で文学というものを自分なりに納得いくものをつくりたい。自分でしっかりと形にしていこうというふうに決意したんではないかなと、そう思うんですね(姜氏)

<帰国した漱石 小説を次々と発表していく>
・ロンドン留学を終えた後、漱石は東京帝大の英語講師となる。帰国から2年後の1905年、漱石は小説「吾輩は猫である」を発表。1匹の猫の目を通して明治の社会を風刺する。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

・このとき日本はロシアとの戦争の真っ最中だった(日露戦争 1904~1905年)。戦争の勝利が伝えられると、国民の間に熱狂が広がる。猫の主人・苦沙弥先生は、こうした風潮を冷ややかに見ていた。

大和魂!と叫んで
日本人が肺病やみの様な
咳をした
大和魂!と新聞屋が云ふ
大和魂!と掏摸が云ふ
大和魂が一躍して海を渡った
大和魂はどんなものかと聞いたら
大和魂さと答へて行き過ぎた
五六間行つてから
エヘンと云ふ声が聞こえた
誰も聞いた事はあるが
誰も遇つた者がない
大和魂はそれ天狗の類か
(「吾輩は猫である」より)


・日露戦争に勝利した翌年の1906年、漱石は小説「坊ちゃん」を発表。さらにその2年後「三四郎」を世に出す。主人公・三四郎が熊本から上京する汽車の中で広田先生と出会い、話を聞く。

「あなたは東京が始めてなら
まだ富士山を見た事が
ないでせう」
「あれが日本一の名物だ
あれより外に
自慢するものは何もない」
三四郎は日露戦争以後
こんな人間に出逢ふとは
思いも寄らなかつた
どうも日本人ぢやない様な
気がする
「然し是からは日本も
段々発展するでせう」と
弁護した
するとかの男はすましたもので
「亡びるね」と云つた
(「三四郎」より)


<漱石を研究している作家の目にはどう映るのか>
・漱石は近代化に邁進する明治の日本をどう見ていたのか。作家の黒川創氏は、小説家・夏目漱石の誕生を歴史や社会の中で考えている。

漱石はロンドンから日本に帰って、やっぱり文学というものとどう向き合うのかという、漱石が2年間を過ぎてそこで自分の文学についてどういう根本的なスタンスというんでしょうかね、それはどういうふうに見てらっしゃいます?(姜氏)

大事なのは1903年の初めに帰ってきて、すぐ直後に日露戦争がある。1904年に始まって5年の秋に終わるけれども。それが何でその間に漱石っていう作家が生まれたかという問題なんですよ。日本の民衆の場合は、1905年9月にポーツマス条約があって「もっと領土を、もっと賠償金を」って言ってる民衆の方が国をさらに通り越しちゃって。で「日比谷焼打ち事件」って暴動、東京各所でも暴動までいくわけですよね。

そのときには、もう漱石の戦争への見方っていうのは日本の民衆とは全く違うところにいる。だからそういうふうに戦争の途中で国家主義から離脱する逆の転向。「思想転回」って言ってもいいけども、それが漱石っていう作家を生んだと僕は思いますね。

やっぱ「猫」っていうのが大きくって。猫っていうのは、人間社会に対して傍観者じゃないですか。だから猫の目を借りて客観的に距離を保って「諧謔の精神」というかユーモアをもっって、ずっと見続ける。それが漱石のある種のデタッチメント(超然とした態度)っていうかね、社会への。要するに自己諧謔でもある。

「三四郎」は「だんだんよくなっていくでしょう」なんて弁じると「亡びるぞ」っていう冷や水を浴びせる。それがやっぱり、戦争の出口のときに変わった後の漱石ですよね(黒川氏)

やっぱり漱石はそういう形で大きく思想的に転換していく、その土台になったものはロンドン留学っていうのは一つの大きな契機だったんでしょうかね(姜氏)

そう思いますね。やっぱりそこで必死で勉強したし、必死で考えた。余計なことをしないでね。やっぱりある意味でそこまで考えたっていうのは、日本の文学者の中でいないでしょうね(黒川氏)


<日露戦争の戦跡を訪れた漱石>
・漱石は1907年、教職を辞め朝日新聞社に入社。職業作家となる。その後、友人で南満州鉄道株式会社の総裁・中村是公から誘いを受け、満州と朝鮮半島を旅する。
・東北大学附属図書館 漱石文庫。漱石の書斎にあった本や資料が保管されている。満州や朝鮮関連の写真集、このころ手に入れたと考えられる。
・日露戦争に勝利した日本は、ロシアから旅順、大連の租借権と長春以南の鉄道権益を譲り受ける。漱石は1909年9月に大連にやって来る。その後、旅順を訪ね、鉄道をハルビンまで北上する約20日間に及ぶ満州の旅だった。
・姜氏は漱石の中国の旅を辿ることにした。漱石が最初に訪れた大連は現在人口約600万。中国東北部の海の玄関口として発展している。
・日本が統治した時代の建物が今も使われている。漱石ゆかりの旧ヤマトホテル。正面に見えるのは旧横浜正金銀行大連支店。漱石が来たのは、日本による大連の開発が始まったばかりの頃だった。

全くこう近代というか、こういう形でにわかに出てきたような町。そういう都市に非常にやっぱり漱石は強い印象を持ったんでしょうね(姜氏)

・壁には漱石の写真が飾ってあり、彼が宿泊した当時ホテルで出していたコーヒーの味を今に伝えている。
・漱石が最も関心を寄せたのが日露戦争の戦跡だった。最大の激戦地・旅順に足を延ばした。旅順の山側に築かれたロシア軍の要塞が今も残っている。東鶏冠山北堡塁、ロシアが築いた防衛陣地だ。漱石は日露戦争から4年後、従軍した日本軍の軍人に案内され、ここを見ている。

地下道を掘ってここに迫る日本軍に対し、ロシア軍も地下を掘って応戦しました(旅順博物館名誉館長の郭富純氏)

戦闘に備えたロシア軍に対して日本側も地下道を掘って、ここを攻略したっていうことになるんですね。当時の…どういう戦闘状態だったのか。こういう塹壕戦、後々の第一次世界大戦の塹壕戦を彷彿とさせるような、華々しいものというよりは、もう本当にこれは地の底にいるような感じだったでしょうね(姜氏)

・防衛陣地に迫る日本軍。漱石は両軍が激突した現場を訪ねている。

私たちが立っている場所は向こうの塹壕から、まさに日本軍がそこに見える爆破口までずっと地下道を掘ってきたところです(郭氏)

漱石の中にですね、こういう文章があるんですね(姜氏)

其時両軍の兵士は此暗い中で僅の仕切りを界にたゞ一尺程度の距離をとって戦をした。

・漱石がこのときの見聞を帰国後、朝日新聞に「満韓ところどころ」と題し連載している。

仕切りは土嚢を積んで作つたとか
聞いた様に覚えてゐる
上から頭を出せば
すぐ撃たれるから
身体を隠して乱射したさうだ
それに疲れると鉄砲をやめて
両側で話を遣つた事もあると云つた
酒があるなら呉れと強請つたり
死体の収容をやるから
少し待てと頼んだり
あんまり下らんから
もう喧嘩は已めにしやうと
相談したり 色々の事を
云ひ合つたと云ふ話である


ここに案内されて、そうすると僕が今これを見てるよりは、もっと漱石にとっては生々しかったでしょう。それこそ10年も経たない出来事ですから、もっとここは雑然として、やっぱりその戦争の跡が生々しかったでしょうね。そう考えると、彼の叙述が何か非常に生々しく感じられますね(姜氏)

・ここには日露戦争当時の砲弾など戦争の遺物が展示されている。漱石は日本軍の戦利品陳列所を訪れている。

たつた一つ覚えてゐるものがある
夫は女の穿いた靴の片足である
戦争後ある露西亜の士官が
此陳列所一覧の為
わざわざ旅順迄来た事がある
其時彼は此靴を一目観て
非常に驚いたさうだ
さうしてA君に これは自分の妻の
穿いてゐたものであると云つて
聞かしたそうだ
此小さな白い華奢な靴の所有者は
戦争の際に死んで仕舞ったのか
又はいまだに生存してゐるものか
その点はつい聞き洩らした


普通、通りいっぺんに見るならば、靴だけが後々印象に残って、それを書き込むっていうことはないと思うんですね。おそらくその靴というイメージは最も戦争にふさわしくない女性の靴ですから、そこに漱石は何かやっぱり異質なものを感じた。と同時にたぶんですけど、いわば弱きものが犠牲になる。戦争の痛ましさに対する漱石なりの感度が出てるような気がするんですね(姜氏)

・旅順はロシア海軍の基地だった。艦隊を守るため陸地に要塞を築いたロシア軍に対して、乃木希典率いる第3軍が攻撃を繰り返し、約6万人の死傷者を出す。その最大の激戦地となったのが203高地だ。漱石は203高地にも足を運んでいる。

乃木希典の次男は第3回総攻撃の時にこの下の北東の一角で戦死しました(郭氏)

・高地の上には日本軍が占領後に据えた280ミリ砲が復元されている。旅順港の艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

私たちが今立っているのは、まさに203高地の頂上です。あれは旅順港ですね。今は霧のためよく見えません(同上)

登ってみて意外と高いとこだなと。ちょっと予想とは違ってましたね(姜氏)

ロシア軍は固い堡塁で守備を固めて、高いところから日本軍を迎え撃ちます。日本軍は山の下から山頂を攻撃するため、多くの犠牲を強いられました。乃木希典が作った詩の中にこういう句があります。「鉄血が山を覆い 人の死体が山の形を変えた」という意味です(鐵血覆山山形改)(郭氏)

漱石がこの場所を訪ねたときの説明なんですが、こういうふうに言ってるんですね(姜氏)


其時我々はもう頂近くにゐた
此處いらへも砲丸が
飛んで来たんでせうなと聞くと
此處で遣られたものは
多く味方の砲丸自身のためです
それも砲丸自身のためと云ふより
砲丸が山に当つて 石の砕けたのを
跳ね返した為です
自分で此處へ攻め寄せて来た
経験を有つてゐる市川君の話は
甚だ詳しいものであつた


ですから戦場の中では亡くなったのは、敵によって亡くなったんだというそれだけではなくて、味方の弾によって兵士が命を落とした。それを漱石は知って何か忸怩たる思いになった。実際味方の弾で亡くなった人もいるということを聞いて、ちょっとおそらく日露戦争以後の国民の戦争の理解とは、やっぱり違う現場の生々しさを知ったと思うんですね。漱石は他の人と違って、やっぱりその日露戦争や明治という時代に対する見方が非常に複雑だと思います。そう。モノトーンではない。ですからその意味でもね、ここで自分の目でそして自分の体で味わった何かというのは、非常に重要だったんじゃないかなと思いますね(姜氏)

<当時の新聞に寄せられた漱石の文章は>
・漱石の満州を巡る旅。最近、現地で発行された新聞に漱石が文章を寄せていたことが作家の黒川創氏によって明らかにされた。
・当時、南満州鉄道が発行した「満州日日新聞」。新たに見つかった漱石の文章は、旅の所感を記した「韓満所感」。そして満鉄の職員を前に行った講演録。「無闇に忙しい人々」現地の日本人の活気を感じつつも、その在り方を批判している。

諸氏の精神状態は
Restless(休息なし)に
烈しく落ち付きがない
兎に角多忙で
次から次に移て行く
事物を能く含味する暇がない
物と物との関係を
味ふと云ふが如き
落付きある事は先づ出来まい
(「物の関係と三様の人間」満州日日新聞より)


・一方、満州に進出した日本の姿をこうも述べている。

わが同胞が文明事業の
各方面に活躍して
大いに優越者となつてゐる
状態を目撃して
日本人も甚だ頼母しい
人種だとの印象を
深く頭の中に刻みつけられた
同時に、余は支那人や朝鮮人に
生まれなくつて
まあ善かつたと思つた


・漱石は中国をどう見ていたのか。新資料を分析し、漱石の中国の旅を読み解いている清華大学教授の王成氏に聞いた。

中国は非常に苦境にあるけども、かつては名誉ある文明国で、そこからたくさんのものを日本はもらったというような。で、そういう漱石がもう一方で、日本が日露戦争に勝って中国の苦境を見つつ、自分はやっぱりその進出する側にいて何となくこうほっとしているという。その矛盾したものが漱石の中にあるように思うんですが(姜氏)

夏目漱石はロンドンにいたとき、西洋文明の下で受けた差別とコンプレックスから中国から連帯感を持っていました。しかし日露戦争に勝利した後、漱石の中で過去に抱いたコンプレックスが中国人あるいはアジアの人々と向き合うときには消えて、優越感を感じるようになっていたようです。「汚い中国人」「中国の水は飲みにくい」などと書いています。そのような漱石の文章を見ると、矛盾した心理が生まれていると感じられます。

と同時に、日本人のこのやり方では滅亡を招くとも漱石は感じていました。だから「三四郎」の中で「亡びるね」と予言が出てくるのです。漱石は日本の現状を肯定も否定もせず、これからどうあるべきか使命感を持って考えていたと思います。そうでなければ、漱石は作品の中で繰り返し日本を批判し、日本は滅びると警告することはなかったと思います(王成氏)


<朝鮮半島を訪れた漱石>
・漱石はその後、満州から鉄道で朝鮮半島を南下する。大韓帝国の都、今のソウルを訪れ、王宮など景勝地を見物している。日露戦争後、日本は朝鮮半島への支配を強めていく。義兵運動など抵抗が起きるが、武力で抑えていく。漱石が訪れた頃は日本人の姿が目立つようになっていた。

日本の職人三人喧嘩をしてゐる
大坂弁なり
風雅なる朝鮮人
冠を着けて手を引いて通る
実に矛盾の極なり
(「日記 1909年9月29日」より)


・在日韓国人2世として生まれた姜氏。漱石が朝鮮半島へ進出する日本をどう見ていたのか気になっていた。姜氏は韓国で漱石を研究しているチョンナム科学大学副教授のキム・ジョンフン氏を訪ねた。
・漱石はこのとき、朝鮮王朝の妃・ミンピ(閔妃)の墓を訪ねていた。彼女は日露戦争前、ロシアに接近し日本を牽制する。1895年、王宮に乱入した日本軍人などによって殺害された。ミョンソン(明成)皇后と諡名され、20年以上ここに埋葬されていた。

ミンピが殺害されたとき漱石は松山の中学校の教師でしたが、正岡子規に宛てた手紙では「最もありがたきは王妃の殺害」と書いています。その記述から考えれば、日本に反発したミンピを嫌悪する気持ちがあったと思います(キム・ジョンフン氏)

それにしても非常に小さな、こう何かぽつんとこの記念碑が建っていて、これがあのミンピのお墓かという感情とともに、どう思われたと思いますかね?(姜氏)

日本にいたときと、現地であるここを直接訪ねたときの心境は必ずしも同じだったとは言えないと思います。日記には墓に行った事実しか記されていないので、何と言えばいいか難しいのですが、その当時のお墓を見て「ああ朝鮮がこのまま滅亡の道を進んでいくんだ」という個人的な思いはあったかもしれません(キム氏)

・漱石は当時の韓国をどう見ていたのか、キム氏に聞いた。

漱石は「中国人や朝鮮人に生まれなくて、まあ善かった」と表現したり「幸いにして日本人に生まれた」と記しています。こうした点から考えると、日本の植民地経営に同調した面がなくはありません。日本の臣民として漱石は仕方なく、読者のことを意識して書かざるをえなかったんじゃないかと思います。そのような点から見ると漱石は、中国や韓国で批判されるべきところもあります(同上)

もう一方で自分が個人的かつ私的に思っていること、漱石は当時の韓国に対してこういうふうに思ってたんだというふうにはなかなか断言できなくて、そういうところの複雑さが私は漱石に見られるんじゃないかと思うんですが(姜氏)

例えば朝鮮を発つ4日前に詠んだ歌があるのですが、これは非常に大事だと思います(キム氏)

・漱石が朝鮮への思いを詠んだ歌。

高麗百済新羅の国を我行けば
我行く方に秋の白雲
草繁き宮居の跡を一人行けば
礎を吹く高麗の秋風
(「日記 1909年10月10日」より)


何かやっぱりこう長い伝統を持って、ここにずっとある懐かしい自然を持ったこの国が、何かどこかに消えていきそうだという、そういう何かこうある種の喪失感みたいな、そういうノスタルジーをね、ちょっと私自身は感じてまして(姜氏)

このような歌は個人的に自分の率直な気持ちを打ち明けたという感じがします。朝鮮に対する同上の気持ち、複雑な感情が漱石にあったのではないかと思います。昔から中国、日本、韓国の3国が東洋の共同体として存在していたという視点に立って、大変複雑な思いを抱いてこの歌を詠んだと思うのです(キム氏)

【ETV特集】漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~(2)へ続く

(2016/12/6視聴・2016/12/6記)

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【ETV特集】漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~(2)

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【ETV特集】
「漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~」

(Eテレ・2016/12/3放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

【ETV特集】漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~(1)からの続き

<伊藤博文暗殺事件を漱石はどう受け止めたのか>
・満州と韓国の旅を終えた漱石は、朝日新聞に「満韓ところどころ」の連載を始める。その矢先、大事件が起きる。1909年10月、伊藤博文がハルビンの駅で韓国の青年アン・ジュングン(安重根)に暗殺された。
・日露戦争後、伊藤博文は韓国統監となり韓国併合への準備を進めていた。一方、アン・ジュングンは独立を求め活動していた。
・伊藤暗殺事件に衝撃を受けた漱石。その思いが新たに見つかった「韓満所感」に記されていた。

伊藤公が哈爾賓で狙撃されたと云ふ號外が来た
哈爾賓は余がつい先達て
見物に行つた所で
公の狙撃されたと云ふプラットフォームは
現に一ケ月前に 余の靴の裏を
押し付けた所だから
場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた


・漱石が満州の旅の途中、ハルビン駅に降り立ったのは伊藤暗殺事件の1か月前だった。

アン・ジュングン(安重根)が伊藤博文を暗殺した場所です。この場所です。アン・ジュングンはここに立ってこの三角が指す方を向きました。伊藤博文はあの四角のところに立っていました。伊藤博文がプラットホームをこちらに向かって歩いていた時、人ごみに隠れていたアン・ジュングンは前に出て銃で3発撃ったのです(ハルビン市社会科学院研究員の張※さん ※「隹」の下「乃」)

この距離は僅か2~3mぐらいでしょうけど、これが歴史を大きく変えて何か日本と韓国との距離を示しているような気がしますね。ここが歴史の場所か。漱石が自分の足の下をここに置いた。漱石がここを訪れて程なくして、いわば歴史的な悲劇が起きた。大事件が起きた。それに対するある種のアクチュアリティ(現実味)が、とても彼の関心を引いたんだと思う(姜氏)

・伊藤暗殺事件の裁判は旅順で行われた。その間、アン・ジュングンが収監されていた旅順監獄が今も残っている。アン・ジュングンの独房が復元保存されていた。

この旅順刑務所の中に刑の執行場があるんでしょうか?(姜氏)

アン・ジュングンの処刑はその前で執行された。この窓から見えるグレーの建物がその場所です。彼はこの監獄で処刑された初めての朝鮮人です(副館長の周愛民さん)

・アン・ジュングンは独房で「東洋平和論」を書いた。日本と中国、韓国の3国が団結し、西欧列強に立ち向かうべきだと主張する。
・「安重根事件公判速記録」。実は漱石は裁判の記録を入手していた。表紙の裏には「材料として進呈 夏目先生」と記されている。送り主は満州日日新聞社長の伊藤幸次郎だった。

私自身はそれは一つの余白を埋めていく作業。漱石が文字として残したものと残していないものがある。しかしいくつかの状況証拠的なものもある。どうして公判記録をわざわざ漱石は手に入れたのか。伊藤公を射殺したアン・ジュングンという人物が韓国の人間だというのは知っている。実際に自分が見たその光景、それから人の暮らし。そこから重ね合わせていくと、やっぱりアン・ジュングンという人物について彼がなぜそれをそうせしめたのか。これは当然のことながら、小説家的な発想からすれば、その動機ということをやはり知りたいと思うんじゃないでしょうかね(姜氏)

・漱石は伊藤暗殺事件について、小説「門」の中で触れている。主人公・宗助と妻のお米、宗助の弟・小六の3人が食卓を囲む。小六が切り出した。

「時に伊藤さんも
飛んだ事になりましたね」
「どうして
まあ殺されたんでせう」と
お米は小六二向かつて聞いた
「短銃をポンポン
連発したのが命中したんです」と
小六は正直に答へた
「だけどさ 何うして
まあ殺されたんでせう」
宗助は落付いた調子で
「矢つ張り運命だなあ」と云つて
茶碗の茶を旨さうに飲んだ
お米は「さう でも厭ねえ
殺されちや」と云つた
「己見た様な腰弁は
殺されちや厭だが
伊藤さん見た様な人は
哈爾賓へ行つて殺される方が
可いんだよ」
「あら 何故」
「何故つて
伊藤さんは殺されたから
歴史的に偉い人になれるのさ」
「たゞで死んで御覧
斯うは行かないよ」
(小説「門」より)


<漱石が東アジアの近代文学に果たした役割とは>
・漱石が「門」を書いた1910年、韓国併合が行われる。同じ頃、国内では社会主義者が次々と検挙されていた。日露戦争に反対した幸徳秋水は韓国併合の翌年、大逆事件で処刑される。社会主義運動への弾圧が厳しくなっていた。
・漱石は小説「それから」の中で幸徳秋水に触れている。幸徳の動向に目を光らせる警察の慌てぶりを記した。
・大陸への進出を本格化させていく日本。漱石はこの時代をどう見たのか。作家の黒川創氏は小説「暗殺者たち」の中で、伊藤暗殺事件や大逆事件と漱石との関わりについて読み解いている。

幸徳を取り上げる、あるいは伊藤を取り上げる、これはもう取り上げざるをえない。ただそれにしても、どうして伊藤をあんなふうに、ちょっとこう突き放すような言い方をするんだろうかとか、日本の大陸への進出がまさしく本格化する突先、そういう中での漱石はどういうスタンスを取ったんだろうかという(姜氏)

大事なのは、やっぱり当時の漱石っていう問題ですよね。日露戦争、一応勝ったことになってるわけだ。すると日本中に凱旋門ってあるんですよ。パリの凱旋門みたいなね。新橋の駅前にもあるんですけど。あれ石造りに見えるんだけど、大体は中は「ほんがら」(からっぽ)で、竹で造ってあって、だからもう張りぼての凱旋門ですよね。だからそういうあさましさっていうのに、漱石は相当嫌だったというのは一つありますね。そういう意味では、例えば民族差別っていう意味ではどうですかねっていうか、やっぱりそういうのはあんまりなかった人だと僕は思いますね(黒川氏)

僕もそう思います(姜氏)

世の中、偏狭になっていく。こんなんでいいのかという漱石のフェアネス(公平さ)が働いている(黒川氏)

そういう点では、その張りぼての近代をどんどん作っていく果てに、これはやっぱり人間が内側から壊れていくんじゃないかという。それは漱石の中にあったんでしょうね(姜氏)

そうですね。それが文学の問題ですよね。ある意味でね、漱石が考えた。文学っていうのは黄表紙みたいにね、小説読んで楽しむっていう問題じゃない。社会それこそ世間って何か。そこでものを考えていくときに共通のものっていうのは何。共通の言語っていうかな、社会観という。そのときに日本はまだ無いっていう中で作ったのが漱石であり、鴎外であり。そういうまだ「私」っていう言葉もないし、僕とか君とかっていうやり取りもない中で、漱石は僕とか君とかっていう今、普通に僕らが読める作品をつくったんだっていうのは、非常に大きい問題で国際語なんですよね。当時の、ある意味では東アジアのね(黒川氏)


・文学で社会を見つめようとした漱石。黒川氏は、漱石が東アジアの近代文学に果たした役割が大きかったと言う。日露戦争の前後、日本では中国、韓国、台湾の1万人を超える留学生が学んでいた。その中には漱石の文学に親しんだ人も少なくなかった。後に「朝鮮近代文学の祖」と言われた韓国のイ・ガァンス(李光洙)、「阿Q正伝」を書いた中国の魯迅。

お互いに漱石を読んだ、例えばイ・ガァンスはそれを応用して自分の近代文学、自分の私っていうのはまた朝鮮語で書くわけでしょ。中国では要するに五・四運動の中で魯迅が新文学運動で出てくる(同上)

そういう点で日本という磁場が、近代というものの中での自分たちの国の言語をつくっていかなきゃいけないときの一つこう、大きな発酵しているそういう場の中に中国からも朝鮮半島からも台湾からもいろんな人が。で、そういう中での漱石文学の果たした役割っていうのは、ものすごくあると思うんですが(姜氏)

要するに中国からの留学生、韓国からの留学生、みんな使う「共通のハブ(結節点)の言語」として、言語ってそういうものだから。だからもうちょっと日本の国境を超えた問題として文学っていうのは何だったのか、社会の共通の言葉であり文学は社会を作っていく。それが大事だったわけですね。そういうものとして漱石は文学に興味があったわけで。そこのところはもうちょっと真面目にというか、国境をまたぐ問題として考えていく必要がある(黒川氏)


<魯迅と漱石 二人の関係を研究している学者は>
・国境を超え、東アジアに影響を及ぼしたという漱石の文学。姜氏は北京の魯迅博物館を訪ねた。魯迅と漱石の関係を研究している貴州大学教授の李國棟氏。魯迅が東京で住んだ家の写真がある。そこは以前、漱石が住んでいた。

魯迅は漱石をとても崇拝していたので、弟たちとこの家を借りて住んだのです(李氏)

この2人の、それぞれを代表する国民的な文学者が東京で、あるすれすれの近い所にいたということが、何か一つの歴史の奇跡みたいなそういう感じがしますね(姜氏)

夏目漱石の「吾輩は猫である」が雑誌に連載されたとき、魯迅はちょうど日本に留学中でした。彼の弟の周作人の回想では、魯迅は必ず毎回読んでいたといいます。特に影響が大きかったのは「吾輩は猫である」に見られる創作の態度、社会に対する批判精神です。漱石と魯迅は反体制の色を持っていました。当時の政権と一定の距離を置き、政府が進めた近代化制作に批判的でした。ですから魯迅は漱石の影響を明らかに受けたと言えるでしょう(李氏)

漱石を今もう一度この東アジアという、これは中国、朝鮮半島、韓国、日本も含めて見直すときにどういう意味がおありになるとお考えですか?(姜氏)

漱石は非常に重要な問題提起をしています。近代化の性質を2種類に分けて論じています。1つは外発的、もう1つは内発的な近代化です(李氏)

・漱石は「現代日本の開化」と題する講演の中でこう述べている。

日本の開化は自然の波動を描いて
甲の波が乙の波を生み
乙の波が丙の波を押し出すやうに
内発的に進んでゐるかと云ふのが
当面の問題なのですが
残念ながら
さう行つて居ないので困るのです
我々の遣つてゐる事は
内発的でない
外発的である
一言にして云へば
現代日本の開化は
皮相上滑りの開化である


実はこの問題に関しては中国も同じです。同じ東アジアの国から見れば近代化は西洋から来たものです。魯迅と漱石の認識はとても似ています。魯迅は中国の国民が全部奴隷だと思いました。自分なりの考え方や価値観がない。統治者に好きなだけ操られる。漱石も小説「野分」の中で同じことを言っています(李氏)

西洋の理想に圧倒せられて
眼がくらむ日本人は
ある程度に於て皆奴隷である


外発と内発という漱石の問題提起は、今も考えなければならない東アジアの重要な課題なのです(李氏)

<漱石の文学は韓国ではどうなのか>
・漱石の文学は韓国ではどう評価されているのか。韓国における漱石研究の第一人者、ソウル大学教授のユン・サンイン氏に聞いた。

日本留学から帰国した韓国の文学者の多くが、夏目漱石を読んでいたと考えられます(ユン氏)

漱石の影響あるいは漱石のそういう近代と向き合ったアジアのテーマというのは、イ・ガァンスのような文学の中にも共通して流れているんじゃないかと思うのですが、その辺りはどうですか?(姜氏)

私も同じ意見です。夏目漱石は近代化、西洋文明中心主義にどう立ち向かうか悩みました。その結果を日本語で文学として表現しました。そのことは非西洋世界から見ると非常に大事な遺産だと思います。ですから夏目漱石をアジアという観点、そして世界文学という視点に基づいて分析し、今一度読んで評価することが必要だと思います(ユン氏)

<漱石ゆかりの地を訪れた姜尚中氏が思うことは>
・夏目漱石は1916年、49歳で世を去った。小説、俳句から文明批評に広がる漱石の世界。姜氏は旅を通して近代を鋭く見つめ、東アジアに影響を与えた漱石の姿を改めて感じていた。

当時の満州やそして韓国、朝鮮半島。奴隷になっていくかもしれないその地域や国々から、例えば中国の場合であると漱石に影響を受けた魯迅がおり、そして韓国では後々もう少し時代が下りますけどもイ・ガァンスがいたりする。で、かろうじて日本はいわば主の側に回りつつある。それは漱石はよく分かっていたと思うんです。でも、これでいいんだろうか。そのまま行けば、自分がかつてロンドンで感じた近代の奈落のようなものが、もしかして待っているかもしれない。漱石であれば、たとえ今この韓国や朝鮮半島が日本によって他律的にあるいは外圧的に近代へと引き込まれていくにしても、やはりそこに何かアクションがあればリアクションがあるように、何かが起きてくるかもしれないと。そういうことも含めて私は日本の行く末がそう簡単ではないのではないかと思ったと思うんですね。

その上で私は、それはやはり日中韓の、この近代の運命の分かれ道から作られてきた隙間。今もその隙間は埋まっていない。その漱石の中にある隙間、そこに何か我々が今、この東アジアの一角に生きていて、彼が抱えた問いを我々もやっぱり今、抱えざるをえないし、漱石が抱えたその隙間のようなものの中から何か将来を見通せる手掛かりが、もしかしたら我々は見い出せるかもしれない。やはり私は日本にいる漱石に私淑している一人の人間として、それをしっかり受け止めながらもっと内在的に漱石の世界に入っていければと考えています(姜氏)


(2016/12/6視聴・2016/12/6記)

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【明日へ―つなげよう―】証言記録 東日本大震災 宮城県仙台市~動物園の“いのち”を守る~

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【明日へ―つなげよう―】
「証言記録 東日本大震災 宮城県仙台市~動物園の“いのち”を守る~」

(NHK総合・2016/12/4放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 今回のドキュメント、東日本大震災から5年半という時間が経ったということもあり、またナレーションなど慎重な言い回しで作られていた印象があります。

 もちろん動物園の動物だって命あるものであり、餌の不足やライフラインが止まったことで受難したことは間違いないわけすが…「スーパーの食料を動物園に回した」とか表現や扱い方を間違えると、当時被災した人たちはもちろん視聴者の非難を浴びかねないものだと思いますから。その辺りはとてもデリケートな問題だと思います。まあ、今となればあれこれ言う人は居ないでしょうけどね。

 それはともかく、災害時の動物園などのリスク管理など東日本大震災から得られた教訓は多いと思います。今年4月の熊本地震では被災した動物園からヒョウ(ウンピョウ)を福岡の動物園へ避難させたニュースが報じられていました。動物園や水族館の横の連携などの体制が整ってきているということなのでしょう。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・宮城県仙台市の八木山動物公園、動物たちを間近で見られる市民の憩いの場として親しまれている。
・2011年3月11日、仙台市を激しい揺れが襲った。人も動物も無事だったが、すぐに餌が足りなくなった。暖房もストップし、厳しい寒さが動物たちを襲った。動物たちの健康状態は日に日に悪化。
・震災で瀬戸際まで追い詰められた動物園。生き物たちを守り通した「いのち」の記録。

<地震発生 そのとき動物園は>
・仙台市の八木山動物公園は開園から約50年、年間55万人が訪れる。約130種、500点の動物たちがいる東北随一の動物園だ。自然に近い環境で伸び伸び生きる動物たちの姿を間近で見ることができる。5年前のあの日も、動物たちは穏やかに過ごしていた。
・午後2時46分、当時園長だった遠藤源一郎さんは管理事務所で激しい揺れに襲われた。

携帯がいたる所で緊急地震速報、今でもあの音を聞くと嫌です。余計不安を煽られる。ここにいたみんなで手分けして園内に入っていった(遠藤さん)

・真っ先に頭に浮かんだのは、動物たちの安全の確認とお客さんの誘導だった。

本当に不安で、地震の後だから動物舎が壊れているかもしれないし、動物が出ているという最悪のことも考えないといけない。ここはライオン舎、ここは大丈夫だった。ホッキョクグマ、野生最大の猛獣。こういうガラスにひびが入ったりすると大変でしょ。空気が何か、震災前と違う雰囲気が。何か大それたことが起きているような感じがしましたね(同上)

・飼育員たちは担当する動物が何より気がかりだった。

鳴いたり歩き回ったり、落ち着きを無くしていた(ゾウ担当の杉山智也さん)

地震直後はずいぶん大きな声で騒いだりしていた。すごいパニックでした。大騒ぎで、チンパンジーの大きな声で鳴いているのは、人間が周りで音が聞こえなくなるくらいすごい音で鳴く。耳が聞こえなくなるくらい大きな声で鳴く。1頭だけでなく、みんなで騒ぐ(チンパンジー担当の伊澤学さん)

ただごとじゃない。本当にすごいこと。こちらが「サイ・カバ舎」になる(カバ担当の但木成一さん)

・カバを担当していた但木成一さんは、ボイラーのある建物の一部が壊れているのを見つけた。

ここがトタンで作っていただいたんですけど、もともとは古い施設でモルタルの四角い長い煙突だった。たまたま目線をやったら亀裂が入っているのを発見した。暖房はボイラーの水だけの古い施設。カバのためのお湯がとれないと温まれないよな。まだ寒いよなという話が出てきて、どうしようと(同上)

・幸いカバたちは無事だった。しかしカバのプールに張るお湯はボイラーと水道管の両方が壊れていたため、すぐにはお湯を出せない状態だった。
・園長が恐れていた、動物たちのケガや脱走はなかった。しかし園内ではサル山に亀裂が入ったり、様々な施設が被害を受けたりした。

<事務所から見えた津波>
・地震発生から約1時間後。事務所に戻った遠藤園長は海岸線の異変に気づいた。

ここから海の方が見えた。今はずっと海岸線が見える。薄く横に見えるのが海岸線。あそこに黒い煙がずっと一面に押し寄せてきた。それは何だか分からなかった。不気味な煙がワーっと。やっぱり津波かなという話もあって、うちの仲間の職員が「園長の家、流されたんでねえか」と。「そんなことねえべや」と私は思っていた(遠藤さん)

・遠藤園長の自宅は海岸から僅か1km、父親と兄の3人で暮らしていた。

(家族への連絡は?)
当然、逃げているものと思っていました。そのときは、なかなか連絡が…。仕事だからすぐ連絡することは(なかった)(同上)

・家族はどこかへ避難しているだろうと遠藤園長は自分に言い聞かせた。

<最初の問題は暖房だった>
・被害の状況は確認できた。しかしこれを境に動物園は窮地に追い込まれていった。最初は暖房の問題。この日の最低気温は氷点下4度だった。雪も降り出す中、停電で暖房が止まり寒さが動物たちを襲った。副園長(当時)の大内利勝さんは飼育員から相談を受けた。

もう少し暖房器具がほしいという話になって、じゃあ電気が使えないから石油ストーブだよねと。じゃあ本庁の庁舎管理課に電話してみようと、電話しました。そうしたらもう避難所にみんなやっているので動物園にやる暖房器具は無いよと。そのときどうしようかっていうのは一瞬ありましたね。これまで30数年、役所にいていろいろな場所に何があるか、こんな所にこれがあったとか経験していたので(大内さん)

・大内さんは以前勤めていた仙台市役所に向かった。職員たちが残業のときに使うストーブがあったはずだと思い出したからだ。

8階から下りてきて、建設局が5階6階。そのあたりまでの間に何とかなるんじゃないかと。一緒に「この辺にあったよな」と探してくれてありがたかった。何とか4台か5台ゲットして持ってきた(同上)

・石油ストーブはアライグマやサルたちの獣舎に持ち込まれた。とりわけ寒さに弱い爬虫類は1か所に集め、24時間暖め続けた。しかしストーブは足りなかった。
・動物園に3頭いるアフリカゾウ。メスのメアリーは人懐っこい性格で、イベントなどで大活躍する人気者。ゾウたちを20年世話してきた杉山さんは、普段は25度の室温が徐々に下がり始め体調を崩さないか心配していた。

ゾウの方に1台だけ割り当ててくれることになったが、この広い室内で1台だけあってもあまり効果がないだろうと。それよりも温度を必要としている動物がたくさんいるので、そちらに回していただけるようにお願いした。体が大きいので、この子たちの体温、熱気で何とかがんばってもらいました(杉山さん)

・杉山さんはゾウたちを寒い屋外に出さず、暖房が復旧するまで室内で過ごさせることにした。

<園長の自宅は交通規制で近づけなかった>
・家族の安否を気にしながら動物たちを見守る職員たち。遠藤園長は帰宅を促した。

何人か残ってあとは帰宅しろと。全体的に被害を受けているわけですから。私も8時頃、自宅の方に向かった(遠藤さん)

・しかし遠藤園長は津波による交通規制で自宅に近づけず、避難所にも家族の姿はなかった。

<動物の餌の在庫が多くなかった>
・震災翌日の12日、獣医師の橋本渉さんは餌の在庫が気になり確認を始めた。

これが草食獣たちの主要な冬場の主食になります。2週間分ぐらいの備蓄はあったと思います。次にいつ納品されるか目処は全く立っていないので、2週間分は逆に不安ですね(橋本さん)

・次に調べたのはペレットと呼ばれる固形飼料。たんぱく質やビタミンなどを豊富に含んだ動物には欠かせない餌だ。

草食獣用ペレット、これはサル用ペレット、クマ用、これが水鳥用、ちょっと在庫が少ないですけど。1週間しかないのが何よりも苦しかった(同上)

・水鳥の餌は大半がペレットだった。
・最も不足していたのは野菜や果物。園全体で1日に約150キロ必要だ。

生鮮類は毎日、八百屋さんが納品して。りんごはある程度まとめて買っているんですけど、青菜類、菜花類、バナナというのは毎日納品してもらう。市場が動かないと納品のしようがない、当然ですけど(同上)

・野菜や果物の在庫は僅か2~3日分だった。

うちにずっと納品していただいている取引業者があるので、まずそこと何とかコンタクトを取ろうと思いました。ただなかなか(取引)会社と連絡がつかない。会社がどのくらいの被災状況なのかも分からない。やっているのかも分からない(同上)

・餌はいつ手に入るのか。先行きへの不安を抱え、震災2日目は過ぎていった。

<近所のスーパーから生鮮品の提供があった>
・餌が底をつこうとしている動物園。そこに救いの手を差し伸べたのは、近所のスーパーだった。地震直後から調理せずに済む食料品を求めて住民が殺到。店は停電だったが営業を続けていた。
・このスーパーは週に3回、パンと牛乳をチンパンジーとゴリラのために納品していた。しかし震災3日目には在庫が無くなった。店長(当時)の千田祐起さんは動物園にそのことを伝えた。

当分お届けできないだろうとお伝えしなくちゃならないというのが一つあったのと、何かお手伝いができることがあればということで。たまたま動物園の方から必要な物として小魚とかお肉があればということで、はっと思って。実はあると、それなりにあると。お店には出せないし、お客様には提供できないんだけど、まだ食べられると。必要なお肉はそれなりにあるとピンと来たので、あっ、これはと思ったんですね(千田さん)

・肉だけでなく、調理が必要な野菜なども残っていたので提供することにした。

ここから軽トラックで、平積みくらいだったと思います。動物園の動物の数に比べれば全然少なかったと思いますけど、本当に最低限の量だったと思います。八木山動物園といえば我々小さいときからすごく近い位置にあって、宮城県の人なら誰でも八木山動物園知っているよ、5回10回行ったことがあるのではないか。やっぱり親しみがある動物園(同上)

<与える餌を減らして窮地をしのいだ>
・スーパーから分けてもらった生鮮品で1日2日は急場をしのげた。しかし餌が納品される目処は立っていなかった。橋本さんは動物たちの餌を半分に減らせないか飼育員たちに相談した。

在庫を全部使い切って、次の日から一切食べる物がないというわけにはいかないので、ある餌を最大限節約してその動物の個体を守るためにどこまで減らせるか。多少ひもじい思いをしてもらっても、死に結びつかないように維持できる最小限まで絞らざるをえないかもと思った(橋本さん)

・寒さに耐えていたゾウは餌も半分に減らされ、一層追い詰められた。

やはりお腹が空きますから、ちょうだいと言ってきます。スタッフが通るたびに鼻を伸ばしてこんな感じで、何かちょうだいって。ゾウは1日中食べて、旅をして回る動物なのですが、食べるのも仕事のうちなので、それができなくなるのはとてもかわいそうだな、申し訳ないなと思いました(杉山さん)

<断水の問題をどう解決したのか>
・もう一つの大きな問題は断水だった。八木山動物公園では動物たちの飲み水や獣舎の清掃用に1日に300トンの水を使っている。
・中でも影響を受けたのは3頭のカバたちだった。1日の大半を水の中で暮らすカバ、プールの水は欠かせない。メスのカポはこの動物園で生まれ、震災当時は39歳の高齢。膝の関節が悪く、歩くのも不自由だった。

浮力で水の中は暮らしやすいのに、それが全然ない状態で(生活の場が)地上になると高齢で足腰が弱いのに、歩くのがつらくなってきて動きたくない、もういいやという感じ。厳しい状態だった(但木さん)

・大内副園長は仙台市の水道局に水の救援を要請した。

水道局にいたことがありまして、じゃあそこの部分は俺やるよと、すぐに水道局に電話して。実は給水タンクいくつもあるということで、1台か2台貸してくれと。トラックは何とかするからと話をしたら、暖房と同じように市民が一番なのでそっちに回すタンクは無いよと言われて。そこで、んっ?と思いましたね。ちょっとやばいなと(大内さん)

・その窮地を知り、水を入れたタンクを積んだトラックが駆けつけた。動物園の真下を通る地下鉄の工事をしていた山本敏明さん。

仙台東西線自体が動物公園の直下をトンネルで掘削していましたので、動物園の下を工事すること自体が非常に珍しいと(山本さん)

・山本さんは地上にいる動物たちに影響がないか確認するため、毎日動物園に足を運んでいた。

音や振動の出る作業は夜はしない。それと最初に音や振動の出る工法は、なるべくとらないようにして通過するというので、毎日のように工事の状況を説明させていただいていた。震災の後、何か困られていることはないかと、どういう状況になられているかと確認をしたくて伺いました(同上)

・水の運搬を相談された山本さんは、工事の中断で使わなくなったトラックを浄水場へ向かわせた。

1回で約4トン運べる。1日5~6往復はしていたと思う。受水槽がたまると、今日は大丈夫と(同上)

・山本さんの協力により、動物たちは飲み水を確保できた。カバのプールにも3日に一度、半分の量を運んでもらいカポも水に入れた。

<行方不明の家族 ゾウに励まされた園長>
・3月15日、行方不明の家族を捜していた遠藤園長が4日ぶりに動物園に戻ってきた。家族の消息はまだ掴めていなかった。

探しに行くこともできないし、どこに流れ着いているか分からないし。あとは遺体安置所で確認するしかない(遠藤さん)
(地元にいたいと思った?)
動物園の方が心配(同上)

・遠藤園長が向かったのは、心を通わせていた動物の獣舎だった。

ここにインドゾウの“トシコ”がいたんですね。こっちにね。まずトシコと声をかけて、見ると鼻を振って耳をパタパタと来る(同上)

・開園のときからいるトシコは動物園の花形だった。トシコは12歳年下のヨシコを娘のようにかわいがっていたが、震災の前の年、ヨシコに先立たれてしまった。

お客さんが泣いてたよって言うの。トシコ泣いているよって(同上)

・そんなときでも遠藤園長が来るとトシコは嬉しそうに近寄ってきた。

トシコが震災後、懸命に生きているのも励みになったし。私も毎日来てトシコに声をかけた。トシコ、トシコと。お互いに励まされたか分かりませんが、私は励まされた(同上)

・遠藤園長の家族が遺体で発見されたのは、5月に入ってからのことだった。

<震災から1週間 動物たちに異変が>
・震災から1週間が経とうとする頃、園内に動物たちに異変が現れた。3月17日朝、オウムの仲間アオメキバタンが死んでいるのが見つかった。飼育していた部屋の室温が低かったのが原因だった。
・震災前、飛び切り元気だったチンパンジーにも異変が。19歳のオスのチャチャが飼育員の目の前で突然倒れ、意識不明に陥った。

あの時は外に出していて戻す時にシュートという通路があるんですが、そこまでは行ったんだけど、そのあと動けなくなった。ほとんど身動きできないような感じ。ちょっと震えたような感じで、ほとんど刺激しても反応が無いような感じだったので、病院に戻って薬とって麻酔かけてこの中で治療しました(獣医師の釜谷大輔さん)

・診察の結果、低血糖になっていることが分かった。震災後の飼育環境の変化。いつも食べている野菜などの不足がストレスになり、餌をあまり食べなくなっていた。

とにかく食べてもらうことが一番の治療薬なので、食べたい物をあげるということで、おにぎりとか味噌汁を好んで食べる。すごく喜んで食べるんですね。味噌汁は電解質もしっかり含まれているので、スポーツドリンクじゃなくて昔からちょっと体調崩したり元気をつけるときに、自前でおにぎりを持ってきてあげたり味噌汁を飲ましたり、うちの動物園ではずっと伝統的に続いています(同上)

・大好物を食べられたのがきっかけで、チャチャは徐々に回復していった。
・一方、暖房を抑えられ餌を半分に減らされたゾウたちの我慢も限界に近づいていた。飼育員の杉山さんは狭い獣舎の中に閉じ込められているゾウたちの気を紛らわせようとしていた。

この枝はまだ細いので、このままでも十分食べちゃいます。もうちょっと太いものですと遊んだり。そういうものは大概、外の運動場で与えているんですけど、震災のときはストレス軽減のために太めの物も遊んでいいよと室内で与えた。無視したりしているから、こっちが相手にしないので(杉山さん)

<神戸の動物園をはじめ全国から救援が>
・先の見通しがつかず、日に日に悪化していく餌の問題。3月18日、転機が訪れた。1台のトラックが八木山動物公園に到着した。運んできたのは在庫が尽きかけていた干し草。送り主は神戸の王子動物園だった。

(電話が)繋がったのが日曜日からいろいろ動き出して、連絡がついたのが15日の火曜日でした。話し合っている中で乾草だったら欲しいし安心するという話があって(乾草を)1か月に3トンくらい使いますので、1か月分くらい送ろうかと手配を進めていきました(王子動物園副園長・当時の奥乃弘一郎さん)

・1995年1月17日、阪神・淡路大震災では王子動物園も電気や水道、餌の供給が止まるなど深刻な事態に陥った。

私が経験したのは長田区に職場があったので、救援物資が2日くらいの晩に来たのかな。どないしようと思っていた中で周りから応援があったので、ありがたかったし元気づけられたので。八木山動物公園に連絡して連絡がついて、何か応援できることがあれば、できることなら素早く何かやってあげたいと(同上)

すごい早かった。内部的に固まっていないところで連絡が入りましたので、正直私どもも驚いたくらいの早さ。やはり阪神大震災で王子動物園もすごく被災されていますので、実は切迫しているんだというのが皆まで言わなくても理解いただけていると思いました(橋本さん)

・その後、各地の動物園からも続々と餌が届いた。実はこれらの支援は約150の施設が加盟する日本動物園水族館協会が手配したものだった。当時、連絡役を務めた川上茂久さんは振り返る。

向こうから必要なリストが来たので、それに対して応援してくれないかと全国に声をかけて、輸送業者と私の方でリストアップした物をどこの園から何個、どこの園から何個と全部スケジューリングをしました(川上さん)

・川上さんの呼びかけにより、全国22の動物園や水族館が次々と支援物資を提供した。北陸の水族館からは冷凍の魚が、広島の動物園からはアルファ米が提供された。ガソリンが不足していたため支援物資を一旦、栃木と京都の動物園に集めてまとめて発送した。
・京都市動物園では近畿や中国地方から送られてきたペレットなどの飼料をトラック2台に積み込み、八木山動物公園に送り届けた。

本当にこれで食いつなげるなという思いだけでしたね。本当に嬉しかったです(橋本さん)

その中(物資)にいろんなメッセージが書かれていた。頑張ってと同じ動物園の仲間からの熱いメッセージがあったので、すごく餌以上にそういった言葉というのが大きかった(釜谷さん)

・餌を半分に減らされていたゾウたち、4日ぶりにお腹いっぱい食べた。

<温水が出て命をつないだカバ>
・一方、カバのカポは餌不足で体力を消耗し、冷たいプールに入らなくなっていた。遂には立つこともできなくなったカポ。このままでは自分の体重で内臓が圧迫され命にも関わる。

大きい動物、特に草食獣は立たせられない、動かせないと死んじゃう、死んじゃうと。そういう頭ばかりあって。無理やりでも立たせようとした。いろいろな方法で試して、カバはどの個体もですけれど、一回嫌ってなるとなかなか人間の言うことを聞いてくれない。体力も落ちてきてなかなか動けなくなって「動いて」と言っても「もういいよ」という感じで(但木さん)

・但木さんたちはボイラーを使えるようにしようと動き始めた。調べてみるとボイラーだけでなく、水を供給する配管も壊れていた。しかし手をこまねいているわけにはいかなかった。

当時係長だった橋本さんと相談して、ボイラーを無理やり炊いてみて実験的にやってみよう、ダメもとで(同上)

・作業開始から約5時間。プールにお湯が注がれていることに気付いたカポ。12日ぶりに温水プールに浸かることができた。

そのときは、とにかく一安心はした。当たり前に触ってやった。やっと入ったなという感じで。今日は何とか生き延びたなと、まだその段階だったと思う(同上)

・3月25日、2週間ぶりに水道が復旧。3日後には燃料が入荷し、暖房の問題も解決した。寒さと闘ってきたゾウも元気を取り戻した。

<困難を乗り越えた動物園 今後の教訓も>
・そして4月23日、動物園再開。八木山動物公園は43日ぶりにお客さんを迎えた。

(久々の動物を見てどうですか?)
カバいた(女の子)

震災終わってずっと家にいたので、休みの日に出かけられるのは、僕らも子ども以上にはしゃいでいる。楽しみだったので(男性)

こういうのを見ると、さあまたやるぞと、そういう気持ちになりますね(別の男性)


・八木山動物公園の危機を救った全国の動物園からの支援。その教訓を生かして救援物資をより速やかに送る体制が作られた。

こちらが各動物園とか水族館でどれぐらい備蓄を他の園に何かあった時に送れるかリストを、餌とか輸送箱とかを。今回私たちが餌をもらうには(被災後)10日から2週間かかっているが、こうしたリストができることで数日後にはすぐに送れるんじゃないかと。非常にいい物ができているのではと思います(釜谷さん)

・八木山動物公園の再開から5年、震災で傷ついた多くの人々が動物たちの元気な姿に出会い、笑顔を浮かべた。

動物たちもやっぱり震災の影響を受けた。仙台市民と同じように生きているわけだから、ここで。その動物たちが今、元気になっていることを見ることがまた、みんな励まされる。日常の1つが復活した。動物たちが元気にしているのは、同じように大地震に揺すられた動物たちが元気にしている様を見るのが励みになったのかなと思います(遠藤さん)

・生き物たちとの触れ合いを通して「いのち」の大切さを私たちに伝えてくれる動物園。震災の苦難の時期を動物たちは、生き物を愛する人々に支えられ乗り越えてきた。その体験は「いのちの絆」を一層確かなものにしていった。

(2016/12/7視聴・2016/12/7記)

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【NNNドキュメント’16】迷走する轍~貸切バス業界の闇~

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【NNNドキュメント’16】
「迷走する轍~貸切バス業界の闇~」

(日本テレビ系列・2016/12/5放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 軽井沢のツアーバス事故についてのドキュメントは、今年4月にNHKスペシャルでも取り上げられました(→【NHKスペシャル】そしてバスは暴走した)。今回はバスを運行する業者と、客を集める旅行会社との関係について深く掘り下げ、問題点を鮮明にしたドキュメントだったと思います。

 前回の感想でも書いたのですが、消費者が安いものに安易に飛びつくことが大変危険だということを痛感しましたね。これは私の実体験ですがインターネットの検索結果でも上位に来るようなバス運行会社でも、都市間の夜行バスでヒヤリとしたことがあります。出発時のシートベルト着用の呼びかけもなく、高速道路を蛇行するような走行で怖い思いをしました。今でも頻繁にバス乗車券の「バーゲンセール」のメールが来ますが、自分の命をバーゲンされてはたまらんと、その会社のバスは利用していません。

 法律で適正運賃(下限運賃)を定めても、法の網の目をくぐるような方法で旅行会社はバス業者への下請代金を不当に引き下げる。そして旅行会社は「料金を上げたら客は逃げる」と言って正当化する。こんな不毛な価格競争を繰り広げている限り、事故へのリスクは絶対に減らないと思います。

 今でも新聞広告や折込チラシを見ると、びっくりするような安価でバスツアーが組まれています。鉄道や飛行機は切符を買った時点で運行事業者がはっきり分かりますが、バスツアーで分かるのは旅行会社の名前だけで、実際に乗車するバスはどんな業者が運行するのかなど全く分かりません。

 やはり旅行会社にも応分の責任負担をさせることで、バス業者に対する安易に買い叩きをさせず、さらに安全運行をきちんとさせるような「緊張関係」をつくることが、不幸な事故を減らす方法になるのではないでしょうか。それによって「安全のコスト」が掛かっても、出し抜けるような安売り業者が居なければ消費者は受け入れますよ。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・今年1月、長野県軽井沢。若い命を乗せて1台のバスが暴走した。運転手2人を含む15人が死亡。亡くなった乗客13人は全員大学生だった。
・峠を越えた下り坂、事故現場から250m手前にある監視カメラが異常な走りを捉えていた。制限速度50kmの道を猛スピードで走るバス。

やや右寄りに走っているのかなという印象。後ろでもやばいやばいという声があった(乗客)

あまりにカーブが急だったり、スピードが尋常じゃない感じだった、遠心力とか(乗客)


・車体は大きく右に傾き、センターラインをはみ出している。その先、下りの左カーブを曲がりきれず転落。ガードレールに衝突したときのスピードは時速96kmと判明。制限速度を約50km近く上回っていた。
・大阪に住む田原義則さんと由起子さん、大学2年生だった次男・寛さんを亡くした。母・由起子さんは東京の大学に進学した寛さんと、よくLINEのやりとりをしていた。
・息子の携帯電話。あの日の朝、事故をニュースで知った母親は何度も問い掛けた。その後、繰り返し電話をかけても息子は出なかった。

何でこんな所で、こんな悲惨な事故が起きるのかな。時間戻してやりたいなと思いましたけど(義則さん)

・なぜバス事故は繰り返されるのか、そこには深い闇が存在していた。

<多くのバス業者が「下限割れ運賃」で仕事を請け負っている>
・4年前にも重大事故は起きていた。関越道で高速ツアーバスが防音壁に激突、7人の命が奪われた。ハンドルを握っていたのは、法律で禁止されている日雇い運転手。この運転手の居眠りが事故の原因だった。整備不良や名義貸しなど多くの法令違反も見つかった。
・国は関越道の事故を受け、数々の安全対策を行った。その一つが新運賃制度。バスツアーの多くは旅行会社が客を集め、貸切バス業者に依頼する。このとき運賃にはバス業者が適正な収入を得られるよう、下限額が定められている。新運賃制度ではその下限額を引き上げ、車両整備や乗務員の教育など安全対策の費用を確保できるようにした。
・しかし、安全へのその取り組みは踏みにじられた。軽井沢で事故を起こしたイーエスピーは一昨年の4月、貸切バス事業に参入したばかり。それまでは中古車販売をなりわいにしていた。
・出発前に点呼を行っていなかったなど33件もの法令違反が発覚。死亡した運転手は「大型バスは苦手」と告げていたが1回の研修だけであの日、多くの命を運んでいたのだ。さらにこのバス業者は下限額(26万4449円)を7万も下回る19万円でバスの運行を請け負っていた。
・バス業界は一体どうなっているのか。テレビ信州の取材班は全国に約4500社ある貸切バス業者のうち、1500社にアンケートを実施。回答があった535社のうち、下限割れ運賃での受注があると答えた業者は3分の1を超えた。

「下限割れ料金でないと旅行会社から仕事が受注出来ない」

「安全コストをカットしないと、会社が成り立たない」

「下限割れで受注しないと、仕事がなくなっている」


・中国地方のあるバス業者はこう証言する。

(旅行会社から)よく言われるのは「この料金でやっているから、あんたのところに任せているんだよ」。正規の運賃を出したとき、うちには(仕事が)こないかもわからないですね(バス業者)

<違法逃れのため使われる「手数料」という慣習>
・下限割れの原因の一つが「手数料」という慣習。多くのバス業者は仕事を請け負うたびに、手数料を旅行会社に支払う。アンケートにはこんな一文があった。

「運賃は手数料の設定でどうにでもなる」

・一体どういうことなのか。四国地方のバス業者が取材に応じた。この業者がある旅行会社と交わした契約書。大手の旅行会社は15%、中小でも10%が手数料として運賃に含まれているという。ところが…。

新運賃制度になって15%以上(の手数料)を求めてくる旅行業者はたくさんあります。手数料以外にキックバック・広告手数料・広告宣伝費、いろんな名目で手数料以外の部分を求めてくる(バス業者)

・新運賃制度では下限額を引き上げ、バス業者が安全対策の費用を確保できるようにしたはずだった。しかし一部の旅行会社は手数料を増やしたほか広告宣伝費などを差し引き、バス業者に支払う金額を抑えたのだ。
・取材した中で最も高かった手数料は35%、関東地方のバス業者だ。ある日帰りツアーを下限額を上回る14万4000円で契約したがその後、旅行会社から35%もの手数料を引かれ、実際に受け取ったのは10万1088円だった。実質的な下限割れだ。

「これくらいまではバス代アップしたから、これで勘弁してよ」と(手数料の)パーセンテージで調整されてしまう。(旅行会社は)根本的に正規料金を守ろうという意思がない(バス業者)

・バス8台を所有する別の業者は、運賃の下限割れが経営を圧迫しているという。

手数料を払って下限割れは7割くらい。何が安全かとなると、乗務員の安全教育をやらないといけない。車両の整備もある。設備投資にだいぶお金をかけているので、それ(新運賃制度)が守られていないということは、安全なバスっていうのはこれから先も生まれてこないんじゃないかな(バス業者)

・事故の教訓はどこへ行ってしまったのか?

<価格を上げると商品力が低下するという旅行会社の言い分>
・一方、ツアーを組む旅行会社側は新運賃制度についてこう語る。

事故を起こしたのに何故バス会社だけが儲かって、我々がそのあおりを受けなければならないのか疑問(旅行会社の幹部)

・この旅行会社が企画した新運賃になる前の日帰りバスツアーは、1人当たり5980円。10日間で6500人もが参加する人気のツアーだった。しかし新運賃が適用されバス代が上がると、3000円近く値上げをしなければならなくなった。すると客は4割減少したという。

バス代のアップ分を旅行代金に転嫁することで、旅行商品の商品力が低下してくる。消費者が離れていって当たり前(同上)

<国交省はこの実態をどう考えているのか>
・新運賃制度の導入で浮上した手数料の問題について、国土交通省旅客課の小林伸行調整官(取材当時)はこう語る。

取引の慣行上、許容されうる水準の手数料であれば、その手数料をもって仮に下限を割れたから即悪いかというと、そうとも言い切れない(小林氏)
(過分に取る手数料とは何%?)
それはちょっとですね、なかなか申し上げられない。数値までいくら以上がダメだということは申し上げられない(同上)

・国が民間の取引に介入し、具体的な手数料率を指導することは法律の観点から出来ないという。
・6月、国は旅行会社とバス業者が契約をする際に手数料を書面に残すことや、運賃に関する通報窓口を設置することなどを決めた。

<国の監査を逃れる偽装行為まで行われている>
・しかし業界の闇はさらに深かった。バス業者を取材する中で、国の監査を逃れる偽装行為の事実を知った。

この金額18万3600円。これ税込でのバス代。これが正規料金で、実際には請求して上げている金額は8万5000円(税込)で上げているんですよ(バス業者)

・あるスキーツアーの契約書。運賃は18万3600円、下限額ギリギリだった。しかし実際に旅行会社から振り込まれたのは、下限額を約10万円下回る8万5000円。実は両者合意の下だった。
・相手は大手旅行会社。下限割れでの運行は道路運送法違反で一定期間バスが使用停止となるが、シーズンごとに必ず需要があるスキーツアーを繋ぎ留めるため断らなかったという。

(いきなり監査が入ったらどうする?)
料金なんかのやつは請求書は見ないんですよ監査は。こういうもの(契約書)を見るんですよ。だからこの金額を書いてハンコを押してあれば「この金額で受注しているんですね、おたくは」と。「はいそうです」って言ったら、それで終わりです。それが実態なんですよ(同上)

・さらに中国地方のバス業者はこう証言する。

(もし監査で通帳を見られたら?)
一発(行政処分)ですよね、過去のを見たら。監査は直近の2~3か月しか見ない。すごい量ですから日報だけでも(バス業者)

<悪質事業者を見つけることが困難な実態>
・法令を無視するこのようなバス業者の存在について、バス業界の改善に取り組む全国交通運輸労働組合総連合(交通労連)の鎌田佳伸事務局長はこう語る。

法律の穴を抜けたようなことをやる事業者が存在する。旅行業協会に入っていない旅行業者、バス協会に入っていないバス事業者、これがタッグ組まれると我々としても手の打ちようがない。(国は)徹底的に悪質事業者の監査をして、直らなかったら出て行ってくれと。そうしないと直らないですね(鎌田氏)

・しかし急増したバス業者に対し、国による監査の体制は追いついていない。

監査員366人の体制で12万社を対象としている。正直、偽装しているものは見抜くことは不可能。それがある意味、監査の限界かもしれません。警察権ないですから(国土交通省安全政策課の内山正人安全管理室長)

・監査の対象は12万社。しかし昨年度の監査件数は僅か1万5000件だった。

<軽井沢事故の遺族の思いは>
・軽井沢の事故から4か月、大学生の息子を失った田原さんは再発防止に向け、国に対策を要望した。

今までも同じようなバス事故があって、対策してやっぱり一部不十分で事故が起きてますので、そういうことが本当にないのか微力ながらも確認させていただきたい(田原義則さん)

・遺族が強く要望したのは「監査の実効性を高める」「運転手の技能向上」「運行管理者・旅行会社への罰則強化」など21項目に上る。
・息子は今、海が見える高台に眠っている。遺留品から見つかった1冊の本(「社会を変えるには」小熊英二著)。生前、寛さんは「人の役に立ちたい」と話していたという。本の間に挟まっていたのは、バスの窓ガラスの破片。事故は19歳の真っ直ぐな志を打ち砕いた。

<遺族の思いを反映した法改正が行われた>
・軽井沢の事故から間もなく1年。スキーシーズンを前に、遺族の思いを反映した改正道路運送法が成立した(12月2日)。
・無期限だった貸切バスの事業許可を5年ごとの更新制にし、バス業者の安全対策や経営状況をチェック。安全確保の命令に従わない業者については最大1億円の罰金を科すほか、悪質な業者は即排除する。
・監査の人員不足を補うため、国指定の民間機関が巡回指導する仕組みも盛り込まれた。

<安全はマスト(絶対)項目であり費用削減はウォント(できれば)項目だ>
・帰省のたびに大好きな肉じゃがを頬張る、その横顔を母は忘れることはない。

たまに電話がかかってきたりLINEを送ったりしていたのが、返事がないというのは寂しいですよね。まだ信じられないというか、東京で元気にしているような気もするときもふっとありますし(田原由起子さん)

・あの事故以来、息子の写真を持ち歩いている。

バスに乗って旅行に行くというのは、楽しく旅行に行けるもの。安全に行けるものと思ってバスに乗っているにも関わらずこのような事故があったので、安心安全どんなバスに乗ってもバスに乗って行ってよかったなと帰ってこられるような、そういうバスツアーにしてもらいたいと思います(同上)

・ここにもやりきれない思いを抱えた人がいる。阿部知和さんは長女の真理絵さんを亡くした。希望の会社に就職が決まり、日本の技術を世界に広めたいという夢を持っていた。父親は通夜の席でこう投げ掛けた。

きょうも多くの若者がバスツアーに出かけているでしょう。ぜひ自分の身は自分で守ることを考えてください。

優先順位を間違えないこと。安全はマスト(絶対)項目であり、費用削減はウォント(できれば)項目であることを冷静に考えてほしいと思います。

「ツアーがどんな内容か」「ちゃんとシートベルト締めろよ」とかの声掛けをすべきであったと悔いております。


・またスキーシーズンがやって来る。あの夜、ガードレールの向こうに消えた命。彼らが私たちに遺したものは何なのか。一体何なのか。大きく道を外れた轍が問い掛けている。

(2016/12/7視聴・2016/12/7記)

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【にっぽん!歴史鑑定】べっぴんさんの真実

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【にっぽん!歴史鑑定】
「べっぴんさんの真実」

(BS-TBS・2016/12/5放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 (事実上の)国営放送の朝ドラに完全便乗して、というかドラマに先取りしてベビー・子ども服メーカー「ファミリア」の創業者・坂野惇子たち4人の女性の歴史を取り上げた「にっぽん!歴史鑑定」。流石です!お見事!天晴です!

 ということで、私は“本家”のドラマは途中で視聴リタイアしましたので、先々のオチまでこの番組で勉強することが出来ましたが、ドラマの展開を楽しみにしている人は「視聴メモ」はご覧にならない方がいいかもしれません。特に晩年最大のエピソードは、どういう形で描くのでしょうね。「あのお方」を誰が演じられるのでしょうか。それがちょっと気になるところです(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・昭和20年(1945年)6月5日、500機近いアメリカのB-29爆撃機が神戸の町を空襲。町は焦土と化し、8000人以上の尊い命が奪われた。
・運命が大きく変わってしまった人々もたくさんいた。その一人が朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなった坂野惇子。彼女は大空襲の3年後、僅か3坪のベビーショップを開店。一代で日本を代表するベビー・子ども服メーカー「familiar(ファミリア)」へと成長させた。
・失意のどん底にある惇子を支えた「希望」「勇気」「信頼」「愛情」とは何だったのか。商売とは全く無縁、深窓の令嬢だった彼女がなぜ起業できたのか。鍵を握るのは、やっぱり嫁入り道具のハイヒールだった?
・4人の主婦が始めたベビー用品店が大人気に。しかし最初の儲けは毛糸僅か2玉分。その驚きの理由とは。
・惇子たちがこだわった特別な品「別品(べっぴん)」。そこに込められた思いとベビー・子ども服のパイオニアとなった数々の画期的なアイデアとは。

<坂野惇子の生い立ち>
・大正7年(1918年)4月11日、惇子は父・佐々木八十八と母・倆子の末女として生まれた。父は11代続く豪商の長男で、日本有数のアパレルメーカー「レナウン」の全身となる「佐々木営業部」を創業。西洋文化を好み事務所を洋館にしたり、従業員に洋服を着せたりと先進的な考えの持ち主だった。
・でも子どもたちの健康管理には厳しく、朝晩の体温と脈拍の計測を義務づけ、口に入れていいのは家でつくった料理だけ。たまに市販のキャラメルを与えるときも表面をアルコールで消毒するという徹底ぶりだった。そんな八十八さんについて坂野惇子の孫で現ファミリアの社長である岡崎忠彦さんに伺った。

長女と次男を幼くして亡くしたため、子どもの健康管理に神経質だった(岡崎社長)

・教養豊かで本物を見分ける目がある父を惇子はとても尊敬していた。

<戦後の絶望の中で見つけた希望>
・昭和15年(1940年)22歳になった惇子は、日本有数の海運会社で働く2歳年上の坂野通夫と恋愛結婚、専業主婦となった。神戸の高級住宅街である岡本に新居を構え、2年後には長女が誕生。平穏で幸せな日々を過ごしていた。
・しかし太平洋戦争が勃発。夫・通夫は海軍の嘱託としてインドネシア・ジャカルタへ派遣された。やがて神戸は大空襲に見舞われ、惇子は住み慣れた家を失った。そして敗戦。圧倒的な物資不足と恐ろしいまでのインフレで日本は大混乱となった。
・昭和21年(1946年)2月、政府は銀行預金の引き出しを制限するなど預金封鎖を断行。新円を発行したが1世帯当たり最低限の生活ができる額として引き出せたのは、1か月500円までだった。
・そんな中、さらに国民を苦しめたのが臨時に制定された財産法。10万円以上の資産に25%の税が課された。しかも税率は資産に応じて高くなるとあって、50万~60万の資産があった坂野家の税率は65%になった。岡山に暮らす姉のもとに身を寄せていた惇子は途方に暮れた。戦地に赴いた夫の安否も未だ分からないままだった。
・困り果てた惇子は京都にいた父・八十八を頼ることにした。するとそこで思わぬ人と再会した。7歳年上の幼馴染みである尾上清。彼は後にレナウンの会長になる人物で、日頃から惇子のことを「小嬢ちゃん」と呼び、妹のように可愛がっていた。しかしこのとき尾上は惇子に意外なことを言った。

「今までとは時代が違うのです。もう昔の小嬢ちゃんではいけません。これからは自分の力で生きていく一労働者におなりなさい」

・すると過保護だった父までも同調した。女性は家庭を守るものだと育てられてきた惇子にとって、まさに青天の霹靂だった。
・そんな中、音信不通だった夫から頼りが届いた。

すみれの花が咲く頃には帰れそうだ。

・そして、すみれの花の咲く4月に夫は戻ってきた。引き揚げてきた船の名前は菫丸(すみれまる)だった。実に2年半ぶりの再会だった。

<惇子が洋裁を選んだ理由とは>
・昭和21年(1946年)5月、惇子たち一家は尼崎の借家に移り住んだ。惇子28歳、家族3人の新しい生活が始まった。しかし預金封鎖は続いていて暮らしは厳しいままだった。
・少しでも家計の助けにと選んだ仕事が洋裁だった。彼女がそれを選んだのには理由があった。まずは得意だったということ。戦前の高等女学校では洋裁が主要科目の一つだった。さらに近所に住んでいたフランス人から人形づくりや刺繍を習いながら洋裁の専門学校にも通っていた。
・ささやかながら勝算もあった。戦後の物資不足の中にあって惇子の手許には大量の洋裁の材料があった。実は戦時中、惇子は持てるだけの荷物を持って軽井沢の別荘に疎開していた。その別荘が空襲を免れたため、荷物が残ったのだ。

戦後、何かを始めようと思ったときに毛糸や生地が残っていた。八十八さんの商売自体が海外のものを扱っていたので、自然と海外産の生地や糸がたくさんあった(岡崎社長)

・そして惇子が洋裁を仕事に選んだ一番の理由が、娘の面倒をみながら家ですることができると思ったからだ。こうして彼女は生活のため、近所の子どもたちの洋服をつくり自宅の一室で手芸教室を開講。どちらも好評だった。
・しかし肝心のお金が一銭も入ってこなかった。理由は惇子が資産家の令嬢だったこと。近所の人々はお金持ちの彼女に現金で支払うのは失礼だと考え、食料などを代金の代わりとして持ってきたのだ。彼女も現金がほしいとは言い出せなかった。

<惇子がベビーショップを始めたきっかけとは>
・洋服づくりや手芸教室を始めた惇子だが、生まれ育ちの良さが災いし現金収入を得ることができなかった。落胆した彼女は嫁入りの際につくってもらったハイヒールを手に神戸・三宮にあったモトヤ靴店を訪ねた。店主の元田蓮は、惇子の実家である佐々木家に出入りしていた靴職人。彼女のハイヒールも元田の手によるものだった。
・惇子はもはや物を売ってお金に変えるしかないと考えていた。しかし元田に説得され何も言えなくなってしまった彼女は、その場を取り繕うと思い、娘の写真を元田に見せた。するとスエードに小花の刺繍が施された惇子手作りの写真入れを元田は褒め、店の陳列ケースで販売するよう勧めた。
・店など出来るのだろうかと悩んだ惇子は女学校時代の親友である田村江つ子を訪ねた。神戸実業界の重鎮を父に持つ令嬢で二人の子どもを持つ母親。洋裁が得意で、さらに展覧会に入選するほど絵の才能があった。
・惇子が相談すると義理の姉にも相談すると言った。義姉・田村光子は惇子たちより11歳年上で4人の子どもがいた。裁縫が得意で、このとき既にブラウスを縫う仕事を始めていた。そして彼女も賛同してくれた。
・力強い仲間たちの協力は、また新たな一歩を踏み出す大きな勇気になった。夫・通夫も惇子の背中を押した。手芸の店を始めたいと伝えると快く賛成してくれた。

(通夫は)時代が変わったことを強く感じていた(岡崎社長)

・通夫は惇子にこんなアドバイスもくれた。

「単なる手芸品の店ではなく、覚えた育児法をもとに赤ちゃんや子どものための可愛いものを作って売ってみてはどうか」

・通夫が言う育児法とは西洋式の先進的なもの。新婚当時暮らしていた岡本には外国人も多く住んでいた。惇子はドイツで最新の育児法を学んだベビーナースの大ヶ瀬久子に教えを請い長女を育てていた。彼女はベビーナースのこんな言葉を思い出した。

「ドイツでは常に赤ちゃんの身に合ったサイズのものを着せますが、日本では常に大きめのものを着せる傾向があります。いつか欧米諸国のようにしたいものです」

・お母さんと赤ちゃんのための、より良い商品を作ろうと惇子の心は決まった。さっそく開店を準備、資金の21万円は三等分することに。
・しかし預金封鎖のため現金を集めるのが難しく、半分は戦前から蓄えていた外国製の高級生地や糸といった現物提供となった。
・そんな中、惇子は妹のように可愛がっていた4歳年下の村井ミヨ子にも声をかけた。彼女もまた惇子に負けず劣らずの令嬢で、手芸教室の生徒でもあった。和裁や油絵も学んでいたため、力になると考えた。
・これで創業メンバーの4人が揃った。年内の開店を目指す惇子たちは役割分担を決めた。惇子はミヨ子と一緒に縫い物を、光子が自宅で洋服類を仕上げ、江つ子は手芸や編み物を担当。すべて家庭との両立を考えてのことだった。
・こうして昭和23年(1948年)12月4日、神戸・三宮センター街に建つモトヤ靴店に僅か3坪、2台のショーケースだけのベビー用品店「ベビーショップ モトヤ」が開店した。このとき惇子30歳。

<店が大評判 驚きの利益とは>
・惇子ら4人が始めた店は大繁盛。広告など一切出していなかったにも関わらず、開店直後から次々とお客さんがやって来た。接客にあたった惇子とミヨ子は1日中大忙し。大卒の初任給が3000円ほどだった時代に1日で4万円近くも売り上げた。

今で言えば4人のママ友が始めたベンチャー企業。(子ども服の)良いものが(当時の日本に)無かった(岡崎社長)

・最高級の素材を惜しみなく使い、しかも丈夫で洗っても縮まず色落ちもしない。ベビーショップ モトヤの評判は瞬く間にクチコミで広まっていった。
・主に仕入れと販売を担当していた惇子はこれまで経験したことのない忙しさ。毎朝、娘を幼稚園に送ってその足で光子と江つ子の家に立ち寄り、出来上がった商品を受け取り店へ。接客をしながらも刺繍や編み物をしていた。家に帰ると夜の9時を回っていたという。
・そして開店から1か月が過ぎた昭和24年(1949年)正月。ようやく休みがとれた惇子たちは、これまでの決算をしてみることにした。生産が追いつかないほど売れたのだから、かなりの儲けになっているはず。しかし夫・通夫が計算してみると「儲けは毛糸2玉分しかない」。

材料費や人件費を考えず、買いやすい値段にしたため儲けが出なかった。見かねた夫たちが商売を一から教えた(岡崎社長)

<子ども服に起こした愛情あふれる革命>
・惇子たちにとって子ども服は大人の服の単なるミニサイズではなかった。子どもならではの動きを十分に考え、子どもの立場に立った商品を生み出していった。
・赤ちゃん用の肌着。一見するとごく普通だが縫い目が外側に。敏感な肌を刺激しないようにとタグや縫い目を外側にしたのだ。最初は「裏返しだ」と文句を言う人もいたというが、着心地の良さはすぐに分かってもらえた。
・眠る際に邪魔にならないように背中側には襟がない服。やんちゃな男の子のズボンは股の部分が破れやすいため、少しでも長くはけるようにと内側を二度縫いしている。
・またヘムシロと呼ばれる折り返しを十分に取っているのも特徴だ。これを伸ばすことで子どもの成長に合わせて長く着ることができる。
・素材が木綿の際は生地を水に長時間浸して天日でしっかり乾かし、アイロンをあててから裁断することで洗濯しても縮まないようにした。惇子たちはこうした手間を少しも惜しまず、一つ一つ手作りしていった。

自分たちの子どもをボディ代わりにして服を作っていたという(岡崎社長)

・着心地や動きやすさなど子どもたちの意見も採り入れながら試行錯誤を繰り返す日々。惇子たちの愛情いっぱいの商品はまさに「べっぴん」(=特別な品)となったのだ。
・夫たちに商売のイロハを教わったことで利益も上げられるようになった惇子たちは、戦後のベビーブームもあって順調に売上を伸ばしていった。
・そして創業から1年が過ぎた昭和24年(1949年)12月、惇子たちはモトヤ靴店を離れて独立。今までの5倍以上もの広さがある店舗を構えた。社名も「親しい」という意味を持つ「FAMILIAR(ファミリア)」と変更。
・売場面積が広がったことで商品の数も増え、惇子たちは今まで以上に商品づくりに追われるようになった。ミシンも増やし洋裁のできる女性を数人雇い入れたがそれでも間に合わず、納品に行く列車の中でボタン付けをすることもあったという。

<4人のさらなる商品開発への挑戦とは>
・独立した惇子たちだったが、当時はまだ材料を思いのままに仕入れることは出来なかった。そんな中、生まれたのが前と後ろを全く違う布でつくったベストや、パッチワークのようなワンピース、様々な色の残り糸を繋ぎ合わせて編んだセーターなど。どれも材料不足から生まれたものだが「斬新だ」と好評を得た。
・また惇子はそれまで肌着として見られていなかったTシャツをアウターにしようと考え、様々なイラストをプリントして売り出した。するとこれも大ヒット。今ではよく見るデザインTシャツだが、彼女のアイデアだった。
・そんな革新的なメーカーを大企業が見逃すはずはなかった。関西の大手百貨店(阪急百貨店)がテナントに入らないかと誘ってきた。たった4人の主婦たちによる創業僅か1年の小売店にとっては夢のような話。しかも特別に「百貨店特選」のラベルを付けていいというのだ。しかし「ファミリア」のロゴが入らないと聞いた惇子はこう言ったという。

「自分たちの作っている商品に他のネームを付けたくありません」

・それでは百貨店で販売出来ないと言われても頑として受け付けなかった。結局、百貨店側が折れて「百貨店名+ファミリア」を並べて表記することで決まった。商品に自信を持っていた惇子たちは、相手は誰であっても自分たちの主義を曲げることはなかった。
・さらに惇子には商売に対する思い切りもあった。34歳のとき名古屋へ出張した彼女は、たまたま立ち寄った高級洋食器メーカーが気に入り、独断で子ども用食器を発注。その数は何と2万個。
・それを後で聞かされた夫・通夫は烈火の如く怒ったが、惇子は食器の品質は確かで必ず売れると強気。実際、このとき作った子ども用食器は完売。ファミリアの定番商品となった。
・働いた経験などない深窓の令嬢たち。だからこそ商売の常識にとらわれず、良いものを子どもたちに届けたいという強い信念をどこまでも貫くことができた。
・ショーケース2つから始まった商売は引く手あまたの大人気に。今度は新宿にある大手百貨店から「子ども服展を開催してほしい」という依頼が舞い込んだ。しかし担当者から送られてきた計画書に納得がいかず、惇子はレポート用紙40枚にも及ぶ新たな計画書を書き、送り返したという。
・さらに会場の設営が始まると現地に赴き、納得がいくまで細かく注文をつけた。後に百貨店の社長になった当時の担当者は「猛烈を通り越して壮烈だった」と言ったという。

<4人の商品が皇室へ その結末とは>
・昭和34年(1959年)4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子さんがご結婚。その夏、美智子妃殿下のご懐妊が報じられた。
・すると惇子たちに嬉しい知らせが舞い込んだ。自分たちの商品が妃殿下のお子様のためのベビー用品の候補にあがったと。
・さっそく東宮御所に赴き、緊張の面持ちを待つ惇子。お見えになった美智子妃殿下に一つ一つ丁寧に商品を説明していった。自分たちの愛情がいっぱい詰まった、お母さんと赤ちゃんのための「べっぴん」を。
・後日、皇室からベビー用品80数点の注文がやって来た。品質の良さを認められた。その後、礼宮文仁親王や紀宮清子内親王ご誕生の際も惇子たちのベビー用品の注文があった。

・創業から10年、ショーケース僅か2つから始まった惇子たちのベビー用品店は、飛躍的な成長を遂げた。
・仕立てを担当していた田村光子は最新式の量産システムを導入することになっても、商品の品質が下がることのないよう厳格な商品チェックを怠らなかった。
・手芸部門を担当し殆どの商品の図案を描いていた田村江つ子は、どうすれば子どもがより可愛く見えるのか研究し続けた。
・販売と手編み商品を請け負っていた村井ミヨ子は若い社員たちに編み物の手ほどきをし、後進の育成に力を注いだ。
・そして坂野惇子は頻繁に海外のベビー用品会社を訪れ、日本にない商品や子ども服への新しい考え方を次々と取り入れていった。
・生きるため4人の主婦たちが始めた子ども服の店。そこに並ぶ商品は、たとえ店が大きくなっても一つ一つ丁寧に丹精込めて作られたものばかりだった。
・母と子のため、より良い商品を作る。創業時の誓いを胸に4人は常に現場の先頭に立ち、社員たちにその精神を徹底的に教え込んだという。中でも惇子は会議の際、こう社員たちに厳しい言葉を投げかけ、自ら商品開発の指導も行ったという。

「これがママにとって本当に良い商品なのかしら」

・お母さんから愛されるベビー用品のパイオニアとなった惇子は、80歳まで第一線に立ち続けた。「べっぴん」を守るため。

(2016/12/8視聴・2016/12/8記)

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【空から日本を見てみよう+】東海道新幹線 静岡~名古屋

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【空から日本を見てみよう+】
「東海道新幹線 静岡~名古屋」

(BSジャパン・2016/12/6放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

 6月に放映された東海道新幹線の沿線シリーズ(→東海道新幹線 東京~静岡)。今回はその続きという感じで静岡~名古屋まででした。新幹線で何度も通ったことがありますが車窓をじっくりと眺めることもあまりないため、印象に残っているのは「セロテープ」の広告(愛知県安城市)ぐらいでした。

 その安城市出身のアイドル「りこぴん」とくもじいのデート(?)は、なかなか面白かったですね。というか、くもじい(ぬいぐるみ)の鼻の下が伸びていたように見えたのは気のせいでしょうか(笑)

 ちなみに今回初めて知ったことは静岡県の市町村で人口・面積ともに1位なのは県庁所在地の静岡市ではなく浜松市だということ。面積はともかく人口は県庁所在地市が殆ど1位なのかと思いきや、全国的には意外と多いようです。私の調査によると次の5県が当てはまるそうです。

・静岡県:静岡市<浜松市
・山口県:山口市<下関市
・福島県:福島市<いわき市<郡山市
・群馬県:前橋市<高崎市
・三重県:津市<四日市市

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

<静岡県静岡市周辺>
・人口:702,258人(県2位)面積:1411.90平方キロメートル(県2位)(2016年9月1日現在)
・都道府県庁所在地としては日本最大の面積。
・静岡駅を出てすぐ安倍川を越えて左にカーブする約20秒間、海側から富士山が見える。
・日本坂トンネル。「弾丸列車計画」東京・北京を49時間10分で結ぶ大鉄道網敷設の計画。トンネルは1944年に完成。東海道本線用に1962年まで使用された。1964年以降は東海道新幹線のトンネルとして使用されている。
・宇津谷隧道(明治のトンネル)宇津ノ谷峠の交通を円滑にするため明治9年に完成。
・宇津谷隧道(大正のトンネル)大正9年計画、昭和5年完成。
・新宇津之谷隧道(昭和のトンネル)昭和34年完成。
・平成宇津ノ谷トンネル(平成のトンネル)平成7年完成。
・大崩海岸沿いの旧道。1971年に発生した崖崩れで通行不能に。代わりに海上にはみ出した道が作られた。

<静岡県焼津市周辺>
・人口:138,760人(県7位)面積:70.31平方キロメートル(県28位)(2016年9月1日現在)
・方言で「あなた」を「おまた」、「めだか」を「ちんちんこめ」と言う。
・深海ザメ(サガミザメ)はお寿司でも食べられる。
・駿南鐵工。クランクシャフト(エンジンの部品、ピストンの往復運動を回転運動に変えるための軸)を製造している。
・田中城跡。4つの曲輪と4つの堀が同心円状に配置され亀城とも呼ばれていた。

<静岡県藤枝市周辺>
・人口:143,760人(県6位)面積:194.06平方キロメートル(県10位)(2016年9月1日現在)
・藤枝市陶芸センターで12月10日に婚活イベント「陶芸コン」を開催予定。
・牧之原大茶園。

<静岡県島田市周辺>
・人口:97,651人(県11位)面積:315.70平方キロメートル(県6位)(2016年9月1日現在)
・世界一長い木造歩道橋「蓬莱橋」がある(橋脚の一部はコンクリート製)。
・島田髷。島田市出身の遊女・虎御前が考案した髪型。基本形は髷を3つに折り畳んで締めたかたち。
・島田髷まつり。揃いの浴衣を着た髷娘が手踊りをしながら市内を歩く。
・虎御前の菩提寺である鵜田寺で髷供養感謝祭が行われる。

<静岡県牧之原市周辺>
・人口:45,089人(県19位)面積:111.69平方キロメートル(県17位)(2016年9月1日現在)
・賄賂政治で知られる田沼意次にちなんだ「ワイロ最中」が名物。

<静岡県菊川市周辺>
・人口:46,996人(県18位)面積:94.19平方キロメートル(県24位)(2016年9月1日現在)
・永寶寺には境内から対岸の約100mを結ぶ人力ロープウェイ「野猿」がある。
・ヤマハリゾートつま恋。1974年オープン。ヤマハが運営する滞在型リゾート施設。優勝者にはレコードデビューと世界歌謡祭の出場資格が約束されたポピュラーソング・コンテストが行われた。2016年12月25日をもって一般営業を終了予定。

<静岡県掛川市周辺>
・人口:114,966人(県9位)面積:265.69平方キロメートル(県7位)(2016年9月1日現在)
・掛川東高校は掛川西高校より西にある。
・掛川城。幕末の大地震により大半が損壊。1994年に木造で再建。
・ヤマハ掛川工場。1887年、山葉寅楠が日本初のオルガン製造に成功。1897年、ヤマハの前身である日本楽器製造を設立。1900年、アップライトピアノを製造。現在では100種類以上の楽器を製造する世界最大の楽器メーカー。

<静岡県袋井市周辺>
・人口:86,051人(県13位)面積:108.33平方キロメートル(県19位)(2016年9月1日現在)
・1本の木に1つだけ実らせ、全栄養を注ぎ込むクラウンメロンが特産。
・ヤマハ発動機コミュニケーションプラザ。ヤマハ発動機の二輪車売上高は1兆326億円で世界第2位(2015年)。1955年、モーターサイクル第1号機「YA-1」が完成。レースは製品をアピールできる場であり成績が販売に直結した。第3回富士登山レースで優勝、10位までに7台が入賞した。

<静岡県磐田市周辺>
・人口:166,861人(県5位)面積:163.45平方キロメートル(県12位)(2016年9月1日現在)
・Jリーグのジュビロ磐田の本拠地だが卓球の水谷隼の出身地でもある。

<静岡県浜松市周辺>
・人口:797,186人(県1位)面積:1,558.06平方キロメートル(県1位)(2016年9月1日現在)
・面積は岐阜県の高山市に次いで全国で2番目の広さ。
・浜松餃子。2015年の1世帯当たりの餃子支出金額が浜松市が1位(宇都宮市は2位)。円形焼きに茹でたもやしを添えるのが王道。
・うなぎパイファクトリー。キャッチフレーズの「夜のお菓子」は夜に家族団らんのひと時に食べてほしいというところから付けられた。「精力増強」という誤解を逆手に取り、赤と黒と黄色を基調としたパッケージに変更。
・JR東海浜松工場。JR東海が所有する全ての新幹線車両の全般検査を行っている。
・服部中村養鼈場のスッポン養殖場。浜松はスッポンの生産量1位。
・弁天島。1889年に海水浴場開場以来、観光・保養地として開発が始まる。その後、旅館が続々開業。1932年には新たに4つのエリアが完成。1967年、渚園が完成し現在の形に。
・弁天島観光シンボルタワー。1973年、観光の新たな起爆剤として建設された。

<静岡県湖西市周辺>
・人口:59,245人(県15位)面積:86.56平方キロメートル(県25位)(2016年9月1日現在)
・ブーケなどに使用される花「こでまり」の生産量日本一。

<愛知県豊橋市周辺>
・人口:374,590人(県5位)面積:261.86平方キロメートル(県5位)(2016年9月1日現在)
・新幹線の駅は高架駅が多いが豊橋駅は地上駅。
・カゴメ小坂井工場では国内のトマトケチャップの約6割を製造(金額シェア・2015年9月~2016年8月)。

<愛知県豊川市周辺>
・人口:182,960人(県8位)面積:161.14平方キロメートル(県8位)(2016年9月1日現在)
・いなり寿司でまちおこし中。

<愛知県蒲郡市周辺>
・人口:80,704人(県23位)面積:56.89平方キロメートル(県17位)(2016年9月1日現在)
・繊維ロープの生産量日本一。
・ラグーナテンボス。海をテーマにしたテーマパーク。
・蒲郡みかんの野立て看板。

<愛知県幸田町周辺>
・人口:40,335人(県42位)面積:56.72平方キロメートル(県18位)(2016年9月1日現在)
・筆柿の生産量が全国の95%を占める。
・コンベヤーを製造しているセントラルコンベヤー。

<愛知県西尾市周辺>
・人口:168,769人(県9位)面積:161.22平方キロメートル(県7位)(2016年9月1日現在)
・全国有数のてん茶(抹茶の原料)の生産地。

<愛知県岡崎市周辺>
・人口:383,273人(県3位)面積:387.20平方キロメートル(県3位)(2016年9月1日現在)
・市制100周年記念事業として「出張!なんでも鑑定団in岡崎」の公開収録を実施。

<愛知県安城市周辺>
・人口:185,338人(県7位)面積:86.05平方キロメートル(県12位)(2016年9月1日現在)
・デンパークはサザエさんのオープニングに登場したことがある。
・女子高生ミスコン初代グランプリの永井理子さん(通称「りこぴん」)は安城市出身。
・りこぴんオススメスポット(1)堀内公園。無料の遊具や50円~100円の遊具が多数存在。
・りこぴんオススメスポット(2)マンジャパスタ安城店。イタリア直輸入の窯で焼いたピザやパスタが魅力。
・りこぴんオススメスポット(3)玉屋。駄菓子屋さん。
・ラーメンの大岩亭。鳥のコラーゲンのとろみと豚の骨髄を合わせて煮込んだスープ。
・ニチバン安城工場。セロハン粘着テープ「セロテープ」を主に製造。

<愛知県知立市周辺>
・人口:70,658人(県26位)面積:16.31平方キロメートル(県44位)(2016年9月1日現在)
・東海道39番目の宿場町である池鯉鮒宿として繁栄した。

<愛知県刈谷市周辺>
・人口:150,656人(県10位)面積:50.39平方キロメートル(県20位)(2016年9月1日現在)
・市制65周年記念事業としてアニメ「ひかり~刈谷をつなぐ物語~」を制作。

<愛知県大府市周辺>
・人口:90,417人(県17位)面積:33.66平方キロメートル(県29位)(2016年9月1日現在)
・畑のウナギと言われるほど栄養価の高い「木の山の芋」が特産。
・至学館大学。レスリングの強豪で有名。リオ五輪の金メダリスト(土性沙羅選手、川井梨紗子選手、登坂絵莉選手)も部員。

<愛知県名古屋市周辺>
・人口:2,304,546人(県1位)面積:326.44平方キロメートル(県2位)(2016年9月1日現在)
・第6回なごやめし博覧会2016の参加店舗は279店。
・(新幹線の)線路ギリギリハウスがある。
・貨物線 白鳥線跡。
・白鳥貯木場。かつての名古屋の木材取引の中心地。400年近い歴史を誇っていた。1959年の伊勢湾台風の流出した木材が甚大な被害をもたらしたことで名古屋市外へ移転した。

(2016/12/8視聴・2016/12/8記)

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【ドキュメント72時間】選 どしゃ降りのガソリンスタンドで

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【ドキュメント72時間】
「選 どしゃ降りのガソリンスタンドで」

(NHK総合・2016/12/9放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 2014年7月25日に放送された回のリバイバル放送。2年前に観た覚えがなかったので、なかなか興味深い再放送でした。

 子どもを施設に預けざるを得ない男性、子ども4人のためダブルワークで頑張るお父さん、交通事故で障害を負った夫を支えている女性、妻が急逝して父子家庭になったという男性、そしてシングルマザーの女性は亡くなった姉の2人の娘も一緒に育てているという。さりげなく波瀾万丈の人生を語る人たちが続き、何だかボディーブローのように効いてきました。

 そして何だかほっこりしたのは竹とんぼを作って各地のフリーマーケットで売っているという男性。2年以上経った今でもまだなさっているのかな。ぜひフリマ会場でお会いしてみたいです。


<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・いつ止むとも知れない雨、そして雨。それでも車を走らせなきゃいけない人が立ち寄る場所。24時間営業のガソリンスタンド。梅雨空の下、みんなどこから来てどこに向かうのだろう。

・6月6日(金)12時。この日は朝から記録的な豪雨。
・さすがに今日は早めに帰宅する人が多いみたい。
・スタンドの場所は神奈川県郊外のベッドタウン(相模原市)。周りには工場や倉庫も多いらしい。
・14時35分。もう30年、大型車で全国を走り回ってきたベテランドライバーの48歳男性。この車で向かうのは子どものところだというけれど。5年前に離婚。仕事柄、長く家を空けることが多いため悩んだ末、児童養護施設に預けることに決めたという。
・雨は降り続く。それでも車を走らせる理由がある。
・結婚式の打ち合わせのため横浜へ行くという女性。
・週末、恋人に会うために都内へ行く男性。今年2月に7年ローンで購入した自慢の車。
・19時30分。年配の男性が一人。これから河口湖へ行くという。明日、朝一番でフリーマーケットに参加するためだという。出品するのは手作りの物らしい。自慢の竹とんぼ。きっかけは4年前、ずっと経営していた小さな電器屋が大型店の進出で立ち行かなくなった。まだ家族を養っているので、年金だけでは厳しいという。
・3時40分。数年前から始めたクラブの仕事を終え、自宅に帰る途中という男性。昼間はプロパンガスの交換を請負でやっているという。ガスの仕事だけでは厳しいご時世らしい。それでも頑張らないといけない理由がある。子どもが4人いるという。

・6月7日(土)雨が止む気配はない。給油所で話を聞いていると、隣から変な音が…エンジンが掛からない。これからAKBの総選挙に行くという男性。20分後、ようやくエンジンが掛かった。雨もエンストも乗り越えて、愛しい人のもとへ。
・午後、県外ナンバーの車が目立ち始めた。浜松ナンバーの女性。夫が交通事故で高次脳機能障害が残っていて、その家族同士の集まりがあるので大雨の中、運転してきたらしい。事故は6年前。見た目では分からないけど、記憶力や言葉に影響する複雑な障害が残った。以前のようには働けないので、今は奥さんがパートに出て家計を支えている。隣に家族がいる。だから長いドライブも乗り越えられる。
・20時。昨日、フリーマーケットで竹とんぼを売りに行くと言っていたおじさん。売上は3千円くらいだったという。奥さんも一緒に乗っていた。もう一人、4歳になるお孫さん。シングルマザーの娘さんが土日も働いているため、週末はいつも預っている。3人で各地のフリーマーケット会場を回る生活をもう何年も続けている。
・22時12分。作業着姿の人がやって来た。これから仕事だという男性。害虫駆除の業界で働いてもう20年という。最近、思い切って長年勤めた会社から独立したばかりだそう。10年前に妻がくも膜下で他界したという。あまりに突然の別れ。当時6歳の一人息子にも変化が現れたという。いじめが激しくなり小学校に通わなくなった。独立したのは子どもと接する時間を増やしたいというのもあったという。

・6月8日(日)8時。ようやく雨が止んだ。高校生になる娘さんのハンドボールの試合を見に行くという45歳女性。一人娘が2歳のときに離婚。その直後、さらに思いも寄らぬ出来事が相次いだという。同時期に離婚した姉が心の病気になって、2人の子どもを残して他界。彼女は働きながら自分の子と合わせ3人を育ててきた。そして今、それぞれが思春期を迎えている。雨が上がった町。彼女は大切な人のもとへ車を走らせる。
・雨上がりのガソリンスタンドは、いつもの表情を取り戻す。単身赴任中の男性。
・若者の姿も目立つように。

・6月9日(月)最後に出会ったのは建設業の男性。

(2016/12/10視聴・2016/12/10記)

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【BS時代劇】子連れ信兵衛2・第5話「まことの親子」

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【BS時代劇】子連れ信兵衛2・第5話
「まことの親子」

(NHK・BSプレミアム・2016/12/9放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kozure2/

<感想>

 高橋克典と櫻井淳子の共演といえば「特命係長・只野仁」ですね。今回は鶴之助の伯母役でロマンスはありませんでしたが、なかなかの好演でしたね。

 しかし茶屋を使って人身売買をする外道っぷり。引っ掛かる男たちも馬鹿者ですが、とんでもない極悪人たちめ。信兵衛が激怒するのも理解できます。そこまで外道でなくても女の子を使って握手券とかやっているのが何処かにいますね。その上前をはねて荒稼ぎしている連中には、ぜひとも信兵衛に成敗してもらいたいですね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・信兵衛(高橋克典)のもとに鶴之助(伊東瑛進)の伯母と名乗る猪熊川里緒(櫻井淳子)が訪ねてくる。
・里緒は猪熊川家の跡取りとして、鶴之助を養子に迎えたいという。
・信兵衛は鶴之助を自分の手許で育てたいという思いと、立派な武家の跡取りになってほしいという思いもあり複雑な心境だった。
・一方、おぶん(小島梨里杏)と美玖(黒谷友香)は水茶屋で偶然、猪熊川の名を耳にする。気になって茶くみの娘のおすず(河内美里)の後を付けると、昼間から猪熊川久右衛門(羽場裕一)と逢引きしていたというのだ。
・気になった信兵衛は猪熊川のもとに行くと、里緒は久右衛門が水茶屋の娘に入れ上げていることを知っていた。
・水茶屋は周りの男たちの評判になっていた。主の喜助(おかやまはじめ)はやり手で、器量のよい娘を集めて金儲けをしているようだった。
・そんなある日、ふとしたことから信兵衛たちは久右衛門から話を聞くことができた。おすずは若い頃に思いを寄せた女の娘だった。茶屋の喜助は茶を運ぶだけだからと娘たちを拐かし、密かに身売りをさせていたのだ。
・久右衛門はおすずを助けに行くが、喜助たちに取り囲まれてしまう。そこに現れた信兵衛はゴロツキたちを成敗する。
・ところが喜助はおすずは自分の本当の娘だからどう扱おうと自由だと言い放ち、信兵衛は激怒する。
・奉行所が喜助たちを捕らえ、おすずは自由の身になったが久右衛門はおすずは自分の娘だと言う。
・信兵衛は里緒に、鶴之助の養子の件は無かったことにしてほしいと頼む。そして、おすずは正式に猪熊川家の娘となった。

(2016/12/11視聴・2016/12/11記)

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【大河ドラマ】真田丸・第49話「前夜」

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【大河ドラマ】真田丸・第49話
「前夜」

(NHK総合・2016/12/11放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 長いもので「真田丸」も残すところ2話。いよいよ大坂夏の陣に突入。そして個性溢れるキャラクターが次々と倒れていきます。

 後藤又兵衛。哀川翔さんの文字通り“熱演”でしたね。長宗我部盛親を演じた阿南健治さんは三谷幸喜さんの作品ではお馴染みの俳優さんだということを初めて知りました。これからはチェックして観てみたいと思います。

 そして来週は最終回。幸村の馬上筒が火を噴き、弾丸が大御所の胸を貫きます。有働由美子アナウンサーの重厚溢れるナレーションで内野聖陽さん演じる徳川家康が「ナレ死」。幸村を先頭に、苦難を共にしてきた面々の力強い勝どきがあがります。

 …なんて夢見たっていいじゃないですか。1週間ぐらい。歴史がどうだったのか、小学生のときから知っていますよ。ドラマですから史実に逆らっても「この番組はフィクションです」とテロップ入れればいいのですから。視聴者から苦情が来るよりも「グッジョブ!」という声の方が多いですから。

 まあ、そうもいかないことも分かっています。それでも観ます。「日の本一の兵」に1年間の感謝の気持ちを込めて、来週の夜8時。旅行先の旅館のテレビで観る予定となりますが、傍らにハンカチ置いて視聴します(今から涙気味)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・大坂城内では、和平派と主戦派の対立が激しさを増す。そんな中で、信繁は打倒徳川の策を巡らす。最終決戦は刻々と近づいていた。

・真田信之(大泉洋)は大坂に赴き、真田幸村(堺雅人)を説き伏せると言う。稲(吉田羊)、こう(長野里美)は心配するが信之を送り出すことにした。
・一方、大坂城で軍議が開かれ、徳川勢を迎え討つ準備が進められた。
・4月29日、大野治房勢と徳川方の浅野勢が衝突。大坂夏の陣が始まった。
・5月1日、後藤又兵衛(哀川翔)と明石全登(小林顕作)は平野へ兵を進めた。
・本多正信(近藤正臣)の助言により徳川方は後藤に調略を仕掛ける。後藤は反発したが撹乱するために噂を流された。
・信之と信尹(栗原英雄)は密かに幸村に会うことができた。信之たちは説得するが幸村の決意は変わらなかった。
・5月5日、徳川軍は二手に分かれ河内平野を目指した。
・伊達政宗(長谷川朝晴)率いる3万5000が後藤又兵衛らが守る道明寺へ向けて、そして徳川家康(内野聖陽)率いる本隊13万が木村重成(白石隼也)らが守る若江、八尾方面に迫っている。
・夜明けとともに先手を打って攻め込んだ後藤隊であったが、やがて伊達政宗を主力とする徳川軍の猛反撃に遭い、後藤又兵衛は討ち死にした。
・一方、若江・八尾方面にいた木村重成、長宗我部盛親(阿南健治)は後藤隊の敗走を知らずに撤退せず、敵の猛攻を受けた。
・道明寺を崩した徳川勢は、勢いに乗って後詰めの幸村たちに襲いかかった。
・真田と毛利の軍は伊達軍と激闘を繰り広げると、軍勢を反転させ城へ向かう。
・城に戻った幸村は佐助(藤井隆)を通して、伊達政宗に春(松岡茉優)の庇護を依頼し快諾を得る。
・信繁の娘・梅はその後、政宗の重臣・片倉景綱(ヨシダ朝)の息子のもとへ嫁ぐことになる。
・幸村はきり(長澤まさみ)に千姫(永野芽郁)を徳川勢に送り届けるよう頼む。高梨内記(中原丈雄)の娘に関しては様々な言い伝えがある。真田信繁の側室であったとも、彼の子どもを宿したとも。真偽はともかく一つだけ確かなのは、信繁に関わった女性たちの中で、最も長く傍にいたのは彼女だということである。

<真田丸紀行>
・大阪府藤井寺市。かつて道明寺村と呼ばれたこの場所が大坂夏の陣の激戦地となった。
・しかし豊臣方の奮闘もむなしく、後藤又兵衛は柏原市で壮絶な最期を遂げた。
・後方に布陣していた真田信繁は、徳川方の伊達政宗と対峙。結果、退却を余儀なくされる。
・大阪市にある志紀長吉神社。信繁は退却する際、戦勝祈願のためここに軍旗を奉納したと伝わる。
・大坂方の劣勢が続く中、信繁に起死回生の一手が期待されていた。

※道明寺天満宮(近鉄「道明寺」下車すぐ)
※志紀長吉神社(市営地下鉄「長原」下車 徒歩5分)
※後藤又兵衛基次之碑(近鉄「河内国分」下車 徒歩20分)
※道明寺合戦記念碑
※大坂夏の陣 両軍戦死者供養塔

(2016/12/11視聴・2016/12/11記)

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※関連ページ
第48話「引鉄」
第47話「反撃」
第46話「砲弾」
第45話「完封」
第44話「築城」
第43話「軍議」
第42話「味方」
第41話「入城」
第40話「幸村」
第39話「歳月」
第38話「昌幸」
第37話「信之」
第36話「勝負」
第35話「犬伏」
第34話「挙兵」
第33話「動乱」
第32話「応酬」
第31話「終焉」
第30話「黄昏」
第29話「異変」
第28話「受難」
第27話「不信」
第26話「瓜売」
第25話「別離」
第24話「滅亡」
第23話「攻略」
第22話「裁定」
第21話「戦端」
第20話「前兆」
第19話「恋路」
第18話「上洛」
第17話「再会」
第16話「表裏」
第15話「秀吉」
第14話「大坂」
第13話「決戦」
第12話「人質」
第11話「祝言」
第10話「妙手」
第9話「駆引」
第8話「調略」
第7話「奪回」
第6話「迷走」
第5話「窮地」
第4話「挑戦」
第3話「策略」
第2話「決断」
第1話「船出」

※真田ゆかりの地関連
【ブラタモリ】#54 大坂城・真田丸スペシャル~大坂城はなぜ難攻不落?~
【ブラタモリ】#31 真田丸スペシャル・沼田~真田は沼田でどんな城下町をつくった?~

※関連ページ(真田一族関連)
【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の最期
【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の半生
【歴史秘話ヒストリア】徹底解明!これが“真田丸”だ
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 前篇
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 後篇

【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】そして田中角栄は首相になった~44年目の証言~

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「そして田中角栄は首相になった~44年目の証言~」

(NHK・BSプレミアム・2016/12/7放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 前回の「アナザーストーリーズ」から何作か放送はありましたが、あらためてじっくり視聴するのは今回のが久しぶりになりますね。まあそれまでの分の感想は割愛ということで…。

 ということで、今回はいいも悪いも戦後を代表すると言ってもいい政治家・田中角栄氏を巡るアナザーストーリーズ。「角福戦争」と言われた自民党総裁選の裏側や強大な後援会組織がどうやって出来たのか、またそもそも彼が政治家になるきっかけとなった終戦前後の出来事など、なかなか興味深い内容だったと思います。

 なお、一つだけ解せないのは田中角栄氏が今「再評価されている」とナレーションで言っていたこと。以前放送されたNHKスペシャルでも同じことを言っていましたが、全くもって実感がないんですね。書店で彼に関する書籍のコーナーがあるとか、他の番組が連日のように放送されているわけでもないし…ちょっとNHKが意図的に言っているきらいがある気がします。

 ちなみに私自身の田中角栄氏に対する評価は功罪ともにあり、「功」より「罪」の方が大きいと思っています。それはロッキード事件に代表される政治を金で歪めることは、どんな理由があっても肯定できないということ。それと彼が筋金入りの原発推進論者で、立地自治体を補助金漬けにする仕組みを構築した張本人だということ等々です。その辺りはNスペの感想で詳しく書きましたので、こちらもご覧いただければと思います。

【NHKスペシャル】未解決事件 File.05 ロッキード事件 第1部 実録ドラマ(前編)
【NHKスペシャル】未解決事件 File.05 ロッキード事件 第2部 実録ドラマ(後編)
【NHKスペシャル】未解決事件 File.05 ロッキード事件 第3部 日米の巨大な闇 40年目のスクープ

 ところで実は私事ですが、今週末に田中角栄氏が誘致に際して大変力を尽くしたと言われている上越新幹線に乗車する予定があります。時間があれば浦佐駅で途中下車して駅前の田中角栄像を眺めてみようかと思いましたが、残念ながら浦佐駅は停車もせず通過の予定。この駅の設置にも彼の力が大変あったと聞いていますが、新幹線が全部停車せず通過してしまうというのも(単なる偶然なのかもしれませんが)何だか田中氏の影響力はもう過去のもののように感じてしまいます。

 またロッキード事件のときには連日のように中継で映された目白の「田中御殿」。ご本人が没した今でもまだ残っているのかと思いきや、その邸宅の大部分は角栄氏の遺産相続時に物納され、土地を文京区が取得して運動公園になっているそうです。これまた栄枯盛衰というか何というか…。

 それと余談が多くなって恐縮ですが、最後にもう一つだけ。東京・神楽坂に午前と午後で一方通行が逆転するという珍しい道路があります。その理由が田中氏が目白の私邸と国会、そして神楽坂に当時いた“大事な人”の許へ通う利便性のためにそうなったという「説」があります。何だか凄い話ですが、実はこれは「都市伝説」の類。それだけ噂話に絶えなかった人物だということで(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

皆さん、親が、親たちが我々のために汗を流してくれたように、我々も子どものためにもう一汗を流そうという考えのもとに初めて理想的な日本が築き上げられるのであります(演説する田中角栄)

・田中角栄は、なぜ人の心を捉えるのか。今年だけで約50冊も彼に関する書籍が出版されたという。そしてNHKの世論調査では「戦後の日本を象徴する人物」の第1位に選ばれた。2位以下を倍以上引き離してダントツだった。
・世を去って20年以上経つのに、今も圧倒的な存在感。今なぜ角栄はこれほどのブームを引き起こしたのだろうか?
・田中角栄は何もかもが異例だった。最終学歴は高等小学校卒業。その演説は人の心を惹きつけた。
・方針はいつも明快。大蔵大臣になって最初の挨拶は「私が田中角栄だ。高等小学校卒業である。できることはやる。できないことはやらない。だが全ての責任は私が背負う」。一気に官僚をとりこにした。
・会った人の名前は瞬時に覚えた。それでも、たまに忘れると「君、名前はなんだっけ?…名字は知っとる。下の名前だよ」と。ごまかし方も芸になっていた。
・天才的な人心掌握術で権力の頂点を極めた男。その実像をライバル、後援会、番記者、3つの視点から紐解いていく。
・後にロッキード事件で有罪となったにも関わらず、未だに人の心を惹きつける田中角栄。その運命の分岐点は1972年7月5日12時45分。自民党総裁選に勝利し事実上、総理大臣の座を射止めた瞬間だ。

<視点1 ライバルの側近 敵陣営から見た「角福戦争」>
・1972年(昭和47年)、にわかに政局が騒がしくなっていた。7年にわたって政権を維持した佐藤栄作が首相を退く意向を示し、後継争いが始まった。
・この戦い、角栄は決して本命ではなかった。最有力と目されていたのは、角栄より13歳も年上の福田赳夫。東大卒、大蔵官僚出身、エリート中のエリートだった。そこに高等小学校出の角栄が仕掛けたいわゆる「角福戦争」は、史上最も熾烈な総裁選と呼ばれることになる。
・その内幕を知る者が北海道にいる。福田赳夫の元秘書・佐藤静雄(75)。

(二人は)全く違った、タイプが違ったから“角福戦争”のような日本の政治史であれほどの戦いをして総裁を選ぶということはもうない(佐藤静雄氏)

・佐藤は学生時代から福田に仕え、あの総裁選を秘書として戦った。

(福田の印象は?)
怖かったですよ。目は鋭いしね、官僚出身だけに非常に切れ者という感じがしました。日本刀で斬るような感じです。みんな福田先生の前に初めて行くと起立して、立っていられないような緊張をしていました(同上)

(角栄の印象は?)
最初見たときね、背が小さいのでびっくりした。ところがね、背は小さいけども何かこう…何かをやりそうだっていう感じしましたね。脂ぎって。よく、やる気満々のような人間いるじゃないですか。ましてや下から上がってったという。そういうことはみんな知ってましたからね。政治のプロは福田赳夫(を推した)。(角栄は)庶民的な人、庶民の仲間って感じでしょうか。自分たちのために何かやってくれるという感じでしょう(同上)

・佐藤栄作は福田に総理を譲るつもりだったと言われる。福田自身、後継者は自分と自負していた。
・だが総裁選2か月前、角栄が突如、佐藤派81人を引き連れ自らの派閥「田中派」を旗揚げした。

新しい時代には新しい政治が必要であります。私は国民の皆様と一緒に考え、熟慮し、断行いたします(記者会見する田中角栄)

どんどん佐藤派の乗っ取りが始まった。ついに田中派を作っちゃった。危ないなと思った(佐藤静雄氏)

・学歴はないが政治家としての実力はライバルには脅威だった。それを示す一つが議員立法の数。自ら提出し成立させた法案は生涯で40。これは歴代の議員の中でも屈指の数だ。
・初めて大臣になったのは39歳のとき(1957年・岸改造内閣で郵政大臣)。当時でも異例の若さだった。だが若くても実行力は抜きん出ていた。当時テレビ放送開始に向けて建設中だった東京タワー。その工事が建築基準法の高さ制限に引っ掛かり中断していた。担当大臣の角栄は即座に言い放つ。

建築基準法を立案したのは私だ。東京タワーは建物ではなく、広告塔の類い。法律の適用外だ。

・この一言で工事再開、東京タワーは完成する。
・さらに申請が殺到し混乱を極めていたテレビ局の開設問題。角栄は官僚の反対を一蹴し、一気に免許を交付。テレビ時代の幕を開けた。その力を慕い、目白の自宅には陳情客が殺到した。
・そうした実績を引っ提げ、54歳で遂に挑んだのが自民党総裁選だった。出馬したのは角栄、福田に加え、大平、三木。この4人で自民党内合計476人の票を争う。
・当初は福田優勢。だが風向きが変わり始める。当時番記者だった元時事通信の増山榮太郎は、あの総裁選の独特の空気を覚えている。

あの時の勢い、田中に勢いがあった。例えば田中が総裁選直前にこの本出すでしょ。「日本列島改造論」。この本がね、とにかくねベストセラーだったわけね。今までの総理大臣は池田勇人でも佐藤栄作でも、大学出て官僚とかになってから政治家になっていた。田中みたいに大学も出てないで、しかも中学も行ってないような、尋常高等科しか出ないような男がこう手挙げて出ていくというのはね、やっぱり当時としては驚きと同時に期待感があった。世の中を相当動かしてくれるんじゃないか(増山氏)

・総裁選前日、それぞれの陣営は最後の票固めに入った。福田の秘書・佐藤は投票の約束を取り付けた党員をホテルに囲い、万全を期した。

各都道府県から一人(投票権を持つ)代表が来る。各派閥の国会議員が(その党員を)必ず連れて来ようと努力する。自分の選挙区、県から。「福田赳夫に入れるようにしよう」って運動する。総裁選の前の日に(党員たちに)ホテルに泊まってもらう。ホテルに缶詰めにするんですよ(佐藤静雄氏)

・佐藤が国会近くのホテルに囲った党員は20名ほど。一方、田中派も向かいのホテルに党員を囲う。佐藤は勝機はあると踏んでいた。だが勝負の朝、事件が起きた。投票を約束した党員たちがごっそり消えていた。

朝起きたら、うちの方の人はもう何にも残ってないんです。みんな向こう(田中派)に行っちゃった。そのとき一人1000万ずつ渡されたんじゃないかっていう噂。「金をやらないからそうなっちゃったんだ」って言われました。いろんな人に。僕ら秘書に言うってことは「福田先生にそういうこと言いなさい」ってこと(同上)

・総裁選を取材していた増山もこう証言する。

田中の選挙事務所から(総裁選の)前の晩にトランクを持って運び出す人がいた、何人か。その行き先が三木派のところであったり、中曽根のところに行ったり、相手は福田だから。億という金がトランクの中に入っていたと思う。僕は見たわけじゃない。うち(時事通信)の記者には見たやつもいる。トランクで金を運んだと、前の晩。札束ぎっしり入れて(増山氏)

・このトランクについて残念ながら今回、直接の目撃証言は得られていない。
・そしていよいよ投票。田中156票、福田150票、大平101票、三木69票。1回目の投票は角栄が福田を6票リード。
・その後、2人で争う決選投票で衝撃が待っていた。田中282票、福田190票。角栄は100票近い差で圧勝した。
・秘書の佐藤は、福田の胸の内をこう代弁する。

相当腹立たしかったでしょう。「金を使わない総裁選挙をやろう」「派閥の力をぶつけ合うのはやめよう」と言ってきたのが(角栄は)まともにやってきたわけですから。金の力と派閥の力でやってきた。(福田の)理想とは相当かけ離れていた(佐藤静雄氏)

・2日後、角栄は第64代内閣総理大臣に就任した。そして僅か3か月足らず、偉業を成し遂げる。

日中問題というのはね、時が来ているという感じです。時が来た(記者会見する田中角栄)

・国交が途絶えていた中国を訪問。難航した交渉をまとめ上げ、国交を回復させた。
・さらに「列島改造論」を掲げて、全国の交通網などインフラ整備を推し進めた。
・あの総裁選から44年。敵陣営にいた佐藤の目に角栄はどう映ったのか。

好きです。好きだったですよ。角栄さんというのは、金ばかりじゃなくて人間的な魅力があって、その上に金がかぶさっていったわけですから。魅力と金が合わさったんだから、そりゃ強いですよ(佐藤静雄氏)

・そしてもう一つ、意外な事実を明かした。

田中角栄さんが総理大臣になったときに「今太閤」って。これは福田先生が言った言葉なんですよ(同上)
(皮肉ですか?)
いや、皮肉じゃなくて好きだったんだと思います。田中角栄の魅力は福田先生も認めていました。人間的な魅力、みんなに好かれる魅力。自分にないものですから(同上)

・敵すらも魅了する愛嬌と剛腕で角栄は頂点に上り詰めたのだ。

<視点2 角栄を支えた人々 「越山会」誕生の裏にあった危機>
・選挙の度、角栄を支えた後援組織「越山会」。固い結束は「最強の集票マシーン」の異名をとった。角栄が亡くなって23年、その名残は今なお色褪せない。

「俺を推してくれ」「お前たちのためにやるんだから」という目つき(元後援者)

小学校出と言いながら総理までいくんですから、やはりね総理になるだけの人柄、力というものを持っていた。ただ実力があるだけじゃできません(元後援者)

報道の人じゃなきゃ分からないような演説なんて絶対しない。聞きに行った人の心をつかむ演説(元後援者)

・もともと地盤など全くなかった角栄。そればかりか若き日、獄中から立候補したことすらある。なぜ人々は無名の若者・角栄を応援したのか?
・角栄と地元の絆は、いかにして生まれたのか。まずはその生い立ちを辿ってみる。角栄は大正7年に新潟県柏崎市西山町(旧二田村)で生まれた。暮らしは厳しかった。父の仕事は馬喰(牛馬商)。金がなく角栄は中学進学を諦めざるをえなかった。
・角栄の3歳年下のいとこの大谷憲雄さん(95)が今も地元に住んでいる。

総理大臣になろうなんて夢にも見ねぇ。自分のいとこで総理大臣、その系図でいいのなんかいねえからね。角栄だけはいいけど、あとはたいしたのがいねぇ(大谷さん)

・角栄はどんな子どもだったのか。

けんかは負けない。ハッタリも強いんだ。子どものときは、どもるのが有名だった。言葉が続かんから(膝を叩く)(同上)

・きつ音が角栄のコンプレックスだった。後に本人が語るこんな音声が残っていた。

私は前にどもりだったもんですから、どもりを治すためにこうやっているうちに浪花節がやれるようになった(1957年・NHKの歌番組出演時)

・角栄が上京したのは15歳のとき。住み込みの仕事を転々とした後、25歳で土建会社を立ち上げた。そして終戦後、27歳で初めて選挙に出馬した。だが、まだどこの誰とも知れない若者。
・このときの角栄の演説を聞いた男がいる。西川勉さん(91)は当時の角栄の印象をこう語る。

聞いたことのない名前、若い、大声でしゃべる、チョビヒゲ。従来の政治家にはそういうイメージがなかったもんですから、どっかの小僧にしか映らなくて。こんな若造が出ていいのかなと。当時としては異例中の異例(西川さん)

・角栄は落選したが翌年、再び立候補。貧しい新潟が発展するための方策を熱く語ったという。

新潟と関東を隔てる三国峠を切り崩すんだ!そうすれば新潟は雪の苦しみから逃れられる!切り崩した土は海に運んで、新潟と佐渡をつなげばいい!

「越後は遅れてるんだから、もっと急いでやらないとだめなんだ」と。鉄道や道路。だから2回目は角栄に投票しました(西川さん)

・28歳で国会議員に初当選。だがすぐに事件が起きた。代議士2年目の冬、収賄の疑いで逮捕された。臨時炭鉱鉱業管理法に反対するよう賄賂を受け取ったとして起訴された。無実を訴えたが収監された。しかも直後に衆議院が解散、次の選挙が始まった。角栄は獄中からの立候補を余儀無くされた。
・このとき角栄に代わって奔走した人物がいる。入内島金一、上京以来の友人で田中土建の幹部でもあった。彼も収賄容疑を受けたが一足早く釈放、角栄も無実だと訴えた。息子の入内島一崇氏(71)は当時の様子を父から聞いている。

(角栄)本人は獄中立候補したけども、無罪だと言って立候補したんですけど、それを証明する人がいない。(父は)「俺が出てきたんだから(角栄)本人は間違いなく無罪だ」と演説して歩いたわけです。「(角栄が)有罪だったらどう責任をとるんだ?」と言われ「有罪だったらば、俺が嘘ついたことになったら、申し訳ないから腹を切る」と(入内島一崇氏)

・戦時中、兵役に就いた金一に見合いの話があったとき、角栄は代わりに群馬まで足を運び、相手に会って縁談をまとめたという。しかも花嫁の弟が戦死したとき、角栄はその家族に宛てて悔やみの手紙も書いてくれた。

跡取りを亡くした母親に対する同情の気持ち。たった1回しか会ってないのに、これだけの気配り。父は感銘を受けて「彼のためならできることは応援しよう」という気持ちになった(同上)

・間もなく角栄も保釈されたが、投票日まで僅か10日。急ぎ新潟に向かった角栄は、ある村に電報を送っている。

「タノム」

・送った先は新潟でも屈指の豪雪地・南魚沼。後に熱狂的に角栄を支えることになる南魚沼。富所健太郎氏(69)は父と2代にわたって角栄を応援し続けた。電報を受け取ったのは父・四郎たち。家々を回り、角栄のために活動資金を必死でかき集めたという。

(角栄は)出所して夜行に乗って六日町駅に降りた。越前屋という旅館に泊まって、夜行で雪の中を来て疲れたことだろう。みんなが金を集めて越前屋に行ったら、オヤジ(角栄)は枕を高くして寝てた。ある人がその枕を蹴飛ばして、オヤジ(角栄)は起きて頭を下げて、みんなから資金をもらって汽車に乗って自分の実家に帰った。みんなが金のない中、金を出して支えてやった。それが始まり、このナンギョウ(南魚沼)というのは(富所健太郎氏)

・何の実績もなかった角栄をなぜ助けたのか。新潟の中でも山深く、交通の便も悪い土地。前回の選挙でわざわざやって来た角栄に感激したからだという。山あいを彼ほど回る候補者は珍しかった。
・獄中からの立候補となったこの選挙。角栄は辛くも当選。この時の恩を終生忘れなかったという。以後、支援に報いるように山あいの村にトンネルや橋を次々建設していった。長岡市三島谷。山田誠一氏(89)は村の不便を解消したいと角栄に陳情した。

この辺は土地が砂地だから雨が降ると崩れる。田んぼが崩れたり、それで河川改修をお願いした。なにせ(護岸工事で)みんな喜んだ。恵まれた関東ばかりに予算をつぎ込むんじゃなくて、裏日本の恵まれていないところを関東並みに引き上げて「それで国全体を良くするんだ」という演説。「とにかく道路を良くする」と希望のある話をされますから、だからみんな田中先生に期待した(山田氏)

・1953年(昭和28年)各地にあった後援会をまとめ「越山会」が発足。「恩」と「利」でつながった越山会に支えられ、角栄はトップ当選を重ねていった。
・角栄についての著書のある元朝日新聞記者の早野透氏(71)は、こう分析する。

越山会というのは後援会ではなくて、一種の「民衆の共同体」。自分たちが主役なんだよと。田中角栄はその中心で東京都の政府との折衝役(早野氏)

・角栄を支えた越山会。幹部だった富所氏は当時をこう振り返る。

田中角栄という政治家を札(票)で使った。働かせたらいい。地域がよくなるために当選させるだろう。だめだったら落とせばいいんだから。よその地域も政治家を使えば良かったんだ。当選させて「おい先生(何も)しなかったら次落とすぞ」。うまく使ったしな、向こう(角栄)も俺らを。いけばいくほど魅力にはまっていくんだから。この男だったら命をかけていい(富所氏)

・後年、ロッキード事件で有罪判決が出た直後の選挙でも角栄は22万票という空前の票を集めて当選した。

この僻地に住んでいる者があの先生のおかげでどれだけ(後今のこの生きがいを感じているか。あなた方じゃ分からんでしょう(インタビューに答える支援者)

・格差を越えたいという切実な夢が人々と角栄を結びつけていた。

<視点3 番記者 政治家・田中角栄誕生の秘密>
・角栄のお膝元・新潟。現在、新潟日報社の社長を務める小田敏三氏(66)は、角栄晩年の番記者を務めた人物だ。あの総裁選を見たのは学生時代。そして小田が入社して2年目、角栄は首相の座を去る。きっかけは金脈問題だった。
・新潟駅近くの鳥屋野潟。かつてここを埋め立て開発する計画があった。だが角栄のファミリー企業が事前に土地を買い占めていたことが判明した。
・開発によって巨額の利益を得た事例は相次いで発覚。これが角栄の金脈疑惑として持ち上がっていく。そのとき小田は、そもそも田中金脈はいつ始まったのかに興味を抱いた。その取材はやがて政治家・角栄の原点を掘り当てることになる。

なんで政界に出たんだ。角栄を政界に送り出した人物は誰だという問題意識(小田氏)

・そして小田は、あるスクープ記事をものにする。若き日、角栄が政治家になるきっかけをつくった人物を直撃することに成功したのだ。
・小田は、角栄の自伝を読み込んだ。注目したのは1945年(昭和20年)、戦争が終わった直後の記述。進歩党の重鎮・大麻唯男が角栄を訪ねてきたときのエピソードだ。

「君、いくらか出してくれんか」ということであった。私は快く承諾した。それから半月ほどして大麻さんから「今度の選挙に立候補しないか」という話があった(田中角栄著「私の履歴書」より)

(大麻が)田中のところに来たのは「お金があるだろう」って。(お金が)なければ献金のしようもない。かなりの額だったと思います。あとからお礼を含めて「出馬しないか」って言われるくらいだから。微々たるカンパぐらいだったら、そんなところ(政界)には誘われないですよね(小田氏)

・問題はなぜ終戦直後、角栄はこれほどの金を持っていたのか。自伝から浮かび上がる巨大な後ろ盾があった。理化学研究所(通称・理研)。日本の科学研究の中心である理研は戦前その研究成果を生かし、軍需物資を生産する工場をいくつも持っていた。
・角栄の会社は理研から次々仕事を請け負い業績を伸ばした。とりわけ巨額の仕事が終戦間際の1944年(昭和19年)に請け負ったピストンリング工場の移設工事だった。
・だが決して大きくない田中土建がなぜこれほどの仕事を手にできたのか。取材を続けた小田は遂に一人のキーマンに行き当たる。理研の幹部として工事を発注した星野一也氏。角栄と同じ新潟・柏崎出身。戦後も角栄と繋がりを持ち続けた人物だ。

星野一也さんっていう人にブチ当たるんだけれど、なかなか所在が分からなかった。やっと探し当てた星野一也さんの居場所が伊豆のサナトリウム。一番重要な役割を果たした人に会えたのが、この時の取材だった(同上)

・1983年(昭和58年)小田は星野氏に面会、初めて証言を取ることに成功した。星野氏によれば、理研が角栄に発注したのは空襲の激しい東京からピストンリング工場を朝鮮(大田)に移す仕事。撃沈されるおそれのある海を渡って膨大な物資を運ぶ危険な仕事だった。誰もが尻込みする中、手を挙げたのが角栄。あらゆる知恵を考え出したという。

機械類だけで500台。総額2400万円、今に換算すると150億円の仕事が田中角栄に転がり込む。(角栄は)たまたま新潟港に停泊していた駆逐艦に積み込んで運ぼうとした。艦長に酒飲ませて、たぶんお金もやったと思いますけど(同上)

・こうして角栄は朝鮮に上陸した。だが請け負った工場建設は幻に終わる。戦争が終わったからだ。このとき朝鮮にはソ連軍が侵攻、角栄たちは四面楚歌となる。急ぎ日本に帰るまでの行動を角栄はこう記している。

私の在鮮全財産と工事材料や現地投資の一覧表を示して「この財産を新生朝鮮に寄付する」ことを宣言して壇をおりた(田中角栄著「私の履歴書」より)

星野さんは「そんなわけがない」と。「あいつが全部置いてくるわけがないじゃないか」と。星野さんによれば、8月15日に(戦争が)終わって、8月26日に(角栄は)東京に帰ってきている。星野さんも問わず語りで田中から聞いたことがある。「慌てて軍票(戦時中に使用された紙幣)を当時のテジョンからソウルまで車を走らせて銀行に行って現金に換えた」と。「ソウル(京城)の銀行で軍票を現金に換えた」。星野さんたちが振り込んだ(工事の)額は全体2400万円のうちの1500万円分、軍票で渡してあるので、そっくり落とせば(現在の価値で)約90億円の金。とにかく、すぐ換えてすぐ帰ってきた(同上)

・星野氏の話が本当なら、角栄はこのとき工事代金の大部分を手にしたことになる。小田は取材をもとに4ページの記事をまとめた。角栄が政界に出たきっかけの献金、それは朝鮮から持ち帰った工事代金の可能性が高いことを詳しく報じた。
・その後、小田は東京・目白に角栄を訪ねている。本人に記事をぶつけるためだ。果たして角栄の反応は?

「間違いあったら指摘してください」って言うと、じーっと見て「おおむね合ってるな」と言ってるところを見ると、全否定はしないので、まず間違いないんだと思う(同上)

・角栄は記事を否定しなかったという。小田には忘れられない言葉がある。角栄が手にした巨額の金について星野に尋ねたときの言葉だ。

後に角栄は金権政治家と言われるけれど、決して彼は人の金をだまして…とかはないんだと。自分の才覚で、あとは運があって得た金を政治活動に使っているので、私腹を肥やすためには使っていないというのが星野さんが許したところ。人に迷惑をかけて金を作ることはしなかったと、俺は信じているとずっと言っていました。だから許しているんですよ、何十億入ろうが。運ですよね。もし終戦が1年早ければ、こんな仕事はもらっていない。1年遅ければ(工事)代金はもらっているでしょうけど「濡れ手であわ」ってわけにはいかない。巨額なお金を得たことが大きな転機(同上)

・圧倒的な力の裏に付きまとい続けた金の闇。それは戦争の混乱をくぐり抜けた男の宿命だったのだろうか。

・田中角栄という人物はそれ自体が一つの事件だった。誰にでもチャンスはある。どこまでも成長できる。そんな夢をみることができた昭和という時代の、最後にして最大のきらめきだったのかもしれない。
・田中角栄が今に問いかけるものとは何なのか。彼が卒業した小学校の校長室に59年前、初めて大臣になったとき送った書が残されていた。

中国の無錫市から今年、修学旅行隊が来まして(柏原市立二田小学校の稲葉浩一校長)

・角栄が開いた歴史は今も続いている。角栄は今の時代に失われた何かを確かに持っていた。失われた…強烈な何かを。

(2016/12/12視聴・2016/12/12記)

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【ブラタモリ】#56 平泉~黄金の都・平泉はなぜ栄えた?~

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【ブラタモリ】
「#56 平泉~黄金の都・平泉はなぜ栄えた?~」

(NHK総合・2016/12/10放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>

 今回の舞台は平泉。私も世界遺産に登録された翌年の2012年に訪れました。中尊寺金色堂はもちろん、毛越寺や義経堂など歴史的に価値のある建物が非常にコンパクトに集まっており、巡回バスや徒歩で1日掛かりで巡って堪能しました(訪問時の記事は→こちら)。写真を何枚か紹介します。

毛越寺

 まずは2代・基衡が建てた毛越寺。

毛越寺

 ここが紹介されたときに真っ先に「水」だということが分かりました。浄土庭園の池は本当に心惹かれる思いをするものでした。

毛越寺

 そして各所に水が湧き出ていることを想起させるものが。さすがにタモリ氏のように水源まで散策はできませんでしたが…。

中尊寺金色堂

 続いて有名な金色堂。中はNHKのように撮影許可が一旅行客には下りませんので瞼に金色堂は焼き付けました。平日に行ったのですが、それでも観光客がわんさか押し寄せていましたね。ゆったりと鑑賞できる雰囲気でなかったので、タモリ氏御一行が羨ましいです。

無量光院跡

 無量光院跡も訪れました。ある意味、ここが一番落ち着いた佇まいでしたね。義経堂から徒歩で平泉駅に向かう途中にありますが、建物を復元するよりも跡のままのほうがいいかもしれません。

 ということで、奥州藤原氏三代が築き上げた「黄金の都」。ただ決して派手な印象ばかりではありません。義経の最期を迎えたと言われる義経堂はもちろん妻子が殺された場所などもあります。また芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだように栄華を誇ったと過去形で語られる場所でもあるわけです。

 それでも今なお多くの人々の心を掴む無力的な場所、文字通り「ヘリ」テイジ(heritage・遺産)であることは間違いないでしょう。ヘリ好きのタモリ氏でなくてもね(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今日は平泉の中尊寺がスタート地点。
・旅のお題は「黄金の都・平泉はなぜ栄えた?」
・奥州藤原氏(初代・清衡、2代・基衡、3代・秀衡)は平安時代後期、東北地方全てを治めた一族。その拠点が中尊寺のある平泉。約100年にわたり繁栄した。
・最初の案内人は平泉文化遺産センター館長の千葉信胤さん。平泉のエキスパートとして世界遺産登録の際、大きな役割を果たした。
・マルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」に日本は「黄金の国」として登場する。そして平泉こそ、その「黄金の国」だと考えられている理由がある。
・一行は中尊寺金色堂のある建物へ。壁や床に至るまで金色に輝くことから「皆金色」と称される。本尊 阿弥陀如来は極楽浄土の仏。光り輝く極楽の姿を大量の金で表現している。さらに金以外の部分にも極楽を表現するため様々な工夫がある。紫檀(別名ローズウッド)の木材に象牙まで使われている。
・世界と繋がり繁栄を極めた平泉。最盛期の様子を描いた想像図には、町の北外れにある中尊寺だけでなく数多くの絢爛豪華な建物が描かれている。
・平安時代、栄華を極めたみちのくの黄金都市。金色堂をはじめとした独自の仏教文化が評価され、2011年に世界遺産に登録された。でも京都から遠く離れたこの地になぜ黄金の都が築かれたのか。

・一行は中尊寺の境内の北の端。ここで寺の立地を見ると奥州藤原氏が平泉に拠点を置いた理由が分かるという。
・平泉のヘリになっていた崖は高さ100m。その絶壁が東西約1kmにわたって続いている。この場所を境にして大和朝廷と地元の豪族は300年にわたり戦い続けた。
・1087年、長い戦いの末に東北を統一したのが奥州藤原氏の初代・清衡だった。国境だった平泉に拠点を置き、東北の中心とすることで平和な世の中を築こうと考えた。

・続いて一行は奥州藤原氏の政庁があった遺跡へ。
・謎の穴が幾つかありトイレの跡ではないかと言われている。
・東北一の大河・北上川。岩手と宮城を経て太平洋に注いでいる。実はこの川沿いに平泉があることも国境を拠点にした理由と深く関わっている。
・当時、京都の貴族の間で人気だったのがオオワシの羽を使った矢羽根、その産地は蝦夷地だった。そこで清衡は北から北上川を使ってオオワシの羽を大量に仕入れ、京都へ送った。そして南からは象牙など世界の貴重な品々が運び込まれた。
・清衡は国境という争いの場だった平泉を南と北を結びつける交易の場として生まれ変わらせた。

・国境を貫き南と北を結びつけた北上川。一方であるものを東と西に分けている。北上川を挟んで地質が異なるのだ。
・一行は北上川の東にある北上山地へ。そこで2人目の案内人の登場。東北大学名誉教授の永広昌之さんは北上山地の地質を研究して45年という。
・さっそく腕足類と呼ばれる貝に似た生き物の化石を発見。実はこうした化石が見つかることこそ、平泉が栄えた理由が分かるヒントだという。
・実はアンモナイトの化石も見つかっている。3億年以上前、古生代のデボン紀のものだ。
・2000万年前の日本列島誕生に伴って出来た北上川の西側に比べ、東側の北上山地は1~5億年前の古い地質。これほど古い地質が広く露出している場所は日本ではここだけ。
・北上山地は平泉に欠かせない砂金が日本一産出されたという。その謎を解くため一行は猊鼻渓へ。船から川を眺めると光るものが多数見つかった。しかし金ではなく雲母。軽い鉱物のため水の中でよく動く。
・一方、砂鉄は多く採れる。南部鉄器の原料がこの砂鉄。
・花崗岩と金には深い関係がある。北上山地は日本有数の花崗岩地帯。金を含む岩石は花崗岩のヘリに出来やすい。
・地下5000mにある金を含む岩石は、隆起と浸食を繰り返し地表に現れる。そして雨や風などで風化し砂金になる。しかしそれにはとてつもない年月が必要。
・奇跡的ともいえる古い地質から大量の砂金をもたらした北上山地。そのヘリにあったからこそ平泉は「黄金の都」になった。

・再び一行は平泉へ戻り、2代・基衡が建てた寺院で世界遺産・毛越寺へ。基衡の時代になると町は大きく拡大した。最盛期には5万から10万もの人々が暮らしていたと考えられている。
・毛越寺は「吾朝無双」つまり日本一と称された、まさに黄金の都に相応しい寺だった。その最大の特徴は本堂の前にある大きな池。こうした庭のことを「浄土庭園」という。
・「平泉」の語源は平地に泉が湧くとも言われている。豊かな湧き水があったおかげで多くの人が住むことができ、平泉は繁栄した。
・一行は寺の裏にある山の斜面に向かう。見つけた水源は斜面と平地の境近くにある。斜面は地層の断面が露出しやすい場所。そのため地中を通ってきた水が湧き出すことが多い。

・さらに平泉には豊かな水が湧く特別な仕組みがある。その秘密を探るため毛越寺のさらに奥へ。
・次の案内人は元岩手県立博物館学芸部長の大石雅之さん。地質の専門家で、平泉で見つかった500万年前のクジラの化石を研究している。
・本来続いているはずの地層が長い時間をかけ浸食され、断面が露出している。普通は泥岩など水を通しにくい層が上にあり、水があまり染み込まない。
・ところが平泉では水を通しやすい砂岩の層が地表に出ているため水が染み込みやすく、斜面のヘリから大量に湧く。

・最後に一行は町の中心部、かつて大きな寺があった場所・無量光院へ。3代・秀衡が建てた寺。清衡の中尊寺、基衡の毛越寺に続く、まさに奥州藤原氏三代の集大成。秀衡は自らの理想の都の姿をこの寺で表現しようとした。
・奥州藤原氏三代が100年の繁栄の先に目指したもの。それは争いのない極楽浄土の世界。まさに黄金に輝く都をこの世につくり出すことだった。

(2016/12/12視聴・2016/12/12記)

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