Quantcast
Channel: じゅにあのTV視聴録
Viewing all articles
Browse latest Browse all 513

【ETV特集】今よみがえるアイヌの言霊~100枚のレコードに込められた思い~

$
0
0
【ETV特集】
「今よみがえるアイヌの言霊~100枚のレコードに込められた思い~」

(Eテレ・2016/12/17放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<感想>

 先週のETV特集。ちょうどこの記事を書いているときに再放送がリアルタイムで放送されています。ちょっと観るのと感想を書くのが遅かったですね。というのも非常にいい内容で、皆さんにお勧めしたいと思ったからです。

 アイヌ民族のことは私も不勉強であまり知りませんでした。北海道を訪れたことは何度もありますが、目にするものは明治以降の歴史のものばかり。先住民族であるアイヌの人たちに思いを馳せることはありませんでした。

 しかし今回のドキュメントで彼らが脈々と受け継いできたもの、とりわけ自然とともに生き、命あるものに感謝するという真摯な姿勢に心を動かされました。そして内地の人間が価値観を押しつけて彼らを踏みにじってきたという構図は、何だか沖縄にも通じるものがありますね。沖縄は基地の問題、そして北海道は北方領土と別々の問題を抱えていますが、いっそのこと北方領土はロシアと日本どちらも帰属せず「アイヌ民国」にしたらいいかも。まあ…これは極論だと分かって言っているのですが。

 いずれにしても、大変いい番組でした。まだご覧になっていない方は再放送の途中から、またはアンコール放送でもぜひご覧くださいませ。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・鮭が泳ぐ川は神様、木や山も神様、そして風も神様。アイヌの民は自然のあらゆるものに魂を感じ、これを畏れ敬いながら暮らしてきた。

その昔この広い北海道は、
私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されて
のんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、
なんという幸福な人だちであったでしょう
アイヌ神謡集より(知里幸恵編訳・大正12年・原文ママ)


・山や川、鳥や動物に語りかけ、心を通わせてきたアイヌ民族。北海道白糠町のアイヌ、伊賀實さんは昭和20年頃に子熊と遊んだ記憶がある。

(熊と)一緒に遊んだ。相撲取ったり。2歳になるまで犬と同じだ。山へ行くのでも川行くのでも、ずっと(自分に)ついて歩く。いなくなったら、わざと隠れたりしたらファーファーと鳴いて呼ぶ。相撲とってね、俺がぶん投げたら(熊は)勝つまでかかってくる。だから最後わざと負けてやんなけりゃ。わざと負けてやんだよ熊に。そしたら喜んでる。何も人間と変わらないんだって、しゃべらないだけで(伊賀さん)

・アイヌ民族は狩猟を中心とした生活をしながら独自の言葉、アイヌ語を話して暮らしてきた。しかし近代日本の国家建設の歴史がアイヌの暮らしを劇的に変えた。アイヌ語は今、殆ど使われなくなった。
・そのアイヌ民族の貴重な資料がNHKに残されていた。太平洋戦争直後に録音された約100枚のレコードだ。そこには北海道各地に暮らしていたアイヌの肉声。当時の歌や語りが記録されている。

NHKの録音の中でも特に古い資料になりますし、いろいろな地域のものが含まれていますので、アイヌ語そのものの資料として貴重だということと文学や音楽の資料として大変価値のあるものですね(アイヌ研究者)

・アイヌ語の歌や語りは代々、口伝えでのみ受け継がれてきた。それが70年の時を経て蘇った。北の大地で育まれたアイヌ文化の豊かさとその苦難の歴史。100枚のレコードが語る物語。

<NHKで発見されたアイヌ語の音声が収録された100枚のレコード>
・昭和23年、北海道の標茶町で行われたアイヌの祭りの映像。人々の息遣いが伝わる貴重な映像だが、このとき音声は録音されなかった。しかしこのフィルムが撮影された前の年、NHKはアイヌの歌や語りの音声をレコードに収録していた。それはある調査の一環だった。

これがNHKが昭和15年から平成5年まで50年以上かけて民謡を集めて本にしたと。これは昭和10年代からやってたんですが、戦争で1回(調査が)止まっちゃうわけですね。昭和22年に民謡調査を再開しようと、その時に北海道におられたアイヌの人たちの音楽を本格的に記録しようと始めたわけです。再開はアイヌから始まったんですよ(NHK元職員の稲田正康氏)

・もともとアイヌ語には固有の文字がない。そのためこの調査は貴重なものになった。昭和22年のことだった。調査にはアイヌ研究の第一人者が協力していた。言語学者の金田一京助、そしてアイヌとして初めて北海道大学の教授になった知里真志保。
・その調査のときに記録された音源がNHK札幌放送局の資料室に残されていた。当時はレコードに直接音を収録する方式。その数およそ100枚、道内10か所で録音された。収録から70年、傷みが激しいため音の修復に取り組むことにした。
・アイヌの文化は口伝えで受け継がれてきたが今、断絶の危機にある。文字のない言語文化の豊かさは「声」に凝縮されているはずだ。
・アイヌ民族は古来、北海道、サハリン、千島に暮らしてきた。その生活は狩猟や採集を中心にしたもの。山では鹿や熊を狩り、川で鮭などの魚を獲った。
・しかしそれだけではなかった。アイヌは本州や大陸と自由に交易を行っていたことも知られている。自分たちの採った昆布や干しアワビなどの海産物。そして熊やアザラシ、ラッコといった動物の毛皮などを交易品とした。
・その取引でもたらされた中国産の華やかな錦が残されている。異文化との交流はアイヌ文化を奥行きあるものにしていた。
・北海道日高地方の平取町、今でも多くのアイヌ民族が暮らしている。平取はNHKの調査による収録場所の一つ。町内にある二風谷アイヌ文化博物館の職員でアイヌ文化に詳しい関根健司さん。アイヌ民族が育んできた独特の世界観、その基本となる考え方を伺った。あらゆるものに魂が宿っていて、その中で力の強いものを「カムイ」神様として崇めているという。

人間の能力を超えた能力を持っていれば、それはもうカムイなんだと。道具を作り上げた瞬間にもうカムイとしての魂が宿うと、そういう考え方だ(関根さん)

・アイヌはそうした道具が壊れると、それまで役立ってくれたことに感謝して、その魂を神の国へ送り返す儀式までしたという。あらゆるものに魂を感じ、感謝しながら暮らしてきたアイヌ民族。語り手たちはレコードにどんな思いを込めたのだろうか。

<修復作業が進められたレコード>
・東京・渋谷。100枚のレコードの修復が進んでいた。まずはレコードに付着しているゴミを取り除く。溝を傷つけないように汚れを取る地道な作業。
・次に汚れを取ったレコードを再生する。その音源をコンピューターに取り込んだ。汚れを取り除いただけでは、雑音がまだ大きく聞こえる。

(どういったところが難しいですか?)
しゃべっている音声に音程が近い辺りのノイズ音ですね。これはやはりかなり切りにくいですし、場合によっては(ノイズを)消したら原音が一緒に消えてしまうものもありますので、それをいかに避けるかというのが非常に難しい点になります(音源を修復する会社の松井大貴さん)

・雑音を波形を小さくする作業を繰り返していく。音が鮮明になった。70年の時を経て、アイヌの歌や語りが蘇った。蘇った音源は166の演目、延べ6時間以上に及ぶ。

<平取町で収録された語り「ウコヤイクレカルパ」とは>
・平取のレコードの翻訳をお願いしたのが、前出の関根さん。訳しているのはウコヤイクレカルパ(※ルは小文字)という語り。アイヌ語で「互いに挨拶する」という意味。翻訳はまずは全ての音をローマ字に起こすことが始まる。
・兵庫県出身の関根さんはこの平取でアイヌ民族の女性、真紀さんと知り合って結婚。以来20年近く、平取に住みながらアイヌの言葉や文化を学んできた。今では町の子どもたちにアイヌ語を教えるまでになった。しかし今回の録音の翻訳は関根さんにとっても難しいという。

どちらかというと祝詞的な言葉なので、祈り言葉とかあるいは挨拶言葉ですね。僕自身がそんなにこういう言葉を勉強してないし、アイヌ語的にもこういう言葉の資料は少ないんだと思いますね(関根さん)

・別のアイヌ語の資料と照らし合わせながら一語一語検証していくと、やがてその内容が明らかになった。この収録には当時、北海道大学の講師だった知里真志保が立ち会っていた。語り手は貝澤アレクアイヌさん(当時54歳※クは小文字)、当時既に失われつつあったアイヌ文化を大切に守ってきた人物。知里真志保を歓迎する思いを即興で語ったと考えられる。

若き尊敬する方が同席している
そうしたならば 昔の古老
昔の先祖が 唱えた言葉
言葉のさわりの ところだけでも
帳面の上に 彼が書き記したならば
何代も 何代にもわたり
(言葉が)引き継がれる
言葉にしようにも この気持ちというものは
言葉に しようもない
我が兄弟よ 対面するに際し
言葉を述べようにも 何を言えばよいのか
はなはだ手短か ではあるが
私が述べるのは 以上である 我が君よ


アイヌ語で語るということが誇らしいことだと思ってたんでしょうし、その場面に立派な知里真志保さんとかもいて、しっかりNHKで記録に残すというような企画に対しても嬉しく思ってたんだと思いますね(関根さん)

・蘇ったアイヌの挨拶は、節が付き祝詞のようになった言葉だった。その声には、もてなしの心と自らの言葉への誇りが込められていた。

<釧路で収録された「ウポポ」という歌>
・北海道東部の町・釧路で収録されていたのは歌だった。祭りや儀式のときなどに歌われるもので「ウポポ」と呼ばれる。収録が行われたのはNHK釧路放送局。釧路周辺に暮らすアイヌの人たちが集まった。
・アイヌ語にも地域特有の方言がある。釧路地方のアイヌ語に詳しい様似町教育委員会の大野徹人さんに歌の翻訳をお願いした。
・ウポポという歌は熊が獲れたときの儀式や四季折々の祭りなどで欠かせないもの。生き生きとした歌声で神様の姿を描写していると大野さんは言う。

霧をちらす 神の乗り物(が空を飛び)
海が鳴り響く 鳴り響いていく


・神様が海を渡って飛んでくるダイナミックな場面。女性たちが手拍子でリズムを取りながら、輪唱で歌っている。

月から神が降りてきた 岩山の手前に降りた
岩山の手前 美しい風音となって 聞こえる


・一転して美しい描写。風のような音を立てて、神様が月から舞い降りてきた。この神はシマフクロウだという。村の守り神として特に大切にされてきた。

儀式・お祭りのときにやるということは、その場にいる神々や先祖の人たち、先祖の霊ですね。そういった人たちもその場にいて、一緒に歌踊りの場にいて一緒に楽しんでいるということがあるので、やっぱり人間だけが楽しむわけではない。神々やご先祖様も一緒に楽しむ。そういう意味があると思います。今風でいえば奉納と捉えることができるかもしれません(大野さん)

霧をちらす 神の乗り物(が空を飛び)
海が鳴り響く 鳴り響いていく
霧をちらす 神の乗り物(が空を飛び)
海が鳴り響く 鳴り響いていく
月から神が降りてきた 岩山の手前に降りた
岩山の手前 美しい風音となって 聞こえる


・神や先祖と一緒に楽しむというこの歌。自然は資源として収奪するものではなく、その恵みに感謝し礼を尽くすものだという倫理観が背景にあるという。

命を奪って自分たちが生きているということで、大自然のこの神々に事あるごとに祈りを捧げて感謝をする。また人間の国へ来て下さいとか、またこういう恵みがあるように鮭なら鮭、神様に人間の魚が獲れるようにお願いしますということで、儀式・お祭りをやったわけですね。だから常に感謝があるわけですから、それはそういう大自然の中の他の生き物たちから恵み、命をもらって自分たちは生きているということを自覚していたので、やっぱりそういう気持ちを忘れず、事あるごとに儀式などをやってたんだと思います(同上)

<明治に入ってからアイヌ民族に強いられた変化とは>
・感謝と祈りを大切にしながら自然とともに生きてきたアイヌ民族。しかし明治維新後、その生活が一変する。明治2年、北の大地は日本政府によって「北海道」と名付けられた。土地は国有化され、いわゆる「開拓」が進められた。本州から和人(アイヌ以外の日本人)の入植が奨励され、広大な土地が入植者に分配された。
・こうした中でアイヌ民族の暮らしが制約された。資源保護などを名目に自由に鮭を獲ることを禁じられ、鹿猟なども規制された。
・さらに明治32年、北海道旧土人保護法が制定された。ここで「旧土人」とされているのはアイヌ民族。この法律によってアイヌ民族は狩猟から農業へと、その生活の形を大きく変えることを求められた。
・教育では「旧土人学校」と呼ばれたアイヌの子どもたちだけを対象にした学校が作られた。そこでは日本語だけで授業が行われ、アイヌ語を禁じる教師もいた。
・アイヌ民族の歴史を研究する札幌大学学長の桑原真人さん。旧土人保護法はアイヌの暮らしに決定的な打撃を与えたと言う。

日本人化、和人化政策であった。いわゆる同化政策であったと言える。同化政策というのは1つはアイヌ民族の風俗習慣をやめさせるということ。そして狩猟採集民族だったアイヌに対して勧農、農業を強制すること。そして日本語の教育を徹底化するということ。こういう三方面から行われたわけです。その結果、戦前の北海道でアイヌ文化が客観的に見て廃れていったということは紛れもない事実だと思います(桑原氏)

<登別で収録された「ユカラ」>
・変化を強いられたアイヌの文化。昭和22年、NHKの調査が実施されたとき、その独自の言語や習俗はすでに消滅の危機が案じられる状況だった。
・北海道の南西部にある登別でも収録が行われた。ここで収録されたのは「ユカラ」(※ラは小文字)などと呼ばれる叙事詩。それは語りべが吟じる長大な物語。民族の神や英雄が大活躍する。
・語りべは当時71歳だった金成マツさん。ユカラを後世に伝えたいと願い続けていた人物だった。そのきっかけとなったのが言語学者の金田一京助。彼はユカラこそアイヌが誇るべき文学だと、その価値を高く評価した。
・マツさんが残した50冊以上に及ぶ自筆のノート。習い覚えたローマ字で書き記した。口伝えで受け継がれてきた多くのユカラを彼女は一音一音文字で残そうとした。昭和3年からこの収録の直前まで約20年にわたって書き続けた執念の結晶だ。
・マツさんの親戚にあたる横山むつみさん。彼女の祖母の姉にあたるのがマツさんになる。マツさんが亡くなったのは、むつみさんが13歳のとき。近所の人がよく話をしに来るような親しみやすい人だったという。

ちょうどこれを採録したときは昭和22年なのですよね。膨大なユカラ等の執筆を終えたころなのです。だから書くのと歌うのをどちらも残したいという、金成マツの思いが込められているような気がするのですけど(横山さん)

・北海道大学アイヌ・先住民研究センターの北原次郎太准教授に、金成マツさんが伝承にこだわったユカラの魅力を聞いた。

ユカラというのは、どちらかというと大人向けの娯楽なんですけども、アクションが多くてですね、それから難しい言葉が使われますので子どもが聞いても分からないというものが多いです。それから非常に長い物語が多いので、お祭りのときなど多く人が集まったときに夜遅くまでずっと語っていくんですね。ですから子どもは途中で寝てしまうということもありまして大人が楽しむものなんですけど。1つは非常に長い。ものすごく長くてですね、一晩で終わらなくて休憩しながら、語り手も合間合間、休憩をしながら語っていって、そして次の日はその続きから始めてというふうに延々と続く。そのスケールが1つは語り手たちにとっても誇りになるのではないかと思うのですね。これだけのものというのを自分たちは作ってきたという(北原氏)

・マツさんが残した物語の1つ「ポンオイナ」は、これだけでノート3冊分にも及ぶ大作。超人的な力を持つ英雄のラブストーリーだ。今回修復されたレコードにはそのうちのごく一部、約3分間の語りが残されていた。

神のごとき勇者は 天井の窓から
さっと逃げ去りました
そうすると 私は逃がしてはならないと
思いました


・例えば「天井の窓からさっと逃げ去る」という、ここがいかにもユカラの登場人物らしいですね。つまり普通の人間だったら天井の窓から出ませんよね、戸口とか窓から出でていくんですけど。彼らは自在に空を飛んだりするという力を持っていますので。ですから天井が非常に高い所にある窓からさっと外に飛んでいってしまうのですね。この「アイヌラックル」(=物語の主人公 ※ルは小文字)は、この話の中ではこの後、地底の世界に行ってそこで戦うことになるんですけども、地底の世界というのは死者の世界なので、普通の人間はそこに行ったら死んでしまうんですね。自分の意思で普通は行くこともできないんですけど、この登場人物たちは自在に死者の世界に行ったり、あるいはまた神の世界に行ったり世界を実際に私たちが見てる世界よりも、もっと広いスケールで跳び回って激しい戦闘をするという(同上)
・物語は登場人物の一人称で語られ、自分の体験のように感じながら聞くことができる。

泣き叫ぶ声が
私の のど元から
美しく響きました


・ユカラは人々が集い、語る場そのものを楽しむものだった。平取町の二風谷地区、草や木で作った「チセ」と呼ばれる家の中に人々は集まった。木幡サチ子さんは様々な資料を頼りにユカラの実演を繰り返してきた。
・昔ながらの様子を再現してもらった。夜まで続く祭り、その興奮に包まれた中。聞く人たちも炉の縁を棒で叩き、拍子を取りながらユカラの世界にともに入り込んでいく。

どうにかして 人間世界へ
私が帰ることが できるように
しておくれよ!


・喜びや悲しみ、生きる知恵や教訓が詰まった冒険のドラマをこうして三日三晩でも楽しむことができたというのだ。

あなたが死んだら 私も死にます
と私が言った


・こうした叙事詩を語りべは全て記憶し、自分らしい強調法や節回しを工夫しながら語り継いできた。金成マツさんが残そうと努力し、金田一京助が世界でも指折りの文芸だと評したユカラとはこのような豊かな娯楽だった。

<旭川で収録された「シノッチャ」>
・100枚のレコードが収録された戦後すぐの時代。こうした文化の伝承に危機感が募っていた。しかしこの時代、一方で全く別の気分も広がっていた。旭川で収録されたレコードに終戦直後のアイヌの心情を表す音声が残されていた。
・旭川には陸軍の第七師団が置かれ、徴兵令によって全道から兵士が集められた。その中にはアイヌもいた。昭和6年頃、アイヌの青年が出征するときの写真が残されている。彼らはガダルカナルや沖縄戦にも動員され、命を落とす人もいた。その戦争が終わった時代にレコードは録音された。
・旭川で収録された「シノッチャ」(踏舞の歌)というタイトルのレコード。シノッチャとは踊りに合わせて即興で歌われるもの。歌ったのは尾澤カンシャトクさん(当時54)。空襲を受けた北海道の町は荒れていた。カンシャトクさんは終戦直後「希望」を歌に込めようとしていた。

かつて 我らの先祖が 大切に育んだ
我らのふるさと ではありますが
偉い人たちの 政(まつりごと)が
悪かったため
すばらしきふるさとを 戦(いくさ)が荒廃させた
しかしながら
神にしっかり守られるのが
我らアイヌ民族でございます
まさにこれから よい暮らしが
子々孫々 続くことでございましょう
そこまで私は申し上げました


これが歌われたのが終戦直後ですから、戦いによって北海道のいろいろな町も空襲受けたりですとか、すっかり荒廃してしまったということに対してのまずは思いですね。先祖伝来、大切に守ってきたこの土地が戦争でもって荒らされてしまったということへの思いと、ただこれからは仲間たちに明るい未来が開けていくんじゃないか、そういう気持ちを歌い込んでいるようです(北原氏)

・しかしこうした希望は長い間、叶うことがなかった。権利回復を目指す運動を繰り広げたが差別はなくならず、アイヌ民族は存在すら否定され続けた。明治32年に制定された旧土人保護法がようやく撤廃されたのは平成9年。終戦から半世紀以上の歳月が過ぎていた。
・その間、アイヌの人たちはいくつかの政策を提案し続けてきた。そのうち実現を果たせたのは、文化の振興に関する法律だった。

<白老で収録された「チャランケ」とは>
・白老町ではアイヌの伝統的な文化を復興させる取り組みが始まっている。町にあるアイヌ民族博物館は、アイヌの若い人たちが自分たちの文化を学ぶ場所にもなっている。
・8年前から始まった伝承者育成事業。3年間、白老町に住んで踊りや工芸、アイヌ語などを学ぶ。今、研修を受けているのは5人。これまで10人がここを巣立っていった。
・講義だけではなく実習にも力を入れている。この日はアイヌの伝統的な鮭漁を学ぶ。鮭はアイヌにとって欠かすことのできない主食だった。その命を頂くとはどのようなことなのか。自然の恵みを授かることの難しさと畏れの気持ちを学ぶ。自然とともに生きることは決して野蛮ではない。むしろ命に感謝し、平和を祈る生き方だと知っていくのです。
・白老町で録音されたレコードには「チャランケ」と書かれていた。「談判する」という意味で、揉め事を話し合いで解決するときの対話の言葉だ。

(チャランケとは?)
今の裁判と同じで、個人間のトラブルからですね。例えば何か財産を貸していたものをまだ返してもらっていないですとか、あるいはもう返したはずだとかですね、あるいは狩猟とか漁労を行うときのテリトリーを誰かが犯してしまっただとか。そういったことが理由になってチャランケが起こります。平和を追求するという考え方が元にあると思いますね。もちろんアイヌ社会の中でも戦いが起こることはあるわけですけども、それはやはりすべきではないことであって、まずはそういう方法を取らない解決を目指していく。そのために作り上げられてきた習慣だと思うんですね(北原氏)

・収録されたチャランケは、狩猟の縄張りを巡っての論争だった。まず1人が自分の主張を訴える。

先祖の教えの通り
慎み深く 私は歩いています
そのようにしていたところ 私が行くより先に
私に先んじて いずれの者が
(私の縄張りで)狩りをしたことか と思って
激しい怒りを 覚えたので
自分の神に 怒りを
訴えながら 戻ってきた


・これに対してもう1人が弁明をしながらも、自ら非を認める。

(あなたが)所有する熊穴から(熊が)出て来て
熊が現れたところに 出くわして
(熊を)しとめたので それを私は売り
飲みもし 食べもしたのだ
神に罰せられる行いをしたので
今や私の非が
確定したのなら
私の兄に 謝罪を
致すしだいで ございます


・互いに歌うように主張し合うのがルール。典型的な事例を継承して同じような揉め事が起こったときには、解決のヒントになる。
・この蘇ったチャランケを学ぶ講義が行われた。講師は北海道大学の北原准教授。実際のチャランケは互いの主張をとことん交わし続け、一昼夜続くこともあった。ゆっくり節をつけて納得するまで話し合うことで、感情的にならず揉め事を解決する。

<70年の時を経て蘇ったアイヌの言葉が私たちに伝えるものとは>
・北の大地で多くの知恵を育んだアイヌの言葉と暮らし。その、のびのびとした懐の深さを知里真志保の姉・幸恵はこう記している。

その昔この広い北海道は、
私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されて
のんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、
なんという幸福な人だちであったでしょう
(アイヌ神謡集より 知里幸恵編訳・大正12年・原文ママ)


・今回蘇った70年前の肉声。どの声にもどこか柔らかな自然体の響きがあった。

知里先生ですとか他の方の著作の中で、アイヌの語りの世界というのは私たちの世代は文字で学んできたわけですね。それを初めて音で聞いてですね、いろいろなものが網羅されていて、こう何て言うか本当に大全集というか百科事典のような。今まで想像することしかできませんでしたので、それがおそらくこういうふうに語るんだろうというふうに先生方が書かれたものを読んで想像しながら見ていたわけですけど、それが実際に音声として聞くことができる。これはもう感激ですよね(北原氏)

・白老町で北原准教授からチャランケの講義を受けていた中井貴規さんは、終戦直後に希望を歌い込んだシノッチャに魅せられた。本来、シノッチャは踊りながら歌うもの。中井さんは当時の感覚を確かめようとした。

かつて 我らの先祖が 大切に育んだ
我らのふるさと ではありますが
偉い人たちの 政(まつりごと)が
悪かったため
すばらしきふるさとを 戦(いくさ)が荒廃させた
しかしながら
神にしっかり守られるのが
我らアイヌ民族でございます
まさにこれから よい暮らしが
子々孫々 続くことでございましょう


・平取町立二風谷小学校。昨年度からある試みが行われている。今回翻訳をお願いした関根健司さんがアイヌ語を教えている。
・これまで学校教育の場で教えられることのなかったアイヌ語。アイヌであるかどうかに関わらず、子どもあちにアイヌ語を教えている。
・70年の時を経て蘇ったアイヌの言葉。絶やしてはならないものとは何か、忘れ去ってはならないこととは何かを改めて問いかけていた。

(2016/12/23視聴・2016/12/23記)

【ブログランキング】
▼▼ワンクリック投票をぜひお願いいたします▼▼

にほんブログ村 テレビブログ テレビ番組へ 


※番組関連の作品(画像クリックでAmazonへ)

アイヌ語入門―とくに地名研究者のために

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

古代蝦夷とアイヌ―金田一京助の世界〈2〉 (平凡社ライブラリー)

アイヌ・北方民族の芸能

※関連ページ(ETV特集)
15歳 私たちが見つけたもの~熊本地震3年3組の半年~
漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~
路地の声 父の声~中上健次を探して~
わたしのCasa(家)~“日系異邦人”団地物語~
日本で一番住みたい団地~孤独死ゼロ・大山団地の挑戦~
香港は誰のものか
事態を侮らず過度に恐れず~“福島プロジェクト”の挑戦~
アンコール つかさ18歳 人生を取り戻したい~被虐待児2年間の記録~
原発に一番近い病院 ある老医師の2000日
私たちは買われた~少女たちの企画展~(追記)
私たちは買われた~少女たちの企画展~
ホロコーストのリハーサル~障害者虐殺70年目の真実~
アンコール 忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦“満州難民”を描く
武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~
関東大震災と朝鮮人 悲劇はなぜ起きたのか
アンコール むのたけじ 100歳の不屈
アンコール 名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~
54枚の写真~長崎・被爆者を訪ねて~
アンコール 水俣病 魂の声を聞く~公式確認から60年~」
母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~
“書きかえられた”沖縄戦~国家と戦死者・知られざる記録~

Viewing all articles
Browse latest Browse all 513

Trending Articles