【にっぽん!歴史鑑定】
「家康が恐れた妖刀村正」
(BS-TBS・2016/9/12放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/
<感想>
「妖刀村正」を巡るエピソードという、なかなかマニアックで面白い話なんですが…TBSさん、毎回この番組を観ていて非常に気になるのが一つあります。それは再現VTRの役者さんたちの「カツラ」。
今回の家康さんは酷かったですね、カツラの線、付け髭も目立ちすぎますよ(苦笑)
衣装・美術担当の方、ちょっと何とかならないでしょうか…。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・愛知県名古屋市にある徳川美術館。徳川家康のほか、尾張徳川家を中心とした1万点以上の品を所蔵する美術館で最も人気があるものといえば、今ブームを沸き起こしている刀剣。
・中でも人々を惹きつけてやまない刀が「刀銘村正」。室町時代につくられ家康自ら所持していたといわれる名刀。その一方で村正は数々の伝説に彩られた不思議な力を宿す妖刀としても知られている。
・まさにそう思わせるような妖しい刀の佇まい。
・凄まじい切れ味と得体のしれない力を秘めた村正を心底恐れた男がいた。刀の持ち主である徳川家康その人だった。
・刀匠村正が鍛え上げた執念の日本刀。一体この刀の何が家康を恐れさせたのか。家康との不吉な因縁とは。
・村正を持つべからず。徳川に仇をなす妖刀伝説は家康の自作自演だった。その驚きの真相とは。
・流れる木の葉が真っ二つ。数ある日本刀の中で指折りの切れ味を持つと言われる村正に、どんな秘密が隠されているのか。
・村正が江戸幕府を滅ぼした?幕府滅亡と村正の知られざる関係にも迫る。
<名刀村正と徳川家康との因縁とは>
・日本刀を代表する村正は室町時代から江戸時代初期にかけて伊勢国桑名で作られた。凄まじい切れ味を誇り、武将たちがこぞって求めた刀でもあった。そのバリエーションは幅広く、刀はもちろんのこと短刀、脇差、さらに槍にまで及ぶ。
・さらに村正の魅力の一つが刀の姿。刃の模様である刃紋の表と裏が揃い、そのシンメトリーな美しさを際立たせている。
・そして刀身の前方で反る先反りは、振り下ろしたときの一気に肉に切り込む実戦的な形、武士に愛された所以だ。
・そんな村正と家康にはどんな因縁があったのか。それは天文18年(1549年)のこと。家康がまだ7歳で、駿府の今川家に人質に取られていたとき。驚きの知らせが飛び込んできた。三河国岡崎城主だった父・松平広忠が、謀反を企てた家臣の岩松八弥に刺し殺されてしまった。
・このとき岩松が握りしめていた刀が村正だった。父の命を奪った憎き刀、しかも村正の災いはこれが初めてではなかった。遡ること14年の天文4年(1535年)、家康の祖父・松平清康の異様な死。宿敵である織田家との合戦のさなかに忌まわしい事件が起きた。家康以前の徳川家の歴史を記した「三河後風土記」にはこう記されている。
清康君守山の御陣屋にて
千子村正の刀にて御肩より
左の脇まで一刀に切られ給ふ
・祖父もまた家臣に村正で斬り殺されていたのだ。
・時は流れて天正7年(1579年)、家康が37歳のときのこと。村正との忌まわしい因縁が蘇る。清須同盟によって盟友となっていた織田信長に、あろうことが正室の築山殿と嫡男・信康が武田家と内通していると疑われ、二人の処分を迫られた。
・22年間、家康に仕えてきた妻・築山殿。そして優秀な跡継ぎの信康。この二人を失うことは自らの身を切るより辛いことだった。しかし徳川家を守るためには仕方がない、家臣たちが築山殿を惨殺した。このときの刀が奇しくも村正。
・その半月後、家康は信康に対し切腹を命じた。まだ21歳の若さだった。家臣から我が子の死の報告を受けた家康は悲しみの中、ふと思い出したようにこう聞いたという。
「介錯に使った刀は誰の作か」
「村正でございます」
・またしても村正。なぜに村正は祖父、父、妻、息子と身内の命を奪い続けるのか。次はまさか自分では…。恐れをなした家康はこう家臣に命じた。
さてもあやしき事もあるものかな
いかにしてこの作の当家に
障りある事かな
この後は差料の中に
村正があらば皆取り捨てよ
(「徳川実紀」より)
・村正は呪われた刀であるとして、家臣が持つことを禁じた。こうして村正は徳川家に仇をなす刀として知られるようになり、いつしか妖刀と呼ばれるようになった。
・密かに天下取りを狙う家康にとってこの先、村正はどんな災いをもたらすのか。そんな家康の不安が現実のものとなる事件が起きた。
・関ヶ原の戦いで東軍に加勢し武功をあげた織田長孝を褒めたときのことだった。聞けば長孝の槍は鎧を着けた敵将を刺しただけではなく背中まで貫通し、刃こぼれ一つなかったという。
・家康がその槍を見分しようとしたとき、ふとしたはずみで槍を取り損ない手に傷を負ってしまった。まさかと思い聞くと、その槍は村正だった。
・それを知った家康は槍を叩き折ったとも、怒って立ち去ったとも伝えられている。家康と村正の不思議な因縁、遂に家康は村正に命を狙われることになる。
<大坂夏の陣 家康に突撃した真田信繁が手にしていたのは>
・慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣。家康は豊臣家を滅ぼすため、最後の戦を仕掛けた。その前に立ちはだかったのが打倒・家康に執念を燃やす豊臣方の武将。後に日の本一の兵と言われる真田信繁。
・決戦の舞台は大坂城。攻める徳川軍12万に対して守る豊臣軍は5万。兵力で圧倒する徳川軍。しかし信繁はまだ諦めていなかった。家康さえ倒せば敵は総崩れになると読んでいた。何が何でも家康を討ち取りたい、信繁の熱い思いは腰に差した刀に託されていた。「名将言行録」にはこう記されている。
真田信繁は家康の
滅亡を願っていて
徳川家に仇をなす
妖刀村正を持っていた
・信繁は家康への呪いを込め、村正を持っていたというのだ。そして遂に村正を使うときがやってきた。5月7日、1万5千の兵に守られた家康の本陣に、僅か3千5百の兵で信繁は決死の突撃を仕掛けた。反撃を受けながらもなお突き進み、遂に家康本陣へ。
・このとき信繁が家康に向かって投げつけた刀が村正だったと言われている。家康は間一髪、危機を逃れ命拾いしたが村正が家康を死の寸前まで追い詰めていた。
<なぜ家康自身が村正を持っていたのか>
・なぜ家康自身は徳川家に災いをもたらす村正を持っていたのか。日本中世史専攻で戦国時代の合戦や兵法に詳しい小和田泰経氏はこう指摘する。
家康自身、村正に惚れ込んで所持していたと言われていて、独占するために妖刀伝説を流したと言われている(小和田氏)
・江戸時代に「常山紀山」という逸話集があるが、その中で豊臣秀吉が五大老の刀をみて持ち主を当てたというエピソードがある。それぞれ次のような刀だったという。
・宇喜多秀家→華美な刀
・上杉景勝→長い刀
・毛利輝元→変わった刀
・前田利家→古い刀
・徳川家康→実用刀
<村正と正宗の切れ味の違いとは>
・名刀村正。天下人・家康がその凄まじい切れ味に惚れ込み、そして恐れた刀。これをつくり上げたのが伊勢国桑名で6代続いたとも言われる刀匠村正。
・初代村正が活躍した室町時代は、刀が大きな変化を迎えていた。日本刀は古代からつくられていたが、聖徳太子と言われる人物の肖像画に描かれているように、古い時代は太刀を腰からぶら下げ儀式の道具として使うことが主だった。
・それが武士の時代になり戦国の世となると、刀の鞘を腰の帯に差し込むようになる。抜き様に一気に相手を斬る、より実戦的な刀が武器として求められるようになった。
・やがて戦が頻繁に起こり、膨大な数の刀が使われるようになると武将は数十人の刀匠集団を引き連れるようになり、戦に赴いた。刀匠たちは刀をつくるだけではなく、戦で折れたり曲がったりした刀をその場で再生しなければならなかった。
・そんな時代、刀匠の村正が問いつづけたのが、実戦において求められる刀とは何か、真に強い刀とは何か、その問いの答えとしてつくったのが村正だった。
・村正は他の名刀とどこが違うのか。村正と並び称される刀匠に相州相模の正宗がいる。初代の2人が活躍した時代は大きく異なるものの、村正が正宗の弟子であったとするこんなエピソードが伝えられている。
・「どんな刀よりも切れる刀がつくりたい」村正はその技を磨くため、刀匠の頂点にいた正宗に弟子入りし、一心不乱に日々励んでいた。そんな弟子の刀をみて正宗は、村正の刀工としての将来を案じる。「この男のつくる刀は不吉である」と。
・そこで正宗は名刀とは何なのかを教えるために、互いの刀を川に突き刺した。すると1枚の木の葉が流れてきて、正宗の刀を避けるように流れていった。ところが木の葉は村正の刀に吸い寄せられ、真っ二つになった。
・正宗は「切れるだけでは真の名刀とはいえない」と諭した。必要以上に切れ味にこだわると、その心は邪気となった刀に宿る。切らなくていいものまで切ってしまうと。
・村正の刀には邪気が棲みつき、その邪気が無用な血を流してしまう。村正と正宗の目指す刀の違いがよく分かる伝説だ。
・しかし村正は自分の作風を変えようとはしなかった。では、村正の刀はなぜ正宗を越えるほどの切れ味を誇るのか。
・村正の切れ味とはどれほどのものなのか。今に残る村正は美術的価値が高く、切れ味を容易に試すことはできない。実際に村正を研いだことのある刀剣研磨師の人間国宝・永山光幹は、村正の切れ味についてこんな体験を明かしている。よく切れる刀で、しかも荒々しい切れ味。古名刀などだと研いでいて知らず知らずのうち手に食い込んで血を見て初めて痛みを感じるが、村正はこれと対照的に切ると即座に痛みを感じる。
・一体何がこの違いを生んでいるのか。かつて村正の謎を解明するため科学的な検証に挑んだ人物がいた。昭和の初期、金属学の権威として世界的に名を馳せていた東北帝国大学の本多光太郎は、切断した紙の枚数から切れ味を数値化する試験器を開発し、古来から伝わる日本の名だたる名刀の切れ味を測定した。
・すると他の名刀が一定の数値を示すのに対し、村正だけは切れ味が一定しなかったという。科学では解明できない村正の切れ味、金属学の権威をしてもその理由は分からなかった。
<解明 村正の切れ味の秘密とは>
・村正の切れ味の秘密はどこにあるのか。手がかりを求め、岐阜県関市の関鍛冶伝承館を訪ねた。鎌倉時代から700年続く関鍛冶の技を今に伝える施設。
・かつて美濃国は兼元、兼定などの名刀を生み出してきた刀の名産地。村正がつくられた桑名も元々は美濃系の流れを汲んでいたと言われている。室町時代から続く刀匠の末裔である吉田研さんは25年前、実際に村正を手にしたことがあるという。その印象は?
見た目でいうと、いかにも切れるなと。刃が高かったり低かったり、低いところだと刃紋があるかないかぐらいだった。それぐらい凄みが感じられた(吉田さん)
・吉田さんはそもそも実戦における日本刀の切れ味とは、単によく切れることではないという。
切れ味とは刃が欠けにくいことをいう(同上)
・何人もの敵を相手にしなければならない戦場では、鋭い切れ味が持続する刀が求められた。村正の切れ味がいいというのはよく切れるのはもちろんのこと何度使っても曲がらず、刀を受けても折れない丈夫なことを意味すると吉田さんは言う。
<村正はどのように作られたのか>
・古来から続く一般的な刀のつくり方は、まず材料となる砂鉄を炭の火で溶かし、刀の元となる玉鋼をつくる。その鋼をひたすら槌で叩いて延ばしていく、それをまた折っては延ばすという作業を繰り返すことで鋼を鍛え、より切れる刀に仕上げていく。
・使っていて曲がらないようにするには、刀身を硬くする必要がある。その硬さを左右するのが炭の火で溶かす際に鋼に含まれる炭素の量。少ないと柔らかくなり、多いと硬くなるため、曲がらない刀にするには炭素量を多くして硬くすればいいのだが、硬すぎると衝撃をまともに受け折れてしまう。
・そこで刀匠は炭素量の多い鋼に炭素量の少ない鋼を組み合わせることで衝撃を吸収して折れにくい刀をつくり上げる。刀匠村正は、その作業にある工夫を施していたのではないかと吉田さんは言う。
・古い時代の鋼は精錬技術が未熟だったため、鋼に含まれる炭素量が極端に多かったり少なかったりとムラがあった。刀匠村正は組み合わせる卸鉄のムラを上手く使うことで、硬すぎず柔らかすぎない絶妙な鋼をつくり、曲がらず折れずを成し遂げたと考えられる。
・さらに村正にはもう一つ、刀を強くする秘密があるという。刃文に村正の強さの秘密が隠されていた。刃文は刀の個性であり、武士たちはより美しい刃文を求めた。特に刀匠村正が活躍した戦国時代に好まれたのが刃文の高い部分と低い部分が交互に連続する波のような模様。こうした刃文は焼き入れの際に刀身に焼刃土を塗ることで生み出される。
・焼刃土とは耐火性のある土に砥石の粉や炭の粉を混ぜ合わせたもの。焼刃土を塗った刀を火で熱した後、水に入れて急激に冷やすことで刃文が現れる。その際、焼刃土を厚く塗った部分が広ければ刃文も高くなる。しかし焼刃土を厚く塗った部分は火が通りにくくなるため、刃文の高い部分は低い部分より鋼の結合が弱くなり、刀が折れやすくなる。つまり刀は刃文を美しく出すほど脆い刀になるということになる。
・ところが村正には刃文を美しく出しながら刀を強くするある工夫が施されているという。
刃文が高いところと低いところが出てくる。高いところの中にもいわゆるグレーゾーンをつくって折れにくくしているのではないか(吉田さん)
・グレーゾーンとは刃文のように見えながら地金に近い硬さを持つ中間的な部分のこと。村正の刀はこのグレーゾーンをつくることで脆い部分が減り折れにくくなっているのではないかという説もある。
・刀匠村正の計算し尽くされた緻密な刀づくりによって生み出された比類のない切れ味。良く切れ、かつ丈夫である。この2つの性質を兼ね備えた名刀だからこそ、村正は戦に命を懸ける武士たちの心を捉えたのだ。
<語り継がれる妖刀伝説 村正が幕府を救った>
・徳川家に仇をなす村正は、太平の世になっても様々な事件の影の主役として歴史にその名を刻み続けた。
・幕府の外交をまとめた「通航一覧」には、村正にまつわるこんな事件が記されていた。鎖国が始まったばかりの江戸時代初期、長崎での貿易を取り締まる長崎奉行の密輸が発覚。奉行は捕らえられ切腹を申し渡された。しかし切腹の罪状は密輸の罪ではなく別の罪にあったというのだ。
長崎奉行の自宅を調べたところ村正が24本見つかった。「通航一覧」の編者が言うには、村正について「御当家三代有不吉例」のため妖刀として禁止されていた。それが出てきたので自害を命じられたのではないか(小和田氏)
・こうしてまことしやかに幕府内で広がっていった村正の妖刀伝説が、今度は幕府の危機を救うことになった。江戸幕府の誕生から約50年後の慶安4年(1651年)、幕府は治安の乱れという問題に苦慮していた。政権の維持を図るため、反乱の可能性が少しでもある大名を次々と取り潰した結果、市中には浪人があふれ、中に生活苦から盗賊や追いはぎに身を落とす者も少なくなかった。やがて彼らは幕府に不満を持つようになった。
・そんなとき浪人たちの支持を集めたのが軍学者の由井正雪だった。正雪は幕臣としての取り立てを拒否し、塾を開いて浪人救済を唱えた。そしてこの年の4月、3代将軍・徳川家光が病死。11歳の家綱が4代将軍となると、正雪は今がチャンスと幕府の転覆を計画した。世に言う由井正雪の乱である。
・しかしこの企みは仲間の密告によって幕府に知られることになった。正雪は本当に幕府を倒そうとしているのか、その真意を質すため役人を送り込み、そのとき使われたのが村正だった。役人に村正を見せられた正雪はそれを欲し、幕府転覆計画が暴かれたという。
<なぜ村正の妖刀伝説が庶民に広まったのか>
・村正にまつわる数々の伝説は当初は武士たちの間で伝えられてきたが、それが突如、庶民の間にまで広まることになった。そこには江戸庶民の娯楽の中心だった歌舞伎が関係していたという。
「八幡祭小望月賑」という歌舞伎があり、深川の芸者を刺し殺ろすシーンで使われたのが村正だった(小和田氏)
・さらに村正が歌舞伎の中で恐ろしい力を見せつけるのが「籠釣瓶花街酔醒」。村正を持った佐野次郎左衛門がその妖力に取り憑かれ、自分を袖にした花魁の八ツ橋をはじめ次々と人を斬りつけ、100人も殺してしまうというもの。
・こうして村正は歌舞伎で過激に演出されたことで、災いをもたらす刀として知れ渡り、妖刀のイメージが定着してしまった。
<村正が江戸幕府を追い詰めた その理由とは>
・風雲急を告げる幕末、嘉永6年(1853年)、黒船が来航したことに端を発し、尊皇攘夷の思想が活発化。戦乱の世が途絶えて2百数十年、無用となっていた刀は再び武士の必需品となった。
・刀は飛ぶように売れ、中でも倒幕を目指す志士たちの人気を呼んだのが村正だった。しかし残る本数も少なかった村正は価格が高騰、本物を手に入れられず、やむなく手持ちの刀に自ら村正の銘を刻んだ者もいたという。
・そんな倒幕派の志士たちの中でも妖刀村正を特に欲したのが、薩摩藩の西郷隆盛。彼は複数の村正を手に入れるほどの収集家だったという。
・西郷のお気に入りは鉄の扇に仕込んだ村正。両刃づくりの短刀で茎(なかご)に村正の銘が刻まれている。その鉄扇の骨にはこんな詩が彫り込んであった。
七首腰間に鳴り
粛々として北風起こる
平生壮士の心
以て寒水を照すべし
・これは中国の戦国時代、衛の荊軻が燕の太子丹に頼まれ秦の始皇帝を暗殺すべく出発するときに詠んだ詩だった。荊軻が暗殺に失敗して殺されたように、自分もいつ殺されるか分からない倒幕への道。西郷の悲壮な決意を支えていたのは、徳川家に仇をなす妖刀村正だったのだ。
・そして慶応4年(1868年)4月11日、西郷を江戸城を無血開城へと導き、悲願の維新を成し遂げた。その後、西郷は新政府の中心となって国づくりを進めていくが、当時鎖国下にあった朝鮮国に対する征韓論を巡って政争が勃発。下野した西郷は鹿児島に戻ると、政府に反抗する西南戦争の総大将に担がれ、敗北。切腹し生涯を終えた。そのとき西郷が自らの腹を切り裂いた刀が村正だったとも言われている。
(2016/9/15視聴・2016/9/15記)
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「家康が恐れた妖刀村正」
(BS-TBS・2016/9/12放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/
<感想>
「妖刀村正」を巡るエピソードという、なかなかマニアックで面白い話なんですが…TBSさん、毎回この番組を観ていて非常に気になるのが一つあります。それは再現VTRの役者さんたちの「カツラ」。
今回の家康さんは酷かったですね、カツラの線、付け髭も目立ちすぎますよ(苦笑)
衣装・美術担当の方、ちょっと何とかならないでしょうか…。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・愛知県名古屋市にある徳川美術館。徳川家康のほか、尾張徳川家を中心とした1万点以上の品を所蔵する美術館で最も人気があるものといえば、今ブームを沸き起こしている刀剣。
・中でも人々を惹きつけてやまない刀が「刀銘村正」。室町時代につくられ家康自ら所持していたといわれる名刀。その一方で村正は数々の伝説に彩られた不思議な力を宿す妖刀としても知られている。
・まさにそう思わせるような妖しい刀の佇まい。
・凄まじい切れ味と得体のしれない力を秘めた村正を心底恐れた男がいた。刀の持ち主である徳川家康その人だった。
・刀匠村正が鍛え上げた執念の日本刀。一体この刀の何が家康を恐れさせたのか。家康との不吉な因縁とは。
・村正を持つべからず。徳川に仇をなす妖刀伝説は家康の自作自演だった。その驚きの真相とは。
・流れる木の葉が真っ二つ。数ある日本刀の中で指折りの切れ味を持つと言われる村正に、どんな秘密が隠されているのか。
・村正が江戸幕府を滅ぼした?幕府滅亡と村正の知られざる関係にも迫る。
<名刀村正と徳川家康との因縁とは>
・日本刀を代表する村正は室町時代から江戸時代初期にかけて伊勢国桑名で作られた。凄まじい切れ味を誇り、武将たちがこぞって求めた刀でもあった。そのバリエーションは幅広く、刀はもちろんのこと短刀、脇差、さらに槍にまで及ぶ。
・さらに村正の魅力の一つが刀の姿。刃の模様である刃紋の表と裏が揃い、そのシンメトリーな美しさを際立たせている。
・そして刀身の前方で反る先反りは、振り下ろしたときの一気に肉に切り込む実戦的な形、武士に愛された所以だ。
・そんな村正と家康にはどんな因縁があったのか。それは天文18年(1549年)のこと。家康がまだ7歳で、駿府の今川家に人質に取られていたとき。驚きの知らせが飛び込んできた。三河国岡崎城主だった父・松平広忠が、謀反を企てた家臣の岩松八弥に刺し殺されてしまった。
・このとき岩松が握りしめていた刀が村正だった。父の命を奪った憎き刀、しかも村正の災いはこれが初めてではなかった。遡ること14年の天文4年(1535年)、家康の祖父・松平清康の異様な死。宿敵である織田家との合戦のさなかに忌まわしい事件が起きた。家康以前の徳川家の歴史を記した「三河後風土記」にはこう記されている。
清康君守山の御陣屋にて
千子村正の刀にて御肩より
左の脇まで一刀に切られ給ふ
・祖父もまた家臣に村正で斬り殺されていたのだ。
・時は流れて天正7年(1579年)、家康が37歳のときのこと。村正との忌まわしい因縁が蘇る。清須同盟によって盟友となっていた織田信長に、あろうことが正室の築山殿と嫡男・信康が武田家と内通していると疑われ、二人の処分を迫られた。
・22年間、家康に仕えてきた妻・築山殿。そして優秀な跡継ぎの信康。この二人を失うことは自らの身を切るより辛いことだった。しかし徳川家を守るためには仕方がない、家臣たちが築山殿を惨殺した。このときの刀が奇しくも村正。
・その半月後、家康は信康に対し切腹を命じた。まだ21歳の若さだった。家臣から我が子の死の報告を受けた家康は悲しみの中、ふと思い出したようにこう聞いたという。
「介錯に使った刀は誰の作か」
「村正でございます」
・またしても村正。なぜに村正は祖父、父、妻、息子と身内の命を奪い続けるのか。次はまさか自分では…。恐れをなした家康はこう家臣に命じた。
さてもあやしき事もあるものかな
いかにしてこの作の当家に
障りある事かな
この後は差料の中に
村正があらば皆取り捨てよ
(「徳川実紀」より)
・村正は呪われた刀であるとして、家臣が持つことを禁じた。こうして村正は徳川家に仇をなす刀として知られるようになり、いつしか妖刀と呼ばれるようになった。
・密かに天下取りを狙う家康にとってこの先、村正はどんな災いをもたらすのか。そんな家康の不安が現実のものとなる事件が起きた。
・関ヶ原の戦いで東軍に加勢し武功をあげた織田長孝を褒めたときのことだった。聞けば長孝の槍は鎧を着けた敵将を刺しただけではなく背中まで貫通し、刃こぼれ一つなかったという。
・家康がその槍を見分しようとしたとき、ふとしたはずみで槍を取り損ない手に傷を負ってしまった。まさかと思い聞くと、その槍は村正だった。
・それを知った家康は槍を叩き折ったとも、怒って立ち去ったとも伝えられている。家康と村正の不思議な因縁、遂に家康は村正に命を狙われることになる。
<大坂夏の陣 家康に突撃した真田信繁が手にしていたのは>
・慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣。家康は豊臣家を滅ぼすため、最後の戦を仕掛けた。その前に立ちはだかったのが打倒・家康に執念を燃やす豊臣方の武将。後に日の本一の兵と言われる真田信繁。
・決戦の舞台は大坂城。攻める徳川軍12万に対して守る豊臣軍は5万。兵力で圧倒する徳川軍。しかし信繁はまだ諦めていなかった。家康さえ倒せば敵は総崩れになると読んでいた。何が何でも家康を討ち取りたい、信繁の熱い思いは腰に差した刀に託されていた。「名将言行録」にはこう記されている。
真田信繁は家康の
滅亡を願っていて
徳川家に仇をなす
妖刀村正を持っていた
・信繁は家康への呪いを込め、村正を持っていたというのだ。そして遂に村正を使うときがやってきた。5月7日、1万5千の兵に守られた家康の本陣に、僅か3千5百の兵で信繁は決死の突撃を仕掛けた。反撃を受けながらもなお突き進み、遂に家康本陣へ。
・このとき信繁が家康に向かって投げつけた刀が村正だったと言われている。家康は間一髪、危機を逃れ命拾いしたが村正が家康を死の寸前まで追い詰めていた。
<なぜ家康自身が村正を持っていたのか>
・なぜ家康自身は徳川家に災いをもたらす村正を持っていたのか。日本中世史専攻で戦国時代の合戦や兵法に詳しい小和田泰経氏はこう指摘する。
家康自身、村正に惚れ込んで所持していたと言われていて、独占するために妖刀伝説を流したと言われている(小和田氏)
・江戸時代に「常山紀山」という逸話集があるが、その中で豊臣秀吉が五大老の刀をみて持ち主を当てたというエピソードがある。それぞれ次のような刀だったという。
・宇喜多秀家→華美な刀
・上杉景勝→長い刀
・毛利輝元→変わった刀
・前田利家→古い刀
・徳川家康→実用刀
<村正と正宗の切れ味の違いとは>
・名刀村正。天下人・家康がその凄まじい切れ味に惚れ込み、そして恐れた刀。これをつくり上げたのが伊勢国桑名で6代続いたとも言われる刀匠村正。
・初代村正が活躍した室町時代は、刀が大きな変化を迎えていた。日本刀は古代からつくられていたが、聖徳太子と言われる人物の肖像画に描かれているように、古い時代は太刀を腰からぶら下げ儀式の道具として使うことが主だった。
・それが武士の時代になり戦国の世となると、刀の鞘を腰の帯に差し込むようになる。抜き様に一気に相手を斬る、より実戦的な刀が武器として求められるようになった。
・やがて戦が頻繁に起こり、膨大な数の刀が使われるようになると武将は数十人の刀匠集団を引き連れるようになり、戦に赴いた。刀匠たちは刀をつくるだけではなく、戦で折れたり曲がったりした刀をその場で再生しなければならなかった。
・そんな時代、刀匠の村正が問いつづけたのが、実戦において求められる刀とは何か、真に強い刀とは何か、その問いの答えとしてつくったのが村正だった。
・村正は他の名刀とどこが違うのか。村正と並び称される刀匠に相州相模の正宗がいる。初代の2人が活躍した時代は大きく異なるものの、村正が正宗の弟子であったとするこんなエピソードが伝えられている。
・「どんな刀よりも切れる刀がつくりたい」村正はその技を磨くため、刀匠の頂点にいた正宗に弟子入りし、一心不乱に日々励んでいた。そんな弟子の刀をみて正宗は、村正の刀工としての将来を案じる。「この男のつくる刀は不吉である」と。
・そこで正宗は名刀とは何なのかを教えるために、互いの刀を川に突き刺した。すると1枚の木の葉が流れてきて、正宗の刀を避けるように流れていった。ところが木の葉は村正の刀に吸い寄せられ、真っ二つになった。
・正宗は「切れるだけでは真の名刀とはいえない」と諭した。必要以上に切れ味にこだわると、その心は邪気となった刀に宿る。切らなくていいものまで切ってしまうと。
・村正の刀には邪気が棲みつき、その邪気が無用な血を流してしまう。村正と正宗の目指す刀の違いがよく分かる伝説だ。
・しかし村正は自分の作風を変えようとはしなかった。では、村正の刀はなぜ正宗を越えるほどの切れ味を誇るのか。
・村正の切れ味とはどれほどのものなのか。今に残る村正は美術的価値が高く、切れ味を容易に試すことはできない。実際に村正を研いだことのある刀剣研磨師の人間国宝・永山光幹は、村正の切れ味についてこんな体験を明かしている。よく切れる刀で、しかも荒々しい切れ味。古名刀などだと研いでいて知らず知らずのうち手に食い込んで血を見て初めて痛みを感じるが、村正はこれと対照的に切ると即座に痛みを感じる。
・一体何がこの違いを生んでいるのか。かつて村正の謎を解明するため科学的な検証に挑んだ人物がいた。昭和の初期、金属学の権威として世界的に名を馳せていた東北帝国大学の本多光太郎は、切断した紙の枚数から切れ味を数値化する試験器を開発し、古来から伝わる日本の名だたる名刀の切れ味を測定した。
・すると他の名刀が一定の数値を示すのに対し、村正だけは切れ味が一定しなかったという。科学では解明できない村正の切れ味、金属学の権威をしてもその理由は分からなかった。
<解明 村正の切れ味の秘密とは>
・村正の切れ味の秘密はどこにあるのか。手がかりを求め、岐阜県関市の関鍛冶伝承館を訪ねた。鎌倉時代から700年続く関鍛冶の技を今に伝える施設。
・かつて美濃国は兼元、兼定などの名刀を生み出してきた刀の名産地。村正がつくられた桑名も元々は美濃系の流れを汲んでいたと言われている。室町時代から続く刀匠の末裔である吉田研さんは25年前、実際に村正を手にしたことがあるという。その印象は?
見た目でいうと、いかにも切れるなと。刃が高かったり低かったり、低いところだと刃紋があるかないかぐらいだった。それぐらい凄みが感じられた(吉田さん)
・吉田さんはそもそも実戦における日本刀の切れ味とは、単によく切れることではないという。
切れ味とは刃が欠けにくいことをいう(同上)
・何人もの敵を相手にしなければならない戦場では、鋭い切れ味が持続する刀が求められた。村正の切れ味がいいというのはよく切れるのはもちろんのこと何度使っても曲がらず、刀を受けても折れない丈夫なことを意味すると吉田さんは言う。
<村正はどのように作られたのか>
・古来から続く一般的な刀のつくり方は、まず材料となる砂鉄を炭の火で溶かし、刀の元となる玉鋼をつくる。その鋼をひたすら槌で叩いて延ばしていく、それをまた折っては延ばすという作業を繰り返すことで鋼を鍛え、より切れる刀に仕上げていく。
・使っていて曲がらないようにするには、刀身を硬くする必要がある。その硬さを左右するのが炭の火で溶かす際に鋼に含まれる炭素の量。少ないと柔らかくなり、多いと硬くなるため、曲がらない刀にするには炭素量を多くして硬くすればいいのだが、硬すぎると衝撃をまともに受け折れてしまう。
・そこで刀匠は炭素量の多い鋼に炭素量の少ない鋼を組み合わせることで衝撃を吸収して折れにくい刀をつくり上げる。刀匠村正は、その作業にある工夫を施していたのではないかと吉田さんは言う。
・古い時代の鋼は精錬技術が未熟だったため、鋼に含まれる炭素量が極端に多かったり少なかったりとムラがあった。刀匠村正は組み合わせる卸鉄のムラを上手く使うことで、硬すぎず柔らかすぎない絶妙な鋼をつくり、曲がらず折れずを成し遂げたと考えられる。
・さらに村正にはもう一つ、刀を強くする秘密があるという。刃文に村正の強さの秘密が隠されていた。刃文は刀の個性であり、武士たちはより美しい刃文を求めた。特に刀匠村正が活躍した戦国時代に好まれたのが刃文の高い部分と低い部分が交互に連続する波のような模様。こうした刃文は焼き入れの際に刀身に焼刃土を塗ることで生み出される。
・焼刃土とは耐火性のある土に砥石の粉や炭の粉を混ぜ合わせたもの。焼刃土を塗った刀を火で熱した後、水に入れて急激に冷やすことで刃文が現れる。その際、焼刃土を厚く塗った部分が広ければ刃文も高くなる。しかし焼刃土を厚く塗った部分は火が通りにくくなるため、刃文の高い部分は低い部分より鋼の結合が弱くなり、刀が折れやすくなる。つまり刀は刃文を美しく出すほど脆い刀になるということになる。
・ところが村正には刃文を美しく出しながら刀を強くするある工夫が施されているという。
刃文が高いところと低いところが出てくる。高いところの中にもいわゆるグレーゾーンをつくって折れにくくしているのではないか(吉田さん)
・グレーゾーンとは刃文のように見えながら地金に近い硬さを持つ中間的な部分のこと。村正の刀はこのグレーゾーンをつくることで脆い部分が減り折れにくくなっているのではないかという説もある。
・刀匠村正の計算し尽くされた緻密な刀づくりによって生み出された比類のない切れ味。良く切れ、かつ丈夫である。この2つの性質を兼ね備えた名刀だからこそ、村正は戦に命を懸ける武士たちの心を捉えたのだ。
<語り継がれる妖刀伝説 村正が幕府を救った>
・徳川家に仇をなす村正は、太平の世になっても様々な事件の影の主役として歴史にその名を刻み続けた。
・幕府の外交をまとめた「通航一覧」には、村正にまつわるこんな事件が記されていた。鎖国が始まったばかりの江戸時代初期、長崎での貿易を取り締まる長崎奉行の密輸が発覚。奉行は捕らえられ切腹を申し渡された。しかし切腹の罪状は密輸の罪ではなく別の罪にあったというのだ。
長崎奉行の自宅を調べたところ村正が24本見つかった。「通航一覧」の編者が言うには、村正について「御当家三代有不吉例」のため妖刀として禁止されていた。それが出てきたので自害を命じられたのではないか(小和田氏)
・こうしてまことしやかに幕府内で広がっていった村正の妖刀伝説が、今度は幕府の危機を救うことになった。江戸幕府の誕生から約50年後の慶安4年(1651年)、幕府は治安の乱れという問題に苦慮していた。政権の維持を図るため、反乱の可能性が少しでもある大名を次々と取り潰した結果、市中には浪人があふれ、中に生活苦から盗賊や追いはぎに身を落とす者も少なくなかった。やがて彼らは幕府に不満を持つようになった。
・そんなとき浪人たちの支持を集めたのが軍学者の由井正雪だった。正雪は幕臣としての取り立てを拒否し、塾を開いて浪人救済を唱えた。そしてこの年の4月、3代将軍・徳川家光が病死。11歳の家綱が4代将軍となると、正雪は今がチャンスと幕府の転覆を計画した。世に言う由井正雪の乱である。
・しかしこの企みは仲間の密告によって幕府に知られることになった。正雪は本当に幕府を倒そうとしているのか、その真意を質すため役人を送り込み、そのとき使われたのが村正だった。役人に村正を見せられた正雪はそれを欲し、幕府転覆計画が暴かれたという。
<なぜ村正の妖刀伝説が庶民に広まったのか>
・村正にまつわる数々の伝説は当初は武士たちの間で伝えられてきたが、それが突如、庶民の間にまで広まることになった。そこには江戸庶民の娯楽の中心だった歌舞伎が関係していたという。
「八幡祭小望月賑」という歌舞伎があり、深川の芸者を刺し殺ろすシーンで使われたのが村正だった(小和田氏)
・さらに村正が歌舞伎の中で恐ろしい力を見せつけるのが「籠釣瓶花街酔醒」。村正を持った佐野次郎左衛門がその妖力に取り憑かれ、自分を袖にした花魁の八ツ橋をはじめ次々と人を斬りつけ、100人も殺してしまうというもの。
・こうして村正は歌舞伎で過激に演出されたことで、災いをもたらす刀として知れ渡り、妖刀のイメージが定着してしまった。
<村正が江戸幕府を追い詰めた その理由とは>
・風雲急を告げる幕末、嘉永6年(1853年)、黒船が来航したことに端を発し、尊皇攘夷の思想が活発化。戦乱の世が途絶えて2百数十年、無用となっていた刀は再び武士の必需品となった。
・刀は飛ぶように売れ、中でも倒幕を目指す志士たちの人気を呼んだのが村正だった。しかし残る本数も少なかった村正は価格が高騰、本物を手に入れられず、やむなく手持ちの刀に自ら村正の銘を刻んだ者もいたという。
・そんな倒幕派の志士たちの中でも妖刀村正を特に欲したのが、薩摩藩の西郷隆盛。彼は複数の村正を手に入れるほどの収集家だったという。
・西郷のお気に入りは鉄の扇に仕込んだ村正。両刃づくりの短刀で茎(なかご)に村正の銘が刻まれている。その鉄扇の骨にはこんな詩が彫り込んであった。
七首腰間に鳴り
粛々として北風起こる
平生壮士の心
以て寒水を照すべし
・これは中国の戦国時代、衛の荊軻が燕の太子丹に頼まれ秦の始皇帝を暗殺すべく出発するときに詠んだ詩だった。荊軻が暗殺に失敗して殺されたように、自分もいつ殺されるか分からない倒幕への道。西郷の悲壮な決意を支えていたのは、徳川家に仇をなす妖刀村正だったのだ。
・そして慶応4年(1868年)4月11日、西郷を江戸城を無血開城へと導き、悲願の維新を成し遂げた。その後、西郷は新政府の中心となって国づくりを進めていくが、当時鎖国下にあった朝鮮国に対する征韓論を巡って政争が勃発。下野した西郷は鹿児島に戻ると、政府に反抗する西南戦争の総大将に担がれ、敗北。切腹し生涯を終えた。そのとき西郷が自らの腹を切り裂いた刀が村正だったとも言われている。
(2016/9/15視聴・2016/9/15記)
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