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【NNNドキュメント’16】あざと生きる~雅治君と「血管」難病の12年~

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【NNNドキュメント’16】
「あざと生きる~雅治君と「血管」難病の12年~」

(日本テレビ系列・2016/6/13放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 「障害は個性の一つだ」と簡単に言うことはできないと私は思っています。その重度も個人によって違うし、ましてや障害を持っていない者が軽々しく言うべきではないと思うからです。

 今回のお話はすごく考えさせられました。顔や体のあざを持つ人が身の回りでいたら…。それを蔑んだりすることは最低の人間のすることだと思うので自分はしないのは当然ですが、やっぱり全く気にしないといえば嘘になるでしょう。私だったら逆に気を遣ったりするかもしれません。それがかえって相手に伝わったら、傷つけてしまうのではないかとか、いろいろ考えてしまうのです。

 それでも、番組の最後に笑顔でインタビューに答えた雅治くんの表情をみたら、そんな難しいことを考えなくても「人は中身が何よりも一番」だと思いましたね。どんなに美しい顔形をしていたとしても心が醜い人は醜い人です(そういう人は必ずといっていいほど表情に出ます)。もちろん心が優しい人はそれが表に出るし、(表面上の)違いがあっても人と人は分かり合えると思います。

 この世から差別や偏見を全て無くすというのは難しいかもしれません。顔のあざが原因で結婚相手の家族と破談になるようなことが全くゼロにはならないかもしれません。それでも、人が人として生きていくためにはお互いの「違い」を認め合うという社会をつくっていけば、それを無くす方向には確実に向かっていくのではないかと思いましたね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・岩川雅治君。生まれたときから顔の右半分に大きな赤いあざがある。お兄ちゃんにはない。
・痛い治療を我慢してあざが少し無くなったが、初めて見る雅治君のあざに同級生たちからの質問は容赦ない。それからあざのことを気にしない日は1日もなかった。
・あざを背負って生きてきた雅治君の12年。

<原因不明の病気で顔にあざがある男の子>
・蔵王連峰の中腹、雅治君の自宅は山形県上山市にある。両親はそこで山荘を経営している。彼は4人家族の次男、明るくてひょうきんな笑顔の絶えない子。
・たった一つ、他の子と違うのは顔にあざがあること。2004年に生まれた雅治君。血管の異常によってできた腫瘍が皮膚の下にあるため、あざとして赤く見える。この病気はスタージ・ウェーバー症候群。5万人から10万人に1人という原因不明の病、家族であざがあるのは雅治君だけ。遺伝や感染はしないが…。

彼がまだ小さい頃にベビーカーに乗せて行くんですけど、そうすると、まあ見られますよね。すると、全然知らない見知らぬ老夫婦が背中を後ろからボンっと叩かれて「顔にやけどをさせるのは母親として失格だ」「100%母親の責任なんだ」「あんたは母親になる資格はない」と言われた(母・智恵さん)

・母としては、あざを少しでも薄くしてあげたい。生後4か月の頃からあざの原因、皮膚の下の腫瘍をレーザーで取り除く治療を続けていた。泣き叫ぶ雅治君、両親とも治療を見ていられない。

痛み、多少はあるんでしょうけど、あんなに大騒ぎするほどじゃないらしいんですけど。怖いものだという意識が植えついちゃっている(父・耕治さん)

・レーザー治療はこれまでに80回を超えていた。しかし今のレーザー治療の技術では皮膚の奥の腫瘍までは消せず、完全にあざをなくすことはできない。でもなるべく薄くしたい。この先も治療を続けていく。

<小学校入学、学校での生活は>
・2011年2月、雅治君の小学校への入学が迫っていた。母・智恵さんは学校説明会で、あることを話しておきたいと思っていた。

多分、うちの息子はずっと生まれたときから「顔が赤いね」「どうしたの?」とかっていうふうに言われ続けていまして。最近、保育園で同じお友達とトラブルがありまして、お友達をケガをさせてしまったということが起きました。できれば、こういう子がいるんだよということを入学前に皆様のお子様に言っていただければ…(智恵さん)

・小学校で息子につらい思いをできるだけさせたくない。

・2011年4月、小学校の入学式、雅治君のあざを知らない子どもたちと集団生活が始まった。
・雅治君に大きな変化が表れたのは、入学式から7か月後のこと。学芸会の出し物を紹介するクラスごとのポスターの中にそれはあった。そこには一人一人の自画像が。雅治君の頬には、保育園のときには描いたことは無かった顔のあざを初めて描いた。あざをさらに意識するようになっていた。
・学芸会の日の朝、雅治君は初めて全校生と大勢の保護者の前でステージに立つ。岩川家では毎日、家族一緒に朝食をとる。大事な日の朝は必ず白いご飯。蔵王の麓にある学校までは、山を下ってバスで通っている。
・お父さんとお母さんが心配なのはクラスメイトとうまくやれているか、その一点。本番直前、緊張感からか雅治君はあざを気にしていた。いよいよ1年1組の出番、1か月間クラスメイトと練習を重ねてきた。
・雅治君は大きな声でみんなに呼びかける役。落ち着いている様子。あざのあるなしは関係なく、みんなとうまくやれた。蔵王には秋の気配が漂っていた。
・2年生になった。今年も雅治君のあざを知らない新入生が入ってくる。あざを隠してやりたいお母さん、ファンデーションを塗ってあげた。雅治君は思った。ファンデーションは魔法の薬だと。3年生になっても入学式だけは魔法の薬を塗っていった。

<難病認定のため国に働きかける>
・3年生になった6月、雅治君の姿が厚生労働省にあった。難病への指定を求めるためだ。難病に指定されると治療法の開発に道が開ける。さらに患者や家族にとって大きな負担となっている医療費への補助も受けられるようになる。

「ぼつぼつ」と言われたり「何したの?」と言われたくないので、レーザーをしなくてもいいようにしてください。気まぐれに目眩がするときがあって、それも血管奇形が関係しているのだと思います。頭が痛くなるときがあります。検査をしてもよく分からないと言われます。だから分かるようにしてください。よろしくお願いします(厚労省に働きかける雅治君)

・この日はファンデーションを塗って行かなかった。2か月前、お父さんに「あざを一生隠し続けていくのか、それともオープンにしていくのか」と聞かれ「オープンにしていく」と答えた。でも、まだ気持ちは揺れていた。

・母・智恵さんたちが要望活動を始めてから7年後の去年7月に思いが実現し、スタージ・ウェーバー症候群が難病に指定された。

本当に自分の中では、本当に長い長い11年でした。早く難病になって、やっぱりこの世の中にこの病気を知ってもらいたいっていうことはありましたね(雅治君・当時5年生)

<同じようにあざを持つ男性との交流>
・雅治君と同じ思いを持つ人が。ある男性がFacebookで自分のあざの写真を堂々と公開していた。その男性は九州にいた。首藤雄三さん(57)、生まれたときから右側の上半身を中心に大きな赤いあざがある。彼の病気は雅治君と似た病気で、血管やリンパ管の異常によって腫瘍ができ、あざや手足の腫れが起こる。雅治君の病気と同時に難病していされた(クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群)。
・首藤さんは、あざが病気によるものだと知らぬまま人生の殆どを生きてきた。大学時代は相撲部、社会人になってからはスイミングスクールのコーチも務めた。あざを隠さず生きてきたが、偏見や差別も経験してきた。

社会人になったとき、初めて彼女ができた。お互いが結婚の方向に気持ちが向かってたときに、彼女のお母さんから呼び出されて「義理の息子がそんなあざのある人だったら、恥ずかしくて私は近所の人に紹介できない」と言われた(首藤さん)

・この女性との結婚はかなわなかった。しかしその後、首藤さんは別の女性と巡り会い、5人の子どもにも恵まれた。
・転機が訪れたのは去年10月、偶然受診した皮膚科で難病だと診断された。

僕は難病だったんだ。俺に何かできることあるんやないかなっていうのを、ずっと悶々と一晩考えて、もし同じ病気の人で悩んでる人がいるんやったら、出てこようよ、みんなで話し合おうよ(同上)

・難病と知った次の日、首藤さんは体のあざをFacebookで公開した。それを見つけた雅治君の父・耕治さんが早速、連絡を取った。「そう遠くない将来にお会いしたい」。メッセージを送った1か月後、ネットの電話を通して2人は会話した。雅治君たちの活動で実現した難病の指定。それがきっかけで首藤さんと雅治君が繋がった。

僕はみんなに顔のあざを言われて「きもい」とか、そういうひどい言葉を言われます。顔のあざのことを沢山言われて、時々嫌になったこともありました。質問なんですけど、首藤さんは僕くらいのときに、そういうことありませんでしたか?(雅治君)

おじさんは「赤猿」というあだ名が付いていた。みんなから赤猿、赤猿ってばかにされたり、触ったボールは(あざが)うつるから使えないといって、いじめを受けたことはあります。常におじさんは笑顔でかわすようにしてます。今も街を歩いていたら指をさされたりするんだけど、そのときでも笑顔で返すようにしています。ちょっと辛いけどね、辛いけど、笑顔で返したほうが相手が分かってくれると思いますよ(首藤さん)

・11歳と57歳、年の差46歳の友達だ。

悩んだり困ったりしたらこの人に頼って、この人に悩みとかを相談しようと。何でも質問してねって電話の最後に言ってくれて、それが心に響いた。

(あざを)治したいのはやまやまだけど、治らないんだったら治らないでいいや。治るまで待とうみたいな(雅治君)


・首藤さんと出会った雅治君、5年生の終わり頃からはあざを消したいとは思わなくなったという。クラスではちょっぴりおちゃめで、みんなに積極的に声をかけるムードメーカーになっている。

いつも楽しい話してくれるし、いつも声かけてくれたりしてくれます(クラスメイトの男子)

(あざ気になったりする?)
あっ、全然しません。普通にドッジボールとかしたり、いろいろ自慢したりして遊んでます(クラスメイトの女子)

皆(あざを)気にしていないなというのしか感じません。ていうか、自分でも忘れてるときあります(雅治君)

・この春、6年生になった。今日は小学校で入学式がある。今年もあざを知らない1年生が入ってくる。毎年ファンデーションを付けていくか迷ってきた。

(ファンデーション付けていかないの?)
あっ、付けませんよ。もう6年生だし(雅治君)

・最上級生、少し大人に見えた。

(中学で知らない人と一緒になる不安は?)
いや、ないっす。言われても(病気のことを)言えばいいというのと、生活に支障がないからと流す感じになっちゃいました(雅治君)

・大好きな野球ではチームのエースピッチャーを任された。かつてあざのことを言われ友達にケガをさせてしまったり、ファンデーションを魔法の薬と思った雅治君は、もういない。

あざがあるけど、そのおかげで今、自信を持って生きているみたいな、そんな感じ(雅治君)

・あざとともに生きていく。

(2016/6/16視聴・2016/6/16記)

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【にっぽん!歴史鑑定】松井須磨子はなぜ大女優になれた?

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【にっぽん!歴史鑑定】
「松井須磨子はなぜ大女優になれた?」

(BS-TBS・2016/6/13放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 松井須磨子さん、まさに波瀾万丈の人生に思えます。当時の人々にとっては若くして亡くなったことと、しかも病死した恋人の後を追うというセンセーショナルな死もあって、彼女を「伝説」のものにしたのかもしれません。

 客観的にみて彼女が不倫に走ったことは決して許されることではないと私は思います。現在でも世間的には厳しい目を向けられるでしょう。今年に入って不倫が発覚した某女優が活動自粛に追い込まれたのは記憶に新しいところです。

 ましてや当時はそれに加え「姦通罪」というものもあったわけで、今より厳しく干されてもおかしくない状況だったわけです。島村抱月の妻や子どもたちの心境を慮れば、女優だろうが何だろうが他人の家庭を破壊した悪人であることは紛れもない事実です。

 でも、それでも須磨子という人物に何か魅力を感じてしまうのが不思議なところです。おそらく彼女の演劇を観た人々がそう感じたから、こうして後世まで語られる人物になったのでしょう。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・テレビもラジオもなかった明治の末、流行をつくり出す最先端の娯楽といえば演劇だった。そんな演劇界に彗星の如く現れたのが、日本初の近代劇女優といわれる松井須磨子。絶世の美女とはいえない彼女がなぜ時代を背負うスター女優になれたのか。そこには涙ぐましい秘策があった。
・国民的スターに襲いかかるバッシングの嵐。須磨子は本当に金に汚い悪女だったのか。
・日本の流行歌第1号「カチューシャの唄」。音痴といわれた須磨子の歌がなぜ大ヒットしたのか。
・そして大学教授・島村抱月との不倫スキャンダル。禁断の恋の衝撃的な結末とは。

<松井須磨子の生い立ち>
・明治時代末期、歌舞伎などの古典的な演劇からの脱却を目指して、ヨーロッパの演劇を取り入れた新劇運動が盛んになった。その中心人物が文学界の重鎮・坪内逍遥だった。彼はヨーロッパから帰国したばかりの愛弟子・島村抱月らとともに文芸協会を設立。自宅に演劇研究所を設け、新劇俳優の第一期生を募集した。
・明治42年、その初めての選考試験にやって来た女性の一人が小林正子(後の松井須磨子)だった。演劇の経験は殆どなく、器量も十人並みだった彼女がなぜ女優を志すことになったのか。
・須磨子は明治19年(1886)、長野県清野村に小林藤太の5女として生まれた。小林家は江戸時代、松代藩に仕えていた武家。彼女は厳格な躾を受けて育つが、やがてその運命が一変した。16歳のとき父親が亡くなり、この子は都会で暮らした方がいいという父の遺言に従い上京することになった。
・東京では姉が嫁いでいた麻布飯倉の高級洋菓子店で働きながら、裁縫学校に通い花嫁修業。暫くして千葉県木更津の割烹旅館「鳥飼楼」の若旦那・鳥飼啓蔵に嫁いだ。やがては女将となり母となり平凡な日々を過ごしていく、そんな人生が待っているはずだった。
・ところが須磨子の結婚は僅か1年で破綻してしまった。夫に性病を移されたことが原因で子どもが産めない体になり、まるで追い出されるように離縁された。
・心身ともに傷ついた須磨子は暫く療養生活を送るが5年後、同じ長野県出身で東京俳優学校の日本史の講師だった前沢誠助と出会い、再婚。この新しい夫が彼女の人生を大きく変えることになった。

<松井須磨子が女優になるために行った秘策と努力>
・芝居好きの夫と舞台を観に行くうちに、須磨子は役者という仕事に興味を抱くようになった。ただ当時は江戸から続く歌舞伎が主流で、男が女役を演じるのが一般的だったが、彼女は男が女を演じるなんて不自然ではないかと思うようになった。
・やがて須磨子の中に女優になりたいという強い思いが芽生えていった。しかし我が身を振り返れば、演劇経験もなく器量も十人並み。そこで彼女は女優になるために、鼻を高くする隆鼻術という整形を行った。
・須磨子の夢を応援していた前沢は、坪内逍遥が設立した演劇研究所が研究生を募集していることを知り受験を勧めた。こうして彼女の女優への挑戦が始まったが、その試験は英語や小論文など難易度の高いものだった。
・試験の10日後、いよいよ合格発表。早稲田大学の掲示板には12人の合格者が貼り出された。その中に小林正子(須磨子)の名があったのだ。
・念願の研究所合格だったのだが、実は須磨子の成績は合格点に達していなかった。採点を担当した研究所の講師たちの殆どが不合格と判定する中、坪内逍遥が「我々は歌舞伎のような女形を使わないのだから、女性は一人でも多い方がよい」と主張。女優になろうとする女性が殆どいなかった時代、坪内の一声で彼女の合格が決まった。
・無我夢中で飛び込んだ新しい翻訳劇の世界。研究所での講義は勉学とは縁遠かった須磨子にとって未知の世界だった。芸術論や朗読法、心理学などハイレベルな講義が連日続いた。
・それでも負けず嫌いの須磨子は、不得意だった英語を克服するため知り合いを頼って独自に習い、文法を覚えるのが難しいと分かると文章を丸ごと暗記。他の研究生に追いつき追い越せと必死で食らいついていった。
・寝ても覚めても頭の中は演劇のことで一杯。もはや家庭生活のことは眼中になかった。家事が二の次三の次になり、夫の食事も納豆や味噌汁などを用意するだけ。ときには夕食がたい焼き一つだったこともあった。そんな生活に堪りかねた前沢は家を出てしまい半年後、正式に2人は離婚。僅か2年の結婚生活だった。
・女優として成功するためならどんな犠牲も厭わない。そんな須磨子の執念が実を結んだ。一期生の卒業試演会で「ハムレット」のオフィーリア役に抜擢された。恋人のハムレットに自分の父親を殺され、正気を失って死んでしまう悲劇の女性オフィーリア。彼女はこの役を全身全霊で演じ切り、無事試演会を成功に導いた。
・するとさらなるチャンスが舞い込んだ。たまたま試演会に来ていた帝国劇場の関係者から文芸協会に公演の申し入れがあったのだ。当時の帝国劇場といえば流行の最先端をいく国内最高の大劇場。この舞台での公演は新劇を世に知らしめる絶好の機会だった。
・こうして明治44年(1911)5月、文芸協会の記念すべき第1回公演の幕が上がった。そして7日間の公演は、旗揚げしたばかりの劇団にも関わらず好評を博した。
・ハムレットの成功で新劇の可能性に自信を持った文芸協会は、第2回公演の演目を決定した。それがノルウェーの劇作家イプセンの「人形の家」。弁護士の妻ノラが人形のように束縛される生活から抜け出すため、夫と子を捨てて家を飛び出し自立の道を歩もうとする物語。ハムレットのオフィーリアとは異なり、ノラは殆ど出突っ張りの重要な役どころだった。そのため研究所の3人の女性の中から誰が選ばれるのか、注目を集めた。
・激しい議論の末、ノラ役に選ばれたのは須磨子だった。一旦舞台に上がると輝きを放つ須磨子の存在感が高く評価された。
・演出を担当したのは、早稲田の教授で翻訳も手掛けた島村抱月。彼は大学の講義そっちのけで須磨子の演技指導に没頭した。
・明治44年11月28日・帝国劇場。「人形の家」の公演には多くの観客が詰めかけ、ノラを演じた須磨子の演技が大絶賛された。無名の須磨子が一躍、新劇界を代表するスター女優に駆け上がった。

<島村抱月との禁断の恋 その顛末とは>
・無名の研究生から瞬く間にスター女優となった松井須磨子。すると彼女を取り巻く男たちの目も変わっていった。文芸協会の有力スポンサーだった医師の酒井谷平は好色家として知られていて、彼女ものにしようと激しくアプローチ。また研究所の講師であり舞台の共演者でもあった東儀鉄笛も交際を迫ったが、彼女は全くなびかなかった。
・須磨子は文芸協会の設立メンバーだった島村抱月に想いを寄せていた。彼は早稲田大学初の留学生としてヨーロッパに渡り、帰国後は文芸誌「早稲田文学」を復刊するなど日本有数の知識人の一人。しかしその恋は許されないものだった。彼には妻と5人の子どもがいたのだ。
・さらに文芸協会内には恋愛禁止という決して破ってはならない掟があった。「男女七歳にして席を同じゅうせず」が常識だった当時、会長の坪内は恋愛問題が発覚しスキャンダルとなれば、世間から批判され文芸協会の存続が危うくなることを恐れていた。
・そのため掟を破った者に対する処分は厳しいもので、研究生の家で男女一緒に酒を飲んでいるのが二度見つかると退学。研究所の建物を移動する際、雨のときでも男女が一緒に傘に入っただけで退学となった。
・それでも須磨子は抱月への想いをどんどん募らせていった。恋の始まりは「人形の家」の公演のとき。何としても舞台を成功させたい演出家・抱月と、何としても女優として有名になりたい須磨子。二人の芝居の稽古は熱を帯び、互いがかけがえのない存在になっていった。
・舞台に懸ける二人の思いはやがて恋愛感情へと変わり、移動中に体を寄せ合ったり、人目に付く楽屋で接吻するなど二人の仲は文芸協会の中で公然の秘密となっていった。
・須磨子と抱月、互いに愛し合っていた二人だったが、抱月には離婚できない事情があった。実家が貧しかった彼は進学費用を援助してくれた恩義のある島村家の養子となり、その縁から島村家の娘・市子と結婚していた。さらに市子との間に5人の子どもがいたこともあって、簡単に離婚できる状況ではなかった。
・やがて抱月の妻も二人のただならない関係を知ることになった。抱月の留守中、市子が書斎の机の引き出しの中から決定的な証拠を発見した。それは便箋20枚に及ぶ、熱い須磨子へのラブレターだった。

<不倫発覚 須磨子へのバッシングとは>
・大正2年(1913)6月、スキャンダル記事が売り物の「萬朝報」には「松井須磨子引退」の見出しが。文芸協会が抱月との恋愛問題の責任をとるよう須磨子に退会を申し渡したと報じた。
・それ以後、妻子ある大学教授とスター女優との道ならぬ恋は新聞の恰好の餌食となり、社会的事件へと発展していった。一気に吹き出した文芸協会の不倫スキャンダル。その波紋は抱月と坪内を取り巻く早稲田大学内部の対立にまで広がっていった。
・事態を憂慮した早稲田大学の学長は話し合いの場を設けるため抱月を自宅に呼び、解決の糸口を探ろうとした。そのとき彼は須磨子を愛していると答え、さらに彼女とは今のところ肉体関係はないが将来どうなるか約束できないと言ったという。
・結局、坪内はこのスキャンダルが元で文芸協会の会長を辞任。協会の解散を宣言した。

<なぜ須磨子は悪女と言われてしまったのか>
・不倫スキャンダルの渦中にあった須磨子に対し、世間からバッシングの嵐が巻き起こった。差し入れや祝儀を独り占めしている、稼いでいる金を貯めこむ貪欲な女、さらに唯我独尊・わがままな女など、悪女だという噂が広まった。
・文芸協会の中心だった抱月を奪い、直接的な要因となって協会は解体してしまった。坪内は私費を投げ打ってまでつくったものを壊した須磨子に対し逍遥の弟子たちの反発は大きく、彼女の悪女伝説を広めたという。

<劇団解散の危機を救った名曲とは>
・大正2年(1913)7月、松井須磨子は島村抱月とともに芸術座を設立した。しかしそれは新たな波乱の幕開けでもあった。
・大学教授の職を捨て不慣れな劇団経営を始めた抱月は、不倫関係が続いていた須磨子を劇団の看板女優にした。するとスキャンダルの渦中にある須磨子を観てみたいという観客も多く、第1回公演は何とか席が埋まった。
・しかし続く第2回公演の評価は芳しいものではなく、観客数が激減。さらに須磨子の横柄な態度が劇団員の反発を呼び、中心となっていた俳優たちが次々と退団。深刻な資金難にも陥った芸術座は、次がダメなら解散という危機的状況に追い込まれた。
・抱月はラストチャンスともいえる第3回公演で起死回生を狙った。それがロシアの文豪トルストイの代表作「復活」の舞台化だった。当時トルストイは青年層を中心に大きなブームとなっていたからだ。
・ただ「復活」は社会の不条理や魂の復活をテーマにした重厚な小説。そのまま舞台化したのでは難しくて、客の入りは見込めない。そこで抱月は大衆受けを狙い、ヒロインのカチューシャと青年士官の恋を中心にした恋愛ドラマとして脚色した。
・さらにより娯楽性を持たせるため、劇中歌をカチューシャを演じる須磨子に歌わせることにした。歌詞は抱月自身が作詞し、作曲は後に「しゃぼん玉」「背くらべ」など童謡の作曲で知られるようになる中山晋平に依頼した。彼は早速作曲に取り掛かったが、なかなかメロディーが浮かばず1か月以上悪戦苦闘した末、ようやく曲を完成させた。
・それが「カチューシャの唄」だったのだが、一つ大きな問題があった。中山は「歌い手としての松井さんは正直のところ余りカンのよい方ではなく、声の質も上乗とは世辞にも云はれない」と語っている。

<なぜ「カチューシャの唄」はヒットしたのか>
・歌が決して得意ではなかった須磨子が歌う「カチューシャの唄」。ところがその歌はたちまち日本中に広まり、流行歌の第1号と言われるまでになった。
・理由の一つは、劇中で歌われた構成にあった。5幕構成の「復活」の舞台で「カチューシャの唄」は第1幕に一度歌われ、第4幕でもう一度歌われた。
・主人公に感情移入した観客に二度聴かせることで、より強い印象を与えることができた。
・この効果について中山は「ひとつの歌を程経てもう一度味わう場合、必ずその歌につきまとったもろもろの情景を思い出させずにはおかない」と言った。
・そして最大の理由は、欠点であるはずの須磨子の歌声だった。当時の劇評には「『カチューシャ可愛や』の唄哀調が、いかにもしみじみした幕切を見せていた」(読売新聞より)「『カチューシャ可愛や、わかれの辛さ』を唄ふ愛嬌は流石暖き味あり」(東京毎夕新聞)と、須磨子の歌声が感動を生んだと絶賛していた。
・上手くない歌声が逆に哀愁を帯びていると評価され、聴く人の心を打ってヒットした。
・こうして抱月の狙いは当たり「復活」の舞台は大入満員。芸術座の危機は救われた。
・その後「カチューシャの唄」はレコード化され、当時としては破格の2000枚を売り上げたという。蓄音機が高価で台数が少なかった時代、異例の大ヒットだった。須磨子は歌う女優第1号として、その人気を不動のものにした。

<人気絶頂の須磨子を襲った悲劇とは>
・「復活」で不動の国民的スターとなった須磨子だったが、抱月との関係は平行線を辿っていた。いつになったら結婚できるのかと不安を抱いた彼女はたびたび抱月に誓約書を書かせた。その実物が残されている。

私たち二人は一日も早く正式に夫婦となるように努め、万一芸術座不成立となるときは直ちに両人結婚の手続きをなし、二人の夫婦関係を破らざるようにすべし。

・何があっても抱月に寄り添っていきたい、それが須磨子の願いだった。
・芸術座を設立して2年、抱月が新劇運動の拠点にしようとする芸術倶楽部が完成した。この劇場には舞台や客席に加え、2階には須磨子の部屋や抱月の書斎などもあり、完成の暁には一緒に住む約束を交わしていた。まさに二人にとって夢の劇場。
・芸術座はその建設費を返済するため、国内はもちろん満州、ロシアなど175か所以上もの都市で巡業。人気もどんどん高まっていく須磨子に突如として悲劇が襲いかかった。
・大正7年(1918)、それまで過酷なスケジュールをものともしなかった須磨子が1か月後に向けての稽古中、スペイン風邪に罹り寝こんでしまった。スペイン風邪は今でいう新型インフルエンザのことで、この年に世界的に大流行し膨大な死者を出した。
・幸い須磨子はすぐに回復したが、今度は抱月にスペイン風邪が移ってしまった。

「僕のことはいいから、あなたは稽古に行きなさい」

・11月4日、須磨子は後ろ髪を引かれる思いで舞台稽古に出掛けた。そして稽古を終えた須磨子に知らされたのは、抱月の死だった。彼の死後、須磨子はこんな言葉を漏らしたという。

「私はもう死んでいるの。生きていても私の精神は、先生と一緒に死んでしまっているんです」

・それから2か月後の大正8年1月5日。須磨子は芸術倶楽部の大道具置場で自ら命を絶った。32歳の若さだった。女優として残りの人生を生きるより、愛に殉じる道を選んだ。
・松井須磨子の死は世間に大きな衝撃を与えた。新聞は号外を出し、須磨子の歌がつくられ、本が書かれ、映画もつくられた。まさに須磨子の人生そのものが芝居となったのだ。
・そして何より当時の世の女性たちの心を打ったのは、演劇での成功よりも抱月との恋を選んだ彼女の生き様だった。最後に女優の道を捨てた須磨子は、自らの死によって皮肉にも永遠の大スターとなった。

(2016/6/17視聴・2016/6/17記)

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【鉄道・絶景の旅】SLと花々が彩る秩父鉄道の旅

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【鉄道・絶景の旅】
「SLと花々が彩る秩父鉄道の旅」

(BS朝日・2016/6/17放送)
※公式サイト:http://www.bs-asahi.co.jp/tetsu_zekkei/

<感想>

 秩父鉄道の旅、SLパレオエクスプレスには乗ったことがありませんが3年前に全線乗車していますので、そのときの写真も合わせて掲載しておきます。

三峯神社

 今回の番組では秩父鉄道沿線で最も有名な観光地である三峯神社が完全にスルーされていました。どうにも理解できないですね(→訪問記はこちら)。

 さらに三峰口駅構内にある秩父鉄道車両公園も紹介されていません(→訪問記はこちら)。

 なんだか不完全燃焼気味の内容でした。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※列車や駅弁、観光地などの写真は全て番組のものではなく、私が個人的に撮影したものです。

・埼玉県北部を走る秩父鉄道の旅。
・熊谷駅がスタート。
・寄居駅で下車。こんにゃく、ところてんの老舗の店がある。
・SLパレオエクスプレス(C58形蒸気機関車363号機)に乗車。
・長瀞駅で下車。長瀞ラインくだり。
・皆野駅で下車。彩の国ふれあい牧場(車20分)。

和銅黒谷駅

・和銅黒谷駅で下車。ホームに「和同開珎」のオブジェ。聖神社、和銅露天掘り跡がある。
・秩父駅で下車。駅近くに秩父神社がある。老舗の旅館に宿泊。露天風呂付きの部屋。泉質は単純硫黄冷鉱泉。
・秩父ふるさと館で秩父銘仙の製品が購入できる。

御花畑駅

・御花畑駅で下車。羊山公園の芝桜は4月中旬~5月上旬が開花時期。鉄道ファンが経営する焼き鳥屋がある。
・浦山口駅で下車。秩父札所二十八番 石龍山橋立堂に橋立鍾乳洞がある。

三峰口駅

三峰口駅

・三峰口駅に到着。SLの転車台がある。

※番組で紹介されている店名、宿泊先名などの情報は、直接番組をご覧いただくか公式サイト等でご確認ください。

(2016/6/18視聴・2016/6/18記)

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【歴史秘話ヒストリア】コーフン!古墳のミステリー

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【歴史秘話ヒストリア】
「コーフン!古墳のミステリー」

(NHK総合・2016/6/17放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

 番組の中で「仁徳天皇陵」と呼ばれている巨大古墳。私の学生時代は学校でそう習いましたが、現在の教科書では「大仙陵古墳」と記載されているそうです。この古墳が誰の墓か考古学的に明らかになっていないからです。その辺りを曖昧にするのはNHKらしくないですね。きちんと指摘しておきます。

 ちなみに番組でもさらっと触れていましたが、天皇陵と呼ばれている古墳に関しては宮内庁管轄で発掘調査が認められていない(立入禁止)というのが現状です。現在の天皇家(皇室)のご先祖様のお墓だからというのが理由でしょうが、古代のものに関しては根拠もない話です。

 宮内庁も国の機関ですから、行政府の姿勢一つで動かせます。文科省から内閣に働きかけて調査を認めさせればいいのにと思います。そうすれば、大仙陵古墳か仁徳天皇陵か決着がつく可能性もありますね。

 それにしても「歴史秘話ヒストリア」の放送時間と内容の変更は大失敗ですね。スイーツとか古墳女子とか不要です。きちんと歴史を取り上げる番組構成にしてください。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・人類の歴史上、巨大なお墓といえばエジプトの大ピラミッド。高さ140m余り、40階建てビルに相当し世界一の高さ。
・中国の始皇帝陵は体積約300万立方メートル。東京ドーム2.5個分で大きさは世界一。
・日本で一番大きな古墳は仁徳天皇陵(大阪府堺市)。全長486m、面積47万平方メートルで東京ディズニーランドでほぼ同じ。大ピラミッドや始皇帝陵と比べても面積は際立っている。
・前方後円墳。古代日本人がつくった世界のどこにも例がない不思議な形の墓。一体なぜこんな形をしているのか、未だに解明されていない。
・謎を解く手掛かりを求めて中国へ。古代の墓の中にある1800年前のレリーフ。ここに刻まれた一人の人物が全ての鍵を握っていた。
・日本人が文字を持たなかった時代につくられた古墳。一歩足を踏み入れれば想像を絶するカラフルな世界。壁一面に描かれた不思議なモチーフ、それらを読み解くと古墳の知られざる目的が明らかになってくる。
・10年前、奈良県の古墳から不思議なものが発見された。出土したのは8mを超える巨大な船。これだけの大きさの船がなぜ海のない内陸の古墳にあったのか。

<不思議なカタチの謎>
・日本オリジナルの墓「前方後円墳」。全長400mを超える巨大なものから15mに満たない小さなものまで、その数およそ4800基。北は岩手から南は鹿児島まで全国各地で見つかっている。
・前方後円墳とは、その名の通り前方、前が「方」つまり四角形で、後円、後ろが「円」の墓。一体なぜこんな形なのか、これまで様々な説が唱えられてきた。
・「前方部祭壇説」は江戸時代から学者が唱えていた説。後円部は死者が葬られた墓の本体で、前方部はそれを祭る場だったというもの。しかし各地の古墳で調査が行われたものの、前方部からはそれらしい祭りの場はまだ見つかっていない。
・「天円・地方説」。古代中国では天を「円」地を「方」と考え、円形と四角形別々の祭壇をつくって祭っていた。天壇、地壇という。古代日本にこの考え方が入ってきたとき、この2つの祭壇を合体させて一緒に祭るようにしたというのだ。しかしこの説を裏付ける証拠も現在まで見つかっていない。
・前方後円墳の形は未だ解明されていない古代史最大のミステリーの一つだ。
・そんな中、一つの説が近年注目を集めている。新説を唱えているのは元同志社大学教授(古代学)の辰巳和弘さん。

形の意味を虚心坦懐に考えれば「ツボ」に意味がある(辰巳氏)

・奈良県桜井市にある箸墓古墳。全長280m、3世紀半ばにつくられた最古の前方後円墳と言われている。まさに壺の形。
・中国の古代の墓に納められた神亭壺。これを見れば古墳が壺形をしている理由が分かるという。壺の上に宮殿があり、沢山の人たちが楽器を演奏したり、杯を手に宴を楽しんだりしている姿が形づくられている。彼らは仙人、古代の中国では不老長寿の仙人が住む理想郷・ユートピアが壺の中にあると考えられていた。
・つまり古墳が壺の形をしているのは、仙人の住むユートピアを再現しようとしたものと考えられる。
・その説を裏付けるものが中国に残されていた。2世紀、後漢時代の墓の中。入口のレリーフをよく見ると、そこに描かれているのは東王父という不老長寿の仙人。その下には壺が3つ。これは東王父が東の海に浮かぶ3つの島の主であることを表している。壺形の島では不老長寿の薬がとれるとされている。

壷の中に不老長生のユートピアがあるという思想が入ってきたとき、生み出されたのが前方後円墳(同上)

・水の堀に囲まれたその姿は、確かに海に浮かんだ島のよう。不老長寿のユートピア、それが古墳に込められた人々の願いだったのかもしれない。

<よみがえる王の記憶>
・群馬県高崎市にある保渡田八幡塚古墳。全国の多くの古墳が現在では木々に覆われているが、この古墳は1500年前の姿に完全に復元されている。
・古墳の表面に石がびっしりと敷き詰められ、グレー一色。6000本もの円筒形のはにわが並んでいる。古墳を取り囲む堀の中に丸い島がつくられているのも独創的。
・堤の上には総数54体のはにわ。はにわとは古墳の飾りとして並べられた素焼きの焼き物。普通バラバラの破片で出土することが多く、もともとどのように並べられていたのかまでは分からないケースが殆ど。
・ところがこの古墳は完成後、間もなく火山の噴火により丸ごと埋まってしまった。そのためつくられた当時の配置がそのまま地中に残されていた。幅4m、長さ11mの区画に、はにわの配置が正確に復元されている。

この中に古墳に埋葬された王その人が表現されている(高崎市文化財保護課長の若狭徹さん)

・王と考えられるはにわはファッションを変えて7体ある。王のはにわそれぞれを中心に7つの場面に分けられていると考えられる。例えば冠を被り堂々とした立ち姿の王、腰には王の象徴である立派な刀を身につけている。王が対面しているのは巫女、お祭り用の正式な衣装を着ているという。
・10mにも及ぶ細長い場面、王を先頭にずらりと並んでいるのは中国大陸から入ってきた馬や甲冑。これらを独占できた王の力の大きさを見せつけている。
・屈強な武人と相撲の力士が並んだ場面や、犬をけしかけて王がイノシシを狩る場面も。
・琴の音で厳かな雰囲気に巫女が王に聖なる水を差し出している場面は、王の不老長寿が祈願されたと考えられる。
・亡くなった王をただ葬るだけでなく、生前の輝かしい姿を永遠にとどめて人々に見せ続ける。古墳にはそんな壮大な目的が秘められていた。

<ユートピアへ向かう船>
・全国各地にある前方後円墳。その殆どは中を見ることができない。破壊されていたり天皇陵として立入禁止になっていたりするものが多いからだ。
・ところが九州には中の石室まで調査され、公開されている古墳が沢山ある。福岡県の王塚古墳もその一つ。春と秋には特別に公開され多くの人で賑わう。石室は温度や湿度が厳密に管理されている。そのため見学は分厚いガラス越し。
・敷地内にある資料館では、古墳の中を精巧に復元した実物大の模型が展示されている。カラフルな模様が描かれ、前室と棺が納められていた後室の2つの部屋からなっている。
・後室は高さ4m、広さ8畳ほど。規則正しく描かれた三角形の模様が壁を埋め尽くしている。壁に描かれたものに似たものが神社の御神宝や他の古墳の出土品にある。神社の儀式で使われる靫(やなぐい)、矢を入れて背負うもの。古墳から出土した盾、靫も盾も攻撃を防ぐための武器。カラフルな模様は石室の空間を悪霊などから守る魔よけの意味があると考えられている。
・旅の末に辿り着くユートピアとは一体どんな世界なのか。それが具体的に分かる古墳がある。福岡県筑紫野市の五郎山古墳。11mの通路を通った先にある石室、横の壁に描かれているのは船。船の上には四角形の棺、上空には星空が描かれている。そして奥の壁に描かれているのは船の目的地、つまり来世だ。四股を踏む相撲取り、捧げ物をする巫女、狩りに興じる人物など沢山の人物が描かれている。
・保渡田八幡塚古墳で見たはにわとよく似ている。54体のはにわ群は王の生前の輝かしい様子、つまり現世を表現したもの。星空を通って船が辿り着いた来世は、この現世の様子とそっくり。これはどういうことなのか。

被葬者が来世でも現世と同じように暮らすことを願って絵が描かれた。棺を乗せた船が飛んで行く、楽しい来世へと(前出の辰巳氏)

・古代人が抱いていた来世のイメージは、現世と同じような世界。そこへ星の海を船に揺られて辿り着く。
・今から10年前、奈良県広陵町の巣山古墳で大きな発見があった。古墳の堀から巨大な船の部材が発掘されたのだ。壁画に描かれていた来世への船が実際に出土した初めての例。復元してみると船の長さは推定8m以上、本格的な大型船だ。
・さらにこの船は単なる埋葬の飾りではなく、実際に王の棺をこの船に乗せて古墳に運び入れたと専門家は推測している。

死者を乗せた船は壺形の山を目指した(同上)

<前方後円墳がつくられなくなった理由とは>
・全国で5000基近くあるという日本オリジナルの墓「前方後円墳」。永遠のユートピアを夢みて3世紀から400年もの間つくられ続けた。
・しかし7世紀に入ると、その伝統はパタリと途絶えてしまう。一体なぜ突然、前方後円墳はつくられなくなったのだろうか。
・その謎を解くヒントが最後の巨大前方後円墳と言われる見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)にあった。古代の天皇・大王の墓だといわれている。大王の棺がただ一つだけ納められているはずの石室に、なぜか2つの棺があることが近年明らかになった。しかも手前の棺よりも奥にある棺の方が40年も新しいものだった。

通常奥の棺の方が古いのだが逆転していた(京都橘大学名誉教授の猪熊兼勝さん)

・もともとあった2トン近くもの重さの大王の棺が動かされ、新しい棺が奥に押し込まれていた。石室の大幅な模様替えを行ったのは、当時大王に匹敵する権力を誇った豪族・蘇我氏だった。こうして自らの権力を大掛かりにアピールしていたのだ。

天皇陵の形が蘇我氏流の方墳へ変わっていく(同上)

・方墳(四角形の墓)は仏教とともに入ってきた新しい世界観を映している。蘇我氏はいにしえより続いてきた前方後円墳の伝統を捨て、新たに仏教の導入を積極的に推し進めた。
・これ以降、天皇や豪族たちは古墳の代わりに巨大な寺院を建てることで権力の大きさを誇示するようになった。そしていつしか前方後円墳に表された古代人の世界観は、忘れ去られてしまった。
・それから1300年。今、古墳は改めて見直されている。仁徳天皇陵をはじめ89基の古代古墳からなる百舌鳥・古市古墳群。その歴史的価値が評価され、2010年に世界文化遺産の暫定リストに記載された。2018年の正式登録を目指し、市民が協力して様々なイベントを開催。機運を盛り上げている。
・壺形の理想郷、永遠のユートピア、前方後円墳。古代日本人が抱いた世界観は、また新しい形で未来に受け継がれようとしている。

(2016/6/18視聴・2016/6/18記)

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【ドキュメント72時間】火山の島 フェリーにゆられて行ったり来たり

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【ドキュメント72時間】
「火山の島 フェリーにゆられて行ったり来たり」

(NHK総合・2016/6/17放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 「ドキュメント72時間」でフェリーの中を取り上げたのは、以前あったような気がしますが…ちょっとうろ覚えで確かなことは言えませんが。

 それはさておき、活火山・桜島と鹿児島港をつなぐフェリー。思ったほど距離は短いのですね(4km・15分)。私が以前何度も乗船した東京湾を横断するフェリーに比べても半分以下の距離です。しかも24時間運航というのも珍しいですね。

 予想通り様々な人たちが登場しましたが、一番印象に残ったのは火山学者の方の言葉(青字)でしょうか。自然に対する謙虚さを忘れてはいけないということですね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・太古から噴火を繰り返してきた火の山・桜島と鹿児島の町をつなぐフェリーがある。全国でも珍しい24時間運航、海を渡る人々の足として昼夜を問わず走り続けている。
・この船で行ったり来たり。3日間過ごしてみたら、どんな人に出会えるだろう。

・3月31日(木)10時。旅のスタートは鹿児島港。沖縄や屋久島行など、いろんな船が行き来する。今回の舞台、桜島行のカーフェリー。毎日1万人以上を運んでいるという。桜島までは僅か4km、たった15分の小さな旅。
・早速、船内をうろうろするグループ。鹿児島で生まれ育った4姉妹。今は結婚してバラバラだけど、毎年家族を連れて懐かしい桜島を見に来るという。
・目の前に桜島が迫ってきた。あいにくの曇り空だけど迫力十分。
・船のデッキを駆け上がる男性がいた。始めたのはけん玉。土木関係の仕事でずっとフェリーを使ってきたという61歳男性。いつも桜島を見ながらけん玉を練習してきたらしい。強風の中でけん玉をするうち、自然と技も上達したという。
・技に見とれているうちに到着。運賃はたった160円。
・到着した桜島は人口約4500人の活火山の島。お店は数えるほどしかなく、みんな買い物や通学で気軽にフェリーを利用するという。
・13時33分。今度は鹿児島港行のフェリーに乗船。土砂降りの中、トラクターで乗り込む人がいた。知り合いから買った中古トラクターにそのまま乗って帰るところ。鹿児島港で屋久島行のフェリーに乗り換え140km。2日がかりの旅なんだとか。口永良部島で農業をしている67歳男性。噴火でずっと屋久島に避難していたけど、最近ようやくふるさとの島へ帰れるようになったという。活火山が多い鹿児島県、みんな厳しい自然と一緒に暮らしている。
・夕方は帰宅する人々で大にぎわい。仕事帰りのカンパチ養殖漁師。塾帰りの双子の兄弟、フェリー名物のうどんで腹ごしらえ。語り合ったり小腹を満たしたり、フェリーはゆったりと進んでいく。
・20時53分。鹿児島港に向かうフェリーに赤い髪の45歳女性。毎週木曜日、仕事を終えてから夜のフェリーでバンドの練習に行くという。若い頃に夢中だったバンド活動を再開したのは2年前。補正下着の会社の店長をしていたが、売り上げ売り上げと追われ体を壊したという。今は夫の実家に暮らし、マッサージ店を手伝う日々。40を過ぎて青春を取り戻しているという。フェリー乗り場にバンド仲間が迎えに来ていた。
・夜通し走り続けるフェリー、深夜まで客足は絶えない。
・午前3時、鹿児島市街に向かう若者。ホストとその客の女性。
・かつて噴火で多くの犠牲者を出した桜島。24時間フェリーは緊急時の避難に備える役割も。

・4月1日(金)8時33分。曇った桜島を一生懸命写真に撮る女性がいた。1年前から広島の大学に留学しているという留学生24歳。中国・四川省出身、これまで見たことがない生きた火山を訪ねてみたくなった。
・大きな荷物を抱えている1人旅の37歳女性。学生時代から世界30か国以上を旅してきたという彼女。訳あって3年前、地元の山梨に戻ったらしい。海外での経験を生かし借り手のいない家を改造してシェアハウスを始めた。ようやく軌道に乗って久しぶりの休みが取れたという。桜島には人を引き寄せる不思議なパワーがあるのかな。
・11時39分。朝の留学生が男性と一緒にいるみたいだけど。足湯で出会って意気投合した2人、これから鹿児島の街を一緒に回るという。
・18時6分。山に動きが。どんどん大きくなる噴煙。高さ3500m。去年6月以来の規模だというけど、地元の女の子たちは、なぜかちょっとはしゃいでる。でも船内は至って冷静。
・20年前に桜島に引っ越してきたという男性。最初に来たときは噴火に驚いていたが、今では慣れっこ。どうやら噴火はごく日常の風景らしい。
・20時58分。船の上から手を振る家族連れがいた。お父さんは飲食店勤務、転勤が多いため2年前から単身赴任中だという。(子どもが)どんどん大きくなっていく姿を見せたいと週末には必ず会いに行くんだという。わくわくしながらお父さんに会いに行く船の旅。大きくなっても忘れないんだろうな。

・4月2日(土)8時29分。フェリーの先頭でじっと山を見つめる人がいた。桜島にある研究所に通う火山学者、噴火を予測するため日々観測しているという。生きた山と付き合うため、人々はずっとその鼓動に耳を傾けてきた。

「自分の方から自然を変えることはできない。自然が何かを話しているときは常に聴くということだけですよね」

・14時45分。真っ白なペアルックで決めたご夫婦。建設業の35歳男性と女性。今日はちょっと特別な日だという。奥さんの誕生日プレゼントを買ってきた。結婚してもう9年だけど、今でも2人でフェリーでデートに出かけるという。外に出るとすごい火山灰。せっかくの服が一気に灰だらけに。つかの間のデートは終了。これからお子さんを迎えに行って、みんなで夕飯を食べるという。
・4時8分。夜明け前、仕事帰りだという人に出会った。繁華街の居酒屋で皿洗いをしているという65歳女性。体を壊したご主人に代わって10年前からフェリーで働きに出るようになった。ペンキ塗装の職人だったご主人といろんな土地を転々としてきた。そして終の住処に決めたのが桜島だった。自分で選んだこの島、火山と一緒に生きていく。

・4月3日(日)6時。積もった灰を朝から清掃、この日も噴火。灰にも負けず今日もフェリーは走り続ける。

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【ブラタモリ】#42 横須賀~なぜ横須賀は要港(ヨーコー)っスカ?~

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【ブラタモリ】
「#42 横須賀~なぜ横須賀は要港(ヨーコー)っスカ?~」

(NHK総合・2016/6/18放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>

 今回のブラタモリは横須賀。千葉県在住の私にとっては近くて遠い場所です。もちろん行ったことはありますが、あまり印象に残っていないんですね(苦笑)

 それにしても、米軍が全面協力してドライドックと原子力空母の取材を許す辺りは、沖縄を中心に巻き起こっている米軍の様々な問題を薄めようとする意図が見え隠れしているような気がします…というのは、書いている自分ですら深読みしし過ぎだと分かっていてのものです。いちいち本気にしないでくださいね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今回の舞台は横須賀。スカジャンを着ているタモリ。
・旅のお題は「なぜ横須賀は要港(ヨーコー)っスカ?」
・最初の案内人は横須賀市自然・人文博物館学芸員の菊地勝広さん。20年近く横須賀の歴史と文化を研究している。
・一行はまず横須賀駅へ。明治22(1889)年、横須賀線開通。物資輸送目的のため段差がないといわれている。
・駅の裏側に行くと軍港を隔てる壁がある。機密事項が多い軍港が覗かれないようにするための工夫だった。
・浦賀港に移動した一行。浦賀は嘉永6(1853)年、開国を求めてペリーが来航した場所。その秘密は港の地形にある。東京湾の入口で波が穏やかな天然の良港。だから江戸時代、幕府の重要な役割を担った。
・また浦賀は江戸に出入りする全ての船が寄港し、人や荷物を検査する「海の関所」だった。
・黒船が停泊したのは浦賀港の入口、ここで浦賀が江戸時代に重要な港だった更なる理由が分かるという。広い浅瀬が続く千葉側とは違い、横須賀沿岸には海底に深い谷が刻まれている。黒船ほどの大型船になると水深が深い場所を必然的に通ることになる。目には見えない海底の地形がペリーを浦賀に導いた。
・2万年前、東京湾が陸地だったときに大きな川が流れていた。その川の跡が今も海底に谷として残り、船の通り道になっている。だからここは船がひしめく海の交通の要衝。
・続いて一行はペリーが来たことを物語る痕跡を訪ねる。民家に保管されている鉄の鍋、黒船で実際に使っていたもので水を提供したお礼に貰ったものだという。また水牛の角も明治34年にペリーの孫から貰ったものらしい。

・日本にやって来る外国船を修理する場所、すなわち「ドック」が開国とともに求められた。そこで幕府は江戸に近い東京湾の中で造船所をつくる計画を練った。
・フランスのトゥーロン港と横須賀港を見比べると、共通点は半島に囲まれた広い内海であること。波風が穏やかな造船所にはもってこいの場所としてフランス人が選んだ。
・一行は横須賀本港に戻る。3つのドライドック(海水につからない状態で船を修理する場所)が現在アメリカ海軍基地の中にある。明治初めの絵図にも描かれ、150年活躍している。
・特別な許可を得て米軍基地内に入る一行。第1号ドライドックは幕末に着工した日本最古の石造りのドライドック。フランス人技師が最先端技術で築造した。
・ドックに使われているのは硬くて風化に強い安山岩で、江戸城の石垣にも使われたという伊豆石をフランス人が選定した。
・また山を削り岩盤を掘り込んで安定した強い地盤に造ったドック。もともと浅瀬を埋め立てる予定だったが、日本に地震が多いことでフランス人が設計を変更した。
・ドックを造っている最中に世界で初めてナウマンゾウの化石が発掘された。しかしこのナウマンゾウの化石には長い間、ある大きな謎があった。
・2人目の案内人の横須賀市自然・人文博物館の元学芸員で理学博士の蟹江康光さん。横須賀の地形や地質に詳しい大ベテラン。
・化石が発掘されたドックの地層の年代(約410万年前)とナウマンゾウが生きていた時代(約10数万年前)が全く合わない。
・ドックができた頃の写真をみると2つ地層がみえる。古い地層が隆起し侵食され、新しい地層が堆積した。ドックの場所にあった山の上の方に新しい地層があり、そこからナウマンゾウの化石が発掘されたと考えられる。
・幕末、外国船を修理する場所としてスタートした横須賀の造船所。その後、明治17(1884)年、旧日本海軍の拠点が置かれ、軍艦を造る軍港へと変わっていった。最初は3つだったドックも増え、どんどん規模が拡大していった。

・一行は6号ドライドックへ。旧日本海軍が昭和15(1940)年に完成させた。長さ約337m、深さ15m。このドックでは戦時中、航空母艦「信濃」という世界最大の空母が造られた。横須賀港は旧日本海軍の軍港として、さらに重要な港へと発展していった。
・さらに一行は特別な許可を得て、去年秋から横須賀に配備されている世界最大の空母ロナルド・レーガンに乗船。
・飛行機を35機も格納することができるという。飛行甲板はサッカー場2つ半の広さがある。

(2016/6/19視聴・2016/6/19記)

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【大河ドラマ】真田丸・第24話「滅亡」

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【大河ドラマ】真田丸・第24話
「滅亡」

(NHK総合・2016/6/19放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 切腹の直前に「汁飯」エピソードか?と思いましたが、氏政が自害し北条氏が滅亡しました。

 何だかこの人も「初動のリスク対応」を誤った典型例だなと思いましたね。歴史に「もし(if)」は意味がありませんが、もし彼が最初から秀吉の求めに応じて上洛していたら、このような形で滅亡することはなかったのではないかと感じました。彼自身の矜持がそれを許さなかったのでしょう。そのことが結果として江戸幕府の世となる導火線にもなったということですが…。

 氏政ほどの大物ではないですが、それから400年以上経て江戸を治めることになった人物もまた初動の対応を誤り失脚しました。別邸通いを指摘されたときに謝っておけば、また正月の旅籠代も家族とのものだと正直に言っていれば、あのように地位を追われるまでには至らなかったでしょう。まあ、自業自得ですが。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・小田原城を、豊臣の大軍が取り囲んだ。北条軍は、なおも徹底抗戦の構えを見せる。北条氏政説得のため、信繁は、小田原城に潜入した。

・小田原城内で偶然にも真田信繁(堺雅人)は小山田茂誠(高木渉)と再会する。そして板部岡江雪斎(山西惇)の案内で北条氏政(高嶋政伸)と面会する。
・信繁は伊達政宗(長谷川朝晴)も豊臣秀吉(小日向文世)の軍門に下り、次々と北条の城が落とされていることを告げ、氏政を説得する。
・帰り際に信繁は茂誠に松(木村佳乃)が生きていることを伝える。そして蔵の中から「魚」の刻印がある鉄砲用の鉛を見つける。
・一方、忍城を石田三成(山本耕史)に任せた真田昌幸(草刈正雄)たちは、武蔵に入り鉢形城を落として八王子城へと向かっていた。
・そして遂に氏政は決断した。北条氏直(細田善彦)は城を出て秀吉に降伏した。
・しかし秀吉は氏政には切腹を命じる。徳川家康(内野聖陽)らは助命を嘆願するが秀吉の気持ちは変わらなかった。
・それでも家康や上杉景勝(遠藤憲一)、昌幸が氏政に直接説得にあたった。しかし氏政も覚悟を決めていた。
・そして北条氏政は切腹した。首は京に送られ聚楽第の橋に晒されたという。また氏直は出家の後、高野山に送られた。これによって関東に一大王国を築いた北条家は滅亡した。
・信繁は小田原城で見つけた鉛を大谷吉継(片岡愛之助)に見せる。刻印は千利休(桂文枝)のもので、北条に鉛を売りつけていた証拠だった。二人は蔵に向かうが、既に残りの鉛は千利休によって運び出されていた。
・小田原城は落ちたが、忍城は降伏せず三成は手を焼いていた。真田信幸(大泉洋)は正面から攻めることを主張するが、昌幸は一計を案じると言う。血のついていない氏政の兜を城内に持ち込み、氏政が降参したとの噂を流すというものだった。昌幸の読み通り忍城は無血で開城した。
・いわゆる宇都宮仕置において伊達政宗は秀吉に対し所領の全てを差し出した。
・昌幸は密かに政宗と会おうとする。真田と伊達が組んで秀吉に対抗しようというのが昌幸の考えだった。しかし宴の場で政宗が秀吉に伏せる姿をみて昌幸は断念する。
・そして真田家は秀吉から小県と沼田の安堵と、徳川の与力の解消を言い渡される。
・信繁は伊達政宗と話す機会を得る。政宗はもし自分が20年早く生まれていれば、もう少し京の近くで生まれていれば、大広間の主座に座っているのは自分だったと言う。
・真田信繁と伊達政宗、同い年のこの2人はやがて大坂夏の陣において運命的な再会を果たすことになる。
・北条の滅亡によって関白秀吉は名実ともに天下の覇者となった。戦国の世は終わり、破壊から建設へと時代は移っていく。関ヶ原の戦いまであと10年。

<真田丸紀行>
・小田原城は上杉謙信や武田信玄の猛攻をはねのけた難攻不落の名城と知られている。
・秀吉の大軍勢を迎え撃つために築いた巨大な土塁。城下町まで囲んだ土塁は総延長9kmに及んだ。
・全国の大名が集結した小田原攻め。このとき信繁も参陣したという。
・秀吉は小田原城の南西に石垣山城を築城。約80日で完成させたと伝わる。
・秀吉の圧倒的な兵力の前に北条氏は遂に開城を決断した。
・小田原の繁華街にある北条氏政の墓。氏政の死により戦国時代は終焉を迎え、秀吉の天下は揺るぎないものとなった。

※北条氏政・氏照の墓所(JR「小田原」下車 徒歩3分)
※小田原城
※小峯御鐘ノ台大堀切
※徳川家康陣地跡の碑
※石垣山

(2016/6/20視聴・2016/6/20記)

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【明日へ―つなげよう―】そして村は動き始めた~東北から熊本へ 被災地・2か月の記録~

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【明日へ―つなげよう―】
「そして村は動き始めた~東北から熊本へ 被災地・2か月の記録~」

(NHK総合・2016/6/19放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市。そこの職員の皆さんが今度は熊本に「恩返し」という形で震災対応のノウハウを伝えに赴くというドキュメント。こうした自治体同士の助け合いが広がっていたことを、この番組で初めて知りました。大変素晴らしいことだと思います。

 そして行政の手がなかなか届かない中で地域で復興に向けて立ち上がった大切畑集落の人たち。都会ではすっかり希薄になってしまっている地域の繋がりと助け合い、こうしたものを再評価した方がいいという教訓を感じました。

 震災から2か月。余震も続いていますし、雨による二次災害が心配される状況ですが、熊本・大分の皆さんの復興が進むことを願っています。そのためにも私も何らかの形で協力できればと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・4月16日未明に起きた熊本地震。震度7に襲われた西原村では多くの家屋が倒壊し、5人が亡くなった。
・ガレキで塞がれた道を住民は自力で切り開こうとしていた。行政は混乱が続き、なかなか支援が届かなかった。
・そこへ東北から駆けつけたのが宮城県東松島市の職員たちだった。5年前の震災で大きな被害を受けた東松島市。そのとき応援職員を派遣してくれた熊本に今度は恩返しをしようとやって来たのだ。
・村に届けたのは、独自の「災害対策マニュアル」。震災の経験をもとに行政がとるべき行動をまとめたもの。山積みになったガレキの処理や避難所の運営など自分たちのノウハウを伝えた。
・そして生活再建に向け支援を続けた。やがて孤立無援だった住民の暮らしが少しずつ動き始めた。
・復興を目指し、手を携えた東北と熊本の人たち。地震から2か月の記録。

<東松島市から応援に駆けつけた職員たち>
・熊本地震で震度7の揺れに襲われた西原村は、人口7000人の農村。村の9割以上の家屋が地震で損壊。
・そこにいち早くやって来たのが東松島市の職員だった。東日本大震災のとき陣頭指揮を執った元総務部長の小野弘行さん、被災者の生活再建を支援した元福祉課長の村上修さん、そしてガレキの処理を担当した環境課(震災当時)の鈴木雄一さんの3人。
・同じ震度7の益城町や南阿蘇村が注目される一方、西原村は一種のエアポケットのようになり支援が手薄だった。メンバーはここで懐かしい顔を見つけた。西原村産業課係長の吉井誠さん、5年ぶりの再会だった。
・5年前の東日本大震災、東松島市では死者・行方不明者が1100人を超えた。当時、小野さんは総務部長として指揮を執り、各地からの応援職員を迎えた。このとき熊本から応援にやって来たのが吉井さんだった。
・その縁で今回の地震直後、吉井さんが思い出したのは当時の小野さんの姿だった。「震災にどう対応すべきか教えてほしい」と連絡したことが応援に繋がった。
・地震から1週間、村役場では混乱が続いていた。東日本大震災の経験を学ぼうと職員が集まってきた。小野さんは様々な経験を出来るだけ具体的に伝えた。
・小野さんは持参した「災害対策マニュアル」を吉井さんたちに手渡した。震災の経験をもとに、とるべき対応や行動をまとめたマニュアル。災害対策本部でのリーダーの在り方、避難所運営の反省点、独自に編み出したガレキのリサイクル法、西原村が今、直面する課題ばかりだった。

<深刻な被害の中、犠牲者を出さなかった集落>
・小野さんたちは、村内の被害状況の説明を受けた。深刻な被害を受けながら一人の犠牲も出さなかった「奇跡の集落」があるという。26世帯、約90人が暮らす大切畑集落、間近に活断層が走り全ての家が損壊。27人が生き埋めになったが、全員助かった。
・自力で脱出できなかった人たちを救ったのは、地元の消防団。陣頭指揮を執った区長の大谷幸一さん(50)、手分けして10人の命を救った。暗闇の中、潰れた屋根に穴を開け、中の住民を助け出した。誰が何処に住み、家はどんな間取りなのか全て頭に入っていた。地域の強い絆が命を救った。

先祖代々ずっと、ここに住んでるけんですね。仲がいいけんですね、みんな(大谷さん)

・集落で唯一無事だった農機具倉庫。地震の翌朝からここが住民の復旧対策本部になった。集まった消防団員や住民にとって最大の問題は、地震で集落が孤立したことだった。
・重機を持ち寄った住民たち、ガレキや土砂に覆われ寸断された道路を自力で切り開いていった。その日のうちに道を通し、老人や子どもを隣の地区にある避難所に送り出した。
・次は水。このとき村ではまだ全域で断水が続いていた。山の水源から水を引き、自力で臨時の水道をつくった。行政の支援はなかなか届かなかった。

行政はあてにならない。あてにならないというか、手が回らんもん(男性)

・さらにガレキの中から使える物をかき集め、風呂場までつくってしまった。一番風呂を狙う区長の大谷さん。
・風呂で写真を撮っていた山本恵一郎さん(37)、消防団では最年少。地震直後から毎晩、集落の防犯パトロールを続けている。倒壊した家屋や避難して無人になった家は、度々空き巣に入られていた。子どもの頃から幾度も通った近所の道。しかし、崩れた建物や地面の深い亀裂で少しも気が抜けない。
・建ててからまだ3年という山本さんの家。地面のひび割れの上に家がのっている状態となっていた。妻の美香さんは隣町に避難している。間もなく2人目の子どもを出産する予定。
・毎晩、詰め所に泊まり込む消防団のメンバー、この生活が1週間以上続いていた。

<村役場の機能を再編するアドバイス>
・東松島から来た小野さんが大切畑集落を訪ねた。その光景は5年前の自分のふるさとを思い出させた。
・自力で復旧を続ける住民に力になれることはないか尋ねた。区長たちはガレキの処理や住宅の再建について、何も情報が来ないと訴えた。
・復興に必要な支援も情報もまだ十分に住民に届いていないと痛感した小野さん。実際、指揮を執るべき役場の災害対策本部には人が少なく、十分に機能していなかった。
・小野さんは5年前の経験を思い出した。マニュアルにも記した避難所運営の反省点。あの震災直後、多くの職員が避難所の運営に駆り出され、災害対策本部の機能が低下してしまった。今回も同じことが起きていないか、小野さんたちは村内の避難所を回った。
・ある避難所の責任者は税務課の課長だった。避難する住民を世話するため本来の業務を離れ、地震直後から泊まり込んでいた。
・別の避難所にいたのは企画商工課の課長。村の幹部の多くは、避難所の運営で精一杯だった。
・「幹部は役場で指揮を執るべきだ」と、小野さんは人員配置の見直しを提案した。

いかに要員を確保するかが一番の課題になると思います。住民自治で避難所は運営できるように、どんどんシフトしていかないと行政の仕事が停滞してしまう(小野さん)

・マニュアルに記された震災後の東松島市の組織図。毎月、復興の状況に合わせて市の組織を再編、優先すべき任務に人を割いた。
・災害対策本部の吉井さんは、小野さんの提案を受けて動き出した。今、必要な業務に合わせ従来の組織を組み替える案だった。
・これまでの村役場の組織図では、6つの課の職員が本来の仕事の他に避難所や支援物資の業務をバラバラに担当していた。この課の壁を取り払い、必要な業務ごとに「避難所」「支援物資」「災害ゴミ」など10のグループをつくる。そして優先順位に応じて人を振り分けるという案だった。吉井さんはこの案を村長に示し、了承された。
・新設された窓口班。8人の職員が住民の問い合わせを一手に引き受けることになった。広報班は村の動きを記録して避難所や各家庭に届ける。最新の情報を住民に日々、発信できるようになった。
・そして避難所班、ボランティアを増やすことで職員を半分に減らした。食事の配給など避難所の運営は住民たちに委ねた。
・その結果ようやく役場にも職員が戻り、災害対策本部が動き始めた。

すごい変化だったですよ。我々びっくりするくらいに対応早くて(小野さん)

<ガレキの分別を徹底する「東松島方式」>
・小野さんたちの助言の効果はさらに広がっていった。大切畑ではガレキに埋まった車を住民が引き出そうとしていた。しかしこの大量のガレキをどこに持っていけばいいのか、山積みのガレキが復興の足かせになっていた。
・そんな中、区長の大谷さんのもとに村役場からガレキの受け入れを始めるという知らせが届いた。ガレキ仮置き場の分別図、ここにも東松島の経験が生かされていた。組織再編で生まれた災害ゴミ班。徹底した分別が必要と伝えたのは、東日本大震災でガレキ処理を担当した鈴木さん。後に全国で注目される処理方法を生み出した。
・「東松島方式」。ガレキを19品目に分別し97%をリサイクル。これによって処理にかかる時間も費用も大幅に削減した。
・秘訣は住民の手によってはじめから徹底して分別すること。後から分別し直す手間が省け、いち早く復興に着手できた。この方式を西原村でも取り入れることにした。
・大切畑集落でも早速、住民たちが分別を始めた。消防団の若手・山本さんのおばあさんの家。家中にガラスや家具、電化製品が散乱していた。それを木材やプラスチック、金属などに細かく分け、何度も仮置き場に運んでいった。
・ガレキの仮置き場となった村民グラウンド。瓦、木材、金属など、置き場所は東松島と同様、19種類に分かれていた。この日、4往復目の搬入に来ていた山本さん。そのとき東松島市の鈴木さんの厳しいチェックが入った。現場で分別を間違えないよう助言するスタッフを住民を採用することで大幅に増員。これも東松島方式だ。
・ガレキが山積みだった大切畑。仮置き場ができて1か月、復旧の足かせだったガレキはすっかり片付いていた。

<り災証明発行のための応援が>
・一方、避難所では体調を崩す人が相次いでいた。大切畑のお年寄りや女性たちは集落を離れ、避難所で寝泊りを続けている。
・住民が帰れる場所をつくりたい。大切畑でまた新たな動きが始まった。区長の大谷さんたちが公民館の修理を始めた。避難所の住民がいつでも利用できるよう、洗濯場や風呂、トイレを新たに整備した。
・記念写真を撮る消防団の山本さん。地震の後、大切畑で唯一生まれた水洗トイレを初めて使う。
・次はいよいよ自宅の解体。重機を増やして一斉に進める計画だった。ところが、思わぬ知らせに作業がストップした。り災証明は家屋の被害の程度を自治体が判定した書類、調査の前に家を解体するとり災証明が出ず支援金を貰えなくなるかもしれないという通知だった。
・区長の大谷さんは役場に乗り込んだ。集落の復興を進めるため、一刻も早くり災証明がほしいと訴えた。
・り災証明は支援金や仮設住宅の入居など、生活再建に関わる全ての基準となる。東松島のマニュアルでも最も重要な書類だと強調されている。
・り災証明に詳しい小野さんは、少しでも疑問に答えようと大切畑を訪ねた。一刻も早く、しかも正確にり災証明を発行する必要がある。小野さんはかつての苦い経験を伝えた。

きちんとした判定が一番やはり、我々の経験上、そういった判定をしないと後々行政側が住民から信頼されなくなる(小野さん)

・もちろん村には調査の経験者はいない。そこで東松島に連絡をとった。5月1日、東松島市からり災証明の調査チームが到着した。東日本大震災で経験を積んだメンバーだ。2週間かけて2500戸の住宅を調査する。
・まず被害の深刻な大切畑集落に入った。一見無傷にみえる消防団の山本さんの家。調査に立ち会ったのは身重の妻・美香さんと長男の大翔くんだった。あの日、この家で震度7の揺れに耐えた。
・地盤そのものが崩れてしまった山本さんの家。土台を支える杭も完全に外れていた。津波の被災地では見られなかった熊本地震独特のケース、損害の程度をどう判定するかメンバーは戸惑った。

我々でも判断に迷う(東松島市市民課の相澤隆之さん)

・り災証明の調査チームに後を託した小野さんたち。支援を続けると約束し、村に別れを告げた。
・5月下旬、大切畑地区の住民に待ち望んでいたり災証明書が届いた。懸案だった、無傷でも地盤が崩れてしまった建物は全て「全壊」と判定された。

(り災証明が出たら、その後いろいろと考えられるようになるんですか?)
仮設住宅は入りたいから、住宅申し込んだり。それ入れたらまた一歩前進(住民の女性)

<地震から2か月 復興に向けた動き>
・村では仮設住宅の建設が一斉に始まった。7月中に300戸が完成する予定だ。
・その仮設住宅を出た後の話も始まっている。将来の集団移転の検討。集まったのは活断層に近い4地区の代表、大切畑の大谷区長もいた。今後、時間をかけて話し合っていく。
・隣町の病院に消防団の山本さん親子の姿があった。無事に子どもが生まれた。お腹の中で震度7に耐えた男の子、陽翔(はると)と名付けた。

震災に負けない子になってね。明るくみんなを照らしてくれる子になりますように(山本さん)

・村を襲った突然の大地震。東北の被災地の教訓を学びながら、住民たちは復興に向け少しずつ歩み始めている。地震発生から2か月が過ぎた。

(2016/6/21視聴・2016/6/21記)

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平成28年(2016年)熊本地震

【NNNドキュメント’16】激震連鎖 「まさか…」に襲われた熊本

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【NNNドキュメント’16】
「激震連鎖 「まさか…」に襲われた熊本」

(日本テレビ系列・2016/6/20放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 NHKのドキュメントに続いてNNNドキュメントでも熊本地震が取り上げられました。本震と呼ばれる震度7の地震から2か月。ニュースの頻度も少なくなってきている中で、熊本の現状を知ることができた内容でした。

 「まさか…」という連続した地震によって多くの人々の命が奪われることになってしまいました。私も熊本に数年暮らしていた経験がある者として、見慣れた風景が大きく変わってしまったことに「まさか…」という言葉が当てはまります。

 避難生活を強いられている人たちの1日も早い生活再建とともに、地域の復興に国はもっと力を注いでほしい。明日から選挙が始まりますが、与党も野党も熊本の復興のために力を尽くしてほしいと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・4月14日午後9時26分、震度7の地震。その28時間後、4月16日午前1時25分。再び震度7の地震が熊本を襲った。
・奪われた49人の命。亡くなる数時間前に書かれたメッセージ。
・相次ぐ余震に植えつけられた恐怖心、今もなお自宅に帰れない人たちがいる。
・地震による土砂崩れも想定していなかった。
・「まさか…」に襲われた熊本の2か月。

<自宅の倒壊で父親を亡くした男性>
・地震から2週間、熊本県西原村。大久保孝一さん(55)は、長年家族でサツマイモ農家を営んできた。2回目の震度7で大切な家族を失った。

母屋で寝ていた方が安全だから両親を移したんですよね(大久保さん)

・父・重義さん(83)と母・瑞子さん(75)。家族6人で暮らしていた。離れで寝起きしていた両親。大久保さんは1回目の地震の後で安全を考え、仏壇しかない母屋の座敷に両親を移した。その後、まさかの2回目の地震で母屋が倒壊、両親が下敷きに。瑞子さんは一命を取り留めたが、重義さんは帰らぬ人となった。自分の一言でこんなことになるなんて…。
・震度7の揺れを再現した実験映像。耐震補強がされていない住宅は崩れてしまった。耐震補強がされた住宅は1回目の揺れに耐えたが、再び震度7の揺れを加えると倒壊。まさに同じことが熊本で相次いだ。
・今回の地震による死者は49人。このうち40人が2回目の震度7、つまり本震で命を落とした。
・母屋が倒壊し父を亡くした大久保さん、せめて仏壇だけでも取り出してほしい。解体が始まって2日目、見つかった仏壇は壊れていた。
・崩れた家の中から出てきた父の遺品がもう一つ。50年以上も書いてきた日記。地震前日の日記も書かれていた。いつも書いている「今日もすてきな1日だった」が、亡くなる数時間前の最後のメッセージとなった。

<車中泊を続ける家族>
・熊本地震による家屋の被害は14万棟、避難者は一時最大で18万人に上った。震度5以上の地震は最初の1週間だけで16回、震度1以上の体に感じる地震は僅か2か月で1700回を超えた。熊本市の避難所で取材中にも…。
・余震で恐怖心を植えつけられた人々は、車の中で生活を始めた。熊本地震の大きな特徴となった車中泊。
・地震から2か月、今も自宅に戻ることができない家族がいた。中村誠さん(24)一家は車中泊を続けてきた。

5月9日からトレーラーハウスが提供された。その前は軽自動車だった(妻・沙也加さん)

・娘の志海ちゃんの2歳の誕生日は車の中でお祝いした。冷蔵庫もテレビもない不便な暮らし。夜になればランプの明かりだけ。
・住んでいたアパートは一見、大丈夫そうにみえるが鉄骨に亀裂が入り、立入危険と判定された。
・地震によるストレスで長男の元氣くんは食事をあまりしなくなった。せめてご飯はしっかり食べて元気をつけてほしい。
・車中泊を続けていた中村さん一家。今月9日、トレーラーハウスの使用期限が過ぎたため、益城町のテント村に移った。広い空間に子どもたちは嬉しそうに遊んでいたが、まだ不安は残されている。
・たった2か月で避難所、車、トレーラーハウス、そしてテント村と生活の拠点を転々としてきた。テント村も間もなく閉鎖されるため、また次の場所を探さなければならない。

<土砂崩れで犠牲者を出した家族>
・今回の熊本地震で起きた新たな想定外、それが大規模な土砂崩れだ。最大震度6強を観測した南阿蘇村では死者15人(行方不明1人)。
・土砂崩れが起きた現場に足を運び続ける親子がいた。前田和子さん(61)は、夫・友光さん(65)をこの場所で亡くした。孫が大好きだった友光さん、病気の療養を兼ね1年の大半を南阿蘇の別荘で過ごしていた。
・1回目の震度7の後、熊本市の自宅を片付け、南阿蘇に戻っていた。その数時間後、2回目の震度7が起き土砂崩れが発生。4日後、土砂の中から友光さんが見つかった。遺体のそばからは結婚式の写真が出てきた。
・あれから2か月が経とうとする今月9日、前田さん親子が再びあの場所を訪れた。1か月前には気がつかなかったアジサイが…。
・いつか、アジサイの花が咲きますように。

・今月13日、中村さん一家はテント村が閉鎖されるため、また引っ越し作業に追われていた。荷物を運び出すのは、これで5回目。
・熊本地震から2か月、今も避難している人は、分かっているわけで6000人以上。「まさか…」に何度も襲われた熊本。

(2016/6/21視聴・2016/6/21記)

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【空から日本を見てみよう+】信州 小諸~上田

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【空から日本を見てみよう+】
「信州 小諸~上田」

(BSジャパン・2016/7/5放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

 NHK大河ドラマに便乗したかのように今回の旅行先は信州・上田。六文銭グルメがこれでもかというぐらい出てきました(苦笑)

別所温泉駅

 別所温泉には5年ほど前に行ったことがあります。結構サラッと扱われてしまいましたが上田電鉄別所線は丸窓電車など味のあるローカル線でした(写真は別所温泉駅)。

浅間山

 あとは、やはり小諸~上田の車窓からみえる浅間山ですね。登山はしたことがありませんが、現在も活動を続けている生きた山、ぜひ機会があれば訪れてみたいですね。

 とりあえず上田城も含めて大河ドラマが終わって暫く経って落ち着いてからかな。今は観光客はワンサカいそうな感じだし(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

<長野県小諸市周辺>
・人口:42,738人(県15位)面積:98.55平方キロメートル(県44位)(2016年5月1日現在)
・小諸産黒豆味噌を使用した「呑ジャ焼きそば」で町おこしを計る。
・常盤館。館内にケーブルカーがあり、露天風呂まで行くことができる。
・小諸城址 懐古園。現在は天守台、懐古神社がある。城下町より城が低い「穴城」となっている。小諸城は天然の空堀にも囲まれる。現在は空堀を利用してシカを飼育している。
・安藤百福記念 自然体験活動指導者育成センター。隈研吾が設計。佐藤可士和やnandoなどのデザイナーがツリーハウスをデザイン。
・布引観音 観音堂。「牛に引かれて善光寺参り」で知られる布引観音を安置。

<東御市周辺>
・人口:29,768人(県17位)面積:112.37平方キロメートル(県37位)(2016年5月1日現在)
・クルミの生産量日本一の長野県の中で有数の生産量。
・アトリエ・ド・フロマージュ本店。軽井沢や南青山に支店があるチーズの名店。隣にあるレストランではチーズの魅力を楽しめる料理が味わえる。
・蜂天国。ハチの巣を加工した作品を展示。
・海野宿。1987年、重要伝統的建造物群保存地区に選定。地元住民の駅建設反対によって観光地化が進まなかった。
・トラックアート歌麿FC信州。デコトラの装飾品の専門店。

<上田市周辺>
・人口:155,706人(県3位)面積:552.04平方キロメートル(県6位)(2016年5月1日現在)
・本州で最も降水量が少ない。
・信濃国分寺史跡公園。線路が敷かれた42年後、国の史跡に指定。
・特急「あずさ」の車両が静態保存されている民宿・夢ハウス。
・千曲川のつけば漁の仕掛け。匂いでおびきよせ人工の産卵場所に集まったハヤ(ウグイ)を捕まえる漁。
・四階繭倉庫。現在は発泡スチロールの倉庫に利用。笠原工業には繭倉庫が4棟残る。千曲川沿いで良質な桑が採れたことから蚕糸業が盛んだった。
・上田はかつて蚕の卵「蚕種」の一大産地だった。上田蚕種は1916年設立。最盛期は年間22万箱の蚕種を出荷。
・信州大学繊維学部。1910年、上田蚕糸専門学校として設立。現在、国内の大学で唯一の繊維学部。ナノファイバーを量産する世界初の装置を開発。花粉やPM2.5を99%カットするマスクを開発。またロボティックウェア「curara」や心拍を計測できる繊維も開発している。
・小岩井紬工房(1948年創業)。上田の伝統工芸「上田紬」を手織り一筋で織り続ける。林檎染(上田産のリンゴの樹皮を使った草木染)、リンゴの品種や染め時間などを変え濃淡を出す。
・上田駅。駅舎に六文銭があしらわれている。真田家の家紋、三途の川の渡り賃を意味している。
・ふれあいさなだ館では真田夢御膳が食べられる。信州牛とネギで六文銭をイメージ。
・ホテル祥園内食事処 城下町では六文銭そばが食べられる。
・信州上田 手打ちそば処 千本桜では六文銭かき揚げそばが食べられる。
・ブタドラゴンではドラ次郎真田丸バージョン「赤備」(ラーメン)が食べられる。
・上田城跡公園。1583年、真田幸村の父・真田昌幸によって築城。徳川の大軍を2度退けたことで有名。※現在残っている城は江戸時代、仙石氏が再建。
・上田高校。武家屋敷の門が残されている。班活動(部活動)のジャージに六文銭が描かれている。
・けやき並木遊歩道。1927~1972年、上田丸子電鉄真田傍陽線の線路として使用されていた。
・名物「みすゞ飴」を販売している飯島商店 上田本店。
・上田映劇。貸しホールとして映画上映、舞台、ライブなどで使用。映画「青天の霹靂」(2014年公開)のために作られたセットが残されている。切符売り場や柱もセット。
・他にも上田は映画ロケに数多く使われている。

<菅平高原周辺>
・菅平高原で作物の育成を助けるマルチフィルム。レタスの種は25cm間隔で植える。
・Niploブランドで農機具を製造している松山。
・菅平はスポーツ合宿の聖地。大小109のグラウンドがある。菅平のグラウンドの殆どがホテル・旅館が管理している。

<上田電鉄別所線沿線>
・トゥシューズ(バレエ用、爪先で立って踊ることができる)を製造しているチャコット上田工場。1969年、事業拡大のため上田に工場を開設。靴以外にも社交ダンス・新体操・チアリーディング・ヨガなどの衣装を製造。
・ミシン針を製造しているオルガン針本社工場。雨が少なく針が錆びにくいため上田に工場を開設。国内のミシン針の約80%を製造。
・別所温泉には、共同洗い場がある。
・旅館 花屋。1917年開業。
・北向観音。手水は天然温泉。
・国宝・安楽寺八角三重塔。国内唯一の八角三重塔。
・ギャラリー土日。1988年、佐々木さんは神奈川県川崎から野倉に移住し自ら建設。陶芸を行いながらカフェも併設。

(2016/7/8視聴・2016/7/8記)

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【NNNドキュメント’16】汚名~放射線を浴びたX年後~

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【NNNドキュメント’16】
「汚名~放射線を浴びたX年後~」

(日本テレビ系列・2016/6/27放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 以前、東京・夢の島にある第五福竜丸展示館に行ったことがあります。60年前にアメリカやイギリスが行った核実験によってマグロ漁船の乗組員たちが被ばくしたという事件。当時の日本政府はアメリカから慰謝料を受け取りましたが、同様に操業していた漁船で被ばくした可能性があった乗組員たちへは十分な対応をしてこなかった、うやむやにしたということが今回の番組で明らかになりました。

 放射線の影響によるガンなど様々な病気で苦しめられ、そして亡くなった人たち。遺族もいわれなき汚名を着せられたということは本当に気の毒で、怒りが湧きます。

 真相を究明するには60年という時間は余りにも経ってしまっていますが、それでも現在存命中の方への救済は何とかならないものでしょうか。国の姿勢が問われると思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

71年前、明るく雲一つない朝、空から死が降り世界は一変しました。単なる言葉ではそのような苦しみに声を与えることはできません。しかし私たちは歴史を直視する共通の責任をもっています。そして、このような苦しみの再発を防ぐため、やり方をどう変えるべきなのかを問わなければなりません。いつか被ばく者の声が聞けなくなる日が来るでしょう(オバマ大統領)

・アメリカ大統領の演説から48年前の出来事。高知県室戸市の川口美砂さん(60)。48年前に父を亡くした。今、父の死の真相を探している。

懐かしい、涙が落ちそうな。わたし仲が良かったから、涙が落ちそうな。仲良しやったけん。あんたに会ったら涙が落ちそうになった(遠洋マグロ漁船 第五豊丸乗組員・54年当時の戸波英俊さん 81歳)

・36歳で突然亡くなった美砂さんの父・一明さん。1953年、21歳でマグロ船に乗り、腕利きの船頭として漁を指揮してきた。父はなぜ若くして死んだのか。
・支えを失った家族に冷ややかな声が浴びせられた。酒の飲み過ぎで若死した。
・かつてアメリカとイギリスが100回以上の核実験を繰り返した中部太平洋。そこは、父がマグロ漁をしていた海でもあった。
・押入れの奥から見つかった60年前の父の航海日誌。

「体が火の様に燃える。何か肉体に異変があるに相違ない」

・父は放射線を浴びたのではないか。「私のお父ちゃんは酒を飲み過ぎて死んだんじゃない」。父の無念、そして着せられた汚名を背負い、真実を追い求めた。

<父と同じマグロ船の乗組員を探し出して>
・美砂さんは月に1度、ふるさとの高知に帰ってくる。つい2年前、父の死に疑問を持つようになったからだ。太平洋に突き出すように細長く広がる高知県室戸市。その広さを称して「山に手当てたら反対の手が波さわるき」なんて言う人も。かつて捕鯨や遠洋マグロ漁で栄えたこの町が美砂さんのふるさと。
・室戸の男たちは年を取っても漁に出る。86歳の福元資俊さんも元マグロ漁師。
・かつて核実験が行われた海で多くのマグロ船が被ばくしたことを美砂さんは2年前に知った。そこで父と同じ海で働いていた乗組員を探し出すことにした。
・マグロ船の乗組員の多くが亡くなった。この町で生まれ育った美砂さんでさえ、手掛かりを探し出すことは難しくなっている。

福竜丸…あれもそうだけど、こちら(の船)は(被ばくマグロを)棄てにかかった。港に入ったら(放射線)検査するいうたってろくな検査せん。「何マイル(沖に)いって棄ててこい」言われて(第五福丸乗組員・54年当時の武田邦敏さん 86歳)

<アメリカが行った核実験>
・太平洋でアメリカが核実験を始めたのは、広島・長崎への原爆投下から僅か10か月後。それは豊かで美しいマグロ漁場が放射能で汚染され始めた瞬間だった。
・その2年後、1948年に3回、1951年に4回、さらに1952年に人類史上初となる水素爆弾の実験が行われた。
・南海放送が入手したアメリカ原子力委員会の機密文書。このとき放射能汚染が日本列島にまで達していたことが分かった。
・2年後の1954年、第五福竜丸が被ばくしたことが初めて明らかになった。厚生省は全国の港でその他のマグロ船についての放射線測定を指示。すると、乗組員やマグロから次々に放射線が検出された。このとき被ばくしたマグロは日本中を恐怖に陥れた。
・1954年、10か月間に検査を受けた船は延べ2729隻。そのうち放射線が検出された船は延べ992隻に上った。
・ところが日本政府は僅か10か月で放射線測定を中止。アメリカ政府から完全な解決を条件に慰謝料200万ドルを受け取り、事件を幕を引いた。
・アメリカは僅か1年半後に核実験を再開。一方でマグロ漁は普段通り続けられていた。

<キノコ雲を見たという証言も>
・美砂さんは幼なじみを訪ねた。吉野かやさんの父・大黒敬鋭さんはガンのため45歳で亡くなった(第五良栄丸乗組員・54年当時)。
・高知市内。第一徳寿丸乗組員(54年当時)の大西惠五さん(84)は水爆を見たと証言する。火の玉も見たし、キノコ雲も見たと言う。大西さんが見た1958年に行われたアメリカの核実験の映像がある(ハードタック作戦)。

<当時のマグロ漁を映したフィルム>
・この頃の日本のマグロ漁の映像が残されている。1957年、マグロ船の一航海を記録したフィルム映像(荒波に生きる~マグロ漁民の生態~)

この船は4500海里を隔てたクリスマス島裏側の漁場に向かっている。今、クリスマス島の周辺が水爆実験のため危険区域となって…(ナレーション)

・途中、アメリカの核実験場を通過するマグロ船。

おーい、島だ!島が見えたぞ!(男性)

航海11日目、初めて島影を見た。漁夫たちはしきりに上陸したがる。だがこれはビキニ島と平行しているロンゲラップというサンゴ礁で、アメリカの水爆実験のときたっぷり死の灰をかぶった島だと分かる(ナレーション)


・クリスマス島沖に到着したマグロ船・第七幸鵬丸は操業を始める。しかしそこはイギリスの核実験場だった。

昌作はマグロのにぎりでみんなを喜ばせる(ナレーション)

・映像は乗組員たちがその海で取った魚を食べ、海水で体を洗い、そして雨で濡れ続けた様子を映し出している。

<40回もの核実験が行われた年も>
・さらに40回の核実験が行われた1962年(ドミニク作戦)、大西さんは3回目のキノコ雲を目撃した。

そのときも夕方に、お日様が水平線に消えていったら(キノコ雲が)ボコっとまた出てきた。「お日様が割れた」と言った。大騒ぎはしなかった。「言うな」と言われている。「魚が売れんようになるから言うな」と。放射能も何も浴びんかった、浴びていたかどうか分からない。検査をしなかったから(大西さん)

・放射線測定を中止したことで、人も魚も被ばくしているかどうかすら分からなくなっていた。

<当時の乗組員たちから多くの証言が>
・美砂さんは1年半で80人を超える生存者や遺族を探し出した。

バリバリバリバリってわしらの魚が「放射能じゃ」とみんなが言い出して(第七芳丸乗組員・54年当時の武田郁典さん)

雨が降ったら(乗組員は)みんな隠れてた。「放射能が降る」と言って(第七幸丸乗組員・54年当時の高瀬忍さん)

放射線よ、放射線をガーっと調べる。ガガガーッと鳴る(マグロ)は除けて(第一松栄丸乗組員・54年当時の今井基嗣さん)

水揚げしたときにカジキ類で放射能が出たことがある(第七勢旺丸乗組員・54年当時の入野武さん)

トラックに積んですぐに埋めにいった(第三良栄丸乗組員・54年当時の山下幸雄さん)

(放射線を測る)機械をもってきて測ってガーガーと鳴って(第五良栄丸乗組員・54年当時の氏原一昭さん)

僕の同級生は61の同窓会でバタバタと逝ってしまった(まめ丸乗組員・54年当時の堺達男さん)

<父親の航海日誌が見つかった>
・そして父・一明さんの死にまつわる重要な手掛かりが見つかった。自宅の押入奥からダンボール箱に入った船員手帳と航海日誌が見つかった。

水爆実験以来、南方の魚には放射能が多分含有して、その影響で魚の値は暴落し、命懸けで働いても大した儲けにはなりません。

4月30日晴れ。航行中、無線士が電報持って来る。「オンナ デキタ ナマエ シラセ ハハ」とあり、胸のときめきを覚ゆ。電報を手にし、自身父親としての責務この上もなし。左のごとく返電す。「バンザイ ナマエ ミサ ト ツケラレタシ」と。


・船員手帳には一明さんが放射線測定が行われた1954年、第二大鵬丸と第五豊丸の2隻の船に乗り換えていたことが記されていた。この2隻は放射線測定を受けていた。
・美砂さんは厚生労働省に対し、船の放射線記録の公開を求めることにした。
・昨年9月、情報開示の連絡を受けた美砂さんは厚生労働省に向かった。放射線測定が行われた1954年、一明さんが5月まで乗った第二大鵬丸の記録。
・5月23日 しいら120本から廃棄する基準値の5倍にあたる500カウントを超える線量が記録されている。
・さらに7月、第五豊丸に乗り換えた一明さんが12月までに3回の漁に加わっていたことが分かった。その3回全てで魚から放射線が検出されていた。
・見つかった航海日誌には家族にも言えなかった不安が記されていた。

体が火の様に燃える。何か肉体に異変があるに相違ない。

<父は放射線を浴びていたと確信した>
・放射線測定を行った1954年、父と同じ船に乗った乗組員の消息がつかめた。一明さんと同じ船に乗っていた戸波英俊さん(81)。

(魚は)棄てた。トラックに積んで山に持っていった。そのときに1万貫釣っていたが6千貫棄てた。(船の中は)調べた。私は若いからマストの上にあがって洗った。覚えとる、ホース持って。私(の体に線量計が反応して)ガー言うた。安全だと思わんかった、下痢が治らんから。入院もしとったしね。宿毛の県立病院に行ったとき、林先生が「白血球減少病(症)」言うた(戸波さん)

・父はやはり放射線を浴びていたと美砂さんは確信した。

酒だけやないっていうがは確実に思い始めてますね。汚れた海で一生懸命操業して、何度も言うように潮かぶって、汚れた魚食べて。そういうことをもう毎日毎日10年近く、みんな若い青年の時代から続けよる。そんなもう、普通に考えてもええことはないですよ(美砂さん)

・父が亡くなったのは12歳のときだった。家計を支えるため小学6年生でアルバイトを始め、高校を卒業するまで続けた。

授業料も…まあ、あの、奨学金ももらってたんですけど。アルバイトさせていただいたから修学旅行とかも自分のお金で、ちゃんと親に迷惑かけないでできたかなとは思いますけどね(同上)

・「お父ちゃんは酒を飲み過ぎたから死んだ」。父の汚名を背負い、苦労を重ねた青春時代だった。

6年間勤めてお給料を蓄えた中で、お墓の土地と石碑を…。で、仏壇も構えて(同上)

・父が亡くなって48年が過ぎた。

<乗組員の労災申請を勧める活動を>
・マグロ船の乗組員を探し歩く美砂さん。父のように被ばくした可能性がある生存者に何か手助けができないかと、今年に入り新たな活動を始めた。
・美砂さんは数年前、胃がんを患った武田治男さん(第二大鵬丸乗組員・54年当時 84歳)に労災認定の手続を勧めた。操業中に被ばくし、その後がんなどを発症したとして労働上の災害と認め、船員保険の適用を求めるものだ。

今まで人を放ったらかしにしといて「今頃何を言うか」いうて本当に怒りたかった。だけどあんたらがそうなって一生懸命やってくれよる。それを腹が立っとるいうとむげに放るわけにいかんし(武田さん)

・「仲間たちのためになるなら」一方で「何を今更…」武田さんの気持ちは揺れ動く。

・美砂さんはもう1人の乗組員を訪ねた。木村守さん(第二大鵬丸乗組員・55年当時 81歳)は60代で大腸がん、肝臓がん、肺がんを発病。今年、大腸がんが再発、手術をした。

まあ、どっちにしたって…(木村さん)

・数日後、美砂さんは医師とともに武田さんを再び訪ねた。かつて第五福竜丸乗組員の申請支援をした医師の聞間元さん。美砂さんが連絡を取り、手続のアドバイスを依頼した。

胃がおかしいと沖でも言よった。それで市の検査に、今日は(胃がんに)かかると思って自分も承知して(検査に)行った。行ったらやっぱり(胃がんに)かかっとった。それまでは何とも思わず一生懸命に働きよったけんね。がんになる前に遠洋船は引退してた。自分で小釣り船、小さい船で働きよった(武田さん)

・武田さんは認定の難しさの説明は受けたが、仲間たちの救済のきっかけになるならと手続を決めた。
・続いて、がんを再発した木村さんを訪ねた。玄関先で奥さんと思われる声がした。

もうあれ(申請)はええって。もう昔のことやんか。

・昔のことだからそっとしておいてほしい。木村さんは申請を諦めた。

厚労省としては少なくとも船上で操業中に起こった被ばく、その影響が長年経って出てきたということに矛盾がないのであれば、当然救済するという立場で対応してほしいと思いますね(聞間医師)

・そんな中、厚生労働省が今年3月にまとめた報告書。1954年3月の検査記録が残る10隻について、どの程度被ばくしたかを調べたもの。分析の結果「健康影響が現れる程度の被ばくがあったことを示す結果は確認できなかった」と結論づけた。
・高知でもこの報告書の内容が報じられた。

今になって当時の人間はどういう訳で死んだのか分からないまま死んでしまった。それを今になって何もなかったなんて、そんな勝手なことが言えるかの。都合のいいように言ってるということよ。あまりにも酷すぎる。差し障りないように何とか言いたいんだろう、この人らも。幕引いてこれ以上面倒くさいことに関わりたくない(武田治男さん)

どんなふうにしてどういう気持ちで、そんな短い間に、既にもう71年経ったいうても10年間100回以上の放射能実験した中でやりよったことが、素人でも何もなかったなんて信じられんことですからね。どういう根拠をもって全く影響ないということを…。何かしっかり説明してほしいですよね(美砂さん)

<オバマ大統領の広島訪問、そして核実験の犠牲者の遺族は…>
・5月27日、アメリカ大統領が広島へ。そこに美砂さんの姿もあった。

本当に昨日まで、さっきまで考えてた。オバマさんは2009年に「核戦争のない、核兵器を持たない、核兵器を使わない」ということを宣言してくれた唯一の現役のアメリカ大統領だと思うんですね。その彼が果たして戦後すぐ、1946年からのアメリカがこれでもかこれでもか、広島、長崎にあれだけのことをして、もっと威力のある兵器をつくろうとしたあの水爆実験を、果たしてどこまで把握しているのかっていうのは興味がすごくありました(美砂さん)

私の国のように核を保有する国々は恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気をもたなければなりません。私が生きている間にこの目標は実現できないかもしれません。すべての人の下げることのできない価値、すべての命は尊いという主張、私たちは人類の一員なのだと言う根本的で欠かすことのできない考え、それは私たちみんなが伝えていかなければならない物語なのです(オバマ大統領の演説)

・室戸にはある言い伝えが残されている。「死者は海から戻り、そして海に帰って行く」。「お父ちゃん、お父ちゃんの死は決して無駄にはせんきね」

(2016/7/8視聴・2016/7/8記)

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【NNNドキュメント’16】老いるバス 走り続ける 安全は確保されるのか?

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【NNNドキュメント’16】
「老いるバス 走り続ける 安全は確保されるのか?」

(日本テレビ系列・2016/7/4放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 北海道で多発している観光バスの火災、そして大きな事故では今年1月に軽井沢で15名が亡くなるスキーツアーのバス事故がありました。私たちが何かと乗る機会の多い交通機関として大きな不安を抱きました。きちんとした原因究明と安全対策が強く求められます。

 どちらも共通しているのは、製造から相当年数経ち車両自体が老朽化したバスだということです。軽井沢の事故についてはNHKスペシャルで詳しく取り上げていましたが(→【NHKスペシャル】そしてバスは暴走した)、地球何十周分の走行距離を走っていたり、製造から15年以上経っているとか、乗る前に知ったら恐ろしくなるような話が今回の番組でも数多く出ていました。

 これから東京オリンピックに向けて外国人観光客の増加など需要増が見込まれる中、供給する側のバスが不足しているということも明らかになっています。それに加えて規制緩和によって老朽化したバスが走らされている実態、そのツケとして私たちの安全が脅かされているといっても過言ではありません。

 バスターミナルの整備や観光立国づくりの掛け声はいいですから、私たちが安心してバスに乗車できるような適正な安全確保を国が主導して進めてほしい。もちろん安全軽視に繋がるようなダンピングを助長するようなことは論外です。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・北海道で観光バスの火災が年明けから5件も相次いでいる。その殆どが製造から15年が経った古いバスだった。北海道にある観光バスは3000台余り。取材したバスも製造から15年、既に地球23周分を走っていたり(90万km)、中には111万4776km(地球28周分)もある。
・老朽化と火災に因果関係はあるのか。15人が死亡した今年1月の軽井沢スキーバス事故。このバスも地球27周分を走っていた。
・一連のバス火災の報告書には、偶然とは思えないある特定の原因が書かれていた。経営者には古くなっても走らせざるを得ない苦悩が。
・そんなバスに私たちは安心して命を預けることはできるのだろうか。老いるバス、走り続ける。

<新幹線開業で観光客が増えている北海道>
・今年3月に開業した北海道新幹線、北の大地の新たな玄関口に大勢の観光客が押し寄せている。

函館の夜景を見に行く(観光客の女性)
観光バスはガイドが案内してくれるのでいい(観光客の男性)

・広い北海道でバスはなくてはならない移動手段。雄大な自然とグルメを堪能する旅の始まり。

<観光バス火災の原因は>
・ところが北海道では今年、観光バスの火災が相次いでいる。占冠村そして小樽市では外国人観光客を乗せたバスが、三笠市ではスキー授業の帰りだった地元中学生が命の危険に晒された。

煙がもわもわしていた。びっくりした。みんな口に手をあてていた(スキー授業帰りの中学生)

・取材で独自に入手した一連のバス火災の事故報告書。火災の原因として繰り返し同じ記載が見られた。「スプリングブレーキ」。補助ブレーキの一つで、製造年数が古いバスに多い構造。車輪の裏側にあり、圧縮された空気がスプリングを押さえ込んでいるが、空気を抜くとスプリングが伸びて回転する車輪にブレーキをかける仕組みだ。しかし何らかの理由で空気が抜けてブレーキがかかり、そのまま走り続けると過熱、出火につながる。
・今年1月、札幌市清田区で起きた火災は深刻だった。原因は、やはりスプリングブレーキの過熱だった。ブレーキの作動を知らせる警告ランプは「異常なし」と報告されている。
・ところが運転手によると、スプリングブレーキの作動を知らせるはずの警告ランプが実際には点灯していなかった。老朽化が原因とみられている。運転手はブレーキがかかっていることに気づかぬまま走行、突然炎が上がった。乗っていたのはスイミングスクールの生徒たち、一歩間違えれば大惨事となっていた。
・バスの老朽化が出火の危険性を高めていると公共交通学の専門家は指摘する。

複雑な運転機構が残されていたり、エンジンなどの駆動系は摩耗しているので、古い車両を残しておくこと自体が火災のリスクにつながる。古いバスを放っておくと、いつ燃え出すか分からない(東京都市大学公共交通学の西山敏樹准教授)

・全国で使用されているバスを製造からの世代別にみると、いずれも比較的同じ割合になっている。ところが火災が発生したバスの割合は、製造から15年以上のものが60%を超えている。つまり古いバスほど火災のリスクが一段と高くなるのが分かる。

<北海道にある小さなバス会社>
・北海道の北にある名寄市。地域に根ざした経営をしている小さなバス会社(川原観光)がある。レインボーカラーが施されたバスが9台、その殆どが製造から15年以上が経った中古だ。所々に錆も見える。塗装が少々割れていたり剥がれていたり。
・不具合を見つけると、すぐに整備士たちが修理に取り掛かる。この日の作業には、会社を経営している和田英則さん(42)も加わった。
・ベテラン運転士たちが多く、出発前の点呼の際には健康も気遣う。

ドライバーは1年1年、歳を重ねて、バスも1年1年、歳を重ねれば壊れていく。バスを多く走らせると事故や故障などいろいろな問題が出てくる。不安な要素を一つでもなくしていきたい(和田さん)

・自らが点呼を受けてハンドルを握ることもある和田さん。このバスも製造から26年、走行距離は55万km。古いバスを使っているのは、和田さんの会社に限ったことではない。

<地球45周分の走行距離のバスも>
・雪まつりの時期になると、おびただしい数のバスが札幌に押し寄せる。道内の観光バスは、260事業者の3000台余り。その多くが酷使されていた。取材したバスもメーターが既に一回りして177万km(地球45周分)にもなる。

これより走っているバスもあると思う、他の会社だったら(運転手)

・中国語そしてタイ語の表示も。外国客が増え、古いバスも走らせなくてはならないのだ。
・以前はバス事業に参入するために製造から5年以内のバスを一定数用意する必要があった。2000年に規制が緩和され、どんなに古くても最低3台で参入できるようになった。

<往復1000kmを超える中学生の修学旅行>
・レインボーカラーのバスが高速道路に。運転していたのは前出の和田さん、3泊4日で地元中学校の修学旅行。向かっているのは、名寄から500km離れた函館市。
・函館は初夏の訪れとともに修学旅行シーズンの本番を迎える。名所の一つ、函館山には多くの人が夜景を見に訪れる。
・翌日は函館を折り返し、雄大な国立公園を縫ってのバスの旅(羊蹄山、洞爺湖)。
・和田さんは中学生たちがバスを離れている間も、清掃と点検だけは欠かさない。

ベルト類やエンジンオイルなど目視を重点的にしている(和田さん)

・修学旅行最終日は札幌へ。中学生たちは裁判所を見学してジンギスカンを食べた。
・そして名寄へ。往復1160kmの旅が無事に終わった。生徒たちを学校に降ろしてバスが会社に戻った頃には、午後8時を回っていた。

修学旅行の仕事だったので、緊張感をもって仕事をしてきた(同上)

・このバスも19年選手。メーターは59万km(地球15周分)になろうとしていた。
・長い距離を走ってくれたバスをいたわる。

(和田さんにとってバスの存在は?)
体の一部だね。体の一部でもあり、仲間でもあり、分身みたいなものだからね(同上)

・思わずこんな本音がこぼれた。

できれば新車も欲しい。本音は新車が欲しい(同上)

・新車に買い替えたいけど買い替えられない。そこには根の深い理由があった。

<バス新車生産の現状はどうなっているのか>
・新車の生産はどうなっているのか、富山市にある国内大手のバス製造工場を訪ねた。新車に買い替えられない理由とは。

大量生産の工場だと1日に何千個、何万個という商品を作るが、この工場は作っているものが大きいこともあり、1日に7台の生産が限界(三菱ふそうバス製造バス工作部の西岡衛組立課長)

・バスごとに座席の数も窓の付け方も違うオーダーメイドのため、溶接や組み立てに手間と時間がかかるからだ。新車の価格は1台平均4000万円。かといって、設備投資をして増産体制をとることに二の足を踏んでいる。

東京オリンピックが区切りだと考えている。それ以降の状況は、はっきりしないので。バス会社の要望を見極めながら、できるだけ対応していきたい(同上)

<中古バスが出回っている現状>
・新車は値段も高く出回りにくいとなると、頼みは中古バス。インターネットによる中古バス販売会社を訪ねた。今期の販売実績は、予想を超える右肩上がりだった。

一昨年ほど前はこんな状況ではなかった。毎月1台くらい売れればいい方だった。去年くらいから上がってきている(西日本特殊車輌の山口晃市社長)

・値段は新車の半分以下。ただ北海道には古いバスが集まりやすいという特徴があった。この会社の販売記録をみると、首都圏では年式が新しく1000万円以上のバスが多く購入される一方で、寒冷地では年式が古く安いものばかりが。

以前は新車の登録から10年以内のバスが中古として使用されていた。今は製造から20年経過したバスも使わざるを得ない。北海道ではバスがサビつくことが多いので、バス底の写真を撮り、道内の事業者に案内する(同上)

・北海道では車体の下回りを中心にサビが目立つバスが少なくない。原因の一つが凍結防止剤として撒かれる塩。錆びて傷みやすく次々と買い替える必要に迫られるので、北海道に古くて安いバスがおのずと集まる。

<中古バスを購入したバス会社の本音は>
・5月、1台のバスが運輸局に。そこには和田さんの姿があった。中古バスを購入した。製造から20年、でも走行距離は37万kmと少なめ。割のいい買い物だった。

あとはしっかり客のためにバスに走ってもらうだけ。これが出発点みたいなもの(和田さん)

・この後、レインボーカラーの塗装をして大切に使っていく。

むやみに設備投資をして従業員の生活を奪ってはならないし、いろいろなところにしわ寄せがくる。バスを買うということは(同上)

・ただ、このバスも20年もの。不安は尽きない。

車齢(製造からの年数)の寿命は切実な問題になってきている。業界の会議では出てこないが、個々の会社では思っていると思う(同上)

・老いたバスを長く使いながら、火災や事故を起こさずにやっていくことはできないのだろうか。

<仕事が増えている現状と不安も>
客で言う人がいる。「大丈夫?車は燃えないか」「運転手、酷使していないか」と(同上)

・相次ぐバス火災から受けた乗客からの厳しい言葉、その言葉が頭を離れない和田さん。仕事も増えてバスはフル稼働。運行予定表の作成に日々、追われるようになった。

もう、びっちり。掛け持ちして走っていたり。これは夜中に帰ってきてドライバーが替わって乗って行く(同上)

・事故を未然に防ぐために運転手への注意を細かく書き添える。

業界全体が信頼を取り戻さないと厳しい。事故が多い、車両の管理が悪いのか、いろいろな問題が出てくることに心苦しいのと、今後どうしようという不安と、いろんな思いが入り交じっている(同上)

<現状を国はどう考えているのか>
・バス会社の苦悩は深まるばかり。地元の国土交通省北海道運輸局はどう考えているのだろうか。

北海道だけでは解決できない問題で、バスが不足しているという声も聞いている。国土交通省と連絡を密に取り、本省で対策を取る必要があれば取る(国土交通省北海道運輸局の櫛引和憲保安・環境調整官)

・規制を緩めると安全が脅かされ、強めるとバスが足りなくなる。混迷を深める国の議論、検討会の元座長でさえも…。

どんな社会状態でも普遍的なものがあるとするならば、すでに実施されている。いま最適だと行われた政策や規制は、ほんの数か月1年も経つと、社会状況が変化し最適ではなくなる。行政も悩み、我々も悩んでいる(バス事業のあり方検討会の竹内健蔵元座長・東京女子大教授)

・東京ではこの4月、国主導で立派なバスターミナルが誕生(バスタ新宿)。安心してバスに命を預けられるのか、その答えは未だに見いだせていない。

訪日外国人旅行者数について2020年に4000万人、2030年に6000万人を目標とします(安倍首相・明日の日本を支える観光ビジョン構想会議での発言)

・観光立国を掲げる日本。観光バスの利用者は年間4億人ともいわれ、今後さらに増える見込みだ。
・そして今日も日本全国津々浦々で老いるバス、走り続ける。

(2016/7/8視聴・2016/7/8記)

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【明日へ―つなげよう―】三十一文字の思い~生島ヒロシと“震災の短歌”~

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【明日へ―つなげよう―】
「三十一文字の思い~生島ヒロシと“震災の短歌”~」

(NHK総合・2016/7/3放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 短歌に限らず自分の中で溜め込んでいる思いを吐き出すという作業は、やはり必要なんだなということを感じました。一つひとつの歌がどれも詠み手の心の内を表していて、特に福島の人たちの無念さは強く滲み出ている気がしました。

 もう一つ印象に残ったのは、脳出血で体に麻痺が残り懸命なリハビリで絵手紙を書いている男性が言った「病気に感謝」という心境。決してその人でなければ分からないご苦労があったと思いますが、それでもこう言えるという心の強さがすごいと思いましたね。

 ご自身が病気にならなければ「普通の男で飲んだくれて終わっていた」と仰っていましたが、日頃の鬱憤を酒で晴らしているような後ろ向きな人間は彼の生き様を少しは学べと思いますね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

良き人も
やさしき人も
波は呑み
わたしのやうな
者が残れり
(宮城県仙台市 尾形八重子)


もう一度
会いたき人に
もう二度と
会えなくなりぬ
弥生のあの日
(宮城県気仙沼市 後藤善之)


・東日本大震災から5年、あの日からたくさんの歌が生まれ、詠み継がれている。NHKでは2011年から東日本大震災を詠んだ短歌を募集。今年も全国からたくさんの歌が寄せられた。
・その短歌の作者が集い、思いを語り合う歌会が5月、福島県郡山市で開かれた。選者の一人としてこのイベントに参加した生島ヒロシさん。宮城県気仙沼市の出身で、津波で妹夫婦を亡くした。
・「痛みを知る者同士だからこそ分かり合える」。生島さんは短歌を詠んだ作者のもとを訪ねた。
・福島の人は5年経った今も前に進めない不安と怒りを歌にした。

穏やかな
水車のまわる
公園に
不釣り合いなる
線量計あり
(福島県棚倉町 古市篤子)


・高校生は5年経った今だから感じられるようになった変化を歌にした。

バスの中
震えし友と
毎朝の
「おはよう」の意味
変わって五年
(仙台白百合学園高校2年 樋野菜々子)


・歌に込めた作者の思いに触れる旅。

<気仙沼で再会した男性>
・震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市、生島さんが青春時代を過ごした家が残っている。ふるさとを襲った津波が大切なものを奪い去っていった。

アルバムもね一つだけ見つかりましたけど、昔の写真もなくなってしまったし、やっぱりいろんな思い出、そして…まあ、ほんとに何なんでしょうね、生活も壊れてしまったけど、いろんな人の思いが全部粉々になってしまったようなところもあると思うんですけど(生島さん)

・かけがえのないものを失う悲しみ、同じ経験をした人がここにはたくさんいる。
・生島さんが気仙沼での再会を心待ちにしていた人がいた。震災短歌の集いで顔見知りになった後藤善之さん。あの日、後藤さんは九死に一生を得る経験をした。

呑み込まれ
意識失い
流れ着く
それでも生きろと
巨大津波は言いしか
(宮城県気仙沼市 後藤善之)


道路を津波が走ってきたんですよ。あっという間に屋根まで津波が行きまして、びっくりしてこっちに逃げたんですよ。怖くて夢中でしたね。津波が両方から来たのかな、飛ばされてその庭の石の辺りに気づいたら座ってたんですよね(後藤さん)

(5年経っても思い出す?)
なにかに「お前は生きろ」とおかれたような感じもするしね(同上)

・後藤さんにとって何よりショックだったのは、近くに住み幼い頃から面倒をみてくれたおばと、その家族が3人亡くなったことだった。
・生きる気力も失いかけていた後藤さんを救ったのは短歌だった。被災者だからこそ分かり合える思いを仲間と詠み合い、苦しい胸の内を吐き出した。それが一歩を踏み出すきっかけになった。

心のはけ口にもなりますしね(同上)

・短歌はそのときに感じた思いを刻みつける心の記録。自分と向き合い、気持ちに整理をつけることができるのだと後藤さんは言う。
・今年、後藤さんは岩手県大槌町を訪れた。海を見下ろす丘の上に設置された電話ボックス「風の電話」。電話線はどこにも繋がっていない。しかし「家族や友人の声をもう一度聞きたい」そう願う人が絶えない。彼は亡くなったおばの声が聞きたいと思った。

「もしもし」と
語りかけたら
「はいはい」と
返事したがに
風の電話は
(宮城県気仙沼市 後藤善之)


受話器をあげると「もしもし」って言いたいんですよね。声を聞きたい人の声って実際は聞こえないんですけど、心に響くっていうのかな。風の音が「もしもし」っていう感じで(同上)

(お世話になったおば様を詠むことによって、自分の心がやっぱり変わってくる?)
落ち着きますよね。別に詠んだからどうのこうのってないんですけど。「詠む」ということは、おばさんの仏壇に手を合わせたような感じになるんですよね(同上)

<母が亡くなり弟が行方不明の女性>
・歳月を重ねるうちに変化していく心の内を詠んだ人もいる。千葉むつ子さん、岩手県陸前高田市の出身。母と弟が避難していた集会所で波にのまれた。母は亡くなり、弟は行方不明のままだ。

母の場合はDNA鑑定でお骨で見つかったんですよね。弟の場合は見つかってないからどういう状態だか分からないんですけどね。ただ2人がいたときにお互いに叫んだんだろうな。信じられないことが起きているわけだから。そのときに「母さん」とか「元男」とか叫んだんじゃないか。かわいそうなことしたなって(千葉さん)

・なぜ自分の家族は命を奪われたのか、生死の境にあったものは何なのか、1年目に詠んだのは悲しみに暮れる自分を叱咤する歌だった。

死の重さ
生の重さを
天秤に
かけてはみても
生きるしかなし
(千葉県松戸市 千葉むつ子)


自分も生きなきゃだめなんだよ、めげちゃいられないんだよ。しっかりしなさいよ。みんな生死の境を迷っている。明日もわからないし、生きるしかないんだよ頑張ろうねって、そういう意味だったと思うんですけどね(同上)

・被災地に比べれば、日々の生活にも困らない自分が悲しんでいては申し訳ない。千葉さんが悲しみを表に出してもいいと思えるのに3年かかった。

日常の
ふとした時の
涙川
いいよいいんだ
泣いていいんだ
(千葉県松戸市 千葉むつ子)


自然に喜怒哀楽とか悲しみを出す、その行動には結構時間がかかりましたよね(同上)

・震災から5年、まだ弟の写真を母の横に置くことはできない。「もしかしたら」という思いが捨てきれずにいるからだ。一方で、心の中では母や弟と対話できるようになった。時には励まされることも。そんな気持ちが歌になった。

夏の日の
影の確きに
おどろきぬ
我が影に問う
確かに生きしか
(千葉県松戸市 千葉むつ子)


西日が当たって私の影がくっきりうつったんですね、アスファルトに。これが私の影か。こんなにはっきり私の影が投影されると、これが私なのか?こんなに影でさえもはっきりしてるのに、果たして自分はしっかりして生きてきてるのか。母と弟がいるからなんですよね、ここに。2年たち3年たち5年たっても、みんな同じだと思うんですよ。母とか弟が「ちゃんとしてよ」って言わせてるのか、影に言わせてるのか。常にそれがからみあって震災短歌になっているんじゃないかな(同上)

<行方不明者の捜索をしてきた警察官>
・6月11日、岩手県釜石警察の署員たちが沿岸部の捜索活動をしていた。震災以降、毎月11日を月命日として行方不明者につながる衣服や所持品などが打ち上げられていないか、地道な作業が続けられている。震災から5年、成果は思わしくない。

見つからない方が今は多いです。震災で被災された方、特に行方不明者の方の家族のことを思いますと、まだまだ捜索は続けていかなければいけないと思ってやっております(釜石警察署地域課長の大河善寿さん)

打ち寄せし
諸々を選り
手懸りに
月命日の
捜索始む
(岩手県北上市 舘洞嗣雄)


・この歌の作者は岩手県警に勤める警察官。捜索する側の気持ちを知りたいと生島さんが訪ねた。舘洞嗣雄さんは、沿岸部にある久慈警察署で遺体や遺留品の捜索活動に従事してきた。

生島さんの場合は妹さんは見つかっても、そのご主人がまだ。その気持ちを察すると苦しいだろうなと。いつまでもいつまでも心の中に残っているんだろうなって(舘洞さん)

・たとえ衣服の切れ端でも見つかれば、待ち続けている家族が気持ちに区切りをつけるきっかけになるかもしれない。そんな思いで捜索してきた。
・「少しでも遺族の気持ちに寄り添いたい」署を挙げて過酷な日々と向き合う中、生まれた歌がある。

これ以上
拭へませんと
涙ぐむ
部下に少女の
納棺命ず
(岩手県北上市 舘洞嗣雄)


行方不明になっていた方で女学生の方がおりました。その方が見つかったということで、当時の中村署長が「若い方でこれから将来ある方だったんだ。家族のことを思えばいたたまれない。どうか彼女のお顔をきれいにして、できるだけ生前に近い顔形にしてご家族のもとに返してあげなさい」という指示を与えたんですね。「お顔に泥や砂やいろんなものが付着している。これ以上顔をふくと皮膚もはがれてくるし、髪の毛まで抜けてくるんです。もうこれが限界です」ということで、涙ながらに署長に訴えた。それを聞いた署長は「よし、よくやった。あとはひつぎに移してご家族のもとに返してあげなさい」と指示した。その1コマを私はずっと忘れられなかったものですから(同上)

・舘洞さん自身も岩手県沿岸部の出身。妻の実家は津波に襲われ、義理の両親が亡くなった。職務に追われ、ようやくふるさとを訪れることができたのは震災から2週間ほど経ってからだった。変わり果てた町、自分が生まれ育った家がどこにあるのか見当もつかず諦めかけたこともあった。ようやく記憶の片隅にあった井戸を見つけ、ここだと分かった。

ここに流しがあって、ここにかまどがあって、母親がここで調理してました。あと、この辺が風呂場だったですね、お風呂があって。ですからもう、井戸は目の前ですね(同上)

三度目に
尋ね見つけし
埋立ての
井戸の傍ら
生家の跡地
(岩手県北上市 舘洞嗣雄)


<NHKに寄せられた東日本大震災を詠んだ短歌>

崩れたる
壁より出づる
鉄筋は
いびつに曲がり
海風を受く
(岩手県盛岡市 稲垣貞男)

産土も
人の心も
流れゆき
思い出だけは
どこにもやらぬ
(東京都調布市 中津川末子)

五年前の
今日は在りしと
津波にて
亡き人を泣く
三月十日
(岩手県山田町 中村とき)


<今年4月に大きな地震があった熊本を詠んだ歌も>

東北は
五年になりし
節目時
熊本県は
元年となる
(岩手県宮古市 北口博志)


<高校生たちの短歌>
・毎年のように震災の歌を寄せてくれる仙台白百合学園高校。生徒たちの多くがあの時、心に焼き付いた思いを歌にしている。
・文芸部の2年生、松本ルミナさん。震災当時は小学5年生、福島に住んでいた。福島県では原発事故のとき18歳以下だった子どもたちを対象に甲状腺の検査が行われた。「診察してくれた医師の優しい声がかえって怖かった」という不安な気持ちを歌にした。

レントゲンを
撮りますからねと
医師の声
甲状腺の
脆さを知りぬ
(仙台白百合学園高校2年 松本ルミナ)


いきなりガンのおそれがあるって言われて驚きもありましたけど、経験したことのないことをいきなり言われて。実際結果を受け取るまではドキドキっていうか、問題はなかったんですけど怖さっていうものを感じて、それも伝えたかったんです(松本さん)

泣きじゃくる
友の背中を
さすりつつ
雪を見上げて
震える我が手
(仙台白百合学園高校2年 伊藤優花子)


教科書が
床に散らばる
教室は
私の知らない
教室だった
(仙台白百合学園高校2年 平島和灯)


復興を
祈り続ける
絵灯籠
辛い思いを
光に託す
(仙台白百合学園高校3年 大野七海)


・心の移ろいを歌にした人もいる。樋野菜々子さん。友達と毎日交わす挨拶の意味が徐々に変わっているように感じていた。

バスの中
震えし友と
毎朝の
「おはよう」の意味
変わって五年
(仙台白百合学園高校2年 樋野菜々子)


最初は安堵の方が大きくて、自分自身のうれしいとか悲しいとかいう気分はそこまでなかったんですけど、最近では「おはよう」って挨拶すると「今日も会えたよかったな」っていうか「うれしいな」っていう方が大きくなってますね。1回1回の「おはよう」が同じではないと思っているんですね。5年間積み上げてきた「おはよう」はひとつずつ違う、たぶん微妙な割合で感情も少しずつ違うんですけど、大きく言えばうれしいっていうのと、あとは逆に終わりを意識した「今を大切にしたいな」っていう気持ちがあるんじゃないかな(樋野さん)

<原発事故の影響が影を落とす福島の歌>
・あの日に時が止まったまま、前に進めない気持ちを詠んだ人もいる。原発事故の影響が影を落とす福島の歌。

原発事故
避難生活
除染作業
フレコンバッグ
ふるさとよいつ?
(京都府舞鶴市 鯵本ミツ子)


「私の生まれ故郷・福島県はいつ戻ってくるの?」と毎日思っています。ニュースで見聞きするのは原発事故のことばかり。福島の人たちが苦難を背負わなくてはならないことに心が痛みます(鯵本さんの言葉)

・ふるさとに立ち入ることさえできない苛立ちを詠んだ人もいる。

満開の
中心部には
立ち入れず
ゲートの外の
六度目の春
(福島県郡山市 渡辺徳仁)


富岡町「夜の森」の桜並木は全国的に有名な桜の名所です。しかしその大部分は帰還困難区域内にあり、六度目の春を迎えても自由に花見をすることはできません。みんなで花見ができる日はいつになったら戻るのでしょうか?(渡辺さんの言葉)

穏やかな
水車のまわる
公園に
不釣り合いなる
線量計あり
(福島県棚倉町 古市篤子)


・作者の古市篤子さんは福島県棚倉町で農業を営んでいる。愛情込めて育てている自慢のコメが福島産という理由だけで避けられてしまうことに憤りを感じている。

全部センサーでみて全部調べるんですよ。全部調べて安心だって言って出しているし、野菜物も。怒りと悲しみですね。分かってもらえない怒りと悲しさ(古市さん)

・福島に影を落とす放射線の影響、今も風評被害は消えていない。

平穏に見える福島に原発の傷が生傷になっている。かさぶたになっていない(同上)

<夫婦で苦難を乗り越えてきた男性>
・苦難を乗り越え、前に進もうとする人が詠んだ歌がある。

揺れに耐え
寒さ余震に
なお耐えて
リハビリするも
感謝の日々を
(宮城県富谷町 加川師享)


・「感謝」という言葉に込められた思いに触れてみたい、生島さんが作者を訪ねた。

(3月11日の午後はどちらに?)
病院でリハビリやっていました。歩いていたら揺れでふらふらだった。リハビリの先生2人に支えられて倒れなかった。よかったなあと思ってね(加川さん)

・加川さんは59歳のときに脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残った。自由に動かない右手に苛立ったこともある。それを支えてくれたのが妻のサダ子さん。リハビリの苦しさに挫けそうになったときもいたわり、励ましてくれた。それから20年余り、二人三脚の人生。
・妻に助けられ前向きに生きてきた加川さんを再び苦難が襲った。5年前の震災、ハンディを抱え避難生活もままならなかった。

周りの人が避難所に行きませんか?って言ってきたけど、私が行ってもベッドがなかったら床に寝た場合、起き上がるのに大変。それから私、装具つけてるでしょ。静かに歩くこともできないし、だから女房とここにいたわけ(同上)

(食べ物とか飲み物は?)
娘が学校の先生していたから、一緒に入った先生が野菜とか食べ物を農家だから持ってきてくれたの。そのときは夫婦で泣いたね、うれしくて(同上)

・加川さんは感謝の気持ちを絵手紙にしたためている。リハビリの一環として始めた絵手紙だったが、今ではボランティアで講師を務めるほどだ。利き腕ではない左手で絵を描き言葉を添える。

ありがとう
言いてあなたに
会える日の
嬉しき事の
運ぶ喜び
(宮城県富谷町 加川師享)


・いくつになっても、どんなハンディがあっても乗り越えられる。それを身をもって示している加川さん。病気や震災、辛い経験こそが加川さんの感謝の原動力だ。

病気しなかったら私は普通の男で飲んだくれて終わっていたろうと思うんです。たまたま脳卒中という病気をしたために、時間もできたし楽しむこともできたし。だから私の自分の言葉としては病気に感謝なんですよ。今現在、私81歳だけども、まだまだやることがあるようで、死にたくないんですよ。立派な俳句や短歌を作らなくても私はいいと思っている。だから今日もね、生島先生来るから詠んだんですよ(同上)

生きてきて
よかったよもや
この方の
訪れ受ける
幸せ人に
(宮城県富谷町 加川師享)


私は今日幸せなんですよ。これを私が描いた絵手紙に書いて差し上げようと思います(同上)

けんかばかりする女房だけども、女房がいなければだめだった。やっぱり家族ですね(同上)


<様々な人を訪ねた生島さんの歌>
短い言葉の中に凝縮された悲しさ、悔しさ。それでも前を向いて生きていこうという命を大切さを感じながら、前を向いて力強く生きていこうという決意も感じられましたね。だから我々は、震災で悔しい思いで旅立たれた皆さんの思いを胸に、残された人間がそういう苦しい経験を次の世代に生かして前を向いていくという。これがとても重要だなということを改めて実感しましたね(生島さん)

・東日本大震災から5年、短歌の作者に寄り添い語り合った生島ヒロシさん。その思いを自ら三十一文字に綴ってみることにした。

五年たち
命と絆
大切に
勝るものなし
友と語らう
(生島ヒロシ)


(2016/7/9視聴・2016/7/9記)

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【NHKスペシャル】私は家族を殺した “介護殺人”当事者たちの告白

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【NHKスペシャル】
「私は家族を殺した “介護殺人”当事者たちの告白」

(NHK総合・2016/7/3放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 団塊ジュニア世代の一人として、これから決して避けて通ることのできない「介護」という問題、非常に身につまされる思いで視聴しました。

 全体を通しての感想ですが「介護は社会全体で」という建前で導入された介護保険制度が機能不全に陥っていることを実感します。「要介護認定」によって本当に必要な介護サービスが保険適用されない、利用抑制に繋がっている。では何のために保険料を取っているのか、「国家的詐欺ではないのか」という意見もあるほどです。

 そのうえ政府は“本音”の部分では介護を家族の責任にしています。自由民主党の憲法改定草案には「家族は、互いに助け合わなければならない」という現行憲法には無い文言を新設しているぐらいですから、穿った見方をすれば「親の面倒は子どもがみろよ」と言っているような気がします。

 このままいけば、団塊の世代が75歳を迎える2025年頃には今よりも大きな社会問題になるでしょう。団塊ジュニアは50歳前後、このご時世で介護離職などしたら干上がってしまいます。その上、施設介護は爆発的な待機者数。「特養入れられない、日本死ね」という匿名ブログが出るような状況、介護殺人も増えてしまうでしょう。

 個人が努力して老後の蓄えをしておけばいいレベルを超えるでしょう。誰もが介護に追いつめられる恐れがあるという番組の警告は決して大げさなものではありません。

 どうすればいいのか。まず早急に必要なことは、介護をしている人を孤立させないことだと思います。家族を殺めてしまった人たちの多くが社会的に孤立していた人たちのような気がします。行政などの「縦の繋がり」、同じ介護をしている人たちの「横の繋がり」を構築して、自分を追い詰めさせないこと。これは大掛かりに社会的システムに手をつける前に、すぐに出来ることだと思います(地域ごとに公的な相談員を増員するぐらいの予算でできます)。

 そして介護サービスを充実させていくために知恵を出しながら必要な予算も拡充することです。別の番組で紹介されていましたが、1日24時間のうち必要な時間だけ訪問介護をしていくようなサービスを展開している事業所があるそうです。これも一つのアイデアだと思います。

 また追い詰められやすいのは男性の方が多いという統計もあり、それは家事や育児経験の差であるという指摘もあります。例えば若い年代のうちに介護ボランティアなどを奨励して経験を積んでおくような取り組みをしておくというのも悪くないのではないでしょうか。

 もし国レベルで進めるのであれば「介護マイレージ制度」という形にして、若い頃に介護ボランティアをした分だけポイントを蓄積して、それを介護保険とは別に家族介護、自分の介護に将来使えるようにするといったものとか。あくまでも私の思いつきですが、介護全体を社会で支えていく仕組みをつくっていくことが必要です。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・いま日本では2週間に1度“介護殺人”が起きている。
・刑務所で加害者への取材が特別に許可された。

私が殺めてしまったのは実の母です。認知症を患っていました。私を産んでくれた母を自らの手で命を奪ってしまったことを罪の大きさを深く深く反省しております(受刑者)

・今、介護に疲れた末に家族の命を奪う介護殺人が全国で相次いでいる。NHKでは、この6年間に起きた介護殺人を独自に調査。未遂などを含め、少なくとも138件起きていることが分かった。
・加害者はなぜ一線を越えてしまったのか、事件を防ぐことはできなかったのか。100人を超える当事者に接触を試み、そのうち11人から直接話を聞くことができた。

(首を絞めてから)12345678910…15くらいまでは数えた(認知症の夫への殺人未遂 83歳の女性)

・この女性は介護を始めて僅か3か月で事件を起こした。取材を進めると、多くの人が1年にも満たないうちに家族を手にかけていたことが分かった。

もうどん底。介護する方もくたくたで、頭が動かなくなっちゃう。それこそ悪魔が来て、それしかないそれしかないって(同上)

・今、日本で介護に直面している人は550万人以上。今回、介護の経験がある人にアンケートを実施したところ「相手を手にかけたい」「一緒に死にたい」と考えたことがある人は、実に4人に1人に上った。

一番つらいのは自由がないこと。うちのお袋がいなくなったほうが、これで介護が終わると(母親を介護している男性)

・ある日、突然始まる介護で追い詰められていく人々。「私は家族を殺した」――当事者たちの告白。

<長年連れ添った妻を殺めてしまった男性>
・九州地方のある住宅街。71歳の男性は去年、42年間連れ添った妻を手にかけた。妻の後を追おうと手首や首を切ったが死に切れず自首、執行猶予のついた有罪判決を受けた。
・「自分たちのような事件を繰り返してほしくない」と今回、男性は取材に応じた。

自首して1週間ぐらいは取り調べの間に自分自身も「殺してくれ」と何回か訴えたと思う。だけど取り調べでは「生きて償いなさい」と言われた。こんな形で夫婦が終わるなんて思いもしなかった(男性)

・介護を始めて1年足らずで事件を起こした男性、なぜそこまで追い詰められたのか。
・男性が妻と結婚したのは28歳のとき、お見合いで妻の笑顔に一目惚れした。大手企業に勤め、妻と2人の息子を育ててきた男性。勤続31年、仕事一筋で生きてきた。
・定年後は妻と2人暮らし。夫婦の時間を大切にし、毎年阿蘇まで旅行に行くのを楽しみにしていた。

僕もドライブ好きだったし、妻も来るまでのドライブ喜んでました。とにかくいつでも笑ってる(同上)

・夫婦水入らずの穏やかな老後、それが一変したのは2年前のことだった。妻が腰を骨折し、歩くことができなくなった。骨がもろくなる骨粗しょう症だった。退院後、自宅での介護が始まった。

まさか自分が妻を介護すると思っていなかった。退院すればまた元の生活に戻れるということしか頭に考えていなかった。42年、結婚生活を続けていたので、できるんだったら自分がやってやりたい。そばについてやりたい、そんな気持ちが強かった(同上)

・男性は妻の病気は治ると信じ、歩行訓練に熱心に付き添った。不慣れな洗濯、炊事、そして初めて経験する介護。全て一人で担うことになった。
・男性は介護に取り組む日々を日記に詳細に綴っていた。

2014年6月7日。曇り。5時40分起床。洗濯機を回しサラダを作った。今日から2人分を。

6月23日。5時30分起床。1~2階をモップかけ。また絨毯をコロコロで掃除。汗かいた。10時過ぎてから妻のリハビリ。帰ってから昼食。

・夫の懸命な支えもあって、妻は一時的に歩けるまでに回復した。

8月7日。5時30分起床。妻が起きてきて居間でニコッと笑った。やったーと思わず心が弾んだ。

・しかし介護を始めて3か月、妻が再び越を骨折。ほぼ寝たきりとなり、排せつも一人ではできなくなった。

(11月26日)妻は排便がなく、薬が増えるばかりで苦痛を感じておる。なんとか自分で出せと言っても「力がない」と悲しそうな顔をするので心が痛む。

(11月29日)8時少し前、妻を起こした。起きたとき大便を漏らしたのでパンツは捨て、ズボンは水洗いして洗濯機で洗った。

妻もたまに「ごめん」と言うこともあった。だけど「それはもう気にせんでええ」と。これが介護だ、これが介護だと思った(同上)

・次第に妻から笑顔が消え「みじめな姿を近所の人に見られたくない」と部屋の障子を開けることすら拒むようになった。

(11月30日)朝食後、ベッドの妻が僕を見ていたので、僕はベッドに入った。寂しがっていたので昼近くまで話した。元気づけようとしたら「自分は元に戻れない、何もできない」と言っては涙を流した。

・懸命に介護をしても絶望を深めていく妻、男性の心も沈んでいった。そして介護を始めて10か月、妻からある言葉を投げかけられる。

死にたい。殺して。

返す言葉がなかったですね。それが頻繁にそういう言葉が出てくると、自分自身が心が折れて自分がその中に引きずり込まれる。もう自分自身でブレーキの踏みようがなかった。「何とかして自分たちでやり直そう」「何とかして治そう」と言ったけど、勝てなかった(同上)

・妻は1か月の間「死にたい」と泣きながら訴え、自分の手で首を絞めるようにまでなった。事件3日前の日記。

2015年4月30日。妻が「生きるのがつらい」と言い出した。今まで何回か聞いた事だが、僕も限界に達し「分かった。自分たちの身の回りを片づけよう」と返事した。近く、人生の幕を閉じる。

・事件当日、最後のドライブに出た夫婦。向かったのは二人で毎年訪れた阿蘇だった。男性はある場所に車を止めた。夫婦の最後の会話が裁判記録に残されていた。

本当にいいね?
後悔しないね?
もう後戻りできないよ?
うん 確実に殺してね


目の前が真っ暗というか、自分が行動を起こす直前は、言葉として出てこないような、なんかもう思い出したくない(同上)

・介護を始めて11か月、男性は一線を越えてしまった。

<介護を始めてから1年未満の事件が多い>
・NHKは裁判資料などをもとに全国138件の介護殺人を分析。その結果、介護を始めてから1年未満で事件に至るケースが最も多く、26%に上ることが分かった。
・さらに今回、私たちは介護の経験がある人615人にアンケートを実施。介護を始めたばかりの時期が最もつらかったという声が数多くあった。

介護を始めてすぐに母がどうなってしまうのか、誰も相談できる人がいなくて不安でしかたなかった(認知症の母親を介護 39歳の女性)

介護を始めて最初の頃、元気だった頃とのあまりの落差にがく然とした。肉体的にも精神的にも追い詰められていた(認知症の夫を介護 69歳の女性)

・初めて直面する介護の現実を受け止めきれない家族の姿が見えてきた。

<認知症の母親を殺めてしまった男性とその兄>
・全国で相次ぐ介護殺人。その原因を探っていくと、立場の弱い家族に介護の負担が重くのしかかっている実態も浮かび上がってきた。
・中部地方在住の60歳の男性。一昨年、同居していた弟が認知症の母親の命を奪った。母親は昼夜を問わず暴れ出すなど症状が重く、片時も目が離せない状態だった。当初は母親の介護を男性が一人で担っていた。

ふすま一枚で向こうが私の部屋で、開けて寝ると騒ぐから閉めて開けての繰り返し(兄)

・メーカーの正社員として忙しく働いていた男性。母親を日中デイサービスに預けて仕事に行き、帰宅後は朝まで介護に追われる日々だった。

私もたぶんこのままいったら危ないなと思って、介護疲れというか夜眠れないし、仕事は行かないとならないし(同上)

・仕事と介護の両立に限界を感じた男性が呼び寄せたのが、失業中の弟(50代)だった。しかしその2か月後、事件は起きた。

私が自分の苦しみから逃れたいから弟を呼んで、みんなでお袋を介護して、いい方向に向かわせたいと思ったのが裏目に出てしまった。私が弟を呼ばなければこんな事件は起こらなかったと今でも思っている(同上)

・弟はなぜ母親を手にかけてしまったのか。懲役8年の判決を受け三重刑務所に服役している。

兄は一人で母親の面倒を見ていて、一昨年の10月私に電話をかけ「母の認知症がひどくなったから助けてくれ」と言われてしまった。私はもしそのとき「手伝ってくれ」と言われたら断るつもりでいたが「助けてくれ」と言われたら「うん分かった」と言うしかなかった(母親を殺害した50代の弟)

・25年ぶりに実家に戻った弟、母親の姿に衝撃を受けたという。

私の言うことは分かってもらえず、母も日本語ではない何かさっぱり分からない言葉を大きな声で。再現できないのが非常に悔しいが、何を言っているのか全く分からず、意思の疎通ができない時間が1日のうちの大半だったので、それが一番つらかった。私は母のことを母の皮をかぶった化け物だと思っていた(同上)

・それでも母親の介護から逃れることはできなかった。家族の中で介護ができるのは、仕事のない自分しかいないと考えたからだ。

私には逃げる場所がなかった。どこにも逃げ先や行くあてもなかった。犯行のほんの数日前のある晩、夜7時すぎにトイレから出てきた母が、着ていたパジャマや手に持っていたタオルに大便をどうやったらそんなに付くのか大量に付けて、私のほうに泣きながら「私は何か悪いことをしたんですか」と言いながら来たので、一番つらくて一番かわいそうなのは母本人なんだと思った。母を楽にしてやれるのは俺しかいないと決めて、その2、3日後に犯行に至ってしまった。それが全てです(同上)

(どうして弟さんが介護を担わなければならなかった?)
家族だからです(同上)

・弟は今、独房の中で母親に手を合わせる日々を送っている。

<アンケートに寄せられた家族の中で一人、介護の苦しみを抱え込む人々の声>
家族が何人いても、結局介護者は一人だけです。社会的に完全に孤立状態に追い込まれていて、自分だけが世の中から取り残されているという恐怖感を強く持ちました(寝たきりの母親を一人で介護 74歳の女性)

介護中は孤独です。子どもたちがいても忙しい年代で、実際手を差し伸べてはくれない。忙しいことが分かっているから私からも言えない(認知症の夫を一人で介護 74歳の女性)

<認知症の妻を殺めてしまった男性>
・さらに取材を進めると、周囲の支えがあったにも関わらず多くの介護殺人が起きていたことが明らかになってきた。介護殺人を起こした人を分析したところ、75%がデイサービスなどの介護サービスを利用していた。
・一昨年、富山市に住んでいた老夫婦の間で介護殺人が起きた。長年連れ添ってきた夫婦、夫は認知症の妻をデイサービスを利用しながら介護していた。
・懲役7年の判決を受けた夫に刑務所で話を聞いた。そのときの取材ノートがある。

妻が私を繰り返し侮辱してきた。おかしくなると手がつけられなくなりました。我慢の毎日でした(取材ノートより)

・事件の4か月前、夫は市の担当者と相談し介護保険制度を利用することにした。まず介護サービスを利用するために要介護の認定を受けた。妻は要介護2、5段階のうち軽い方から2番目。認知症であっても歩くことや食べることに問題がなかったためだ。
・夫は妻を特別養護老人ホームに入居させようと考えた。しかし入居している人の殆どは要介護3以上、さらに600人以上が入居待ちで諦めざるを得なかった。

民間の老人ホームも、とてもじゃないが私たちの収入じゃ入れない。施設に入れず、私しか面倒を見る人間はいなかった(同上)

・妻の妄想や暴言に耐えかね、夫は手を出すこともあったという。そこで日中、妻を預けるデイサービスを頼ることにした。しかし要介護2の妻を施設に預けることができたのは週2~3回、多くの時間は夫が自宅で妻も介護した。当時デイサービスの施設長だった寺林剛志さん。介護に悩む夫を自宅まで訪ね、相談に乗ってきた。

お父さんができる範囲での介護は、一生懸命にお父さんはやっていた。「今晩一晩寝て、明日の朝また電話して」という形で対応してたが、多い日は5往復ぐらい行ったり来たりして話聞いた(寺林さん)

・デイサービスの利用を始めて1か月余り、夫から1本の電話が施設長のもとに掛かってきた。

妻の妄想で気がおかしくなりそうだ。預かってほしい。このままだと殺人者になってしまいそうだ(裁判記録より)

・施設はそれまでも、夫からの急な電話に対応してきた。しかしこの日は他の高齢者でいっぱいで、受け入れることはできなかった。
・そして事件当日、暴言を繰り返す妻と激しい口論になった夫。衝動的に包丁で刺した。
・介護サービスを利用しても認知症の妻を支えきれなかった老々介護の現実。施設長の寺林さんは、今の制度ではできる支援が限られていると感じている。

認知症になればみんな施設入れるかというとまず無理なので、世の中の構造、社会的な問題、これからますます認知症の人が増えるから、本当に今の社会の仕組みやシステムを真剣に考えないと、これからの介護殺人は永遠になくならず、逆に増えていくだろう(寺林さん)

<アンケートで寄せられた“本音”>
・相次ぐ介護殺人を介護の経験者たちはどう受け止めているのか。今回のアンケートで「介護している相手を手にかけたい」「一緒に死にたい」と思ったことがあるか尋ねた。「ある」「ときどきある」と答えた人は、合わせて24%。実に4人に1人に上っていた。

母が深夜叫び始めてからは、死んでくれたら楽になると思い、枕を母の顔に押しつけたことがあった(認知症の母親を介護 63歳の女性)

<認知症の母を介護している男性>
終わりの見えない状況に絶望し、自分の将来を考えれば考えるほど絶望感が増し、親子心中や自殺を考えるようになった(認知症の母親を介護 51歳の男性)

・こう綴った男性が取材に応じた。長谷川隆志さん、認知症になった母親と同居し11年にわたって介護を続けている。
・当初、長谷川さんは妻に母親の介護を任せていた。しかしその後離婚、妻は家を出ていった。一人で介護をすることになった彼は勤めていた不動産会社を辞めざるをえなかった。今は母親の年金で暮らしている。
・苦しい胸の内を母親がデイサービスに行っている間に語ってくれた。

根本的な所で言うと一番つらいのは、やっぱり自由がないこと。手足を鎖で繋がれた牢獄にいるような感覚、介護している身としては。かなりきつい、たまんない。介護ロボットみたいな感じ。ただ介護するためだけに今、自分がいる、生活しているみたい(長谷川さん)

・長谷川さんには、これまで誰にも話せなかった出来事がある。5年前、母親が脳梗塞で倒れ意識を失った。そのとき救急車を呼ぶことをためらった。

倒れているお袋を前にして、ほーっとぼう然と見ている。眺めているというか、見てるというか。あのまま放置してお袋がいなくなったほうがこれで介護が終わると、これでやっと自由になれると、あの行動とったんだろうなと。それしかない、他に考えてみれば(同上)

・すぐに母を助けなかったことを強く悔いている長谷川さん。介護殺人は決して許されないとしながらも、複雑な思いがあるという。

介護の事件に関してですけど、「ああやっと介護終わりましたね」と「お疲れさま」と(加害者に)言いたい。「お疲れさま」と言ったら失礼かもしれないけど。「良かったですね」とも言えないし、でも「終わりましたね」と。その後、罪を償わないといけないので刑務所に入ったりあるかもしれないが、それよりも何よりもまず「介護が終わりましたね」と。「終わったんですね」と声かけたい、まず(同上)

・介護する人に十分目を向けてこなかった私たちの社会。今日も懸命に家族の介護を続ける人たちがいる。

<誰もが突然介護を担いうる時代に>
・妻に殺してほしいと頼まれ事件を起こした九州地方の男性。

今がつらい。今は写真でないと会えないから。長男と電話しているときに「おやじは許さん」と長男が言った。「自分は妻を憎くてやったんじゃない」と言ったけど、長男は聞き入れてくれなかった(男性)

・僅か2年前まで2人は穏やかな老後を送っていた。誰もが突然、介護を担いうる時代。この夫婦と私たちを隔てる一線はあるのだろうか。

(2016/7/9視聴・2016/7/9記)

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【歴史秘話ヒストリア】そうだ!天空の城へ行こう

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【歴史秘話ヒストリア】
「そうだ!天空の城へ行こう」

(NHK総合・2016/7/8放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

 竹田城に勝るとも劣らぬ「天空の城」備中松山城。最寄駅は伯備線の備中高梁駅(岡山から特急で約35分)、車だと岡山自動車道の賀陽ICが最寄のようです。休日はシャトルバスもあるようですし、ぜひ岡山方面を旅するときの観光コースとして最有力にしたいお城だと思いました。

 明治の廃城令以降、荒れ果ててしまった城を地元の人たちが力を合わせて再建したという心を打たれるエピソードがありました。

 しかし江戸時代のパートは、お笑い芸人を殿様に演じさせるような「悪ふざけ」。奈良の鹿の話のときも感じましたが、ハッキリ言って不快です。

 長年続いている「歴史秘話ヒストリア」の質が回を重ねるごとに劣化している気がします。普通に井上あさひアナウンサーのナレーションを中心にして再現映像を加えるような形にできないのでしょうか。視聴率狙いかどうか知りませんが、このままだと従来の視聴者が離れていくと思いますよ。

 何だか辛口感想で終えるのも後味が悪いですね。この記事を書くにあたって「備中松山城」で検索したらペーパークラフトを見つけました。ちょっと欲しくなりましたね(下にリンクを貼りました…笑)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・雲の切れ間に見える石垣、兵庫県朝来市の竹田城跡。まるで空に浮かんでいるような姿から「天空の城」と呼ばれ一大観光スポットになっている。現在残っているのは石垣のみ、どんな城だったのか想像が膨らむ。
・たった一つ、石垣はもちろん建物も残っている「天空の城」がある。岡山県にある山城・備中松山城。城の天守は江戸時代のもので、現在までその姿を保ってきた。最大の特徴は岩の上に直接石垣を置いていること。
・なぜこの城は生まれたのか、そこには「城の主になりたい」という殿様の願いが。
・しかし武士の時代が終わると、山城は時代遅れの不要品に。備中松山城は荒れ放題、いつ崩れ去ってもおかしくない有様だった。
・このとき1人の教師の行動が「天空の城」復活のミラクルを起こした。地元一丸となった大改修プロジェクト、作業に加わった人々の中には可憐な女学生たちもいた。
・多くの苦難を乗り越えて生き残った「天空の城」備中松山城の驚きと感動のドラマ。

<天空の城へようこそ>
・岡山県高梁市に備中松山城が見える展望台がある。雲の切れ間からうっすらと城が見える。天に浮かんだように見える最もいい時期は10月から12月にかけて。気温が低く天気のいい朝だという。
・この城の誕生は古く約800年前、鎌倉時代に遡る。現在ある建物は江戸時代のもの。
・城に続く道筋は、臥牛山の麓から殆ど山登りの道。道幅は僅か2mほど、なかなかの険しさ。麓から約1時間登ったところに備中松山城の最大の見所・岩山に積まれた石垣がある。石垣の下にあるのは各地の城の石垣に使われている花崗岩。
・城の中に入るとまず現れるのが、造られた江戸時代当時の姿をとどめる土塀(三の平櫓東土塀)。山城にこうした土塀が残っている例は珍しく、国の重要文化財に指定されている。
・備中松山城の天守、2階建てで高さは11mほど。花崗岩の岩に石垣を置き、その上に建てられている。江戸時代に造られ、その頃の天守が現存しているのは全国でここを含め12か所しかない。その中でも標高432mと日本一高い場所にある天守だ。
・中は広さ約60平方メートルほどの板の間。城主の間(装束の間)は広さ約10畳ほど。飾り気のない板張りで、城主の部屋っとは思えない質素な造り。
・最上階は御社壇で部屋全体が神様の住まいとされている。かつてここに御神体として祭られていたものが高梁市で保存されている。長さ80cmほどの3本の宝剣(宝剣 銘 国重)で、「天下泰平 国家安全」と城主が城に込めた願いが刻まれている。

関ヶ原の戦いから80年以上経っていると、世の中は平和な時代が訪れている。城も戦うためというのではなくて象徴としての城、平和の願いを込めた城。その思いがこの御神体(宝剣)に込められている(高梁市歴史美術館主任学芸員の加古一朗さん)

<ワシゃ城主になりたいんじゃ>
・江戸時代の始め、天下の実権を握った徳川家康は自らの政権を安定させるため「一国一城令」を出した(1615年)。国ごとに城は原則1つしか許さないというもの。
・この命令が出された結果、全国に3000以上あった城は170ほどに激減。備中国(現在の岡山県西部)で家康が存続を許した城は中国地方の交通の要にあった備中松山城。この地域の押さえとして重要視していた。
・それから約70年後、この地の領主となっていたのは水谷勝宗という大名だった。この地に来る前は城を持っていなかった。早速、勝宗は自分のものになった城に行ってみた。
・ところが目にしたのはボロボロになった哀れな姿の山城。当時、戦国から既に80年近くが経ち、すっかり太平の世。備中松山城のような山の上の城など不便なだけ。水谷氏の前の領主たちも荒れるがままに放置していたと考えられる。

江戸時代に入ってすぐに1度修理をした記録が残っていますけど、それ以降は修理の記録がないので水谷氏の頃はおそらくボロボロの状態(高梁市教育委委員会の三浦孝章さん)

・「一国一城令」によって当時の大名の半分は城を持ちたくても持てない状況だった。水谷氏もかつてはその一人、どんなに荒れていようとせっかく手に入った城、勝宗は諦めなかった。
・しかし「武家諸法度」で新規の築城は禁止されていたため、修理というより築城に等しい備中松山城の工事は違反となる恐れがあった。
・そこで勝宗は「修築」の幕府に願い出て許可を得た。そのときの喜びを伝える手紙が残されている。

この度 城の修復を幕府にお願いしたところ、首尾良く元の姿のように建てよとのお許しをいただきました。この上なくめでたく、大変喜んでいます。

・幕府の許可を得て勝宗の家臣たちは意気揚々と城の工事に取り掛かった。3年の歳月をかけ天和3年(1683)、遂にリニューアル、備中松山城が完成した。
・ところが土塀に開けられた穴「狭間」は下を向いておらず、下から兵士が登ってきても迎え撃つことができない造り。関ヶ原の戦いから80年以上も経ち、殿様も家臣も戦の経験はゼロだった。
・さらに勝宗自身は殆ど城に来ることはなく、山の麓にある御根小屋という屋敷で暮らし領地を治めていたという。
・その後、様々な家の大名が入れ代わり立ち代わり城主となったが、城は備中松山の象徴として大事にされてきた。

<よみがえれ天空の城!>
・江戸時代も終わり、やって来た明治の世。日本の城に大きな危機が訪れた。明治6年(1873)廃城令が発布。接収された城は安値で売り払われ、多くがいにしえの姿を失っていった。
・備中松山城も僅か7円(現在の約5万円)で売りに出された。買い取ったのは地元の商人だったが、あまりに険しい山の上にあるためそのまま放置された。さらに時は流れ昭和の時代、備中松山城の存在は殆ど忘れ去られていた。
・その頃、城の麓にある岡山県旧制高梁中学校に信野友春という歴史の教師が赴任した。広島県の山あいの村出身で、故郷には戦国時代の山城跡があった。彼は幼い頃から山にある城に強い興味を持っていた。
・信野は期待に胸を膨らませて山の上を目指したが、目の当たりにしたのは今にも崩れそうな天守の姿。屋根には草が生え、壁土も多くが剥げ落ちていた。明治の頃に放置されて既に60年余りの間、手入れなどは一切されていなかった。
・この後、信野は、城がある間に出来る限り詳細な記録をつくるため何度も備中松山城に赴き、あらゆる箇所を絵に写し取ったり寸法を測ったりした。彼が残した記録には、屋根の形に使われている瓦の種類や壁に張られた板の色からそれぞれの柱の長さまで事細かに記されている。
・初めて城を見てから2年後、信野は調査を一冊の本にまとめた。この本を読んだ地元の人々は、それまで殆ど関心のなかった備中松山城に目を向け始めた。
・人々はふるさとの城がいかにかけがえのないものであるかに気づいた。その結果、昭和14年1月に地元の町は天守の修復費用として予算1万5千円(現在の約750万円)を捻出。「天空の城」復活への第一歩だった。
・まず天守は全て解体、崩れかけていた石垣も新たに積み直した。新しい柱などを造る木材は費用節約のため、城のある臥牛山の山林から切り出すことにした。
・全て順調に進んでいたその矢先、瓦をつくる業者が山の上までは上げられないと言ってきた。1枚2キロの瓦を2万枚、運ぶために必要な人数は相当なもの。既に町の予算はギリギリで新たに人を雇う余裕はなかった。
・このとき旧制高梁中学校の生徒たちが立ち上がった。当時の生徒だった前田博之さん(89)、そのときのことが今でも忘れられないと言う。

我々みたいなチビが山を登って持って行けるかなという気持ちはあったけど、城が立派になることは一番の願いだから、みんなが喜んで協力した(前田さん)

・その頃はちょうど夏休み、前田さんたちは2キロの瓦を何枚も背負って山の上まで運んだ。参加したのは男子生徒だけではなく女子の姿もあった。当時、瓦を運んだ女学生の一人である松本幸さん(91)はこう証言する。

汗がびっしょり、汗まみれになって行った。(備中)松山城がどんなにきれいになるんだろう(松本さん)

・真夏の太陽が照りつける中、松本さんたちも瓦を担ぎ修復現場へ急いだ。当時、男子と女子は学校も別々。外で口を聞くことすら不謹慎と見なされた。道行く体操服姿の女子は、男子生徒にはとても眩しく映ったようだ。

「また見てるわ」って気持ち。体操服とブルマーは体操するときと同じ服装ですからね。イヤですけどしょうがない。喜んでいる人もいたかもしれません(同上)

・2万枚の瓦運びは2か月をかけて、ようやく終わった。子どもたちも加わった町ぐるみの協力で、城の瓦はなんとか山の上に運び上げられた。
・昭和15年(1940)11月1日、備中松山城天守の修復が完了。瓦も白壁も石垣も、かつての輝きを取り戻した。

とにかく美しい感じがした。きれいになった、誇りでしたね。冬場は霧がかかって、その上に天守閣が見える(景色)は好きだった(前田さん)

<地元の城への愛着は今も脈々と続いている>
・町の人たちが一丸となったことで蘇った備中松山城、地元のお城への愛着は今も脈々と続いている。
・現在、高梁市では少しでも多くの人に城に来てもらおうと、山の中腹までシャトルバスを運行している。
・折からの「天空の城ブーム」もあって、城を訪れる観光客は年々増加。今年は初めて年間10万人を超える見込みだ。
・案内や城にまつわる様々な説明をしてくれるガイド役は地元の人たち。ガイドの一人である小倉照佳さん(68)は、この城が辿ってきた数奇な運命を知ってもらいたいと7年前からガイドをしている。

もう石垣だけで土に戻っていたかもしれないお城、私は「奇跡の城」ってよく言う。お城という存在は高梁には絶対欠かせない。常にそばにある、いつもの日常の中にあるもの。大事なパートナー(小倉さん)

・遠くから見れば雲の上に浮かぶ夢、幻。近くで見ると天を突き刺すいかめしさ。様々な備中松山城の姿。それを支えているのは、地元の人たちの尽きることのないお城への思いだ。

(2016/7/10視聴・2016/7/10記)

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【ドキュメント72時間】囲碁の魔力に囚われて

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【ドキュメント72時間】
「囲碁の魔力に囚われて」

(NHK総合・2016/7/8放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 囲碁も将棋もルールを知らない私にとって、碁会所や将棋サロンといった場所は全くの「未知の空間」です。今回の番組はその一端を垣間見ることができたので面白かったです。

 インターネットでも対戦ができるご時世、顔と顔をつき合わせて碁を打ち合っている姿は、囲碁の知らない私には羨ましくみえました。極端なことをいえばインターネットやSNSなどは本当の意味では「人と繋がるツール」ではないと思います。

 昔、一人で酒を飲みながらSNSでブチブチと呟いたりしたこともありますが、今から考えればあんなの健全じゃないし、一人よがりだったと思います(自戒を込めて)。絶対フェイス・トゥ・フェイスでなければダメとまでは思いませんが、顔の見えない相手とテキストだけのやり取りで人と繋がっている思っているとしたら、それはハッキリ言って錯覚ですね。

 話がなんだか脱線気味になりましたが、私も何か趣味を増やそうかなと番組を観て感じました。囲碁は…ちょっと難しそうなので、もうちょっと簡単なものでね(笑)

 ちなみに初歩的な疑問なのですが、碁会所で打っている人たちはkakeてらっしゃる方が多いんでしょうか。さすがにそうした授受の光景は、天下のNHK様の映像には映っていませんでしたが、胸ポケットにokaneを入れている方の映像がちらと見えたもので…。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・日本最大の歓楽街、新宿・歌舞伎町。深夜まで賑わう街の片隅にちょっと変わったお店がある。全国でも珍しい24時間営業の碁会所。創業34年、深夜から早朝まで碁石の音が鳴り響く。
・ひとたび碁盤に向かえば、肩書きも年齢も一切関係なし。黒と白の石の向こうに広がる奥深い人生を3日のぞいてみた。

・5月20日(金)17時。みんな真剣に碁盤を見つめている。ラーメンを食べている男性がいる。実はこの碁会所、居酒屋並みのメニューが揃っている。居心地がよくて、つい長居しちゃう人も多いそう。スポーツセンター勤務の72歳男性、碁は40~50年続けているという。
・英語の会話が聞こえてきた。団体職員の62歳男性。在日20年以上のアメリカ人、今日は知り合いのドイツ人と対局中。2人とも囲碁の世界に夢中だという。日本社会は気を遣うことも多いけど、碁を打つことでリフレッシュできるみたい。
・囲碁も打たずにウロウロする人。エンジェルさんと呼ばれている電気技師の63歳男性。ようやく打ち始めた。30年通う常連で、仕事帰りに毎日来ているらしい。こう見えて結構強いみたい。対局を終えると、歌舞伎町で一杯引っ掛けると出ていった。
・金曜の夜、碁会所は超満員。誰でも出入り自由、1700円で24時間打ち放題。
・都会の片隅、見知らぬ同士が碁盤を挟んで向かい合う。
・22時10分。にぎやかな団体客が来店。囲碁を打たずに飲み始めた。職業も年齢もばらばら、みんな囲碁を通じて知り合った仲らしい。
・エンジェルさんが飲み屋から帰ってきた。子どもみたいな大人たちが集う不思議な場所。
・3時2分。5時間後、さっきの団体のお客さん、まだ打ち続けている。会社を2回つぶし離婚も3回したという男性。いろいろ頑張ったけど、資金繰りに行き詰まり倒産。仲間はみんな彼のもとを離れていった。友人も財産も失ったとき、不思議な縁で囲碁の世界に引き寄せられたという。
・碁盤の上をいろんな人生が通り過ぎていく。

・5月21日(土)4時36分。誰も居ない店内で一人パソコンに向かう男性がいた。マージャン店で働く75歳、仕事が終わると毎日ここに来るという。今はこの店が家代わり、誰も居ないときはパソコンで見つけた相手とゆっくり打つのが楽しみだという。
・8時32分。スタッフに突然声をかけてくる男性がいた。対局相手が見つからないみたい。タクシー運転手の67歳、仕事が終わり直接店に来たらしい。実は若い頃はちょっと意外な仕事をしていた。キックボクシングの選手で世界中で試合をしていたけど、体力の限界を感じて引退。今は代わりに囲碁でスリルを味わっているという。自由気ままな独身貴族、この週末のために日々の仕事を頑張っているんだって。
・土曜の昼、対局相手を求める人が続々と。誰もが自由で平等になれる異空間。
・21時34分。昨日のラーメンのおじさん、今日も来ている。賑わう店内で囲碁を打たず、じっと対局を見つめる25歳の男性。中学卒業後、大阪から単身上京。高校には行かず囲碁一筋で頑張ってきた。しかし狭き門を突破できず18歳のときに見切りをつけたという。今は携帯電話の販売員として働く日々、でもなぜか毎日対局見に来てしまうという。
・同じ頃、店の一角が急に騒がしくなった。あっという間に勝ってしまった。この道18年のプロ棋士・武宮陽光六段。飲んだついでにふらりとやって来たらしい。
・進むも戻るもいばらの道。でもみんな、囲碁の魔力から逃れられない。

・5月22日(日)5時51分。ラーメンのおじさんが朝早くから店を掃除している。
・楽しかった休日もそろそろ終わり、さすがにみんなちょっと疲れてきたみたい。
・残り僅かな休日を貪るように楽しんでいる。
・元キックボクサーのおじさん、かなり眠そう。なんと、もう40時間以上もいるという。
・実は日曜は掃除があるので夜9時に一旦閉店するらしいけど…また対局を始めちゃった、お相手はあのエンジェルさん。お互いボロボロ、でも絶対やめようとしない。ついに強制終了。
・明日からまた新しい1週間が始まる。

・5月23日(月)10時24分。一番客は出勤前の公務員。

(2016/7/10視聴・2016/7/10記)

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【大河ドラマ】真田丸・第27話「不信」

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【大河ドラマ】真田丸・第27話
「不信」

(NHK総合・2016/7/10放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 いよいよ豊臣秀次のカウントダウンが始まった感じがします。彼の死については歴史家の中でも諸説分かれているところですが、今回の「真田丸」ではどう描くのか。おそらく来週になると思いますが興味深いところです。

 もう一つ今回の話で面白かったのは、やはり信繁、信幸の叙任の件でしょうか。兄としては弟の情けで官位を貰ったのはプライドを傷つけられるでしょう。しかも昌幸の「貰えるものは貰っておけ(病気以外)」という言葉も追い打ちをかけましたね(笑)

 まあ、二人のその後は勿論知っていてのことですが、信幸のコンプレックスは結構後まで引っ張りそうな感じに思えます。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・太閤秀吉と茶々の間に、再び男子が誕生した。秀吉は喜びを隠せない。一方で、関白となった豊臣秀次は、次第に孤立していく。

・真田信繁(堺雅人)は豊臣秀吉(小日向文世)から関白・豊臣秀次(新納慎也)付になるよう命じられる。
・秀次は、自分は生まれた男子・拾が元服するまでの繋ぎであると秀吉に伝える。
・一方、きり(長澤まさみ)は秀次の側室に誘われていることを信繁に伝えるが、信繁は引き受けるべきだと言う。
・秀次は秀吉が自分を疎んでいるのではないかと考える。そんな中、機嫌を取るために宇喜多秀家(高橋和也)から能を学び、吉野の花見で披露する。
・しかし秀吉は関白として他にすべきことがあると秀次を叱責しする。
・一方、秀吉は信繁に官位を授けると言うが、信繁は兄・信幸(大泉洋)を差し置いて受けるわけにはいかぬと固辞する。そこへ秀次が官位を授けるのは関白である自分の役割であると言う。
・文禄3年11月2日、京の聚楽第において信幸、信繁兄弟は揃って叙任された。信幸は従五位下伊豆守に、信繁は従五位下左衛門佐となった。
・昌幸たちは秀吉に叙任の挨拶に訪れるが、その場で信幸は自分が叙任されたのは弟の口添えがあったことを知ってしまいショックを受ける。
・秀吉から伏見城の改築を頼まれた昌幸。改築図を見た信繁は秀吉が秀次に代わって政を行うつもりであることを知る。それを見た秀次はさらに疑心暗鬼になる。
・その上、豊臣秀保(三津谷亮)が17歳という若さで亡くなってしまう。秀吉は拾が3歳になる年に亡くなったことを不吉に思い、葬儀も行わなかった。
・こうした秀保の死に対する秀吉の冷たい仕打ちは秀次を戦慄させ、彼の不安は頂点に達した。
・秀次は聚楽第から姿を消し、大坂城のきりのもとを訪れる。

<真田丸紀行>
・古くから桜の名所として名高い奈良県吉野町。文禄3年、秀吉はこの地に大名や公家5000人余りを引き連れ、花見を催した。
・古くは後醍醐天皇が身を寄せた吉水神社に秀吉は滞在。自らを題材とした能を舞うなど盛大な催しで、権力を見せつけたという。
・関白秀次の宿となった櫻本坊。前年、秀吉の嫡男・拾が誕生した中での花見となった。秀次の和歌が残っている。

おさまれる世のかたちこそ
みよしのゝ花にしつやも
なさけくむ声


・誰にでも平等に美しさを感じさせてくれる桜を歌った秀次。その運命は刻一刻と悲劇へ向かっていく。

※櫻本坊(近鉄吉野線「吉野」より「千本口」からロープウェイ「吉野山」下車 徒歩40分)
※豊太閤花見塚(秀吉が花見をした場所)
※吉水神社

(2016/7/12視聴・2016/7/12記)

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真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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【大河ドラマ】真田丸・第6話「迷走」
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【大河ドラマ】真田丸・第2話「決断」
【大河ドラマ】真田丸・第1話「船出」

※真田ゆかりの地関連
【ブラタモリ】#31 真田丸スペシャル・沼田~真田は沼田でどんな城下町をつくった?~

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【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の最期
【にっぽん!歴史鑑定】真田幸村の半生
【歴史秘話ヒストリア】徹底解明!これが“真田丸”だ
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 前篇
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】真田三代 後篇

【にっぽん!歴史鑑定】信長の夢!安土城ミステリー

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【にっぽん!歴史鑑定】
「信長の夢!安土城ミステリー」

(BS-TBS・2016/7/11放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 この間、「にっぽん!歴史鑑定」を非常に褒めた感想が多かったような気がしますが、今回の「安土城」特集は…以前「歴史秘話ヒストリア」で放送された内容と酷似していましたね(→【歴史秘話ヒストリア】信長の楽園へようこそ~3つの城のサプライズ~)。

 両方観ていた人はすぐ分かる内容(「懸け造り」や「盂蘭盆会」のライトアップなど)。まあ、どちらにも奈良大学学長で城郭考古学が専門の千田嘉博先生がご出演されていますから、彼の説ベースで同じような内容になってしまいますね。

 ということで、目新しいものは私にはありませんでした、残念!もっと頑張りましょう(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・日本最大の湖・琵琶湖の東に残る約430年前の城跡。ここにそびえていたのは、戦国の覇王・織田信長が天下統一の拠点として築いた安土城。今や幻となったその城は、それまでの城郭の常識を次々と打ち破る、まさに革命的な城だった。
・1万人で大石を引き上げた前代未聞の石垣造り。そこまでして城の守りを固めながら、なぜか開放的な一直線の道が。あえて攻められやすい道を造った信長の狙いとは。
・黄金に輝く天守5階の八角形の部屋、信長の計り知れない野望が隠されていた。
・発掘調査で城の全貌が明らかになる中、長く研究者たちを悩ませてきた天守1階の摩訶不思議な建築物。謎を解く鍵はヨーロッパに残された1枚のスケッチにあった。その驚きの正体とは。
・さらに革命児・信長が安土城で最後に見せた日本初のサプライズに迫る。

<信長が安土に築城を命じた理由は>
・織田信長が初めて城を手に入れたのは天文13年・11歳のとき。父・信秀から尾張・那古野城を譲り受けた。18歳で家督を継ぐと清洲城へ居を移し、約10年で尾張を統一。勢いに乗る信長は、新たに小牧山城を築くと織田家の宿願だった美濃攻略を果たした。
・その後、標高329mの金華山山頂に岐阜城を築き、近江、北陸にまで勢力を拡大した。
・次々と居城を移していった信長だが、当時の戦国大名は終生一つの城を居城とするのが常で、この行動はかなり異例だった。信長が次々と居城を移した理由について、城郭考古学に詳しい奈良大学学長の千田嘉博さんはこう分析する。

信長はその時その時の一番ベストな場所に自分自身が動いていくという、合理的、効率的に軍勢を派遣していった(千田氏)

・そんな信長が天下取りの拠点として新たに築こうとした城が安土城だった。建設地としたのが近江にある標高199mの安土山。当時は琵琶湖と繋がる小さな湖に突き出るようにそびえていた安土山。ここを選んだのにも理由があった。

当時の信長は尾張、美濃が基盤で、都を押さえることが重要だった。近江の中間の位置にある琵琶湖に接していたため、水運を使って西にも東にも便利に行くことができる場所に城を築くのがベストな選択だったと考えられる(同上)

・天正4年(1576)、信長の生涯を記した「信長記」によれば「1月中旬より御普請(土木工事)が始まった」と記されている。安土城築城の総奉行として重臣の一人、丹羽長秀を任命した。長秀は信長の合戦の殆どに参戦し、現場での統率力に長けた男だった。また、朝廷や豪商たちとの折衝を行うなど、政治・経済の手腕も兼ね備えていたことから、信長から全幅の信頼を得ていた。
・長秀はまず、安土城が完成するまでの信長の仮の住まい・仮御座所を建設。さらに基礎的な切土、盛土工事を行った。工事には畿内・尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭の武士と領民を動員。京都・奈良・堺からは職人たちが呼び寄せられた。それは当代一流の技術者たちによる前代未聞の築城工事となった。

【安土城築城の革新(1)石垣】
・城造りの常識を覆したと言われる安土城。その革新の一つが石垣だった。それまでの城の土台は山を削り土を高く盛り上げて土塁を造り、その周りを固めただけのものが一般的だった。
・そうした土の城から石垣で守りを固めた石の城へ、常識を一変させたのが信長だった。
・信長が初めて石垣を造ったのは、尾張統一後に築城した小牧山城だった。

自然石を積み上げた、いわゆる野面積みの石垣。段々に積んでいく石垣の手法は、後の安土城に直接繋がっていった信長の城造りの原型といえる(同上)

・さらに信長は岐阜城で、金華山から切り出した石を使い堅固な石垣を築いている。
・そしてその集大成ともいうべき石の城を安土に築いた。4人の石奉行が任命され石垣工事が始まった。好んで使われた石が琵琶湖沿岸で多く産出された湖東流紋岩というもの。きめが細かく非常に硬いため石垣に適していた。安土山から6km圏内の山々から切り出され運ばれたと考えられる。
・信長はこのとき選び抜いた大きな石だけを使用し、小さな石は破棄するよう厳しく命じた。そのため、中には全長10m、重さ100トン以上という桁外れのものまであり、あまりの重さに丹羽長秀や羽柴秀吉、滝川一益ら重臣が1万人余りの助っ人を出し、3日掛かりで山頂まで引き上げたという。それは「昼夜 山も谷も動くばかり」と言われるほど史上空前の大工事だった。

ただ石垣の城を造るのではなく、大きな石を使うというのは力の大きさを象徴する。人々に信長の力の凄さを見せつける意図があったのだと思う(千田氏)

・しかし空前の石垣工事には事故も多かったようで、信長に謁見したこともあるポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、著書「日本史」にこう綴っている。

特別大きな石を6、7千人で引き上げていたところ、石がずり落ちて150人以上が下敷きとなった。

・さらに築城開始から4年が経った天正8年(1580)4月、石切場へ信長が鷹狩りに行ったとき、作業をしていた男が誤って切り出した大石を信長の目の前に落としてしまうという事故を起こし、工事責任者が打ち首になったという。
・こうした様々な犠牲を払いながら、膨大な人員と時間を掛けて築かれた石垣は約4年で完成。それは城郭全体にわたる壮大なものだった。
・堅固な守りを固めたその石垣は築城から400年以上経った今も見ることができる。高いものでは10mをゆうに超えるという石垣。研究から石積みの新たな技術革新が始まっていたことも分かるという。

当時としては最高の石垣を用いたということが分かる。長い短い石を交互に連ねていって、角の部分の力を受け止められる形に石を積んでいく。高い石垣を信長が造れたというのは、当時の最高の技術者を自分のところに集めて大きな予算を与えて最高のものを造らせた。信長の美意識というか城造りに込めた意識の強さを示すことだと思う(同上)

・その技術力の高さは「孕み出し」が起きていないことからも分かる。孕み出しとは石垣の内部に雨水が溜まって外側に膨らんでしまうことで、多くの城の場合、定期的な修復が必要となるが、安土城の石垣には完成から400年以上経った今もそれが起きていない。
・小牧山城、岐阜城、そして集大成として完成した安土城の壮大で堅固な石垣。その工事に従事した信長の家臣たちは築城技術を身につけ、後に石垣の城を築いていった。秀吉が築いた大坂城などがその最たる例。空前の信長の石の城は、近代城郭の常識となっていった。

<無防備な一本道に隠された信長の思惑とは>
・堅固な総石垣によって守られた安土城。特に本丸の入口にあたる黒金門周辺から、信長がいる天守までの間は巨石を積んだ石垣が複雑に折れ曲がった厳重な構えとなっている。
・しかしそんな中、大手道と呼ばれる余りにも無防備な道がある。天守がそびえる山頂から下った山の中腹から裾野まで長さ約180m、幅6m余りの道。まるで敵に攻めてくれと言わんばかりの大手道。信長はなぜ敵にとって攻めやすい開けた道を造ったのか。

天皇行幸を計画していたからという説があるが、中腹以降が真っ直ぐの道ではなくリアリティーがない。大手道の周りには家臣たちの屋敷が建てられていたため、信長は自分との差を見せつけたかったのではないか(同上)

【安土城築城の革新(2)天守】
・築城開始から1年が過ぎた天正5年(1577)、信長の座す天守の建造が始まった。
・大工の棟梁には尾張時代から信長に仕え、熱田神宮の宮大工でもあった岡部又右衛門が任じられた。8月24日に柱立て、11月3日には屋根葺きが行われたと記録にあることから、工事はかなり急ピッチで進められたことが分かる。
・天正7年(1579)、安土城天守の外装がほぼ完成をみた。その姿を「信長記」などをもとに復元したものがある。地上6階、地下1階の7階建て、最上階までの高さは30m以上。今の10階建てマンションに相当したと考えられる。
・さらに平成元年から始まった発掘調査によって金箔を張った瓦などが発見されていて、天守は豪華絢爛な造りであったことが分かってきた。
・復元された天守の5階6階部分。原寸大。派手なものを好んだ信長らしく、最上階の6階には全体に金箔が張り巡らされ、屋根にも金の鯱が。5階は鮮やかな朱色に塗られていた。
・5月吉日、この天守に信長は移り住んだ。

戦国時代には既に2階建て、3階建ての櫓を造る建築技術はあったが、櫓は軍事的な施設で御殿のような役割は持っていなかった。それに対して安土城の天守は信長が暮らす御殿であり、天守が武士の権力を象徴する特別な建物だという(位置づけ)に大きく変わった(同上)

・城の内部もまた信長の権威を見せつける豪華なしつらえが施された。縦板張りに黒漆が施された高級な書院造りで、そこには動植物や仏教世界、中国の故事などを題材とした様々な障壁画が描かれた。
・中でも虎の障壁画は戦国大名が好んだモチーフ。これらを手がけたのは当代随一の絵師・狩野永徳とその弟子たちだ。

<城下町の画期的なシステムとは>
・天正7年(1579)5月、安土城天守に居を移した信長は、主だった家臣たちを城下に呼び寄せた。しかし住み慣れた尾張や岐阜から安土への強制的な引っ越しにより問題が起きた。家臣の多くが故郷に妻子を残し、単身赴任で来ていたからだ。彼らは慣れない一人暮らしに困惑し、火の不始末から火事を起こしてしまうこともしばしばあったとか。

当時の武士は先祖以来の土地を離れるということは考えないというのが普通だった。信長は家族を引き連れずに単身赴任で安土に来ていた家臣たちに対して奥さんや子どもがいる故郷の家を焼いたり壊したりして強制的に家族ごと安土に引っ越させる強権を振るった(同上)

【安土城築城の革新(3)城下町】
・このとき信長は家臣のための武家屋敷の建設と平行して、安土山山麓に巨大な城下町を増設した。
・戦国時代、城はあくまでも軍事施設であり生活の場ではなかったため城下町の発展もなかった。信長はまたも常識を破り大規模な城下町造りのパイオニアとなった。

信長は城下町が経済の中心として繁栄するとして特に重視した大名だった。他の大名が関所などで交通をコントロールしようとしたのに対して、関所を撤廃して街道を整備した。さらにこれまであった街道を付け替えて安土の城下町を経由するようにした。旅人は安土で宿泊する決まりをもうけた。さらに近江国での馬の売買を安土に限定した(同上)

・さらに安土にやって来た者は誰でも自由に商売をしていいという楽市楽座を制定。これら信長の独創的な政策によって城下町には次々と人が集まり、またたく間に経済的な発展を遂げていった。
・信長がつくり上げた城と城下町が一体となった近世城下町は後世へと受け継がれることになった。

<なぜ天守5階が八角形だったのか>
・その謎を解く鍵が天守内部に施された絵や彫刻にあった。原寸大で再現されたものをみると、柱に金の龍、天井にも龍の彫刻が。さらには壁にも。この龍こそが八角形の謎のヒントだ。

中国の皇帝をイメージする特別なシンボルが龍。自分自身を日本の天皇を超える特別な存在として、中国の皇帝のような存在イメージしていたことの表れという可能性がある。信長が安土城を築いた頃、官位を全て返還して実力で天下布武を進めていた(同上)

・天皇を超える存在になるという信長の野望は、城内につくられた御幸の御間からも窺うことができる。天皇の安土行幸を働きかけていた信長が、天皇を城に迎えたときのために造らせたものだが、その場所が問題だった。信長が座す天守よりもはるかに低い位置にあった。これは自分が現人神である天皇より上だということを周囲に見せつけるためだったと考えられている。
・実は八角形の建物というのは古来、神聖な人を迎える場所として造られてきた。つまり安土城の八角形の部屋は、信長が天皇より上の神聖な人、神のような存在であることを知らしめ、新しい国をつくるという野望の象徴だった。
・天正9年(1581)9月、安土城は5年以上の歳月を掛けて完成した。それは信長の城造りの集大成、天下人としての理想の城だった。
・その翌年の正月、信長は年賀に訪れた家臣たちに城内を見学させた。家臣たちは狩野永徳の襖絵や黄金の金具など豪華絢爛な内装を目の当たりにし「言語道断の面白さ」と感動したという。しかしこのとき御幸の御間は見せたようだが、天守の中は一切見せなかったという。これは自分を神格化するためと思われる。

<安土城にあった謎の建築物とは>
・史上空前のスケールで築かれた安土城。天守を載せる土台の遺構である天守台跡には、その柱を支える礎石が残されている。礎石から天守台の大きさは南北30m、東西25mだったことが分かる。
・一方、信長について書かれた「安土日記」には天守1階の広さが記されている。南北20間(約42m)、東西17間(約35.7m)となる。実はこれこそが安土城最大のミステリー。通常天守は天守台と同じ大きさか、それより小さいはずであるのに、これでは天守が10m以上もはみ出してしまう。なぜ大きさに矛盾が起きてしまうのか。
・天正9年、信長は狩野永徳に命じて安土城の屏風絵を描かせている。これがあれば貴重な史料となるが、天正遣欧少年使節によってローマ教皇に献上された後、所在は不明となっている。残るのは海外で描き写された屏風絵のスケッチのみ。

「懸け造り」という実際の平面よりも柱を外側に出して1階を支えていくという造りを安土城もしていると考えれば、記録の大きさと石垣の大きさが合わない矛盾も解決できる(同上)

・千田さんは天守台の外に柱があり、1階部分を延長した舞台がつくられていたのではないかと考えた。これならば、天守1階が天守台からはみ出していた理由が説明できる。
・この仮説を後押しする有力な証拠が発掘調査で見つかった。天守台西側の礎石の列。この礎石が懸け造りのためだと考えると、安土日記の記録ともピタリと重なる。

懸け造りの前は広場になっていて、天守をバックにしたテラスに信長が高いところに現れて、家臣たちに声を掛ける。圧倒的な権力を見せつける最高の装置ではなかったのか(同上)

・大きなテラスの懸け造りは、信長の最高のプレゼンテーションの場だった。

<信長が安土城で見せた最後のサプライズとは>
・琵琶湖の東に位置する滋賀県近江八幡市安土町。ここに戦国の覇王・織田信長が築いた夢の城がそびえていた。堅固の石垣の間を真っ直ぐに伸びる大手道。その先に豪華絢爛な天守がその威厳をみせていた。
・信長はこの史上空前の城で人々を大いに驚かせた。天正9年(1581)7月15日、城を数千もの提灯でライトアップした。祖先の霊を供養し偲ぶ仏教行事、盂蘭盆会でみせたサプライズだった。闇夜に浮かぶ壮麗な城、その幻想的な光景に誰もが信長の存在の大きさを実感、畏れ崇めたに違いない。
・天空にそびえる安土城天守。信長は天の主で天主と書いたが、安土城以降、信長に影響され天守をつくった戦国大名たちは天に守るで天守と書いたようだ。これは天の主といえるのは信長だけだと遠慮したためだと言われている。
・天の主、まさに誰の下にも属さない唯一無二の存在になろうとした信長、戦国の革命児の発想はどれをとっても独創的だった。そしてこの安土城がそれ以降の近代城郭の常識となっていく。
・信長の夢の城・安土城。地上6階、地下1階の巨大な天守に座し、信長は神となり新しい国をつくろうと考えていた。
・しかし天正10年6月2日、明智光秀の謀反によりその夢は潰えた。そして13日後、主を失った安土城も炎に包まれた。火をつけたのは信長の次男・織田信雄とも光秀の娘婿・明智秀満とも言われてきたが、真相は未だ闇の中。安土城は多くの謎を抱えたまま夢幻の城となった。完成から僅か9か月後のことだった。

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】東大安田講堂事件~学生たち47年目の告白~

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「東大安田講堂事件~学生たち47年目の告白~」

(NHK・BSプレミアム・2016/7/13放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 私が生まれる前に起きた“学生たちの反乱”を象徴する事件の一つとして興味深いテーマを扱ってくれたなと思いました。この事件については数々の書籍も出ているので、事実関係については目新しいものは番組の中では感じられませんでしたが、当事者の生の証言はとても面白かったです。

 何が面白かったのかといえば、安田講堂に立て籠もって派手に闘争した当事者たちが、まるで「あの頃は熱かったね」と思い出みたいにじみじみしちゃっているところ。あえて厳しいことを言わせてもらえば、何て中途半端な“革命ごっこ”をやってんだよと言いたい。

 おそらく今の大学生世代の子たちがこの番組を観たら、圧倒的多数が安田講堂に立て籠もった学生たちのことを理解不能でしょう。それどころかルールを破った悪い人たちだと思うでしょう。そりゃそうですよ。この事件がいわば「運命の分岐点」で、時の政権が若者に危機感を感じて徹底的に「パンとサーカス」政策を強めたんですから。

 私は別にこの学生運動が成功してほしかったとなど思ってませんし、その後の連合赤軍、日本赤軍のやったことは言語道断だと思っていますが、こうした事件を契機に学生・若者の社会的運動は40年以上「沈黙」の時代となったことは不幸なことだと思っています。

 まあ、それでも余りにも世の中がきな臭くなった中で「SEALs」のような子たちが登場したのは、不幸中の幸いといえることでしょう。もちろん、社会を変える手法が47年前とは全く異なっていますが、権力と闘っている子たちのパッションはおそらく昔以上のものだと思います。そう考えれば「今時の若者は…」と全部を一括りにしてはいけないと自戒しているところです。

 ということで、改憲勢力が3分の2以上を占める事態になってしまいましたが、それでも首都・東京では76歳の老練のジャーナリストが奮闘しているし、さらに82歳の「シンボル様」が、ささやかな抵抗を試みている状況(これは私が勝手に思っている)。私も負けずに抗っていきたいと思っております。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・あの日、東京大学のシンボル・安田講堂は放水と催涙弾に包まれていた。あれから47年、立て籠った学生たちがその全てを語り始めた。
・あの頃、若者たちは怒っていた。ヘルメットを被り、手にはゲバ棒。学生たちはあるものに立ち向かっていた。それは大人の都合で作られた社会。
・1960年代末、泥沼化していたベトナム戦争。アメリカで真っ向から反戦の声を上げたのは学生たちだった。フランス・パリでも学生が蜂起。大学改革を求める声はやがて革命運動となり、うねりを上げていた。世界で同時に起こった学生たちの反乱は「ステューデント・パワー」と呼ばれ、燃え広がっていた。
・そして日本でもベトナム反戦、日米安保反対を叫び、若者たちは闘っていた。大人たちの作った社会にノーを突きつけ、自由と解放を求めた若者たち。
・そんな学生運動のクライマックスが東大・安田講堂事件だった(1969年1月18日・19日)。立て籠った学生と機動隊が2日間にわたって衝突する様子はテレビで生中継され、日本中を釘づけにした。あのとき若者たちを駆り立てたものとは何だったのか。

<視点1 学生たちの反乱>
・47年前、闘いの中心にいた男が福島県にいた。当時、東大の大学院で物理学を研究していた田尾陽一。事件の後、学習塾やベンチャー企業の経営を経て、現在は震災後の福島で土地の再生活動を行っている。
・あの日、田尾は自身が立て籠った安田講堂を見て、こう言った。

大きく威圧するようだった気がするんだけど、意外に小さいな、なぜか(田尾)

・後に東大全共闘の四天王と呼ばれる田尾。しかしもともとは反戦デモに参加するくらいの、どこにでもいる学生だった。

これは人生の中でも大きな「原点」。デモやってもベトナム戦争は止まらないし、じゃ何をやったら止まるのか。やってることは果たしてどういう意味なのかを考えた。それは一生涯、考え続けていると思う(同上)

・一体何が田尾を、あの安田講堂事件へと駆り立てたのか?事の発端は事件の1年前に遡る。実は安田講堂事件に繋がる最初の火種は、東大医学部で起きた。
・当時、医学部を卒業した学生は研修医として1年間、無給で働かなくてはならなかった。制度の改革を訴え、医学部生による授業のボイコットが起きたのだ(1968年1月26日)。田尾は友人からその問題を聞いた。

奴隷のように教授が医学部生を自分の傘下の病院に派遣して支配している。そんな権力を持っているっておかしいんじゃないか(同上)

・だが医学部生たちの声は無視される。そして半年後、騒動が起きた。一部の学生が抗議のため総長室などが置かれていた安田講堂を占拠したのだ(6月15日)。
・このとき驚いた東大総長・大河内一男は警察に通報。機動隊を構内に引き入れ、学生排除に乗り出した。だが、この大河内の行動が更に学生を怒らせる。
・大学は憲法で保障された学問の自由を権力から守る、いわば聖域。戦前に言論が封殺された反省から、自治は大学にとって何より尊い理念とされてきた。それがいとも簡単に踏みにじられた。
・理学部3年だった島泰三は、そのときの怒りをはっきりと覚えている。

大学を武力制圧するというやり方をとったのか(島)

・6月20日、学生たちは抗議した。「なぜ対話もせず警察を入れたのか」。総長の大河内はその釈明に追われた。

(機動隊導入は)この大講堂が占拠されたままで放置しとくことが良くないと…(大河内・当時)

・だが話し合いの途中で大河内は体調不良を理由に退出。不満が収まらない学生たちは、総長が戻るまでここに泊まり込むことを決める。安田講堂への立て籠もりはこうして始まった。

自然に占拠しちゃったんだよね(田尾)

・7月5日、学生たちは学部の垣根を越え「東大闘争全学共闘会議」(東大全共闘)を結成。大学との闘いを開始する。医学部問題で処分された学生への処分撤回や、機動隊導入に対する謝罪など7項目の要求を大学に突きつけた。
・権力にあらがう学生たち。街の人々は当初、それを温かく見守っていた。

息子が3歳のとき覚えた言葉が「安保反対 (機動隊)導入粉砕」だった(和菓子屋の岩下元信さん)

・当時、学生たちのたまり場だった喫茶店。

あのとき(学生が)急にみんな元気になった。こっちも刺激された。むしろこっちが元気をもらった。まさかあんな大きな運動になるとは思わなかったんですけど(元店主の河田宏さん)

・7月、夏休みに入っても学生たちは安田講堂に居座っていた。この頃、その内部に入った男がいる。ジャーナリストの田原総一朗が目にしたのは、学生たちの自由で屈託のない姿だった。
・構内にはテントが張られ、ギターをかき鳴らしたり、映画を上映したり、様々なイベントが開かれていた。
・その頃の安田講堂の内部を撮った貴重な写真が残っている。学生たちは日夜、語り合った。大学そして社会をどうすれば改革できるのか。皆が自分なりの答えを探していた。

全共闘運動自身がお祭りだった。だから学生たちが占拠して、ここは解放区だと。つまりまさに「自治区」であると(田原)

・しかし、秋になると牧歌的だった空気に変化が現れる。そのきっかけとなったのは、大学が学生に向けて送付した一通の告示文だった。

警察力の導入は避けるよう努力する。学生諸君は正常な勉学生活に戻ってもらいたい(8.10告示)

・またも話し合いがないまま一方的な通知。再び学生の怒りが爆発した。

何とか収めようとしているわけですよね(田尾)

・この頃から学生たちの中には過激な声も上がり始める。頭にはヘルメット、手にはゲバ棒。武力で改革を行おうとするグループが台頭していく。学内の校舎は次々にバリケード封鎖され、東大は完全に機能停止した。
・他大学でも学生は過激化。授業料の値上げ撤回などを求め、大学との闘いが巻き起こり始めていた。
・11月4日、大学は事態を収めようと大河内総長を退陣させ、新たに加藤一郎法学部教授を総長代行に選任した。

大学当局が学生諸君の要求に正面から正しく答えてこなかったことを反省したい(加藤・当時)

・加藤は学生たちに率直に謝罪。さらに7項目の要求も大半を飲む姿勢を見せた。

ここまで来ると、このまま収束してもダメだなという感じになってきたんですね。気分がね。(東大解体とは)寄って立つ原理を考え直すんでしょうね。社会的役割とかね(田尾)

・学生たちは、もはや交渉による解決を望む空気ではなくなっていた。11月22日、安田講堂前に全国から2万人近い学生が集結した(日大・東大闘争勝利全国総決起集会)。日本中の大学にはびこる不条理を改革するには、その頂点である東大を壊すしかない。
・この集会に参加していた明治大学3年の瀧澤征宏。

わたしの派はヘルメットがモヒカンになってるグループ(瀧澤)

・瀧澤は後に安田講堂の決戦にも加わり、学生の中で最も重い罪を着ることになる。

東大は権力の象徴みたいに大学生は見えるわけでしょ。東大の制度が変わらない限り、私大だってどこだって改善できないわけで、やっぱり東大という本丸が異議申し立てによってこちらの要求が通ることができれば、私立大学だろうとみんな同じような制度に変えてくことができると思うじゃないですか。東大が敗北したらどこもダメになる(同上)

・日増しに不穏になっていく学生たち。キャンパスには子どもを心配する母親たちの姿も。キャラメルを手に学生たちを説得する姿は「キャラメル・ママ」と呼ばれた。
・しかし学生たちは急速に先鋭化していく。全共闘のやり方に反発する学生たちも武装化。「内ゲバ」と呼ばれる衝突が頻発するようになる。その闘いの中心にいた田尾、もはや引き返すことはできないと考えていた。

(闘争の)道を選ぶしかない。(安田講堂を)出なかったということ(田尾)

・警察との衝突まであと50日に迫っていた。

<視点2 東大を守ろうとした男>
・12月、ある噂がささやかれていた。この混乱では来年の東大入試は行えないのではないか。それは大学の外にまで波紋を広げる大問題だった。
・実はこの入試問題は、総長代行の加藤にとって重大な意味をはらんでいた。

東大の問題は東大の内部で解決していかなければならない(加藤・当時)

・事態の打開を託された加藤、その知られざる思いとは。事件の渦中、加藤は何を考えていたのか。それを窺える資料が近年発見された。加藤たち大学の執行部が当時の経緯を語った600ページに及ぶ記録(「大学執行部 東大闘争の記録」)。関係者全員が亡くなった2年前、初めて内容が公開された。

大学の危機的な状況になると思ったので、やはり入試はできるだけやらなければいかぬ(加藤の言葉)

・このとき加藤の脳裏には、時の政府の影がちらついていた。当時、自民党政府は大学生の動きに厳しく目を光らせていた。
・きっかけは1960年の日米安全保障条約改定。強硬に進めた政府に学生たちが反発。警察との衝突で東大生の樺美智子さんが亡くなると、さらに反発は高まった。結局、内閣は総辞職。以来、学生運動は危険な存在となっていた。
・その中でこのとき加藤が感じていた恐れとは何か、後にこう語っている(1995年)。

入試だけの問題じゃない。「東大を潰しちゃえ」とか「東大をやめて別の形にしよう」とか、そういう議論は政府の方でもあった。入試はその一部にすぎない(加藤)

・東大はこのままでは潰される、それが加藤の恐怖だった。何としても入試を行い、自治の力を証明しなければならない。
・12月25日、毎日新聞がスクープ記事を掲載する。「東大入試中止は決定的」。だが、この記事こそ加藤が仕組んだ策だったらしい。当時、毎日新聞で東大闘争を取材していた松尾康二。

あれはブラフなんです。ハッタリなんです。東大の公式の広報委員長から吹き込まれた。あー(大学に)騙されたなと(松尾)

・一体どういうことか、その答えは大学執行部の記録の中に残っている。

(入試中止を)ほのめかしたらどうだ。学生にショックを与えて、少し事態の進展を図るあれ(狙い)だ(大内力教授)

そういう意味でのテコには一旦中止ということが使えるだろう(加藤)

・「入試をやめる」と発表することで世論の逆風をあおり、学生たちを説得する、それが加藤の策だった。
・事態は思惑通りに動き出す。世間からは占拠を続けている学生への非難が巻き起こった。
・さらに学生たちの中に就職など将来への不安から、ストライキに反対する者が増えてきた。
・しかし安田講堂の学生たちの反応は、むしろ逆だった。闘いへの決意が固まったという。

入試をやめれば東大は守られぬと言われれば(東大を)守るためにやってるんじゃなくて、改革するためにやってるんだ。どう考えたって(安田講堂を)出る理由がない(田尾)

(闘争を)終わらせるイメージはなかった(島)

・12月29日、加藤は文部省から通告される。「入試を行うためには1月15日までに封鎖を解除せよ」。事実上の最後通告だった。
・しかし学生たちの決意は固く、遂に正月も立て籠もったまま。タイムリミットまで残り2週間、加藤は懸命の説得を続けた。

今、東京大学は存亡の岐路に立っており、大学の運命は諸君の態度決定に深く関わっている。この重大な時にあたり私は改めて諸君の一人一人が、自分は何のために大学にいるのかをその根本に立ち返って考え、その上で今何をなすべきかを決めてほしいと思う。我々に残された時間は限られている(加藤・当時)

・1月10日、加藤は秩父宮ラグビー場を借り上げ、学生全員を集めた対話集会を開いた。何とかこの事態を収めたい、加藤の最後の一手だった。だが、話し合いなど認められないと全共闘が襲撃。加藤の最後の策も遂に実らなかった。
・1月16日、加藤は苦渋の決断を下す。自ら警察に機動隊導入を要請した。警察の力を借りてでも入試を行い、東大を守る。覚悟の選択だった。
・当時、教育学部長だった大田尭。教授陣の葛藤をこう証言する。

心の中では(機動隊を)入れたくないというのは、みんなが思っていた。入れろという人もいたけれど、この状態だと入れろと言われてもやむを得ない。迷うことは最後まで迷った(大田)

・朝日新聞の記者として東大を取材していた島田尚男。警察導入は加藤の賭けだったという。

加藤さんが入試だけは絶対中止したくないという強い意志があったことは間違いないと思う。機動隊を入れる代償として入試復活ということに、加藤さんも内心は賭けてたんじゃないか(島田)

・1月17日、「明日、機動隊を導入する」という知らせは、直ちに学生たちに伝えられた。彼らは黙々と籠城の準備を始めた。机やロッカーでバリケードを強化。そして投石用に街路の敷石を剥がし、闘いに備えた。
・決戦を前に全国の大学から応援に駆けつける学生もいた。その一人、工藤敏幸は青森の弘前大学から上京。この日、決戦間近の安田講堂に入った。

見るものがものすごく新鮮(工藤)

・この晩、学生たちの間ではここに残るかどうか、一人一人最終確認が行われたという。

「出る人は出ていいよ」と。誰も強制なんてする組織じゃないから。だんだん減っていくなとは思った。何人いたら勝てるとか、そんな話じゃないから(田尾)

・東大構内に残った学生およそ600名。1月17日夜11時。総長代行の加藤は内線電話で安田講堂の学生に最後通告を行った。貴重な音声が残されている。

こちら東大総長代行の加藤です。これから公式の退去命令を伝えますので聞いてください。本郷構内の凶器その他の危険物を除去し…(加藤・当時)

・翌朝は決戦。

<視点3 安田講堂を攻略した男>
・その男にとって安田講堂は恐怖の砦だった。元警視庁第七機動隊隊長の池田勉。あの日、約170名の隊員を率い最前線に立っていた。
・実は池田は、突入の8日前に任命されたばかりだった。しかも東大出身のキャリアで、現場を指揮した経験は全くなかった。

機動隊長になって1週間目くらいに、この警備に取り掛かってますから、新米隊長だった。使命感みたいなものが強かったから(池田)

・あの日、突入を指揮した男は一体何を見たのか?
・1月18日早朝。東大を総勢8500人の機動隊が取り囲んでいた。その中に第七機動隊を率いる池田の姿もあった。機動隊は東大の2つの門から一斉に突入。学生によって占拠された20か所以上の校舎のバリケードを順次解除しつつ、本丸・安田講堂に迫る作戦だった。
・だが突入には大きな危惧があった。決戦前、学生たちが安田講堂に爆薬を持ち込んでいるという噂があったのだ。

火炎瓶とかニトログリセリン、それが爆発するかもしれない(同上)

・特に脅威だったのは「ニトログリセリンがある」との情報だった。ダイナマイトの原料として使われ、僅か試験管1本で部屋ごと吹き飛ばすほどの殺傷力を持つニトログリセリン。ニトロが本当にあるのかどうか、警察にとってそれが最大の懸案だった。
・潜入捜査しかない。白羽の矢が立てられたのが、警視庁現場情報班の宇田川信一。秘密裏に内偵捜査を進めるプロだった。危険な任務に自ら志願した。
・「1月17日、変装侵入」。機動隊突入の前日、宇田川は作業服に着替え建設業者に成りすました。そして安田講堂の中へと潜入。目にしたのは無数のヘルメットと鉄パイプ、角材、投石用の石20トン余り。さらにガソリンがドラム缶3本。火炎瓶は600本以上。
・だが、ニトログリセリンは見つからなかった。潜入すること2時間、宇田川は「ニトロはない」と報告。機動隊突入の準備は整った。
・1月18日午前6時50分、機動隊突入。一斉にバリケードの解除に乗り出した。
・機動隊の力は圧倒的だった。15名が立て籠もった医学部棟は僅か30分で制圧。
・午前8時。上空から安田講堂への作戦も始まった。対する学生は火炎瓶で応酬、安田講堂は煙と炎に包まれていく。その中で新米隊長の池田たちは盾を構え、じりじりと前進を続けていた。
・機動隊には、学生に危害を加えず生け捕りにするよう厳命が下っていた。だが安田講堂に近づいたそのとき、屋上から投じられた火炎瓶が部下に炸裂。すぐに消し止めたが全身にやけどを負った。

「取り返しのつかないことをした。私の未熟な指揮が悔やまれた」(池田の手記より)

もう部下に犠牲者を出したくない。目の前で見た途端に覚悟を決めて、それからバシバシ命令を出して(池田)

・そこは間違いなく戦場だった。機動隊は昼までに大半の校舎を制圧、残すは安田講堂などごく僅か。
・その中でも激戦となった工学部列品館。ここを守っていたのは明治大学の学生たち。「外人部隊」と言われ、少数ながら武闘派として知られていた。率いていたのは瀧澤だった。

(闘うのは)ここしかないと決めたのが列品館だった。色んな運動の中で“目立つ”ということを自分の中でコンセプトにした(瀧澤)

・瀧澤たちは自作の火炎放射器を使い、激しい抵抗を見せた。第二機動隊員の野口実は、その列品館の闘いに参加した。

あそこが一番激しかった。今でもよく覚えているのは、屋上にブロックがバァーっと積んであった。警察が入ってくれば落とす予定で並べている。それを絶対ここに当てるな、脊髄に当たったら終わりだって指示受けたのはよく覚えている(野口)

・遂に機動隊が突入開始。追い詰められた瀧澤たちは建物に火を放った。そのとき、催涙弾が仲間の顔面を直撃した。

その顔の姿、見たらね、こいつ死んじゃうと思ったもんね。顔がこう、ほんとに紫になって、どんどん顔が膨れてくるんだよね。もう中の眼球が飛び出てるから、怪我のすごさっていうのはちょっと震えるよね。萎えるっていうかね、ちょっと戦闘力を失うというかさ。人を殺すためにこの闘争をやってるんじゃないから(瀧澤)

・瀧澤は降伏を決めた。

重傷によって残念ながら無条件降伏する(瀧澤・当時)

・直撃を受けた仲間は片目を失明する重傷を負った。午後1時5分、列品館陥落。リーダー瀧澤以下、全員逮捕。その後、瀧澤は放火・公務執行妨害罪・凶器準備集合罪・不退去罪により懲役4年を受ける。
・残る本丸・安田講堂。ここだけが初日の攻撃を耐え抜いた。その夜、青森から応援に来ていた工藤は疲れ切っていた。

(投石用の)石がないんですよ。しょうがないから中を壊す(工藤)

・もはや学生たちには武器が殆ど残っておらず、建物を壊して投石用の石を作るしかなかった。工藤は複雑な思いで東大の校舎を壊したという。

田舎からのこのこ出かけて来てさ、入れなかった大学の壁を壊してさ、新鮮な2日間、36時間だよね(同上)

・その頃、池田は安田講堂攻略のための策を考えていた。あるアイデアを上層部に進言した。

(部下が)火だるまになったから、木のトンネルを作ってくれと(池田)

・1月19日、決戦2日目。夜明けとともに運ばれたのは、池田考案のトンネル。上にはジュラルミンの盾を並べ、火炎瓶攻撃を防ぐ。
・午前6時30分。安田講堂裏手にトンネルを設置することに成功した。そして突入開始。トンネルの効果は絶大、僅か15分で突入に成功した。
・さらにもう一つ、池田の秘策があった。消防庁から借りた高圧放水車。窓をぶち破るその圧力でバリケードごと吹き飛ばす。この朝の気温は1.5度。極寒の中の水攻めは、学生たちの体温をみるみる奪っていった。寒さに震えながらバリケードを修復し続けた田尾。

放水車でベニヤが突破されると、水がザーっと降ってくる。あっという間に時間が過ぎたような気がします(田尾)

・壮絶な攻防戦が続く中、総長代行の加藤は学生たちに投降を呼びかけ続けた。

諸君がこれ以上、無用の抵抗を続けるのを見ることは忍ぶことはできません。どうか速やかに抵抗をやめて出てきてください(加藤・当時)

・その頃、安田講堂に侵入した池田たちは、幾重にも張り巡らされたバリケードを壊しながら3階・大講堂を目指していた。

当時は考えてもなかった。どれぐらいで落ちるかってことは。とにかく目の前のことだけやっていくということですから(池田)

・午後2時30分。機動隊は遂に大講堂の入口に到着。そこを守っていた学生たちには、もはや闘う気力はなかった。
・彼らは学生運動の象徴だった労働歌「インターナショナル」を歌いながら、最後の時を待った。
・田尾陽一、島泰三、工藤敏幸逮捕。
・5時46分、安田講堂は陥落した。
・逮捕者は総勢377名。

学生と戦ったという意識はあんまりないんですけどね。立場が違えばそうなってたかもしれないと思うこともある。とにかく目の前の暴力行為を排除すると、違法行為をなくすと、それで平穏を取り戻すっていうのが俺の方の仕事だから(池田)

・一方、大学を守るため機動隊を導入した加藤もまた、予想外の結末を迎える。翌1月20日、佐藤栄作首相が現場を視察。即座に東大入試の中止を命じた。
・加藤が警察を導入してまで守ろうとした東大の入試。1月21日、加藤は記者会見を開き、こんな言葉を残している。

我々は入学試験中止という結果も重大と考えるが、大学の自治という観点からは、そうした結果にいたる過程での政府の態度を一層重大視せざるを得ない。我々は政府が今回とられた態度に抗議するとともに、それを正されるよう強く要望する(加藤・当時)

・大学を守ろうとした加藤、そこに立ち向かった学生、どちらも勝利することなく闘いは終わった。

・学生全員の逮捕という形で幕を下ろした東大安田講堂事件。それは学生運動の分岐点だった。ある者は日常へと戻り、またある者はより過激な闘争に身を投じていった。
・闘争の後、東大の責任者として加藤は一つの方針を貫いた。闘争に加担した学生でも大学に戻りたい者には、一切条件をつけずそれを許す。加藤の心にあった思いとは何か?

安田講堂が落ちた後、随分経ってから加藤さんと話をしたんだけど、学生たちと加藤さんはコミュニケーションあったんだって。連絡がお互いに。だから今の学生からみると、あの頃の学生の方がはるかに良かったと。責任も持っていたと。と加藤さんは言ってました(田原総一朗)

・加藤は自らの主張のために闘った学生たちを、そう評していたという。
・田尾は大学には戻らなかった。学習塾や出版の仕事をしながら10年に及んだ仲間の裁判を支えた。その後、ITの分野で起業、成功を収めた。
・島は京都大学大学院に進み、博士号を修得。だが、大学には残らないと決めた。動物学者として40年以上、在野の身で在り続けた。
・明治大学からの応援部隊として闘った瀧澤。学生の中で最も重い刑を言い渡されたがその後、広告業界の第一線で活躍。リタイアした今は、地域の防災ボランティアに従事している。「あの闘争は世の中を変えたと思うか」尋ねてみた。

変わったかどうかと言えば、むしろ悪化した。一番悲しいのは連合赤軍の事件。その後、口をつぐむのが大きな風土になった(瀧澤)

・1960年代末に盛り上がった学生運動は、70年代に入ると過激化の一途を辿っていく。そして運動は終焉を迎えた。
・あの頃、若者たちは怒っていた。社会に声を上げ、大人の欺瞞を問いただした。その声が消えたとき、我々は何かを失ったのだろうか?

(2016/7/16視聴・2016/7/16記)

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【ドキュメント72時間】広島 大統領を待つ街角で

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【ドキュメント72時間】
「広島 大統領を待つ街角で」

(NHK総合・2016/7/15放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 諸般の事情で7月の三連休にかけて放送された番組がだいぶ溜まってしまいました。今週少しずつ観て行きたいと思います。まずは週末に放送された「ドキュメント72時間」から。

 広島を舞台にしたのは、昨年の7月にもありました(→「路面電車に揺られて」)。このときは路面電車で出会う人々を追ったものでしたが、今回はオバマ氏がアメリカの大統領として初めて被爆地に訪れたという歴史的な日を捉えた3日間。難しそうなテーマにも思えましたが、うまくまとまっていたような感じがします。

 私も何度か広島へは訪れたことがありますが(→4年前の訪問記はこちら)、原爆ドームをはじめとする「被爆遺構」と繁華街など全国どこでも共通しているような「日常の風景」が違和感なく共存している不思議な街に思えました。

 あの広場はお好み焼き屋さんで夕食をとって立ち寄った気がします。でもちょっと歩いたところに爆心地のすぐ近くで甚大な被害を受けた袋町小学校があったり、今はアンデルセンという洋菓子店になっている建物(旧帝国銀行広島支店)も被爆した建物だったりします。原爆ドームや平和記念公園以外にも広島市内には、まだこうした建物などが残されています(私も持っている本ですが詳しく掲載されている本を下で紹介しておきます)。

 番組を観て感じたことですが、今時の子たちも広島ならではというか、きちんと戦争と原爆、平和について学校や家庭で学んでいる子たちが多いということですね。見かけはどこにでもいるような子と変わらないけど、きちんと考えて自分なりの考えを持っている、そんな印象を持ちました。

 まだ広島・長崎を訪れたことのない方は、ぜひ機会をつくって行ってみることをお勧めします。「核兵器」というものが一体どんなものなのか。また、日本が核の傘に入っているという紛れもない事実についてどういう意味を持つのか。現地に行き「追体験」すれば否が応でも考えさせられます、きっと(現地に行っても何も感じられない「不感症」の方もいるので100%とは言えませんが)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・2016年5月27日、世界が注目する中、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れた。人類史上、初めて核兵器が使われて今年で71年。地元の人たちは、どんな気持ちでこの日を迎えたのだろう。
・繁華街の真ん中にある広場で72時間、行き交う人の声を聞いてみることにした。

・5月25日(水)12時、大統領訪問の2日前。原爆ドームから徒歩10分、地元の人から観光客まで立ち寄る有名なスポットらしい(西新天地広場)。
・スマホを片手に一人たたずむ男性がいた。ニュースサイトは大統領訪問の話題で持ちきりみたい。
・今度は今どきの若者2人組。18歳の定時制高校生の一人は祖父が被爆したという。幼い頃から繰り返し聞かされてきた被爆体験、大統領の訪問をどう思っているのか。

何をしに来るんだろうなって思います。もう昔のことだし、昭和生まれじゃないので。平成なんで。

・「歴史的」と言われても、あまりピンと来ないみたい。
・18時34分。近所のお好み焼き屋のご主人が話しかけてきた。原爆で焼け野原となった広島。ここは戦後すぐお好み焼きの屋台村が生まれた場所だという。街の復興とともに屋台はビルの中へ移転。食糧難の時代、お腹を満たす人々で賑わったこの場所が今ではすっかり観光名所に。
・21時53分。広島の来たばかりという外国人カップルに出会った。2人はデンマーク人、半年かけてアジア各地を旅行中らしい。

第2次世界大戦の敵国で原爆を落とした国と落とされた国のリーダーが広島で会うのは歴史的なイベントです(男性)

・ニュースで知るまで広島にあまり関心はなかったというけど。

広島では市民や罪のない人に原爆が投下されましたが、それは間違っています。

・0時13分。午前0時を過ぎても人通りは絶えない。カープファンの若い男性がスタッフに話しかけてきた。深夜の広場は若者たちのたまり場に。
・広島で生まれ、子どもの頃から平和教育を受けてきた彼ら。それぞれ思うところがあるみたい。

日本でもやっぱり原爆に対して分かっていない方々もたくさんいるし、今回オバマさんが来ていただいて少しでも知っていただきたい(男性)

・大統領の訪問を目前に戸惑う人も何かを期待する人も。様々な思いが広場を交錯していく。

・5月26日(木)9時。うたた寝をする男性がいた。友人と一晩飲み明かしたという営業職の24歳男性。実はこの頃、沖縄では大統領訪問よりも切実な事件が起こっていた。地元の女性が米軍基地内の会社で働くアメリカ人に命を奪われた事件。

自分にとってけっこう身近な20歳の子が亡くなって、自分より若い子が殺されて。(米軍基地が)なくなってもいいのかなとちょっと思いました。

・世の中が大統領訪問に沸く一方で、未だ揺さぶられ続ける人たちもいる。
・13時58分。広場の周りを歩き回るサングラスの男性がいた。祖父が日本人で祖母がブラジル人だという。広島弁が達者な彼、16歳のときに家族と出稼ぎに来てそのまま定住したらしい。日本人女性と結婚し幸せな家庭を築いているけど、広島での暮らしはいいことばかりではなかったという。地元の人からぶつけられたアメリカに対するやり場のない怒り。普段、口には出さないけど、広島には今も癒えることのない傷が残っている。
・街では厳重な警戒態勢が敷かれ始めていた。
・被爆2世だという男性、普段は語らないという。広島の人の心の奥に眠っていた苦い記憶。大統領の訪問を前に呼び覚まされようとしていた。

・5月27日(金)11時43分。徐々に街が騒がしくなってきた。大統領が到着するのは、いよいよ夕方。
・緊張感高まる中、広場では全国各地の日本酒を試飲できるイベントが始まった。オバマ大統領のことは、どこ吹く風…。
・広場の前のお好み焼き屋のビルをのぞくと、食い入るように中継を見つめる人たちがいた。大統領の到着に興奮気味の店主。広島で生まれ育ったという彼、でも実はアメリカ人の血も入っているという。母親が沖縄出身で、母方の祖父がアメリカ人だという。広島、沖縄、そしてアメリカ。家族の中で思いがすれ違い、自分の境遇に悩んだこともあったけど。
・同じ頃、平和記念公園の前は多くの人であふれ返っていた。みんなスマホやパソコンの画面を見つめている。

71年前の晴れた朝、空から死が降ってきて世界が一変しました(オバマ大統領のスピーチ)

・世代も境遇も違う人たちの輪があちこちで出来始めた。

被爆者の方々から証言を直接伺う事はいずれ出来なくなるでしょう。恐怖の論理から脱する勇気を持ち、核兵器のない世界を追求しなければなりません(同上)

・どこか不思議な一体感。
・夜、広場に派手な衣装を着込んだ男性がいた。男性が参加しているダンスグループ、うつ病やパニック障害など精神的な病を持つ人たちが集まっているそう。この日は家でテレビを見ていたけど、居ても立ってもいられなくなったという。

「大統領ああそう」みたいな感覚だったけど、やっぱ来て、その雰囲気とか、一広島市民なんで、すごく重たさとかを感じて。今日ここであった日を忘れるということがなければ、きっとね、また、いつか、いつか、いつかだよね。

・たった1日の出来事。でも何かが心に刻まれていた。

・5月28日(土)9時30分。スケボーを始めたばかりだという少年。昨日大統領が来たのをテレビで見たという。

鳥肌がすごいバーっときて、すごかったですね。

・最後に出会ったのは、平和記念公園帰りの親子。

昨日オバマ大統領が来られて、献花した花を見られるかなと思って来たんですけどなかったです(女性)

・2016年夏、世界はいまだ核廃絶への道を見いだせていない。一方で広島を訪れる人の数は増え続けている。

(2016/7/18視聴・2016/7/18記)

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