【にっぽん!歴史鑑定】
「伝説の侠客はなぜ生まれたのか?」
(BS-TBS・2016/5/30放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/
<感想>
幡随院長兵衛、国定忠治、清水次郎長、新門辰五郎と4人の侠客に焦点を当てた面白い番組だったと思います。強気をくじき弱きを助けるカッコいい“漢”たちです。
徳川慶喜の警護役を務めた新門辰五郎の話は知っていましたが(ちなみに「JIN-仁-」でも中村敦夫さんが演じる辰五郎が出演していました)、清水次郎長との親交があったという話は初耳でした。この辺りの経緯は興味深いですね。何らかのドラマの題材にもなるのではないかと思いましたね。
もちろんこの時代の侠客、博打や殺人など物騒ではありましたが、私利私欲で庶民を苦しめたり、抗争で巻き添えにしたりは決してしなかったでしょう。その点では根本的に現在の893業の方々とは質を異にしているのでしょうね。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・天下泰平の江戸時代、庶民が頼りにした泣く子も黙る強面のならず者・侠客。強きを挫き弱きを助ける正義の味方。しかし一方で喧嘩っ早く時に人を殺めてしまう犯罪者、そんな侠客がなぜ庶民のヒーローになったのか。
・歌舞伎でお馴染みの幡随院長兵衛が侠客の元祖?そこには時代が生んだ武士と町民の対立があった?
・上州を根城とした伝説の侠客・国定忠治。罪を重ねながらも捕まらなかった意外な理由とは?
・新門辰五郎は15代将軍・徳川慶喜の最後のSPだった?なぜ侠客が将軍の信頼を得たのか?
・清水港は鬼より怖い。大親分・清水次郎長がつくった驚きの侠客ネットワークとは?
<「旗本奴」「町奴」とは>
・長い戦乱の世が終わり、徳川家康が築いた江戸幕府によって平和な日々が訪れた。しかし江戸開府から50年ほどが経った4代将軍・家綱の頃になると、徳川家の家臣で軍事面を担った旗本たちの間で困った風潮が広がるようになった。
・江戸の侠客に詳しい多摩大学客員教授の河合敦さんによると、合戦がなくなり学問が重視される天下泰平の世の中になるとエネルギーを持て余した旗本の若者たちは「旗本奴」と呼ばれる徒党を組むようになったという。彼らは奇抜な着物を纏い往来を我が物顔で闊歩し、時には乱暴を働くといった傾奇者たち。町の人たちは大きな迷惑を被っていた。
・そんな旗本奴たちから身を守るため、町人の間で剣術や柔術と習うのが流行。その中から腕に自信があり、旗本奴に対抗するように現れたのが「町奴」だった。
・無頼漢の旗本奴と違い、町奴が大切にしたのが男伊達。強きを挫き弱きを助ける、そのためには命を捨てることも惜しまないといった強い信念を持っていた。
<侠客の元祖と言われる幡随院長兵衛>
・その町奴の一人、歌舞伎でもお馴染みの人物が町奴・幡随院長兵衛(本名・塚本伊太郎)。一説では1622年、唐津藩士・塚本伊織の子として生まれたと言われている。子どもの頃から立派な体格で武術にも秀でていた。
・しかし江戸で刃傷沙汰を起こし、牢に入れられてしまった。無宿人となってしまった長兵衛は浅草の寺・幡随院の住職に拾われ、その裏手に住むようになった。これが幡随院の名の由来だという。
・そんな幡随院長兵衛が事あるごとに対立していたのが水野十郎左衛門だった。あるとき芝居小屋で水野の手下が大暴れし芝居が中断。芝居を楽しんでいる客たちに迷惑だと立ち上がったのが長兵衛たち町奴。旗本奴たちを小屋から叩き出した。
・数日後、和解のために酒宴を催したいと長兵衛のもとへ水野の使いがやって来た。子分たちは「これは罠に違いない」と必死に止めたが、長兵衛は臆することなく一人で水野の屋敷に乗り込んだ。
・和解というのは真っ赤な嘘で、芝居小屋で面目を潰された水野は仕返しをしようと最初から計画していた。長兵衛は必死に抵抗したが殺されてしまった。正義のためなら命を捨てることも惜しまない、長兵衛は最期まで男伊達を貫いた。
町奴の中には旗本奴のように傍若無人な振る舞いをする者もいた。長兵衛は浅草で口入れ屋をしていた。今でいえば人材派遣業のようなもので大名や商家に人足や奉公人を派遣する仕事。人足には荒くれ者が多いため統率するには腕力と人望、肝が据わっていることが重要だった(河合氏)
・また長兵衛のもう一つの生業が博打だった。人足には博打好きが多く賭場を開くというのは人足を集めるのに効果的だった。
・江戸で広く知られた幡随院長兵衛が男伊達を持ち、口入れ屋として郎党を組み、さらに博打を生業としていたことで侠客とはそういうものだというイメージができあがった。
・侠客・長兵衛の生き様は格好の題材として歌舞伎の演目となった。その中で長兵衛が言う「お若けぇの おまちなせぇやし」ときっぷのいい名台詞。こうして歌舞伎の演目が庶民の人気を得たことで、侠客は江戸の新たなヒーローになっていった。
<赤城の子守唄で知られる国定忠治>
・さらに芝居などでお馴染みの侠客といえばこんな人物も。赤城の子守唄で知られる国定忠治(本名・長岡忠次郎)は1810年、上野国国定村の豪農の家に生まれた。子どもの頃は仲間を引き連れイタズラの限りを尽くすなど腕白を通り越した悪童だったという。
・そんな忠治の人生が17歳のときに大きく変わった。人を殺めて追われる身となってしまった。行く宛てのない忠治が頼ったのが上州の博徒の大親分・大前田英五郎だった。忠治は度量と腕っぷしを認められ、兄弟分の盃を交わした。その後、英五郎の紹介で百々村の縄張りを引き継ぎ、21歳の若さで親分となった。
・忠治は面倒見がよく、子分たちは父の如く慕ったという。しかし誰でも子分にするというわけではなく、しっかりと線引きをしていた。
忠治は堅気と問題を起こして戸籍から籍を抜かれた無宿人を区別して子分にしてくれと言われても堅気は受けつけなかった(前出の河合氏)
・忠治の名を侠客の世界に轟かせることになったのが、1834年に起きた血で血を洗う激しい抗争だった。25歳だった忠治は大親分である大前田英五郎と敵対していた島村伊三郎と争いを起こし殺害、その縄張りを奪い取った。
・殺人を犯した忠治はお尋ね者となり逃げることに。それを追うのは関東取締出役(通称・八州廻り)と呼ばれる幕府の役人たちだった。八州廻りは関東8か国の治安を取り締まる、今でいう広域警察のようなもので、8か国内であれば自由に移動でき犯人を捕まえることができた。そのため犯罪者から恐れられていたのだが、そんな八州廻りでも忠治を捕まえることができなかった。
<国定忠治が捕まらなかった理由とは>
・しかも逃げた先で忠治は大規模な賭場を開帳し、さらには50年に一度あるかないかと言われた関所破りをするなど罪を重ねていった。
・そして1842年、33歳の頃には遂に全国手配となってしまった。追われること8年、なぜ忠治は捕まらなかったのか。
忠治が縄張りにしていた村全体で彼が捕まらないように協力していた。八州廻りが見回りに来た際に岡っ引きなどが道案内をしていたが、事前に賄賂を渡しておいて来たときには知らせてもらっていた(同上)
年貢だけを取って自分たちを守ってくれないお上よりも、いるだけでこそ泥や空き巣の類が姿を消すような忠治の方を頼りにしていた(同上)
・治安を守るうえで村人にとって好都合だった忠治の存在。しかし人々が忠治を慕う一番の理由は他にあった。1833年、忠治が親分になってまだ間もない頃、全国的な大飢饉・天保の飢饉が発生。忠治の縄張りである国定村も飢餓に苦しめられた。
・そこで忠治は村人を助けるために、賭場で稼いだ金に自らの刀や家財道具まで売り払って100両の金を用意した。そしてそれを200俵もの米に換え援助したのだ。
・また沼の浚渫工事を行いその後の飢饉対策にも尽力、さらには子分たちに周辺の豪商の家を訪ねさせ支援金を集めさせたとも言われている。まさに弱きを助ける侠客の男伊達をみせた忠治、こうした奉仕活動が村人との信頼関係をつくったのだ。
・しかし41歳のとき脳卒中で倒れ、体が不自由になった。そして16年の逃亡の末、遂に八州廻りに捕まってしまった。賭博に殺人、関所破りと罪を重ねた忠治は磔の刑に処せられることになった。
・1850年12月21日、忠治は処刑の前に上州産の銘酒を飲み、役人に「もう一杯どうか」と勧められると「死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことになってしまう」と答え、そして悠然と磔台に登ったという。
・その後14回槍で突かれ絶命。侠客の男気を貫いた最期だった。
<侠客の博打とはどんなものだったのか>
・江戸の侠客として名を馳せた幡随院長兵衛と国定忠治。彼らが生業にしていたのが博打。江戸時代の博打とはどのようなものだったのか。
・主流だったのは2つのサイコロを使った丁半賭博。サイコロの出た目が偶数なら「丁」、奇数なら「半」。これを予想し当てるという実にシンプルなもの。丁半の多くは盆ゴザという白い布で巻かれたゴザの上で行われた。賭場を敷くことを「盆を敷く」というのはそのためだ。出た目の判定人兼進行係が中盆、サイコロを振るツボ振り、胴元が侠客の親分で3人の座る位置は決められていた。
・客は大抵の場合、盆ゴザを挟んで丁座、半座に分かれて座る。このとき丁座は丁に、半座は半にしか賭けることができなかった。丁と半の賭金は必ず同じ額になるまで募り、中盆の合図でツボが開き判定。現金の代わりに賭けた駒札が客へと渡される。その中から胴元は4~5%の手数料を取るため、賭場を開けば儲かるという仕組みになっていた。
<東海の大親分と言われた清水次郎長>
・動乱の幕末に現れた伝説の侠客がいた。東海の大親分と言われた清水次郎長(本名・山本長五郎)。1820年元日、駿河国清水町の船頭の次男として生まれた。その後まもなく米穀商を営む叔父・山本次郎八の養子となった。次郎長とは次郎八のところの長五郎を略した呼び名だった。
・1835年、養父が亡くなると次郎長は米穀商の跡を継ぎ、妻を娶り懸命に家業に打ち込んだ。
・しかしその性格は喧嘩っ早く大の博打好き。23歳のとき些細な喧嘩の末、人を殺めてしまった。
・追われる身となった次郎長は妻と別れ、生まれ育った清水の町を後にして全国を渡り歩いた。
・侠客として一家を構えたのは28歳のときだった。「刃物も切れれば頭も切れる。筋も通せば義理も固い」。そんな次郎長の人柄に惚れた男たちが集まり、僅か10人だった子分は次々と増えていった。
・その次郎長の子分たちは個性あふれるメンバーばかり。一の子分は大政。田舎相撲出身で腕っぷしが強く、一方で教養も持ち合わせた一家で最も頼りになる存在だった。
・小政は11歳のときから次郎長が預かって育てた子飼いの子分。身のこなしが軽く、殺しも厭わないニヒルなアウトロー。
・講談などでお馴染み森の石松は、喧嘩相手を斬ってしまい東海地方に逃げていた際に次郎長と出会い子分になった。
・次郎長はとても子分思いの男で、こんなことを言っていたという。「子分のためならいつでも死ねらぁ」。実際、森の石松が惨殺された際には自ら刀を取り仇をとったほどだった。
<侠客が仁義を切る理由とは>
・清水次郎長は頻繁に旅に出ていたが、その中で特に重要だったしきたりがあった。それは侠客同士で「仁義を切る」ことだった。
旅を続けるためにそれぞれの土地の親分に会って、一宿一飯の恩義をこうむり草鞋銭を得ていた。仁義はそれぞれの土地の親分からの信頼を得るために必要だった(河合氏)
・「お控えなすって」というのは「どうぞ私の紹介を聞いてください」という意味だった。自分の生まれ、どこの一家に所属しているか、一家での自分の立場、用向きを流暢に包み隠さずに言わなければならなかった。
・こうして旅先で他の親分と親交を深め、侠客のネットワークをつくった。全国の侠客の相互援助システムが、旅をする侠客の身の安全を守った。
・荒くれ者の子分たちを抱え一家を束ねていた仁義に厚い侠客・清水次郎長。49歳のときこんなエピソードが残されている。江戸幕府崩壊直後の1868年8月、旧幕府軍の軍艦である咸臨丸が暴風雨により房総沖で破船してしまった。修理のため清水港に停泊していたが、新政府の海軍に発見され激しい攻撃を受けてしまった。
・逆賊として駿河湾に無残に放置されたままの遺体をみた次郎長は、心を傷めて収容し手厚く埋葬した。これを知った新政府は次郎長を咎めたが「死者に官軍も賊軍もない」と突っぱねたという。次郎長は時の権力にも屈しない男だった。
<町火消の侠客・新門辰五郎>
・江戸時代末期の1867年10月14日、15代将軍・徳川慶喜が政権を返上した(大政奉還)。その翌年、鳥羽伏見の戦いで慶喜率いる旧幕府軍と新政府軍が激突。勢いに乗る新政府軍を前に旧幕府軍は追い詰められた。
・そして開戦から3日。身の危険を感じた慶喜は逃げるように大坂城を脱出したが、一つ心残りがあった。徳川家康以来、将軍家に代々伝わる「金扇の大馬印」を大坂城に置いてきてしまった。馬印を敵方に取られることは首を取られるのと同じ、慶喜にとってこの上ない屈辱だった。
・このとき果敢にも城中に戻り命懸けで馬印を取り戻した人物がいた。それが新門辰五郎だった。彼は侠客でありながら将軍・慶喜に寵愛され、今でいうところのSPのように慶喜を守り抜いた男だった。
・侠客と呼ばれた辰五郎だったが、本職は町火消という別の顔を持っていた。16歳のときに浅草の町火消である浅草十番組「を組」の組頭の弟子になった。粋で強くてきっぷのいい辰五郎は周囲からすぐに認められて、男の中の男と称されるようになった。
・早くから町火消の中で頭角を現していった辰五郎は、着実に地位を上げていき18歳のときに浅草寺境内の伝法院にできた新門の防火・警護役に抜擢された。
辰五郎は浅草新門の防火責任を立派に果たしていった。そんな辰五郎の男伊達に惚れた寛永寺の執当・覚王院義観が浅草寺界隈すべての取締と防火を辰五郎に依頼した。そんなことから浅草に絶対的な勢力を持つようになった(河合氏)
・25歳で「を組」の組頭になり、3000人の子分がいたという。
・1845年1月24日、青山を中心に大名屋敷115か所、旗本屋敷285か所、寺院187か所が灰と化した大火事が発生。辰五郎率いる「を組」はもちろんのこと、江戸中の火消が総動員された。そこで大喧嘩が始まってしまい、25人もの死傷者を出してしまった。辰五郎は大親分として喧嘩の全責任を負う覚悟を決め、自ら佃島監獄に入ってしまった。
・その翌年、再び辰五郎の運命を変える事件が起こった。今度は小石川で火事が発生。その猛火は瞬く間に佃島監獄にまで迫ってきた。罪人たちが我先にと避難していく中で、辰五郎はただ一人残り、火の粉を浴びながら火事を食い止めた。その姿に町奉行は「さすが火消の頭よ。これまでの罪はお咎めなしとする」。そう褒め讃えた。
<将軍や勝海舟から愛された辰五郎の魅力とは>
・江戸一の火消として3000人もの子分を持つ辰五郎は、いつからか侠客的な存在となっていた。
・その頃、徳川慶喜はまだ将軍になる前の一橋家の当主で、孝明天皇から禁裏御守衛総督(京都御所の護衛)に任じられたが、このとき一橋家は深刻な家臣不足に悩まされていた。
・そこで慶喜の側近・黒川嘉兵衛が浅草での評判を聞きつけ辰五郎をお抱えの火消隊として一緒に上洛させてはどうかと進言、慶喜もそれを承諾した。
・このとき辰五郎は65歳、200人の子分を引き連れて上洛。慶喜の身辺警護だけでなく二条城の防火・警備も任された。
・厚い信頼を得た辰五郎は、慶喜が鳥羽伏見の戦いで大坂城から江戸に逃れる際には脱出の手助けをしたとされ、またその後、慶喜が蟄居・謹慎した際にも上野・寛永寺などでの警護を担当した。
・そんな中で辰五郎は、幕臣だった勝海舟とも親交を持ったという。海舟は自らの回想録の中でこう述べている。
新門の辰は
ずいぶん物のわかった男で
金や権威にびくともせず
ただ侠客ならではの
人情や意気で交際していた
・辰五郎の人柄に江戸っ子たちはもちろん、将軍までもが心底惚れたのだ。
・江戸城無血開城、その後も辰五郎は慶喜とともに水戸から静岡へも同行した。しかし1871年、72歳になった辰五郎は火消も侠客も引退し、浅草に戻り余生を静かに過ごしたという。このとき辰五郎に託され慶喜の警護を担当したのが清水次郎長だった。静岡で兄弟の盃を交わしていたという。
(2016/6/2視聴・2016/6/2記)
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幡随院長兵衛 (義と仁叢書)
国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))
清水次郎長――幕末維新と博徒の世界 (岩波新書)
新門辰五郎伝 (中公文庫)
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