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【にっぽん!歴史鑑定】伝説の侠客はなぜ生まれたのか?

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【にっぽん!歴史鑑定】
「伝説の侠客はなぜ生まれたのか?」

(BS-TBS・2016/5/30放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 幡随院長兵衛、国定忠治、清水次郎長、新門辰五郎と4人の侠客に焦点を当てた面白い番組だったと思います。強気をくじき弱きを助けるカッコいい“漢”たちです。

 徳川慶喜の警護役を務めた新門辰五郎の話は知っていましたが(ちなみに「JIN-仁-」でも中村敦夫さんが演じる辰五郎が出演していました)、清水次郎長との親交があったという話は初耳でした。この辺りの経緯は興味深いですね。何らかのドラマの題材にもなるのではないかと思いましたね。

 もちろんこの時代の侠客、博打や殺人など物騒ではありましたが、私利私欲で庶民を苦しめたり、抗争で巻き添えにしたりは決してしなかったでしょう。その点では根本的に現在の893業の方々とは質を異にしているのでしょうね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・天下泰平の江戸時代、庶民が頼りにした泣く子も黙る強面のならず者・侠客。強きを挫き弱きを助ける正義の味方。しかし一方で喧嘩っ早く時に人を殺めてしまう犯罪者、そんな侠客がなぜ庶民のヒーローになったのか。
・歌舞伎でお馴染みの幡随院長兵衛が侠客の元祖?そこには時代が生んだ武士と町民の対立があった?
・上州を根城とした伝説の侠客・国定忠治。罪を重ねながらも捕まらなかった意外な理由とは?
・新門辰五郎は15代将軍・徳川慶喜の最後のSPだった?なぜ侠客が将軍の信頼を得たのか?
・清水港は鬼より怖い。大親分・清水次郎長がつくった驚きの侠客ネットワークとは?

<「旗本奴」「町奴」とは>
・長い戦乱の世が終わり、徳川家康が築いた江戸幕府によって平和な日々が訪れた。しかし江戸開府から50年ほどが経った4代将軍・家綱の頃になると、徳川家の家臣で軍事面を担った旗本たちの間で困った風潮が広がるようになった。
・江戸の侠客に詳しい多摩大学客員教授の河合敦さんによると、合戦がなくなり学問が重視される天下泰平の世の中になるとエネルギーを持て余した旗本の若者たちは「旗本奴」と呼ばれる徒党を組むようになったという。彼らは奇抜な着物を纏い往来を我が物顔で闊歩し、時には乱暴を働くといった傾奇者たち。町の人たちは大きな迷惑を被っていた。
・そんな旗本奴たちから身を守るため、町人の間で剣術や柔術と習うのが流行。その中から腕に自信があり、旗本奴に対抗するように現れたのが「町奴」だった。
・無頼漢の旗本奴と違い、町奴が大切にしたのが男伊達。強きを挫き弱きを助ける、そのためには命を捨てることも惜しまないといった強い信念を持っていた。

<侠客の元祖と言われる幡随院長兵衛>
・その町奴の一人、歌舞伎でもお馴染みの人物が町奴・幡随院長兵衛(本名・塚本伊太郎)。一説では1622年、唐津藩士・塚本伊織の子として生まれたと言われている。子どもの頃から立派な体格で武術にも秀でていた。
・しかし江戸で刃傷沙汰を起こし、牢に入れられてしまった。無宿人となってしまった長兵衛は浅草の寺・幡随院の住職に拾われ、その裏手に住むようになった。これが幡随院の名の由来だという。
・そんな幡随院長兵衛が事あるごとに対立していたのが水野十郎左衛門だった。あるとき芝居小屋で水野の手下が大暴れし芝居が中断。芝居を楽しんでいる客たちに迷惑だと立ち上がったのが長兵衛たち町奴。旗本奴たちを小屋から叩き出した。
・数日後、和解のために酒宴を催したいと長兵衛のもとへ水野の使いがやって来た。子分たちは「これは罠に違いない」と必死に止めたが、長兵衛は臆することなく一人で水野の屋敷に乗り込んだ。
・和解というのは真っ赤な嘘で、芝居小屋で面目を潰された水野は仕返しをしようと最初から計画していた。長兵衛は必死に抵抗したが殺されてしまった。正義のためなら命を捨てることも惜しまない、長兵衛は最期まで男伊達を貫いた。

町奴の中には旗本奴のように傍若無人な振る舞いをする者もいた。長兵衛は浅草で口入れ屋をしていた。今でいえば人材派遣業のようなもので大名や商家に人足や奉公人を派遣する仕事。人足には荒くれ者が多いため統率するには腕力と人望、肝が据わっていることが重要だった(河合氏)

・また長兵衛のもう一つの生業が博打だった。人足には博打好きが多く賭場を開くというのは人足を集めるのに効果的だった。
・江戸で広く知られた幡随院長兵衛が男伊達を持ち、口入れ屋として郎党を組み、さらに博打を生業としていたことで侠客とはそういうものだというイメージができあがった。
・侠客・長兵衛の生き様は格好の題材として歌舞伎の演目となった。その中で長兵衛が言う「お若けぇの おまちなせぇやし」ときっぷのいい名台詞。こうして歌舞伎の演目が庶民の人気を得たことで、侠客は江戸の新たなヒーローになっていった。

<赤城の子守唄で知られる国定忠治>
・さらに芝居などでお馴染みの侠客といえばこんな人物も。赤城の子守唄で知られる国定忠治(本名・長岡忠次郎)は1810年、上野国国定村の豪農の家に生まれた。子どもの頃は仲間を引き連れイタズラの限りを尽くすなど腕白を通り越した悪童だったという。
・そんな忠治の人生が17歳のときに大きく変わった。人を殺めて追われる身となってしまった。行く宛てのない忠治が頼ったのが上州の博徒の大親分・大前田英五郎だった。忠治は度量と腕っぷしを認められ、兄弟分の盃を交わした。その後、英五郎の紹介で百々村の縄張りを引き継ぎ、21歳の若さで親分となった。
・忠治は面倒見がよく、子分たちは父の如く慕ったという。しかし誰でも子分にするというわけではなく、しっかりと線引きをしていた。

忠治は堅気と問題を起こして戸籍から籍を抜かれた無宿人を区別して子分にしてくれと言われても堅気は受けつけなかった(前出の河合氏)

・忠治の名を侠客の世界に轟かせることになったのが、1834年に起きた血で血を洗う激しい抗争だった。25歳だった忠治は大親分である大前田英五郎と敵対していた島村伊三郎と争いを起こし殺害、その縄張りを奪い取った。
・殺人を犯した忠治はお尋ね者となり逃げることに。それを追うのは関東取締出役(通称・八州廻り)と呼ばれる幕府の役人たちだった。八州廻りは関東8か国の治安を取り締まる、今でいう広域警察のようなもので、8か国内であれば自由に移動でき犯人を捕まえることができた。そのため犯罪者から恐れられていたのだが、そんな八州廻りでも忠治を捕まえることができなかった。

<国定忠治が捕まらなかった理由とは>
・しかも逃げた先で忠治は大規模な賭場を開帳し、さらには50年に一度あるかないかと言われた関所破りをするなど罪を重ねていった。
・そして1842年、33歳の頃には遂に全国手配となってしまった。追われること8年、なぜ忠治は捕まらなかったのか。

忠治が縄張りにしていた村全体で彼が捕まらないように協力していた。八州廻りが見回りに来た際に岡っ引きなどが道案内をしていたが、事前に賄賂を渡しておいて来たときには知らせてもらっていた(同上)

年貢だけを取って自分たちを守ってくれないお上よりも、いるだけでこそ泥や空き巣の類が姿を消すような忠治の方を頼りにしていた(同上)


・治安を守るうえで村人にとって好都合だった忠治の存在。しかし人々が忠治を慕う一番の理由は他にあった。1833年、忠治が親分になってまだ間もない頃、全国的な大飢饉・天保の飢饉が発生。忠治の縄張りである国定村も飢餓に苦しめられた。
・そこで忠治は村人を助けるために、賭場で稼いだ金に自らの刀や家財道具まで売り払って100両の金を用意した。そしてそれを200俵もの米に換え援助したのだ。
・また沼の浚渫工事を行いその後の飢饉対策にも尽力、さらには子分たちに周辺の豪商の家を訪ねさせ支援金を集めさせたとも言われている。まさに弱きを助ける侠客の男伊達をみせた忠治、こうした奉仕活動が村人との信頼関係をつくったのだ。
・しかし41歳のとき脳卒中で倒れ、体が不自由になった。そして16年の逃亡の末、遂に八州廻りに捕まってしまった。賭博に殺人、関所破りと罪を重ねた忠治は磔の刑に処せられることになった。
・1850年12月21日、忠治は処刑の前に上州産の銘酒を飲み、役人に「もう一杯どうか」と勧められると「死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことになってしまう」と答え、そして悠然と磔台に登ったという。
・その後14回槍で突かれ絶命。侠客の男気を貫いた最期だった。

<侠客の博打とはどんなものだったのか>
・江戸の侠客として名を馳せた幡随院長兵衛と国定忠治。彼らが生業にしていたのが博打。江戸時代の博打とはどのようなものだったのか。
・主流だったのは2つのサイコロを使った丁半賭博。サイコロの出た目が偶数なら「丁」、奇数なら「半」。これを予想し当てるという実にシンプルなもの。丁半の多くは盆ゴザという白い布で巻かれたゴザの上で行われた。賭場を敷くことを「盆を敷く」というのはそのためだ。出た目の判定人兼進行係が中盆、サイコロを振るツボ振り、胴元が侠客の親分で3人の座る位置は決められていた。
・客は大抵の場合、盆ゴザを挟んで丁座、半座に分かれて座る。このとき丁座は丁に、半座は半にしか賭けることができなかった。丁と半の賭金は必ず同じ額になるまで募り、中盆の合図でツボが開き判定。現金の代わりに賭けた駒札が客へと渡される。その中から胴元は4~5%の手数料を取るため、賭場を開けば儲かるという仕組みになっていた。

<東海の大親分と言われた清水次郎長>
・動乱の幕末に現れた伝説の侠客がいた。東海の大親分と言われた清水次郎長(本名・山本長五郎)。1820年元日、駿河国清水町の船頭の次男として生まれた。その後まもなく米穀商を営む叔父・山本次郎八の養子となった。次郎長とは次郎八のところの長五郎を略した呼び名だった。
・1835年、養父が亡くなると次郎長は米穀商の跡を継ぎ、妻を娶り懸命に家業に打ち込んだ。
・しかしその性格は喧嘩っ早く大の博打好き。23歳のとき些細な喧嘩の末、人を殺めてしまった。
・追われる身となった次郎長は妻と別れ、生まれ育った清水の町を後にして全国を渡り歩いた。
・侠客として一家を構えたのは28歳のときだった。「刃物も切れれば頭も切れる。筋も通せば義理も固い」。そんな次郎長の人柄に惚れた男たちが集まり、僅か10人だった子分は次々と増えていった。
・その次郎長の子分たちは個性あふれるメンバーばかり。一の子分は大政。田舎相撲出身で腕っぷしが強く、一方で教養も持ち合わせた一家で最も頼りになる存在だった。
・小政は11歳のときから次郎長が預かって育てた子飼いの子分。身のこなしが軽く、殺しも厭わないニヒルなアウトロー。
・講談などでお馴染み森の石松は、喧嘩相手を斬ってしまい東海地方に逃げていた際に次郎長と出会い子分になった。
・次郎長はとても子分思いの男で、こんなことを言っていたという。「子分のためならいつでも死ねらぁ」。実際、森の石松が惨殺された際には自ら刀を取り仇をとったほどだった。

<侠客が仁義を切る理由とは>
・清水次郎長は頻繁に旅に出ていたが、その中で特に重要だったしきたりがあった。それは侠客同士で「仁義を切る」ことだった。

旅を続けるためにそれぞれの土地の親分に会って、一宿一飯の恩義をこうむり草鞋銭を得ていた。仁義はそれぞれの土地の親分からの信頼を得るために必要だった(河合氏)

・「お控えなすって」というのは「どうぞ私の紹介を聞いてください」という意味だった。自分の生まれ、どこの一家に所属しているか、一家での自分の立場、用向きを流暢に包み隠さずに言わなければならなかった。
・こうして旅先で他の親分と親交を深め、侠客のネットワークをつくった。全国の侠客の相互援助システムが、旅をする侠客の身の安全を守った。
・荒くれ者の子分たちを抱え一家を束ねていた仁義に厚い侠客・清水次郎長。49歳のときこんなエピソードが残されている。江戸幕府崩壊直後の1868年8月、旧幕府軍の軍艦である咸臨丸が暴風雨により房総沖で破船してしまった。修理のため清水港に停泊していたが、新政府の海軍に発見され激しい攻撃を受けてしまった。
・逆賊として駿河湾に無残に放置されたままの遺体をみた次郎長は、心を傷めて収容し手厚く埋葬した。これを知った新政府は次郎長を咎めたが「死者に官軍も賊軍もない」と突っぱねたという。次郎長は時の権力にも屈しない男だった。

<町火消の侠客・新門辰五郎>
・江戸時代末期の1867年10月14日、15代将軍・徳川慶喜が政権を返上した(大政奉還)。その翌年、鳥羽伏見の戦いで慶喜率いる旧幕府軍と新政府軍が激突。勢いに乗る新政府軍を前に旧幕府軍は追い詰められた。
・そして開戦から3日。身の危険を感じた慶喜は逃げるように大坂城を脱出したが、一つ心残りがあった。徳川家康以来、将軍家に代々伝わる「金扇の大馬印」を大坂城に置いてきてしまった。馬印を敵方に取られることは首を取られるのと同じ、慶喜にとってこの上ない屈辱だった。
・このとき果敢にも城中に戻り命懸けで馬印を取り戻した人物がいた。それが新門辰五郎だった。彼は侠客でありながら将軍・慶喜に寵愛され、今でいうところのSPのように慶喜を守り抜いた男だった。
・侠客と呼ばれた辰五郎だったが、本職は町火消という別の顔を持っていた。16歳のときに浅草の町火消である浅草十番組「を組」の組頭の弟子になった。粋で強くてきっぷのいい辰五郎は周囲からすぐに認められて、男の中の男と称されるようになった。
・早くから町火消の中で頭角を現していった辰五郎は、着実に地位を上げていき18歳のときに浅草寺境内の伝法院にできた新門の防火・警護役に抜擢された。

辰五郎は浅草新門の防火責任を立派に果たしていった。そんな辰五郎の男伊達に惚れた寛永寺の執当・覚王院義観が浅草寺界隈すべての取締と防火を辰五郎に依頼した。そんなことから浅草に絶対的な勢力を持つようになった(河合氏)

・25歳で「を組」の組頭になり、3000人の子分がいたという。
・1845年1月24日、青山を中心に大名屋敷115か所、旗本屋敷285か所、寺院187か所が灰と化した大火事が発生。辰五郎率いる「を組」はもちろんのこと、江戸中の火消が総動員された。そこで大喧嘩が始まってしまい、25人もの死傷者を出してしまった。辰五郎は大親分として喧嘩の全責任を負う覚悟を決め、自ら佃島監獄に入ってしまった。
・その翌年、再び辰五郎の運命を変える事件が起こった。今度は小石川で火事が発生。その猛火は瞬く間に佃島監獄にまで迫ってきた。罪人たちが我先にと避難していく中で、辰五郎はただ一人残り、火の粉を浴びながら火事を食い止めた。その姿に町奉行は「さすが火消の頭よ。これまでの罪はお咎めなしとする」。そう褒め讃えた。

<将軍や勝海舟から愛された辰五郎の魅力とは>
・江戸一の火消として3000人もの子分を持つ辰五郎は、いつからか侠客的な存在となっていた。
・その頃、徳川慶喜はまだ将軍になる前の一橋家の当主で、孝明天皇から禁裏御守衛総督(京都御所の護衛)に任じられたが、このとき一橋家は深刻な家臣不足に悩まされていた。
・そこで慶喜の側近・黒川嘉兵衛が浅草での評判を聞きつけ辰五郎をお抱えの火消隊として一緒に上洛させてはどうかと進言、慶喜もそれを承諾した。
・このとき辰五郎は65歳、200人の子分を引き連れて上洛。慶喜の身辺警護だけでなく二条城の防火・警備も任された。
・厚い信頼を得た辰五郎は、慶喜が鳥羽伏見の戦いで大坂城から江戸に逃れる際には脱出の手助けをしたとされ、またその後、慶喜が蟄居・謹慎した際にも上野・寛永寺などでの警護を担当した。
・そんな中で辰五郎は、幕臣だった勝海舟とも親交を持ったという。海舟は自らの回想録の中でこう述べている。

新門の辰は
ずいぶん物のわかった男で
金や権威にびくともせず
ただ侠客ならではの
人情や意気で交際していた


・辰五郎の人柄に江戸っ子たちはもちろん、将軍までもが心底惚れたのだ。

・江戸城無血開城、その後も辰五郎は慶喜とともに水戸から静岡へも同行した。しかし1871年、72歳になった辰五郎は火消も侠客も引退し、浅草に戻り余生を静かに過ごしたという。このとき辰五郎に託され慶喜の警護を担当したのが清水次郎長だった。静岡で兄弟の盃を交わしていたという。

(2016/6/2視聴・2016/6/2記)

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【空から日本を見てみよう+】高知県須崎市~仁淀川町

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【空から日本を見てみよう+】
「高知県須崎市~仁淀川町」

(BSジャパン・2016/5/31放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

 先週に引き続いて高知県を巡る旅。毎週食べ物の感想ばかりになってしまいますが「海援鯛」「ウツボ」の海の幸は訪問したときにはぜひ賞味したいと思いました。

 私にとっては四国は未踏の地なので、何処から行こうか迷ってしまいます。高知もいいし、瀬戸内海に面したところも魅力的だし、また室戸岬や足摺岬といった「突端」にも行ってみたいし…。あとは四国八十八ヶ所霊場にも興味があります。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

<高知県須崎市周辺>
・人口:22,494人(県8位)面積:135.44平方キロメートル(県19位)(2016年3月1日現在)
・毎日17時に中学生考案の曲「すさきがすきさ」が流れる。
・横浪三里(浦ノ内湾)。湾口から湾奥までが3里(約12km)あることに由来。
・海援鯛の養殖。横浪三里にはプランクトンが多いため養殖に最適。淀んだ水が紫外線をカットし色つやの良い鯛を養殖できる。
・土佐よこなみ 心のあかりの納骨堂。元々回転レストランだった建物を改装し納骨堂に。
・スカイベイゴルフクラブ。海越え5番ホールがある。昨年OBになる確率が15.1%と日本一になった。
・鳴無神社。かつて神社前に道路がなく船でのみ神社に出入りしていた。
・浦ノ内湾を1日上下4便ずつ運行する巡航船がある。横浪半島に公共交通機関がないため通学などに利用されている。
・須崎港は海上出入貨物量(フェリーを除く)は1789万トンで四国1位。
・須崎魚市場。ウツボ(鋭い歯と大きな口を持つ、通称「海のギャング」)も水揚げされる。洗濯機でぬめりを取り、さばき方は関東のウナギと同じ(背開き)。
・須崎はミョウガの生産量が日本一。

<佐川町周辺>
・人口:13,046人(県14位)面積:100.80平方キロメートル(県25位)(2016年3月1日現在)
・坂本龍馬や中岡慎太郎らの明治維新関係資料を展示する施設がある。
・ドイツ人の地質学者エドムント・ナウマン博士(フォッサマグナの発見など日本の地質学に大きく貢献)の来町を記念したナウマンゾウの像や佐川ナウマンカルストがある。佐川町は南北5kmの間に約3億年分の地層が残っている。
・佐川地質館では県内の地形・地質に関する資料や化石などを展示。
※地質館の溝渕さんが選ぶ楽しい時間が過ごせる化石ランキング
1位:古生代シルル紀の三葉虫の尻尾の化石
2位:中生代三畳紀の二枚貝の化石
3位:中生代ジュラ紀のウミシダの化石
・司牡丹酒造の貯蔵蔵。大正時代、司牡丹酒造とその隣にあった酒蔵場が合併。お互いの酒蔵を繋げた結果90mもの長い蔵に。

<越知町周辺>
・人口:5,751人(県17位)面積:111.95平方キロメートル(県23位)(2016年3月1日現在)
・小学生のお笑いNo.1を決める「おち1グランプリ」を毎年開催。
・北川米穀店 製粉部。創業当時からの製粉機を使用。きび粉、きびわり(きびを荒砕きしたもの。米が貴重だった時代、米と一緒に炊くことで「かさ増し」に使われた)。
・横倉山にある「馬鹿だめし」という名の断崖絶壁がある。

<仁淀川町周辺>
・人口:5,455人(県19位)面積:333.00平方キロメートル(県5位)(2016年3月1日現在)
・寺村集落。斜面に建つ家の多くは玄関を2階に設けている。
・仁淀川町は昼夜の気温差が大きいことなどから、茶の生育に最適で県内一の茶の産地。斜面を利用した茶の栽培が行いやすいことから斜面集落に。
・池川茶園。茶畑プリン、ほうじ茶ソフトが食べられるカフェ。

(2016/6/2視聴・2016/6/2記)

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】よど号ハイジャック事件 明かされなかった真実

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「よど号ハイジャック事件 明かされなかった真実」

(NHK・BSプレミアム・2016/6/1放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 「よど号ハイジャック事件」、私が生まれる前に起きた事件ですが、あさま山荘事件やクアラルンプール事件など当時の学生運動の一部の突出した過激な連中が引き起こした凶悪な事件として、書物などで知っていました。今回はその裏側でどういう動きがあったのか、なかなか興味深い番組でした。

 ハイジャック犯が北朝鮮に渡るまでの緊迫したやりとり、韓国政府の思惑、そして消えたアメリカ人、おそらくこの番組で指摘された通りなのだろうと思います。またここでは取り上げられませんでしたが、北朝鮮がすんなり人質と機体を返還したのにも何らかのやり取りがあったのではないかと推察します。

 それにしても、事件から45年以上を経て北朝鮮で暮らしている犯人グループは、現在60代後半ぐらいでしょうか。「若気の至り」とはいえ犯した罪を償うこともないまま日本へも戻れない状況を本音のところでどう思っているのでしょうか。また別の事件での死刑囚でも存命中の者もいますね。その時点では本気で「革命」を志したのでしょうけど…民衆の支持や民主的なプロセスなしで本気で起こせると思っていたのか、その辺りも個人的には興味があるところです(もちろん皮肉ですが)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・1970年3月31日、日本航空351便・通称よど号。羽田を発ち福岡への飛行中に突然、赤軍派を名乗る9人の男たちに乗っ取られた。乗客122名を人質に犯人が要求したのは、北朝鮮・ピョンヤンへ向かうことだった。
・一旦、福岡で給油しピョンヤンを目指して再び離陸。ここで不可解なことが起きる。なぜかよど号が着いたのは韓国キンポ空港だった。ここから韓国政府と犯人たちのにらみ合いが始まる。人質解放を要求する韓国、断固拒否する犯人。膠着状態のまま3日間、乗客は監禁された。
・事態を打開したのは運輸政務次官の山村新治郎(36)だった。彼が身代わりになることで乗客は79時間ぶりに解放された。そして、よど号はピョンヤンに向かった。
・その2日後、パイロットたちと山村は無事、日本に帰国。彼らは一躍ヒーローとなり山村新治郎は「男やましん」ともてはやされた。
・だがこの事件には重大な謎が残されている。なぜよど号は韓国キンポ空港に降りたのか?あのとき、よど号を巡って一体何が起きていたのか?
・事件から46年経った今、関係者たちがあの日の全てを語る。

<視点1 江崎副操縦士 機内から見た着陸の真相>
・1970年3月14日、大阪万博開幕。「人類の進歩と調和」日本中が沸き立った。
・その2週間後の3月31日、数名の男が一斉に立ち上がり日本刀やピストルで機内を制圧した。
・コックピットにいたのは機長の石田真二、副操縦士の江崎悌一、機関士の相原利夫の3人。

後ろでぎゃあぎゃあ騒がしいな、おかしいなと思ったらドアがパーンと開いて、3人ぐらいドドーッと中に入ってきて「赤軍の者だ。北朝鮮のピョンヤンへ行け!」いきなり言い出した(江崎氏)

・江崎は事件経過を克明に記録していた。
・すぐに緊急事態だと地上に知らせた。

ハイジャックされたときは7700。まず東京コントロールに、その頃は横田の外国人がやってるエリアだったので、ハイジャックされたと(同上)

・江崎からの急報は管制区域の横田米軍基地に、次に羽田空港に伝えられた。日本初のハイジャック事件発生。政府、警察に衝撃が走った。
・当時、手荷物検査などなかった。この事件がきっかけでハイジャックの取り締まりが本格化する。

知ったようなことを言ってましたよ「レーダーで行け」。「じゃあ相手の下の周波数は知ってるのか?」と聞いたらピンと来ない、何のことか分からない。レーダーってここに付いているんですけど、ウェザーレーダーって言って、天気を見るためのレーダーなんです。それで細かい航法をやっていくのはできないです(同上)

・旅客機は地上からの誘導がなければ正確に飛びことができない。犯人たちはそれを知らなかった。
・午前8時55分、燃料が足らないから北朝鮮には直接飛べないと学生たちを説得して、よど号は給油のため福岡空港に着陸した。
・当時の首相・佐藤栄作は人命を第一にと人質救出を命じた。しかし福岡県警そして自衛隊も打つ手がないまま、時間だけが過ぎていった。
・燃料をわざとゆっくり入れたり、滑走路を自衛隊機で塞いだり。これには犯人のみならずパイロットもいらついた。

機長もだいぶイライラして。中の緊迫感、やつらは何かあれば鉄パイプ爆弾みたいなもので自爆して。自分たちも生きて行きたいだろうし、俺たちもお客様に危害を加えたくないんで、そこは思いは一緒なんです。ところがその思いと地上との思いが合致しないわけです。地上では「どうしても出さない」と(同上)

・このとき既にピョンヤン行きを覚悟していた江崎たちは、地上スタッフにピョンヤンまでの地図を要求した。ところが地図は中学校教科書のコピーだった。

メッセージとしては「お前らここから出さないよ」。キャプテンもこれ見てあきれかえっちゃって(同上)

・GPSなどない時代、これでは地形すら分からずピョンヤンの空港に降りることなど到底できない。

危険極まりないです。飛行場の場所も分からない、標高も分からない、周波数も分からない、もう一切分からない。それはもう行って探すしかない、目視で(同上)

(その飛び方はありうるんですか?)
ないです。旅客機でね、目的地の情報が分からないのに、お客様乗せて飛ぶなんてのは気違い沙汰ですよ。だけど、みんな爆破されて殺されるよりはチャンスありますからね。飛行場に降りれなくても、着水しても海は周りにいっぱいありますから。最後の手段としては考えてました(同上)

・着陸から4時間半、人質の一部が解放された。午後1時35分、老人や女性、子どもなど23人。この間、犯人の一人はむき身の日本刀を振りかざしながら乗客がタラップから下りるのを監視していた。

みんな刀を持って前の人が縛られてたんです。はじめ冗談やってるのかと思ってましたら「手を上に挙げろ」と言われて、みんなバンザイしたんです(解放された女性)

・残る乗客は99名。午後1時59分、よど号離陸。石田機長の独断だった。玄界灘を北上、目指すはピョンヤン。機内での様子は人質となった乗客の詳細な手記がある。

青々とした玄海上空を東寄りに北上。あのざんぎり頭が、マイクを片手、刀を片手に演説をおっぱじめる。

「我々は赤軍派である!我々はこれから国籍を捨て、肉親を捨て、国境を越えて北朝鮮のキム・イルソンのもとに赴き、そこで本格的な武闘訓練を受ける。再度海を渡って日本に再上陸し、日本における前段階的武装蜂起を指揮する決意であります!それが我々の理想とするところの世界党の結党へ、一歩推し進めることができると信じます!」(リーダーの田宮高麿)(立川政弘著「79時間ハイジャック俘虜記」)


・赤軍派とは一体何者なのか?1960年代後半、吹き荒れた学生運動の嵐。そのピークは東大安田講堂での攻防戦。学生側が敗北したことを機に多くの者が離脱し、一部はより過激化していった。その一つが武力革命を標榜する赤軍派だ。
・だが赤軍派は警察に追い詰められ、壊滅状態に陥る。もはや日本に居場所はなかった。窮余の一策が北朝鮮を目指したハイジャックだった。
・犯行前日、赤軍派リーダーの田宮は自分たちの思いをこう書き記した。

我々は“明日のジョー”である。

・また北朝鮮についてはこう述べている。

われわれはチョソン(北朝鮮)について、当時世間一般の人がもっていたと思われる「すこし不気味で怖い国」という印象ももっていた…。だから行くと決めてからも、それぞれがなんとなくふんぎりのつかない不安感をもっていた(田宮高麿著「わが思想の革命」1988年より)

・彼らは事前に北朝鮮と連絡を取ることも一切していなかった。韓国・北朝鮮情勢に詳しい国際政治学者の小此木政夫氏(慶応義塾大学名誉教授)、当時の北朝鮮はどう映っていたのか?

多分、日本人の中には北朝鮮のイメージってのはなかったと思うんですよ。在日朝鮮人を通じてのいろんなものってのはあったんですが、本国はどういう国かっていうことに関してはね、一般の日本人は殆ど何も知らなかった。イメージさえ持ってなかったと思いますよ。

これ不思議な話なんですが、韓国は当時軍事政権下の国でしたから、あまりいいイメージを持ってなかったんじゃないですか?北朝鮮はそれ以上の軍事体制の国だったんですが、そのことはあまり一般の日本人は考えなかったですね。かえって韓国の方が多少交流があったもんですから、ちょっと悪いもののように感じていたというようなことではないかと思うんですね。

当時の北朝鮮は非常に強い反米国家であったし、革命国家だったんですね。ですから日本の学生たち、特に革命を目指す学生たちの間にキューバやベトナムと連帯しようとしてましたから、何らかのシンパシーみたいなものが、何か分からないながらも共感するところはあったかもしれないですね(小此木氏)


・よど号は38度線に近づいた。北朝鮮と韓国の軍事境界線、ミサイルが配備された危険地帯である。ここを越えれば領空侵犯、北朝鮮に攻撃される怖さはなかったのか?

(迎撃されるかも?)
それは怖かったです(江崎氏)

・そのとき戦闘機が!

右に2機パンパンとついたんです。僕見える所ですよ、こうやって見て。(ヘルメットを)かぶっているから分からないけど、目線が分かるくらいの距離でついてきますから(同上)

やられる!と思う(立川政弘著「79時間ハイジャック俘虜記」)

(飛んできた戦闘機は?)
韓国です。韓国軍です(江崎氏)

・だが北朝鮮ではなく韓国の戦闘機だった。それはやがて反転して去った。江崎は無線で呼び続けていた。一刻も早くピョンヤンと交信しなければ攻撃される。使っている周波数は121.5、緊急用だった。

エマージェンシー用の緊急事態のときに使う周波数です、世界共通の。それでも通じなかった。同じようなタイミングで「ピョンヤンアプローチ134.1に変えろ」って言ってきたんで、すぐ変えたんですけどね(同上)

・ただ一人、応答してきた者がいた。その相手は周波数を134.1に変えるようにと伝えてきた。
・3時16分、なぜかよど号が着陸したのはピョンヤンではなく、韓国キンポ空港だった。
・その理由を日本政府こう発表した。

米軍からの連絡によると、よど号は北朝鮮側の対空砲火を浴び、このため南下し韓国キンポ空港に降りた。

・一方の韓国政府の公式発表には、全く違うことが記されていた。

JAL機のキンポ着陸は石田主操縦士長の自意による着陸である。

・しかし石田機長は後にどちらも否定している(4月5日)。「対空砲火はなかった」「地上の誘導に従いピョンヤンだと思って降りたら、そこはキンポ空港だった」
・明らかに食い違う。日本政府、韓国政府とそしてパイロットの証言。その謎を解くために事件の経緯をもう少し追ってみる。
・その頃、よど号機内ではキンポ空港とは知らず赤軍派の歓声が。窓の外には民族衣装を着て花束を持った女性たちや「ようこそ北朝鮮へ」と手を振る兵士の姿が見えた。
・しかし降りる直前「シェルのタンク」や「ノースウエストの機体」が見えたことで犯人たちはソウルであることに気づいた。

恐怖心が喉一杯に突き上げて来る。彼等を騙した。報復。やけっぱち。自爆。発狂。血。叫喚。逃走。軍隊。発砲。惨殺…(立川政弘著「79時間ハイジャック俘虜記」)

・このとき1000人の韓国軍兵士と警官が、よど号を包囲していた。

<視点2 韓国軍管制官 隠され続けた着陸の真相>
・誰がよど号をキンポ空港に着陸させたのか?ずっと口をつぐんできた一人の元軍人が驚くべき真相を語り始めた。
・その日「こちらはピョンヤン管制塔」と発信した人物がいた。元韓国空軍の管制官チェ・ヒソク氏。彼は30年間、この事実を隠し続けてきた。

一切しゃべってはいけないと命令されました。黙らないと死ぬというわけです(チェ・ヒソク氏)

・よど号がまだ福岡にいた午前11時。そのときソウルでは。

驚いたことに憲兵隊が私を車で迎えに来たのです。これは非常事態だと思って、大急ぎで家を出ました(同上)

・チェの勤務先は軍事用レーダー管制塔。ここから無線でパイロットに指示を与え着陸させる。この当時、ソウル上空の航空管制は事実上アメリカ軍の管理下にあった。いつもアメリカ兵が主体で、韓国兵はサポート役だった。しかし、この日だけは違った。

米軍兵士が後ろに下がっていたのです。「あなた一人で全て管制しなさい」。権限の委譲です。全て私だけに任されたのです(同上)

・任務は電話で伝えられた。

韓国中央情報局KCIAの部長でした。「福岡空港を出た飛行機をどんなことがあってもキンポに降ろせ」という命令でした(同上)

(KCIA部長本人から?)
そうです、直接(同上)

・チェは戦慄した。相手はKCIA部長キム・ケウォン。KCIAとはスパイや反政府活動を取り締まる諜報機関。その恐ろしさを軍人であるチェは知っていた。失敗すれば命はないかもしれない。

「閣下の指示だ」はっきり覚えています、閣下の指示だと(同上)

・「閣下」とは当時の大統領パク・チョンヒ。

あの時代、最高権力者の大統領の命令は憲法すら超える力がありました。「何があっても飛行機を降ろせ。そのためには北朝鮮のピョンヤンだと偽ってでも構わない。何があってもだ」これが閣下の指示だったのです(同上)

・チェに課せられた任務は、よど号をキンポ空港に降ろすこと。北朝鮮より早くよど号の無線をキャッチせねばならない。レーダー管制の範囲も通常の40マイル圏内から200マイルまで広げた。地形も気象条件も分からない中、管制を行う。それは困難極まるミッションだった。
・当時の完全な交信記録をチェは保管していた。非常用周波数121.5でピョンヤンを呼び続ける江崎。

よど号はコソンの非武装地帯を越え、ウォンサンからピョンヤンに向けて270度方向に行きました。この辺で私は無線をキャッチしたのです(同上)

・チェが江崎の無線を捕まえたとき、よど号は既に38度線を越え北朝鮮領土内に入っていた。一刻も早く交信しなければ手遅れになる。瞬時にチェは答えた。最初はソウルと名乗った。

なぜソウルか?この周波数は当然、北朝鮮も聞いている可能性があります。不審を抱かせるわけにはいきません(同上)

・チェはすぐに周波数を134.1に変えさせた。これはキンポ専用の周波数、北朝鮮に聞かれることはない。

(最初にソウル管制塔と言われたのは覚えていますか?)
ん?いや…ああ、そうですね。121.5に対する返事はそうかもしれないです。134.1に変えてからはピョンヤンと言い出したんですね(江崎氏)

まさに危険な賭けでした。こちらはソウルと言ってから数秒後に同じ声でピョンヤンだと言い直す。ハイジャック犯に気づかれたら作戦は失敗に終わってました(チェ・ヒソク氏)

私自身は一人の人がやってるなと感じてましたけどね。半信半疑ですけど(江崎氏)

・このとき江崎のそばには犯人たちが、ぴったりとついていた。だがソウルとピョンヤンが同じ声だと悟られることはなかった。
・チェにとっては、ここからが問題だった。既に北朝鮮に入ったよど号をはるか南のソウルへ連れ戻すのである。機体が南下していると犯人に気づかれたら万事休す。

私は指示を細かく出して方位200、さらに200と少しずつ南へ誘導しました。また38度線付近は高射砲が配備され危険です。危険地帯を避け黄海へと誘導したのです(チェ・ヒソク氏)

そうです、かなり微妙に海岸線を過ぎるまでは少しずつ行ってかなりの間、北朝鮮の領空を飛んでたみたいです。それから黄海側に出てクッと回して(江崎氏)

・よど号は北朝鮮を横断し黄海に出てソウルへ。かなり南下したが犯人には気づかれなかった。
・チェは最後に江崎からこんな交信があったことを覚えている。

「サンキュー」に特別に「サー」をつけて言ったのです。私は安心しました。それで彼がキンポだと気づいていると感じました(チェ・ヒソク氏)

ここでサンキューサーなんてつけちゃったら「お前も知ってるな」と思ったんじゃないかと(江崎氏)

・こうしてよど号はキンポ空港に午後3時16分に無事着陸。チェは決死のミッションをやり遂げた。「君こそハイジャッカーだ、最高だね」と米兵が称賛した。
・だがチェのミッションは歴史の闇に葬られる。韓国の公式発表は、あくまで石田機長の独自の判断。チェの任務はなかったことにされた。彼はその後、なぜかエリート軍人の地位を追われ、販売やツアーガイドなどを転々とした。そして30年間、沈黙を余儀なくされる。
・だが韓国はなぜ、こうまでしてよど号を自国に引き入れたのか?

南北間の関係っていうのは朝鮮戦争以来、最悪だったと思いますよ。例えば68年には青瓦台襲撃事件っていうのがありましてね。北朝鮮の特殊部隊が韓国の大統領官邸を襲撃しようとして失敗するというような事件ですとか、それから大韓航空機がハイジャックされて、そして韓国から北朝鮮に拉致される(小此木氏)

・実はよど号事件の4か月前、韓国の旅客機が北朝鮮工作員によってハイジャックされていた。乗客は北朝鮮に連れていかれ、そのうち11名が戻らなかった。「人質を返せ!」と大規模なデモが起きるほど、北朝鮮への憎悪は高まっていたのだ。

南北の間っていうのは、そういう意味ではゼロサムゲームですから、北がポイントを挙げることは南にとってマイナスであってですね。韓国側としてはとにかく、この飛行機を北へやりたくないんです。その事件を利用して北がどういうような宣伝活動をするか分からない。あるいは乗客たちを北に送りたくないっていう気持ちはやっぱりあったと思うんですね。特に政府の上層部であればそうだったと思うんですよ。一般の国民はあんまり関係ないかもしれませんが(同上)

・この後、3日間に及ぶ韓国政府対犯人グループの攻防が始まる。韓国の対策本部トップはチョン・レヒョク国防部長官、一貫して厳しい姿勢を取り続けた。

韓国の立場からすると、よど号は不法侵入した航空機であり乗客・乗員ともに不法侵入者であることを指摘しておきたい。

<視点3 現地対策本部 明かされなかった…謎>
・よど号を巡る緊張は一気に高まった。翌日の明け方、日本から山村新治郎運輸政務次官が到着。次いで橋本登美三郎運輸大臣。犯人と韓国政府との熾烈な交渉、その舞台裏を間近に見た日本航空スタッフは、ある奇妙な事実を明かす。

ちょっと普通じゃないなと思い、これ何か裏があるなと(島田氏)

・日本航空の島田滋敏がキンポ空港に派遣されたのは、事件発生から22時間後だった。彼は現地対策本部で韓国側と犯人側のやり取りを聞き続けることになる。

当時の韓国はね、皆、大臣クラスは日本語の教育で育ってきた人たちなんですよ。だからね、日本語は極めて堪能。でね、しかも言葉がね、軍隊用語ですよ、大体は。「これは最後通告である」とかね。「しなさい」なんて言わないです。「しろ」とかね、非常に高圧的な言葉ですよ。僕はね、それがよかったと思いますよ(同上)

(赤軍派の方は?)
1オクターブも2オクターブも高い調子で、殊によど号のやつらは高かったですね(同上)

(どんな感じですか?)
「我々は!」って言うんですよ。「アメリカの傀儡政権である朴政権は認めない!」と、こう言うんですよ。殊にね田宮だと思うんですがね、割合キンキンとした声だったですよ(同上)

・韓国側と犯人側でにらみ合いが続いていた4月2日、突然北朝鮮側の声明が発せられた。

一、航空ノ安全ハ保証スル
一、乗員ヲ速ヤカニ返還スル
一、機体ハ返還スル
(北朝鮮赤十字社)


・これによって日本の世論は雪崩を打って「よど号をピョンヤンに行かせるべきだ」という論調に変わる。日本政府は、犯人の要求をのんで北朝鮮に行かせたいと韓国政府に訴えた。
・しかし韓国側は拒絶。「北朝鮮の声明を真に受けてはいけない」「大韓航空機の人質はまだ帰っていないのだ」。交渉責任者チョン・レヒョク長官は、犯人に対して一歩も引かぬ構えを見せた。
・この頃、よど号機内はどんな様子だったのか?トイレに立ったり、席を離れることもでき、食料も配られていた。

「歯ぐきから血が出ませんか…」見習のスチュワーデスが嬉しそうに笑っていう。冗談をいえるようになったらしい(立川政弘著「79時間ハイジャック俘虜記」)

・だが既に限界が。

「北鮮はアメリカ人にはきびしいでしょうね」マクドナルドさん(中略)の吐く息が、ハァ、ハァと大きく聞こえるので、自分の息をセーブする(同上)

・韓国政府の強硬姿勢はじわじわと犯人を追い詰め始める。

彼らに韓国政府の丁という長官ですがね、国防部長官が韓国政府としては絶対に君たちが乗客を降ろさない限りは飛び立つことを許さないと。乗客はここで解決、降ろしなさいと・これは最後通告であると。で、最後に「右 厳命する!」と言いましたよ。そしたら彼らもガラッと変わってね「お願いします」とかね。もちろん変わっとったんですよ、大体気持ちの上ではね。でもそこでね、今度は哀願調に変わっていきましたよ。「何とかして下さい」とかね。彼らにしてみれば、もう取り付く島がないように、だんだんなっていったんじゃないですか(島田氏)

・あと一押し。まさにこのタイミングで山村政務次官が「自分が身代わりになるから人質全員を解放してほしい」と提案。犯人側はこれを受け入れる。身代わり新治郎のお膳立ては整った。山村新治郎、36歳。身代わりは、あくまでも自分自身で考えたことだと後に語っている。
・フジテレビアナウンサーの露木茂(当時)は現地に飛び、犯人と山村のやり取りを入手した。

先ほどの山村先生の提案については、我々は基本的に了承し、その方向をもって事態を解決したいと思っています。そのような決意をなされた山村先生に関しては、非常な感謝を持っています(声・田宮高麿)

その山村さんに対しては非常にまあ、丁寧な言葉遣いといいましょうかね。ある程度インテリジェンスを感じさせるような、そういう言葉遣いでしたね。それでびっくりしたんですけど。ただ凶悪性と、それからある種の冷静さといいましょうか、丁寧さというか。その辺りの矛盾は感じましたね、はじめ(露木氏)

・4月3日、山村は家族に形見の品を残し機体の前に現れた。午後2時27分、人質は79時間ぶりに全員が解放。山村が乗り込んだ。
・午後6時5分、よど号は赤軍派と山村政務次官と3人の乗務員を乗せ、ピョンヤンへ向かって離陸した。
・キンポで解放された99人の人質。全員を特別機に乗せ日本へ連れ帰ることが日航スタッフ・島田の任務だった。

お客さん取り扱いは日本航空の責任ですからね。降りてきて、次に乗るためにチェックしますと、本社から来たのが僕の所すっ飛んできて「マクドナルドというお客さんがいません!」と。次の飛行機に乗るための所で。それで「困りました」と。それは困りますよね(島田氏)

・一人だけ残った!?人質がタラップを降りるとき偶然撮影された白人男性、彼がマクドナルド神父であると推定される。いなくなることなどできる状況なのか?

我々一生懸命見てるわけです。日本航空スタッフはね。だからできないはずなんですよ。ところが現実にいなくなっちゃったの(同上)

(韓国が受け入れることはありうるのですか?)
まず考えられない。この飛行機自体がね、乗客も含めてね国内線ので行ってるわけですよ。降ろすとね、国際線の旅客になるわけですよ。規則上も協定上も。それが降りたから、その担当の課長は血相を変えて僕の方へ飛んできて「いなくなったから大変です」と言った。

すぐ頭にきたのがマクドナルドという名前聞いた瞬間にきたのは、前の日の例の3回ほど身代わりの申し出があった、その当人ですよね。3回目からおかしいなと思ってたんですよ(同上)


・島田だけが知る奇妙な事実がある。人質解放前日の4月2日、空港カウンターにマクドナルド神父の身代わりになりたいというアメリカ人が立て続けに3人も現れたのだ。

こんな事件でね、よく申し込んでくるなぁとは思ったんですよ。で、もちろん断った。もういっぺん3回目来たから、そこで僕は、これは別の理由だと。これ何か裏があるなぁと(同上)

・何としても神父をよど号から降ろしたい、あるいは北朝鮮には行かせられない。その理由とは何なのか?

僕はピーンときたんですよ。それがCIAという私の頭の中に浮かんだ言葉なんですよ(同上)

・謎のマクドナルド神父。今回の取材で江崎副操縦士のメモにこんな記録を見つけた。

客の神父さんと交信を求められるが拒否

・韓国側が神父との交信を要求したが、犯人に拒否されたというものだ。なぜ神父一人にこれほど多くの人間が動いたのか。
・そして、ソウルで消えた後の行方も謎のままだ。

アメリカ人の乗客も一緒にピョンヤンに行くってことはですね、アメリカとしては耐え難いことだったと思いますね。それはプエブロ号の事件というものがあって、拿捕された後それが交渉の材料としてアメリカとの間で使われたわけですね(小此木氏)

・よど号事件の2年前、朝鮮半島で情報収集をしていたアメリカの軍艦プエブロ号が北朝鮮に拿捕され、88人のアメリカ兵が拘束された。情勢は一気に緊迫、結局アメリカは人質解放と引き換えにスパイ活動を謝罪するという屈辱的な条件をのむことになる。
・そんな中、よど号とともにアメリカ人が北朝鮮に連れていかれたら、さらに特殊任務を帯びた人物だったならば…。

それがいかに対米関係で利用されたか。もしその神父さんが特別の何か仕事に従事していたとすればね、余計そうだったと思うんですね(同上)

・キンポ空港によど号を着陸させた管制官チェは語る。

私がいたのはアメリカ第5空軍の施設です。それまで私が一人でマイクを預かるなんて一度もなかった。アメリカ軍が特別に権限を委譲することなど、ありえないことなんです(チェ・ヒソク氏)

・よど号誘導に成功したとき、アメリカ兵はこう言ったという。

もしこれがアメリカの民間機だったら、君はホワイトハウスに呼ばれていたよ。

・島田もまた、この事実を本に記すまでの30年間、封印してきた。

迂闊に触ったらね、何が起きるか分からんから。だから知らんふりするのが一番だった(島田氏)

・4月3日午後8時20分、マクドナルド神父を除く98名の乗客は無事日本に戻った。
・4月5日、再びよど号が羽田に帰ってきた。北朝鮮での長期勾留が心配されていた山村政務次官と江崎ら乗務員が帰還したのだ。
・こうして日本中を震撼させた「よど号ハイジャック事件」は終わった。国と国との思惑が錯綜する中で事件はひとまず収束した。
・その後、犯人たちはどうなったのか。リーダーの田宮高麿を含む3名は北朝鮮で死亡。柴田泰弘、田中義三は日本に帰国し刑に服したが死亡。小西隆裕、若林盛亮、魚本(安部)公博、赤木志郎の4人は現在も北朝鮮にいる。
・今回、メンバーを名乗る者からメールが来た。

(ハイジャックしたときの武器は何だったのか?)
刀は演劇用の刀でまったく使えない(赤木)

ピストルは玩具店、爆弾は朝鮮側の検査によれば不発だった(小西)

(人質については?)
当時、乗客の精神的、肉体的苦痛については全く考えませんでした。ここに自分中心で独りよがりだった私自身の未熟さが表れていたと思います(小西)

当時は人民のための革命活動なのだから、真に人民であれば、そういう事は受け入れてくれるとさえ考えていた。そういう自己中心思想であった(魚本・旧姓安部)

・よど号ハイジャック事件とは何だったのか?

学生の思いとしてはね、革命ということだったんだと思いますが、いかにも世界を知らなかったと思うんですね。だってその後まもなくキッシンジャーが中国へ行ってですね、そして南北間でも72年ですから2年後には南北共同声明が出て、南北対話が始まるわけですから、時代がもう変わりつつある節目のところまで来ていた。そういう時期にこの事件が起きたんですよね。結局、話題性のある事件ではあったけれども殆ど歴史的には意味がなかったし、ですから非常に滑稽な結果に終わってしまったということなんじゃないでしょうか(小此木氏)

(2016/6/3視聴・2016/6/3記)

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【歴史秘話ヒストリア】熊本城 400年の愛

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【歴史秘話ヒストリア】
「熊本城 400年の愛」

(NHK総合・2016/6/3放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

 熊本地震から1か月半。まだ避難生活を送られている方も多くいて、そうした方々にとっては「城どころではない」という気持ちもあるでしょう。でも、あえてNHKで熊本城を取り上げたことについては、私は素直に評価したいと思います。

 東日本大震災のときもそうだったのですが、どうしても被災地に対する“自粛ムード”というのが起こってしまいます。もちろん発生直後の時期はライフラインの復旧や被災者の生活再建が再優先となるのが当然です。

 しかし一定の期間を経てきてからは復興支援も次のステージに進んでいくのだと思います。それは平時でも観光で支えられてきた面を盛り上げていくという点です。具体的にいえば熊本へ観光で訪れることなどてお金を落として支援していくということです。

 熊本城の再建への動きは今後具体的になっていくでしょう。昔は5千万円をポンと寄付する人がいたようですが、今の時代はこうしたことよりも例えばクラウドファウンディングのような形で不特定多数の人たちから資金調達する手法もあります。ぜひ被災者の方々の復興とともに熊本城も復興してほしいと願っていますし、私も何らかの形で協力できればと思っています。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・熊本を襲った大地震。熊本城では塀や建物が倒れ、石垣が崩れ落ちるなど大きな被害を受けた。修復には数十年かかるとも言われているが、地元では「熊本城を復興のシンボルに」という声が高まっている。
・熊本城400年の歴史を辿ると、これまでも幾多の危機に見舞われてきた。度重なる地震、砲弾が飛び交った戦争、天守をはじめ多くの櫓が焼け落ちた火災。
・しかし「城は熊本の宝」と、江戸時代の殿様はもちろん明治・大正・昭和とピンチに陥るたびに復活を成し遂げていった。そこには、城を愛し守ろうと奮闘した地元の人々の姿があった。
・築城から400年、人々に愛され続けてきた熊本城の知られざる物語。

<これが熊本城のスゴさ>
・熊本市の中心にそびえる熊本城は、町の至る所から見える熊本のシンボル。去年は160万人が訪れた熊本有数の観光スポット。人気旅行サイトの「行ってよかった!日本の城ランキング」でも3年連続で1位に輝いている。
・でも、そもそも熊本城とは一体どのような城なのか。4年前に取材した映像を交えて紹介する。
・戦国時代の武将・加藤清正。槍一本で虎を退治したというエピソードが残る勇猛な武将だが、城づくりの名人としても知られている。熊本城はそんな清正が人生の全てを懸けてつくり上げた集大成の城だ。
・加藤清正は幼い頃から豊臣秀吉に仕え、秀吉を父のように慕っていた。
・しかし1593年、秀吉が亡くなると清正を取り巻く状況は一変した。天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣家を脅かし始めた。
・その頃、清正が築いていたのが自分の領地の城・熊本城だった。記録によれば、清正はもし大坂城が落ちることがあれば秀吉の息子・秀頼を熊本城に迎え入れ、城を拠り所に戦う覚悟だったという。
・こうして造られた熊本城、清正の固い決意を至る所で感じることができる。

【石垣が末広がり】
・熊本城を訪ねると、まず目に飛び込んでくるのが石垣。城のシンボル天守を守るように、幾重にも重なってそびえ立っている。
・熊本城の石垣は低いものでも高さ10m、高いものは20m以上にもなる。他の城に比べても高く迫力があるが、注目すべきはその形。

石垣の裾はゆるやかで垂直に立ち上がっていく曲線の石垣だったことに大きな特徴があって、これを「扇の勾配」と呼んでいる(奈良大学教授・城郭考古学の千田嘉博さん)

・実はこの独特の形こそが戦いの際に威力を発揮するのだ。城を攻める兵が登ろうとすると、次第に傾斜がきつくなり登れなくなってしまう。別名「武者返しの石垣」と呼ばれている。
・また梯子を掛けて石垣を登ろうとすると、末広がりになっているため高い所まで届かない。
・さらに石垣が迷路のように曲がりくねっていて、なかなか先に進めないようになっている。城の中にはこのように石垣が幾重にも張り巡らされている。

【天守がたくさん!?】
・城の中心にあるのが熊本城の大天守。昭和35年に再建されたもので中は鉄筋コンクリート製だが、外観はかつての堂々たる姿を再現したものだ。
・驚くのはその大きさで高さ30m。大天守のすぐ横にはもう一つ小天守がある。
・それだけではない。江戸時代の絵図を見てみると、大天守と小天守の周りにさらに沢山の櫓が描かれている。その数は約60あり、中でもひときわ大きな宇土櫓は400年に城が造られた当時から残る建物。国の重要文化財に指定されている。高さは19mと彦根城や松山城の天守とほぼ同じ高さで、他の城なら天守として通用するほど。そのため、大天守・小天守に次ぐ第3の天守と呼ばれている。
・宇土櫓は、今回の地震で壁の一部が崩れたが建物の倒壊は免れた。
・そんな熊本城、完成当時の姿を再現してみると広さは東京ドーム21個分と日本有数の大きな城。高い石垣が何重にも張り巡らされ、その上には大小2つの天守と60もの櫓がにらみを利かせる。熊本城は攻め入る隙のない鉄壁の要塞だった。

石垣や櫓の存在感、スケール感が大きい(同上)

・加藤清正が知恵の限りを尽くして築いた熊本城。結局、決戦の舞台になることはなかった。戦国の世を生き残った城は400年の時を超え、今にその姿を伝えている。

<熊本城を守りたい>
・歴史を振り返ると、これまでも幾度となく大きな危機に見舞われて、その度に復興を遂げてきた熊本城。原動力となったのは、地元の人々の城を愛する心だった。
・江戸時代の初め、熊本城が造られて20年ほど後のこと。突如、大地震が熊本を襲った。当時の記録には、その様子が詳細に記されている。

揺れが一日中続き 天守や城の建物が崩れ 瓦が落ち 骨組みの柱だけが残った 火薬庫の火薬がすれて爆発 爆発で石垣や瓦が城の外にまで飛び散った(「丁巳雑録」より)

・この地震により熊本城は壊滅的な被害を受けた。
・その7年後の1632年、熊本城に新しい殿様(細川忠利)がやって来た。

これほど大きな城は江戸城のほかに見たことがない(「綿考輯録」より)

・忠利は初めて見る熊本城にいたく感動した。
・ところが、いざ城に入ってみると建物はあちこち傷み、天井からは雨漏り。石垣もところどころ崩れたまま放置されていた。
・忠利は早速、城の修理を命じた。このとき忠利が作った修理計画の図面が残されている。石垣の修理が27か所、櫓の建て替えや増築が28か所、その他にも門や塀の工事まで含めると80か所以上にわたる大工事。藩の財政にそれほど余裕はなかったが、何とかやりくりして資金を捻出することにした。
・ところが予想外の事態が起こった。突如、幕府から江戸城の拡張工事を熊本藩の負担で行うという命令が下された。将軍の命令は絶対で断ることはできない。巨額の資金が必要な江戸城の大規模工事、もはや熊本城の修理は諦めなければならない状況だった。
・しかし忠利は違った。彼は江戸城の工事と並行して熊本城の修理も行うことにした。いざというときに蓄えてきた藩の貯金を取り崩し、それでも足りない分は商人や他の大名たちからの借金で補った。工事は10年以上にわたって行われ、熊本城は次第に本来の威厳ある姿を取り戻していった。
・その後も熊本城を取り巻く状況は平穏ではなかった。

江戸時代、熊本では地震が頻発。細川家が藩主になり記録に残っているだけでも、大地震レベルで8回記録されている。1854年(安政元年)の地震では熊本城下が壊滅的な被害を受けている(熊本大学名誉教授・日本近世史の吉村豊雄さん)

・大きな地震が起こるたびに傷ついた熊本城。それでも「城は国の宝である」という思いは、代々の殿様たちに受け継がれていった。その証が今も残っている。石垣に刻まれている「元禄十七年」(江戸中頃)、「文政五年」(江戸後期)。その時代にその場所で修理が行われたことを示す証拠だ。
・巨大な城は維持するだけでお金も手間もかかる。時は既に泰平の世、戦いのための城はもはや必要とされない時代。それでも熊本城の修理は、江戸時代を通じて決して絶えることなく続けれていた。

この素晴らしい城を何としても伝えていこうと、城そのものへの愛があったと思う(前出の千田さん)

・見上げれば、いつもそこには美しい城の姿。熊本の人々にとって当たり前の風景は、城への愛と努力のたまものだった。

<全国各地で始まった熊本城を支援しようという動き>
・熊本城の被害が報じられると、いち早く動いたのが全国各地の城だった。滋賀県の彦根城では、ゆるキャラ「ひこにゃん」が熊本城修復への募金を呼びかけ、姫路城でも熊本城を支援する募金活動が行われた。
・さらに改修を終え5月にリニューアルオープンした小田原城は、公開初日の入館料全額を熊本城に寄付することにしている。支援の輪は全国に広がっている。
・こうした人々の善意によって城を復興しようという動きは、実は今回が初めてではない。熊本城を襲った最大の危機、そしてそこから立ち上がろうとした人々の物語。

<あの天守をもう一度>
・加藤清正が築き、その後一度も戦いの舞台となることはなかった熊本城。その真価が試されるときがやって来た。1877年、鹿児島の西郷隆盛が時の明治政府に反乱を起こした西南戦争。反乱軍と熊本城に立て籠る政府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。高い石垣に囲まれた要塞は敵を寄せつけなかった。52日間に及ぶ戦いの間、反乱軍を一兵たりとも城内に入れることはなかった。戦いは政府軍の勝利に終わった。
・西郷隆盛はこう語ったと伝えられている。

わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。

・加藤清正が築いた戦国の城は、明治の近代戦でも圧倒的な強さを発揮した。
・しかしこのとき、思わぬ不幸が熊本城を襲った。混乱の中で原因不明の火災が発生し、天守など多くの建物が焼け落ちてしまった。
・その後、追い打ちをかけるように大きな地震も起こった。1889年の熊本地震(金峰山地震)、マグニチュードは6.3と推定されている。石垣とともに櫓が崩壊、かつて熊本城に60あったという櫓は明治の終わりには4分の1にまで減ってしまった。
・その後、殆ど修理されることもなく荒れるまま放置された。大正の終わり頃に撮影された宇土櫓の写真。第3の天守と言われ威容を誇った櫓は屋根瓦がボロボロに傷み、ところどころ崩れ落ちてしまっていた。
・そんな中、大きな転機となる出来事が起こった。見かねた地元の財界や教育界の人々が資金を出し合い、宇土櫓を修理することになった。櫓は一旦全て解体、傷んだ柱を取り替えて組み立て直した。屋根瓦もその殆どが新たにふき直された。
・半年後、修理を終えた宇土櫓は市民に一般公開された。このことが思わぬ形で、その後の熊本城の運命を変えることになった。生まれ変わった宇土櫓を一目見ようと訪れた多くの市民が櫓に上った。そこで人々が目にした光景は、天守を失ったまま放置された巨大な石垣の土台だった。
・熊本城の歴史を研究する富田紘一さん(熊本城顕彰会理事)は、これが市民の心に火をつけるきっかけになったと言う。

立派な宇土櫓だけど、もっと立派なものがあった。横にある土台の上に天守閣がほしい。城を見ながら何とかできないかと多くの人が感じていた(富田さん)

・「いつの日か必ず天守を再建したい」そんな思いが人々の間で湧き上がっていった。その夢が現実のものとなったのが、太平洋戦争が終わって暫く経ってからのことだった。
・昭和30年代に入ると、戦災からの復興のシンボルとして各地で天守の再建が進められた。昭和31年(1956年)には岐阜城の天守、2年後には和歌山城と広島城、その翌年には名古屋城が再建された。そんな中、熊本市も熊本城天守の再建を決定した。
・とはいえ、その実現には建設費用の問題という大きな壁があった。巨大な天守の再建には、当時で2億円もの資金が必要とされた。市はその殆どを借金で賄おうとした。
・巨額の借金をしてまで本当に天守の再建をすべきなのかという批判の声があがり、計画の実現は危ぶまれる事態になった。
・そのとき一人の男性が市役所に現れた。

「さあ受け取ってください」

・天守再建の資金にと5千万円もの寄付を申し出たのは、市内で金融業を営む松崎吉次郎さん(当時71)。熊本に生まれ、城を身近に感じながら育った。熊本城の天守は古い写真でしか見ることのできない憧れの存在だった。
・やがて社会人となり金融業を始めた松崎さんは自分の手で城を復元したいという夢を持っていた。そして今こそ自分の夢を実現する時だと、株で儲けた財産の殆どを天守再建の資金として寄付したのだ。

天下の名城熊本城の天守閣をもう一度お城の緑の中に見ることができれば、これはわたし一人ではなく多くの人の喜びだと思う。

・松崎さんの寄付が新聞で報じられると、再建への動きは一気に加速した。街頭では募金活動が始まった。天守の屋根に使われる瓦に自分の名前を記し募金を行う「瓦募金」。再建に一役買いたいと多くの市民が参加した。
・昭和34年(1959年)4月、再建工事が始まった。起工式を映した映像の中には、式典の様子をじっと見守る松崎さんの姿もあった。
・再建される天守は費用や工期の制約から鉄筋コンクリート製。それでも外観だけは、かつての姿を蘇らせようと参考にされたのが明治初期に撮影さえた古い写真。壁や窓の形はもちろん、屋根瓦の数や並べ方までが忠実に再現された。
・着工から1年半後の昭和35年(1960年)9月、遂に人々が長い間待ち望んだ熊本城天守が、83年ぶりに姿を現した。落成式には、城の完成を喜ぶ1000人の市民が押し寄せた。

「雄大豪壮の姿 まことにすばらしい」「その雄姿は熊本の誇る財産となります」(市民の声・熊本日日新聞より)

・そして5千万円を寄付した松崎さんは…。

「思いのほかよくできていると思います。どこの城に比べてもそん色ない」

・城のシンボル・天守を失うという熊本城最大の危機は、こうして多くの市民たちの力によって乗り越えられた。

<美しい姿が再び蘇る日を夢みて人々は立ち上がろうとしている>
・かつては60もの櫓が建ち並び、壮大な規模を誇った熊本城。その在りし日の姿を復元しようという動きは、その後も続いていった。
・天守の再建後には平御櫓(1961年)、馬具櫓(1966年)が再建。平成に入ってからも南大手門(2002年)、飯田丸五階櫓(2005年)など、かつて失われた建物が毎年のように復元されていった。
・その集大成が2008年の本丸御殿の再建。熊本城を築いた加藤清正が執務を行った建物で生活の場でもあった。御殿の一番奥にある、ひときわ贅を尽くした「昭君の間」。金箔を施した絢爛豪華なこの部屋に、清正は秀頼を匿おうとしたと言われている。
・今回の地震で熊本城は再建された天守や本丸御殿も被害を受けた。本格的な被害調査はこれからだが、復興には数十年かかるとも言われている。
・地震から約1か月半、熊本ではまだ多くの人が避難生活を送っている。人々にとって今はまだ身の回りの復興に追われる日々。しかしそんな中でも、市民の間では少しずつ熊本城復興への思いが芽生え始めている。

いちばん初めにデートしたのも熊本城。みんなまだ心のゆとりがないから、また熊本城を見て元気をもらって頑張っていけたらなと(市民の女性)

もとに復元してほしいです。自分の体でできることなら手伝いたい。清正公さんに負けないよう運動していたところです(市民の男性)

・これまでも幾多の苦難を乗り越えてきた熊本城、その美しい姿が再び蘇る日を夢みて、熊本の人々は立ち上がろうとしている。

(2016/6/4視聴・2016/6/4記)

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【ドキュメント72時間】ゆきゆきて 酷道439

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【ドキュメント72時間】
「ゆきゆきて 酷道439」

(NHK総合・2016/6/3放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 国道といえば舗装された広い道幅にガードレールも整備されたものをイメージしがちですが、今回の「72時間」で取り上げられた「酷道」とも呼ばれるような道も全国各地に存在します。

階段国道

階段国道

 ちなみに車が通れない「国道」として津軽半島の突端の龍飛崎にある国道339号は「階段」で、冬季は写真の通り閉鎖されてしまいます(2013年12月訪問時の写真)。

 それ以外でも未舗装のところや事実上の廃道となっている国道もあるということです。それに比べれば今回の国道439号を映像で観る限りでは、それほど酷な道にはみえなかったですね。

林道の落石

 ちなみに私の地元から小一時間ぐらい車を飛ばすと、国道ではありませんがこんな林道があるもので…こちらは台風直後に様子を観に行ったときの写真。さすがに身の危険を感じて引き返しましたが(苦笑)

 さて本題の番組の感想です。また個性的な人を探してきたような感じでしたね。人形をひたすら作っている女性やマムシ狩りの男性とか、ワケありで引っ越してきたご夫婦など…。薪で沸かしたお風呂に入る男性が平凡に思えるほどでした。

 そんな人たちの中で一番ほっこりしたのが、フィリピンから田舎の集落に嫁いできたという食堂で働く26歳の女性。来た当初はホームシックになったようですが「住めば都」を地で行く姿とともに、四国の訛りの流暢な日本語で話すのが印象に残りました。

(追記)来週の「ドキュメント72時間」は5月26日に亡くなった井の頭自然文化園のアジアゾウ「はな子」のアンコール放送。(→「真冬の東京 その名は“はな子”」

あらためて感想をもう一度書きたいと思っていますが、間違いなく泣きます。


<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・昼間なのに薄暗く険しい道。ガードレールにはカーブを曲がりきれなかった車の跡。国道とは思えないひどい道。人はそれを「酷道」と呼ぶ。
・今回の舞台は、中でも知名度ナンバーワン。四国の国道439号、通称ヨサク。
・どこまでも続く山道の先に広がるのは…。
・日本最後の“秘境”とも称される「酷道439」。深い山の中で人々は一体どんな暮らしを送っているのか。
・失われゆく日本の原風景を走り抜ける3日間。

・4月26日(火)9時。439のスタート地点・徳島市の中心部で撮影を開始。四国を東西に貫く439。西に向かって340kmを走破する。
・走り出して1時間、道が突然細くなった。カーブが多く、すれ違うのもやっと。
・あちこちに落石の跡も。
・スタートして4時間、ようやく開けた場所に到着。山頂へ続くリフト乗り場らしい。
・密かな人気を誇る国道439号、各地からファンが押し寄せていた。
・14時20分。道は更に奥深い山の中へ。山あいに家が建っている。人がいると思ったら…人形?しかも凄い数。
・13年前から一人で人形を作り続けているという66歳の女性。一体一体の人形は亡くなった集落の住民たちだという。集落の人口は減り続け、今では30人。人より多い人形が評判となり、最近は439を通って見物に来る人もいるんだとか。
・その後も、意外な出会いが――。マムシの焼いたものを冷凍している男性。暖かくなる5月はマムシ猟に絶好のシーズン。
・夜になると野生動物たちが沢山。439の里は奇想天外、摩訶不思議。

・4月27日(水)7時。車は439最難関のエリアに入った。道は車の幅ギリギリ、ガードレールもない。慎重に慎重に車を進めていく。
・なんとか徳島と高知の県境に到着。峠からは幻想的な風景が広がっていた。
・そんな景色をぼんやり眺める大工の64歳男性。実家は林業を営んでいたけど、50年前に集落を出て大阪に引っ越したという。もう家には誰も住んでいないけど時々帰ってきて、ぼんやり数日過ごすという。立ちこめる木の香りに包まれると、どこかホッとするんだって。
・生活道路だった439が国道になったのは昭和57年。便利になった一方、439を通り都市へ移り住む人が急増したという。
・道沿いに突然現れた“動物園”。かつて大勢の子どもで賑わっていた集落、近所で保護した生き物を集め家族で小さな動物園を作ったという。集落から人が去り、クジャクとガチョウだけが残った。
・13時。ずっと続いていた1車線の道が急に広くなった。四国を南北に貫く道路と交差し、439の中で最も賑やかな区間。
・道の駅 土佐さめうらに停車。食堂で道中初めての若い女性と遭遇。フィリピンから来たという店員の26歳女性。6年前に結婚し来日、先に嫁いでいたフィリピンのおばさんから紹介してもらったという。
・フィリピンから嫁に来た人は結構いると別の女性が。彼女たちの笑顔は集落を随分明るくしているんだろうな。
・日が落ちて走るのが困難になってきたので、この日の撮影はここまで。

・4月28日(木)8時。夜が明けると目の前には美しい景色が広がっていた。
・カメラマンが何かを発見したようだ。山肌にぽつんと人影が。山菜を採りに来ていたらしい。籠を置いて土地の持ち主のところへお礼に行く女性。車に戻ると旦那さんが待っていた。以前は都会で働いていたというご夫婦、訳あって7年前引っ越してきたらしい。元建設作業員の62歳女性、勤め先が倒産して夫の実家へ。でも高齢のため仕事が見つからず、山菜を採ったりして食費を浮かせているという。夫は68歳。いろいろ言いながらも連れ添ってもう数十年。これからも2人一緒に生きていく。
・17時20分。一軒の家からもくもくと煙が。山から集めてきた薪でお風呂を沸かしていたらしい。数年前まで営林署で働いていた72歳男性。定年後は悠々自適の生活をしているという。娘さんもいるけど既に嫁ぎ、夫婦2人暮らし。思い悩んだ日々もあったけど、年を取った今は毎日楽しいことだけに心が向くという。今夜孫が来るらしい。久しぶりの再会を楽しみに風呂でゆっくり体を温める。こんな幸せもあるのかな。

・4月29日(金)5時。撮影最終日、439は残り30km。田んぼの脇を女性が歩いていた。10代の頃、近くの集落から嫁いできたという85歳女性。子育てが終わった今も夫と毎日田んぼに出るという。帰り際、スタッフが呼び止められて飲料の差し入れが。
・439の終着点・四万十市に到着。3日間で出会った人は73人、平均年齢67.9歳。
・集落の多くは数十年で消滅するとも言われている。

(2016/6/5視聴・2016/6/5記)

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【ブラタモリ】#40 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~

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【ブラタモリ】

「#40 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~」

(NHK総合・2016/6/4放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>

 式年遷宮がなぜ20年に一度行われるのか、なるほどよく分かる内容でした。もちろん神事であるわけですが、技術の継承という点もあるのではないでしょうか。20年というのがちょうど微妙にいいサイクルですね。現在であれば2回(または3回)は新しいものが観られますね。

 しかし江戸時代の庶民にとっては交通機関が発達していたわけではないので「一生に一度」ものだったわけです。それこそ有り難みは現在の比ではないのでしょうね。

 そんな伊勢参り、実は私はまだ行ったことがありません。年齢的に還暦前に次の式年遷宮を迎える計算なので、来週のブラタモリもしっかり観てから行く計画を立てたいなと思いました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・太陽の神ともいわれる「天照大神」をまつる伊勢神宮内宮がスタート地点。
・旅のお題は「人はなぜ伊勢を目指す?」
・案内人は伊勢神宮権禰宜の石垣仁久さん。神職を務めながら伊勢神宮の歴史を30年研究している。
・伊勢神宮は古くから沢山の日本人が太陽や大地の豊かな恵みへの感謝を捧げてきた。特に江戸時代には「一生に一度はお伊勢参り」と言われ、今でも年間800万人もの参拝者が訪れている。
・五十鈴川に架けられている宇治橋。20年に一度架け替えるが、20年間で1億人が渡るという。そのため厚さが最初20cmが平均12cmまで減るという。
・一行は境内を流れる川のほとりへ。清流・五十鈴川、伊勢を流れる神聖な川とされ、参拝の前に立ち寄り手を清めるのが古くからの習わし。
・五十鈴川の河岸段丘の上に本殿にあたる正殿が建っている。古くから川が氾濫し、低湿地が広がっていた伊勢。内宮の正殿は水害に遭いにくく地盤のしっかりした河岸段丘の上を選んだ。

・「式年遷宮」は持統天皇の頃(7世紀)より行われる20年に1度の伊勢神宮最大の神事。隣合わせの敷地に姿形をそのままに建物をつくり替え御神体をうつす。室町時代の一時期を除いて1300年にわたって繰り返されてきた。
・タモリが以前参拝した場所は現在どうなっているのか、特別に許可を得て行ってみると、御殿は解体されている。
・天照大神がまつられる正殿は、古くから独特の建築様式で建てられてきた。地面に掘った穴に直接立てた柱。高床式で木材は全て檜、屋根は萱ぶき。神明造と呼ばれている。

※神明造:檜造り、堀立柱、萱ぶき屋根、鰹木や千木が特徴。弥生時代に穀物を蓄えた高床式倉庫がモデルといわれる。

・実は建物のつくりをよくみると20年ごとに建て替える理由があるという。正殿には近づくことはできないため、つくりが間近で見られる御稲御倉(神明造)へ向かう一行。
・社には全部で12本の柱がある。柱と屋根の間に隙間があって屋根を支えていない。
・神明造は屋根の重みを壁板が支えるつくりになっている。壁板同士は屋根の重みでしっかりくっついている。年が経つと壁板は屋根の重さで縮んだり風化で痩せ、柱と屋根の隙間は狭くなっていく。さらに隙間がなくなり柱が屋根を直接支えるようになると、壁板は屋根の重みを受けなくなる。その結果、壁板の間に隙間ができて湿気や害虫の侵入を許してしまう。
・柱と屋根の隙間がなくなるのが約20年。というわけで式年遷宮が20年に一度行われる理由の一つと考えられる。

・式年遷宮に必要な材木の運搬には五十鈴川が使われてきた。今も伊勢に暮らす人たちの手で運ばれている。

※御木曳:式年遷宮で使う御用材をひき入れる行事。550年以上続くといわれている。

・水害に遭いにくい地形の上に水運を利用して木材を運び、いにしえの建築の技を守り続ける。伊勢神宮はこの土地と調和しながら続いてきた。

・タモリが以前参拝した正殿の木材が鳥居に使われている。8万パーツある部材の中で最も大きな棟持柱(長さ約12m)。
・3年前の式年遷宮では1420万人が訪れた伊勢神宮。20年ごとに新しい姿を見せる社に、人が伊勢を目指す理由が隠されていることが分かった。

・内宮の入口に戻って来た一行。2人目の案内人は江戸時代の伊勢を研究している中京大学文学部学芸員の千枝大志さん。
・伊勢神宮は内宮とともに、衣食住の神様・豊受大神をまつる外宮も有名。それぞれに門前町があり内宮の門前町を「宇治」、外宮の門前町を「山田」と呼ぶ。
・一行は大きい方の門前町・山田へ向かう。江戸時代の地図をみると御師の名前がいくつも書かれている。御師がいたからこそ多くの人が伊勢を目指すようになった。外宮には最盛期には611軒もの御師の家があった。

※伊勢御師:全国を回りながら伊勢信仰を広めたり参拝者の宿泊・観光などの世話をした神職。

・一行は門前町・山田の近くを流れる宮川へ。江戸時代の参拝ルートをたどりながら、人がなぜ伊勢を目指したのか探る。
・当時の浮世絵をみると同じ衣装を着ている人たちがいる。これは「伊勢講」と呼ばれるグループの人たち。伊勢参拝を目的として集まりお金を出し合い、代わる代わる伊勢を目指した。
・式年遷宮後に参拝すると恩恵があるといわれ、江戸時代60年に一度起きたのが「おかげ参り」。3~4か月で500万人が川を渡ったと言われている。
・船で渡った先にあるのが中川原という町。お伊勢参りにとって大事な場所だった。ここで参拝者を出迎えたのが御師の部下。ここから御師によるお伊勢参りのおもてなしが始まる。
・一行は絵図をみながら江戸時代のメイン通り(参宮街道)を進む。
・大阪や長野を中心に8000軒のお得意さんがいた御師・丸岡宗大夫。600以上あった外宮の御師の家の中で唯一建物が残っている。
・18代目の案内で家の中へ入る一行。大きなまな板や待ち合わせ場所に持っていった案内板も残されている。
・さらにお札の版木も。御師はお札を全国に配って回り伊勢信仰を広めた。
・お札と一緒に渡していたのは伊勢名物のメカブを乾燥させたもの(きざみめみみ)。お湯ですすいだあと箸でかき混ぜるという食べ方も書いてある。
・御師はお札だけでなく、地元の特産品を伊勢土産として渡していた。さらにカレンダーの元祖と言われる伊勢暦、種まきや収穫の時期などが書かれていて大人気だった。
・御師が全国をくまなく回ったことで伊勢信仰は広まり、伊勢を目指す人たちはどんどん増えていった。

(2016/6/6視聴・2016/6/6記)

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【明日へ―つなげよう―】証言記録 東日本大震災 ピアノよ 被災地へ届け

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【明日へ―つなげよう―】
「証言記録 東日本大震災 ピアノよ 被災地へ届け」

(NHK総合・2016/6/5放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 全国から寄贈されたピアノを被災地の学校や公民館、家庭へと贈る活動。こうした善意の輪が広がっていたことを初めて知りました。とても有意義だし、それによって心の安寧を取り戻した女性や、若い学生さんが音大進学の夢を叶えたというエピソードには、思わずぐっとくるものがありました。

 ピアノといえば私も幼少期の頃、少しだけやっていました。ちゃんと続けていればよかったのになと惜しい気持ちになりました。さすがに今から習うつもりはありませんが…キーボードを入力するのとは違った指の使い方で楽しむことができたのにと思いましたね。

 あのとき家にあったピアノどうしたんだろう。今度親に聞いてみようかな。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・宮城県石巻市の保育園に心待ちにしていたピアノが届いた。初めて鍵盤に触れる子どもたち、ピアノは被災者を支援する団体から贈られた。
・あの日、震災によって多くのピアノが津波に流され壊れた。長年親しんだピアノを失い、心の痛手を負った人々がいる。
・かけがえのないピアノをなくした心の空白を取り戻す取り組みがある。全国の家庭で使われてきたピアノを寄贈してもらい、被災者へ無償で提供する活動。これまでに約500台のピアノが被災地の学校や公民館、そして家庭へと届けられた。運営しているのは「被災地へピアノをとどける会」。震災後すぐに東北の音楽関係者たちが立ち上げた。
・津波の恐怖から陥った心の病をピアノが届いて癒した人がいる。
・震災でピアノが壊れ、諦めかけていた音楽の道を再び歩み始めた若者もいる。
・ピアノはどのように傷ついた被災者たちの心を癒やし、音楽のある日常を取り戻していったのか。ピアノを通した心の復興を追った。

<気仙沼市でピアノ教室をしていた女性>
・宮城県気仙沼市。1万5000棟の家屋が被害を受け、死者・行方不明者は1000人を超えた。
・ピアノ講師の小山紀子さん(43)。「被災地へピアノをとどける会」の支援で教室を再開した。しかし彼女には、すんなりとは再開に踏み切れない心の葛藤があった。
・小山さんが被災したのは、自宅で娘の桃果さん(11)や生徒と一緒にレッスンをしているときだった。気仙沼を襲った津波は港から続く坂道伝いに彼女の自宅にも押し寄せてきた。

もう迫ってましたね。バーッという感じではなくて、じりじりじりじりとこう。家の大群が押し寄せてくる感じですね(小山さん)

すごい茶色くて水が、すごい壁がグッと押し寄せる感じで怖かったです(桃果さん)

・10m近い津波に襲われた町。がれきの山は見慣れた風景を一変させた。

自分も巻き込まれるかもしれないと思って逃げたので、その恐ろしさがこう、いつまでも。その水を見るだけでもパニックになってしまって、ちょっとの水たまりでもワーッと思い出しちゃうっていうかね(小山さん)

・小山さんの自宅も津波にのまれ、かろうじて姿を留めたのは2階部分だけ。1階にあったグランドピアノは残骸すら残らなかった。流されたピアノは講師を始めた頃に買ったもの。娘の成長も見守ってきたピアノに、彼女は深い愛着を抱いてきた。

自分の体の一部っていうか、生活の一部だし体の一部みたいな感じだったので、やっぱりそれを流されたっていうのは大きかったですね。心に穴が開いたっていうか、あんまりそのときは(教室を)やる気が出なかった(同上)

・「ピアノのある生活に早く戻りたい」。そう思う一方で、小山さんは身内を亡くした人々の気持ちを考えると、どうしても教室を再開できなかったと言う。

がれきの山とかイメージして、ここで音を出すことが不謹慎な感じがしたっていうか。最初は絶対ここではやりたくなかったです。私はね、本当は(同上)

・ピアノを弾くことに後ろめたさを抱いていた小山さん。しかし3か月後、思わぬ声が届いた。生徒たちの親から、不自由な避難所で暮らしているからこそ子どもたちに音楽が必要だと言われたのだ。

震災後に本当に何もなくて、勉強机もなくて着る服もなくて、惨めな思いをさせていたんですけれども、音楽をやることがすごく子どもたちの心の支えになるなと思った(生徒の保護者)

その言葉で目が覚めたというか、ハッとこう。元気づけられたらいいなっていう気持ちで、じゃあこれはやらないとっていうので、そこからは早かったですね(小山さん)

・小山さんは仲間のピアノ講師から「とどける会」を紹介してもらいピアノの支援を打診。震災前に使っていたのと同じ種類のグランドピアノを受け取った。
・再開した教室には、被災した子どもたちが通ってきて伸び伸びと練習している。震災前と変わらぬピアノの響き。子どもたちの弾んだ気持ちが伝わってくる。

お母さんたちが言っていたのは、当たり前のことを震災前と同じことをさせたい。震災があったからこれを我慢するとかじゃなくて、すごく怖いことがあったけれども同じ場所で同じように音楽をできる幸せを感じましたね(同上)

・1台のグランドピアノが支えた音楽教室の再開。笑い声が絶えなかった震災前の風景を取り戻してくれた。

<ピアニストの女性が被災地でピアノを弾いた体験から>
・宮城県仙台市。「被災地へピアノをとどける会」の事務局は市内の音楽教室の一角を借りて活動している。会が発足したのは2011年6月、全国の家庭などからピアノを寄贈してもらい被災地へと届けている。この5年間で届けたピアノは、学校や公民館などの公共施設から個人の家庭まで約500台。
・メンバーはピアノやヴァイオリンの演奏家、作曲の指導者など音楽のプロたち。さらに全国の調律師にも協力してもらい、提供されるピアノをチェックしている。「とどける会」が慎重にピアノを確認するのは、被災者に愛着を持って長く使ってもらいたいからだ。

単なる楽器がほしいんじゃないとだんだん分かってきて、自分の命の再生って言うとちょっと大げさですけど、そのために楽器がほしいと。身近な楽器を使って、生活をもう一度元に戻したいっていう(副委員長の吉川和夫さん)

・代表を務めるピアニストの庄司美知子さん。この会を立ち上げたきっかけは、震災の翌月に依頼された宮城県の避難所での演奏会だった。

音楽をすることが本当に必要なのかどうか、食べるものがまだないって聞いていた時でしたのでね。不安は大きくありましたよね(庄司さん)

・庄司さんが向かった南三陸町歌津地区、大津波に家屋がのみ込まれ30人以上の犠牲者が出た。演奏会が開かれた避難所で世話人をしていた高橋才二郎さん。地震の直後、近隣の人たちを高台の集会場へ避難させた。当時ここで120人ほどの人たちが2か月にわたり寝泊りしていた。

落ち込んで下だけ見ている状態がずっと。やっぱり不安、これからどうするんだと。家もない船もない、何もない中でどうして暮らす(高橋さん)

・津波に生活を根こそぎ奪われた人々が暮らす避難所。庄司さんは音楽が何の足しになるのかと不安になった。うつむいた被災者たちを前に演奏家は始まった。

最初は弾いていても誰も頭を上げてくれない。誰も動かないところで弾いている私は、なぜここに来てしまったのかなっていうのが一番つらかったし、もうやめた方がいいんじゃないかなって。あと何曲ぐらいかでやめようかって私たちでは言っていたんですけども(庄司さん)

・しかし、演奏は被災者たちの心にゆっくりと沁み込んでいった。

何曲かまた続けているうちに毛布をはぐ人が出てきて、そうするとみんなが毛布を下にずらして。無表情だった顔から涙が出てきて、声を出してオイオイ泣きだして。最後に“ふるさと”を歌ったときに唇が動いているんですよね。音楽にこんな力があるのかなって、それが嬉しかったです(同上)

・そして演奏が終わったとき、小さな女の子が「ピアノを弾きたい」と庄司さんの元へやって来た。

わあ久しぶり、ピアノ久しぶりって楽しそうでしたからすごく。何かもう終わりねって言えなくなっちゃって。ピアノを弾いているのを私たちも眺めていたんですけどね。こういう光景がなくなったんだなっていうのは、とても感じましたね(同上)

<ボランティアで調律を行っている男性>
・「とどける会」はピアノを扱う様々な人たちに支えられている。ある会社はピアノの倉庫を無償で提供、採算度外視で被災者への搬送を請け負っている。
・倉庫の一角でピアノを点検する阿部隆さん、音楽メーカーに勤めるプロの調律師だ。ボランティアで「とどける会」に参加している。
・実は阿部さんも被災者だ。当時、石巻市渡波に住んでいて、仕事先で渡波が津波に襲われたと知り急いで自宅を目指した。

もう渡波は全滅だって言われて、全然信じられなくて。歩いて渡波まで行って、途中いろんな人と会うんですよ。ああ生きていた生きていたとかね。どうですかね僕の家って言ったら、駄目だってみんなそう言うんですよ。みんな駄目だって言う。何とか行ったら無いんですよ家が、本当に無いの。それでこれはほ本当にやばいなと思って、死んでるとかっていうのは考えたくなかったものですから。でも実際に自分の家が無いって現実に受け止めたら、無くて。これで初めて死というものがあるかもしれない。そこからですよ、探しまくったのは。渡波小学校にいたんですね。もう何とも言えませんねこれは。僕は嫁の前で1回も泣いたことがなかったけど、結婚して30年になるのかな。初めて涙が出ましたね。まあ笑われましたけどね(阿部さん)

・家族は無事だったが、愛用のピアノは津波とともに流された。ピアノを失った心の痛みが阿部さんを88個のハンマーに向かわせる。ピアノが最高のコンディションで被災者に届くように調律。最後はワックスで新品のようになるまで磨き上げる。

ピアノを弾いていただいて、すごいきれいな音っていうのが、僕らにすれば一番嬉しいことですから。ですからまず外装もきれい、音もきれいっていうのが一番の僕らのコンセプトですね。30年くらいは使ってほしいなと(同上)

・ピアノと過ごす喜びを取り戻してもらいたい。丹念に仕上げるピアノに込めた「とどける会」の願いだ。

<義母を亡くした石巻市の女性>
・津波に襲われた人々の中には、その恐怖から心に深い傷を負った人もいる。ピアノはそうした人が立ち直るきっかけにもなっている。
・「とどける会」からピアノを受け取った石巻市の須田順子さん(65)。彼女がピアノを始めたのは、娘たちが嫁いだ50代の半ば。亡くなった義理の母・マシヱさん(享年87)に介護の合間に聞かせるのが震災前の日課だった。

畑仕事をしながら、いつも歌を口ずさんでいた義母だったので、私のピアノで「また弾いてけらいん」弾いてちょうだいっていうことなんですが、「また弾いてけらいん」って。「昨日の曲は良かったね」「朝上手に弾いていたね」とか言われると、私も嬉しくなって(須田さん)

・自宅は当時、海岸から500mほどの所にあった。地震が起きて母・マシヱさんと避難所に逃げた須田さん。しかし母の薬がないことに気づき、自宅に取りに戻った。そのときだった。目の前に大津波が押し寄せてきたのだ。

その時点では大津波警報のアナウンスが全然私は聞こえていなくて。走ってきておばあちゃんの荷物を持ってリュックに詰めて、それで鍵を閉めようとしたら、ものすごい黒い水がガーッと来たので、もう2階にとにかく2階にと思って、とにかく自分の体を柱に結えなきゃと思って、レースのカーテンで腕を柱に巻きつけた前後、津波の水がドーンと2階の床を突き破るように噴水みたいになって上がってきて、私もその水でボーンと天井に突き上げられたのを覚えています(同上)

・須田さんはレースのカーテンを必死に腕に絡ませ流れに耐えた。

水に飛ばされた時点で何か怖さが吹き飛んでしまったっていうか、これは何なの?みたいな感じで(同上)

・翌朝、須田さんはがれきを伝って母のいる避難所に辿り着いた。しかし慣れない避難所生活で母の健康状態が悪化。一度は入院したが、病院はどこも患者で溢れ転院を求められた。受け入れてくれる病院を探し、市内を駆け回った。

いつまでもそこにいられないっていうことで、次の転院先を探してくれって言われて、1日に2度も3度も歩きました。とにかく、むやみやたらに歩かなきゃ次のことができないみたいで(同上)

・結局、落ち着ける場所は見つからず、母・マシヱさんは震災から3か月後、避難所で亡くなった。
・その後、母のために建て直しを急いでいた新居に移った。しかし須田さんは日に日に落ち込んでいった。心に感情が湧かず、無気力から抜け出せない状態に陥ってしまった。病院で診察を受けると、心の病気と診断された。

、悲しいも、感情がなかったんですね。顔もいつも引きつっていた記憶もありますね。心が凍ってしまって(同上)

・そんな状態を心配した友人のすすめで、須田さんは「とどける会」からピアノを受け取った。しかし、どうしてもそのピアノに向かうことができなかった。

ができなかった。自分を元気させなきゃいけないとか、何かしなきゃって思うんだけれど、うまく気持ちがそっちに向かなかったり(同上)

・意識すればするほど遠ざかるピアノ、触れることすらできない日々が2年間続いた。しかし母の遺影の前に座ると、震災前いつもピアノを聴いてくれた母の姿を思い出したという。

で、耳を澄まして聴いてくれたので、私にとっては喜びでしたね。「お母さんうまくなったね」って。「せんころ弾いていた曲、もうやめたのすかわ?」以前弾いていた曲はもう終わったんですか?っていう意味なんですけれど、「せんころの曲、弾かなくなったのすか?」って言われると「うん、また練習してみっから」って言うと「あの曲いかったね」とか言われると、私もおばあちゃん聴いているんだっていう感じで。立派な音楽じゃないんだけれども、人の心に響く音、音楽っていうのを教えられたような気がします(同上)

・そして震災から3年後のある日、なぜかピアノに触れてみようという気になったと須田さんは言う。

ですけど、たまたま気持ちも軽くなった。ピアノの音がとってもすばらしく、ポロンポロンとしか弾けないんですけれど響いてきた。私、感情がなかったんだけど今すごい喜んでる。喜んでいる自分を発見して、それがまた自信になって。欲求も出てくるんですよね、何を食べたいとか、どこに行きたいとか、何をしたいとか。贅沢なんですけど、もしかしてこの贅沢って震災前の普通の自分だったのかなって振り返るときもあります(同上)

・須田さんは今、ある曲を思い出そうと懸命に練習している。震災前に母・マシヱさんに弾いて聞かせた童謡。

部屋で、こうしてやっていますよ。自分で口ずさんで。寝ていても、そういうおばあちゃんだった(同上)

<寄贈されたピアノに託された願いとは>
・全国の家庭から寄贈されるピアノ。歳月をともにしてきたピアノを送り出す側の人々にも、様々な思いがあった。ピアノの寄贈者から被災者に宛てた手紙がある。福岡県の夫婦が送った手紙。

大切にしていたピアノにワックスをかけ送り出したあと、まるで娘をお嫁に出したような気持ちになりました。わが家にいるよりもたくさんの音色を奏でて、喜んでいただけると信じています。

・東京都の女性からの手紙。ピアノが贈られた宮城県の幼稚園に宛てたもの。

ピアノ教師になったときに両親が買ってくれたグランドピアノ。ここ10年は老いた父親ひとりの家で、ピアノも寂しげでした。かわいい園児に囲まれ、なんて幸せなピアノなのでしょう。

・3年前にピアノを寄贈した、さいたま市の齋藤旬子さん(54)。贈ったのは自宅の音楽教室で使っていたピアノ。つらい時期をピアノによって救われた体験が彼女の背中を押した。震災の前年、夫・浩二さん(享年55)を急病で亡くした。夫との暮らしの傍らには、いつもピアノがあった。

ちょっと片手でしたけど、つま弾いて時々邪魔をしに来たり、子どもと一緒に童謡のフレーズを弾いたり、そんなことはしていて。パパも交じりたいんだなって私も思ったりしていました(齋藤さん)

・ピアノとともに過ごした家族の日々。その喪失感を和らげてくれたのもピアノだったという。

ピアノに向かうことによって、自分の気持ちを整理させてもらえた。自分で自分を納得させなければ次の一歩が踏み出せない。それを振り返らせてくれるのがピアノだったのかな(同上)

・ピアノが被災者の心を癒やす役に立てば、齋藤さんは教室のピアノのうち1台を寄贈した。彼女を支えたピアノは今、石巻の小学校で子どもたちに囲まれている。

仮設(住宅)だとか、いろんなことで本当につらい思いをしている中でも、ポンと小石を投げるぐらいの程度かもしれないけど、音楽にはそこから広がっていく力が絶対あるっていうのは私がそれで助けてもらったから、何かあるっていうふうに信じているので。やっぱりそういうふうに被災地の方にもお役にきっと立てるんじゃないかなって強い思いはあります(同上)

<ピアノを受け取ったことで音大合格の夢を叶えた女性>
・ピアノは、被災者が新たな人生にチャレンジする力にもなっている。

春から国立音楽大学へ進学することになりました。中学生のころからの音大合格の夢がかないました。寄贈者の方、ピアノをとどける会のみなさまにお礼を申し上げます。素敵な音楽を届けられるように頑張ります。本当にありがとうございました(手紙から)

・届いたピアノで一度は諦めた音楽大学に合格を果たしたという知らせ。
・手紙を出したのは、去年入学した阿部舞理奈さん(20)。彼女の実家は福島県相馬郡新地町。音楽大学への進学を考え始めた中学2年生のとき震災が起こった。
・新地町では津波で500棟以上の家屋が流出、阿部さんの自宅も地震で家と家財道具が破壊された。増築したばかりの家の屋根が崩れ、修繕費用がかさんだ。
・使っていた電子ピアノは調子が悪くなり、受験のためには新たなピアノが必要だった。しかし阿部さんは3人姉妹の長女、妹たちのことを考えると「ピアノを買ってほしい」とは言い出せなかった。

希望というか欲しいなと思っても、お父さんに震災後のいろいろで大変なのにお金がかかるし、言いにくくて。お父さんに迷惑をかけたくないし、妹たちもいるので。負担をかけたくないなと思って諦めようかと思っていました(阿部さん)

・そんなとき学校で「とどける会」のことを知り、望みを託した。1か月後、阿部さんが学校から帰宅すると念願のピアノが届いていた。

めっちゃ嬉しかったです、本当に。家に帰ってきてピアノがあって、わあって。ずっとそこから、ここにこもりっぱなしで、嬉しくて嬉しくて。いろんな曲を持ってきて弾いて、妹に聴かせて、いいだろみたいな(同上)

・合格を目指して阿部さんの猛練習の日々が始まった。

私には本当に分からない、音の感覚的なものであったりとか、そういったものが本物のピアノを使って弾くのと、本物を使って練習できたっていうのは、感性の部分かと思うので非常によかったと思いますね(父・哲昌さん)

・阿部さんに贈られたピアノは今、妹たちに引き継がれている。

誰かが適当に弾いていても、家の中が温かくなるみたいな。妹が弾いていて、音楽があることで生活がちょっとだけ豊かになるような気もします(阿部さん)

<音楽に触れることで心を癒やし、新たな一歩へ踏み出せれば>
・代表の庄司さんはこの日、ピアノを届けた石巻市の保育園の入園式に招かれた。去年届けたピアノは、人々が音楽と触れ合う日常を復活させていた。
・「被災地へピアノをとどける会」の活動が始まって5年、今もピアノを求める声はなくならない。

何もなくなったときの音楽っていうのは、また違う心に染みるものがある。食べ物ではない支援の仕方、ピアノがそれを全部するとは思いませんが、でも私たち音楽家ができる一つの仕事、役割として、いくらか気持ちを和らげられたらいいかなと思います(庄司さん)

・音楽に触れることで心を癒やし、新たな一歩を踏み出す。ピアノは被災者に寄り添って、これからも響き続ける。

(2016/6/6視聴・2016/6/6記)

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【大河ドラマ】真田丸・第22話「裁定」

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【大河ドラマ】真田丸・第22話
「裁定」

(NHK総合・2016/6/5放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 史実を知っていても「沼田裁定」の場面は、なかなか面白かったですね。一地方の領有権を巡る争いが豊臣vs北条という大きなバトルに繋がっていく様が(ややコミカルに)描かれていました。

 それにしても…真田信幸はとんでもない舅を持ったものです。またもや登場、しかも真田の軍議に乱入するとは…なかなかやりづらい中、ビシっと言ったのは感心しました(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・北条氏政が遂に上洛を承諾。しかし、沼田城を真田から取り戻すという条件つきであった。沼田の真の主を定める「沼田裁定」が始まる。

・北条からは板部岡江雪斎(山西惇)、真田は真田信繁(堺雅人)、徳川から本多正信(近藤正臣)、各大名家の名代が関白・豊臣秀吉(小日向文世)の前に集まり裁定が始まった。
・徳川家康(内野聖陽)は真田と北条の両方に沼田を渡すとの起請文を書いていた。江雪斎は北条との約束の方が優先されるべきだと主張するが、信繁は日付が古い真田との約束が優先すると言う。
・そこへ本多正信は北条に譲り渡すとは言っておらず「奪い取るなら好きにせよ」(手柄次第)ということだと言う。
・江雪斎は反論するが、さらに豊臣秀次(新納慎也)から「譲り渡す」「奪い取る」というのは沼田が真田の城であることを認めていることではないのかと指摘されてしまう。
・形勢は完全に真田側に有利のものであった。
・しかし北条との正面対決を避けたい石田三成(山本耕史)は、真田昌幸(草刈正雄)に沼田を諦めてほしいと頼む。昌幸は沼田領のうち名胡桃城を残すことを条件に承諾する。
・そして裁定が下った。沼田領のうち沼田城を含む石高3分の2が北条の、名胡桃城を含む3分の1が真田のものとなった。
・しかし北条氏政(高嶋政伸)は、この裁定に不満だった。江雪斎が上洛するよう説得するが聞かなかった。
・一方、沼田城代の矢沢頼綱(綾田俊樹)も納得しなかったが真田信幸(大泉洋)が懸命に説得し城を明け渡すことに。
・沼田城が北条の手に渡ったことにより、本能寺の変に端を発した東国の動乱はひとまず幕を下ろした…かにみえた。
・ところが、沼田城に入った北条家の家臣・猪俣邦憲が突如、名胡桃城に攻め込み奪い取ってしまった。
・知らせを受けた昌幸は、信繁とともに秀吉に名胡桃城攻めの許可を申し出るが、秀吉は一旦預かりたいと言う。
・度重なる上洛の催促を拒む氏政に対して秀吉は、遂に北条討伐を命じる。

<真田丸紀行>
・群馬県みなかみ町。沼田城から北西に僅か5kmのところに真田の城・名胡桃城があった。真田と北条、2つの勢力は利根川を挟んで対立した。
・天然の要害の地に築かれた名胡桃城。周囲を断崖に囲まれた城は、昌幸によって大規模に拡張されたと伝わる。城跡には当時の築城技術を施した痕跡がここかしこに残されている。
・大正時代、城を整備する地元の人々の姿が写真に残されていた。
・歴史の転換点となる名胡桃城。この地は今も人々に親しまれている。

※名胡桃城址(JR「上毛高原」または「後閑」下車 徒歩40分)

(2016/6/7視聴・2016/6/7記)

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真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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【NHKスペシャル】スクープドキュメント 北朝鮮“機密ファイル”知られざる国家の内幕

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【NHKスペシャル】
「スクープドキュメント 北朝鮮“機密ファイル”知られざる国家の内幕」

(NHK総合・2016/6/5放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 なかなか面白い情報が出てきたなと思いました。果たして本当にNHKの独占スクープなのかは分かりませんが、少なくともCIA辺りはきっちり掴んでいるんでしょうね。日本の情報機関はどうだか分かりませんが。

 特に興味深かったのは軍内部が食糧難に至っていたり、どんなに統制しても中国経由で情報流入しているという実態。軍隊が決して一枚岩ではなく、状況次第では独裁者の意のままにならない可能性を示唆しています。

 核開発も自らが喧伝しているほど進んでいる様子は窺えないし、ミサイル実験も失敗だらけ。軍隊もガタガタ。どうやらこの国の行く末は言わずもがなといった感じでしょうか。

 であれば一部の者が声高に言っている「北の脅威」というのは正確さを欠きますね。万が一のことがあっても十分「個別的自衛権」で対応できるでしょう。沖縄で無法の限りを尽くす連中に一緒に守ってとお願いする必要などないですね。はい論破(笑) 

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・北朝鮮軍の中枢から流出した1本のUSBメモリーの中に、1万2000ページに及ぶ国家の機密ファイルが入っていた。指導者キム・ジョンウン氏が、どう権力を握り軍を支配してきたのか。知られざる内幕が記されていた。全軍への指令書から浮かび上がる恐怖政治の実態。

「山奥に落ちる針一本の音も私に報告しろ」「逆らうものは粛清せよ」

・30代の若さで朝鮮労働党の頂点に立ち、磐石の権力基盤を誇示するキム・ジョンウン氏。しかしその裏側で内部情報の流出や軍のクーデターにおびえる意外な実像が浮かび上がってきた。

「軍内部の秘密が漏洩している」「このままでは祖国が砂のように崩れる」

・NHKは世界第一線の専門家たちとともに、機密ファイルを徹底的に分析。見えてきたのは、決して外部に明かされることのなかった国家の闇。
・謎に包まれた国・北朝鮮。独自に入手した機密ファイルから知られざる国家の内幕に迫る。

<“秘密交渉”の現場へ>
・NHKが機密ファイルに出会ったのは2年前。北朝鮮の軍の関係者が、ある内部資料を購入するよう日本の専門家に接触してきたのがきっかけだった。
・待ち合わせに指定されたのは、台湾のあるホテル。完全な匿名性を守ることを条件に同行取材が許された。姿を現したのは、北朝鮮軍傘下の貿易会社幹部を名乗る人物。人目に付かない客室で重要なデータを渡すという。
・北朝鮮側から手渡されたのは1本のUSBメモリー。北朝鮮軍に詳しい専門家が中身を確認した。

3軍団、これ原本です。これを見ると1423ファイルあります。幹部の名簿とか、部長、課長、組織指導部。すごい、びっくりするようなものだ(北朝鮮軍に詳しい専門家)

・軍内部の人間が危険を冒して持ち出したというファイル。要求されたのはドルを交えた300万円。交渉がまとまった。

<謎の極秘文書 徹底分析>
・軍の中枢から持ち出されたというUSBには、約1万2000ページもの文書のデータが入っていた。文書には最高司令官キム・ジョンウン氏が軍に発する極秘の指令と、その達成状況の報告など国家の機密情報が含まれていた。
・入手した文書は本物なのか、NHKは第一線で研究を続けている北朝鮮の専門家たちにファイルの分析を依頼した。
・公安調査庁で30年にわたり北朝鮮の権力構造などを分析してきた坂井隆氏、5年前まで在韓米軍で情報将校を務めていたロジャー・カバゾス氏、そして40年にわたり北朝鮮の研究を続けてきた鐸木昌之尚美学園大学教授。
・軍高官の個人情報が含まれる極秘の名簿や、軍事施設の詳細な見取り図など内部の者しか知りえない情報などから、3人はこのファイルが本物だと断定した。
・北朝鮮の軍の機密文書がこれほど大量に流出したことは、一度もないという。1万2000ページに及ぶ機密ファイル、軍の中枢から持ち出されたものであることが明らかになった。
・ファイルを作成したのは組織部、キム・ジョンウン氏からの極秘の指令を取り扱う重要機関だ。最高司令官ジョンウン氏を頂点とする朝鮮人民軍。実際に軍を動かす作戦部隊、部隊に労働党の命令を伝え統制する政治組織、そして両者を監視する秘密警察の3つに分かれている。
・組織部は軍の人事と思想教育を司り、キム・ジョンウン氏から出された命令を全軍に伝え、命令の達成状況などを報告する役割を担っている。つまり、ここには指導者の知られざる思惑が集約される。
・組織部のファイルは北朝鮮独自のOSで作られ、USBの中には他にも開けないフォルダが複数あった。軍事コンサルタントのカバゾス氏が特殊なソフトで解析を試みた。
・分析の結果、このファイルが一人の人物によって管理されていたことが明らかになった。コードネームなのか、その人物の名は「YlmF」と記されていた。

Eメールなし、電話なし、連絡方法なし。YlmFが全てのファイルを管理している(カバゾス氏)

<キム・ジョンウン氏 若き指導者の謎>
・機密ファイルが作成されたのは、2010年から2013年7月。ちょうど父キム・ジョンイル氏から息子ジョンウン氏へ権力が移行した時期だ。若き指導者がどんな命令を出し、どう国家を動かしてきたのか。謎に包まれた経緯が記されていた。
・まず明らかになったのは、父ジョンイル氏が存命中の世襲の内幕。このときジョンウン氏の軍での実績作りが壁にぶつかっていたことが、機密ファイルから浮かび上がってきた。

キム・ジョンウン同志の領導(指示や指導)を忠実に支え命をかけて守っていく事業を深化させることができなかった(組織部の報告)

・組織部は新たな指導者の命令を軍が十分遂行していないと報告していたのだ。

キム・ジョンウン氏の権威に関する活動が深化できないとは、その時点で金日成主席、金正日総書記ほどの神格化が、キム・ジョンウン氏の神格化が至ってなかった。最初の段階でこういう人が出てきて、立派な人ですと知識として教え込んでも、一人一人の内心に刻みつけるまでに至っていなかった(坂井氏)

・父ジョンイル氏が亡くなる直前の2011年、軍の統率はさらに乱れ、権力基盤の構築は思うように進んでいなかった。
・この頃、組織部は軍内の混迷について頻繁にキム・ジョンウン氏に報告していた。

「部隊の参謀が120日にわたり勝手に任務を投げ出した。さらに11名の軍幹部が金もうけのために脱営した」「麻薬の密売に手を染める軍幹部まで出ている」

・実際に問題を起こした部隊の名称が記されていた。第3軍団235部隊を通じて、北朝鮮で何が起きていたのか明らかになった。
・ファイルに記された235部隊で中隊長を務めていたチェ・ヒョンジュン氏。今は北朝鮮から脱北し韓国の国防部のアドバイザーを務めている。

235軍部隊の任務は首都ピョンヤンの防衛です。指導者キム・ジョンウン氏を命を懸けて守る重要な使命を担っています(チェ氏)

・235部隊があるのは、ピョンヤンの南西およそ50kmに位置する南浦(ナンポ)という町。兵士約1万2000人を指揮する司令部に、毎日ピョンヤンからジョンウン氏の命令が発せられるという。
・朝8時、軍幹部が集められ上官から命令の伝達と思想教育が徹底される。指導者のため命を投げ出す覚悟が植えつけられていく。
・チェ氏によるとジョンウン氏に権力が移行する頃、こうした軍の統制が弱まり不正が相次いだという。

私が部隊にいた頃、象徴的な出来事がありました。武器を管理する兵士たちが弾薬庫から手りゅう弾と銃弾を盗んで売り払ったのです。軍の中で指導者への忠誠心が弱まり、統率が乱れていたのです(同上)

<キム・ジョンウン氏 “意外な命令”の真相>
・軍内の混乱が収まらない中、父ジョンイル氏が死去。ジョンウン氏が名実ともに北朝鮮の指導者になることとなった。
・この頃、ジョンウン氏が意外な命令を全軍に発していたことが明らかになった。それは食糧の自給自足だ。
・ジョンウン氏が軍を指揮し始めた頃に流されるようになった映像。兵士の食糧事情を気にかけ、部隊を視察する様子が徹底して繰り返し伝えられた。

敬愛する(キム・ジョンウン)元帥様は兵士たちに無限の愛を注ぎ、大きな勇気を与えてくださいました(テレビの音声)

・ジョンウン氏が軍の自給自足を推し進めた背景には、食糧不足を原因とした事件の多発があった。

「290連隊で銃を使った事件が相次いでいる。合計で786発もの銃弾が不正に使用された」「最近発生している政治的事故は、食糧の問題が原因である」

武器を持って脱営し、住民の家に入って米を強奪する目的で住民2名を銃殺(鐸木教授)

・次々とジョンウン氏に報告されていた食糧不足に端を発する事件。鐸木教授は、この問題が解決できなければ軍の掌握は難しいとジョンウン氏が考えていたと分析する。

皆お金がないと食糧が手に入らない、あるいは家族を養わなければいけない。社会的な変化がものすごく起きている。それが軍隊にまで及んでいる。及んじゃいけない軍隊にまで(同上)

・ジョンウン氏が全軍に発した自給自足の命令。その切り札とされていたのは、豆の栽培とヤギの飼育だった。

「全軍、豆を栽培しろ」「全ての労力を総動員して豆畑を耕作し、全力で種をまき続けよ」

・軍人1人当たり1日200グラムの豆を支給できるよう、全部隊に生産の割り当てが指示されていた。

「軍人3人当たりヤギ1頭を育てろ」「豆とヤギこそが軍人生活改善の鍵である」

・食糧問題を打開し軍の統制を繋ぎ止めようと、細部にわたる指示を出していたキム・ジョンウン氏。しかしこの指令は、軍内部に思わぬ反発を引き起こしていた。
・中国と北朝鮮の国境の町・丹東。外貨を稼ぐため中国に出てきた軍幹部は、ジョンウン氏の命令について次のように振り返った。

そもそも豆などの種がない。作付けしろと言われても何もできない。皆なんとか生きている。奴(ジョンウン氏)は政治がうまくできない。早く退くべきだ。この状態が続くと人々の不信感が積もり、暴動になるかもしれないと思った(北朝鮮貿易会社幹部)

・キム・ジョンウン氏が進めようとした軍人の生活改善策はその後、進展したのか。2013年に脱北したチョン・ミヌ氏、北朝鮮で150人を指揮する中隊長だった。
・チョン氏は今も中朝国境地帯で勤務するかつての部下と連絡を取り合っている。国境付近から中国の携帯電話を使い、定期的にかけられてくる電話。その殆どが生活支援を求める内容だ。
・ここ数年、チョン氏のもとには以前では考えられなかった依頼が増えているという。それは軍内で実際に使用している装備品を買ってほしいというものだ。この日、届いたのは北朝鮮軍の将校服。軍服はジョンウン氏からの「賜り物」という意味合いがあり、売りに出すのは重罪だ。しかし送り主は、これを10万円で買ってほしいという。
・別の軍幹部からは軍人の命に等しいとされる階級章が届き、中国ルートで金を送ってほしいと伝えられた。

金さえ払えば彼らは何でもする。ものによっては少し時間がかかる。上官の目を盗みタイミングを合わせる。皆、命がけでやっている(チョン氏)

<キム・ジョンウン氏 知られざる危機感>
・軍の掌握が壁にぶつかっていたキム・ジョンウン氏。機密ファイルの分析から、若き指導者が軍の反発に恐れを抱いていたことも明らかになってきた。
・アメリカにファイルを持ち帰り調査を進めていた前出のカバゾス氏、機密ファイルに記された部隊の配置や武器の数など約4万点に及ぶ軍事データの解析を進めていた。

これまで北朝鮮の軍の実態は外から見て推測するしかありませんでした。今イメージではなく具体的なデータがあります。初めて実際の北朝鮮の姿が、この機密ファイルから明らかになってきた(カバゾス氏)

・今年2月、カバゾス氏が分析結果を報告するため日本を訪れた。機密ファイルとこれまでの独自調査によって作られた、あるデータを用意していた。それは北朝鮮全土に配置された防衛部隊の展開図だった。軍部隊が配置されている陣地、飛行機などの攻撃に備える高射砲の位置と射程範囲など。

(陣地には)山を削ったり崖を削って作られた場所もある(同上)

・このデータがキム・ジョンウン氏のある危機感を如実に表しているという。黄色い円が幾重にも重なり空洞になっている場所は、キム・ジョンウン氏らが暮らすピョンヤンだ。

ピョンヤンの中心部に軍の基地がない。周りにはあるけど中心部には置いていない。

・浮かび上がったのは、軍のクーデターを警戒する指導部の姿。約120万人の朝鮮人民軍の矛先が自らに向けられることへのジョンウン氏の恐れが透けて見えるという。

軍がクーデターを起こす危険性が最大の懸念でしょう。(軍は)キム・ジョンウン氏にとって一番の拠り所でもあるし、危険な存在でもある(坂井氏)

キム・ジョンウン氏は体制を維持するために、かなりの力を国内統治に注いでいます。彼は必死に軍を掌握しようとしていますが、その統制にてこずっていることがうかがえます(カバゾス氏)

・軍の動向を警戒するキム・ジョンウン氏。武器の管理状況を気にかけ、不穏な動きを各部隊からつぶさに報告させていた。

「訓練で使用されなかった銃弾2万発が爆薬倉庫から行方不明になった」「ピョンヤンに武器、銃弾、爆発物が非法に流されている」

・こうした報告に対し、指導者の安全を確保するための命令を繰り返し発していた。

「このままでは身辺の安全確保が担保できない。これは深刻な事態だ。直ちに対策を立てろ」

全体的に忠誠心に問題が出てきている。金日成・金正日時代までは忠誠心に問題がなかった。おそらくそれは一番よく知っているのはキム・ジョンウンさんおよびファミリーの人たち(鐸木教授)

<監視と粛清 “恐怖政治”の実態>
・北朝鮮から流出した1万2000ページに及ぶ機密ファイル。キム・ジョンウン氏が指導者となった翌年の2012年、軍人一人一人に対する監視の目をさらに強化していった状況が生々しく記されていた。ジョンウン氏が秘密警察や組織部などに発した命令。

「軍内の全ての動向を最高司令官である私に集めるシステムを確立せよ」「たとえ山奥に針1本落ちる音ですら私に聞こえるようにしろ」

・全軍に出された新たな指示。その命令の下、作成された膨大な個人の監視報告書がファイルから見つかった。10数万ともいわれる軍幹部、その一人一人の思想や行動、発言などが徹底して調べ上げられていた。不穏な行動をとる可能性のある幹部はリスト化され、ジョンウン氏へ報告されていた。
・リストの中から排除を命じられる者が相次ぐようになった。粛清だ。ファイルには粛清の裁判が行われる軍人会館という施設に関する資料も含まれていた。
・前出のチェ・ヒョンジュン氏が自らが目の当たりにした粛清の裁判について語った。

軍では見せしめの裁判を公開で行います。私が見た人は銃殺の対象となり、手に鎖をかけられ引きずり出されました。階級章を壇上でむしり取られ、縛り上げられました(チェ氏)

・他の兵士からは厳罰を求める激しい罵声が浴びせられるという。

刑罰はその時々で異なります。軽い罪であっても死刑になることもしばしばです。公開裁判によって100人1000人の兵士に恐怖を植えつけるのです(同上)

・粛清の対象は軍の最高幹部へと広がっていく。元国防委員会副委員長チャン・ソンテク氏(2013年12月粛清)、元人民武力相ヒョン・ヨンチョル氏(2015年粛清)。
・これまでその実態は公開された僅かな映像や、公の場から姿が消えたという情報から推測するしかなかった。
・今回、機密ファイルにはベールに包まれていた粛清の理由や経緯について記されていた。詳細が分からなかったある高級幹部の粛清の真相が初めて明らかになった。
・若きジョンウン氏を支えることで軍内に大きな影響力を持っていた元朝鮮人民軍総参謀長リ・ヨンホ氏。突如、姿を消したことから様々な憶測が飛び交っていた。キム・ジョンウン氏は、指導部に逆らった反党・反革命分子として、粛清を命じていたのだ。
・その瞬間から絶大な力を持っていた総参謀長は、軍内で野郎呼ばわりされていた。粛清の理由は、ジョンウン氏の許可なくパレードに参加した軍部隊を勝手に動かしたというものだった。

「キム・ジョンウン同志のお考えに逆らってリ・ヨンホ野郎の指示に従い、優柔不断にも部隊が勝手に動いたという事例あった」「軍は最高司令官の命令がなければ、たとえ頭に雷が落ちても足元で爆弾が爆発しても、勝手に動く権利はないのだ」

・その他にも艦船を破損など軍に損害を与える行為を行った幹部や、人工衛星発射など党の方針に疑問を呈した者など次々と粛清の対象となっていた。
・恐怖による忠誠心を軍の隅々に行き渡らせようとしたジョンウン氏。その政策は組織の統制に繋がっていったのか。かつて北朝鮮の砲兵部隊で小隊長を務めていた脱北者のカン・ギョンス氏(仮名)。初めはジョンウン氏が国を変えてくれるのではと期待したが、その強硬な姿勢に次第に不信感を抱くようになったという。

(なぜ万歳をするのか?)
練習させられるので。(ジョンウン氏が)現れる瞬間に熱狂的に万歳をやれと、声がかれるまでやれと訓練させられました(カン氏)
(万歳をやらないとどうなるのですか?)
即これです。処刑される、死ぬことです。首領への反発として殺されるのです(首に手を遣るカン氏)

・ジョンウン氏が敷いた恐怖政治は多くの脱北者を生むこととなった。指導者の方針に疑問を呈したとして逮捕状が出たカン氏。命を守るため妻と一人娘を残し、3年前に韓国へ脱出した。

<キム・ジョンウン氏 最も恐れる“情報”>
・北朝鮮の内幕を記した機密ファイル。軍の統制を画策するジョンウン氏がさらなる課題に直面していたことも明らかになった。それは国外からの情報流入だった。

「リビアのカダフィが自国の兵士に殴り殺された」「不純映像を見た者は厳罰に処す」

・この命令のきっかけは、当時リビアまで広がっていたアラブの春の波紋。兵士によって独裁者カダフィが殺害される映像が世界を駆け巡った。ジョンウン氏は、この情報の流入に神経を尖らせていた。

「敵国が我が軍を内部から変質瓦解させるため、悪辣で卑劣な謀略策動を強化している」「敵のまき散らした卑劣な情報に軍人が汚染されてしまえば、思想の純白性を保てなくなり忠実な姿勢が失われる」

・この頃、北朝鮮国内には外国の情報が流れ込み、取り引きされるようになっていた。USBメモリーに入れられたアメリカや韓国の映画やニュースなどが、中国経由で大量に入るようになっていたのだ。
・北朝鮮で隠し撮りされた公開裁判の映像。秘密警察が外国の映像を見た者を摘発し、各地で見せしめの処罰が行われていた。

USBに入った米国と南朝鮮の映像を視聴する犯罪行為を行い摘発された。この行為の罪は非常に重く、社会への影響も大きい(男の声)

・情報の流入は軍にも広がり、指導部は危機感を強めていた。

「軍内で密かに外国のDVDやUSBなどの録画物を見て、摘発されたのは1万6千件にも上る。非常に厳しい状況だ」

・そして最も恐れていた事態が起きたという報告もあった。USBを使った軍の機密の流出事件が発覚したのだ。国家の存亡に関わる事態だという指導者の危機感が記されていた。

「情報をめぐる敵の秘密工作が進んでいる」「軍の秘密が漏えいしている」「このままでは祖国が砂のように崩れる」

・ファイルの分析に当たっていたカバゾス氏。組織部で情報管理をになっていたYlmFが、今回の機密ファイルの流出に関わっていたのではないかと考え始めていた。
・USBに残されていた軍内のコンピューターへのアクセス時間を示す一覧表。3時51分、3時57分、4時、司令部が寝静まっている時間帯にアクセスが繰り返されていた。

これを見てください。こんな時間にパソコンの電源のオンとオフを短い間に繰り返しています。おそらく彼は他人に知られないように、任務以外の何かをしていたのでしょう(カバゾス氏)

・ジョンウン氏の指令が集約される組織部で何が起きていたのか、真相は分からなかった。

<核開発 “真の理由”とは>
・北朝鮮の内実が記された機密ファイル。核開発に関する知られざる思惑についての文書も見つかった。

「核の保有は軍事費を抑え少ない費用で経済発展と国防力強化ができる」「最も現実的な路線である」

・事実上の長距離弾道ミサイル発射や核実験で国際社会を揺さぶり続けるキム・ジョンウン体制。36年ぶりの党大会では、核保有国としての地位を内外に喧伝した。

(我々は)核抑止力を持つことで米国との戦争挑発策動を粉砕し、朝鮮半島の平和と安全を守護している(党大会でのキム・ジョンウン氏)

・これまで北朝鮮の核開発は、アメリカを交渉の場に引き出すための外交カードとしての側面が注目されてきた。しかし機密ファイルには、もう一つの目的が記されていた。核保有国は揺らぐ国内の統治のために必要な手段であるというものだった。

「我が国の核の力を強化し軍の思想教育を強化すれば、全ての軍人が高い緊張状態を保ち、民族最大の念願である祖国統一を成し遂げられる」

・ソ連時代から外交官としてピョンヤンに駐在し、北朝鮮側と太いパイプを持つゲオルギー・トロラヤ氏(モスクワ国際関係大学教授)。核開発には、実は国内統率を後押しする狙いが含まれていると指摘する。

外交交渉を求めても、アメリカのオバマ大統領は振り向かないし、韓国のパク・クネ大統領も相手にしない。そのことを北朝鮮側はよく分かっています。核開発はジョンウン氏の実績を示す国内向けのプロパガンダでもあるのです(トロラヤ氏)

<機密ファイルの流出は北朝鮮の変化の始まりなのか>
・北朝鮮の内幕をさらけ出した機密ファイル。鐸木教授のもとにカバゾス氏から新たな発見があったと報告があった。USBの中に軍の機密文書とは異なるファイルを見つけたというものだった。それは個人が家族に残した、たった5行の手紙のようなものだった。

お姉さんへ
家の事をお願いします
家族の笑い声を聞きたいです
最後に妻を私のように愛してください
感謝します 永遠に


・作成者は機密ファイルを管理していた、あのYlmFだった。データの更新日は2014年1月、台湾でUSBが受け渡された2か月前だった。
・鐸木教授は、YlmF自身が危険を冒して機密ファイルの流出に関わった一人だったのではないかと考えている。

これだけのものを知らせたいのだろうと思う、出した人たちには。このシステムがいつまでもつのか、このシステムでやっていけるのか。この人たちが何を考えている、まさにこの人たちがUSBを出した訳です。だから変化は間違いなく出てる(鐸木教授)

・1万2000ページの機密ファイルが明かした、表の姿とは異なる北朝鮮の実像。浮かび上がったのは軍の統制を繋ぎ止めながら歩む指導者と、権力構造の危うさだった。
・膨大な機密ファイルの流出。それは、かの国のさらなる変化の始まりを表しているのか。

(2016/6/7視聴・2016/6/7記)

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緊急報告 列島大水害
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老人漂流社会~親子共倒れを防げ~
新島誕生 西之島~大地創成の謎に迫る~
“終戦”知られざる7日間~“戦後”はこうして始まった~
カラーでみる太平洋戦争~3年8か月・日本人の記録~
女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録~
アニメドキュメント あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~
“あの子”を訪ねて ~長崎・山里小 被爆児童の70年~
特攻~なぜ拡大したのか~
憎しみはこうして激化した~戦争とプロパガンダ~
きのこ雲の下で何が起きていたのか
密室の戦争~発掘・日本人捕虜の肉声~
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生命大躍進 第3集・ついに“知性”が生まれた
生命大躍進 第2集・こうして“母の愛”が生まれた
生命大躍進 第1集・そして“目”が生まれた

【NNNドキュメント’16】孤独に苦しめられる人たち SOSを出せないあなたへ

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【NNNドキュメント’16】
「孤独に苦しめられる人たち SOSを出せないあなたへ」

(日本テレビ系列・2016/6/6放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 ソーシャルワーカーの女性の取り組みを通して現代社会の問題点を浮き彫りにした内容でした。一言で“貧困”といっても金銭面の貧困と人間関係の貧困の2つのものがあるということが非常に印象に残りました。

 どちらも極度なまでの「自己責任」を推し進めてきた歪みから生まれてきたものだと私は思っています。経済的な貧困については論をまたない話ですが、人間関係についても“共助の精神”が本当に希薄になってしまっているのではないでしょうか。

 それでいて、未だに生活保護受給者に対する心ないバッシングが収まらない状況、非常に嘆かわしい話です(以前この件については、【NHKスペシャル】老人漂流社会~親子共倒れを防げ~で、徹底的に書きましたのでご覧いただければ幸いです)。

 本当に必要なのは「誰かズルしてないか」と相互監視する社会ではなく「周りに困っている人はいないか」と気を配る社会です。10年以上も外に出られかったという男性(まさに私と同世代)の姿をみて、いたたまれない気持ちになりました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・大阪府豊中市に困り果てた人たちを立ち直らせてきた女性がいる。コミュニティー・ソーシャルワーカーの勝部麗子さん。今の福祉制度だけでは救えない人たちにずっと向き合ってきた。
・体を壊し家から出られなくなった40代男性、親を亡くし部屋はゴミ屋敷と化していた。
・一つとして同じ悩みはない。しかし、そこには共通するある現代の病があった。
“孤立”の問題が今の世の中のキーワード。孤立するから解決策がみつからない、SOSが出せない。私たちは“社会的孤立”とたたかっている(勝部さん)

<10年以上、自力で外出できなかった男性>
・午前8時、勝部さんの1日は慌ただしく始まる。大阪府豊中市にある社会福祉協議会、国の補助金を受ける民間の福祉団体だ。勝部さんら14人が住民の様々な相談に乗っている。
・去年11月「一人暮らしの男性の家がゴミ屋敷になっている。助けてほしい」との電話があった。訪ねてみると、そこは部屋一面ゴミの山。住民はベッドの上に座る男性(佐藤さん・仮名)。10年以上前から外に出られなくなり、ゴミが溜まってしまった。ぜんそくと腰の痛みが原因だという。一緒に住んでいた父親は亡くなり、今は一人。
・隣に座り丁寧に話しかけていく。勝部さんが注目したのは、出前で頼んだというお弁当。容器はきれいに洗われていた。しかも同じものばかり。どこか几帳面な様子。

小さいときは元気だった。健康だった。20代も普通に過ごしていた(佐藤さん)
(外に出にくくなったきっかけは?)
きっかけはやっぱり、背中が曲がってから(同上)

・中学を卒業した後は工場で働いていた。しかし持病のぜんそくとアレルギーが悪化し、働けなくなったという。その頃、父親が亡くなり母親も入院。若い自分が助けを求めていいのか、どう助けを求めればいいのか分からなかった。そして10年以上、声をあげられなかった。
・聞くと年齢は41歳。まだやり直せると勝部さんは思った。男性を外へ行こうと誘った。これまで生活保護で何とか暮らしてきた。しかし思うように動けず、また外に出る理由があまりなかった。41歳とは思えないほど曲がった背中、足も弱っていた。

足腰が弱っているので、頼んで宅配してもらったものしか食べられていない(と思う)(勝部さん)

・外に出られない働き盛りは豊中市だけで2300人以上。こうした例は全国で後を絶たないという。

<孤立対策に取り組むコミュニティー・ソーシャルワーカー>
・勝部さんは全国に先駆けて孤立対策に地域で取り組んできた。もともとは教師を目指していた。しかし教育実習で給食費を払えない子どもたちを見て、福祉の世界へと進んだ。だが、制度だけでは救えない現実にぶつかった。

“制度”が65歳以上とか住民票がないとダメとかいろんな縛りがあるので、目の前で困っている人がいっぱいきて、窓口で相談しているのに「それは出来ません」って言って帰している姿が心に残ったんですよ(同上)

・以来、世間から見放されがちな人たちの声に耳を傾けてきた。

交通事故に遭いたくて遭っている人はいないし、大切な人を失いたいと思って失っている人もいないし、いつ誰でもが滑り落ちていく社会なんだなって。その人たちが声をあげてくれたことで、問題が社会的に“見える化”していく(同上)

・それでも声をあげられない人たちがいる。その孤独を勝部さんは住民を巻き込んで救おうとしてきた。誰がどんなことで困っているか色分けし、住民で共有している。支える側も支えることで人と繋がると考えてきた。

知ることで(地域の)優しさって生まれる(同上)

・しかし全てを救えるわけではない。かつて世話をした青年が命を絶った。まだ20代半ば。母親を亡くした後、一人で悩んでいたという。数か月前には就職したと挨拶に来ていた。

みんな“さびしい”って感じ。みんな“ひとりぼっち”。どうしてこんな“孤立していくような社会”をみんなでつくってしまったのだろう(同上)

・「孤独から救いたい」そう思ってきたのに…。

「来世で幸せになりたい」と(言っていた)。今の世で幸せにしてあげられなくて。無念です(同上)

<孤立していた男性を連れて施設へ>
・半月後、勝部さんは再び佐藤さんの家を訪れていた。まだベッドから起き上がれない様子。この日も勝部さんは佐藤さんを外に連れ出そうと決めていた。弱ってしまった足腰、つらくても歩かなければいけない。歩くことが次の一歩に繋がると考えていた。
・着いたのは、引きこもりがちな人たちが社会復帰を目指す場所「豊中びーのびーの」。勝部さんは5年前から彼らが集まれる場所をつくってきた。ここに来ることが、佐藤さんの社会復帰への一歩になると考えた。
・佐藤さんは手先が器用、キーホルダーを作ることになった。作品が完成した。久しぶりに人の前で笑った。ようやく踏み出した第一歩。
・この頃から佐藤さんは自分のことを語り出した。話してみると普通の41歳だった。

(人と)繋がれないから繋がらない。繋がらないから自分で立ち直っていけない。そこが“孤立”の問題(同上)

<“人間関係の貧困”に悩む女性に手を差し伸べる>
・孤立は誰でも落ちうる病だ。38歳で高齢出産した母親も孤独に苦しんでいた。出産後、ヘルニアで入院。思うように育児ができなくなったが、両親は亡くなり夫は単身赴任。彼女もまた社会から孤立し、一人で悩んでいた。

(ヘルニアで)動けなくて歩けなくなったんですよ急に。(赤ちゃんに)授乳もできなくなったから。そのときは本当にどうしたらいいんやろ…みたいな感じで(美代子さん・仮名)

・晩婚化そして高齢出産。自立した女性が増え、責任感から一人で抱え込む母親が増えている。
・一人にしてはいけないと勝部さんは、ボランティアを頼む手はずを整えた。さらに地域の住民にも相談した。しかし…。

別にお金がないってことではないけど(勝部さん)

あす食べるものがない人には最大援助しないといけないけど、こういうケースはどこまで(援助)していいか疑問(ボランティアの男性)

・住民はお金がある人を助けることに戸惑いをみせた。

2つの貧困があって、一つは経済的なホンマの貧困。もう一つは孤立っていう“人間関係の貧困”があるんですよ。サポートする人が町にいる安心感だけで不安は絶対解消されると思う。孤立させないようにね(勝部さん)

そういうことなら十分できる(ボランティアの男性)

・勝部さんの説得に住民は少しずつ理解を示した。

(その人の事情を)知ることで“優しさ”って生まれていく。“人間関係の貧困”は、関わる人たちを“増やしていく”こと(勝部さん)

・「助けて」と言えない人たちがいる。バラバラになってしまった社会で繋がるきっかけを探している。
・春が近づく頃、地域の母親の集まりに美代子さんの姿があった。3か月前は一人で悩んでいた。

ほんと(ボランティアに)助けられて。(あの頃は)緊張しすぎていたんだなって最近わかって(美代子さん)

・地域や人の力を借りるようになって、美代子さんは初めて気づいたことがあるという。

私は割と遅くに産んでいるから頭でっかちじゃないけど、やっぱり一人だからっていうのもある。なんにせよ、一人っていうのはあかん(同上)

・一人のときは育児に不安ばかり抱えていた。でも一人ではないと知ってから「なんとかなる」と思える心の余裕ができたという。孤独の苦しみから抜け出し、自分なりの育児ができるようになっていた。

<「一人だけど一人じゃない」と言う男性>
・一方、佐藤さんは病院で診断を受けていた。10年に及ぶ家から出ない生活で弱ってしまった足腰。骨のレントゲン撮影、しかし測定が難しいほど腰は曲がっていた。41歳、ようやく見えた孤立からの脱出、だが医師は厳しい現実を告げた。

胸椎、所々潰れているんですよ。これ圧迫骨折っていいましてね、腰の骨も幅が狭くなっていますし圧迫骨折しているんですね(医師)

治らないのですか?(佐藤さん)

潰れてしまったものは、この状態で固まっていますので元の形には戻らない(医師)

・皮膚の炎症を抑えるためのステロイドの影響で、骨が脆くなった可能性があるという。さらに長年動かなかったことが症状を悪化させていた。

ちょっとつらいかも(佐藤さん)

・「もう治らない」と告げられ諦めそうになっていた。
・2月、佐藤さんがまた家から出られなくなっていた。持病のぜんそくと寒さで体が思うように動かないという。曲がってしまった腰、生きていく希望が消えかけていた。
・だが救う方法があると勝部さんは考えた。そして介護保険を使って手助けをしてくれるヘルパーが来てくれることになった。

(将来やりたいこと?)
やりたいこと、普通のことやね。普通に友達とカラオケに行ったり、普通に暮らしたい。普通が一番(佐藤さん)

・この春、佐藤さんは施設で42歳の誕生日を祝ってもらった。自分のために作ってくれた手作りのカード、人の優しさが染みた。

生まれた日やから(うれしい)(同上)

・久しぶりに人と一緒に歌えた。

やっぱり一人じゃ生きていけないから。(今は)一人やけど一人じゃないかな(佐藤さん)

(2016/6/8視聴・2016/6/8記)

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【にっぽん!歴史鑑定】高橋お伝は毒婦だったのか!?

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【にっぽん!歴史鑑定】
「高橋お伝は毒婦だったのか!?」

(BS-TBS・2016/6/6放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 なかなか歴史上の人物として取り上げられることの少ない高橋お伝。犯した罪は許されることではありませんが、話を聞く限り「悪女」「毒婦」呼ばわりされるほど極悪非道とはいえない女性に思えました。

 斬首刑に処され、さらに死後も名前が汚されるというのは気の毒に思えますね。現在だったら、情状酌量が認められて無期懲役が妥当なところでしょうか。

 まあ、俗世間のセンセーショナルなところはいつの時代もあまり変わらないですね。同じような事件が起きたら今でもドラマ化されたりしますからね、いろいろと脚色をつけられて。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・陸軍青年将校によるクーデター未遂事件「二・二六事件」、不倫相手を絞殺し男性器を切断した「阿部定事件」と世間を震撼させる事件が続いた昭和11年(1936)。「お伝地獄の歌」というレコードが発売され話題となった。

いとし恋しい良人(おっと)のために
苦労苦労で泣いてきた
罪科(つみ)に落ちるも ほんに女ゆえ


・愛する男のために罪を犯したというその女は、明治の初めに「稀代の毒婦」「悪女」と呼ばれた実在の人物・高橋お伝。
・一夜をともにした男の喉をカミソリで掻き斬って殺害し逃亡。彼女は本当に毒婦だったのか。様々な証言によって明らかになった事件の真相とは。
・最後の斬首刑となったお伝、彼女はなぜ極刑となったのか。当時の死刑制度とは。
・処刑後に解剖され局部をアルコール漬けにされた?小説や歌舞伎にもなったお伝、その波瀾万丈の人生に迫る。

<高橋お伝による殺害事件とはどんな事件だったのか>
・明治9年(1876)8月26日、夕刻。東京・蔵前にあった旅館・丸竹に一組の男女がふらりと入ってきた。身なりの立派な中年の男は古物商を営む後藤吉蔵、その隣にいた粗末な身なりの女が高橋お伝。このとき26歳だった。2人は2階の部屋に上がると、夜の10時頃まで酒を飲んでいたという。
・明朝2人がなかなか起きてこないので、心配した女中がやって来た。朝食の支度をしようかと声を掛けるとお伝は「悪い物を食べたようで具合が悪いので、暫くこのまま寝かせて下さいな」と言ったという。
・傍らには明け方にお伝が殺した吉蔵の遺体が横たわっていた。お伝は血にまみれた吉蔵の首を布団で隠すと、部屋を出る支度を始めた。
・そして夕方、お伝は女中に「私はちょっと出掛けてきます。主人はまだ具合が悪くて寝ていますので、決して起こさないように」と言って、勘定の1円を先払いすると出掛けていった。
・しかし翌朝になってもお伝は帰ってこなかった。男も起きてこないため不審に思った女中は部屋に入って男に声を掛けたが、全く起きないため布団をめくってみると首を斬られ血まみれになった死体が。女中は部屋から飛び出すと直ちに警察に通報。
・しかし2人は偽名で泊まっていたため、遺体の身元は分からなかった。首の傷はとても深く気管まで斬り裂かれていた。余りにも凄惨な殺人現場、怨恨か行きずりか。すると枕の下から書き置きらしきものが見つかった。

この者に5年前に姉を殺され、無念の日々を暮らしてきましたが、ついに仇を討ちました。姉の墓参りを済ませたら出頭します。逃げも隠れもしません。

・この殺害は仇討ちだったというのだ。しかしこれは巧妙な偽装工作だったと、お伝についての著書を持つ大橋義輝さんは言う。

世間の同情を引き捜査の手も緩むだろう(大橋氏)

・主君や親兄弟を殺した者を討ち取って恨みを晴らす仇討ちは江戸時代までは公認されていたが、司法制度の整備によってお伝の事件が起きる3年前の明治6年(1873)に禁止令が発布されていた。

禁止令が出されても(お伝の事件は)それから間もなくだったので、仇討ちに同情的(同上)

・警察も同情的、出頭するのを待つだけで捜査もろくに行わなかった。
・しかし数日後、事件は予想外の展開をみせた。後藤吉蔵の妻から「夫が8月26日から帰ってこない」と通報が入った。容貌や服装から蔵前の宿から発見された遺体が吉蔵であることが判明。しかも家を出るときに持っていた所持金11円が無くなっていることも分かった。
・事件は仇討ちから強盗殺人に切り替えられ、警察は本腰を入れて捜査を開始。宿の女中の証言をもとに人相書をつくり、お伝の行方を探した。
・するとよく似た女が新富町にいたという情報が入り、一軒一軒しらみ潰しに捜索が行われた。
・そして事件から2週間後の9月9日、警察は知人宅に潜んでいたお伝を発見。その場で逮捕され、市谷監獄に収監され取り調べを受けた。当時は物的証拠よりも自白が重要視されていたため取り調べは厳しく、拷問も当たり前に行われていたという。
・しかしお伝は、なかなか自白しないばかりか恋人に宛ててこんな手紙を書いていた。

りんざいじのほうじょうに
本町のせんせいと
たかいところから
たんがんして下され
したからではだめだ
そうでなければ
たすからない
おさげだけでよいから


・「おさげ」(仮釈放)にしてもらうため、権威のある人に力を貸してもらうよう恋人に頼んでいた。
・さらに新聞記事によれば「高橋お伝ではこれまで3度も拇印を押し、また昨日も拇印を押した」。助かりたい一心で供述をころころ変え、そのたびに供述書に拇印を押していたという。
・しかしそんな中でも一貫していたのが、姉の仇討ちだったという主張だった。

「私は旧沼田藩の家老・広瀬半右衛門の娘です。母 春が広瀬家に出入りしている際に半右衛門の手が付き、生まれたのが私でした」

・実は半右衛門にはもう一人娘がいて、それが姉のかね。そしてかねの旦那こそ憎き後藤吉蔵だったというのだ。吉蔵は5年ほど前、理由は分からず姉を刺し殺した。だからその仇を討ったのだとお伝は言い張った。
・しかし調べてみると、沼田藩の家老・広瀬家に供述のような事実はなかった。また姉がいるというのも作り話だった。

<お伝の生い立ちはどうだったのか>
・お伝は確かに沼田藩の領内(現在の群馬県)で生まれていたが、父親は高橋勘左衛門という農民だった。ただ母の春は嫁入り前に既に身篭っていて、勘左衛門はそれを承知で器量の良い春を娶っていた。そして春はお伝の実の父親について決して話さなかったという。
・勘左衛門は、お伝が生まれてから僅か2か月で春を離縁してしまう。後にこの事件の取り調べで、どうにもわがままが強くて、自分の気に適わなかったと語っている。
・この母親の性格をお伝が受け継いだようだ。彼女は子どもの居なかった勘左衛門の兄・九右衛門に養子に出された。養父は多くの田畑を所有し、農業の傍ら造り酒屋を営んでいたため裕福だった。お伝は何不自由なく実の子のように可愛がられたという。
・そして14歳になったお伝は、義父の勧めで百姓の宮下要次郎を婿にとった。ところが甘やかされわがままに育ったお伝は真面目だけが取り柄の夫をどうしても好きになれず、遂には夫を残して家を飛び出し、料理屋の住み込み女中となってしまった。
・義父が連れ戻しに行っても家には帰らないと駄々をこねるばかり。結局、根負けし要次郎との離縁を認めた。お伝の最初の結婚生活は僅か2年半で終わりを告げた。

<二度目の結婚と夫との死別>
・お伝は一旦は造り酒屋に奉公に出されるがすぐに戻され、二度目の婿を貰った。親類でもある高橋波之助は働き者で色男でもあったため、お伝にとって理想の亭主だった。二人は仲睦まじく暮らしたという。
・しかしその幸せも長くは続かなかった。波之助がハンセン病に罹ってしまった。現在では治療法が確立されている病気だが、当時は不治の病で伝染すると信じられていた。それでもお伝は献身的に夫を看病したという。
・我が身をも顧みず看病を続けるお伝だったが、波之助の病状は一向によくならなかった。さらに生活も次第に苦しくなっていき、田畑を担保に借金をして何とかしのぐという日々。病気のせいで村人からも疎まれていた2人は、村を出る決意をした。
・お伝は義父に必死に働いて金は返すつもりと置き手紙を残し故郷を捨て、波之助とともに東京へ向かった。2人は馬喰町の旅館に落ち着き、お伝は雇い奉公に出て生活を支えながら波之助の治療法を必死に探した。

日本に最新医療を持ち込んだ英国人医師ヘボンの治療を受けようとして横浜に移り住んだこともあった。お伝は治療費や生活費を稼ぐために身を粉にして働き、ときには娼婦となったこともあったという(前出の大橋氏)

・惚れた男にはとことん尽くす、それが高橋お伝という女だった。しかし運命とは残酷なものであった。献身的な看病の甲斐もなく波之助の病状は悪化の一途を辿り、遂に帰らぬ人となってしまった。
・深い悲しみに暮れるお伝。故郷には借金もあり帰れなかった。しかし身寄りもない都会で女性が一人で生きていくには容易なことではなかった。お伝は当時輸出業で羽振りの良かった絹商人の小沢伊兵衛の愛人となり、何とか糊口を凌いでいた。

<運命の男との出会い>
・そんな中、運命の人と出会った。尾張藩士の子弟だった小川市太郎と知り合い、すぐに夫婦同然となって商いを始めた。彼は明治維新で失業し遊び人に身を落としていた。しかし根は優しく色男だったため、お伝はたちまち惚れ込んでしまった。
・今度こそ幸せをつかもうとお伝は懸命に働いたが、市太郎は遊び呆けてばかり。商売もなかなか軌道に乗らず、生活は困窮を極めていった。
・お伝は髪を結うことも忘れ、金策に走った。当時囲われていた小沢のもとに知り合いから借りた子どもを抱えて押し掛け「これはあなたの子です」と言って金をゆすったこともあったという。
・市太郎との暮らしのため必死に駆けずり回るお伝だったが、明治9年に茶葉の取引に失敗し大きな損失を出してしまった。
・住むところも失い、いよいよ首が回らなくなった2人は新富町に住む知人・宍倉佐太郎に同居を願い出た。彼はとても人情深い男だったようで、2人の食事まで面倒をみてくれた。お伝は恐縮し、横浜にいとこがいるので金策してきっとお返ししますと口癖のように言っていたという。

<お伝を犯行に走らせた動機とは>
・働かない市太郎の代わりにお伝は内職をして当座をしのいでいたが、その傍らで街角に立ち体を売っていた。それでも商売の失敗でつくってしまった借金は一向に減らなかった。
・心身ともに追い詰められたお伝は、商いの相手だったともいわれる後藤吉蔵を訪ねた。羽振りのよかった吉蔵に200円の借金を申し込んだ。平均年収が160円ほどだった当時、200円は今の500万円に相当する。お伝は何度も頼んだが、吉蔵は首を縦に振らなかった。
・しかし数日後、吉蔵は突然態度を変えた。お伝を呼びつけ金を貸すような素振りをみせるとこう言った。「どこかで一泊しないか」。藁にもすがる思いのお伝は吉蔵の誘いを受け入れ、蔵前の旅館・丸竹に付いて行った。そして吉蔵に言われるがままに体を委ねた。
・翌朝、事件が起きた。お伝は寝ていた吉蔵を起こし、もう一度借金を申し込んだ。しかし吉蔵は悪びれることなく金は貸せないと冷たく言い放ち、再び眠ってしまった。財布を見てみると11円しかなかった。
・弱みにつけこまれ弄ばれただけ、悔しい。するとお伝は突発的に持っていたカミソリで吉蔵の喉を掻き斬ってしまったのだ。

<お伝はなぜ斬首されたのか>
・事件から2年以上が経過した明治11年(1878)10月、お伝の自白は遂に得られないまま、しかし証拠は十分として取り調べは終わった。
・お伝は結審に伴って最愛の人・市太郎と義父・九右衛門との面会を許された。お伝は涙ながらにこう言ったという。「自分は近いうちにお仕置になると思う。お仕置の日は、もう一度会いに来てほしい」。
・明治12年(1879)1月、お伝に判決が下された。罪状は色仕掛けで吉蔵から金を巻き上げようとしたが、上手くいかなかったので殺した強盗殺人。言い渡された刑は斬首刑だった。
・極刑である斬首刑は古代から死刑の一つとして認められてきた。江戸時代になって8代将軍・吉宗が定めた公事方御定書によって法制化された。殺人、10両以上の窃盗、他人の妻との不義密通、殺人犯逃亡の手助けをした者に科せられ、また主殺し、親殺し、関所破り、公儀に対する重い謀計は、更に厳しい打首獄門となった。
・江戸幕府が消滅し明治となっても、斬首刑は依然として行われていた。しかし世の風潮は変わりつつあったと刑法史に詳しい立命館大学の本田稔教授は言う。

明治時代になって刑法制度の改革が行われ、火あぶりや磔などの残虐な執行方法は廃止されるようになった。それでも重罪に対しては斬首刑も依然として行われていた。しかし国際関係と歩調を合わせることが急務であった当時の日本において、欧米諸国と足並みを揃えるという意味では古い刑罰制度を止めて新しい刑罰制度に切り替えていかなければならない必要性があった(本田氏)

・新政府は明治6年に切腹を禁止し、3年後には廃刀令を発布。斬首刑もまた時代遅れの刑罰として廃止を求める声が高まっていた。しかし、お伝は斬首刑という判決を受けた。

お伝が罪を犯した当時の刑法では強盗殺人については、基本的に死刑が言い渡されると決まっていた。したがって裁判ではそれに基づいて斬首刑を言い渡した。しかしながら刑法の近代化がもう少し早かったならば、お伝は斬首刑を免れたのではないか。

内縁の夫との生活で借金が重なった、金銭工面のために被害者の言いなりにならざるを得なかった、約束を反故にされたこと、カッとなって殺してしまったことについては量刑の上で斟酌すべき事情にあたるといえる(同上)


・明治12年1月31日、市谷監獄でお伝の処刑が行われた。このとき間近で目撃したのが高田露だった。西郷隆盛らが起こした西南戦争に参加して5年の禁固刑を受け市谷監獄に収監されていた。彼は雑居房の室頭だったため、お伝の処刑を見せしめとして見ることになったという。
・高田の証言によると、お伝の断末魔は誠に見苦しい取り乱したものであったという。結審後の面会で市太郎は最後の日に会いに来ると言ったが、現れなかった。
・激しく暴れるお伝を補佐役の役人が力づくで押さえつけると処刑人が一気に刀を振り下ろした。しかし刀は外れお伝の後頭部に。お伝は観念したかのように念仏を唱え始めたという。そして、高橋お伝このとき29歳だった。
・市太郎が市谷監獄を訪れたのはその翌日だったという。そしてお伝が処刑された翌年の明治13年、明治政府は新しい刑法を制定。彼女の処刑後、斬首刑は一度も行われなかったため、日本で最後に斬首刑に処せられた人となった。

<お伝の死後も悲劇が続いた>
・処刑後、お伝の遺体は浅草にあった警察の病院に運ばれ解剖されることになった。名目は「犯罪者の体にある生理学上の特異性の調査」。お伝の体は4日間にわたって細かく徹底的に調べられた。
・医師の興味本位もあり、お伝の局部は切り取られ標本にされた。局部が異常発達しているため性欲が強かったと決めつけられ、異常性欲の殺人者というレッテルを貼られてしまった。
・死後もお伝の悲劇は続いた。処刑から3か月後には当時の人気戯作者・仮名垣魯文がお伝をモデルにした小説を発表。その中で彼女は後藤吉蔵を殺しただけでなく他にも2人の男を毒殺しようとしたと書かれた。そして毒婦であるという印象を付けるため、本の中には「毒」という文字が21回も使われた。
・その1か月後にはお伝の事件を題材にした歌舞伎も上映された。初代市川左團次や5代目尾上菊五郎など人気役者が出演し話題となったが、ここでもお伝は各地を放浪しながら悪事を重ねた毒婦にされ、吉蔵から奪った金も200両と誇張された。
・その後もお伝は様々な物語のモデルとされ、好き勝手に書かれたことで稀代の毒婦と言われるようになってしまった。
・東京・台東区にある谷中霊園に高橋お伝の墓碑がある。三回忌の際、お伝をモデルに小説を書いた仮名垣魯文の発案で建てられたもので、出資者の中にはお伝を演じた歌舞伎役者も名を連ねていた。
・この墓碑には古くから不思議な言い伝えがあり、お参りすると三味線が上達するという。そのため今も花を手向ける人が後を絶たない。
・しかしお伝が三味線を弾いたという記録はどこにもなく、誰がそんな噂を広めたのか。毒婦の汚名を着せてしまった、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。

(2016/6/9視聴・2016/6/9記)

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【空から日本を見てみよう+】東海道新幹線 東京~静岡

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【空から日本を見てみよう+】
「東海道新幹線 東京~静岡」

(BSジャパン・2016/6/7放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

 東海道新幹線の沿線を東京~静岡まで辿るという面白い内容でした。仕事や私用で何度も乗っている路線なので、車窓の楽しみも増えましたし観たことがあったところも紹介されていました。

 その中でも平塚市にあるカラフルな屋根の住宅街(湘南日向岡住宅街)は割と分かりやすいと思います。家からみえる新幹線もいいし、夜景も綺麗でしたね。

 あとは、東海道新幹線が通る自治体をずっと追っていくわけですが、湯河原町は神奈川県の端、静岡県の県境に位置しているのがよく分かります。町自体は温泉もあるいいところですが、都知事のせいで悪い意味で有名になってしまいましたね(千葉県内のホテルの所在地もですが…)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・1964年、東海道新幹線が開業。
・田町~品川間に新駅設置と開発が行われる。
・大井車両基地。車体洗浄装置がある。
・新幹線電気軌道総合試験車(ドクターイエロー)。線路のゆがみや架線の状態等を確認する試験車。
・品鶴線。もともと貨物線として建設された。

<横浜市周辺>
・人口:3,726,325人(県1位)面積:437.38平方キロメートル(県1位)(2016年4月1日現在)
・明治5年、日本初の鉄道が開業。
・曹洞宗寺院 大乘寺。住職が鉄道ファンで新聞記事の相鉄線引き取り手募集に応募。相鉄車両の運転台を飾っている。
・新横浜駅。崎陽軒のシウマイ弁当。
・新横浜陶芸教室クラアート21。
・1964年に工場を移転した日本味噌。江戸時代から屋号をもち明治18年に東京で創業。地下に蔵を設けて安定した温度と湿度で発酵・熟成。

<大和市周辺>
・人口:233,575人(県8位)面積:27.06平方キロメートル(県21位)(2016年4月1日現在)
・毎年B級グルメ王座を決めるY-1グランプリを開催。
・新幹線型のトイレがある下落合公園。

<綾瀬市周辺>
・人口:84,543人(県16位)面積:22.28平方キロメートル(県23位)(2016年4月1日現在)
・県内で唯一鉄道の駅が存在しない。
・街のお肉屋さん 大久保商店。店の前に「とんちゃん号」がある。サツマイモを餌に利用した養豚業が盛んになった。大久保商店創業者を中心に高座豚を生み出す。1952年の第1回全国品評会で1位に選ばれた。
・綾瀬市は新たなご当地グルメの考案を実施。2年半かけ試作品を何十種類も作った。最終的に完成したのが「とんすきメンチ」。
・サーフ・エンジニアリング。長尺旋盤加工(工具刃物を押し当てて大型の部品を削る加工)により大型機械の部品を製造している。柱やパイプの検査を行うロボット「ハイパーのぼるくん」も製造。去年1年間で50か所以上の検査に使われた。
・三晃製作所。異形圧延(上下左右に設置したロール(型)に線材を通すことで延ばして成形)によってギターのフレット(弦を押さえつけて振動に変化をつけ音の高さを変える部品)を製作している。国内シェアほぼ100%、海外シェアは約35%を誇る。Nゲージ用のレールも製作している。

<寒川町周辺>
・人口:48,014人(県18位)面積:13.42平方キロメートル(県30位)(2016年4月1日現在)
・全国初の県営水道の送水が行われた。
・相模川橋梁。金網越しに頭上すれすれに新幹線が通って行く。
・特殊車両メーカーのコーワテック。運転席・タイヤ・骨組み(シャーシー)以外をオーダーメイドで特装している。幅広いカテゴリーの車を特装することが可能。日本初の水陸両用車を開発。災害時に建機を遠隔で操縦するロボット「アクティブロボSAM」を開発している。

<平塚市周辺>
・人口:257,999人(県6位)面積:67.83平方キロメートル(県13位)(2016年4月1日現在)
・1994年ブーメラン世界大会の開催地になった。
・丸三牧場。30頭の乳牛の飼育を行っている。平塚市は神奈川県で乳用牛飼養戸数トップクラス。
・湘南日向岡住宅街。1990年、東急不動産によって開発。新幹線の乗客に見られることを意識しての外観といわれる。

<大磯町周辺>
・人口:31,497人(県23位)面積:17.18平方キロメートル(県27位)(2016年4月1日現在)
・伊藤博文をはじめ歴代首相8人が居を構えた。
・野立看板の「727」は、大阪にある化粧品メーカーのセブンツーセブン。全国の美容院に化粧品やヘアケア用品を販売。社名の由来は創業者の誕生日7月27日から。
・野立看板の「プチプチ」は川上産業。空気シートを製造している。プチプチは当社の登録商標で国内シェア1位。
・東京・町田にある集客看板広告のアイワ広告。感性工学に基づき集客看板を数値化する「看板偏差値」という概念を作った。

<二宮町周辺>
・人口:28,349人(県24位)面積:9.08平方キロメートル(県31位)(2016年4月1日現在)
・PR動画「菜の花畑ニーノ~二宮町においでよ!」をHPで公開中。

<小田原市周辺>
・人口:193,580人(県10位)面積:114.09平方キロメートル(県5位)(2016年4月1日現在)
・今年3月「第1回スマホケース投げ世界大会」が開催された。
・鴨宮駅前にある「新幹線の発祥地碑」。最高時速200km(開業時)の走行を安全に行うためテストを行った。テスト走行を行うモデル線が綾瀬市まで敷かれた。
・ピーエス三菱 技術研究所。大深度下水トンネルの技術展示がある。プレストレストコンクリートという建築資材で造られている。
・離れのやど星ヶ山。豆相人車鉄道(1896年に開通した小田原・熱海間を結ぶ人力で客車を押す鉄道)が復元展示している。

<真鶴町周辺>
・人口:7,256人(県32位)面積:7.02平方キロメートル(県32位)(2016年4月1日現在)
・地形や文化に共通点が多いことから「東洋のアマルフィ」と称される。

<湯河原町周辺>
・人口:24,780人(県25位)面積:40.99平方キロメートル(県15位)(2016年4月1日現在)
・広報マスコットキャラクターは「ゆがわら戦隊ゆたぽんファイブ」というタヌキ。

<静岡県熱海市周辺>
・人口:37,377人(県22位)面積:61.61平方キロメートル(県32位)(2016年4月1日現在)
・陸・海・空をシームレスに移動する交通システムによる都市計画がある。
・明治以降は別荘地として人気を誇った。昭和44年には年間531万人の宿泊客が訪れた。
・廃校や廃下水処理場を利用したロケーション誘致を行っている。
・新丹那トンネル。弾丸列車計画(東京・北京を49時間10分で結ぶ大鉄道網敷設の計画)に基づき1941年に工事を開始し、戦時中戦況の悪化により中断。戦後、新幹線が同ルートを採用したため完成させた。

<函南町周辺>
・人口:37,614人(県21位)面積:65.13平方キロメートル(県30位)(2016年4月1日現在)
・毎年猫コスプレが集まる、かんなみ猫おどりが開催される。
・函南町上沢 新幹線区。地域の名称が「新幹線」。

<三島市周辺>
・人口:109,877人(県10位)面積:62.13平方キロメートル(県31位)(2016年4月1日現在)
・日本最長400mの歩行者専用吊り橋「三島スカイウォーク」が2015年完成。
・三島車両所の着発線。

<沼津市周辺>
・人口:194,478人(県4位)面積:187.13平方キロメートル(県11位)(2016年4月1日現在)
・魅力的なバーを巡るバー・タクシーが2015年11月運行開始。
・ぬまづ茶の茶畑。沼津市は農地の25%を茶園が占める。温暖な気候と肥沃な土地で江戸時代から茶の栽培を行う。
・今年20年ぶりに県内で最良に管理されたお茶を皇室に献上する献上茶謹製事業が行われている。

<富士市周辺>
・人口:247,726人(県3位)面積:245.02平方キロメートル(県8位)(2016年4月1日現在)
・竹取物語発祥の地にちなみ毎年かぐや姫コンテストが行われる。
・地下水が豊富なため製紙業の工場地帯が形成された。
・桜えびの天日干し。桜えびが水揚げされるのは日本で静岡の駿河湾だけ。1年のうち2回、春漁と秋漁が行われる。

<静岡市周辺>
・人口:702,689人(県2位)面積:1,411.93平方キロメートル(県2位)(2016年4月1日現在)
・プラモデルの生産量全国1位。
・セイリン。鍼灸治療に使用する鍼のメーカー。全自動製造機で1日に100万本以上の鍼を製造。国内シェアの約40%を誇り1位。ディスポーザブル(使い捨て)の鍼を開発した。

(2016/6/10聴・2016/6/10)

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】パンダが来た!~日本初公開 知られざる大作戦~

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「パンダが来た!~日本初公開 知られざる大作戦~」

(NHK・BSプレミアム・2016/6/8放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 先週に引き続いて昭和40年代に起きた大きな出来事を取り上げた内容で、大変面白かったです。単に珍しい動物が日本にやって来ただけに留まらない政治的にも大きな意味のあったパンダ初来日でした。

 3つの視点は輸送責任者、日中国交正常化交渉の通訳そして動物園の獣医師と、単独でも一つの番組にできるぐらいエピソードに富んだ人物でした。

 中でも印象に残ったのは、やはり通訳の周斌氏の証言でしたね。日中の激しい駆け引きでギリギリのところで共同声明が合意できたという話が生々しく語られました。あれがもしなかったら、日本も中国も歴史の針はもっと遅くなっていたでしょう。

 今の為政者同士のギクシャクした関係を見ると、44年前にお互いに“本気”で外交をして、そしていろいろなことを乗り越えて握手を交わした田中や大平、周恩来らの思いを倣ってほしいものです。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・動物園一の人気者であるパンダ。日本で初めて公開されたのは44年前、カンカン(オス)とランラン(メス)。が日本に来たきっかけは外交だった。日中国交回復の記念に中国から贈られた。その舞台裏では日中両国ギリギリの駆け引きがあった。
・公開の日、「パンダが見たい」と東京・上野にできた行列は実に2km。2時間並んで見れたのは30秒足らずだったが列が絶えることはなかった。上野動物園の入場者は一気に倍増。それまで国交がなく遠い存在だった中国は、この日からパンダの国に。これほど影響力を持った動物は後にも先にもいない。

<視点1 航空会社パンダ輸送責任者 「国賓」カンカン・ランラン 緊張の初輸送>
・最初のパンダを日本に送り届けた人物。かけがえのない国賓だったパンダを中国から日本に運んだ輸送チームの責任者を務めた岡崎彬。その裏には「絶対に失敗できないミッション」に挑んだ覚悟と責任があった。
・航空会社で貨物を専門に扱っていた岡崎は当時43歳、動物輸送の第一人者だった。

クマなんかよく送りますし、トラやライオンやヒョウなんかもしょっちゅう送ってますから(岡崎氏)

・生きた動物ほどデリケートな貨物はない。だから飛行機でできるだけ速く運ぶ。たとえヒョウだろうがワニだろうが、岡崎は運んでみせた。

動物ってのは、当時の売り上げがすごい低迷してる時代の非常に優秀な貨物っていうか、お金稼げたってことです(同上)

・あくまでビジネスの対象として動物をクールに見ていた岡崎。だがパンダは別物。とてもクールではいられなかった。

ものすごい貴重性がある。殺しちゃったらとんでもない。ちょっとピリピリしたことは確かですね(同上)

・パンダは今も生息数1000頭余り。世界でも中国にしかいない超稀少動物。初めて四川省の山奥で発見されたのは1869年。発見したフランス人ダヴィドが付けた学名はAiluropoda Melanoleuca(直訳すると「猫足の白黒獣」)。でも誰もそうは呼ばず、現地の呼び名「パンダ」が世に広まった。
・1950年、中国政府は一般人のパンダ捕獲禁止。パンダは政府の管轄下に入る。そして1955年、北京動物園でパンダを初公開。それまで中国のシンボルといえば鶴や亀だったが、パンダの前では見る影なし。かくしてパンダは中国の国宝となった。
・そんなパンダを中国から日本へ運ぶ。ただでさえ超稀少動物。おまけに日中友好の証しとして贈られる、いわば国賓。百戦錬磨の岡崎にとってもこんな動物は初めて。パンダの大きさや食べ物すら分からない。

日本には何も資料ないし、ロンドンまで飛んだのが最初の関わりですね(同上)

・かつてイギリスにパンダが飛行機で運ばれたことがあった。岡崎はノウハウを入手すべく、急遽ロンドンを訪れた。そこで驚きの事態に直面する。なんとそのパンダが死んでいたのだ。死の大きな原因はマスコミの報道によるストレス。

専門記者がものすごいたくさん来てね、フラッシュをパッパカ、パッパカたいたらね、完全にパンダの子どもは神経質になっちゃうと(同上)

・野生では暗く静かな環境を好むパンダ。光や音に極めて敏感だという。ショックを与えれば命に関わる。

(殺すわけにはいかないという…)
絶対それは、そういう意味での普通とは違う感じっていうのはありましたね(同上)

・それから1か月後の1972年10月28日。いよいよパンダ受け取りの日。岡崎は輸送作戦を練り上げていた。朝、特別な荷物を積むところから作戦は始まった。
・パンダのおやつ代わりの笹や果物。本来は検疫規定により国外持ち出しが禁じられるものばかり。だが「パンダのためだ」と言った瞬間、全てフリーパスで通った。
・飛行機もパンダ専用のチャーター便。午前10時、羽田空港を出発した。北京空港に到着したのは午後0時30分。受け取りまで2時間。部下たちに「昼ご飯を食べておいでよ」と伝え、岡崎は一人飛行機に残った。そこへ。予定より早く中国側の車両で運ばれてきたカンカンとランラン。そこで彼は日本人初の体験をする。

飼育係長みたいな女性ですけど、抱っこしてるんですよ。で、僕に「抱くか?」って言うから…。それでみんなが帰ってくるときは、もう箱の中、入れちゃってた。意地悪じゃなくて(同上)

・すぐ檻に入れたため、パンダを抱けたのは岡崎だけだった。
・午後1時50分、パンダを載せた特別機は日本に向けて離陸。ここから4時間、岡崎は片時もパンダのそばを離れることはなかった。

これはもう絶対おれの責任なんだから、突然具合が悪くなったりすると困るなって、そういう思いはありましたね(同上)

・まずは用意してきた柿を2頭にあげた。すると…。

食う食う、ものすごい。持ってったのみんな食っちゃった。そりゃあもう、びっくりですよ。大体ネコ科のトラでもライオンでも、あるいはクマでも柿をつかめることできないでしょ。パンダできるんですよ。こういうふうにやってね(同上)

・パンダの手はクマの手と違って物がつかめる。人間の親指と同じ機能を果たす部分があるためだ。「こんな動物は初めて見た」せっかくの機会、じっくり観察したかったが…。

大体寝てましたね。生きてるかっていうので、これ越しに触って。スチュワーデスもやりたがってたけどね(同上)

・午後6時50分、羽田空港に到着。恐ろしい数のマスコミが押しかけていた。1か月前、イギリスで聞いたあの事件が脳裏に浮かぶ。

何しろ2000人と言われている。貨物室をこうやって開けたら、ダーッと並んでるんです。ウワーッというんで。で、ああイギリスはいいこと言ってくれたと思いましたね(同上)

・岡崎はロンドンでの教訓から、カンカンとランランを運ぶ檻に特別の工夫をしていた。その檻は今も上野動物園の倉庫に大切に保管されている。厚さ3cm、外からのショックを吸収する頑丈な木製。正面は鉄格子だが、そこに光を遮るカーテン。岡崎が考案して以来、パンダ輸送の必需品となった。

檻の前にくるくる巻いて下ろしておく。しかもパチッと留められるやつを作っていったのが、それがよかったんですね(同上)

・分厚い箱とカーテンで、パンダへのショックは殆どなし。苛立つ一部のマスコミが罵声を浴びせた。

それでもう「開けろ!」ってすごい勢いで来るしね。塞いでるの開けて、中見せろって。肉弾で飛び込んでくる奴もいましたよ、ほんとに(同上)

・怒鳴られてもぶつかられても、岡崎はカーテンを1ミリも開けなかった。
・しかし、まだ動物園には運べない。パンダは輸入品、通関手続きが必要だった。通関における最大の問題は…。

パンダって申告書にどう打つのか(当時通関士の桜井良男さん)

・通関書類の「品名」の欄に何と記入すればよいのか、まだ決まっていなかった。中国での名前は大熊猫。クマなのかネコなのか、それによって申請書の書き方が異なる。

パンダはアライグマの一種だ。ですからウォッシングベアですね。それが大きいからビッグ、ビッグウォッシングベアだってなってね。いうふうにして盛り上がってましたね(同上)

・結局、任されたのは桜井の先輩で通関のエキスパートだった須藤昭文。日本にパンダが初めて輸入される、その登録名。一体どう書いたのか?クマでもなくネコでもなく「パンダ」。シンプル・イズ・ベストだった。
・後は各所で必要な許可を取るだけ。担当の桜井は全力で空港内を走り回った。

パンダに負担を与えない、これが宿命っていうかな。早く解放してあげたいと(同上)

・通常、生き物の通関は最低4時間はかかるところ、30分とかからずに終了した。
・そしてパトカーに導かれ動物園へ。無事に着くか、送り出した岡崎は気が気でなかった。

そりゃあ、やっぱり途中で何も来なきゃいいがなとは思いましたけどね。そっちの方に頭いっちゃうんですね(岡崎氏)

・午後9時、無事に上野動物園到着。パンダを一目見たいと数百人が集まっていた。その中には無類のパンダ好きで知られる黒柳徹子も。空港から追ってきたマスコミは、フラッシュは絶対にたかないと約束。かくして10分間だけカーテンが開けられた。
・キョロキョロとこちらをうかがうカンカン、お尻を向けたままのランラン。これがパンダ日本初お目見えの瞬間だった。
・空港でニュースを見ていた岡崎は…。

良かったと思いましたよ、元気で(同上)

・パンダ輸送大作戦は、こうして終了した。

<視点2 中国政府通訳 大熊猫来日的真実>
・その1週間後、パンダ初公開。カンカンとランランは瞬く間に日本一のアイドルになった。上野の街に「ニーハオ」の垂れ幕が翻った。
・そのとき満面の笑顔を浮かべていた田中角栄。彼がいなければパンダは来なかった。
・だが、事はすんなり運んだわけではない。舞台裏では激しいパワーゲームが繰り広げられていた。
・カンカンとランランは日中国交回復の生きたシンボルだった。交渉の立役者は田中角栄と周恩来。一見にこやかな表情の裏に火花を散らす駆け引きがあった。
・その一部始終を知る男・元中国政府日本語通訳の周斌。上野動物園でのパンダ初公開のセレモニーも中国側を代表して出席した。パンダは日中国交回復のシンボル。だがその交渉は一時、決裂寸前に追い詰められていた。
・中国政府の日本語通訳として25年、歴代首脳と向き合ってきた周斌。中でも人生最大の舞台となったのが、1972年の日中国交回復交渉だった。戦争以来、途絶えていた日本との国交を開きパンダを贈る。背後には中国の外交政策の一大転換があった。
・1971年10月、中国は国連加盟を果たした。それまでソ連や北朝鮮など限られた国とのみ国交を結んでいたが、以後、中国は積極的に外交関係を広げていく。
・僅か4か月後、中国の周恩来はアメリカの大統領ニクソンを中国に招く。時は東西冷戦の時代、共産主義の中国が敵対していた資本主義のアメリカと握手を交わす。まさに雪解けだった。
・だが、アメリカ国内では共産主義・中国への反感が根強い。なんとか和らげられないか。そのとき周恩来が、とっておきの土産を思いつく。それがパンダだった。

この動物園からパンダフィーバーが起きますよ!(パトリシア・ニクソン大統領夫人)

・大統領夫人も臨席し、ワシントン動物園でパンダ公開。たちまちブームも巻き起こした。歴史学者で東京医科歯科大学の家永真幸准教授は中国の目論見はニクソンとの会談後、このパンダ公開で完結したという。

パンダを贈るというのは、相手国の大衆に直接語りかける意味を持つ。アメリカと中国の関係が劇的に変わったことを演出するのに非常に都合のいい道具(家永氏)

・ずっと疎遠だった中国と仲良くなったらパンダが来た。実にシンプルなメッセージだが効果は絶大。アメリカの人々の心をパンダは劇的に溶かしていった。

新しく来たパンダが心を溶かしている(新聞記事より)

・アメリカがパンダフィーバーに沸いた4月、周恩来は日本語通訳を呼び集める。

(1972年)4月の初め頃、周恩来総理はですね「次は日本だ」(周斌氏)

・アメリカの次は日本。日本にパンダを贈る計画は日中国交回復の7か月も前から既に始まっていた。

(日本にパンダを贈るというのも計画にあった?)
間違いなくあった。周恩来総理の指示です。パンダという「国宝」だから(同上)

・周恩来の肝いりで始まった日本へのパンダ贈呈計画。それはすぐにこの男に伝えられた。元北京動物園パンダ飼育責任者の劉維新。彼こそが日本への贈り物、カンカンとランランを選んだ男だ。

選ぶ基準は2つだ。一つは健康なこと。そしてもう一つはとにかく可愛いこと。可愛く見えるパンダにはある法則があって、目の周りの黒い模様が漢字の八の形に近ければ近いほど、そのパンダは可愛く見えるんだよ(劉維新氏)

・改めて見てみるとカンカンの目の模様は太い八、ランランの八の模様は特に長くきれいな形。北京動物園でも一番の美人パンダと呼ばれていた。
・一方で喧嘩っ早いパンダや茶色い毛が多いパンダ、目の模様が八でないパンダは外交用からは厳しく除外された。健康も可愛さも文句なしだったカンカンとランラン、だが最も手が掛かったのは性別の判定だった。

パンダは性別を判定するのが本当に難しいんだ。昔「つがいのパンダです。子どもが生まれるといいですね」と贈ったら両方オスだったこともあった。今だから話すけど、カンカンは最初全然違う名前だった。日本に贈ることになったから調べて、オスだと分かったんで男の子っぽい「カンカン」に改名したんだ。「元気でかっこいい」という意味さ(同上)

・北京でパンダの準備が進む中、日本に新しい総理大臣が誕生する。田中角栄。総理に就任した彼は、いの一番にこう宣言した。

日中関係正常化の機は熟した。時は来た。

・これに周恩来もすぐさま反応。「中国は田中総理を熱烈に歓迎する」というメッセージを送る。
・かくして1972年9月25日、断絶していた日中の国交を回復するため田中が中国を訪れた。交渉期間は5日間。
・初日。5日も要らないと思わせるほど両首脳は打ち解ける。歓迎晩餐会でも周恩来自ら料理を取り分けた。しかしこの後、事件が起きる。田中のスピーチ。同席していた周斌は事件を予感していた。

発言原稿を事前に交換していなかった(周斌氏)

・前もって渡されなかった田中のスピーチ原稿。中国側が手にしたのは直前だった。

日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどってまいりました。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります(田中角栄)

・この「ご迷惑」という表現を日本側の通訳が訳すのを聞いたとき、周恩来は初めて眉をしかめた。田中総理が「迷惑」と表現した戦争について、直前のスピーチでは周恩来は「災難」と表現していた。

(迷惑と災難ではどれくらい違う?)
「災難」というのは痛い。「迷惑」は1なら「災難」は10(周斌氏)

・交渉2日目。会議はいきなり周恩来の厳しい言葉で始まった。

日清戦争の後に日露戦争があった。その戦場が中国だった(同上)

・日清戦争から日露戦争、そして日中戦争まで日本が中国で行った50年間の戦争について40分間、息もつかせず語った周恩来。日本側も言葉のあやでは済まされないことを認識する。もはやパンダを贈るどころの騒ぎではなくなっていた。

一体何をしてくれているんだと思ったよ。ちょうどいい年齢のパンダを選んでいたのに、あれじゃあ台なしになってしまう(劉維新氏)

・カンカン2歳、ランラン4歳。これ以上年を取ると里心がついて外国に贈れなくなってしまう。

我々飼育員にできることは、とにかくパンダの健康状態を維持することだけだった。早くいい結論が出てくれないかと願っていたよ(同上)

・交渉3日目。土壇場で一人の男が立ち上がった。外務大臣・大平正芳。この日の朝、万里の長城への観光に出発。大平は中国側の車に、半ば無理やり乗り込んだ。そこにいたのは周恩来の側近・姫鵬飛(中国外交部部長・当時)。突然の車中会談。周斌はその一部始終を通訳した。大平が口火を切る。

「よく眠れないくらい考えた」「戦争をどう表現するかにかかっている」(周斌)

・戦時中、大蔵官僚として中国に赴任。戦争を目の当たりにした大平。戦後、議員になりたての頃に書いた本の中では、当時の戦争を「侵略」と表現している。
・その一方で大臣になってからは、日中戦争に関する発言は殆どしていなかった。そんな大平が車中で語った言葉とは?

「私は大蔵官僚として20か月くらい中国の経済調査をしていた。私が目にした戦争は日本の中国に対する侵略戦争であった。これは弁解する余地はございません。ただ個人の見解は政府の見解にはならない。もしもこの立場を受け入れてくれなければまとまらない。帰る以外にない」(同上)

・大平は「ご迷惑」とは全く異なる「侵略」という言葉を出した上で、それは政府として使うことはできないと伝えたという。ではどうするのか?車中会談の最後、大平の覚悟の言葉を周斌は聞いた。

「私に任せてください。責任を持ってこの難しい問題を解決する。ぜひこの意志を周恩来総理に伝えて下さい」(同上)

・この車中会談について日本側の記録は残されていない。ただ確かなことがある。大平の答えを中国は待ち続けたこと。
・大平が来たのは車中会談から実に37時間後。交渉4日目の深夜、既に日付は変わっていた。

もう(午前)1時か2時頃ですよ。「これが我が方の最後の案である」(同上)

日本側は過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。

・交渉5日目・最終日。周恩来は大平の案を受け入れた。一言一句変えず共同声明に盛り込んだ。かくして日中国交は回復した。そして…。

中国人民共和国人民から日本の国民に対し、パンダ1対オスとメスが贈られました(二階堂進官房長官・当時)

正直、ああ行っちゃうんだなってさみしい気持ちになったよ。だってカンカンとランランは、北京動物園最高のパンダだからね(劉維新氏)

・国交回復から1か月後、パンダ初公開のセレモニーに立ち会った周斌。子どもたちをはじめ中国のことを知らなかった人々にとっては、パンダこそが中国のシンボルとなった。

不忘老朋友(古くからの友人を忘れない)と同時に、新しい友人を数多くつくる。為政者たちが違う考えでも国民は国民(周斌氏)

<視点3 上野動物園獣医師 ゼロからの飼育 上野動物園の挑戦>
・上野にパンダがやって来る。そう決まった日から街はパンダ一色に染まった。
・しかし大変なのはここからだった。何しろパンダは初めて。上野動物園の担当者が感じたのは喜びよりもプレッシャーだった。
・カンカンとランランに寄り添った獣医師・田邊興記。日中友好の重みと国民からの期待、彼はそんなブームが一切目に入らないほどパンダだけを見続けていた。

動物園に泊まりきりで(ブームの)実感が湧かなかった。家に帰ってきてテレビ見たら上野の山で長蛇の列(田邊氏)

・パンダが来てからずっとテレビを見る暇すらなかった獣医師・田邊興記。その挑戦が日本におけるパンダ飼育の原点となった。
・パンダに関わって44年、世界初のパンダ専用ミルクを開発するなどカリスマ・パンダドクターとして世界にその名を知られた田邊。だが、そんな彼も上野にパンダが来るまでパンダを見たことは一度もなかった。
・田邊たちは長旅を終えた2頭を少しでも早く休ませようと展示場に運び込む。疲れて眠りについたと思った夜11時。

ずっと鳴いてましたね。クンクン、クンクン…。子犬が母犬と別れたり、新しく家庭に来て寂しくて泣いている感じ。こんなに鳴いているのを運んできて、悪い気がしないでもなかった。やっぱり来た以上は絶対健康に飼ってやるぞという気持ち(同上)

・パンダのすぐ隣の部屋に布団を敷いて泊まり込んだ田邊。ここから帰れない日々が始まった。
・来日2日目の朝、目を覚ました田邊は唖然とする。

行ってみたら居なかった(同上)

・田邊が上を見上げると、カンカンが金網をよじ登ってぶら下がったまま下りられなくなっていた。もし頭から落ちでもしたら…。こんなにゾッとさせられたことは初めてだった。

パンダだけは1ランク違う。“日中友好”という冠を被っているし、政府から直接預かったものだし下手はできない(同上)

・パンダが来ることを知らされたのは、ほんの1か月前。準備は殆どできていない。しかし「早く見せて」の大合唱に押され、来日から僅か9日後の11月5日に公開することが決まってしまった。
・ランラン、カンカンにとって新しい環境はストレス。人目にさらされれば負担も激しい。なんとか2頭を守るために田邊が選んだのは、ひたすら寝食をともにし異変に目を凝らすことだった。

フンはお腹からの手紙。見えることは動物が教えてくれていること。見逃したらいけない、見逃したらアウト(同上)

・公開まであと6日。田邊は餌となる竹選びに追われていた。飼育方法については北京動物園のスタッフに教えを請うていた。だが、パンダの主食である竹は気候が異なるため、中国と同じものが日本にない。
・カンカンは用意した竹に口をつけない。このままでは餓死してしまう。とにかく日本全国からいろんな竹を集めるしかない。少しでもかじったものがあれば、似た竹でまた試す。トライ&エラーの果てに栃木県大田原産モウソウチクが最も口に合うことが分かった。
・一方、ランランの好物はリンゴだった。

今からすれば非常にぜいたくだと思うけれど、リンゴは「ふじ」じゃないとお好みじゃない(同上)

・公開は迫る。展示環境も整えなければならない。金網を登るのは危ないが、登りたい、ぶら下がりたいという欲求は満たしてやりたい。試しにタイヤを吊るすとカンカンは夢中になって遊び始めた。
・2頭のパンダは少しずつ馴染んでいる。その情報は北京動物園の劉のもとにも伝わっていた。

カンカンとランランの場合は、日本に任せるのが一番だとすぐ判断した。最初からいい竹を探すのを諦める国もあって、我々が口を酸っぱくしてお願いすることもあるんだけど、田邊は見事だった。とことん真面目にやり抜いてくれたよ(劉維新氏)

・公開まであと2日。最初はおっかなびっくり接していたスタッフも、田邊に倣いそばに行くようになっていた。

カンカンの方はすぐ馴れた(田邊氏)

・一方、ランランは展示用の場所を嫌がり、裏に閉じこもってしまう。リンゴやサトウキビなど好物の甘いもので誘わないと外には出なかった。
・不安が消えないまま、もう公開前日。果たして人に見られるストレスに耐えられるかどうか。
・この日、特別に500人を集め、人に見られる練習をした。ランラン、カンカンは無事に見えた。だが…。
・初公開の日、上野には実に5万6000人もの人が詰めかけた。

カンカンはそうでもなかったけれど、ランランは落ち着きを失っていた。サトウキビも一部食べたけど戻してしまった。(裏に)しまって良かった(同上)

・行列はまだ続いていたが、田邊たちはやむを得ず公開を2時間で打ち切る。裏に戻ってきたランランは呼吸数が異常に上がっていた。

1分間に5回位しか(呼吸を)しない。静かに寝ているときは。それが100回以上200回近くというのは、やっぱり異常(同上)

・翌日も2時間だけの公開に。東京は雨で冷え込んだ。公開を限ったことで、ランランの様子は徐々に安定していた。ところがその夜、今度はカンカンに異変が起こった。

水道の蛇口が緩んで水が出たみたいに、かなり水様性の鼻汁が出た。風邪になって奥に(菌が)行って肺炎になったらアウト(同上)

・あいにく夜で北京動物園とも連絡が取れない。カンカンの容体はどんどん悪くなる。やむにやまれず田邊が考えた策。それは…。

中国から来たから(北京動物園でも)漢方薬をあげているだろう(同上)

・やってみるしかない。動物園を飛び出し漢方薬局に駆け込んだ田邊。「パンダが風邪をひいている」などと言ったら大騒ぎになる。「自分の子どもが風邪なので」と告げた。

「鼻水が出ているから軽い風邪だと思う」と言ったら「何歳ですか?」と聞かれたので「2歳だ」。「体重は?」と聞かれたから「55kg」と答えた。「えっ!そんな大きなお子さん!?」(同上)

・漢方の効き目は抜群、鼻水は止まった。すぐさま田邊たち動物園のスタッフは集まる。公開した途端、相次いだトラブルは明らかに大行列のストレスが原因。
・田邊たちが出した結論は、最も人が多く来る土日を挟んで、金曜と月曜を休みにする。パンダに少しずつ人慣れしてもらうための作戦だった。結果は大成功。公開時間も2時間から3時間、5時間と少しずつ延びていった。
・最初の休養日となったのは11月8日。来日以来、12日間ずっとパンダと寝食をともにしてきた田邊は、この日やっと自宅に帰った。

・初めての来日から44年。その後、日本で飼育されたパンダは約40頭。世界でも名高いパンダ大国となった。それはパンダの愛らしさもさることながら、その愛らしさを大切に守ってきた人々がいたからこそ。国を越え、時代を超えて愛される世にも稀な動物・パンダ。そのアナザーストーリーは未来へと繋がっている。
・カンカンとランランが来てから1周年の記念行事。そこにも田邊の姿が。このとき彼は何と家族ごと動物園の中に住んでいた。パンダと寝食をともにするその信念を7年以上も守り続けた。
・来日して2499日目、ランランが倒れた日も田邊はすぐそばにいた。4日後、ランラン死去。
・後を追うようにカンカンもこの世を去る。ショックで動物園を去るスタッフもいたが、田邊は残った。
・残してくれた経験を忘れない。その一心でパンダの飼育に携わり続けた田邊。1988年には念願の子どもを授かることに成功する。
・もう動物園暮らしからは解放されていたが、自宅の庭に竹を何種類も植えた。

何か非常事態にパンダの食欲が無くなった時の予備の予備みたいな感じで(同上)

・なぜここまでするのか、田邊の答えは実にシンプルだった。

あんな動物はどこにもいないでしょう。目の周りが真っ黒で肉食獣(クマ科)なのに竹しか食べない。誰にでもパンダ見て醜い動物だって思う人はいないですよね。みんなただひたすら単に可愛いという(同上)

・どこにも居ない珍しさと、誰にもあらがえない可愛らしさ。国を越え、世代を超えて愛されるパンダ。やっぱりこんな動物、他には居ない。

(2016/6/10視聴・2016/6/10記)

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【ドキュメント72時間】アンコール 真冬の東京 その名は“はな子”

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【ドキュメント72時間】
「アンコール 真冬の東京 その名は“はな子”」

(NHK総合・2016/6/10放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

はな子

 2016年5月26日、井の頭自然文化園で飼育されていた日本最年長だったアジアゾウの「はな子」は天国へ旅立っていきました(写真は2月24日に撮影したものです)。

 今回の「ドキュメント72時間」は、2月26日に放送された番組(→「真冬の東京 その名は“はな子”」)の再放送。

 はな子亡き後にあらためて観ましたが、はな子は本当に幸せなゾウだったと思いました。私にとっては一度しか会うことができませんでしたが、それでも分かります。本当に穏やかな目つきでゆったりと過ごしていましたから。再放送でも「勘違いカナダ人」が映っていましたが、もう一々繰り返しません(前回の感想でも書きましたから)。

 はな子、本当にありがとう。どうか天国でも安らかに。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・彼女の前では誰もが、ただぼう然と立ち尽くす。見つめ返すのは、静かに生き続ける日本最高齢のゾウ。人はその巨体に様々な思いを重ね、口々に呼び掛ける。

「はな子さん」

・一頭の不思議なゾウを前にして、人は何を思うのか…。彼女を求める声に3日間、耳を傾けてみた。

・1月20日(水)。日本中が大寒波に襲われた1月下旬、東京の片隅の小さな動物園にはな子はぽつんと佇んでいた。戦後すぐタイから日本にやって来て、今年で69歳。体はしわしわ、一日中あまり動かないおばあちゃんゾウだ。
・賑やかな年配のグループがはな子の前に。
・今度は随分真剣な顔ではな子を見つめる人たち。大阪の動物園から来たという男性たち。ゾウの担当になってまだ間もないという2人、勉強のため各地を見て回っているらしい。
「タイとかインドでは、伝説の神様のゾウは真っ白って言うじゃないですか。それを想像させるような、そんな雰囲気があって」

・どうやらはな子はゾウの中でも別格の存在みたい。

・12時。この日の気温は4度、はな子の前に腰を下ろしじっと見つめる人がいた。毎週1回は来ていて、はな子に合わないと元気が出ないという主婦の48歳女性。5年前、大きな手術を受けたという。リハビリを兼ねて通っているうち、すっかり虜になったという。
「たまに寄って来て鼻を振ってくれたりするんですよね。もしかしたら警戒して振ってるのかもしれないし分からないんですけど、でもなんかすごく元気になるんですよね」

・その後も“はな子”に会いに次々と人がやってくる。派遣労働者の51歳男性。事業に失敗したばかり、“はな子”の姿は不屈の象徴。
「もう1回、何かやれるようなことないかなと思って。ラストチャンスですから、年齢的にも」

・看護師の65歳女性。
「年取ってから急に好きになったんですよ」
・病気がちな夫を支え続け、気づけばずっと夫婦2人。
「はな子、健気だもん、何となく。きっと子どもを生まなかったから、はな子が好きになっちゃったのかな、すごく」

・人それぞれ違って見える、不思議な巨体。

・13時38分。お昼過ぎ、おもむろにはな子が歩き出した。向かうのは暖かい部屋の中。日差しが弱まってくると自分で戻って行くという。よろめきながら一歩一歩進んでいく。ようやく入った部屋の中で何だかホッとした様子。

・14時34分。はな子の前でじっと佇む人がいた。真剣な表情でもう15分以上見つめ合っていた。初めてはな子を見に来て思わず涙した35歳の助産師の女性。仕事ではときに命の悲しい現実を目にすることもあるらしい。
「(はな子は)みんなに話しかけられて、すごく大事にされてるんだなって思ったので、よかったなと思って」
・物言わぬはな子が不思議と人の心を震わせていく。

・“はな子”に負担をかけないよう、その姿が見られるのは午後3時まで。足腰の弱った“はな子”横になると立ち上がれない。真夜中に僅かな時間、立ったまま眠りにつくという。

・1月21日(木)8時。開園の1時間ほど前、はな子の飼育員さんがやって来た。毎朝様子を見に来る時ってどんな気持ちで?との問いにこう答えた。
「正直なところ、生きてるか?っていうのが一番最初だよ」
・よかった…今日もはな子は元気みたい。

・9時30分。開園。今日は随分寒いけど、はな子は外に出て日向ぼっこをするみたい。朝一番に来て何かを話し掛ける男性がいた。はな子も随分近くに来ている。鼻を振ってまるで答えているみたい。月に数回通う、百貨店の販売員の55歳男性。人には言えない悩みや不満をここではな子に打ち明けるという。
「やっぱり(愚痴を)言われた人も迷惑っていうか、逆に(はな子には)本音を言ってますけどね。誰もいないときは。耳をパタパタやってるから、聞いてくれてるような気はしますけどね。本当に助けてもらってます」
・誰も居ない朝は、はな子と二人で語り合える大切なひととき。

・バックヤードでは食事の準備。歯が少ない“はな子”の好物、甘く柔らかいモモの缶詰。胃腸に負担をかけぬよう、バナナは必ず皮をむく。
「整腸剤です。ビオフェルミンをバナナに入れて」(飼育員さん)
・手間をかけ工夫を凝らした“特別食”
「これは黒糖をお湯で溶いたやつ」(同上)
・思いはひとつ、元気に長く生きて欲しい。

・サングラスの外国人男性、飼育場をくまなく見て回るカナダ出身のライターの43歳男性。
「びっくりした。こんな部屋に60年以上はかわいそうな動物だと思いますね」
・実は去年から海外のネット上で「はな子がかわいそうだ」と非難の声が挙がっているらしい。日本では(多くの人が)思い入れを持って通っているんですがの問いにこう答えた。
「こういう状態の動物だったら、良い思い出はできないかもしれないですね。自然のところ、ジャングルとか、そういうところに引退して、もうお疲れ様、はな子さん、ゆっくりして下さいだと思いますね」

・戦後すぐ人々の希望の象徴として、熱烈に迎え入れられたはな子。時代が変わってもたった一頭、コンクリートのこの場所に暮らし続けている。

・親しげにはな子に語り掛ける年配の女性がいた。
「週1回来て、お部屋に入るまで2時間から3時間。ずっといるから、はなちゃんも覚えてくれている。女だけど恋人かな?ラブラブはなちゃんかな」
・もう40年以上、はな子のもとに通い続けているという74歳女性。かつて一緒にはな子を見た娘さんも今は独立、長年連れ添った夫とは訳あって別居中だという。楽しいときも辛いときも、ここに来ればいつもはな子がいた。人の思いを知ってか知らずか、はな子はただゆらゆらとその巨体を揺らし続けていた。

・1月22日(金)9時30分。今日もはな子のもとには沢山の人が押し寄せる。平日の午前中に若いカップル、学校が休みだという高校生だという。付き合ってまだ4か月、今日は家族に勧められ、はな子に会いに来た。

・動物園ではこう言われている。
「人は人生で3回ゾウに会いに行く。幼いときに親と、成長して恋人と、そしていつか子どもと一緒に…」

・はな子が見えるベンチでのんびり座る親子がいた。久しぶりに3歳の子どもと2人きり、心ゆくまではな子を眺めに来たという。

・この場所でずっと繰り返されてきた何気ない日常。いつかここからはな子が居なくなったら…一体何が失われてしまうのだろう。

・最後に出会ったのは、白い杖を持ったカップル。
「大きくて見やすいのでね、小さい動物よりも見つけやすいから」
・この春、盲学校を卒業し、別々の場所へ旅立つ。

・1月23日(土)9時40分。撮影最終日、外はあいにくの曇り空。寒さのためか僅か15分で室内に。

(2016/6/10視聴・2016/6/10記)

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【歴史秘話ヒストリア】新選組 ボクたちの友情と青春

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【歴史秘話ヒストリア】
「新選組 ボクたちの友情と青春」

(NHK総合・2016/6/10放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

 今回のヒストリアは放映前から何かと話題になっていました。後で知ったのですが「新選組」の再現ドラマに出演した面々が「仮面ライダーシリーズ」の俳優だったということです。

・永倉新八 渡部秀(仮面ライダーオーズ)
・藤堂平助 佐野岳(仮面ライダー鎧武)
・土方歳三 佐藤汛(じん)(仮面ライダーガタック)
・沖田総司 永瀬匡(仮面ライダービースト)
・近藤勇 賀集利樹(仮面ライダーアギト)

 いずれも視聴していない私にはピンと来ない話でした。まあ、殺陣のシーンはそれなりに迫力あったのも頷けますが。

 ということで…そちらの話題先行の感じで、内容としては「初めてでもよく分かる新選組」というものでした。新たに知ったことは永倉新八のチョッキが残されていることと、京都で土方歳三の刀が一般公開されていることぐらいでしょうか。

 「歴史秘話ヒストリア」は、歴史初学者向け講座に特化した番組になるのでしょうかね。これが続くならタイトルから「秘話」取った方がいいんじゃないの?と思いますね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・幕末の京都で相次ぐ暗殺や放火などの凶悪事件。そんな中、近藤勇、沖田総司、藤堂平助、土方歳三、永倉新八など町の治安を守るため命を懸けた若者たちがいた。揃いの羽織に「誠」の旗、そして「御用御改!」の名台詞。新選組だ。彼らは力を合わせて危険な任務に身を投じていった。
・ところが明治になると新選組は新政府に逆らった反逆者と見做されるようになった。
・そんな中、「浪士文久報国記事」という手記が世に出た。書いたのは元隊士の永倉新八。新選組の真実を世の中に知らせたいと、たった一人で闘い続けた。
・新選組を今に伝えた男と、その仲間たちの友情の物語。

<オレたちは新選組だ!>
・時は幕末、江戸にある試衛館という貧乏道場を一人の若者が訪ねてきた。永倉新八、後に新選組最強の剣豪と言われることになる男。このとき23歳、剣の道を極めようと全国の道場を訪ね歩いているところだった。
・試衛館で当時使われていた木刀が残っている。特徴はその大きさ。通常の木刀よりも太く長くすることで、その重さを本物の刀とほぼ同じにしていた。刀を用いる実戦を想定した稽古を常日頃から行っていた。
・永倉新八は仲間に加わった。試衛館に強く惹かれたのは、その生い立ちにも理由があった。彼は松前藩の江戸藩邸に務める役人の家に生まれた。幼い頃からとにかく剣術が大好きで、暇さえあれば竹刀を振るっていたという。
・ところが父親からは「剣術など藩の務めには何の役にも立たない、剣の道を諦め早く藩の仕事を学ぶように」と再三にわたって迫られていた。
・やがて家を飛び出した永倉が辿り着いたのが試衛館だった。仲間たちと稽古三昧の日々が始まった。5歳年下の藤堂平助という後輩もできた。永倉と同じく実戦を第一とする試衛館の剣術に魅せられて仲間に加わった。
・自分たちの剣の腕をいつか役立てたい。そんな思いが募っていった。
・永倉が試衛館に来て2年が経った頃、幕府が京の都の治安を守るため広く人材を募集するという知らせが彼らのもとに。当時、都では幕府に不満を持つ勢力が集まり、役人を暗殺するなど凶悪事件を繰り返していた。そうした輩を取り締まるため、剣の腕の立つ者を募集したのだ。条件は体力に自信があり精神力が強い者。身分は問わない。
・このときの覚悟を詠んだ永倉の歌が伝わっている。

武士乃節を尽くして厭くまても貫く竹の心ろ一筋
(世のために剣を振るおうという武士としての志。仲間と誓い合ったその志を竹のように真っ直ぐ最後まで貫いてみせる)

・それから1か月後、永倉たちは江戸を離れ京の都に上った。このとき寝泊まりした屋敷の一部が今も残っている(新選組 壬生屯所跡 八木邸)。幕府から提供された下宿先で寝食をともにしながら治安を守る活動を始めた。
・隊の名は新選組。旗には幕府への忠義を意味する「誠」の一字。新選組は都の治安を脅かす者たちの取り締まりに力を尽くしていった。
・やがて永倉たちの剣の腕が天下にとどろく出来事が起こった。都を焼き払おうと企てている浪士たちがいると聞いた彼らが池田屋に駆けつけ鎮圧した(池田屋事件)。
・池田屋事件で一躍名を上げた新選組は、大坂での取り締まりも任されるなど幕府からも一目置かれる存在となっていった。
・隊士を増やし大きな組織に変貌していく新選組。しかしそのことが永倉と仲間たちに暗い影を落とすことになった。

<さらば友よ>
・池田屋事件から半年余り経つと、隊士も増え大所帯となった新選組の雰囲気は江戸の試衛館の頃とは様変わりしていた。この頃の近藤の様子が伝わっている。

近藤勇は他の同志を家来のように扱い、命令を聞かないならば剣に訴える(「新選組顛末記」より)

・隊の規律を乱す者は、江戸の頃からの仲間でさえも容赦なく処罰された。新選組の変化に永倉と藤堂は戸惑いを隠せなかった。
・やがて永倉の不安を現実のものとなった。近藤には付いていけないと隊を離脱する者が相次いだ。その中には親友の藤堂平助の姿もあった。
・そして永倉は近藤から藤堂たちが自分の命を狙っているとの命を受け、京都・油小路で待ち伏せ。永倉は一旦は藤堂を逃がそうとするが、他の隊士の手によって藤堂は斬られることになった(油小路事件)。
・その後、新選組を待っていたのは、嵐のような幕末の動乱だった。幕府に反発する動きが相次ぎ、全国で戦いの火の手が上がった。
・新選組は幕府軍の一員として奮戦したが、幕府軍は薩摩・長州藩を中心とする新政府軍に敗北、徳川幕府は滅んだ。時代の激流の中、永倉たちも波乱の運命を辿ることになった。

<友のためオレは戦う>
・今年4月、京都・霊山歴史館で展示が始まった一振りの刀がある。土方歳三の愛刀・大和守源秀國。細身で反りが浅く、片手でも勢いよく振りやすい実戦向きの刀。土方が鳥羽・伏見の戦いのときに使ったものと伝わっている。
・全国を巻き込んだ新政府軍との激しい戦闘で土方歳三は戦死。沖田総司は肺結核のため病死。
・また近藤勇は斬首。彼の死を伝える当時の瓦版には、新政府に刃向かった反逆者として近藤勇は晒首になったと書かれている。
・生き残った他の隊士も命を狙われることになった。仲間と散り散りになった永倉は、北海道・松前に身を隠していた。名前も変え人目を忍ぶようにひっそりと過ごす日々を送った。
・それから3年が経った。永倉は思いも寄らない知らせを目にした。それは政府がこれまで禁じていた旧幕府軍戦没者の慰霊を許すというものだった。
・新選組の慰霊碑を建てようと4年ぶりに上京した永倉は、さっそく資金集めに奔走した。ところが慰霊が許されたとはいえ、新政府に逆らった新選組を忌み嫌う雰囲気は人々の間に根強く残っていた。時にはひどい侮辱を受けることもあった。
・友の供養をしたいというささやかな願いは、なかなか叶えることができなかった。そこで永倉は、自分が知っている新選組の本当の姿を書き残せば世間の目も変わると思った。
・書き始めは、江戸の試衛館で剣に打ち込んでいた頃のこと。

近藤勇は剣術道場を開き日々稽古に励んだ。
稽古が終わると各々議論した。
いつでも国のためなら命を投げ出す覚悟であった。(「浪士文久報国記事」より)


・新選組の汚名を晴らしたい、その一心で永倉は筆を執り続けた。しかし、どうしても彼には分からないことがあった。それは近藤の最期についてだった。
・当時のことを知っている人がどこかにいるはずと、永倉は方々を訪ねて回った。そしてついに近藤の最期の様子を知る旧幕府関係者に辿り着いた。

近藤は新政府軍に捕らえられた。新政府軍は降伏謝罪をするよう三度迫った。「それがし朝廷の軍に下るつもりなど毛頭ござらん。他の新選組の者どもも同じでありましょう。何度聞かれようとも謝罪などありえませぬ」。(同上)

・近藤は最期の瞬間まで、幕府に忠義を尽くすという武士としての「義」を誇り高く貫き通した。

<生涯を通して仲間との友情を忘れなかった永倉新八>
・永倉が仲間とともに体験した全てを記した「浪士文久報国記事」。この手記をきっかけにその後、新選組を見直そうという動きが広がっていくことになった。
・明治9年、永倉は悲願だった慰霊碑を建てた。そこには幕末の動乱で命を落とした新選組の仲間112人の名を刻んだ。
・永倉は晩年を北海道・小樽で過ごした。そして大正4年(1915)、77歳の生涯を閉じた。
・子孫の家には、永倉が愛用していたチョッキが伝わっている。新選組隊士の頃に着ていた羽織を仕立て直した裏地に、彼は仲間との大切な思い出を記した。

武士乃節を尽くして厭くまても貫く竹の心ろ一筋

・近藤たちとともに京の都へ旅立つときに詠んだ歌。

ともに戦ったあの時代、あの仲間というのがオレのすべてなんだということを、手触りとして持っておきたかった。身近に置いておきたかったっということはあるんだと思うんですよ。それが友情の証しであり、自分の生きた証しだと絶対思っていたから(永倉新八のひ孫・杉村悦郎さん)

・「浪士文久報国記事」の終わりに永倉が一番伝えたかった一文がある。

ここに書かれていることは決して作り話はない。すべて実話である。

(2016/6/11視聴・2016/6/11記)

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【ブラタモリ】#41 お伊勢参り~人はなぜ伊勢を目指す?~

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【ブラタモリ】
「#41 お伊勢参り~人はなぜ伊勢を目指す?~」

(NHK総合・2016/6/11放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>

 先週に引き続いて伊勢の特集。今回は有名な伊勢山田駅も出てきて面白かったです。ホームからバスに乗車できるという話は聞いたことがありますが、現在は使われていないようですね。ぜひ乗ってみたかったです。

 伊勢志摩サミットの効果もあって今は観光客わんさか状態になっていることでしょう。もう少し落ち着いたら、私もお伊勢参りしたいですね。江戸時代の伊勢講ではありませんが、旅行積立を今からしておこうかな。もちろん男性の歓楽街は残ってたとしても行きませんが(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・前回から引き続き舞台は三重県の伊勢。江戸時代「一生に一度はお伊勢参り」と言われ、日本人の6人に1人が伊勢を目指したと言われている。
・人はなぜ伊勢を目指すのか、前回は伊勢神宮の式年遷宮と御師のおもてなしについて学んだ。

・江戸時代に牧野という人が残した旅行の道中記と、彼らを迎えた御師・丸岡家が残した記録。2つの資料を照らし合わせると、江戸時代の人がどんな旅を楽しんでいたのか分かるという。
・日記には御神楽と記してあった。御神楽とは家内安全や五穀豊穣を感謝し舞をおさめる神事のこと。江戸時代、お金を払って御師に御神楽をあげてもらうこともお伊勢参りの目的の一つだった。
・御師・丸岡家の記録に書かれた300年前のおもてなしの献立を特別に再現した。煮物、なます、刺身、汁物、さらに鯛やアワビなど全12品。神様へのお供え物と同じ食材も楽しめる豪華な食事だった。
・鯛の刺身は煎り酒(酒に梅干などを加えて煮詰めた調味料)で食べていた。
・17人5泊6日で60両(現在の価値で600万~1000万円)掛かったという。

・お伊勢参りの醍醐味が分かる2つの資料。実は伊勢を目指すさらなる目的のヒントが書かれている。「古市」に行ったという記述。古市とは宇治との山田の間にあった町で、江戸時代には遊女1000人を超える大きな歓楽街だった。江戸や京都に次ぐ遊郭と言われ、お伊勢参りの人たちが目指した場所の一つだった。
・さらに芝居小屋や料理旅館も建ち並び、女性も楽しむことができた。
・一行は創業200年以上の料理旅館を訪れる。斜面に沿って階段状に建てられた5階建て。創業当時から景色を楽しみながら料理を味わうことができる旅館。

・次に一行は門前町・山田と海を結ぶ川のそばへ。参拝とは違う目的で伊勢を目指す人たちがいたという。全国の商人が船で訪れ、河崎で荷揚げをした。それから物資はお伊勢参りで賑わう門前町へと運ばれた。
・物資の中継地として栄えた河崎、川沿いに蔵が建ち並び問屋街が広がっていた。
・一行は民家に保管されている日本最初の紙幣「山田羽書」を見る。金や銀など地方によって種類の違う貨幣が使われていた江戸時代、全国の商人と取引する必要がある伊勢だからこそ生まれた。いろいろな金額の紙幣があり、金や銀への換金が保証された画期的な仕組みだった。山田羽書をモデルに他の地域でも紙幣が発行された(藩札)。
・250年以上、一度も途切れることなく発行されるという高い信用を誇った山田羽書。この紙幣を支えていたのは御師だった。

・再び内宮へ戻ってきた一行。伊勢の町を研究している三重大学工学研究准教授(建築学)の浅野聡さん。明治以降、伊勢がどう変わったのか案内してくれる。
・明治4年に国の方針で御師の制度が廃止された。御師が居なくなった明治以降、どう人に伊勢を目指してもらうのか、それが分かる痕跡があるという。
・明治天皇が伊勢神宮を参拝するための御幸道路が明治43年(1910)につくられ、その道路整備をきっかけに伊勢は人々がより目指しやすいところになった。
・大正9年(1920)、東京から伊勢神宮までの道は「国道1号」と定められた(現在は国道23号)。さらに伊勢を目指す交通網は次々と整備されていった。
・次に一行が向かったのは昭和6年(1931)に開業した宇治山田駅の駅舎へ。お伊勢参りの玄関口として相応しい駅舎を目指し豪華な洋風建築で造られた。大阪-伊勢を2時間半で結び、日帰りで参拝できるようになった。
・一行は神都バス(昭和36年まで外宮と内宮の間を走った路面電車をモチーフにつくられたバス)に乗車すると、スロープを上がってホームある階まで。さらにその奥には平成5年まで使われていたバスの転車台も。
・さらに鉄柱には線路を敷くことができる痕跡も残されている。線路を内宮まで延そうとした可能性がある。
・明治以降、鉄道と道路をによって新しい参拝スタイルが生まれ、より多くの人が伊勢を目指すようになった。

・最後に一行は内宮の門前町・おはらい町へ。年間500万人が訪れる一大観光地。
・鉄道や観光バスによる参拝が主流となった昭和40年代。内宮の参拝客は400万人を超える。しかし交通が便利になったことで、かえって門前の「おはらい町」に立ち寄る人は減り、鳥羽や志摩など次の観光地へ向かう流れが生まれてしまった。当時のおはらい町は「日本一滞在時間の短い観光地」と言われるほど大きな危機を迎えていた。
・地元の人たちと行政によって通りに面した建物の外観を江戸時代の建築様式に統一(伊勢市まちなみ保全事業)。魅力的な町並みに変えた。一時20万人まで落ち込んだおはらい町の観光客数は500万人まで回復した。
・20年に一度、全ての社殿を建て替える式年遷宮。3年前には1420万人が訪れた伊勢神宮最大の神事。
・明治以降、式年遷宮に合わせて20年に一度、伊勢神宮とともに町も成長してきた。変わりゆく町も伊勢の魅力の一つ。

(2016/6/12視聴・2016/6/12記)

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「#4 金沢の「美」~金沢は美のまち!?」
「#3 金沢~加賀百万石はどう守られた?!」

【明日へ―つなげよう―】渡辺謙 僕に、できること 再会 6年目の希望と苦悩

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【明日へ―つなげよう―】
「渡辺謙 僕に、できること 再会 6年目の希望と苦悩」

(NHK総合・2016/6/12放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 渡辺謙さんは東日本大震災が発生してから度々被災地を訪れて被災者支援に取り組み、さらに気仙沼の港にご自身がオーナーを務めるカフェを開設しています。私も気仙沼を何度か訪ねていますが、そのお店で昼食をとったことがあります。地元産の海の幸、野菜を使った美味しいカレーを食べました(訪問時の記事は→こちら)。

 そんな彼が気仙沼、陸前高田そして葛尾村を訪ねて地元の人たちの率直な思いを聞いた今回の番組、日曜日の昼間に放映するのは勿体無い(NHKスペシャルでゴールデンタイムに放送した方がいい)ぐらい中身が濃いものでした。

 やはり毎回感じることですが、気仙沼や陸前高田と福島の被災地との決定的な違いは、原発事故による影響ということでしょう。さらに気仙沼でも魚の放射線測定をしているということは初めて知りました。そこまで根が深い問題だということですね。

 謙さんほどライフワークにすることは出来ませんが、私自身も東北へは毎年伺い、目に見える変化(不変化)を感じ取ってきています。これからもこうした地道なことはしていきたいし、また謙さんのレポも引き続き観たいと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・ようやく春を迎えた5月半ばの東北。東日本大震災の被災地を再び訪れた渡辺謙さん(以下、渡辺)。あの日以来、避難所などを何度も訪れ、約1万人の方々に会ってきた。
・6年目に入った今、自分に出来ることは何だろう。人々と再会し、どんな思いで今日を生き、明日を見つめているのか耳を傾けた。

<宮城県の魚市場で聞いた放射線測定>
・宮城県気仙沼市の魚市場を訪ねた。この町の基幹産業といえば震災前、経済の8割を占めていた水産業。津波で魚市場も大きな被害を受けたが、6年目に入りどこまで復活しているのだろうか。
・再会したのは気仙沼漁協の熊谷浩幸さん。最初に会ったのは震災の2年目の冬、魚の鮮度を保つのに欠かせない氷の製造工場が復活したということで「これから」について話を聞いた。

1年目は被災者ですよね。2年目は半分被災者。半分はもう正常なという感じだったんですけど、3年目はもうほんとに正常と見なされて、やはり勝負の年っていう(当時の熊谷さん)

気仙沼の漁業市場としては今、どういう状況なんでしょうか?(渡辺)

去年が震災以降でようやく震災前に近づいたかなという水揚げまで復帰しまして、震災以降ずっと目標にしてたところに近づいてきたかなというような状態。目標が年間10万トン以上だから、その部分ではまだまだ目標には達してはいないが、震災前直近のところの数字的には近づいているかな(熊谷さん)

・今回、魚市場で意外な光景を目にした。漁師や仲買人に混じって白衣を着ている男たち。放射線測定室の検査員だった。福島の原発事故の影響で放射性物質が魚の中に含まれていないかどうか、今も毎日水揚げされた魚ごとに確かめているという。1kgあたり100ベクレル以上の場合は入札を中止する。こうした検査を震災6年目に入ってもなぜ続けているのか。

実際に気仙沼で検査をして放射能が出たとかそういうことは、一度もないわけですよ。でももし、何か放射能の話題がニュース上で流れると、すぐ敏感に反応してくるのが消費者であり今の世の中なので。ちゃんと我々検査して全く安心な魚ですよということを答えとして出せるんで(熊谷さん)

それこそカツオのシーズンだ、サンマのシーズンだって、多くなればなるほど大変になってくるわけじゃないですか。いちいち全部やるわけですから。でもそれはある種、気仙沼の安心マークなんだというふうに考えれば、それはもう決して無駄なことでもないし(渡辺)

気仙沼の魚が安心であるということの保証的なものとして検査を続けていく。これはこういう放射能の話題が全く出なくなるまで続けていこうと思っています(熊谷さん)

<気仙沼の水産加工業はどこまで復興しているか>
・震災6年目の気仙沼の水産業。その変化を実感できる場所があると、熊谷さんに教わった。大規模な水産加工場、ここ1~2年で続々と出来ているという。

だからまだまだな感じはするけど、ここで見ると相当建ったんだなという気はするよね(渡辺)

・1日200トンの魚を処理できる巨大な加工場。市場で水揚げされた魚をすぐに運び込み、大きさを選別したうえで梱包し出荷する。

魚だけは初期の手当てが悪いと全然価値はなくなりますから。やっぱりその鮮度感であったり、こういった再選別をきっちり分けるということは大事な作業なんですね(水産加工会社社長の阿部泰浩さん)

・こちらでは魚の骨や内臓を取り、身の部分だけを冷凍する作業が行われていた。

例えば冷凍する施設もない、保管する倉庫もない、水揚げしたものは生で売るしかないというとこから始まって、今は少しずつこういう冷凍する設備、保管する設備、また加工する設備もだんだん充実してきて、これからが本当の復興なんだなと思ってます(同上)

ほんとにこれぐらいあると、もうどんと来いと、魚どんと来いって感じですね(渡辺)

今は早く魚来ないかなっていう気持ちですね(阿部さん)

<気仙沼の造り酒屋>
・次に向かったのは100年以上の歴史を持つ酒造会社。社長の菅原昭彦さん、最初に出会ったのは震災1年目だった。
・震災直後、電気も水道も止まり、酒を造れる状態ではなかった。

迷ってたらですね、それを聞きつけた私の大親友っていうか後輩なんですけど、彼からこういう(メールが来た)(当時の菅原さん)

「発電機使って絞ったら?軽油は準備します。被災地からの生産物の出荷は市民を勇気づけると思うから。私的な関係でやるのではありません。是非、被災地の産業を絶やさないでください」

とにかく市民のために、復興のためにやってくれという人たちがいっぱい現れました(同上)

・気仙沼の健在ぶりを伝える。その使命を担って酒造りが再開した。
・震災2年目、再び訪れると、前例のない真夏の酒造りに挑んでいた。その懸命な取り組みの背景には、支援のためにと全国から注文が殺到した震災1年目とは異なる状況があった。

もうわーってこう盛り上がった時期からは、どんどん下火になってきて。去年の売り上げの何割減っていう感じですよね(同上)

菅原さんのとこのお酒の売り上げも、世の中の関心と同期してるみたいなところがあるっていうことなのかな(渡辺)

それは感じますね(当時の菅原さん)

ここがうちにとっては第二の正念場みたいなところでして。震災のときもすごい正念場だったんですけど、こう落ちかかったときもこれはやばいぞと。ほんとにえらいことになるんじゃないかっていう思いだったんで、そうならないように一生懸命頑張ろうということで(現在の菅原さん)

下げ止まりとしては3年目ぐらいで(渡辺)

そうですね、下げ止まって。今はその下げ止まりを今度はもう少し上に上げていきたいなと思って取り組んでる状況ですね(菅原さん)

ちょっと上向いてきたというのは、どういう要素があって(渡辺)

我々震災で気づいたことは、酒蔵と飲み手の関係というのをものすごく考えさせられたんですよね。顔が見える相手にきちんと我々のお酒を伝えていかなきゃいけないんだなと。そこからしかないんじゃなかと思って、いろんなお酒の会を呼んでいただいたり、そういうときは積極的に出ていったり。私が全部行ければいいんですけどそうもいかないので、うちの社員総出で、造る人間も営業の人間も配送の人間もみんなで手分けして。そういう機会がとにかく来たらチャンスだと思って、断るなみたいな(菅原さん)

・酒蔵の設備も改良を重ねていた。

冷水用。このタンクで、このカバーも温度を保つ。1度とか2度とかの冷水を常時回し続けることで…(同上)

結局、温度管理がいろいろ細かくできるようになったってことですね(渡辺)

時代も進んでいきますから。この時間の、5年の経過の中で。5年前に戻ったら、もう時代から取り残されるということですよね。だから我々はもっと先を見なきゃいけない(菅原さん)

<気仙沼の市民の間で広がっている戸惑いとは>
・震災から6年目。復興への確かな足音を感じられるようになった気仙沼。しかし市民の間で戸惑いが広がっていることがあった。
・住民と行政とのあいだで議論となっていた防潮堤の建設。懸案だった高さは5mから高いところで15mと決まり、工事が始まっていた。
・しかし住民の多くが求めてきたのは、海との共生。にも関わらず行政の姿勢は、一貫して防潮堤ありきだったと菅原さんは言う。

僕らが学んだことっていうのは、自然の力には誰も勝てないということなんです。それを何とかしようというそもそもの考え方がね、おかしいんじゃないかと思うんですよ。だけどこうやって出来ていって、例えば確かにこっちには産業エリアが広がるんで、これはこれでいいとしても、実際に暮らしがある生活の場と近いところは、できるだけ圧迫感をなくしてほしいとかですね、そういう今、調整をいろいろやってもらってるところですけどね(菅原さん)

・さらにもう一つ、案内された場所があった。全長約5kmの沖ノ田川に造られた堤防。

これは一体どこまでこれを続けるつもりなんですか?(渡辺)

これずっと川沿いに、上の方まで上流まで続けるんでしょうね(菅原さん)

・震災のときは高さ10mを超える津波が川を遡った場所だった。そのことは菅原さんも十分に理解をしているのだが…。

だから我々から見れば、すごい違和感ですよね。他のやり方なかったのかなというような(同上)

・再び起きるかもしれない災害への備えと、日々の暮らしを豊かにしたいという願いがせめぎ合う。それが目に見える形になってきたのも6年目の現実だった。

<陸前高田で交流のある子どもたちと両親>
・次に向かったのは、町全体が壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市。津波で流された地域に新たな町を生み出す計画。大量の土を運び、高さ12mにも及ぶ土地の嵩上げが進んでいた。
・訪ねたのは菊池さん一家。長女の里歩ちゃんとは特別な縁があった。震災直後、渡辺謙さん夫妻が陸前高田の避難所で支援物資を手渡したとき、里歩ちゃんはまだお母さんのお腹の中にいた。
・その後、里歩ちゃんに度々会いに来て成長を見つめてきた。5歳になった里歩ちゃんと小学校1年生のお兄ちゃん。2人の子育てをしながら震災6年目を迎え、ご両親は何を感じているのだろうか。

相変わらず遊び場はないんですよね。やっぱり30分40分かけて隣の町の公園に行ってるんですけど。この辺だとダンプがすごいんで(菊池静さん)

どっか空きスペースを見つけて、あそこ遊べそうだなって。(菊池隆行さん)

ちょっと坂道ばっかりなんで平らな所を探して。どんどん大きくなってくると、だんだん活発に。夢中になったときにボッとね道路に飛び出さないかなというのが心配なんで、なるべく車の出入りが少ない所を探しますね(静さん)

運動能力は落ちてますね。あとは肥満傾向だとか(隆行さん)

体力がやっぱり落ちてるんですよね。結局、統合によってスクールバスを使ったり、あと交通量が多いので親が送り迎えとかしたりするので。そういうので体力が落ちてますよね(静さん)

やっぱり未だにあれだけまだ物が建ってない状態だと夜真っ暗って感じ?(渡辺)

真っ暗ですね(静さん)

ほんとにいつそこに町の灯がともるのかなって感じだよね(渡辺)

<陸前高田でカフェを営んでいる青年>
・陸前高田では仮設の商店街でカフェを営む青年とも再会した。今年39歳になる熊谷亮さん、町の中心部にカフェを開いたのは2008年。若い世代が次々とふるさとを離れる中で「あそこに行けば誰かに会える」そんな場所が必要と考えたという。開店から3年、次第に常連客も増えてきたとき津波が店をのみ込んだ。
・彼との最初の出会いは震災2年目の冬。里歩ちゃんのお母さんから頑張っている先輩がいると紹介された。

3月で3年、要するに3年目っていうか、丸2年超えて3年目になるじゃないですか(渡辺)

とりあえず次、店建てて、家建てて、どっちが先になんのみたいな感じだよね(当時の熊谷さん)

・現在の心境を尋ねた。

どう?あれからの3年というのはどんな感じ?早かった?今6年目(渡辺)

早いんですかね(熊谷さん)

前よりも気持ちは楽になってる、それとも重くなってる?どっち?(渡辺)

うーん、あんま変わんないですかね。一生懸命やるしかないんだろうなってしか思わないんで。もう最初に決めたことですからね。ここでやるって決めたんで。嫌だったら他に行った方がすごく楽なの分かってるんですけど。人がいる所でやったらいいんでしょうけど。決めてやっているんで(熊谷さん)

これ例えばこの高田のこういう…やってる仲間なんかと、そういうこと話したりもするの?(渡辺)

しますします(熊谷さん)

どう?(渡辺)

企画委員会で委員もやってるんですけど、その中では結構みんな前向きで。若い子とか子どもたちに選択肢としてなくなるのは寂しいから、何とか盛り上げてどうしようかなっていう選択肢ぐらいは与えたいなというので、頑張ってます(熊谷さん)

帰ってきてもいいかなっていうぐらいの町にはしてあげたいよね(渡辺)

何もないから嫌だと言われるようにはしたくないんで(熊谷さん)

・復興に時間を要する中で、課題も様々出ている陸前高田。しかし熊谷さんのような強い意志を人々が持ち続ける限り、明日への道は開ける。6年目の希望だった。

<全村避難が解除される葛尾村で酪農を営んでいた青年>
・福島県葛尾村、原発事故で1500人の住民全員が村外への避難を強いられた。
・震災1年目、殆ど人の気配が消えていた葛尾村。しかしその後、除染が進んだことを理由に、国は今年6月12日に避難指示を解除することにした。帰還困難区域を除いて住民は村に戻って生活することが可能になった。
・佐久間哲次さん(40)、村で酪農を再開するため準備に入っていた。20歳の頃から酪農一筋。年々、経営環境が厳しさを増す中、最新の繁殖技術などを取り入れ震災前、酪農をビジネスとして確立させていた。
・その佐久間さんと最初に会ったのは震災2年目。

もう一回あそこでできるっていう気持ちは持ってらっしゃいますか?(渡辺)

持ってます(当時の佐久間さん)

それは除染をして、もう一回立て直してやろうということですよね(渡辺)

夢物語の部分もあるんですよ、やっぱり実際。ただ若い人たちは全員が戻らないっていう選択をしてるわけじゃないと(当時の佐久間さん)

・あれから4年。

もういいや、別のとこでやろうかっていう、そういう思いみたいなものってありました?(渡辺)

ありましたね(佐久間さん)

そっちに行かなかったというのは、やっぱり意地もある?(渡辺)

そうですね、やっぱりうちは何か別のとこに行ったら負けたような気が…しゃくだっていう。他の所に行ったら、そこの行った所でそれなりにやるだけなんですけど。ここっていつまでも心に残ってますよね。建物もあるんですね(佐久間さん)

・震災2年目。佐久間さんとはこんな会話をしていた。

不便な所から便利な所に行ってしまったと。やっぱそこの部分がね、すごくいろいろな影響が出ている(当時の佐久間さん)

ちょっと媚薬に近いとこあるからね。便利さっていうか、スーパーは近くにあるし(渡辺)

自分自身はね、やっぱり怖い部分があるんですよね。変わってしまうんじゃないかという(当時の佐久間さん)

・現在はどうか。

当時は媚薬みたいなって言ったけど、その感覚っていうのは逆にいうと、もう当たり前になりつつあるわけじゃない。それってどうなの?(渡辺)

僕としては、そういうふうなものになってると思います。もう既に。みんな生活レベルがそれなりに上がってしまった。それに対するものっていうのは、村に対しても要求されると思うんですよね。戻ってくるためには、それに近いような環境であったり、そこまでいかなくてもそれがあまり落ち過ぎないっていう(佐久間さん)

・実は若い世代の5割以上は、避難指示が解除される前に既に葛尾を離れる決断をしていた。

長すぎたって言うしかないですよね。もうバネが切れたようになってしまったんですよね、やっぱり。もう待てないってなっって4年目から5年目にかけての一気に流動が来たっていうのは。そこで住宅を用意した人たちが飛躍的に伸びた。で、仮設を出る人たちが伸びたっていうのは(同上)

だって普通さ、都会にいてもさ、こっちの学校の方がいい環境だと思えば別に移ったっていいし。もう条件のいい方にいい方にって、それは行くのは普通だからね(渡辺)

だからやっぱり、みんな冷静になって冷静に判断したということなのかなと。パニックみたいなのが収まったっていう。それで冷静になって冷静に考えたら、こうするのが当然だよなというふうに動いたのかなというのは(佐久間さん)

<三春町に造られた葛尾村の復興公営住宅>
・村の繋がりをどうれば守れるのか。震災1年目、渡辺謙さんは仮設住宅に避難している人たちとこんな会話をしていた。

昔の村じゃないけど新しい村をつくろうという形の方がいいんじゃないかなと思うんだよね。だからこれやらないと、みんなほっとけばバラバラになりますから、帰らないから(男性)

どこかにきちっと別の村でもつくるっていうのはありなんですかね(渡辺)

そうしてもらえると…(女性)
ありです(男性)


・あの話が現実になっていた。村のコミュニティーを守るうえで切り札となる場所。葛尾から車で50分の場所に村が土地を買い、106戸の戸建て住宅を造っていた(三春町にある葛尾村復興公営住宅)。帰還困難区域の住民や、村に戻る意思を示しつつも今はまだためらう若い夫婦、約300人にこの夏までに入居してもらう。

やはり子どもの学校のことがあるので、しばらくは三春にいて、いずれは私と旦那ですけどね、戻るみたいな感じで(松本信子さん)

それはやっぱり、ふるさとっていうか葛尾に対する愛着みたいなものは?(渡辺)

うーん、それもあるんですけど、一番やっぱり年寄り?お母さんの心配ですね。家の心配ですかね(松本さん)

・このプランを後押ししてきた中村健彦さんを訪ねた。彼は準備宿泊という制度を使い、既に去年8月から葛尾村に戻って生活をしていた。

三春に造ったからね、災害住宅。復興住宅という名前になって。まあ、行政は苦労したと思うよ(中村さん)

それは村が存続するという意味では大切なことなわけですよね。そのコミュニティーを崩さない。もう一回ちゃんとそこでつくるっていう意味ではね。でもそれは要するに、ここに戻ってくるっていうことではないわけじゃないですか(渡辺)

まあ、将来的には戻ることを前提にしてますから。あれも復興住宅ですから、永遠に続くわけじゃないから(中村さん)

そうなんだ。期限もあるんですか?(渡辺)

いや、今は決まってないけど、5年経ったら処分しますよとか、いろいろなパターンが出てくると思う(中村さん)

・中村さんは東京で長くサラリーマンをしていた。定年を迎え、農村で穏やかに暮らしたいと11年前に葛尾に移住した。しかし理想の生活は原発事故で断ち切られ、震災後は仮設住宅での暮らしが続いていた。

この5年っていうのは、どういう感じだったですか(渡辺)

意外とね、まあ、1年目はカリカリしてたからね。ご承知のように、これ、夢を持って投資もしたんだけど万歳したから…あったけど、3年目4年目ぐらいになったら、もう冷静に現実に直面するしかないというのが、僕の感想ですよね。じゃあ、どうするかと。諦めるわけにいかないからね、これ(中村さん)

もうやっぱり、ここ生活するのに、どうしてもやっぱり線量気になって、もういいやって行く感じではなかったんですね(渡辺)

全然なかったね。もちろん水を確保してもらったことと、あとは線量は測ってますから。ここで年間1ミリぐらいだから、私のところは。だからそれで条件が揃ったから帰ろうと(中村さん)

井戸はどれぐらい掘ったんですか?(渡辺)

うちは50m。水自体は30mから吸い上げてる。東電は70mまでは掘るって言う(中村さん)

それは全部やっぱり検査も(渡辺)

もちろん検査もする。(飲み水としても)大丈夫(中村さん)

・飲料水の確保にも目処が立ち、1年以内に村に戻る人は150人から300人と予想されている。

この村にとって、これから本当に何が必要なんでしょう?(渡辺)

抵抗することはないと。自然でいこうと。それで帰った人が豊かになれば、出ていった人もやっぱりあそこがいいやと、都会はなじまないというので戻ってくるからいいんじゃないのと。だから一番小さな村でもいいんじゃないのと。豊かになれば、住んでる人が楽しければいいんだと。だから世の中も変わるでしょう。昔みたいにドンドンじゃないからね(中村さん)

少し発想を変えたり無理をしないとか、そういうふうに考えていくと少し緩やかな道は開けてくるっていうことなんですかね(渡辺)

<村に戻る決断をした大衆食堂を営む家族は>
・村に戻って人々が暮らすには、医療機関や商業施設も必要。その点で1日も早く葛尾に帰ってきてほしいと期待されている店がある。
・震災1年目、渡辺謙さんは仮設住宅で大衆食堂の営業を再開した石井さん一家を訪ねた。出される料理は大盛、村で一番人気だったという理由がすぐに分かった。

村を案内することもできないし。私にとっては自慢の村でしたから(当時の石井瑛子さん・長女)

・あらためて訪問して尋ねた。

おねえちゃんは結婚したんだよね(渡辺)

そうなんです(石井恵理子さん)

結婚して旦那さんの方に…(渡辺)

会津の方に。(子どもが)2人、女の子2人(石井一夫さん)

そういうのを見ると、月日が経ったんだなって気がしますよね。5年経ったじゃないですか。慣れた?慣れたっていうか…(渡辺)

何だか慣れたっていうんだが、まあこんなもんだべなって思うようになってきたけども。そんなに長くは感じなかったけど、いずれは帰んなきゃなっていう頭はあったから(一夫さん)

・村に戻ってからの店の予定地。震災前は借地で営業していたが、今回を機に思い切って土地を買ったという。

そういう不安と楽しみの度合いでいうと、100でいうとどれぐらいですか?(渡辺)

楽しみの方がちょっと上ではあるんですけど(恵理子さん)

7・3ぐらい(渡辺)

そう、まあ7・3までは…6・4ぐらいかな(恵理子さん)

自分の店を一生かけて一代で新しい店舗をつくるわけですから、つくったわりには、やっぱりみんなで一緒に頑張って(一夫さん)

要するに、やるしかないっていうところ(石井秀昭さん・長男)

頑張らなくちゃなんねえなって今は思ってます(一夫さん)

・しかし石井さん一家は、村に帰るうえでのジレンマも抱えていた。今の仮設で営業を再開した当時、売り上げは村にいたときと比べ3割に落ち込んだ。しかしこの5年で7割にまで回復させていた。

ようやく、ここ最近1年ぐらいですかね、5年目ぐらいになった頃から周りの地区で使ってもらって、そこからまた話題が広がって、じゃあ今度、私も使ってみようかなっていうことで、村にいた頃とは違うお客さんが、要は発掘できたわけなんですね(秀昭さん)

近くにあって良かった。助かってるよ。この格好で来れるからね、ここね(男性客)

変な話、さみしくなる。ずっとね、5年もいるんだよ(男性客)

今度はまたそのお客さん、新しくついたお客さんを残してというか、離れてまた村に戻るわけですから、また5年以上かかって開拓というか、新しいお客さんをつくっていくのかなと考えると、ちょっと複雑な感じになったところはあるんですよね、やはり。だけど、村に帰るお客さんも大事ですから(秀昭さん)

前って、あそこ浜通りに抜ける道でもあったわけじゃないですか。向こうへ抜ける道の途中のお客さんもいっぱい来てたわけでしょ?だけど今はそっち行く人はいないし…(渡辺)

通れないですよね(一夫さん)

葛尾にいる人もそんなには住んでる人はいない。でもやっぱり帰りたいっていうことなんですよね(渡辺)

そうです。帰って、やろうっていう。みんな、家族で決めたことだから。だから店をやりましょうと(一夫さん)

・避難指示が解除されるという大きな転換期。人々には戸惑いと苦悩が色濃くにじんでいた。しかし、村外に復興住宅を造るというしなやかな発想、そして村を必ず再生させるという彼らの強い気持ち、そこに希望の種を見つけた葛尾村だった。

・福島、岩手、そして宮城。30人を超える方々から話を聞いた震災6年目の東北。

どこに向かっていくかっていうことを相当、試行錯誤されていたんだと思うんですね、各地域で。経済的な部分もそうだし、住居っていうこともそうだし、学校っていうこともそうだし、全ての生活全般においてのリアリティーっていうものが目の前にカードとして置かれ、どれを今チョイスしていくのかということを迫られている。それは前に進むだけではなくて、横に行くかもしれないし、もしかしたら後ろに向くかもしれない。アングルは選択せざるをえない。だけど、とにかく歩を進めなきゃいけないっていう5年、6年目なんじゃないかなっていう気はしましたね(渡辺)

(2016/6/13視聴・2016/6/13記)

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【大河ドラマ】真田丸・第23話「攻略」

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【大河ドラマ】真田丸・第23話
「攻略」

(NHK総合・2016/6/12放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

真田丸

真田丸

 あらすじとは直接関係がありませんが先日、江戸東京博物館で開催されている「真田丸展」に行ってきました。信繁、昌幸、信幸たち肖像画や大坂の陣の屏風絵、様々な武将たちの直筆の書状などを見学できて面白かったです。ご招待券をプレゼントしてくれたNHK様、ありがとうございます!

 さて今回の感想。滅亡まっしぐらの北条氏政を高嶋政伸が「怪演」とも言ってもいい演じぶりでした。そして説得役に大抜擢された信繁、板部岡江雪斎からも信頼されるとは流石です。

 それにしてもタイミング的に、某都知事を北条氏と比べるのは北条氏に失礼かもしれませんが、最初の段階で頭を下げておけばよかったのに、変な意地を張ったことで滅亡へ突き進む辺りがそっくりで、何だか笑うに笑えない状況です。これを書いている時点ではまだ落城していませんが、もはや時間の問題でしょう。次回のタイトルは「滅亡」、まさに皮肉ですね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・秀吉は遂に北条征伐を決意する。全国から総勢21万の兵が集められた。史上空前の大戦が、始まろうとしていた。

・北条攻めの陣立てを豊臣秀吉(小日向文世)から任せられた石田三成(山本耕史)。今回、真田昌幸(草刈正雄)は徳川家康(内野聖陽)ではなく、上杉景勝(遠藤憲一)とともに上野方面の攻略を命じられた。
・東西約2.9km、南北約2.1kmにも及ぶ小田原城を秀吉勢が包囲したのは4月の初め。総勢18万を超える軍勢で完全に包囲。秀吉と豊臣秀次(新納慎也)が率いる本軍が城の西と北を、徳川軍が東を、さらに南側の海は長宗我部、九鬼などの水軍が固めた。
・軍議の後、秀吉は家康に北条攻めの後に関八州を任せると言う。
・一方、小田原城では北条氏政(高嶋政伸)が籠城戦を決めていた。戦が長引けば伊達政宗(長谷川朝晴)が援軍で到着すると考えていが、北条氏直(細田善彦)や板部岡江雪斎(山西惇)は懐疑的だった。
・上杉景勝や真田昌幸ら東山道軍は碓氷峠を越えて松井田城を攻略。忍城、鉢形城のある関東北部の制圧を目指していた。しかし昌幸や景勝は秀吉のために戦うことに大義を感じていなかった。
・出浦昌相(寺島進)は真田信幸(大泉洋)に今、北条と手を結べば秀吉に勝てると言うが、信幸は反対する。
・5月に入り、小田原城では毎日のように軍議が開かれていた。開城か徹底抗戦か。
・氏政は歌を詠み、蹴鞠に興じ、化粧までする始末だった。江雪斎は負けを先延ばしにすることはできても、もはや勝つことはできぬと氏政に言う。しかし氏政は伊達がいずれ来ると信じていた。
・秀吉のもとに(竹内結子)が訪れ、宴が開かれていた。
・6月になり、信幸らは忍城攻略に取り掛かったが難航していた。それを聞いた三成は苛立つ。
・6月9日、遂に東北の雄・伊達政宗が秀吉の陣を訪れた。政宗は死に装束という派手なパフォーマンスで秀吉に恭順の意を示した。
・その知らせは氏政のもとにも届いた。
・そしていよいよ秀吉は総攻めを決意するが、大谷吉継(片岡愛之助)に勧めもあり、三成に忍城攻略を命じた。
・小田原城では氏直や江雪斎が懸命に説得するも、氏政は降伏するぐらいなら城に火を放ち切腹すると言う。
・氏政から本領安堵を求める書状が届くが秀吉は一蹴する。
・三成は昌幸や上杉景勝を前に忍城を水攻めを行うと言う。
・家康と大谷吉継に呼ばれた真田信繁(堺雅人)は、小田原城に潜入して氏政を説得するよう命じられる。
・信繁は驚くが、本多正信(近藤正臣)が江雪斎から内々に打診があったという。
・覚悟を決めて小田原城内に入った信繁は、氏直から助けてほしいと頼まれる。
・しかし信繁は徹底抗戦派の武将たちが放った刺客に襲撃を受けてしまう。佐助(藤井隆)の機転で逃れることができたが、そこに現れたのは、姉・松の夫である小山田茂誠(高木渉)だった。

<真田丸紀行>
・神奈川県小田原市、戦国時代の先駆けとなった北条氏が開いた場所。
・小田原を拠点に領土を拡大した北条氏。4代・氏政が実権を握ったときには最大の版図を築き上げたという。
・城下の隅々に水を巡らせた小田原用水、戦国時代に北条氏によって整備されたという。
・北条氏はこうした城を各地に築き、関東一円を支配した。
・2013年、小田原城から戦国時代の石造りの庭園や井戸が発掘された。北条氏独自の文化と考えられている。
・5代・100年、小田原の繁栄を築いた北条氏。その面影は今に伝わっている。

※小田原城址公園(JR「小田原」下車 徒歩10分)

(2016/6/14視聴・2016/6/14記)

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【NHKスペシャル】大アマゾン 最後の秘境 第3集 緑の魔境に幻の巨大ザルを追う

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【NHKスペシャル】
「大アマゾン 最後の秘境 第3集 緑の魔境に幻の巨大ザルを追う」

(NHK総合・2016/6/12放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 大アマゾンシリーズの3本目は「幻の巨大ザル」を追うという、何だかますます「○○探検隊」のようなお話でした。

 巨大ザルが発見できたか?結論は…もう観る前から分かっていました。仮に発見されていたら事前に大番宣しますからね、ダイオウイカのときのように(笑)

 それでも珍種のサルの貴重な映像が沢山あって面白かったです。頭にお尻のような模様があるサルや顎ヒゲのようなものを蓄えたサルなど個性的なものもいました。NHKスペシャルというよりも「ダーウィンが来た」辺りで特集してもよかったかもしれないですね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・緑の魔境・アマゾン。ある怪しげな写真は100年前、ジャングル奥地で探検隊に撮影された謎の生物。がっしりとした体と奇妙な顔つき、背丈は1.5mを超すという。
・アマゾンでは今も巨大なサルの目撃談が後を絶たない。巨大ザルは実在するのか。その姿を求めてアマゾンの奥地へ分け入った。
・幻の巨大ザルを追う探検。次々と姿を現す奇っ怪なサルたち。そして遂に…。

<奇っ怪なサルの宝庫>
・大河アマゾン、膨大な水が世界最大のジャングルを育む。面積は日本の20倍、地球上の熱帯雨林の半分がここにある。
・鬱蒼とした森は奇妙な生き物たちの世界だ。植物は分かっているだけで6万種、昆虫に至っては100万種以上といわれるが専門家でも見当がつかない。地球上で確認される全植物種の10分の1がいるという。
・この森で特に繁栄しているのがサル。100種近くが確認されている。ピグミーマーモセットは体重僅か100グラム、世界最小クラスのサルだ。昆虫や木の樹液が好物。
・フタイロタマリンは体重400グラム、顔の形が個性的だ。頭には毛がなく顔の輪郭が四角い。世界で最も絶滅が心配されるサルの一つだ。
・キンガオサキは、なぜかオスだけが金色の顔をしている。大きさは子猫ほどだ。
・アマゾンは小型のサルの宝庫だ。実は大半の種類が猫よりも小さい。アマゾンのサルは木の上の生活に適応した。移動に便利な小柄な体へと進化してきたのだ。南米では背丈が1.5mを超えるようなサルは見つかっていない。
・大きなサルといえば、アフリカのチンパンジーやゴリラなど類人猿が有名だ。チンパンジーの背丈は1.7mにも達する。しっぽがないことも大きな特徴だ。
・類人猿は元々アフリカで誕生し、大陸伝いにアジアまで分布を広げていった。だがアメリカ大陸には到達できず、南米にはいないというのが定説だ。

<南米の巨大生物伝説>
・ところがなぜか人のような姿の巨大ザル伝説が南米各地に存在する。ペルーのイスナシ、背丈は1.2m。アマゾン北部ガイアナのディディ、背丈は1.5m。ブラジルのマッピンガリ、背丈は1.8m。
・そして数々の伝説の中で写真が残るものがある。約100年前に撮影されたモノス、新種の類人猿として発表され大きな衝撃を与えた。記録によれば背丈は157センチ、体重は50キロ。しっぽの痕跡が全く無い。
・一方でその真贋を巡って写真は様々な論議を呼んできた。もしモノスのような巨大なサルが実在するならば、それは科学の常識を覆す大発見となる。

<未知の巨大ザルを探せ!>
・取材班は巨大ザルの手掛かりを求め、アマゾン奥地へ分け入った。向かったのはサルの種類が特に多い地域、ここでサルを研究するマミラワ研究所のフィリッペ・シルバ博士の協力を仰いだ。
・季節は雨季、サルが好む果物が最も実る時だ。森は一見すると普通に見える。だが中に入ると不思議な光景が広がっていた。なんと地面がない。浸水林と呼ばれる独特の森、雨季になると地面が水没するのだ。
・調査開始早々、珍しい生き物に遭遇した。アマゾン最強の肉食獣ジャガー。雨季には地面を歩けないため、狩りも睡眠も全て木の上で行うという。
・さらに注意深く観察を続ける。突然、不気味な音が聞こえてきた。声の正体はアカホエザルだった。自分を誇示するためという声は5km先にも届くという。声は大きいが、体の大きさは柴犬ほどだ。
・博士が「ウアカリ」と耳慣れない名前を口にした。体が白く跳んだ。
・サルをもっと間近で観察できる場所があるという。観察台は大木の上、高さは20m近くある。広さは僅か畳2畳ほど、ここでひたすら待つ。
・数日後、ホエザルがやって来た。目当ては、たわわに実った果物。飴玉を舐めるように種の周りの果肉だけをこそぎ取る。
・今度は白い体のウアカリ。真っ赤な顔、なんとも強烈だ。一説では健康な個体ほど顔色が鮮やかで異性からもてるという。ウアカリは食べ物の好みも独特だ。果物の果肉よりも、むしろ種の方を好む。硬い種も強力な顎と歯で噛み砕く。よく見ると額の上の2つの膨らみが動いている。種を噛み砕くための筋肉が詰まっているのだ。大きく見えるが、ウアカリも猫ほどの大きさしかない。
・次々に現れる奇妙なサルたち。だが狙うのはもっと大きなサルだ。取材班は更に奥地へ、大きなサルが頻繁に目撃される場所へと向かった。
・子犬のような鳴き声、サルだ。これまでと比べると確かに大きい。正体はウーリーモンキー、ウールのような柔らかい毛が名前の由来だ。腕や肩は筋骨隆々、まるでゴリラのような印象だ。

このウーリーモンキーがアマゾンでは最大級のサルです。オトナの体重は10キロから12キロぐらいです(シルバ博士)

・ウーリーモンキーといえどもニホンザルよりは小さい。幻の巨大ザルには程遠い大きさだ。

<謎の写真 モノスの秘密>
・数々の伝説の中で唯一写真が残るモノス。正体は一体何者なんだ?
・モノスは1920年頃、スイス人の探検家ドロワによって南米北部のベネズエラで撮影された。ドロワは興奮した2匹のモノスに突然襲われ、1匹を射殺。それを写真に収めたという。彼の記録によればモノスの背丈は157センチ、しっぽは痕跡のようなものすらも無かったとされる。
・その後、南米にはいないはずの類人猿の新種とされ、科学界に衝撃を与えた。しかしそれに異議を唱える研究者がいる。サルの生態学者、ベネズエラ科学研究機構のベルナルド・ウルバーニ博士だ。
・博士は14年間にわたりモノスに関する資料を収集、その真相に迫った。そしてある注目すべき資料を見つけ出した。1962年に発行されたベネズエラの新聞記事に、ドロワの探検に同行していたある人物の告白が掲載されていた。記事には、モノスはドロワがペットにしていたクモザルという種類のサルだったこと、病気のためにしっぽが切り取られていたことなどが記されていた。

ドロワはとても冗談好きな人物で、ペットのサルを「猿男」と呼んでいました。サルが死んだとき、冗談でああした写真を撮ったんです(ウルバーニ博士)

・博士はモノスは類人猿などではなく、クモザルの一種だと考えている。

80年間、様々な議論がありましたが、モノスはブラウンケナガクモザルに間違いないと思います(同上)

・クモザルの写真をみると確かによく似ている。だが一つ疑問が残る。体の大きさだ。クモザルの背丈は1mに満たないのが一般的だ。それよりはるかに大きいというモノス。写真から体長を測り直した研究者がいる。注目したのはモノスが座っている箱、当時石油缶を入れるために規格化されたもので、高さは40センチほどだったという。モノスの座高は箱2つ分。立ち上がれば背丈は130センチほどになり、随分と大きい。
・モノスは既に知られたサルなのか?それとも未知の巨大ザルなのか?新たな謎が浮かび上がってきた。

<巨大ザル 驚きの事実>
・南米にはいないとされる巨大ザル。だが興味深い事実がある。それは極めて意外な場所で発見された。ブラジル・バイーア州にあるトカダボアビスタ洞窟。全長は120km、発見場所は入口から1km入った所。奥に進むにつれ、徐々に空間が狭くなっていく。
・歩き始めて3時間、畳4畳ほどの空間が現れた。見つかったのは巨大なサルの化石、1万5000年以上前のものであることが分かった。ウーリーモンキーと比較すると差は歴然。推定体重は28キロ、約3倍だ。頭からお尻までの長さは70センチ、チンパンジーに迫る大きさだ。南米にはかつて巨大ザルが生息していたのだ。

アマゾンには調査が及んでいない所がまだまだあります。ですから、このサル、またこの子孫が今もアマゾンに生存している可能性を完全に否定することはできないのです(化石の発見者であるラプラス連邦大学のホドリゴ・フェレイラ博士)

<巨大ザル 新たな目撃情報>
・未知の巨大ザルを探す旅。取材を始めて1か月を過ぎた頃、衝撃的な情報が舞い込んできた。なんとモノスのような巨大なサルが今も目撃される地域があるという。現場はとある湖の周辺、最寄りの町から船で7時間もかかる小さな村だ。
・取材班はすぐさま現地に急行した。まず目撃者を探し出し、話を聞くことにした。知られているサルの見間違いではないか、写真を見せながら慎重に確認した。

(あなたが見た巨大ザルはリスト中にいますか?)
いいえ。サルではないと思いました。最後に見たのは去年です(男性)

でかい。ウーリーモンキーよりもでかいよ。とにかく筋肉質なんだ(別の男性)

・巨大ザルに実際に触った住民もいるという。

(10年ほど前)森を歩いていたらサルが現れたので撃ったんだ。大きい化け物のようだったよ(男性)

・その後、彼はサルの死体を担いで運んだという。

サルの足を引きずりながら持ってきた。体重は25キロくらいあったかな。不思議な鳴き声をしていた(同上)

<未知の巨大ザルを探せ!>
・目撃者の案内のもと、巨大ザルが住むという森に向かう。迷路のような支流、目的の場所は集落から30kmほど奥地に入った所にあるという。
・現場の森、サルが好むというヤシの木が至る所に生えている。

この辺りは彼らの好きな果物がたくさんあります。ここが大ザルがよく利用する通り道なんです(案内の男性)

・村人が何かの気配を察知した。ウーリーモンキーだった。
・再び緊張が走った。巨大ザルの声がするという。そのとき風が吹くような音、これが鳴き声だという。その声の部分だけを切り取ってみた。声のした方角に全神経を集中させる。しかしその日、巨大ザルが現れることはなかった。
・それからしばらく、雨季が終わり乾季が到来した。川の水位が急速に下がり始めた。こうなると現場に近づくのは至難の業だ。取材班は一旦、調査を中断。再チャレンジを目指し、現地を離れることにした。

<検証 巨大ザルの正体>
・巨大ザルの正体は何か、アマゾンで録音した鳴き声を検証してもらうことにした。訪ねたのは岡山理科大学の小林秀司博士。ブラジルで新種のサルを発見した経験も持つ。

すいません、ちょっと分からないですね。いわゆる知ってるサルの発声のパターンではないですよね(小林博士)

・博士が注目したのは、サルが目撃されている地域。

この辺が調査が殆ど入っていない地域ということですね。訳の分からない、たちの悪い風土病があって誰も行かないという話をしてました(同上)

私が新種のサルを見つけたときの話で、さんざん人から言われたのは、こんな所にサルが生き残っているわけがないと。森なんかあるわけないっていうのですが、やっぱり行ってみたらいましたって、そういう話だったわけです。これ本当に実在するとなると全くの新属のはずですから、そういう意味でも仰天ですよね(同上)

・数々の具体的な目撃証言、他のサルとは違う鳴き声、あの森には何かがいる。

<未知の巨大ザルを探せ!>
・アマゾンに再び雨季がやって来た。未知の巨大ザルを求めて調査を再開した。今回は前回と同じ森の中にベースキャンプを設営、長期戦を覚悟で巨大ザルの撮影を目指す。
・さらに新たな興味深い情報を入手した。情報提供者のジャクソン氏、子どもの頃からここで暮らし森を知り尽くしている。巨大ザルが集まる特別な場所を知っているという。
・森を歩くこと約1時間、目的地が近いようだ。何かいないか、慎重に近づいていく。森の中に突如として現れた泥の地面、ここが巨大ザルが集まる場所だという。

(ここで巨大ザルを)4回見ました。(最近の目撃は)3か月くらい前です。ここの泥を動物たちが食べるんです。穴に手を突っ込んで食べます(ジャクソン氏)

・実は同じような場所が別の地域でも確認されている。ホエザルだ。泥に含まれる塩分などを摂っていると考えられる。こうした場所は「塩場」と呼ばれ、動物がミネラルを補給するための欠かせない場所だ。

これは多分、サルが食べた跡です(同上)

・ここにも爪で引っ掻いたような跡が残っている。取材班はここに無人カメラを取り付けることにした。角度を変えて5台のカメラをセット。
・さらに今回は複数のチームに分かれ、別々の作戦で探索に挑む。水に浮く撮影台をつくり、巨大ザルが好むという果物の木の近くに設置する。ひたすら忍耐あるのみの待ち伏せ作戦だ。
・カヌー部隊は川や浸水林を縦横無尽に動き回り、サルを探す。移動距離は1日20kmを超えた。
・そしてジャングルを地道に歩く徒歩部隊。目撃情報があればどこにでも急行、巨大ザルの発見を目指す。
・しかし調査は困難を極めた。取材班を苦しめたのが、ジャングルに潜む吸血性のダニ。数が尋常ではない。
・突然のスコールに撮影を阻まれるのは日常茶飯事。すかさず、即席の屋根をつくってやり過ごす。雨が降るとサルも動かなくなる。
・成果の得られない日々が続いた。

<発見 驚きの珍ザル>
・そういう中でも驚きの発見があった。ヤシの木の上、太いしっぽのサルが座っている。立派な顎ヒゲのようなものを蓄えている。ヒゲサキと呼ばれる珍しいサル、個体数が少なく生態が謎に包まれたサルだ。夢中になってヤシの実を食べている。まるで宇宙人?実に奇妙な顔。
・これまで野生のヒゲサキを捉えた映像は、殆ど知られていない。アマゾンにはまだまだ得体の知れないサルたちが潜んでいるのだ。

<未知の巨大ザルを探せ!>
・塩場に無人カメラを設置して約1か月、映像を確認してみることにした。奇妙な動物が現れた。夢を食べるという伝説で知られるバクだった。貪るように泥を食べている。
・普段は川で暮らしているオオカワウソも。塩場に集まるのは極めて珍しい。
・予想外の動物も映っていた。肉食獣のピューマ、塩場に集まる動物を狙ってやって来たのだろうか。
・多くの動物が塩場を利用していた。だが、巨大ザルの姿を確認することは出来なかった。
・幻の巨大ザル、その正体を掴めないまま、じりじりと時間だけが過ぎていった。
・そんなある日、別の村から新たな巨大ザルの目撃情報が飛び込んできた。サルを目撃したのは、つい最近だという。

顔がとても赤い。しっぽも入れてこれくらいの大きさだ。俺は自分の目で見た(現地の男性)

・早速、現場の森に向かう。ガイドがサルの痕跡を見つけた。よく見ると果物の食べかすが、あちこちに落ちている。

今日のものだ(ガイドの男性)

・サルはまだ近くにいるはずだ。そのときだった。森の奥からけたたましい鳴き声が響いてきた。
・慌てて木の上にカメラを向ける。これはでかい。これまでのサルとは全く違う。真っ赤な顔、黒々とした毛、たくましい腕、しっぽは足よりも太い。
・一体どれほどの大きさがあるのだろうか。サルの右側にある大きな豆のさや(約20センチ)が顔と同じ大きさだ。背丈は顔の約7倍、130センチはありそうだ。

初めて見たよ。こんな大きくてしっぽの太いサルは初めてだ(現地の男性)

・サルは逃げることなくカメラを睨みつけている。立ち姿は、あの写真のモノスと驚くほど似ている。人を恐れるでもなく堂々とした態度だ。遂に捉えた驚きの姿。
・サルたちは、ひとしきりこちらを威嚇した後、森の中に姿を消した。
・帰国後、取材班は映像を専門家に確認してもらった。結果は新種の巨大ザルではなく、クロクモザルという種類であることが分かった。だがここまで大きな個体は珍しく、映像は科学的にも極めて貴重だという。
・アマゾンの密林に未知の巨大ザルを追い求めて100日余り。取材班が見たのは、驚くほど多様で強烈な個性を発するサルたちの姿だった。
・中には極めて貴重なものも含まれていた。これは一昨年、新種として報告されたばかりのサル。テレビカメラが初めて捉えた映像。
・森に仕掛けた無人カメラは、未知の巨大ザルを捉えようと今も回り続けている。最新の映像には、これまで見たことのない奇妙なサルが映っていた。
・大アマゾン、いつの日か未知の巨大ザルが姿を現す日が来るかもしれない。

(2016/6/14視聴・2016/6/14記)

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【鉄道・絶景の旅】新緑の和と風情を満喫! 小京都をめぐる旅

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【鉄道・絶景の旅】
「新緑の和と風情を満喫! 小京都をめぐる旅」

(BS朝日・2016/6/10放送)
※公式サイト:http://www.bs-asahi.co.jp/tetsu_zekkei/

<感想>

 先週放送された小京都を巡る鉄道旅、4路線のうち城端線を除く3路線は未踏路線なので興味深く視聴しました。

 長良川鉄道は温泉と旧名鉄美濃駅や終着駅の転車台がいいですね。越美北線とのアクセスがあればいいのですが、直通するバス路線はないようです。盲腸線にしておくのは勿体無い気がします。

 また忍者ラッピングトレインでお馴染みの伊賀鉄道、松尾芭蕉の生家や忍者屋敷など魅力的ですね。こちらは関西方面の旅行のときにぜひ組み入れたいです。

 そして瀬戸内海の絶景が広がる呉線。広島市内へは行ったことがありますが、尾道同様、ぜひ立ち寄りたいところです。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・城端線、長良川鉄道、伊賀鉄道、呉線の各線で小京都を巡る旅。

<城端線~越中の小京都と世界遺産・五箇山へ~>
・富山県高岡市。市内には重要伝統的建造物群保存地区が。
・高岡駅から城端線に乗車。
・新高岡駅は北陸新幹線の接続駅。
・戸出駅で下車。徒歩10分のところにある古中の大地蔵(戸出大仏)。旧街道沿いにある創業100年の鮮魚店。
・砺波駅で下車。散居村といわれる風景。砺波チューリップ公園がある。商店街の洋菓子店にはチューリップサブレがある。
・福光駅で下車。列車のイラストが施された駐輪場。南砺バットミュージアム。
・城端駅に到着。城端別院 善徳寺。趣ある町並みが残り越中の小京都と呼ばれている。銭湯だった建物を使った小物店、城端産のゆばなどを使った小京都膳が食べられる店がある。
・縄ヶ池にはミズバショウが群生している。
・駅前からバスで相倉口へ。世界遺産・五箇山相倉合掌造り集落。
・合掌造りの宿に宿泊。夕食は山菜の天ぷら、ニシンと山菜の煮物、岩魚の塩焼、鯉のあらいなど。

<長良川鉄道~水清き奥美濃の小京都へ~>
・中山道太田宿がある岐阜県美濃加茂市。
・美濃太田駅から乗車。
・刃物会館前駅で下車。岐阜県刃物会館、関鍛冶伝承館。うなぎ料理の老舗がある。
・関駅には長良川鉄道の車両基地がある。
・美濃市駅で下車。うだつの上がる町並み。うだつとは隣の家からの火事の延焼を防ぐために屋根の両端に設けられた防火壁のこと。豪商たちの富の象徴とされた。
・長良川沿いにある上有知湊 川湊灯台、美濃橋(国重要文化財)。
・旧名鉄美濃駅の駅舎にはモ510形、モ590形が静態保存されている。
・みなみ子宝温泉駅で下車。駅舎に温泉施設が併設。
・郡上八幡駅で下車。ふるさと鉄道館にはレトロな鉄道用品が展示されている。
・奥美濃の小京都。宗祇水、やなか水のこみち。郡上おどりの実演をしている施設もある。
・美濃白鳥駅でタブレットの授受が行われる。
・北濃駅に到着。手動式の機関車転車台がある。車で10分のところに阿弥陀ヶ滝がある。

<伊賀鉄道~忍者と芭蕉ゆかりの小京都へ~>
・伊賀神戸駅から乗車。
・市部駅で下車。垂園森には垂園明神、西行法師や紀貫之の歌碑がある。
・広小路駅で下車。芭蕉翁生家、愛染院(松尾家の菩提寺)がある。
・上野市駅で下車。伊賀上野城、伊賀流忍者博物館。お茶屋さんで忍者パフェが食べられる。
・西大手駅で下車。伊賀くみひも、田楽の店がある。
・伊賀上野駅に到着。

<呉線・山陽本線~安芸の小京都と尾道探訪~>
・広島駅から山陽本線直通の呉線の列車に乗車。
・呉駅で下車。てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)、アレイからすこじま、潜水艦の見える喫茶店、美術館通りには入船山記念館も。
・安浦駅で下車。稚児公園。
・竹原駅で下車。安芸の小京都の町並み、重要伝統的建造物群保存地区。竹細工、酒粕を使ったお好み焼き、生姜のせんべいの店がある。
・竹原港からフェリーで大崎上島へ。中ノ鼻灯台がある。
・大崎上島のホテルに宿泊。瀬戸内海の絶景が楽しめる。温泉は塩化物冷鉱泉。夕食はメバルづくし会席。
・三原駅で下車。駅弁たこめし、三原城天守台跡。
・山陽本線に乗車し尾道駅で下車。駅前の通りにプリンの店がある。林芙美子像、坂の町並み、持光寺のにぎり佛、志賀直哉旧居、千光寺本堂。

※番組で紹介されている店名、宿泊先名などの情報は、直接番組をご覧いただくか公式サイト等でご確認ください。

(2016/6/15視聴・2016/6/15記)

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