「誕生!日本国憲法~焼け跡に秘められた3つのドラマ~」
(NHK・BSプレミアム・2017/2/15放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/
<感想>
先週に放送された番組でしたが、じっくりと観たかったので録画したのをとっておきました。予想を超える秀逸な内容で大変良かったドキュメントでした。再放送前に紹介すれば良かったと思いました。
ことあるたびに「日本国憲法を変えよう」という話が湧いてきています。何しろ憲法擁護義務のあるはずの内閣総理大臣自身が最も改憲したくてしたくてウズウズしているぐらいですからね。ついこないだも「護憲」と呼ばれる人たちに向けて「対案を出せ」と間の抜けたことを言ってましたね。護憲にとっての対案は現行憲法でしょう。そんなことも分からないのか、この人はと思いましたよ。
ちなみに私は「変える必要ない」派です。ついでにいえば、J民党の憲法改正草案。あれはあまりにもメチャクチャすぎですね。ギャグのつもりなのでしょうか。未だにホームページに掲載しているので本気(正気)なのでしょうけど、憲法研究会の草案と大島暫定憲法を読んで憲法のイロハを勉強し直した方がいい。憲法は権力者を縛るもので国民を縛るものではない。
それはさておき、ベアテさんの尽力による「女性の権利」条項は世界にも先駆的だったという素晴らしい話ですし、「憲法草案要綱」をつくった憲法研究会の七人のエピソードは、今の憲法が「アメリカの押しつけだ」と未だに言いがかりを付けている「化石」のような人たちが嘘つきだと分かる話です。
そして「大島暫定憲法」の話は目からウロコでした。もし大島が日本の施政権から離れた自治領となっていたら、大島共和国として日本国憲法に匹敵する民主国家として繁栄していたかもしれません。それを学者の力なしに成し遂げた島民の人たちの力に感服です。
大変いい内容のこの番組。憲法を考えるきっかけになる素晴らしいものでした。こんな番組がつくれたのも会長が交代したのも影響したからでしょうか(というのは深読みかな?)。いずれにしても多くの人たちに観てほしいですね。
あと最近のニュースで知りましたが、幼児に戦前の「教育勅語」を暗唱させている幼稚園があると聞きました。同じ理事長が開校を企む小学校は総理大臣の妻が名誉校長になっていて、「○○○○記念小学校」(○○は現職総理の名前)と名づけられそうになったとか。これは「ヒトラーユーゲント」の日本版なのでしょうか。軍国主義者の“亡霊”を見るようで、夏の怪談話よりも恐ろしい話です。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・戦争が終わり新しい憲法が生まれた。それは人々の希望だった。だがこの憲法の成り立ちには、いまだ謎も多い。焼け跡に秘められた心揺さぶる物語。
<憲法を“お国ことば”で>
【前文】日本国民は恒久の平和を念願し
→うちらはこの先ずうっと平和が続くんを強おねごおてますえ(京都弁)
【前文】人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって
→人と人の間で感じゆよか理想を深くわかっちゅうもんで(鹿児島弁)
【前文】平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
→平和をいっちゃん愛しとるよそんとこの国の人らを信じとるで(名古屋弁)
【前文】われらの安全と生存を保持しようと決意した
→わぁんどの安全が守らいでうだでったこともなもねぐしてあずましぐ生ぎでいぐって決めだ(津軽弁)
<高い理想を掲げ誕生した日本国憲法>
・憲法に書かれているのは、この国がどうあるべきかの大原則。その一文一語を決めるために、壮絶な闘いが繰り広げられた。
・70年前、敗戦の焼け跡から生まれた「日本国憲法」。何もかもが画期的だった。その前の明治憲法とどう変わったのか。ビフォーアフターをみてみよう。
・国の主権者は? 天皇(明治憲法)、国民(日本国憲法)
・戦争はできる? ○(明)×(日)
・男女は平等? ×(明)○(日)
・今、誰もが当たり前に感じている日々。その礎となった憲法は当時、世界でも稀な高い理想を掲げて誕生した。
<レディーが書いた男女平等 ベアテ・シロタ>
・1946年11月3日、日本国憲法が公布された瞬間。昭和天皇は貴族院議場で憲法公布を伝える勅語を読み上げた。この議場の片隅に少し風変わりな一団がいた。2階の傍聴席に座るアメリカ人。連合国軍総司令部(GHQ)のメンバーだ。その中にベアテ・シロタとおぼしき女性の姿があった。
・ハーバード大学教授のスーザン・ファー。日本国憲法の成り立ちを調べ、それまで表に出なかったベアテの存在を突き止めた人物だ。訪れたのは終戦直後、GHQが本部としていたビル(現・第一生命日比谷本社)。当時22歳の通訳ベアテも、ここに勤めていた。
・GHQの会議室が今もそのままに保存されている。憲法公布の9か月前、1946年2月4日。25人のGHQメンバーが緊急招集された。下されたのは驚くべき命令。
日本国憲法のもとになる草案を作れ!
それは25人のメンバーしか知らない極秘の任務でした。24時間、明かりはついたままだったでしょう。そんな彼らの中にベアテもいたのです(スーザン)
・ベアテの存在。スーザンがそれを感じたのは、憲法のある条文を目にしたときだ。第24条、結婚における男女平等がうたわれている。実は世界でも画期的な条文だという。
【日本国憲法 第24条】
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
第24条のような条文は当時の先進国の憲法にはありませんでした。終戦後、ドイツも日本と同時期に憲法をつくりましたが、こういった条文は盛り込まれていません。(同上)
(アメリカ合衆国憲法にも入っていない?)
その通りです。入っていません。それをみたとき、この女性の権利を書いたのは一体誰だったのか疑問を持ったのです(同上)
・日本国憲法独自の男女平等。その舞台裏に若きレディー、ベアテ・シロタがいた。1977年、スーザンはGHQの記録を頼りにベアテを捜し当てた。ベアテは4年前、89歳で亡くなったが、晩年の映像が残っている。あの命令を受けたときの心境をこう語った。
何かいいものにしたい。敵と見ないで人と見て、日本人を。ヒューマニスティック(人間的)な憲法を書きたいと思っていた。とっても強かった、その気持ちが(ベアテ・当時84歳)
お会いして初めて話を聞いたときに彼女が少女時代、日本に住んでいたことを知りました。日本語が話せて、日本の友人もたくさんいました。だからこそ、大切な役割を任されたのだと分かりました(スーザン)
・1945年の東京。人々は焼け野原で、食べ物にも事欠く日々を送っていた。10月、マッカーサー総司令官は日本政府に明治憲法を民主的なものに改正するよう促した。そこで日本政府は新憲法の案をつくったが、出来たのは明治憲法と殆ど変わらぬものだった。GHQはこんな評価を下した。
「これは極めて保守的なものである」
・そして思い切った手段に出る。
「我々から指針を示す方が優れた戦略だと考える」
・つまりGHQの手でもとになる草案をつくるということだ。こうして1946年2月4日、ベアテを含む25人に憲法草案づくりの密命が下った。
25人のメンバーは殆どが弁護士などのエキスパートでした。でもベアテだけは専門家ではありませんでした(スーザン)
・異例の抜擢。その理由は、日本で暮らした経験と抜群の語学力だ。作成の期限は9日。その後、日本政府に渡すことが決まっていた。この歴史的仕事に加わったベアテは胸が震えたという。
とてもすごい仕事だと思った。こういういいものに参加できる。英語で言えばハイになりました(ベアテ)
・こうして極秘の憲法草案づくりが始まった。責任者は弁護士でもあるGHQ民政局次長チャールズ・ケーディス大佐(当時39歳)。メンバーを条文ごとに7つの小委員会に分けた。
・ベアテは人権委員会に割り振られた。ベアテの最初の行動は、焼け残った図書館をジープで回ること。世界各国の憲法を集められるだけ集めた。
ベアテは6か国語も話せたんです。だから様々な国の憲法を読むことができた。彼女にしかできない仕事でした(スーザン)
・ドアが閉め切られた会議室。各国の憲法を検討し、草案を書いては直す不眠不休の作業が続いた。ベアテが一心不乱に書きつづったのは、女性の権利だった。
ベアテが女性の権利にそれほどの情熱を注いだ訳は生い立ちにあります。少女時代を日本で過ごす中で、日本の女性が非常に差別された立場にあったことを彼女は見ていたのです(同上)
・ベアテは1923年、オーストリアで生まれた。父は「リストの再来」と呼ばれる有名なピアニストだった。ユダヤ人である一家は迫害を恐れ、作曲家・山田耕筰の招きもあり日本に移り住む。ベアテ5歳のときだった。ベアテは東京の学校に通い、幼少期を過ごした。
・その頃、姉代わりになって可愛がってくれたのが小柴美代。シロタ家に住み込みで働いていた。小柴美代は既に亡くなったが、故郷の静岡県沼津に妹の綾子が暮らしている。
美代さんは私が小さい時の記憶というのはあまりないね。もう働きに出ていたね(美代の妹・鈴木綾子・94歳)
(支えてくれていた?)
美代さんを頼りにしていたね。姉ちゃんだって(同上)
・美代は11人きょうだいの長女。家を助けるために東京に出て、シロタ家で働いていた。10歳年下の妹・綾子の楽しみは、姉からの仕送りだった。
ヒダのうんとある、くるっと回ってしゃがむと膨らむようなスカートを買ってって(頼むと美代さんが)すご送ってくれる(同上)
・美代が送ってくれたハイカラな服はベアテのお下がりだった。
姉ちゃんが送ってよこすのはベアテさんの物だなって。ちょうど体に合ったから(同上)
・美代はベアテに様々な話を聞かせたという。
(美代さんが)日本は東北の方で飢きんがあると娘を売るんだって(言っていた)。それを知っていたからベアテに話したんだって。日本の女性の位置の低いことをね(同上)
・日本女性の置かれた境遇に胸を痛めたベアテ。特に心に残ったのは…。
結婚を自分の好きな人とできないということ。本当にそれは大変だと思った。子どものときに(聞いて)。女性の権利を書くときに最初に書いたのが結婚(について)。たぶん私の頭にずっとあったんですよ(ベアテ)
・15歳になったベアテは単身アメリカに留学する。しかしその直後、太平洋戦争が勃発(1941年)。21歳で終戦を迎えた。1945年12月24日、戦後初のクリスマスイブ。ベアテは両親に会いたい一心で、GHQの一員として日本の土を踏んだ。そして数日後、辛くも生き延びていた両親と再会する。
美代さんから聞いた。(ベアテが)東京へ来たときにようやく親の居場所が分かって、ベアテさんの親は軽井沢にいて栄養失調だったって(綾子さん)
・戦争中、両親の世話をしてくれたのは小柴美代だった。こうして両親の無事を確認したベアテは、憲法草案づくりに没頭することになる。
・作業は次の段階に入った。各委員会の案を責任者のケーディスらが厳しく審査する。ベアテもその洗礼を受けた。人権委員会の条文は全部で41。ベアテが書いたものは、確認できるものだけで9条。
「母親は既婚未婚を問わず国家に守られる」
「女性はどのような職業にもつく権利を持つ」
・ベアテの願いが込められていた。
ケーディスさんが「ベアテ、あなたはアメリカの憲法以上に女性の権利をつくりましたね」って言うんですよ(ベアテ)
・アメリカの憲法にもない女性の権利の数々。しかしケーディスは、それらを憲法に入れるには細かすぎるとして次々に削除した。後にベアテはこう書いている。
「一つの条項が削られるたびに、
不幸な日本女性が
それだけ増えるように感じた。」
(「1945年のクリスマス」より)
だから私とっても悲しくて。あまりにも悲しくて泣いちゃったんです、偉い人の前で(ベアテ)
・そしてベアテが書いた中で唯一残されたものが、結婚における男女の平等が明確に書かれているものだった(GHQ草案 第23条)。
・1946年2月12日。9日間の密室作業を経て、92条のGHQ草案が完成した。しかしベアテの仕事はまだ終わらなかった。
・3月4日、草案を巡って日米間で会議が開かれた。ベアテは通訳としてこの場に立ち会っていた。会議は荒れた。天皇制を巡る激論が長時間に及び、そしてベアテが書いた条項も…。
「夜中の2時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。天皇制と同じように激しい議論になりました」
(第147回国会 参議院憲法調査会議録第7号より)
「日本の国民に合わない」「歴史に合わない」「文化に合わない」「これは全然だめです」って。女性の権利について。とってもビックリした(ベアテ)
・日本側が拒んだ女性の権利。それを救ったのは意外にもケーディスだった。
「この女性の権利についてはミス・シロタが心から望んでいます。だから通過させましょう」って言ったんです、ケーディスさんが。(同上)
・ケーディスはベアテが日本で育ち女性の境遇を知っていたからこそ、これが書けたと説得した。日本側の態度が和らぎ、条文はついに受け入れられた。GHQ草案は、日本政府による修正と議会での審議を経て日本国憲法となった。
・その1年後、ベアテはアメリカに戻る。港には一行を見送る小柴美代の姿があった。
第24条は極めて特別な存在です。この条文が生まれたことによってその後、民主国家の憲法に女性の権利を入れることが当たり前になったのです(スーザン)
・その後、ベアテは日米文化交流に献身。2012年、89歳で世を去った。男女平等というかけがえのない1条を遺して。
<七人のサムライ 憲法研究会>
・1946年1月、GHQが草案づくりを始めるより1か月前。GHQ民政局法規課長のマイロ・ラウエル中佐は、日本の民間人がつくった憲法草案に衝撃を受ける。そのときのことを語ったテープがアメリカに残されていた。
私は民間グループから提出された憲法に感心しました。皆で何ていい案なんだろうと話しました(ラウエルの肉声テープ)
・一体その草案とは。それは国立公文書館に保管されていた。「憲法研究会 憲法草案要綱」。早くも国民主権が明確にうたわれ、象徴天皇制につながる考えも書かれていた。
・書いたのは、年齢も思想も違う7人の民間人。新生日本の道しるべを自らの手でつくりたいという思い。そして戦争で受けた不条理な苦しみが7人を結んでいた。
・憲法研究会の中心メンバー・鈴木安蔵の孫で早稲田大学教授の鹿島徹。鈴木安蔵は7人の中で唯一の憲法学者。草案づくりの中心的な役割を担っていた。
・1904年、福島県相馬で生まれた鈴木。日本が戦争に向かう暗い時代に学生時代を過ごし、軍事教育に反対した罪で投獄された。出所した鈴木を待っていたのは、激しい言論弾圧だった。鈴木の著書は発禁処分や文章を「×」で消されるなど厳しい検閲を受けた。
理不尽だと思ったというよりも、驚いたんじゃないですか。つまり自分たちがやってるのはなぜ悪いのっていうふうに驚いたんだろうというのが僕の推測です(鹿島)
・そして終戦。それは鈴木にとって長い言論弾圧からの解放を意味していた。当時の思いを語った鈴木の映像が残されている。
新しい国家がスタートする時に明治憲法ではいけないでしょう?だから明治憲法は単なる改正ではなくて根本的に排除して、新しい民主的な憲法をつくらなければらないないと、そういう意欲に燃えたわけです(鈴木)
・こうして1945年11月、鈴木安蔵をはじめ七人のサムライが集まり、憲法研究会が発足した。メンバーには戦争中に言論弾圧を受けた元東大教授・社会運動家の高野岩三郎、「危険思想の持ち主」として大学を追われた経済学者の森戸辰男もいた(残りのメンバーは馬場恒吾、杉森孝次郎、室伏高信)。権力の暴走で計り知れない苦難を味わった七人だからこそ、あの草案ができたと研究者は言う。
あの戦争を経験する中で、やはりなんとか心安らかな社会をつくろうと皆さん、それは強く考えていたんだと思いますね。考え方は様々でしたけれども、そういう点では皆さん一致していて。それで最終的にはみんなが一致したものだけを憲法研究会案にしましょうねということを前提にこの案をつくってきた(獨協大学名誉教授の古関彰一)
・焼け残ったビルの一室で草案づくりが始まった。特に激論が交わされたのが天皇制だった。明治憲法では主権が天皇にあり、その名の下に行われた戦争は大変な悲劇を招いた。天皇の地位と権力はどう定めるのか?
・議論の過程が当時の史料に残されている。まず切り出したのは政治評論家の岩淵辰雄。岩淵は戦争の早期終結を工作し、逮捕された経験がある。
「天皇から、一切の政治上の権力を取ってしまおう。明治憲法で規定された天皇制から、それに付随した制度を、全部取っ払ってしまおう」
(昭和36年6月 憲法調査会事務局「岩淵辰雄氏に聞く」より)
・すぐさま疑問の声が上がる。
「一体そんな天皇っていうものがあるか」
「そういう天皇を憲法になんて書くか」
・最も過激な主張をしたのは最年長の高野岩三郎だった。
「天皇制を廃止し、之を代えて大統領を元首とする共和制採用」
(高野岩三郎「日本共和国憲法私案要綱」より)
・しかし国民がそれを受け入れることができるのか。時期尚早ではないか。議論は紛糾した。意見をまとめ最終案をつくるのは、憲法学者である鈴木の役目。
・実は鈴木には特別な思いがあった。天皇の名の下に行われた戦争。時代が軍国主義一色に塗り潰されていく中、鈴木もその波にのまれた。戦争を肯定し賛美する本を書いたのだ。晩年、鈴木はその頃のことを孫の鹿島徹に語っていた。
「あの頃は奴隷の言葉で語らなければいけなかったんだ」。大東亜共栄圏建設にコミット(関与)した。そのことを深く恥じていたのだと思います(鹿島)
・かつて戦争に加担したことへの悔恨と七人の議論を踏まえ、鈴木は天皇制に関する最終案をまとめた。
「天皇は国政を親(みずか)らせず、専ら国家的儀礼を司る」
・政治にタッチせず国家的儀礼だけを行う。象徴天皇制につながるものだった。1945年12月26日、全58条から成る「憲法研究会草案」が完成した。鈴木は日本政府とGHQ本部へすぐに届けた。政府からの反応はなかったが、GHQの評価は全く違った。
この民間草案を基にいくつか修正すれば、大いに満足できる憲法をつくることができるというのが私の見解でした(ラウエルの肉声テープ)
・この草案が一つの参考とされ「GHQ草案」、そして日本政府が修正を加え政府案となった。
・だが、七人の闘いには続きがある。1946年6月、帝国議会では政府案の最終審議が始まった。そこで立ち上がったのが経済学者の森戸辰男。ある重要な一文を取り返そうとしていた。
「人間が人間らしく生きる権利」(生存権)
・生活苦にあえぐ国民のため、国は最低限の経済的保障をする。森戸が譲れない条文として草案に入れたものだった。しかしGHQ案、政府案を経る間に削られていたのだ。
・森戸は諦めなかった。戦後初の総選挙で議員となり、この最終審議の場に臨んだ。そして訴えた。
「今、国民は日々の暮らしに困っております。国民の最小限度の生活を保障するということは、各人が勝手にやるのではなく、国家がその制度を考えるべきなのであります」
(「衆議院帝國憲法改正案委員小委員会速記録」より)
「そんなことは憲法ではなく、一般の法律でやればよい」「憲法に定めなくても政策で実行すればよかろう」
・森戸は譲らない。国が国民を経済的に守る、それは憲法で約束しなければならない。熱弁は議会を動かした。生存権条項は復活したのだ。
【日本国憲法 第25条】
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
・11月3日、憲法公布の日。民主憲法を祝う催しが日本中で行われた。鈴木安蔵や森戸辰男ら七人が心血を注いだ草案は、日本国憲法の魂となった。
<幻の憲法 日本から切り離された島民たち>
・今から20年前(1997年)、一つのニュースが報じられた。終戦直後につくられその後、行方不明になっていた「大島暫定憲法」の原本が発見されたのだ。それは人知れず、役場の倉庫に眠っていた。史料を整理しているときに偶然、発見したという。
こういうことがあったということは知ってましたけども、それに関わる書類的なものが残っているとは思ってなかったです。まさかという感じはそのときにありましたけれども。でかいこと考えてたんだなって。国になるわけじゃないですか、小さな島が(大島町文化財保護審議会の岩崎薫)
・大島暫定憲法。完成は1946年3月。日本国憲法公布より8か月も前だ。そこには「統治権は島民にあり」。国民主権ならぬ島民主権。そして世界平和を意味する「万邦和平」。日本国憲法にも通じる思想が盛り込まれている。研究者は当時の人たちの切実な思いが窺えると言う。
やっぱり日本国憲法の三大原理、一番核となる部分に似たような内容が示されていた。1万前後の人口で、そういう少ないというと語弊があるかもしれないですが、そういう所で国の在り方を考える人たちがいたんだっていうところが一番の衝撃(名古屋学院大学准教授・憲法学者の榎澤幸広)
・未曽有の混乱の中で生まれた、もう一つの憲法。自分の手で憲法をつくり上げた島民たちの物語。全ての始まりは1946年1月29日、GHQから下された命令だった。
伊豆大島を日本領域から除外する
・突然の指令で北方領土、小笠原などとともに伊豆諸島が日本から切り離されたのだ。いわば「大島独立」という命令だった。
・すぐさま大島の6つの村の代表が集まり、役場で緊急集会を行った。この先、島はどうなっていくのか。独立命令に困惑しきった島民たちの代表を前に声を上げた男がいた。元村の村長・柳瀬善之助だ。10年間、東京で教師を務めた後、地元・大島に戻り中心地である元村の村長に就任したばかりだった。
こうなった以上は苦難を甘んじて受け入れ、民意を結集し理想郷大島を建設し、楽しい生活を自分たちの手で取り戻そうではありませんか。
・いわば「大島共和国」。その憲法をつくろうという計画はここから始まったと考えられる。それにしても、なぜ人々は憲法をつくろうと思い立ったのか。地元で長年、調査を続ける郷土史家の中田保は言う。
自分たちの目標というか、これに向かっていこうじゃないかという確かなものが欲しかったのだと思います。ゼロからスタートする(中田)
・だがなぜ、平和主義や島民主権など日本国憲法と共通する理念を導き出せたのか。その謎を解く鍵は、大島の地理的な条件にあると考える男がいる。大島憲法の調査を続ける古橋研一。
え?っていうような驚きがあった。たかだか1万人の島で独立して、今の憲法に負けない憲法をつくり出したということに感銘を受けた(古橋)
・この日、古橋は中田の案内である場所に向かった。
左手の方がサイパン。右手の方がいわゆる皇都・東京。(それを)守る最後の砦がこの場所だった(中田)
・大島に残る戦争遺跡。実は大戦末期、本土防衛の最後の砦として大島には日本軍1万人が駐屯。米軍の爆撃による被害も大きかった。元陸軍兵士の高田八郎(92)は当時、兵士として島を守っていた。
毎日のようにB29が大島の上空を通って東京へ行くのが見えた。各部隊に配属された時点で、もう惨憺たるもの。大島には川がない、水がない。ましてや8月。もし戦争があと3か月間続いたら、餓死してたでしょうね。もうたくさんだね、戦争はいやだね(高田)
一番何が大切かといったら平和。戦争したら絶対いいことはない。自分たちそれで苦しめられていたことで、それが基盤にあって、そこに民主主義をのせてつくっていった草案。基盤は平和。世界中仲良くしなければならないということは、あの戦争で身にしみている(古橋)
・では一体どんな人々が憲法づくりを手がけたのか。古橋は最近、手がかりを見つけた。大島の新聞「もとむら」。憲法づくりと並行して村長の柳瀬善之助が発行した島の新聞だ。
これほど民主的であっていいのかというほど、人の意見をくみ上げている。こういうことをやりたいと言ったら、否定するのではなくてそのまま出す。村の人の意見を尊重していた(同上)
・柳瀬は島じゅうから投稿を求めた。それに応じて様々な声が寄せられた。そこに憲法づくりに関わった何人かの名前もあった。その一人、茶屋の主人の高木久太郎。写真は一見こわ面だが敬虔なクリスチャン。自殺の名所と呼ばれた三原山で、自殺志願者を引き止めるためにお茶屋を営み、尽力していた。そして船大工の雨宮政治郎。仲間の人望が厚く「大工の政さん」と呼ばれ、慕われていた。
・こうした一般の人々の名はあったが、法律の専門家は見当たらなかった。憲法づくりは村長や村人たちが議論を重ね、手探りで行われたのだ。
・そんな試行錯誤の中で島民たちは驚嘆すべき政治的な仕組みに辿り着いていた。大島共和国の立法と行政の関係を示した図、現代に通じる特徴がある。
「権力分立」の考え方ですよね。議会と執政との関係。で、それを見守るっていうかダメな場合にはリコールとかするという島民との関係。ここを位置づけている。いろいろな他の憲法学者たちに仮に見せたときに、やっぱり一番驚く部分じゃないかと思いますし(榎澤准教授)
・国会にあたる「議会」と内閣にあたる「執行委員会」。それを取り囲み監視するのは全島民。権力の暴走を抑える仕組みまで、人々は自力で考え出していた。
・1946年3月下旬。およそ2か月の議論を経て大島暫定憲法は完成する。これによって大島共和国の骨格が固まった。ところが数日後の3月22日。GHQから「行政分離解除」が発表される。日本への復帰が決まったのだ。
・独立命令から取り消しまで僅か53日間。人々の偽らざる思いの結晶・大島暫定憲法は幻と消えた。そしてその年の11月3日、日本国憲法が公布された。そのとき彼らは、新たに誕生した民主憲法をどう受け止めたのだろうか。
力を使い果たした、その結果できたものを、これを幻にしないで何としても生かしていこうと思ったはず。自分たちの思いは間違っていなかったじゃないかというのは、あったんじゃないですかね。また改めて誇らしく思ったんじゃないですか(中田)
・大島町立第二中学校では歴史の授業で日本国憲法と並んで大島憲法が教えられている。自分たちの力で憲法をつくろうとした島民たちの思いは、今も失われていない。
島民全員が力を合わせて憲法をつくったと思うんで、かっこよかったです。聞いてて(男子生徒)
国民が一番偉いっていう考えは、やっぱりどこも同じなんだなって思って。すごい大切なことだなって思います(女子生徒)
大島の人も絶対平和がいいんだなっていうのがあって、一人一人の意思がちゃんとあったんだなっていうのが伝わってきて、これからも大事にしていかなきゃいけないなと思いました(女子生徒)
・憲法の一条一条。そこには人々の喜びや悲しみ、そして願いと祈りが込められている。
(2017/2/23視聴・2017/2/23記)
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1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 (朝日文庫)
日本国憲法の誕生 (岩波現代文庫)
憲法「押しつけ」論の幻 (講談社現代新書)
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