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【にっぽん!歴史鑑定】江戸の大店 大儲けの秘密

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【にっぽん!歴史鑑定】
「江戸の大店 大儲けの秘密」

(BS-TBS・2016/12/26放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 日本橋三越。時々買い物にも行きますし、催し物展覧会もなかなか興味深いものがありますのでそれを目当てに訪れることもあります。

 そんな魅力あるデパート(百貨店)のルーツが三井高利の三井越後屋だということは知っていましたが、どんな商売をして江戸時代に大店になったのかということは、改めて今回の番組で初めて知ることになりました。なかなかのアイデア商法で庶民の心を掴んだということで、見事という商法だと思いましたね。

 さて、そんな越後屋の商法の特徴として「店前売り」「現金掛け値なし」というのがありますが、高利が生きていた時代はまさにそれがフィットしたのかもしれませんが、現代はどうでしょうか。ネットで画面を見てクリックするという点では「店前売り」ではなく、さらにネット通販の大半はクレジットカード決済でありますから「現金掛け値なし」でもない。彼が想定していた商売の方法とは異なるものが現代の主流になっています。

 それをもし高利が目の当たりにしたら、どう思うのでしょうね。おそらく彼のことだからそうした時代の流れに合わせた商売を考えて、我々の考えもつかないアイデアを思いつくかもしれません。そんなことを思い巡らしながら、これから先はどんな時代になるのだろうと、つい考えてしまいます。斬新なアイデアが思い浮かべられるような知恵があれば実践して一儲けしたいのですが、どうやら私にはちょっと無理そうな感じです。

 いずれにしても人が物を欲してそれを買い求めるということは古今東西変わらないので、その手法についてどれが主流になるのか…それを興味深く見守りたいと思いますね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・再開発が進められている東京・日本橋。その中で350年以上もの歴史を持つ老舗が日本橋三越本店。平成28年5月には、わが国の歴史を象徴する百貨店として国の重要文化財に指定された。
・その前身こそ江戸の大店・三井越後屋。1日の売上が今のお金で6000万円。新興都市・江戸で成功を掴んだ創業者・三井高利。彼が生み出した今に続く画期的な販売方法とは。
・奉公人が総勢1000人。越後屋の社員教育と巧みな人材活用術とは。
・訴訟に爆破予告。日本橋でしのぎを削る越後屋とライバル店を出し抜く宣伝広告とは。

<日本橋に出店した三井越後屋>
・日本橋は徳川家康が江戸に入府後、最初に区画整理を行った場所。慶長9年(1604年)には五街道の起点と定められ、道路が整備された。交通網が発達したことで江戸の町には多く人がやって来るようになったと、江戸の歴史に詳しい江戸東京博物館名誉館長の竹内誠氏は言う。

幕府が命じた天下普請によって江戸城築城などの公共事業で職人たちが大勢江戸に入ってきた。また参勤交代の制度によって全国の大名と家臣たちが暮らすようになり、江戸の人口は急激に増加した(竹内氏)

・しかし江戸は新興都市だったため食料も衣類も生産力が低く、人口増加に対して供給が追いつかなかった。そのため人々の暮らしを支える日用品は、それまで経済の中心だった大坂や京都などの上方からの下りものが頼りだった。

下り商品を扱う上方商人が続々と江戸に進出し活躍した。彼らは上方を本拠地として江戸に支店を持っていたことから「江戸店持ちの上方商人」と呼ばれていた(同上)

・三井越後屋の創業者・三井高利もその一人だった。伊勢国・松坂で商いを営む家に生まれた高利は類稀な商才を発揮し、家業を拡張していった。そして延宝元年(1673年)、新規開拓を目指し江戸に進出。江戸随一の呉服街だった日本橋本町に間口9尺、使用人10人あまりの小さな呉服店「三井越後屋」を開いた。このとき高利52歳。

<三井越後屋が江戸で始めた画期的な商法とは>
・伊勢を本拠にし、江戸にあらたな店舗を開いた三井高利だったが悩みがあった。そこで越後屋はある画期的な新商法に打って出た。そこに越後屋の大儲けの秘密があった。

【店前売り】
・一つは店前売り(店頭販売)。当時の商いはといえば訪問販売が普通。商人が客の屋敷まで商品を持参し販売する「屋敷売り」や、注文をとった後で商品を届ける「見世物商い」を行っていた。
・江戸に得意先がなかった越後屋はお客さんの方から店に来てもらい、そこで買い物をしてもらおうと考えた。この斬新さが目を引き、通りがかりの人を次々と引きこんでいった。

【現金掛け値なし】
・さらに越後屋は画期的な売り方を取り入れた。暮れも押し迫った江戸の町、往来には決まって渋い顔で忙しく走り回る商人の姿があった。実は江戸時代は一般的にツケ払い。商人たちはその代金を回収するため、家々を回っていた。

支払いは二節季(お盆・年末)払い。あるいは極月(年末)払いだったため、場合によっては貸し倒れや資金の回転も悪くなった(同上)

・また当時は「掛け値」といって実際の販売価格より値段を高くつけておき、客が値引交渉で下げていくのが習わしだった。三井家の史料を10万点所蔵する三井文庫の主任研究員の村和明氏に伺った。

決まった値段を付けて定価制にし、その場で現金で支払ってもらう。その代わり安くお買いいただける仕組みだった。それまでのやり方では、呉服の知識、交渉力のない方には買い求めづらかった。そこを決まった値段を付けることで誰でも呉服が買えるようになった(村氏)

・掛け値なしの定価売りは当時の世界の商業市場からみても画期的なことだった。定価を付けて売ったことで、越後屋はお客に正直。越後屋で買うとお得という噂が広まり、時には順番待ちになるほど客が押し寄せた。

三井高利の教え「新法を工夫すること」

・越後屋はさらに革新的な商法を生み出していった。

【切り売り】
・当時、高級な呉服を買うのは中流以上の武士が殆ど。呉服店では着物1着分の1反売りをするのが当たり前だった。そんな中、越後屋は客の求めに応じてどんな長さでも切って売る切り売り販売を始めた。
・切り売りは手間がかかる上、儲けも少ないと呉服店は及び腰。それをあえて進んで行った。良い生地を好きな分だけ買えるとあって、今まで手が出せなかった庶民にまで客層を広げることに成功した。
・さらに越後屋はオーダーメイドシステムを導入。当時、呉服店は生地を販売するだけで、仕立ては客自身が仕立屋に発注しなければならず手間だった。そこで越後屋は反物を買ってもらえれば仕立てまで責任を持ち、出来上がった物を客に納めた。まさに現代の呉服店の走りだった。
・こうして従来のやり方を排した斬新な商法で、三井越後屋は大繁盛となった。

<熾烈!ライバル店との販売競争とは>
・常識にとらわれない新商法で江戸の人々を取り込んでいった三井越後屋。当然ながらその成功を妬む商人たちも少なくなかった。
・三井家の商売記によると、わざと厠を越後屋の台所に向けてつくったり、新商法を差し止めるよう幕府に訴訟を起こしたりする者もいた。
・さらには「浪人を雇って夜中に火薬を仕掛け店を奉公人もろとも全滅させる」という脅迫状をまかれたとも伝えられている。
・こうした様々な嫌がらせを受けるも着実に業績を伸ばしていった越後屋。江戸に店を開いて10年目の天和3年(1683年)同じ日本橋の駿河町に移転し店を拡大。客はますます増えていったという。
・その4年後の貞享4年(1687年)には幕府に着物を納める呉服御用を仰せ付けられた。幕府という絶大な後ろ盾が付いたことで、エスカレートしていた嫌がらせが収まったという。やがて他の呉服店もこぞって現金掛け値なし、店前売り商法を真似し始めた。

三井高利の教え「真似されることは利益」

・追従者が増えれば越後屋の名が高まるので、かえって利益になるというものだった。しかしこれによって同業者同士の競争は激化。宝永年間(1704~10年)にはライバルだった大黒屋との安売り競争に突入。越後屋は薄利多売に徹し、大黒屋を圧倒した。

それまでの商人は毎年同じような仕入れを繰り返すのが当たり前だった。高利はそれに対して、安く仕入れられるものがあれば大量に仕入れて、その値段に合わせて定価を細かく調整した。それによって薄利多売を推し進めることができた(村氏)

・その後、尾張町にあった恵比寿屋と亀屋が新装開店。このときは客を取られないようにと、すぐにそれらの店舗近くに支店を設け、安売りで対応した。越後屋は見事ピンチをチャンスに変えた。

<奉公人1000人!越後屋の人材育成法とは>

「一に富士 二には三井をほめてゆき」

・江戸の中心地・日本橋を訪れた人々はまず正面に見える雄大な富士の姿を褒め、次に三井越後屋を讃えた。こんな川柳が詠まれるほど、越後屋は大きくなった。
・しかし繁盛の秘密は現金掛け値なし、店前売りといった斬新な商法だけでなく、働く人にもあった。そこには巧みな人材育成法があったという。
・江戸時代の初め、商店の多くは家族経営による小規模なものだった。しかし呉服店は仕入れから販売までを手がけるため多くの働き手が必要。越後屋も奉公人を大勢雇い入れ、住み込みで働かせていた。奉公人の大半は上方の出身、江戸本店だけで最大342人、京都、大坂を含めると1000人を超えていたという。
・その修行の道はなかなか大変なものだった。13歳くらいで奉公に上がると、お仕着せと呼ばれる揃いの着物が与えられる。子供と称される彼らは住み込みで様々な雑務をこなしながら、そろばんや符牒を学んでいった。符牒とはその店だけで通じる暗号のようなもの。たとえば越後屋では数字を仮名で表記、帳簿を付ける際に必要不可欠だった。
・17歳になると元服。手代に昇進し営業職の第一線で働くようになる。しかし一口に手代といっても多くの階級に分かれていて初元、平、相談役、平筆頭といった今でいう平社員の時期を経て、20代後半でようやく名目役手代という役付きになる。

「支配」という階級にまで昇進すると、住み込みを卒業して自分の家に住んで結婚もできるようになった。初めて越後屋に奉公してから大体25~6年、年齢でいうと40歳ぐらいになっていた(村氏)

・しかしこの長い住み込みの修行に耐えられず、5人に2人は手代になる前に辞めてしまったという。そこで三井越後屋は少しでも離職者を減らそうと様々な福利厚生を用意した。

【福利厚生】
・何より人を大事にした越後屋は、奉公人の健康管理にも配慮。健康診断はもちろん、鍼や灸に温泉での湯治まで行かせていた。
・またレクリエーションも充実。伊勢参りや芝居見物など四季折々の慰労を実施した。

【ボーナス】
・住み込みのときには着るものも食事も支給されるため、いわゆる給料は存在しなかった。そこで越後屋は褒美(今でいうボーナス)を配った。さらに元手金と呼ばれる退職金も支給。

元手金は長く勤めれば勤めただけ多く貰える仕組みになっていた。優秀な奉公人が越後屋を辞めてしまって、自分の商売に専念しようとするのを出来るだけ長く引き留める狙いがあった(村氏)

・越後屋は独立後も彼らを重役として経営に参加させた。現代でいう取締役の地位にあたる元〆がそれだ。これが出世コースの頂点で、長年経験を積んだ手代から選ばれた。この頃には奉公人は60歳。何とも長い道のりだが、努力と才覚次第で誰でも経営の実権を握ることができた。
・手代たちは競いながら店前売りに励んだ。というのも越後屋には「厚勤録」という査定表があり、売場担当者の販売成績などを記録していた。これにより褒美の額が変わったというから、みんな必死になった。
・三井越後屋では客へのサービスを徹底させるため、様々な規則を設けていた。

子供は客にすぐ煙草を出し、火入や茶を用意すること。

客の目の前には立たないこと。

手隙の際は売り場で行儀よく待機すること。


・こうした接客サービスには創業者・三井高利の母の影響があったと言われている。高利の父は松坂に居を構え、酒や味噌を扱う商いをしていた。しかしあまり商売に熱心ではなく、もっぱら連歌や俳句などの趣味に没頭。
・そのため店を切り盛りし実質的に支えていたのは、商才に長けていた母・殊法だった。酒や味噌を買いに来た客には自らお茶や煙草を出し、時には食事まで振る舞うなどサービス精神に溢れていた。
・30両もの大金が入った財布を見つけた際には、すぐに人を走らせて落とし主に届けさせたという。客を大事にし真摯に接する。そんな母の商いを高利は小さい頃からずっと見てきた。
・高利は商人について常々こう言っていた。

「(商人は)成功すると勤勉を忘れつぶれてしまう」

・高利は気配りのできる真面目な男だった。

「珍味があれば必ず僅かでも奉公人全員に分け与えた」

「商売以外の道楽は不用と事業に打ち込み、人を知ることを好んだ」

・この人を知るという精神こそが越後屋のモットー。奉公人たちも皆、客がやって来て腰掛けるまでにその出身地、性格が分かったという。

<客を呼ぶ江戸のユニーク看板とは>
・三井高利と同時代に生きた作家・井原西鶴は、実在の商人たちをモデルにした世界初の経済小説「日本永代蔵」の中で、高利を「大商人の手本」「世の重宝」と絶賛した。
・倹約と勤勉、そして人を大事にした高利は一代でその資産を約7万2千両(約720億円)に増やした。それは幕府の1年分の歳入の6%にあたる大金だった。
・三井越後屋の看板。セールスポイントである「現金掛け値なし」が一目で分かるよう、しっかり入っている。

看板は人々にその店の存在を知らせる。つまり何屋なのか。あるいは自慢の商品は何なのか。看板はまさに商いの顔だった(竹内氏)

・江戸で看板が商いの顔として大きく発展したのは、町の大半を焼き尽くした明暦の大火(1657年)の後のことだった。焼失した店舗を再建する際、今に続く様々な看板が登場した。
・通行人にすぐに気づいてもらえるよう店先に突き出た建看板や、四方に文字が書けるため何処から見ても一目で分かる箱看板。夜間でも目立つように工夫されたのが提灯看板。花火見物を楽しむ一行に果物や団子を売る物売船の格好の目印となった。そして「お客さん、看板ですよ」の語源となったのが立掛看板。看板を店にしまえば店じまいを表したからだ。
・どの店もこぞって看板を出すようになると少しでも目立つようにと個性が出てくる。その代表が判じ物看板。判じ物とは絵解きなぞなぞといったところ。蛸の看板は玩具の凧屋だった。こうした看板は駄洒落好きな江戸っ子たちに大人気。

<三井越後屋の新商法を広めるための宣伝方法とは>
・江戸随一の大店となった三井越後屋。その新商法を知らせる宣伝方法は「引き札」という画期的なものだった。客を引き込むというのがその名の由来。今でいうところのチラシ。最大の利点は様々な情報を文字にして書き込めることだった。天和3年(1683年)越後屋は、こんな引き札を出した。

呉服はすべて掛け値なしの正札で販売します
安い価格のため値引きできません
現金でお支払いいただき
掛売りも配達もいたしません


・これを江戸中の長屋に配った。その効果も絶大で、元手は掛かったが客が押し寄せ大儲けに寄与したことは間違いなかった。
・やがて「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と言われるほどの活気をみせた越後屋。さらに越後屋は江戸の数少ないビジュアルメディアも活用した。それが錦絵で、版元に金を払って人気の美人画を描かせた。
・艶やかさを競う美女たちの後ろには越後屋が。身に纏う着物はもちろん越後屋のもの。店だけではなく商品を宣伝する見事な戦略だった。ライバル店からも同様の錦絵が出されるほど大きな宣伝効果を生んだ。

<江戸版CSR 越後屋が行った救済活動とは>
・越後屋というと時代劇では悪徳役人に袖の下を通すことが多いが、実は越後屋の知名度の高さから芝居などで勝手に名前が使われ、いつしか悪役の代名詞となっただけ。実際は創業者・三井高利はこう言っていた。

「よく節約をしなさい」

「堅実な商売をしなさい」


・大店になってからも常に自分たちを律していた。幕府御用を務めていると幕府寄りになってしまうが、三井はあくまでも商人であり驕らずに商売の道を勉強しなければならない。
・寛保2年(1742年)江戸が大水害に見舞われた。その際、越後屋は100両ほどの資金を出して難民救済のため1000人分の握り飯を配ったという。

越後屋は関わりがある人たちや地域の人々に対する援助を行っていた。対象は1000人、2000人という規模になったし、こうした事例は江戸時代を通じて何度もみることができた(村氏)

・世のため人のため、その精神で越後屋は大きな信用を得ていった。

三井高利の教え「商いの元は養生にあり」

(2017/1/4視聴・2017/1/4記)

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