【歴史秘話ヒストリア】
「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎~」
(NHK総合・2016/12/24再放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/
<感想>
戦国武将の中で唯一女性だったということで歴史ファンの中では有名な井伊直虎。今回の番組は2014年5月28日に放送されたものの再放送でした。来年にもあらためてヒストリアで取り上げられるようですね。
ということで来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の番宣ということは明らかなのですが、ここにきて直虎に関する歴史的な発見がありました。というのも、番組でも出てきた「井伊美術館」が『直虎が男性だった』とする史料を公表したというのです(→http://www.ii-museum.jp/)。
どうやら直虎が女性だったという記述は、番組で出てきた「井伊家傅記」のみということらしいのです。しかもそれが書かれたのは江戸時代。そして新史料で指摘していることは、「次郎法師」(井伊家の娘)は、家督を継いだ直虎と同一人物ではなかったということなのですが、その視点でみると不自然な点だと思われる謎が解けるような気がするのです。男性しか使わなかった「花押」を直虎が使ったというのも変ですし、いくら今ほど情報伝達手段が発達していなかったにせよ領主が女性だということを周囲に隠し通すというのは無理があるでしょう。少なくとも今川家にバレていたら即刻攻め込まれて、井伊家滅亡になっていたのでは。
まあ、いずれにしてもNHKは予定通りドラマを放映するようですし、直虎の性別論争はぜひ今後の展開を期待したいところです。歴史の先生方、ぜひ頑張ってください。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・戦場で傷ついた兵士を救い「天使」と呼ばれたイギリスの看護婦ナイチンゲール。フランスのジャンヌ・ダルクは祖国の勝利に命を捧げ、後に「聖人」と讃えられた。古今東西、大きな危機が訪れたときに類稀な女性たちが現れ、人々の苦難を救ってきた。
・それは我が日本でも。戦国時代の武将・井伊直虎、猛々しい名だが実は女性。その生涯は波乱に満ちていた。僅か5歳で交わされた結婚の約束。淡い恋を育んだが、お家騒動で許嫁は行方不明に。愛のため少女はある行動に出た。
・運命のいたずらで家督を継ぐことになった直虎。やがて非凡な政治力を発揮した。専門家も注目する秘蔵の資料から、その詳細が明らかに。
・地方の一領主から大大名へ、輝ける栄光をもたらした一人の女性の物語。
<お嬢様が戦国武将!? 井伊直虎 苦難の歩み>
・室町幕府の衰えとともに日本全国を戦乱が覆っていた時代、井伊直虎が生まれたのは天文4年(1535年)頃と考えられている。実家は数百年にわたって「井伊谷」一帯を治めていた領主。幼名などの記録は残っていないが、一人娘だったため可愛らしい名前で大切に育てられたことだろう。
・この頃、地方に根づきその地盤を領地として支配した武士を「国人」あるいは「国人領主」と呼ぶ。井伊家もそうした国人の一つ。15ほどの集落を治め、質素ながらも城を構えていた。標高115mの小高い山、井伊家の築いた山城の跡がある(井伊谷城跡)。
・戦国時代は地方の国人領主にすぎなかった井伊家。しかしその後、徳川幕府でも屈指の大大名となり有名な大老・井伊直弼を世に出すことになる。
・まず井伊家とはどんな一族だったのか。城跡にほど近い井伊家の菩提寺である龍潭寺(静岡県浜松市)。19代目住職の武藤全裕さんは、長らく井伊家の研究を続けてきた。
・寺に代々伝わる「井伊家傅記」。平安時代から続く井伊家の歴史がまとめられている。他の史料にない記述が多く、研究者も注目する貴重な史料だ。
「女にこそあれ井伊家惣領に生まれ候」
・本来、女性の直虎が井伊家を継ぐ可能性は殆どなかった。代わって跡継ぎと考えられていたのが、直虎が僅か5歳のとき許嫁となったいとこの直親。いずれは夫婦となり、ともに井伊家を盛りたてる。2人は幼い頃からそう教えられていた。
・天文13年(1544年)直虎10歳のとき、ある事件が起きた。直虎が将来直親と結婚する形で進められていた井伊家の家督相続。それに不満を抱いた家老の一人が陰謀を企てた。家老は幼い直親を亡き者にしようと暗殺団を送り込んだ。それに気づいた直親の親族が間一髪で井伊家の領地から脱出させた。
・長野県下伊那郡にある松源寺。命からがら逃れた直親が身を寄せた寺だ。井伊家家中で争いが起こることを恐れた直虎の父は、家老を罰しなかった。一方で直親の命を守るため、その所在も生死すらも一切秘密にした。
・それは許嫁の直虎に対して同様だった。直虎が父にどんなに問いただしても答えはもらえなかった。胸が潰れるほど思い詰めた直虎は、幼いながらも周囲を驚かす行動に出た。
剃髪して出家した。生涯独身という強い意志があった。直親以外の男性と結婚はしない(武藤住職)
・可愛いさかりの娘。父と母は許嫁のことは忘れるよう説得したようだが、しかし直虎は頑として受け入れず仏門に入った。
・それから時は流れて弘治元年(1555年)直虎が21歳となったこの年、実家から1通の書状が届いた。何事かと書状を開いた直虎、読み進むうちにその内容に愕然とした。なんと許嫁の直親が生きていたというのだ。直親に反発していた家老が病で亡くなったため、晴れて直親が逃亡先から帰ってくるという知らせだった。
・愛しい直親に会いたい。しかし自分は既に出家した身。寺の定めではもはや直親と夫婦にはなれなかった。やがて帰国した直親は井伊家の家督を継ぐために早々に別の女性と結婚。直親と新妻との間には男子(後の井伊直政)も生まれた。
・井伊家家中が喜びに沸く中、一人寺に身を置き続けた直虎。その胸中はいかばかりだったことだろう。ところが天は直虎に更なる試練を与える。家督を継いだばかりの直親が暗殺された。井伊家の領地を狙う戦国大名・今川家の仕業だった。
・このとき井伊家を継ぐべき男子は直親の子・直政のみ。しかしいまだ2歳と幼く、とても一家の当主を務められなかった。お家存亡の危機、そこで全てを託されたのが前の当主の子・直虎だった。許嫁との永遠の別れに悲しむ間もなく、直虎の境遇は一変した。
家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけではなく、今でいう会社組織のトップなのでそれを守る使命がある。当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、直虎の場合は特殊だった(静岡大学名誉教授の小和田哲男氏)
・多くの群雄が割拠し弱肉強食の争いを繰り広げた戦国時代。そうした乱世に直虎は世にも稀な女性の戦国武将として、新たな人生を歩むこととなった。
・直虎は出家したため結婚はできなかったのに、なぜ俗世に戻ることができたのか。その秘密は出家したときの名前に隠されている。「次郎法師」通常これは男性が用いるもの。つまり直虎は「僧侶=男」として出家していた。
・当時、禅宗の寺では尼になると二度と俗世には戻れないという定めがあった。そこで直虎は家督相続などで実家が危機に陥ったときに備え、俗世に戻ることができる僧侶となったようだ。ただしたとえ僧侶でも結婚は禁止。このため直虎は生きて戻った直親との関係に苦しむこととなった。
<政治手腕は戦国一!? おんな城主・直虎>
・永禄8年(1565年)直虎31歳のとき家督を継いだ。城を構え領地を治める国人領主ではあったが、その立場は微妙だった。この頃、全国各地では軍事力を誇る戦国大名が力をふるい、その土地土地の国人領主たちも戦国大名の支配を受けるようになっていた。
・直虎の本拠・井伊谷のあった遠江国は、戦国大名・今川家の領国とされていた。直虎は井伊谷の地を治めながら今川家の命令を受ける、いわば中間管理職のような立場だった。
・そうした国人領主たちの悩みの種は、上の大名たちが繰り返す戦の費用。国人領主が領民から得る年貢がそれに充てられていたが、その額は増える一方で領主たちの台所はいつも火の車だったようだ。
・かといって年貢を増やせば領民の一揆を招き、収入そのものを失いかねなかった。そのため時には食事や酒を振る舞い、気持ちよく年貢を払ってもらえるよう努めた。領民の普段の暮らしにも気を配り、時には相続や離婚のゴタゴタの仲裁までしたとか。
・一方で大名にも絶えずご機嫌伺い。少しでも怠慢、反抗的と受け取られたら最悪、討伐を受け家を滅ぼされかねなかった。戦国大名と領民の板挟みに耐えかね、村を売り払った国人領主もいたという。
・そんなさなか領主となった直虎。ただでさえ大変な立場に加えて、男中心だった戦国の領主の世界では特に苦労が多かったに違いない。一体、直虎はどうやってこの難局に立ち向かったのか。直虎がとった作戦の一つを知る手掛かりが浜松市博物館に残されている。
・直虎直筆の書状に「花押」が記されている。花押は当時、男。それも身分の高い人物だけが用いた。花押を使う者とはすなわち土地と民を治める男性だった。
直虎が花押を使ったのは、男性と(思わせるよう)意識していた。対外的に直虎が女性であることは、あまり知られていなかったと思う。戦乱の時代なので、他国から女性の領主だからと攻められる可能性もあった(浜松市博物館学芸員の久野正博氏)
・直虎が利用したのは花押だけではなかった。直虎という、いかにも武将らしい名前。実は領主となってから名乗り始めた。
・さらに直虎は領地を治める力量にも目を見張るものがあった。今川家との間で交わされた書状「蜂前神社文書」には、徳政令つまり借金の棒引き命令に関するやり取りで、その文面を追うと巧みな政治手腕が浮かび上がる。
・事の発端は田畑の不作で借金返済に窮した農民による今川家への直訴だった。訴えを受けた今川家は農民たちの直接の領主である直虎に徳政令を出すよう命じている。
・普通ならおとなしく命に従い徳政令を出すところだが、直虎はためらった。国人領主の常として経済的に苦しかった井伊家は領内の商人から金を借りて不足を補っていた。徳政令を出せば商人が破たんし、今後井伊家は借金ができなくなりお家の危機に直面する。
・しかし徳政令を出さなければ、生活苦に追い詰められた農民たちが一揆を起こし井伊谷は大混乱に陥る可能性があった。それこそが今川家の真の狙いだった。井伊家の支配をかき乱し、その隙に領地を奪ってしまおうという魂胆だった。
残された史料から見て井伊谷徳政をめぐる動きをどう仕切っていくか、どう平和をもたらすか、瀬戸際に直虎は立たされていた。農民たちもどう動いていくか、非常に混迷した状況に立たざるを得なかった(駒沢大学副学長の久保田昌希氏)
・もつれ合う利害の中で迫られる決断。そして直虎は徳政令の見送りを決定。商人を保護し、井伊家の経済的安定を最優先することにした。しかしはっきり徳政令は出さないと言えば、今川家への謀反と受け取られかねなかった。
・そこで今川家には「商人たちを説得する猶予がほしい」と時間稼ぎを開始。その間に商人を徳政令から除外する特例措置の下準備を進めた。こうしておけば今川家でも文句は言えないというのが当時の慣習だった。
・更に徳政令を求めた農民たちが一揆を起こさないよう、その動向に細心の注意を払い続けた。今川家、商人、農民の三者の絶妙なバランスを直虎は必死に保ち、井伊家を守るため心を砕き続けた。
・直虎が苦心して徳政令を回避し続けるさなか、今川家から送られてきた書状には「太以曲事二候」(徳政令を先延ばしにするのは以ての外であり許されない)と。自分たちの企てが進まない今川家は苛立ちを募らせていた。
・しかし直虎は脅しに屈することなく更に時間を引き延ばし、裏で商人たちに対する徳政令免除の手はずを整えた。その期間はなんと1年半もの長きにわたった。
・そして全ての準備を終えた永禄11年(1568年)11月、ようやく徳政令が出された。しかし直虎の巧みな根回しによって今川家が狙っていたような混乱は起こらなかった。
徳政令をめぐって直虎は非常に慎重に行動して、政治的な調整をしなければならなかった。それを直虎は見事に乗り切って井伊谷に平和を呼び戻す努力を行った。その政治的手腕は大いに評価できる(同上)
・この徳政令の実施では直虎はもう一つ大切なものを守っていた。それは幼き日に失意のあまり出家し、僧侶として過ごした龍潭寺。当時の寺はお布施などで得た金銭を庶民に貸し、その利子で寺を修繕するなど現代の金融機関のような運営をしていた。徳政令が出されれば貸した金は戻らないばかりか担保の土地も借り手に戻され、寺が立ち行かなくなる可能性があった。直虎は担保の土地だけは徳政令の適用から除外する書状を龍潭寺に発行。寺を存続の危機から救っていた。
・おんな城主・井伊直虎。力がモノを言う時代にあって、知恵をしたたかさで領地を守り切った見事な政治手腕の持ち主だった。
<どん底からの大逆転!>
・徳政令をめぐり知略を尽くして今川家と戦った直虎。万事丸く収まったかに思われたが、それで終わりではなかった。
・今川家は徳政令を指示しておきながら、いざ実施されると直虎には統治能力がないと言いがかりをつけ、力づくで領地を奪った。井伊家は離散。直虎は幼い直政とともに城を追われた。
・城も領地も全て失った直虎。永禄11年(1568年)11月、龍潭寺に身を寄せた。井伊家復活の道を探る直虎だったが、遠江をめぐる情勢はますます混沌としていた。
・直虎が龍潭寺に入った直後、今川家が隣国の武田、徳川両家に攻め込まれ滅亡した。今より井伊家を再興するには武田家、徳川家いずれかの庇護を受ける必要があった。この選択を誤れば再び家を興すどころか、その大名もろとも滅び去るかもしれなかった。他の大名の動向、戦の勝ち負けなども把握し将来を見極める必要があった。
・直虎以外の国人領主たちの判断は真っ二つに分かれた。武田家を選んだ者、徳川家を選んだ者ほぼ同数。井伊家はどちらに付くべきか決め手が見つからなかった。悩んだ直虎は散り散りになった親族にも連絡を取り、意見を求めていた。
・井伊家の未来が懸かった究極の選択。直虎が選んだのは徳川家だった。当主の家康は当時、織田信長の同盟相手に過ぎない存在。決め手は何だったのか。
・「井伊家傅記」を詳細に読み込むと、直虎の心を決めさせたのは亡き許嫁・直親だったと考えられる。いずれ(徳川に)仕えたいという直親の遺志ではないかと思わせる出来事があった。生前、直親は密かに井伊家が今川家を離れ、徳川家に従う準備を進めていた。更には生まれて間もない直政を家康に仕えさせようとすらしていた。
三河の徳川家康が上り調子。これが(家康を選んだ)理由の一つ。もう一つは亡き直親が今川と徳川
を両天秤にかけて「今川を離れて徳川につきたい」との思いを、たぶん直虎は知っていた。亡き許嫁の思いを自分の代で受け継ぎたい。直政を徳川家に仕えさせたいという思いだった(小和田哲男氏)
・天正3年(1575年)直虎41歳のとき、許嫁の忘れ形見である直政が15歳になると直虎は行動を起こした。それは家康に直政の家臣取り立てを願い出ること。しかしそれを訴えようにも流浪の家の者が、大名である家康にすんなり会えるとは思えない。
・そこで直虎は家康の行動を調べ上げ、ある計画を立てた。家康が趣味の鷹狩りに赴く道すがら、直政に出会うという機会をつくり出すということ。「井伊家傅記」には直虎が周到に準備を進め、家康と会うときの直政の衣装も手ずから縫ったと記されている。
直虎は一計を案じて、家康の目に留まるにはどうすれば良いかと考えた。注目されるような着物を縫って家康の目に留まるような工夫をした。それは直虎が直政を後見しよう、跡取りとして育てようという思いからだった(京都橘大学名誉教授の田端泰子氏)
・天正3年(1575年)2月15日、直虎の計画実行の日。場所は現在の静岡県浜松市。直虎手縫いの衣装を身につけた直政は道端に立ち、鷹狩りの家康一行が通りかかるのを待った。そして家康がやって来ると深々と頭を下げた。古来、井伊家と徳川家が関わりがあることを伝え、自分も家康に仕えたいと願い出た。
・徳川家の記録(東照宮御実紀)によると、このときの家康の様子は「直政を只者ではない顔つきであると思われた」。どうやら直政を一目で気に入ったようだった。直虎の計画は見事成功。直政は家臣に取り立てられ「万千代」という名まで授けられた。
・徳川家臣団の一員となった直政は、その後めきめきと頭角を現した。あるときは家康が刺客に襲われ間一髪のところを救い、またあるときは宿敵・武田家との合戦で獅子奮迅の働きをした。その戦いぶりは敵だけでなく味方をも驚かせたとか。
・この頃、出世街道をばく進する直政に直虎が贈った品がある。戦勝祈願の4本の旗「四神旗」が京都市東山区の井伊美術館に保存されている。そこに認められた神の御加護を祈るまじないの文言は直虎が書いたものと伝わる。
(直虎は)直政を見ていて、期待できる人間と分かったんじゃないか。彼がちゃんとやってくれれば井伊家の繁栄は疑いないと。私(直虎)でつながったから直政もしっかり頑張れという意味があった(井伊美術館館長の井伊達夫氏)
・将来を託された直政は、その後も八面六臂の大活躍。直虎の期待以上の井伊家当主として成長していった。一時は滅亡の瀬戸際に立たされた井伊家。しかし戦乱の世に生まれた稀有なおんな城主・直虎の執念で見事再興を果たした。
<直虎 そして井伊家のその後>
・直政が仕官し家督を継いだ後、直虎はゆかりの龍潭寺で余生をおくる。直虎が願い続けたのは井伊家の繁栄。それを確かなものとする歴史的事件があった。
・天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺で織田信長が明智光秀の謀反に遭い落命。近くに滞在していた徳川家康にも危機が迫った。家康は一刻も早く本拠地の三河国に戻り、態勢を立て直す必要があった。
・このとき側近中の側近として警護を任されたのが井伊直政だった。追っ手を逃れ、道なき道へ。伊賀国(三重県)の山中を抜ける大脱出が敢行された。落武者狩りなど危険に満ちた道中、直政は命を懸けて家康を守り抜いた。
・後々まで家康が生涯最大の苦難と語った脱出行「伊賀越え」。このときの働きを賞され、直政に褒美として授けられたものがある。当時、稀少だった孔雀の羽を一面にあしらった陣羽織(孔雀尾具足陣羽織)。家康の深い感謝の念が込められている。
・その後、井伊家は近江国・彦根に移り、徳川幕府を担う譜代大名の中でも一番の家柄となった。井伊谷の国人領主から日本有数の大大名へという驚くべき出世だった。
・直虎が亡くなったのは、直政が名を挙げた伊賀越えの僅か3か月後の天正10年(1582年)8月26日。井伊家の安泰を確信し、世を去ったかのような最期だった(享年48)。墓は菩提寺の龍潭寺に建てられた。場所は許嫁・直親の墓の隣。結ばれることのなかった愛しい人に寄り添うように並んでいる。
・乱世に生を受け、あえて男の名を名乗り城主の重責を負った井伊直虎。逆境にあらがい、滅びかけた我が家を絶望の淵から蘇らせた力の源。それは幼き日の心に刻まれた一途な愛に他ならなかった。
(2016/12/29視聴・2016/12/29記)
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