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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】“冬のソナタ”が起こした奇跡 韓流ブームの発火点

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「“冬のソナタ”が起こした奇跡 韓流ブームの発火点」

(NHK・BSプレミアム・2016/12/21放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 「冬のソナタ」懐かしいですね。NHKでリアルタイムで観ていました。そして素直に感動してしまいました(天邪鬼な私でも素直なときは素直です…笑)。チェ・ジウさんの涙に共感して毎週楽しみにしていたのを覚えています。

 そして番組でも取り上げられていましたが、このドラマをきっかけに「韓流」という言葉が日本にも定着してドラマや音楽、映画など様々な韓国産のコンテンツが日本に入ってきて、それを多くの人たちが受け入れるという文化が定着したように思います。逆に日本文化は長い間、韓国では禁止されていたのをキム・デジュン政権の時代に開放し、相互の文化交流が進んだ時代でもあったわけです。

 今も日本のドラマと同じように韓国ドラマを毎週のように楽しんでいる私としては日本と韓国の間に歴史的な問題があったとしても、だからといって一事が万事で反目し合うような関係ではなく相互理解と交流がもっと進んでほしいと願っています。韓国では反日を扇動していた大統領がどうやら辞任しそうですので、日本の側の為政者も正しい歴史認識を持ち韓国の人たちに思いやりの気持ちをもつ人たちになってもらいたいものです。

 それはともかく、2017年の年明け早々に民放BS局で「冬のソナタ」の再放送があるようです。実はちょっと楽しみにしているところです。あと続編というのがあるという話も興味津々です(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・それはまさに事件だった。2004年、成田空港を埋め尽くした史上空前、おびただしい数の女性たち。目的はただ一つ、その男を一目見ること。
・現れたのは「ヨン様」と呼ばれた一人の韓国人俳優ペ・ヨンジュン氏。彼の出演したドラマ「冬のソナタ」に日本中の女性たちが熱狂。それは紛れもない純愛だった。
・「愛する人の心が一番いい家です」そんな愛の言葉の数々が、世の女性たちの心をわしづかみにした。ドラマ「冬のソナタ」(通称「冬ソナ」)。真っ白で透き通った世界の中で、主人公のチュンサンとヒロインのユジンが初恋の相手と純愛を貫く物語。日本での放送時には夜11時台にもかかわらず、視聴率が20%超えを記録した。
・しかし「冬のソナタ」が成し遂げたのは、それだけではなかった。戦後長らく日本と韓国の間にあった目には見えない壁に風穴を開け、お互いの理解を深める文化交流が始まった。
・「冬のソナタ」とは一体どんなドラマだったのか。全20話にわたって放送されたドラマの見所を。

【物語の始まりは高校時代】
・物語は高校時代から始まる。バスの中で偶然出会ったヒロインのユジン(チェ・ジウ)と転校生チュンサン(ペ・ヨンジュン)。2人はやがて惹かれ合い、初恋の思い出を紡ぎ始める。

【チュンサンが交通事故に遭い、いなくなる】
・しかしチュンサンが交通事故に遭い、いなくなる。

【初恋の相手チュンサンとそっくりの男ミニョンが現れる】
・ところが10年後、目の前にチュンサンそっくりの男ミニョンが現れる。

【しかしユジンは幼なじみと婚約していた】
・ユジンは既に婚約していたが、どうしようもなくミニョンに惹かれていく。

【チュンサンとミニョンは同一人物 高校生以前の記憶を喪失していた】
・実はチュンサンとミニョンは同一人物。高校生以前の記憶を失っていた。真実を知った2人は様々な障害を乗り越えていく。

・放送終了後には驚くべき反響が。ドラマを観た女性たちからファンレターの域をはるかに超える熱い思いのこもった無数の手紙が届いたのだ。
・忘れていた初恋の思い出にひととき浸った人。大切な夫を早くに失ったとき何よりの慰めになったという人。過酷な現実に向き合い押し潰されそうになったときドラマで心がほぐれたという人。「冬のソナタ」のおかげで生活に光が差し、人生まで一変したと誰もが感謝の言葉を綴っていた。
・それまで日本人には殆ど馴染みのなかった韓国ドラマが、なぜそんなにも熱狂的に受け入れられたのか。監督が名優に語った生き様がある。

「純粋な思いを持ち続けたいから結婚はしない」って言ったんです。あの監督(俳優チョン・ドンファン氏)

・韓国の未来を賭けドラマを産業にした大統領がいた。

大統領は「冬ソナ」ブームに大喜びでね。「ヨン様、ヨン様」ってね(キム・デジュン元大統領の側近)

・そして「冬のソナタ」に人生を救われた女性たち。その絶望と再生の物語。

本当に泣きました。泣き崩れました。顔なので。「冬のソナタ」が私を変えてくれたと言っても過言ではない。

・人々の人生にまで影響を与えた「冬のソナタ」。運命の分岐点は日本で初めて放送された2003年4月3日。今回はそのドラマを作った男、ドラマ誕生に一国の未来を懸けた大統領、そしてドラマに人生を救われた人々。その3つの視点で知られざる物語を掘り起こしていく。

<視点1 究極の初恋ドラマを生んだ監督の決断>
・ソウルから北へ数十キロ、ナミソム(南怡島)という川に浮かぶ美しい島がある。島には韓国はもちろん中国、日本、東南アジアから年間300万人が押し寄せる。その理由とは?

私たちもあんな恋がしたいわ(観光客の女性)

・ここが「冬のソナタ」の大切な舞台となった島だからだ。観光客の一番のお目当てがメタセコイアの並木道。ここで何が撮られたかといえば、2人の初恋が始まる場面。
・この恋の始まりをここで撮ることにこだわった男がいる。ユン・ソクホ監督。実は監督にとってナミソムは高校生の頃、デートをした思い出の場所。監督は若き日の初恋にこだわり、ドラマを作り続けてきた人だ。そんな監督にとってもあのブームは想像をはるかに超えたものだった。

日本の空港に着いたとき、あまりのカメラの多さに何でこんなことになっているんだとびっくりしました。とにかくああいう経験は初めてでした。100台以上のカメラのフラッシュを浴びるなんてね(ユン・ソクホ監督)

・なぜ「冬のソナタ」は国境を超え、人の心をとりこにしたのか。監督には撮影前から心に決めていたことがあった。

誰もが共感できる初恋の物語を作るために譲れないものとして、純粋さ、美しさ、温かさ。その3つを僕は求めていました(同上)

・誰もが共感できる初恋の物語。監督が下した3つの決断とは?

【第一の決断 「温かさ」のために】
・最初の決断はドラマを温かさに満ちたものにした、ある女性たちの抜擢。2人で1つの作品を書く脚本家のキム・ウンヒとユン・ウンギョン。監督に抜擢された当時のことを聞いた。

正直、私たちを起用すること自体、監督にとって冒険だったと思いますよ(ユン・ウンギョン)

そう、リスクが大きくてね(キム・ウンヒ)

だってテレビ局に抗議の電話が来たぐらいですから(ユン・ウンギョン)

・なぜなら当時2人はまだ脚本の勉強中。本格的な作品に携わったことはなく、たまたまテレビ局の一般公募に送った脚本が監督の目に留まったにすぎなかった。

監督から電話が来たときも誰か知らなくて「何?何?」という、まぬけな感じでした。監督のドラマもあんなに有名なのに見ていませんでしたから(ユン・ウンギョン)

・監督にドラマの設定を提案しに行ったときも…。

歩きながら話して決めました。「死んだ初恋の人に似た人が実は本人だったりして」とか「それを記憶喪失だったことにする」とか(ユン・ウンギョン)

そしたら監督が「それだ」と言ってくれたんです(キム・ウンヒ)

・そんなふうに2人を抜擢した監督とはどんな人物なのか?ユン監督は大学卒業後、韓国のテレビ局KBSに入局。30代で監督デビューしてからは純愛ドラマ一筋。数多くのスターも発掘してきた。今や世界的スターとなったイ・ビョンホンやペ・ヨンジュンもユン監督の作品でデビューを果たした。
・が、監督は「冬のソナタ」に特別な覚悟で臨んでいた。生涯一監督として現場に立つため、直前にテレビ局を辞めたばかりだったからだ。
・そんなときになぜ未知数の2人だったのか。理由は2人に書かせた企画書にある。冒頭に引用された詩の一節が気に入ったのだ。

私の初恋が、また私を呼んだらどうすればいいですか?(詩人サラ・ティーズデール)

もちろん、それでも彼女たちに決めるまでは悩みましたけどね。直感があったんです。私と合いそうだというね(ユン監督)

・実をいえば監督自身も初恋の相手がなかなか忘れられないタイプだった。
・そして2001年冬、監督は自分の直感が正しかったことを知る。どんな台詞にも2人が大事にしていることがほのかに、けれど確かににじみ出ていたからだ。例えばヒロインのユジンが悩んでいるとき…。

ミニョン:泣きたいんでしょう?泣いてきてください。

・言葉に礼節があり、互いに敬意を決して忘れない。

ユジン:ミニョンさん。
ミニョン:ユジンさん。


・そして最も大切な言葉は…。

ユジン:サランハムニダ(愛しています)

・「サランハムニダ」(文語体)。普通なら「サランヘヨ」(口語体)とするところを2人はあえて書き言葉にこだわった。当時それがいかに評判となったか。ドラマのテーマ曲を担当した歌手Ryuはこう証言している。

サランハムニダと言った瞬間、韓国のインターネットのサーバーがダウンするくらいの反響があったそうです。それほどたくさんの人が感動したわけです(Ryu)

・当時「冬のソナタ」のとりこになった日本の女性たちも、それは同様だった。

言葉がとてもきれいでしたね。人にものを伝えるときの愛情表現というかな。本当に言葉がきれいで好きになった記憶がある。それがきっかけで韓国語を習いはじめました(女性)

・2人の感性に影響を与えたものとは何か。尋ねると意外な言葉が返ってきた。

私たち田舎の素朴な人間なんです(ユン・ウンギョン)

大家族の中で育ちました(キム・ウンヒ)

・2人はともに地方の生まれ。大家族に囲まれ、昔ながらの暮らしの中で育った。

脚本を書く上で、懐かしいものへの郷愁はありましたよ。今の時代、10年も初恋の人を思うなんて古いと思われがちじゃないですか(キム・ウンヒ)

そう、確かに「冬ソナ」にはそういう古風な感じがあるかも。今のドラマは男女もすぐにタメ口ですからね(ユン・ウンギョン)

そんな時代に初恋の人を忘れないユジンの古風だけど素朴な心が、視聴者に響いたのかもしれませんね(キム・ウンヒ)

脚本家は持って生まれたものや生き方がその作品に必ずにじみ出るものなんです(ユン監督)

・監督には今も忘れられない台詞があるという。擦り切れるほど読み込まれた台本の隅に「心の家」と、その一節が走り書きされていた。

ミニョン:結婚後に住みたい家は?
ユジン:形としての家はどうでもいいんです。愛する人の心が一番いい家ですから。


2人の脚本家が持って生まれたもの。それは魂の温かさと言っていいのかもしれません(同上)

・2人を抜擢した監督の決断が、ドラマにまず「温かさ」をもたらした。

【第二の決断 「美しさ」のために】
・次は「美しさ」。あの初恋の場面、それが国境を超えて観る者を惹きつけたのは、ナミソムで撮影されたことと無縁ではない。
・それはある偶然の出会いの賜物だった。実はナミソムはかつて遊具などが置かれたレジャースポットだった。が、監督がロケハンに訪れた当時は荒れ果て、ゴミだらけ。誰も寄りつかない島となっていた。
・しかし島の所有者から依頼され、ナミソムを再生するアイデアを練っている男がいた。絵本作家として数々の国際的な賞に輝いてきたカン・ウヒョン。自然と生き物の共生を描いてきた作家だ。カンがナミソムにやって来た監督に初めて会ったとき、ある偶然に驚いたという。

監督にこう言いました。「僕は童話作家だけど、どうしてあなたも童話を作っているのか」ってね(カン・ウヒョン)

・実は当時ユン監督は「秋の童話」という、やはり初恋をテーマにしたドラマでヒットを飛ばしたばかりだったのだ。

すぐにそんな話で笑って意気投合しました。それで「どうぞ、ここで好きに撮影してください。お金なんかいらないから」と約束したんです(同上)

当時ナミソムが寂れてゴミだらけで人気のない場所だということはよく分かっていました。でも私にとっては、やはり思い出の地ですし、あのメタセコイアの並木道は当時のままでしたから。やはりそこで撮ろうと決断しました(ユン監督)

・そして撮影が始まって間もなく監督に天の恵みが。ゴミだらけの島、ナミソムに雪。監督はこのチャンスを見逃さなかった。夜の場面を急遽、朝に変えたのだ。それが二人が雪だるまを作るあの名場面。

場面を朝に変えたのは、僕にとって雪の白さこそが初恋の純粋さを表現する色だったからです(同上)

・ファーストキスにもとことんこだわった。

現場でスタッフの男たちから、さんざん恥ずかしいとか言われましたけど。高校生のファーストキスですから照れくささや純粋さをどうしても表現したかったんです(同上)

【第三の決断 「純粋さ」のために】
・その純粋さを追い求めるあまり、監督はさらに大きな3つ目の決断をしていたはずだという声もある。ロケが行われた街で撮影に協力したホン・スンヨンさん。現場で監督に会ったときの印象は…。

監督は私より3つ年上ですが、話す言葉の一つ一つの表現が少年のようでした。私には孫がいるんですが、その孫のような純粋な笑顔でしたよ(ホンさん)

・そこに隠された秘密を教えてくれたのが、ユン監督の作品に欠かせない名優チョン・ドンファン。「冬のソナタ」で物語の行方を左右する大学教授を演じた。チョンは監督と交わした会話から、その生き様に驚いたという。

監督は結婚していなかったので、結婚を考える年なのにどうして結婚しないのかと聞いたら、心配でできないと言うんです。で、何が心配なのかと聞いたら、結婚するというのはある程度、関係が深い証拠だと。だから結婚すればプラトニックで純粋な感情が失われるんじゃないかと怖がっていたんです。そんな感受性まで維持していないと、純粋さを映像に映し出せないと監督は考えていたんです。演出家としてそこまで使命感を持っていることに驚きましたよ(チョン氏)

・だからこそ「冬のソナタ」には国境を超えて伝わる「純粋さ」と「美しさ」と「温かさ」が満ちていた。純粋さを守るために結婚しなかったという例の話を聞いてみると…。

そうじゃありませんよ、そうじゃない。結婚しなかったんじゃなくて、結婚は常にしたかったのですができなかったんです。だって自分のドラマに出てくるような純愛をしようとしていたわけですから、難しいに決まってますよね。それで結婚が遅れたんです。まっ、チョンさんが言った話と似たようなもんですけどね(ユン監督)

・ちなみに監督の結婚は5年前。やはり純愛だったのだろうか。

<視点2 「冬のソナタ」に人生を救われた女性たち>
・「冬のソナタ」の放送から10数年、今も彼らに見守られるようにして生きる人々がいる。横浜市に暮らす中川さん(75)が「冬のソナタ」に出会ったのは、一番大切な人を失ったときだった。

いっぱい涙を流さないと見終わらないドラマでしたね。巡りあうべくして「冬のソナタ」に巡りあった。だから今日まで元気でいられたということを時々思い起こします(中川さん)

・「冬のソナタ」を観て以来、キムチの漬け方まで勉強した新潟市在住の池口小織さん(46)。

「冬のソナタ」は次男も観てました。成長してから見せました(池口さん)

・「冬のソナタ」に出会ったのは、ある病に侵されたとき。純愛の世界に没頭した。

現実から逃げられたんじゃないでしょうか。もんもんとしたものとか、迷いとか、不安というのから逃げられたんじゃないでしょうかね。「冬のソナタ」を観なかったら、こうはなってないです。それは確実です(同上)

・「冬のソナタ」が女性たちにもたらしたものとは何だったのか。大ブームが巻き起こった2004年、そのとき誰もが少女に戻っていた。感激のあまり泣き出す女性も。警察まで動員される事態は韓国でも大きなニュースとなり、果ては遠くイギリスの新聞でも日本人女性たちの熱狂ぶりが伝えられた。
・遂にはドラマが撮影された地方都市にまで直行便が就航。韓国北部のチュンチョン(春川)市は、すっかり「冬のソナタ」の聖地となった。その人気には直行便を誘致した女性も驚いた。

宣伝もしてないのに直行便は、ほぼ満席でした。記憶では日本人が一気に2500人も押し寄せたことがありますよ(カンウォンドウ(江原道)庁観光マーケティング課チーム長のチュ・ウンジョンさん)

・ペ・ヨンジュンが演じた主人公の家には、ひっきりなしに見物客が訪れ行列が。2人が学校の塀を乗り越える名場面の場所では、我も我もとやってみるファンが続出。

私の持っているペ・ヨンジュンのサインを10万円で売ってくれっていう日本人もいたわよ(地元食堂の女性店主)

・みんなあのとき、2人の愛の世界に何を求めていたのか。中川さんも空港に駆けつけた一人だ。

全てを忘れてそこに集中できますからね。子どものことや買った家のことを忘れて、ここに来たらもう本当にヨン様一筋(中川さん)

・中川さんがそこまで「冬のソナタ」に夢中になったきっかけ。それは新聞記者だった夫がまだ63歳の若さで病に倒れ、亡くなったこと。専業主婦で既に子育ても終えていた中川さんは、寂しさを募らせていた。
・そのうえ自らにもガンが見つかった。この後の人生をどう生きていけばいいのか悩んでいた頃、「冬のソナタ」に出会った。

自分にとっても衝撃的な出来事でしたね、ドラマにはまるというか。ずっと長いこと主婦でしたから、あまり出ていませんから表に。それがとんでもないドラマに当たって嬉しくてね。韓国に行かなければっていうふうに180度変わってしまいましたね(同上)

・そして中川さんは多いときには月に数回、韓国に足を運ぶようになった。時にはヨン様の追っかけを無邪気に楽しみもした。けれど何より嬉しかったのは、そこに自分たちと変わらぬ人々が暮らし、日本人が忘れつつある懐かしい人の営みがあると知ったこと。

(近く感じました?)
感じましたね、すごく。「冬のソナタ」を観ないで韓国へ行っても、それほど親しさは感じなかったと思います(同上)

・中川さんと同様、韓国に親しみを感じるようになったという人は多い。日韓の間に横たわる様々な問題。どうでもいいと思っていたが、もっと韓国を知りたいと思い始めた人。国と国、人と人の心を結ぶのは芸術だと思った人。「冬のソナタ」はお茶の間レベルで日韓の壁に風穴を開けていた。
・中川さんの場合、さらにこんな形でも世界は広がった。

(こういうのを使えるようになった発端は冬ソナ?)
そうですね。“冬ソナ”の情報がインターネットの中にたくさん出てきたんですね。ヨン様の情報、韓国の情報ね、いろいろ楽しみましたよ、おうちの中でね。亡くなった主人にそういう楽しみが増えたなんて言うと申し訳ないけど、もしかしたら主人がやっていいでしょって背中を押してくれたかもしれないですね(同上)

・近頃の楽しみは、散歩をしながら草花をめでること。「冬のソナタ」に夢中になった日々から学んだことがある。

何か夢中になるものがないと、健康でいられないというか…(同上)

・中川さんのガンは以来、再発していない。
・そしてもう一人、新潟市で出会ったのは「冬のソナタ」に生きる勇気をもらった人。池口さんは「冬のソナタ」を観て以来、学んだ韓国語の個人レッスンで生計を立てている。
・その道のりは、いばらの道だった。池口さんが「冬のソナタ」にのめり込んだきっかけ。全ての始まりはある朝、体に異変が起きたことだった。

朝、突然動かなくなっていたので。前の日から味がしなかったりとか異変はあったんですけど。朝起きて口がゆすげなくて、こぼれてきた。口も動かないので、食べ物が片側に寄るんですね(池口さん)

・池口さんを襲った病は顔面マヒ。突然、顔の右半分が全く動かなくなった。既に結婚し、2人目の子どもを身ごもっていた池口さん。闘病生活は壮絶になっていった。

全く動かなかったですね。目も閉じないので夜、布団が当たったりして痛くて、テープで止めて寝たり。あと髪も洗えませんし、目に全部入ってしまうので押さえながら母に洗ってもらったりとか。お医者さまの話だとストレスが原因だっていうことだったので(それまでの人生は)耐えるのが美徳みたいな、自分の中に殻があったので(同上)

・医師の診断は治る見込みがないという絶望的なものだった。

泣きました。本当に泣きました。泣き崩れました。顔なので。なんか思い出すと辛いんですけど、今はこう動くようになりましたけど…。人と会うにしてもまず顔を見るじゃないですか。それが動かないという辛さ…もう絶望して何も考えられなかったですね。たぶん子どもがいなかったらどうなっていたか分からないです。長男が優しくて、もう顔をなでにきてくれたりとか、すごくいい子だったので(同上)

・そんな状況に2年ほど耐えた頃、池口さんは「冬のソナタ」と出会い、深夜一人その純愛に浸った。池口さんの心をわしづかみにしたのは、あらゆる障害を乗り越えて純愛を貫くユジンの姿。その真っ直ぐな心が池口さんには眩しかった。

ユジンさんがものすごく意志がしっかりした人なんですね。とにかく何でも貫き通すんですね。押さえない情熱的なところがパーンと入ってきました。かっこいいと思って。すごく素敵でした(同上)

・その後、彼女は顔面マヒによって負った心の傷を少しずつ克服。そして韓国語を独学で習得した。病気以来、徐々にうまくいかなくなった夫と離婚。今は次男と二人暮らし。最近、韓国語を生かした新しい就職先も見つかったところだ。

(お母さんが“冬ソナ”を観て元気になった気がします?韓国語の先生をやったりしてかっこいいと思うところはある?)
ひとりで頑張っているところはすごいと思います(次男)

「冬のソナタ」を観なかったら、こうはなってないです。自分の足で立って稼いで、自分でもできるっていうのが分かりました。ありがたいと思っています(池口さん)

<視点3 文化大統領と「冬のソナタ」>
・「冬のソナタ」が救ったのは人だけではなかった。韓国一国の経済をも結果的に救うことになった。その原点はノーベル平和賞に輝いた大統領キム・デジュンが生涯貫いた信念と、ある驚くべき政策にあった。そこにあったのはまさに闘いだった。
・その闘いと「冬のソナタ」の繋がり。まずは43年前の1973年に起きた金大中事件。その日、韓国から来日中だった政治家キム・デジュンが、都内のホテルの一室から殺害を目的に拉致されるという事件が発生した。
・それから5日後、キム・デジュンは命からがら生き延び、韓国で解放された。なぜ殺害されようとしたのか。それは当時、独裁的な政治が行われていた韓国で民主化のために闘っていたからだ。事件から25年後に大統領になったとき、こんな夢を語ったという。

キム・デジュン大統領は「文化大統領」と呼ばれたいと望んでおられてね。「冬のソナタ」のヒットにも非常に喜んでおられました。「ヨン様、ヨン様」とね(元文化観光部長官で現国民の党代表のパク・チウォン氏)

・キム・デジュンが大統領に就任したのは「冬のソナタ」が制作される3年前のことだった(1998年2月25日)。当時、韓国は未曽有の経済危機にあった。韓国の通貨ウォンが大暴落、大手企業が次々に経営破綻に陥り工場も閉鎖。失業者が大量発生していた。銀行でも取り付け騒ぎが。
・「冬ソナ」の舞台ナミソムが寂れていたのも、国の経済危機と無縁ではなかった。難しい国家運営の舵取りを任された大統領。打ち出した政策は驚くべきものだった。

映像産業を国の宝にして経済を発展させなければなりません。「ジュラシック・パーク」や「タイタニック」など1本の映画が、韓国の3大自動車会社を合わせた利益よりはるかに稼ぎます。それだけ文化産業の価値は高いのです(キム・デジュン大統領・当時)

・文化産業なら初期投資もかさまず、若い力を活用できる。映像やIT産業などに積極的に予算を投入。コンテンツ開発に国を挙げて取り組み、新たな輸出産業として育成するという世界でも珍しい試みだった。
・そのために「文化産業振興基本法」という法律も制定(1999年)。それを推し進める機関(韓国文化コンテンツ振興院)も新たに発足した。韓国きっての財閥系企業から引き抜かれ、プロジェクトを任されたソ・ビョンムン。

当時はかなり悩みました。民間が映像ビジネスを手がけることはありますが、それを政府が主導する例は世界でもなかったわけですから。果たして国の利益になるのか、計画を立てながらもかなり不安でした(ソ・ビョンムン氏)

・始まったのが人材育成。韓国はテレビディレクターを育てる国立の学校まで設置、優秀な人材の確保に努めた。

昔の親は頭のいい子に法律や経済を学ばせたものですが、これからは文化コンテンツの時代だと、まず親の認識を変えたのです(同上)

・そうした様々な改革の結果、韓国では映像制作会社の数が当初の4倍に増加した。当時の空気をドラマ制作を手がけるプロデューサーがこう証言する。

(政府の方針をクリエイターは喜んだ?)
もちろんです。エンターテイメント業界はある意味、零細事業者ばかりじゃないですか。対外市場を視野に入れて、よいコンテンツを作るために融資してほしいときも非常に低金利で返済期間を長くして貸してくれたり、これは本当に産業として伸びるぞと期待が高まりました(アン・ソクジュン氏)

・そうして現場は徐々に熱気を帯びていった。そんな空気の中で作られた作品の一つが「冬のソナタ」だった。さらに大統領は、ある方針を側近に打ち明けていた。それを聞いたのが前出のパク・チウォン氏。その方針はキム・デジュンにしか打ち出せないものだったという。

大統領はこう言われました。「文化芸術政策は支援はしても干渉は決してするな」とね。「もし国が支援したとしても、過去のように干渉したら創造力の妨げになる。支援だけすれば創造力は必ず大きく花開くだろう」とね(パク・チウォン氏)

・大統領はなぜその確信を抱くに至ったのか。話は過去へと遡る。韓国はイ・スンマン初代大統領の時代から独裁的な政治体制が続き、パク・チョンヒ大統領の時代も反政府的な運動は弾圧され、言論の自由も制限されていた。
・そうした政治にあらがいキム・デジュンが政治家を志したのは20代後半、独裁政権打破を訴え続けた。そして初めて大統領選に出馬(1971年)、このときは落選したもののキム・デジュンは民主化のシンボルとして世界から注目を集める存在となっていた。
・時の政権は当然、キム・デジュンを敵視した。だからこそ一度は拉致され、命まで脅かされたのだ。こうした経験が、国家による干渉を忌み嫌わせたに違いない。そして民主化を求め多くの民間人が死亡した光州事件(1980年)。
・デモを扇動したとして死刑判決を受けたとき、時間を無駄にすることはなかった。服役中、差し入れにもらった本でやがて訪れる時代を悟ったことが、あの文化産業振興策に繋がった。

『第三の波』(アルビン・トフラー著)を読んで21世紀は情報化の時代だということを知りました。韓国人は教育水準も高く、文化的な創造力もある。冒険心が旺盛で国民が短気なこともIT分野では長所になると考えたからです(キム・デジュン)

・あの政策は自由を求めて闘い続けた男だからこそ、辿り着けたものだった。そんな闘いがあったからこそ、新たな時代のドラマが生まれたと考える人がいる。光州事件の町で生まれたユン・ウンギョンだ。

私たちは恵まれた世代です。民主化される前に青春時代を送った人たちは、ラブストーリーを書くにも罪悪感があったと思いますよ。私の青春時代は世の中が変わり、自分の気持ちに正直な作品も作れるようになったと思います。もし民主化が遅れていたら、システムの整備も遅れ、ドラマを楽しめる時代の到来は遅れていたかもしれません(ユン・ウンギョン)

・そして「冬のソナタ」をきっかけに起きる韓流ブームの下地を整えたのもまた、キム・デジュン大統領だった。日韓共同宣言(1998年)で両国の文化交流を推し進める方針を打ち出したのだ。
・当時、韓国では日本の映画やドラマ、音楽、漫画、ゲームなどの大衆文化が厳しく制限されていた。しかし大統領は日本の大衆文化を開放することを決断した。それが逆に韓国の文化産業の輸出拡大に繋がると考えたからだ。

韓国内では猛反発がありました。しかし大統領は私にこうおっしゃった。「我が国が門戸を開放し競争すれば勝利することもできるでしょう。でも閉鎖したまま競争がなければ敗れる」とね(パク・チウォン氏)

・1998年、第一次開放としてまず日本の漫画と映画を開放。映画は国際的に高く評価された作品という条件だった。続く第二次開放(1999年)、第三次開放(2000年)では劇場用アニメの公開、日本の歌のコンサート開催なども認められるようになった。そして2004年の第四次開放で日本の大衆文化がほぼ全面開放、街には日本の文化が溢れた。
・一方、日本では韓国のドラマは僅か数本のシリーズが紹介されたにすぎず、受け入れられたとは言い難かった。どんなに熱い思いがあっても、国境を超えるのは簡単ではないのか。
・そのとき「冬のソナタ」が地上波で放送(2004年4月)。日本が突如、韓流に目覚めたのだ。「冬のソナタ」の初恋と純愛。それこそが国境など関係ない最強のコンテンツだった。「文化大統領」と呼ばれることを望んだ男はこう語ったという。

「冬のソナタ」の撮影地にも興味を持っておられて「あんなところでデートもいいね」とおっしゃってね。でもまああの頃、日本の人に「今、行きたい海外はどこか」という世論調査をしたら、それまでハワイが1位だったのに韓国になったんだからね。すごいことです(同上)

・「冬のソナタ」から12年。今も韓流ブームは続き、ファンを増やし続けている。「冬のソナタ」の成功をきっかけに日本にやって来た様々な韓流エンターテイメント。それが今、韓国経済の確かな支えとなり、日本人女性たちに生きる力まで与えている。
・そしてキム・デジュン元大統領は人気を終え来日したとき、こう語りかけた(2005年5月・東京大学)。

確かに歴史の問題を巡って韓国と日本の間に葛藤はありますが、韓国人と日本人の心の底には共通する文化的なルーツがあります。その文明史的な運命を共有しながら、お互いに手を携え未来に向けて文化を開拓していくという姿勢を持てば、日韓の文化交流も自然な形でうまくいくのではないかと考えています。

・ドラマ「冬のソナタ」。人生を懸けた人々の覚悟が、国を救うために一生を捧げた男の熱情が、そこに重なり合ったからこそドラマには生きる力が宿っていたのかもしれない。

・最後に脚本家から気になる話を。

(次の作品の構想もラブストーリーですか?)
次は「冬のソナタ」のシーズン2を書くことになっています(ユン・ウンギョン)

・冬ソナファンの間では前々から噂されていたこの話。本当に実現するのでしょうか?まあ、2人の愛に浸りつつ、ゆっくり待つとしましょうか。

(2016/12/29視聴・2016/12/29記)

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