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【にっぽん!歴史鑑定】武田勝頼の生涯

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【にっぽん!歴史鑑定】
「武田勝頼の生涯」

(BS-TBS・2016/3/14放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 武田勝頼と父・武田信玄の生涯については下記の番組でも取り上げられました。
【歴史秘話ヒストリア】偉大なる父・信玄よ!~若きプリンス 武田勝頼の愛と苦悩~
【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】武田信玄
【にっぽん!歴史鑑定】武田信玄と影武者

 勝頼の最大の失敗である上杉謙信の後継者争いに介入したことについて、きちんと触れられていましたね(「ヒストリア」はそこが全く触れられていませんでしたが)。ここで北条との関係が断絶してしまったことが、彼にとっては痛恨の極みでしたね。

 あと岩櫃城に行かずに岩殿城に行こうとしたことについて、平山優さんはどちらでも武田家滅亡は免れなかっただろうと指摘していますが、私としては真田昌幸のいる岩櫃に行っていたら運命は変わったと思いたいですね。まあ、「真田丸」の影響ですが…何だか昌幸なら奇策があったのではなかろうかと(笑)

 いずれにしても、彼にとっては諏訪家の当主のままであれば、もう少し長生きできたかもしれないのに「信玄の後継者」という重荷を背負ったことが不幸の始まりだったような気がします。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・群雄割拠の戦国時代、1582年に天下統一を目論む尾張の風雲児・織田信長が信濃に侵攻してきた。迎え討つは戦国の名門・武田家の当主である武田勝頼。甲斐の虎と讃えられた信玄の跡継ぎだ。
・しかし信長との決戦を前にして既に武田軍は内部から崩壊し始め、織田軍に包囲された勝頼は自害し武田家は滅亡した。家督を継いでから10年目のことだった。
・偉大な父の跡を継いだ勝頼はなぜ名門・武田家を滅亡させてしまったのか、通説通りの無能な武将だったからなのか。
・武田家伝統の通字である「信」が与えらなかった勝頼、そこに隠された信玄の思惑とは。
・勝頼を生涯苦しめた信玄の遺言、これさえなければ武田家は滅亡しなかったのか。
・重臣・穴山梅雪や小山田信茂のまさかの裏切り、家臣たちはなぜ信長側に寝返ったのか。
・勝頼が本拠地・甲府を捨てて強引に新府城を築いた理由とは。
・父・信玄の影を追いながら乱世を生き抜いた勝頼、その壮絶な生き様に迫る。

<勝頼に「信」が与えられなかった理由とは>
・甲斐・武田家はその名を戦国の世に轟かせた名門武家の一つ。特に信玄は孫子の兵法に精通した軍略家で「風林火山」の旗をなびかせ信濃に侵攻、ライバル上杉謙信と川中島で5度にわたる戦を交え、東日本の有力大名となった。
・「人は城 人は石垣 人は堀」の言葉通り、実力本位の人材登用を積極的に行い、戦国最強と恐れられた屈強な軍隊をつくり上げた。名君として領民からの人気も高かった信玄、その四男として1546年に生まれたのが勝頼だ。一体どんな人物だったのか。
・長男から三男までは信玄と正室・三条夫人との間にできた子だったが、四男以降は側室の子だった。諏訪御料人と呼ばれた勝頼の母は信濃の諏訪地方を治める諏訪家の出身だった。信玄がまだ甲斐一国を治める大名だった頃、隣国・信濃の肥沃な大地を手に入れたいと考えた信玄は、まず玄関口である諏訪地方の攻略を計画した。
・諏訪家と武田家は代々しのぎを削ってライバル同士で、そんな諏訪家に信玄は一気呵成に攻め込み、当主・諏訪頼重を自害に追い込んだ。
・さらに絶世の美女と言われた頼重の娘・諏訪御料人に側室に迎えることにしたが、家臣たちはこれに猛反発した。反対の声があがる中、軍師・山本勘助が諌めたという。
・こうして側室に迎えられた諏訪御料人は信玄の子を懐妊し、生まれたのが勝頼だった。
・信玄が勝頼に武田家の通り字である「信」を与えられなかった理由について、武田氏の研究家である平山優さんはこう指摘する。

「勝頼は生まれながらにして諏訪家の跡継ぎとされたため、信ではなく諏訪勝頼と名付けられた」

・勝頼に信の字を与えず、武田家から出すことで家臣団の中に残っていた諏訪家への嫌悪感を払拭し、一方で勝頼を諏訪家の当主にさせることで信濃攻略の足掛かりに利用しようと考えた。
・武田家を出された勝頼は生母・諏訪御料人のもとで育てられ元服し、17歳のとき諏訪家ゆかりの高遠城主となった。

<高遠城主から武田の後継者に>
・勝頼が高遠城主になった頃、信玄は謙信との川中島の戦いによって念願の信濃を手に入れた。さらに味方していた上野にも攻めいって領国を拡大し、次は西の美濃と目論んでいた。しかしこのとき既に美濃には尾張の織田信長が攻めいっていたため、両者は一触即発の状態となった。
・そんな中、信長が信玄に同盟を申し入れてきた。信玄はここでもまた勝頼を利用した。勝頼の正室に信長の娘を迎えることで両家の結びつきの証とし、同盟を受け入れた。
・これにより信玄は攻略対象を美濃から駿河の今川へと変えたが、これが武田家内紛の火種となった。嫡男・義信が今川侵攻に難色を示した。彼は同盟の際に今川義元の娘と結婚していたため、親密な関係にあった。しかし信玄は今川との同盟を破棄し織田と手を組もうと画策したのだ。
・面目を潰された義信は謀反を計画した。実は彼には今川との関係以外にも信玄を疎ましく思う理由があった。それが異母弟である勝頼に対する処遇だった。戦国武将は壮年期になると早々に家督を嫡男に譲り、後継者育成に力を注ぐものだった。しかし信玄は45歳になったにも関わらず未だその気配はなかった。

「信玄も有能な人だったから最後まで家の舵を取ることに固執していたのではないか。義信は勝頼が高遠城主になったことへの不満・嫉妬があったのではないか」(平山氏)

・このときの義信の謀反の計画は信玄の知るところとなり未然に防がれ、謀反に加担した義信の側近らは処刑、義信も幽閉された後に自害させられた。
・この事件で勝頼の人生が大きく変わった。次男・信親は元々目が悪く、三男・信之は既に亡くなっていたため、四男・勝頼が名実ともに信玄の後継者となった。甲府に呼び戻された勝頼は諏訪から武田に姓を改めた。
・勝頼は信長の娘との間に嫡男・信勝が生まれていた。これで武田家も安泰と思った矢先のこと。信玄は増長した信長との同盟を破棄すると、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景、摂津の石山本願寺宗徒らと包囲網をつくり、織田・徳川連合軍を追い詰めた。
・しかしその最中、突如持病が悪化し帰らぬ人となり、勝頼は信玄の薫陶を十分に受けられないまま、名門・武田家を継ぐことになった。

<勝頼を苦しめた信玄の遺言とは>
・織田・徳川連合軍を追い詰めながら道半ばで命果てた信玄は「3年間は自分の死を隠し、決して外征はせずに国力の充実を図ること」という遺言を残した。
・そして勝頼には「嫡男・信勝が16歳になったら家督を譲り後見人になること」、さらに武田家のシンボル風林火山の旗を掲げてはならないと残した。

「この遺言によって勝頼は家臣たちに軽んじられることになった。彼の資質について疑っていたわけではなく、諏訪家の勝頼に家督を譲る事への反発を、中継ぎと明記することで抑えようとしたのではないか」(平山氏)

<信玄の遺言を破り兵を動かした勝頼>
・家督を継いだ勝頼は家臣たちとの確執は広がる一方だった。そのため重臣・内藤昌豊に対して「勝頼のためを思って意見するのならば耳を傾ける。処罰することはない」という起請文を書かざるを得なくなった。このような家臣におもねるような文言を書かなければならないほど、重臣たちの関係は厳しい状況になっていた。
・これら家臣団との溝を埋めるためには、自分こそが武田家の後継者であると示すしかない、そう考えた勝頼は信玄が亡くなってから1年後、遺言を破り兵を動かした。
・この行動が後世「無能」「凡将」と呼ばれる謂れになるのだが、遺言を破ったのには理由があった。信玄が亡くなった直後から戦国の勢力図は大きく変化していた。織田信長が急速に勢力を拡大していき、しかも信長は織田軍を窮地に追い込んでいた武田軍が突如撤退したことを不審に思い、信玄が本当は死んでいるということに気づいていた。
・東からの脅威が無くなったとみた信長は、積極的に攻勢を仕掛けてきた。信玄が死去した2か月後には将軍・足利義昭を京から追放し、その4か月後には越前の朝倉義景と北近江の浅井長政を打ち破るなど、信玄が築いた信長包囲網を簡単に破ってしまった。信長は領国を一気に拡大し、天下取りの一番手に躍り出た。
・信長の猛攻に勝頼は兵を挙げるしかなかった。信長の勢力拡大を座視していると武田が対抗できなくなるのではないかと恐れた。
・遺言よりも2年早く兵を動かした勝頼は、信玄時代以上に領土を拡大していった。手始めに東美濃に大攻勢を仕掛け、またたく間に18か所の軍事拠点を攻め落として信長の本拠・岐阜城を窺うところまで迫った。
・さらに徳川家康の遠江にも侵攻、難攻不落といわれ信玄でら奪えなかった高天神城を攻め落とした。
・敵であった信長さえ「信玄の兵法を守り道理をわきまえた武将」「恐るべき敵」と上杉謙信に宛てた手紙の中で賞賛した。また武田家の家臣も信玄の時代よりも強くなったと、勝頼の手腕を賞賛したという。

<宿敵・信長と激突!勝頼の苦悩とは>
・3年を待たずに打って出た勝頼は、織田・徳川の領国に侵攻、両軍の緊張は一気に高まった。
・そんな中、迎えたのが長篠の戦いだった。織田・徳川連合軍3万5千に対して武田軍は1万2千、3倍の開きがあった。勝頼は敵方が進軍を停止して陣地を築いているのを見て、敵は手立ての術を失い一段と逼迫していると判断。重臣たちが慎重に進言するのも聞かずに攻め込んでしまった。
・戦国最強と言われた武田騎馬隊で強引に突っ込むものの、織田・徳川連合軍の3千丁の鉄砲に死傷者が続出した。勝頼が最も信頼していた穴山梅雪など武田一門衆でさえも敵の猛攻に怯えて後退し、武田軍は総崩れとなり大敗を喫した。
・この戦いで武田軍は重臣が先頭に立ち軍勢を率いていたため、名だたる武将たちが戦死した。内藤昌豊は敵側の馬防柵に突撃して集中砲火を浴びた。生涯70回以上もの戦に出陣するもかすり傷一つ負わず「不死身の鬼美濃」と言われた馬場信春は、勝頼を逃がすためにしんがりを務め、孤軍奮闘の果てに命を落とした。
・武田二十四将と呼ばれた精鋭の約3分の1がこの戦で命を落とすという最悪の結果になったことで、勝頼の評価は一転。甲府の町には敗北をからかう者まで現れたという。
・勝頼は東美濃、遠江を失ったが、その後は信玄以来の駿河や高天神城などの要衝は守り抜き、信長・家康軍の侵攻を食い止めた。

<上杉と同盟!?勝頼最大の失策とは>
・長篠の戦いに敗れた勝頼が最初に取り掛かったのが、決裂していた北条との関係修復だった。その頃正室を亡くしていた勝頼は新たに北条氏政の妹を正室に迎え、同盟を結び直した。
・そして領国統治を強化するため本拠・甲府からの移転を計画した。本拠を韮崎に定めると七里岩台地に新たな居城となる新府城を築城した。そこには父・信玄とは違う新しいことを行い、家臣たちに認めてもらおうという勝頼の思いがあったとも言われている。新府城は戦国きっての智将と称される真田昌幸によって普請された。
・しかしこの移転は信玄時代から甲府に馴染んだ家臣や民衆からの大きな不評を買うことになり、勝頼は完全に求心力を失ってしまった。この新府城築城こそが武田家を滅亡に導いた勝頼の失策だったと言われてきたが。

「新府は武田領国のほぼ中心に位置する。勝頼の先見性が認められるものだと思われる」(平山氏)

・では勝頼の失策と何だったのか。それは外交政策にあった。事の始まりは越後の上杉謙信の後継者争い。1578年、後継者を指名しないまま謙信が急死した。その後、後継者として名が挙がったのが養子に入っていた2人、謙信の姉の子・景勝と元々は人質として来た北条氏政の弟・景虎だった。
・当初、勝頼は北条との同盟関係から景虎擁立側にいたが、上杉景勝が裏で動いた。上野の一部を譲った上、黄金500両を送り、さらに勝頼の妹を自分の正室として迎えることを提案した。全てを受け入れた勝頼は上杉と同盟関係を結び、援助を失った景虎は自害に追い込まれた。
・これに激怒したのが北条氏政だった。妹を正室に送ってまでして同盟を結んだ矢先の裏切り、武田と北条の関係は破たんしてしまった。

「自分が中心となって上杉家の内紛を初期の段階で収めようと考えていた。これがきっかけとなって北条氏政との関係が破たんしてしまった。これが武田家滅亡の原因となった。勝頼の同盟が破綻した北条は徳川と同盟を結ぶことになった。家康は北条氏政と同盟を結ぶと連携して東西から武田を挟み討ちにしようとした。徐々に消耗していった」

<武田家滅亡!なぜ勝頼は家臣に裏切られたのか>
・1582年2月、思わぬ事態が勝頼を襲った。木曽地方を治める義理の弟・木曽義昌が信長側に寝返った。これを機に織田軍が一斉に武田領内に押し寄せた。
・すると武田家家臣たちも雪崩を打つように離反、武田二十四将の一人である穴山梅雪までもが徳川家康の軍門に下った。
・信長の巧妙な情報戦略があった。勝頼が家康から奪った高天神城を巡る攻防戦でのこと。遠江で孤立無援となった高天神城に勝頼は援軍を送ろうとするが、家臣団に強硬に反対されやむなく断念した。
・援軍が来ないことを知った高天神城主は信長に降伏の意を伝えたが、信長はこれを無視。城攻めの手を緩めることなくじわじわと追い詰め、高天神城を攻め落とした。

「勝頼が動けないことを信長は分かっていたから、勝頼が高天神城を見捨てた印象を付けて面目を失墜させた」(平山氏)

・信長の思惑通り、武田家家臣団の結束は揺らぎ始めた。そうとも知らず織田軍を迎え討つのは無理と判断した勝頼は新府城に火を放ち本陣を移すことにした。
・このとき真田昌幸から真田の居城がある上野の岩櫃城に来るよう進言されるが、勝頼は武田二十四将の一人である小山田信茂の居城である甲斐の岩殿城に移ることに決めた。なぜ岩殿だったのか。

「やはり勝頼が武田家の当主であったから、すなわち甲斐の守護という強い責任感が上野ではなく甲斐に留まり続けることを選択したのではないか」(平山氏)

(もし勝頼が上野国の岩櫃に行っていたら?)
「真田昌幸は背後にある上杉景勝の応援を受けながら、隣の北条氏と何とか和睦を受けようという作戦を考えただろうが、当時の状況から景勝は援軍を派遣する余力はなかっただろう。おそらく滅亡した可能性があると思う」(平山氏)

・600余りの家臣たちと岩殿へ向かった勝頼は、その移動中に突如鉄砲による襲撃を受けた。小山田信茂までもが信長に寝返った。勝頼は来た道を引き返すしかなかった。領内を彷徨うこと3日、勝頼は甲府から20kmに位置する武田家ゆかりの天目山に辿り着いた。600人いた従者はこのとき僅か40人余りとなっていた。その中には16歳になったばかりの嫡男・信勝と、まだ19歳の正室・北条夫人の姿もあった。
・信長の軍勢に包囲された勝頼は最後の抵抗を試みるが、もはやこれまでと覚悟を決めた。山麓で別れの宴を催すと、夫人を北条家に帰そうとした。しかし夫人は北条家に戻ることを拒み自害。そして勝頼も信勝とともに自害した。享年37。ここに甲斐・武田家は滅亡した。信玄に国を託されて10年目のことだった。
・家臣たちに次々と裏切られた勝頼は遂に武田家を滅亡させてしまったが、そんな中でも織田軍からの降伏勧告を退け、戦い抜いた兵士たちがいた。信濃・高遠城、勝頼が諏訪を名乗っていた頃に治め、生涯を送るはずだった城だ。ここでかつての主君のために戦った諏訪の兵士たちは最後まで城を守ろうとしたと言われている。そこにあったのは、勝頼が自ら築いた強い絆だった。

(2016/3/18視聴・2016/3/18記)

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