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【にっぽん!歴史鑑定】べっぴんさんの真実

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【にっぽん!歴史鑑定】
「べっぴんさんの真実」

(BS-TBS・2016/12/5放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 (事実上の)国営放送の朝ドラに完全便乗して、というかドラマに先取りしてベビー・子ども服メーカー「ファミリア」の創業者・坂野惇子たち4人の女性の歴史を取り上げた「にっぽん!歴史鑑定」。流石です!お見事!天晴です!

 ということで、私は“本家”のドラマは途中で視聴リタイアしましたので、先々のオチまでこの番組で勉強することが出来ましたが、ドラマの展開を楽しみにしている人は「視聴メモ」はご覧にならない方がいいかもしれません。特に晩年最大のエピソードは、どういう形で描くのでしょうね。「あのお方」を誰が演じられるのでしょうか。それがちょっと気になるところです(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・昭和20年(1945年)6月5日、500機近いアメリカのB-29爆撃機が神戸の町を空襲。町は焦土と化し、8000人以上の尊い命が奪われた。
・運命が大きく変わってしまった人々もたくさんいた。その一人が朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなった坂野惇子。彼女は大空襲の3年後、僅か3坪のベビーショップを開店。一代で日本を代表するベビー・子ども服メーカー「familiar(ファミリア)」へと成長させた。
・失意のどん底にある惇子を支えた「希望」「勇気」「信頼」「愛情」とは何だったのか。商売とは全く無縁、深窓の令嬢だった彼女がなぜ起業できたのか。鍵を握るのは、やっぱり嫁入り道具のハイヒールだった?
・4人の主婦が始めたベビー用品店が大人気に。しかし最初の儲けは毛糸僅か2玉分。その驚きの理由とは。
・惇子たちがこだわった特別な品「別品(べっぴん)」。そこに込められた思いとベビー・子ども服のパイオニアとなった数々の画期的なアイデアとは。

<坂野惇子の生い立ち>
・大正7年(1918年)4月11日、惇子は父・佐々木八十八と母・倆子の末女として生まれた。父は11代続く豪商の長男で、日本有数のアパレルメーカー「レナウン」の全身となる「佐々木営業部」を創業。西洋文化を好み事務所を洋館にしたり、従業員に洋服を着せたりと先進的な考えの持ち主だった。
・でも子どもたちの健康管理には厳しく、朝晩の体温と脈拍の計測を義務づけ、口に入れていいのは家でつくった料理だけ。たまに市販のキャラメルを与えるときも表面をアルコールで消毒するという徹底ぶりだった。そんな八十八さんについて坂野惇子の孫で現ファミリアの社長である岡崎忠彦さんに伺った。

長女と次男を幼くして亡くしたため、子どもの健康管理に神経質だった(岡崎社長)

・教養豊かで本物を見分ける目がある父を惇子はとても尊敬していた。

<戦後の絶望の中で見つけた希望>
・昭和15年(1940年)22歳になった惇子は、日本有数の海運会社で働く2歳年上の坂野通夫と恋愛結婚、専業主婦となった。神戸の高級住宅街である岡本に新居を構え、2年後には長女が誕生。平穏で幸せな日々を過ごしていた。
・しかし太平洋戦争が勃発。夫・通夫は海軍の嘱託としてインドネシア・ジャカルタへ派遣された。やがて神戸は大空襲に見舞われ、惇子は住み慣れた家を失った。そして敗戦。圧倒的な物資不足と恐ろしいまでのインフレで日本は大混乱となった。
・昭和21年(1946年)2月、政府は銀行預金の引き出しを制限するなど預金封鎖を断行。新円を発行したが1世帯当たり最低限の生活ができる額として引き出せたのは、1か月500円までだった。
・そんな中、さらに国民を苦しめたのが臨時に制定された財産法。10万円以上の資産に25%の税が課された。しかも税率は資産に応じて高くなるとあって、50万~60万の資産があった坂野家の税率は65%になった。岡山に暮らす姉のもとに身を寄せていた惇子は途方に暮れた。戦地に赴いた夫の安否も未だ分からないままだった。
・困り果てた惇子は京都にいた父・八十八を頼ることにした。するとそこで思わぬ人と再会した。7歳年上の幼馴染みである尾上清。彼は後にレナウンの会長になる人物で、日頃から惇子のことを「小嬢ちゃん」と呼び、妹のように可愛がっていた。しかしこのとき尾上は惇子に意外なことを言った。

「今までとは時代が違うのです。もう昔の小嬢ちゃんではいけません。これからは自分の力で生きていく一労働者におなりなさい」

・すると過保護だった父までも同調した。女性は家庭を守るものだと育てられてきた惇子にとって、まさに青天の霹靂だった。
・そんな中、音信不通だった夫から頼りが届いた。

すみれの花が咲く頃には帰れそうだ。

・そして、すみれの花の咲く4月に夫は戻ってきた。引き揚げてきた船の名前は菫丸(すみれまる)だった。実に2年半ぶりの再会だった。

<惇子が洋裁を選んだ理由とは>
・昭和21年(1946年)5月、惇子たち一家は尼崎の借家に移り住んだ。惇子28歳、家族3人の新しい生活が始まった。しかし預金封鎖は続いていて暮らしは厳しいままだった。
・少しでも家計の助けにと選んだ仕事が洋裁だった。彼女がそれを選んだのには理由があった。まずは得意だったということ。戦前の高等女学校では洋裁が主要科目の一つだった。さらに近所に住んでいたフランス人から人形づくりや刺繍を習いながら洋裁の専門学校にも通っていた。
・ささやかながら勝算もあった。戦後の物資不足の中にあって惇子の手許には大量の洋裁の材料があった。実は戦時中、惇子は持てるだけの荷物を持って軽井沢の別荘に疎開していた。その別荘が空襲を免れたため、荷物が残ったのだ。

戦後、何かを始めようと思ったときに毛糸や生地が残っていた。八十八さんの商売自体が海外のものを扱っていたので、自然と海外産の生地や糸がたくさんあった(岡崎社長)

・そして惇子が洋裁を仕事に選んだ一番の理由が、娘の面倒をみながら家ですることができると思ったからだ。こうして彼女は生活のため、近所の子どもたちの洋服をつくり自宅の一室で手芸教室を開講。どちらも好評だった。
・しかし肝心のお金が一銭も入ってこなかった。理由は惇子が資産家の令嬢だったこと。近所の人々はお金持ちの彼女に現金で支払うのは失礼だと考え、食料などを代金の代わりとして持ってきたのだ。彼女も現金がほしいとは言い出せなかった。

<惇子がベビーショップを始めたきっかけとは>
・洋服づくりや手芸教室を始めた惇子だが、生まれ育ちの良さが災いし現金収入を得ることができなかった。落胆した彼女は嫁入りの際につくってもらったハイヒールを手に神戸・三宮にあったモトヤ靴店を訪ねた。店主の元田蓮は、惇子の実家である佐々木家に出入りしていた靴職人。彼女のハイヒールも元田の手によるものだった。
・惇子はもはや物を売ってお金に変えるしかないと考えていた。しかし元田に説得され何も言えなくなってしまった彼女は、その場を取り繕うと思い、娘の写真を元田に見せた。するとスエードに小花の刺繍が施された惇子手作りの写真入れを元田は褒め、店の陳列ケースで販売するよう勧めた。
・店など出来るのだろうかと悩んだ惇子は女学校時代の親友である田村江つ子を訪ねた。神戸実業界の重鎮を父に持つ令嬢で二人の子どもを持つ母親。洋裁が得意で、さらに展覧会に入選するほど絵の才能があった。
・惇子が相談すると義理の姉にも相談すると言った。義姉・田村光子は惇子たちより11歳年上で4人の子どもがいた。裁縫が得意で、このとき既にブラウスを縫う仕事を始めていた。そして彼女も賛同してくれた。
・力強い仲間たちの協力は、また新たな一歩を踏み出す大きな勇気になった。夫・通夫も惇子の背中を押した。手芸の店を始めたいと伝えると快く賛成してくれた。

(通夫は)時代が変わったことを強く感じていた(岡崎社長)

・通夫は惇子にこんなアドバイスもくれた。

「単なる手芸品の店ではなく、覚えた育児法をもとに赤ちゃんや子どものための可愛いものを作って売ってみてはどうか」

・通夫が言う育児法とは西洋式の先進的なもの。新婚当時暮らしていた岡本には外国人も多く住んでいた。惇子はドイツで最新の育児法を学んだベビーナースの大ヶ瀬久子に教えを請い長女を育てていた。彼女はベビーナースのこんな言葉を思い出した。

「ドイツでは常に赤ちゃんの身に合ったサイズのものを着せますが、日本では常に大きめのものを着せる傾向があります。いつか欧米諸国のようにしたいものです」

・お母さんと赤ちゃんのための、より良い商品を作ろうと惇子の心は決まった。さっそく開店を準備、資金の21万円は三等分することに。
・しかし預金封鎖のため現金を集めるのが難しく、半分は戦前から蓄えていた外国製の高級生地や糸といった現物提供となった。
・そんな中、惇子は妹のように可愛がっていた4歳年下の村井ミヨ子にも声をかけた。彼女もまた惇子に負けず劣らずの令嬢で、手芸教室の生徒でもあった。和裁や油絵も学んでいたため、力になると考えた。
・これで創業メンバーの4人が揃った。年内の開店を目指す惇子たちは役割分担を決めた。惇子はミヨ子と一緒に縫い物を、光子が自宅で洋服類を仕上げ、江つ子は手芸や編み物を担当。すべて家庭との両立を考えてのことだった。
・こうして昭和23年(1948年)12月4日、神戸・三宮センター街に建つモトヤ靴店に僅か3坪、2台のショーケースだけのベビー用品店「ベビーショップ モトヤ」が開店した。このとき惇子30歳。

<店が大評判 驚きの利益とは>
・惇子ら4人が始めた店は大繁盛。広告など一切出していなかったにも関わらず、開店直後から次々とお客さんがやって来た。接客にあたった惇子とミヨ子は1日中大忙し。大卒の初任給が3000円ほどだった時代に1日で4万円近くも売り上げた。

今で言えば4人のママ友が始めたベンチャー企業。(子ども服の)良いものが(当時の日本に)無かった(岡崎社長)

・最高級の素材を惜しみなく使い、しかも丈夫で洗っても縮まず色落ちもしない。ベビーショップ モトヤの評判は瞬く間にクチコミで広まっていった。
・主に仕入れと販売を担当していた惇子はこれまで経験したことのない忙しさ。毎朝、娘を幼稚園に送ってその足で光子と江つ子の家に立ち寄り、出来上がった商品を受け取り店へ。接客をしながらも刺繍や編み物をしていた。家に帰ると夜の9時を回っていたという。
・そして開店から1か月が過ぎた昭和24年(1949年)正月。ようやく休みがとれた惇子たちは、これまでの決算をしてみることにした。生産が追いつかないほど売れたのだから、かなりの儲けになっているはず。しかし夫・通夫が計算してみると「儲けは毛糸2玉分しかない」。

材料費や人件費を考えず、買いやすい値段にしたため儲けが出なかった。見かねた夫たちが商売を一から教えた(岡崎社長)

<子ども服に起こした愛情あふれる革命>
・惇子たちにとって子ども服は大人の服の単なるミニサイズではなかった。子どもならではの動きを十分に考え、子どもの立場に立った商品を生み出していった。
・赤ちゃん用の肌着。一見するとごく普通だが縫い目が外側に。敏感な肌を刺激しないようにとタグや縫い目を外側にしたのだ。最初は「裏返しだ」と文句を言う人もいたというが、着心地の良さはすぐに分かってもらえた。
・眠る際に邪魔にならないように背中側には襟がない服。やんちゃな男の子のズボンは股の部分が破れやすいため、少しでも長くはけるようにと内側を二度縫いしている。
・またヘムシロと呼ばれる折り返しを十分に取っているのも特徴だ。これを伸ばすことで子どもの成長に合わせて長く着ることができる。
・素材が木綿の際は生地を水に長時間浸して天日でしっかり乾かし、アイロンをあててから裁断することで洗濯しても縮まないようにした。惇子たちはこうした手間を少しも惜しまず、一つ一つ手作りしていった。

自分たちの子どもをボディ代わりにして服を作っていたという(岡崎社長)

・着心地や動きやすさなど子どもたちの意見も採り入れながら試行錯誤を繰り返す日々。惇子たちの愛情いっぱいの商品はまさに「べっぴん」(=特別な品)となったのだ。
・夫たちに商売のイロハを教わったことで利益も上げられるようになった惇子たちは、戦後のベビーブームもあって順調に売上を伸ばしていった。
・そして創業から1年が過ぎた昭和24年(1949年)12月、惇子たちはモトヤ靴店を離れて独立。今までの5倍以上もの広さがある店舗を構えた。社名も「親しい」という意味を持つ「FAMILIAR(ファミリア)」と変更。
・売場面積が広がったことで商品の数も増え、惇子たちは今まで以上に商品づくりに追われるようになった。ミシンも増やし洋裁のできる女性を数人雇い入れたがそれでも間に合わず、納品に行く列車の中でボタン付けをすることもあったという。

<4人のさらなる商品開発への挑戦とは>
・独立した惇子たちだったが、当時はまだ材料を思いのままに仕入れることは出来なかった。そんな中、生まれたのが前と後ろを全く違う布でつくったベストや、パッチワークのようなワンピース、様々な色の残り糸を繋ぎ合わせて編んだセーターなど。どれも材料不足から生まれたものだが「斬新だ」と好評を得た。
・また惇子はそれまで肌着として見られていなかったTシャツをアウターにしようと考え、様々なイラストをプリントして売り出した。するとこれも大ヒット。今ではよく見るデザインTシャツだが、彼女のアイデアだった。
・そんな革新的なメーカーを大企業が見逃すはずはなかった。関西の大手百貨店(阪急百貨店)がテナントに入らないかと誘ってきた。たった4人の主婦たちによる創業僅か1年の小売店にとっては夢のような話。しかも特別に「百貨店特選」のラベルを付けていいというのだ。しかし「ファミリア」のロゴが入らないと聞いた惇子はこう言ったという。

「自分たちの作っている商品に他のネームを付けたくありません」

・それでは百貨店で販売出来ないと言われても頑として受け付けなかった。結局、百貨店側が折れて「百貨店名+ファミリア」を並べて表記することで決まった。商品に自信を持っていた惇子たちは、相手は誰であっても自分たちの主義を曲げることはなかった。
・さらに惇子には商売に対する思い切りもあった。34歳のとき名古屋へ出張した彼女は、たまたま立ち寄った高級洋食器メーカーが気に入り、独断で子ども用食器を発注。その数は何と2万個。
・それを後で聞かされた夫・通夫は烈火の如く怒ったが、惇子は食器の品質は確かで必ず売れると強気。実際、このとき作った子ども用食器は完売。ファミリアの定番商品となった。
・働いた経験などない深窓の令嬢たち。だからこそ商売の常識にとらわれず、良いものを子どもたちに届けたいという強い信念をどこまでも貫くことができた。
・ショーケース2つから始まった商売は引く手あまたの大人気に。今度は新宿にある大手百貨店から「子ども服展を開催してほしい」という依頼が舞い込んだ。しかし担当者から送られてきた計画書に納得がいかず、惇子はレポート用紙40枚にも及ぶ新たな計画書を書き、送り返したという。
・さらに会場の設営が始まると現地に赴き、納得がいくまで細かく注文をつけた。後に百貨店の社長になった当時の担当者は「猛烈を通り越して壮烈だった」と言ったという。

<4人の商品が皇室へ その結末とは>
・昭和34年(1959年)4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子さんがご結婚。その夏、美智子妃殿下のご懐妊が報じられた。
・すると惇子たちに嬉しい知らせが舞い込んだ。自分たちの商品が妃殿下のお子様のためのベビー用品の候補にあがったと。
・さっそく東宮御所に赴き、緊張の面持ちを待つ惇子。お見えになった美智子妃殿下に一つ一つ丁寧に商品を説明していった。自分たちの愛情がいっぱい詰まった、お母さんと赤ちゃんのための「べっぴん」を。
・後日、皇室からベビー用品80数点の注文がやって来た。品質の良さを認められた。その後、礼宮文仁親王や紀宮清子内親王ご誕生の際も惇子たちのベビー用品の注文があった。

・創業から10年、ショーケース僅か2つから始まった惇子たちのベビー用品店は、飛躍的な成長を遂げた。
・仕立てを担当していた田村光子は最新式の量産システムを導入することになっても、商品の品質が下がることのないよう厳格な商品チェックを怠らなかった。
・手芸部門を担当し殆どの商品の図案を描いていた田村江つ子は、どうすれば子どもがより可愛く見えるのか研究し続けた。
・販売と手編み商品を請け負っていた村井ミヨ子は若い社員たちに編み物の手ほどきをし、後進の育成に力を注いだ。
・そして坂野惇子は頻繁に海外のベビー用品会社を訪れ、日本にない商品や子ども服への新しい考え方を次々と取り入れていった。
・生きるため4人の主婦たちが始めた子ども服の店。そこに並ぶ商品は、たとえ店が大きくなっても一つ一つ丁寧に丹精込めて作られたものばかりだった。
・母と子のため、より良い商品を作る。創業時の誓いを胸に4人は常に現場の先頭に立ち、社員たちにその精神を徹底的に教え込んだという。中でも惇子は会議の際、こう社員たちに厳しい言葉を投げかけ、自ら商品開発の指導も行ったという。

「これがママにとって本当に良い商品なのかしら」

・お母さんから愛されるベビー用品のパイオニアとなった惇子は、80歳まで第一線に立ち続けた。「べっぴん」を守るため。

(2016/12/8視聴・2016/12/8記)

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