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【NHKスペシャル】原発メルトダウン 危機の88時間

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【NHKスペシャル】
「原発メルトダウン 危機の88時間」

(NHK総合・2016/3/12放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 私にとっては新しく知ることは余りありませんでしたが、あの日に福島第一原発で何が起こったのか初めて知る人にとっては、再現ドラマという手法も悪くはないかなと思いました。

 ちょっと問題だと感じたのは、確かに最前線の現場で必死の作業が行われていたことは紛れもない事実ですが、それの足を引っ張る首相や官邸サイドという描き方は意図的なものにみえました。東電本店が大混乱をしていたことも描いていませんし、ややもすれば東電全体が一丸になって最悪の危機回避に奮闘したという見方にもみえましたね。

 最後は神頼みだったという故・吉田所長の言葉は重いです。ひとたび事故が起きれば危機的な状況になる原子力発電…これでもまだ続けるという為政者たちを支持しますか?

 電気が足りなくなるというは、この5年間でマヤカシであることが証明されました。廃炉の見通しも立たない中で第二の福島第一になりかねない愚行ですよ、再稼働は。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。
※青字は実際の証言、紫字は再現ドラマ内の台詞です。

・5年前、世界最悪レベルとなった原発事故。放射性物質が大量の放出される事態に世界が震撼した。
・事故対応の最前線で一体何が起きていたのか。NHKはこの5年間で500人を超える事故の当事者を取材、事故対応の責任者・吉田昌郎福島第一原発所長が国会の事故調査で語った未公開の証言記録も新たに入手。浮かび上がったのは地震発生からの88時間、危機が連鎖する中で現場が死をも覚悟していた実態だった。
・福島第一原発、危機に直面した88時間、未公開資料と新たな証言でその実態に迫る。

<地震発生と巨大津波>

・2011年3月11日に発生したマグニチュード9.0の巨大地震、そして津波。全ての電源が失われ1号機が最初にメルトダウン、水素爆発を起こした。
・次に危機に陥ったのは3号機。メルトダウンし再び水素爆発。
・最大の危機に直面したのは2号機。地震発生からの88時間で現場は原子炉が連鎖的にメルトダウンする、人類がかつて経験したことがない事態に直面した。
・事故対応の最前線にいた東京電力の幹部や運転員などの当事者たち、その証言を重ね合わせ88時間のドラマを現場の目線から語り起こしていく。

原発は安全だと思い込んでいた(元東電社員の取材メモ)

・福島第一原発は6基の原子炉を抱える世界有数の原発、半世紀近く首都・東京の電気をまかなってきた。あの日は1号機から3号機、3つの原子炉が運転中だった。
・中央制御室、原子炉をコントロールする原発の心臓部だ。同じフロアにある1号機と2号機の中央制御室、全ての始まりは午後2時46分だった。
「2号機、全制御棒、全挿入!スクラム確認!」
「1号機、全制御棒、全挿入!スクラム確認!」
「スクラム(原子炉の緊急停止)了解!」

・核分裂の連鎖反応によって膨大な熱を生み出す原子炉。緊急停止した後も核燃料は極めて高い熱を出し続ける。最も重要なのは冷却することだ。
・この40年間、一度も使われたことのないイソコンと呼ばれる非常用の冷却装置が自動で動き出した(14時52分)。
・イソコンは原子炉からの蒸気をタンクの水の中に循環させ冷却することができる。このイソコンが事故対応の鍵の一つとなっていく。1号機の冷却が始まったという情報は、中央制御室から350m離れた免震重要棟に伝えられた。
・免震重要棟が事故全体の指揮を執る指令本部だ。
「外部電源喪失、DG(非常用ディーゼル発電機)で電源を供給」

NHKの津波速報を聞いていたら、最初そんなに大きい値はいってなかったんですよね(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・海から不吉な影が迫っていた。
・1・2号機中央制御室。急激に冷やすと原子炉そのものが劣化する恐れがある。原子炉の温度や圧力に異常はないか、内部からの漏れはないか、慎重にイソコンの起動と停止を繰り返していた。その矢先…(15時37分)。
「DGトリップ(非常用ディーゼル発電機が停止)!」
「1号機、全交流電源喪失。SBO(ステーション・ブラックアウト)です!」

・全ての電源を失うという想像を絶する事態。
「2号機、RCIC(非常用の冷却装置)起動します」
・2号機の冷却装置を起動したその直後、2号機全電源喪失
(15時41分)。これでは原子炉の状態を確認することはおそか、イソコンなどの冷却装置を操作することさえできない。

目の前で起こっていることが本当に現実なのかと思った(東電社員の取材メモ)

・このとき東日本一帯を巨大津波が襲っていた。原発を襲った津波の姿、最新のシミュレーションをもとに初めて映像化した。巨大な津波が到達したのは15時35分、11mを超える高さの津波が敷地を飲み込んでいった。津波は建物のシャッターなどを打ち破って中へ侵入、地下にあった非常用のバッテリーや電源盤などを次々と水没させていった。科学技術の粋を集めた原発が機能停止に陥る未曾有の事態だった。

飛行機を計器が全部消えた状態で操縦しろと言われているようなもんなんですから、これはすごいことになったなと。いずれにしても、もう最悪のことを考えなければならない(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・吉田所長は福島第一原発から230km離れた東京電力本店に緊急の要請をした。

シビアアクシデントになる可能性が高い。電源車を用意してくれ(同上)

<1号機・核燃料は冷却できるか>
・地震と津波で全ての電源を失い、まず問題となったのが1号機だった。原子炉を制御するあらゆる手立てを失った中、核燃料をどう冷却すればいいのか。もし冷却出来なければ原子炉内の水が蒸発、核燃料が露出し自らの熱で溶けるメルトダウンが起きてしまう。
・1・2号機中央制御室で事故対応にあたった元運転員の井戸川隆太さんが取材に応じた。密室での出来事を知る数少ない証言者の一人だ。

原子炉の中には常に水は満たしておかないと危険な状態。それがされているのかどうか。完全なエマージェンシー(非常事態)そこをどう乗り越えるか。全てのパラメーター(計器の値)が生き返ってほしいなと。1つでも生きているのであれば助けになる(井戸川さん)

・1・2号機中央制御室。
「HPCI(非常用の冷却装置)のランプが僅かに点灯しているが…確認できません」
「イソコン、ランプが消灯」

・イソコンはバルブさえ開いていれば電気が無くても冷却出来る。しかし全電源喪失の際、動いていたのか止まっていたのか分からない。
・絶え間なく余震が続いていた。そのため原子炉を冷却出来ているか直接確認に行くことが出来なかった。残された手段はイソコンの運転状況を建物の外から確認することだった。動いてれば原子炉の熱で温められた水が大量の蒸気となって排気口から吹き出す。その排気口は「豚の鼻」と呼ばれていた。
・免震重要棟から社員が確認に向かった(16時44分)。もやもやした蒸気が発生していた。
・報告を受けイソコンへの疑いを強めた中央制御室、そのとき…。
「1号機、原子炉水位確認、下がっています!」
・偶然バッテリーが復旧、一時的に原子炉の水位がみえた。このとき運転員が書いた-90cmという水位の記録が現場に残されている。この数字は原子炉の水位が基準よりも90cm下がっていることを意味していた。もしイソコンが動いていなければ、あと250cmで核燃料が露出してしまう。
・免震重要棟。
「TAF(核燃料の上端)プラス250cm」
・免震重要棟では偶然見えた水位の情報をもとに、この後事態がどう悪化するか予測が始まった。進展予測の結果、水位が核燃料の一番上に達するまであと1時間という危機的なものだった。
・しかし次々と寄せられる膨大な情報の中に1号機が危険な状態であることを示す重要な情報が埋もれていった。

情報班の話は、私のそのときの記憶から欠落している(吉田所長の証言記録・国会事故調)

マイクの空きを各班が待つ状態。あれだけの大きなことが1回に起きると、みんなが共有できるか非常に難しい(免震棟にいた東電幹部)

・一方、中央制御室では再び一部のバッテリーが復旧。遂に事態を把握する。
「イソコンのランプが復旧しました。緑、閉です」
・冷却装置イソコンはやはり止まっていた。
・事故後の解析では19時29分、核燃料が自らの熱で溶けるメルトダウンが始まっていた。その後、原子炉の底から大量の核燃料が溶け落ちたとみられている。
・日本中がまだ深刻な事態に気づいていなかった。事態を一気に打開できるはずの電源車は、大渋滞や地震による道路状態の悪化のためまだ1台も辿り着いていなかった。
・地震発生から5時間足らずでメルトダウンした1号機、電源が無くなり冷却手段を失った原子炉は、現場の対応を超えるスピードで事態が悪化した。
・この後直面したのは、メルトダウンによって原子炉から漏れ出した放射性物質を封じ込める闘いだ。最後の砦と呼ばれる格納容器、これが破壊され放射性物質が放射性物質が放出される事態を避けることが出来たのか。
・免震棟はまだ事態の深刻さに気づいていなかった。21時51分、1号機原子炉建屋の扉を開けたときのことだった。線量計が高い値を示して撤退した。
・免震重要棟に報告されたのは1.2ミリシーベルト毎時(一般人の年間被ばく限度を1時間で超える値)。
「1号機建屋、入域禁止」(吉田所長)
・13時50分、1号機の危機が決定的になったのは小型の発電機を計器に繋いだときのことだった。
・1・2号機中央制御室。
「格納容器圧力600キロパスカル」
「設計限度圧を超えている」
「炉心損傷」

・免震重要棟に報告された。
「ベントの準備を進めろ」(吉田所長)
・12日0時6分、1号機ベント準備指示。
・1号機ではメルトダウンの熱で格納容器内部の圧力が通常の6倍まで高まり、破壊される恐れがあった。ベントとは格納容器内部の圧力を抜くための作業だ。放射性物質を含んだ蒸気を水にくぐらせ大半を取り除いてから放出する。周囲が汚染される可能性があるため、緊急時に限られている。
・今は電気が無い。ベントを行うためには格納容器近くに行って直接バルブを開けなくてはならない。現場は高い放射線量が予想される。危険な作業だ。

これは覚悟でですね、格納容器が爆発したら、それこそものすごい放射能が出ますから。高線量でも、やることやる。やらないと、もっと酷いことになります(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・免震重要棟から1・2号機中央制御室にベント指示が伝わる。現場に向かう人選が進められた。

現場がすごい状態、ひどい状態になっていることはみんな知っていたと思うけど、俺が行くという形で手を挙げる(井戸川さん)

・世界で誰も経験したことがないベントの準備が始まった。
「すべて(線量計の)警報を80ミリシーベルトにセットしてあります」
・徐々に放射線の影響が深刻化し、準備は思いのほか時間がかかった。
・この頃、待望の電源車が遂に到着した。電気さえ回復すればあらゆる問題が一気に解決できる。しかし…。

本来であれば夜中にケーブルを敷設して接続する作業をやりたかったんですが、津波警報が出て避難を何度か繰り返しましたので、朝まで作業に着手できなかった(電源復旧を行った日立GEの河合秀郎さん)

・4時過ぎ。東電本店とのテレビ会議。
「総理大臣が視察に行きます」(本店)
「断ることができませんか?」(吉田所長)
「決定事項です」(本店)


現場から遠く離れている本店と認識の差が歴然と出来てしまっている。一番遠いのは官邸ですね(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・震災発生の翌朝、福島第一原発への視察を決行した菅総理大臣(当時)。なかなかベントが実施されなかったからだと後に証言している。

何で進まないんですかと言うと、分からないと。現地に原子力安全・保安院の人はいるわけですけれども、そういうものが全部機能して動いていれば、必ずしも行くという判断はしていない(菅首相の証言記録・政府事故調)

・現場の状況が殆ど伝わらない中、菅首相はベントを急ぐよう吉田所長に直接求めた。

何か意図的にぐずぐずしていると思われていたんじゃないかと、実施命令出して出来るんだったらやってみろと。現場が全然うまくいかない状況ですから(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・ベントの準備を始めてから既に7時間以上が過ぎていた。ベントによって放射性物質が放出されるため、周辺の自治体に連絡し避難状況を確認する必要もあった。
・8時3分、免震重要棟。
「午前9時、ベント開始」(吉田所長)
・1号機中央制御室に伝わり作業員が出発。向かう先の状況は想像もつかなかった。ベントのためには2つのバルブを開ける必要がある。一つは原子炉建屋の2階にあるバルブだ。
・第2班は建屋の地下、格納容器の間近にあるバルブに向かう。
「900(ミリシーベルト毎時)です」
「測れるうちは行くぞ」
「(線量計が)振り切れてる」

・引き返すしかなかった。

正直に言いますと、もうダメかなと。すでに異常な状態で中央制御室で線量が上昇してきている状況で、これ以降悪化するのみかなと(井戸川さん)

・内部は放射線量が高いため建物の外から遠隔でベントを行うことを試みた。その作戦が功を奏する。14時1分、1号機からベントの成功を示す蒸気が放出された。
・免震重要棟。
「1号機、格納容器圧力低下」
・格納容器破壊の危機はひとまず回避された。
・電源復旧も遂に目前まできた。
「電源盤にケーブル接続しました」
「了解です」
「これで高圧注水が可能になるはずです」

・15時36分、1号機の危機が回避されると思われた。そのとき原子炉建屋が爆発した。メルトダウンが始まる前に核燃料から大量の水素が発生、それが爆発し最上階が吹き飛んだ。

私はその時間帯ちょっと横になっていて、すぐに爆発の縦揺れ、すごに飛び起きて何が起きたか分からない。原子炉建屋が爆発する、通常ではありえない状態に今いるんだなと(井戸川さん)

・爆発によって外で作業をしていた人たちが命の危険に晒された。電源車に繋いだケーブルが損傷、電源復旧作業は一からやり直しとなった。
・1・2号機中央制御室では放射線量が上昇、若手を退避させベテランだけが残った。生きて帰れないかもしれない。このとき運転員が撮影した写真が残っている。

やりたいことはいくらでもあったが、やれることが何もなくて、無力感すごく残念に思います。もし1つでも機器が生きていてくれれば打開できたかもしれない(井戸川さん)

・現場が避けたいと考えていた放射性物質の放出、1号機のベントや水素爆発によって周辺の地域に広がった。
・しかしベントで圧力を下げたことで格納容器の大規模な破壊は免れた。1号機では別の冷却手段を探り、さらなる悪化を防いでいった。
・地震発生から水素爆発まで24時間余り、全電源喪失によって冷却する手立てを失った1号機は一気にメルトダウン、時間を追うごとに放射線の影響が深刻化、事故対応を阻んでいった。しかし1号機はまだ始まりに過ぎなかった。

<3号機・“苦肉の策”の冷却は成功するか>
・次に危機に陥ったのは3号機。一部のバッテリーが水没を免れ冷却装置が動いていたが、その機能が失われた。果たしてメルトダウンを防ぐための新たな冷却手段はあったのか。
・冷却装置が使えない中、吉田所長が編み出したのは消防車によって外部から原子炉に水を注ぐというマニュアルには無い対応だった。しかしどうやって消防車に水を引けばいいのか。1号機の爆発による影響は想像を超えていた。
・意外な場所に水があった。普段は作業のために使われている窪地に津波による海水が溜まっていた。それを利用することにした。

海水だ、足りない、逆洗弁ピットに残っています、そうかそれを使えば、みんな現場で知恵を働かせてね(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・非常用のバッテリーも必要だった。消防注水を行う際、バルブを開けるために行う。
「小名浜からここまで運搬する手段がない」※バッテリーの一部は楢葉町にも届いていた。
・1号機の水素爆発の後、福島第一原発から半径20kmが避難指示区域になっていた。物流が途絶える中、敷地内にあった車のバッテリーをかき集めて対応した。現場では原子炉に注水するために様々な配管を繋ぎ合わせ1本道をつくった。
「注水開始している」
「3号、減圧できたんだな」

・原子炉への注水は成功、1時間当たり約20トンの水が消防車から送られた。原子炉は冷やされていると誰もが思った。
・3月13日14時31分。注水を始めて5時間後、3号機の原子炉建屋入口で異常が検知された。
・免震重要棟。
「3号機の建屋で高線量、内側のパーソナル(二重扉)を開けると100ミリシーベルト(毎時)」
・3号機にも水素爆発の懸念が強まった。
「屋外作業をしている者は全て中止、人命優先だ」(吉田所長)

発電所長としての判断は、やっぱり発電所にいる人の命なんですよ。これを守らないとその周辺の人の命も守れない(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・電源復旧の作業や3号機でも進められていたベントの作業は中断、消防注水もポンプを動かしたまま作業員が一斉に退避した。
・3号機内部の放射線量が高まったことで、吉田所長は消防注水を疑い始めた。そのときの原子力部門のトップとの会話が記録されている。

ベッセル(原子炉)満水になってもいい量を入れているということだよね(武藤栄副社長)
そうなんですよ(吉田所長)


・3月14日3時36分、免震重要棟。事故後の解析では、この時間帯3号機で既にメルトダウンが進んでいた。消防車から大量に注水していたにも関わらず、なぜ食い止められなかったのか。NHKが専門家と検証すると消防注水には思わぬ落とし穴があったことが分かってきた。消防車から原子炉まで1本道をつくり注水しているつもりだった東京電力、ところがこの1本道から枝分かれし、別の装置に向かう配管があった。この配管の将来にはポンプがある。電気を失うとポンプが止まり水が漏れてしまう構造になっていた。その後の東京電力の検証で3号機ではこのポンプだけでなく、合わせて4か所から水が漏れていた可能性があると指摘されている。原子炉に入っていたのは消防車から注がれた水の半分以下だったとみられている。
・3月14日7時20分。作業の中断が繰り返され免震重要棟では焦りが広がっていた。
「消防車による注水と電源復旧の作業を再開させてください」
「人を出して爆発したら悔やんでも悔やみ切れないぞ」(吉田所長)
「しかしベントできずに格納容器が吹っ飛んだら…」
「…作業再開してくれ」(吉田所長)


暫く小康状態が続けば何とかいけるかもしれないという判断のもと、お願いをするような形で出てもらいましたし、特に協力企業の人たちは我々の管理職クラスも同行するので一緒に行ってほしいと(免震棟にいた東電幹部)

・作業再開から3時間後の11時1分、3号機が1号機を上回る規模での水素爆発が発生した。吹き飛んだガレキによって消防注水が中断、現場に出ていた40人以上が行方不明となった。

3号の爆発は1号に比べると大きかった。真っ先に思ったのは、作業に出ていた人を死なせてしまったかもしれない(免震棟にいた東電幹部)

・社員や作業員全員の生存が確認された。
・1号機の水素爆発で状況が悪化する中、対応に迫られた3号機。吉田所長が打ち出した消防車による注水は十分に機能せず、またもメルトダウンを防ぐことは出来なかった。

<2号機・“死を覚悟した”最大の危機>
・3号機の水素爆発の僅か2時間後、現場が死をも覚悟したという事故最大の危機が始まった。最後に残されていた2号機。吉田所長はそのときを振り返り、こう語っている。

我々のイメージは東日本壊滅ですよ(吉田所長の証言記録・政府事故調)

・2号機は津波によって全ての電源を失いながら、奇跡的に3日間持ちこたえていた。全電源喪失の僅か2分以前、電気が無くても動き続ける冷却装置を起動していたからだ。その冷却装置も3日間の連続運転で限界が近づいていた。
・3月14日12時30分、2号機中央制御室。
「2号機の原子炉水位が下がっています。燃料域で(水位が)プラス3400からプラス2950に低下」
「RCIC(非常用の冷却装置)冷やせてないですね。そろそろ限界ですね」

・1号機と3号機は水素爆発する前にベントに成功していた。そのため格納容器の大規模な破壊は免れた。しかし2号機ではまるで状況が異なっていた。すぐにベントが出来ない状況に陥っていた。3号機の水素爆発による衝撃でベントのバルブに不具合が生じていた。
・免震棟では3号機の爆発で疲弊し動揺も広がる中、吉田所長は2号機への対応を切り出した。

所長の吉田から「本当に申し訳ないけど、もう一度頑張ってほしい」と。もう懇願に近かったと思います(免震棟にいた東電幹部)

「申し訳ない…注水の準備に即応してほしい。お願いします」(吉田所長)
「行きます」
「俺も行きます」
「…ありがとう、本当にありがとう」(吉田所長)

・13時5分、作業再開した。
・13時25分、2号機の冷却装置が機能喪失。この後、取り得る対応の一つは何とかしてベントを行い格納容器を守ること。もう一つはメルトダウンを防ぐため、消防車による原子炉への注水を行うこと。そのためにはSR弁と呼ばれるバルブを開けて原子炉の圧力を下げる必要があった。
・しかしそれにはリスクもあった。3号機のように水が十分に入らなければ、原子炉の水が水蒸気となって急速に失われ、最悪空焚きの状態になる。メルトダウンが一気に進んでしまうのだ。
「減圧の前にベントを優先すべきです」
「SR弁開けて減圧して、もし水が入らなかったらさらに状況が悪くなります」
「格納容器破壊だけは絶対に避けるんだ」(吉田所長)

・何とかベントを行うことが出来ないか、現場は方策を探り続けていた。そこに首相官邸から電話が掛かってきた。相手は原子力安全委員長の斑目春樹氏。ベントよりも先にSR弁を開けるべきだ。官邸には2号機の状況が詳しく伝わっていなかった。斑目委員長は事故の基本的な対応してすぐにSR弁を開けるよう要請したのだ。東京電力本店にいた清水正孝社長もその要請に従うよう指示した。

徐々に水位が下がっているから、最後は従ったけれども、やむを得なかった(吉田所長の証言記録・国会事故調)

「SR弁を開けようじゃないか」(吉田所長)
「もし失敗したら…地獄だぞ」


仮にSR弁が開いて、開いたはいいけど、その状態で水が入らないことになれば、もっと早く悲惨な状況になってしまう(免震棟にいた東電幹部)

・注水に失敗し核燃料が一気にメルトダウンすれば、その熱で内部の圧力が高まる。格納容器破壊という最悪の事態が想定される。
・SR弁を開けるにはさらに人手が必要だった。
「線量食ってない(被ばく量が少ない)人まだいる?行ってくれるか」
「分かりました」


現場に行くのは相当危険だと、それでも行かなくてはならない。行くときに「水飲ませてくれ」って言ったら「俺の飲め」「俺の飲め」って(免震棟にいた協力企業幹部)

・高い放射線量の中、非常用のバッテリーでSR弁を開ける作業が続けられた。
「接続完了です」
「了解。SR弁 開 操作」
「炉圧 下がった」
「あとは消防車の水が入ってくれれば」
「水位 上がらない」

・18時2分、なぜか消防車の水が全く入らなかった。
・免震重要棟。
「TAFマイナス3700ミリ(原子炉が空焚きの状態)」
「何で水位が回復しないんだ」(吉田所長)
「消防車のポンプ、止まっています。燃料切れです」

・相次ぐ水素爆発の影響で敷地内の放射線量が極めて高くなっていた。消防車を常に監視することが出来ず、いつの間にかエンジンが止まっていた。
・事故後の解析によれば、2号機でメルトダウンが始まったのは21時9分。切り札のベントも出来ず、2号機は格納容器の圧力が高まる一方だった。
・免震重要棟。
「2号、格納容器圧力上昇!」
「この先どうなるんですか?」
「東日本には誰も住めなくなるぞ」


下手すれば日本の国がおかしくなるんじゃないかというところまで、思い詰めたような部分があった。死ぬまで忘れることはない(免震棟にいた東電幹部)

・恐れたのは2号機の格納容器が壊れ、福島第一原発に誰も近寄れなくなること。そうなれば、敷地内に保管されている大量の核燃料がメルトダウンする可能性がある。その影響が南に10km離れた第二原発に及べば、大量の放射性物質が放出される。最悪の場合、東日本には人が住めなくなる。

2号機がもうダメになっちゃうと、放射能がもっと出ますよね。我々は討ち死にしちゃうと、今度は第二(福島第二原発)の方も線量が上がって作業が出来なくなっちゃう。後は神様に祈るだけだ(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・免震重要棟の廊下。
「今までの対応ありがとうございました。いろいろ対策を練りましたけれども、いい方向にはもう向かないでしょう…協力企業の方はもうお帰りください。十分気をつけて避難してください」(吉田所長)
・当初6400人以上いた社員や作業員、現場に残ったのは700人ほどだった。
・そして政府の呼び掛けで各地で計画停電が実施された。
・その頃、東京電力本店では格納容器の大規模な破壊を恐れ、最終手段ドライウェル・ベントの検討を始めていた。1・3号機で行っていたベントは格納容器内部の蒸気を一度水に通し、放射性物質の大半を取り除いてから放出するやり方だった。これに対し2号機で検討されたのは、内部の蒸気を直接放出するため桁違いの放射性物質が撒き散らされる。「禁じ手」ともいえる手段だった。
・23時36分、東電本店とのテレビ会議。

「ベントできないと格納容器が壊れる」
「後のこと考えないで今やるべきだと思います」
「開けるんだよ」(いずれも実際の声)


・2号機中央制御室。
「ドライウェルベント できません!」
「格納容器内の線量、どうなってる?」
「線量、上がり続けてます」
「数字は?」
「現在24シーベルト毎時(人が死に至る被ばく量に15分で達する値)」
・免震重要棟。
「圧力750キロパスカル、下がりません」


俺と死ぬのはどいつだ(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・3月15日6時14分、2号機中央制御室。
「数字報告してくれ」
「サプチャン(格納容器の一部)圧力ゼロ」

・免震重要棟。
「サプチャン圧力ゼロ」(吉田所長)
「格納容器が壊れた」
「サプチャンに大穴が開いたと思います。とんでもない量の放射性物質が出てきますよ」
「退避させましょう」
「各ループ、対応に最低限の人数だけ残して、残りは線量の低い場所に退避だ!」(吉田所長)

・午前7時頃、2号機からの放出とみられる放射線量が上昇し始めた。地震発生から88時間後のことだった。
・事故対応の最前線で最も危機感が高まった88時間。現場の対応を超えるスピードでメルトダウンが進行、事故は複数の原子炉で連鎖的に拡大していった。最後に訪れた2号機の危機で、なぜ東日本壊滅を避けられたのか。
・格納容器が壊れたと現場が感じた衝撃は、後に4号機の建屋の爆発だと分かった。3号機から流れ込んだ水素が原因だとみられている。2号機は奇しくも格納容器の繋ぎ目などから圧力が抜けたことで、大規模な破壊を免れたと推定されている。しかし事故から5年経った今でも、直接確認することは出来ていない。
・2号機からの放出の後も1週間以上にわたって放射性物質の大量放出は続いた。
・福島第一原発では自衛隊や消防も動員して大量放出を食い止めるための事故の収束作業が行われた。3つの原子炉が冷温停止状態になるまで9か月を要した。
・吉田所長は地震発生から8か月間、現場で指揮を執り続けた。その後、体調を崩し入院。病床で事故を振り返り、言葉を残していた。

10人くらい昔から知ってるやつ、こいつらだったら死んでくれるかなと思った。今回ね、あんなすさまじい状態だったんですけど、そういう何か微妙なところで、天の助けがないともっと酷いことになってた(吉田所長の証言記録・国会事故調)

・吉田所長は事故から2年4か月後、食道がんでこの世を去った。享年58。
・吉田所長のもと最前線で事故対応にあたった運転員たち。その一人の井戸川さんは事故の翌年、東京電力を退職した。

いまだに尾を引いてる影響を起こしてしまったことの罪悪感と恥ずかしさ、常日頃思っています。あのとき何もすることが出来なかった。他に出来ていたら違ったのかなと。事故を素直に真っ直ぐ見てもらって、その状況を伝えて、後世に繋いでいきたい(井戸川さん)

・世界最悪レベルの原発事故から5年、再び想定外の事態に襲われたときに私たちは核を制御出来るのか。福島第一原発の88時間が今に突きつけている。

(2016/3/15視聴・2016/3/15記)

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【NHKスペシャル】廃炉への道 2015“核燃料デブリ”未知なる闘い

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