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【にっぽん!歴史鑑定】将軍のカルテ~江戸の先端医療~

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【にっぽん!歴史鑑定】
「将軍のカルテ~江戸の先端医療~」

(BS-TBS・2016/10/31放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 以前も同様に歴史上の人物の死因を現代医学から検証する番組がありました(→【にっぽん!歴史鑑定】武将たちのカルテ)。そのときは徳川吉宗、平清盛、足利尊氏、武田信玄でしたが、このシリーズは私個人的には大好きです。

 で、今回は江戸幕府の歴代将軍の多くを取り上げたもの。あくまでもこの番組での見解は15人の将軍の死因は下記の通りです。

【歴代将軍の死因】
◇ 初代・家康(75歳)すい臓がん
◇ 2代・秀忠(54歳)マンソン孤虫症
◇ 3代・家光(48歳)脳卒中または消化器がん
◇ 4代・家綱(40歳)不詳
◇ 5代・綱吉(64歳)麻疹
◇ 6代・家宣(51歳)インフルエンザ
◇ 7代・家継( 8歳)急性肺炎
◇ 8代・吉宗(68歳)脳梗塞
◇ 9代・家重(51歳)尿毒症
◇10代・家治(50歳)衝心脚気
◇11代・家斉(69歳)急性腹症
◇12代・家慶(61歳)熱中症
◇13代・家定(35歳)衝心脚気
◇14代・家茂(21歳)衝心脚気
◇15代・慶喜(77歳)急性肺炎



英雄たちのカルテ―歴史上の人物の「臨終」を科学する
 番組でコメントしていた若林利光先生、調べてみると直近の著書は見当たらなかったのですが、こちらの本を出されているようです。


徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書)
 ちなみに篠田達明氏が著した「徳川将軍家十五代のカルテ」(新潮新書)では違う死因が指摘されている将軍もいるようです。両者比較してみるのも面白いかもしれません。


骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと
 また増上寺の墓の改葬の際の発掘調査をまとめた本もあるようです。これまた興味深そうな内容です。ただ歴史的には多くの部分が解明されたとはいえ、本人たちにとっては「そっと眠らせておいてくれよ」と言いたかったかもしれませんね(笑)

 ああ、あともう一つ感想がありました。徳川家光さんのために春日局さんがつくらせた「七食の特別食」。どこかで再現していないかな。一度食べてみたいです!

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・およそ260年続いた江戸時代、その太平の世を治めてきたのが15人の徳川将軍たち。長きにわたり政権を保ち続けるためには、政治手腕とともに健康であることも大切だった。現代医学で歴代将軍たちの健康法と病、そして死因までも徹底検証する。
・健康オタクだった初代将軍・家康の死因は食中毒でも胃がんでもなかった。謎を解く鍵は、やっぱり天ぷら?
・しこりが体内を移動。2代将軍・秀忠を襲った世にも恐ろしい奇病とは?
・超健康体11代将軍・家斉。将軍在職は歴代最長の50年、もうけた子どもは50人以上。精力旺盛、その健康の秘訣は生姜とチーズにあり?
・21歳で亡くなった14代将軍・家茂。その遺骨から虫歯だらけだったという発見が。将軍の死と虫歯の甘い関係とは?

<初代将軍・徳川家康>
・大坂夏の陣で徳川が豊臣を滅ぼした元和2年(1616年)1月21日、家康は家臣を引き連れて大好きな鷹狩に出掛けた。このとき75歳だったが、高齢にも関わらず野山を駆け回ったという。
・その夜、家康は京の御用商人・茶屋四郎次郎に鯛の天ぷらを勧められ食べてみることに。するといたく気に入り、普段よりたくさん食べてしまった。
・腹を満たした家康は床に入るとすぐに眠りについたが、日付が変わった午前2時頃、突然激しい腹痛に見舞われた。侍医頭(主治医)の片山宗哲が駆けつけ診察すると、腹部にしこりが見つかった。診断は腹や胸に発作性の激痛を起こす内臓疾患である癪。薬を調合したが、家康はこれを頑なに拒んだ。
・医学や薬学に精通していた家康は持病だった寸白(サナダ虫)だと自己診断したためだった。そして自分で調合した腹痛の特効薬・万病円を服用した。しかし何日経っても症状は改善されず、次第に食欲が衰えた。痰が増え不整脈が出るようになった。
・2月1日、父の容態を聞いた秀忠は、江戸から駿府へ駆けつけ片山に「大御所が自分で調合している薬や体に障るから、服用を諌めてほしい」と頼み込んだ。ところが家康は進言した片山に腹を立て、信州へ流罪にしてしまった。
・3月下旬、食も細くなり痩せて顔色も悪く、吐き気も起こすほどに病状は悪化。4月5日には高熱としゃっくり、大量の痰に苦しめられた。
・そして水分さえも口にできなくなった家康は4月17日午前10時頃、息を引き取った(享年75)。
・家康の死因について新たな見解を唱えているのは、武将たちの病を研究している若林医院の若林利光院長。注目したのは家康が腹痛を起こす直前に食べた天ぷら。

脂っこいものを食べた後に腹痛を起こすのは、すい臓の病気の特徴。家康は胃がんではなく、すい臓がんだと考えられる(若林氏)

・すい臓は消化酵素を含むすい液を分泌して腸に送り出す器官。その頭部にがんができていたと考えると、家康の症状が説明できるという。
・まず激しい腹痛は、すい臓の頭部にがんができたためにすい管が閉塞し、そこを流れるすい液が逆流したことで起きた痛みだと考えられる。
・そしてお腹のしこりの正体は、すい臓にがんができた影響で胆のうから伸びる胆管が閉塞。胆汁が逆流したことで大きくなってしまった胆のうだった。当時の医学では診断できない病だった。

これは一般にクールヴォアジェ兆候と呼ばれていて、すい頭部がんのほぼ半数に認められる現象。すい臓がんは別名サイレントキラーとも言われている。早期発見が非常に難しいがんで悪性度も高く、進行すると体重減少・食欲低下・黄疸などが現れる。発見の頃には既に進行化しているケースが非常に多い(同上)

・実際に家康も食欲が衰え顔色も悪くなり、症状が出てから3か月余りで亡くなっている。現在すい臓がんの主な要因と言われているのは喫煙、食事、肥満だが、家康について検証してみる。
・煙草の有毒成分が体内に及ぼす影響は大きく、煙草を吸う人は吸わない人に比べ2倍がんになりやすいと言われている。煙草は室町時代末期から安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって持ち込まれた。当時は薬と考えられていたため、喫煙率は高かったと言われている。
・しかし火事の原因となり中毒性もあることから、家康は10回以上も禁令を出すほど煙草を嫌っていた。なので喫煙によるリスクは無かったと考えられる。
・食事はバランスの悪い食生活、野菜や果物の摂取不足、酒の飲み過ぎなどはがんになりやすい体質をつくると言われている。健康オタクと言われる家康は贅沢を慎み、普段から粗食で麦飯中心の食事を心掛けていた。
・好物は三河の大豆100%の豆味噌だった。味噌には発がんの原因となる細胞の突然変異を抑制する成分が含まれていると言われている。家康は常に健康的な食事を心掛け、酒も決して飲み過ぎることはなかったため、食事もがんの要因ではなさそうだ。
・残るは肥満だが、家康は生まれ持っての健康体で馬術や水泳の鍛錬も欠かさなかった。そのため若い頃は顔も体も引き締まっていたようだ。それが晩年になると今でいうところのメタボ体型に。身長159cmで体重は70kg。自分で下帯を締めることも出来なかったようだ。

肥満は通常の体型の人よりすい臓がん発生リスクが20%高いと言われている。また75歳の高齢も要因だと考えられる(同上)

・家康のすい臓がんは晩年の肥満が一つの要因となったようだ。

<2代将軍・徳川秀忠>
・2代将軍・秀忠も胃がんというのが定説となっているが「細川家文書」という史料に、秀忠と強い信頼関係で結ばれていた細川忠興が秀忠の病状を聞いて心配のあまり、息子の忠利に送った手紙が記されている。

御乳の下皮肉の間にかたまりの物でき
御痛みなくその後方々へくくり申し候


・胸の下に腫れ物ができて体の方々へ移動しているようだという。さらにその後に万病円を服用したら痛みが引いたと聞き、寸白(サナダ虫)だと診断している。

秀忠はマンソン裂頭条虫という寄生虫の一種で、その幼虫であるマンソン孤虫症を患っていたと考えられる(若林氏)

・同じ寄生虫のサナダ虫の移動が外から分からないのに対し、マンソン孤虫は皮膚の下を丸くなって動くため移動が認識できるのが特徴。寄生ルートとして考えられるのが、鷹狩で仕留めた鳥だった。マンソン孤虫が寄生していた鳥をしっかりと火を通さずに食べたことで、体内に入ったのかもしれない。

マンソン孤虫が皮下に寄生すると、移動性の腫瘤として観察される。肺や眼球、乳房などに寄生するとそれぞれの臓器で様々な障害を起こす。また脳に寄生すると致命傷となることがある。細川家の書状の中に長さ4寸(12cm)ばかりのものが出たとあり、マンソン孤虫の大きさは5~30cmなので当てはまる(同上)

・別の史料によると、11月に容体変わらず。12月に胸の激しい痛みを訴えその後、血の塊を2つ吐いて亡くなったとある。

血の塊を吐いたのは肺への寄生により生じたものと考えられる(同上)

<3代将軍・徳川家光>
・3代将軍・家光は生まれつき病弱で、腹痛を伴う虫気や腫れ物に眼病、おこり病と呼ばれていたマラリアなど様々な病気に悩まされた。
・中でも深刻だったのが痘瘡、今でいう天然痘。日本に治療法である種痘が入ってくるのは江戸時代後期なので、当時は大変恐れられていた感染症だった。小豆状の発疹が無数にでき死に至ることもある病。たとえ治っても顔にあばたが残るため、一説には家光にもその跡があったと言われている。
・こうした数々の病を克服し48歳まで生きた家光。実はその陰には乳母である春日局の献身があった。幼い家光は食が細く、朝食には箸を付けようとすらしなかった。栄養を摂らなければ病も治らない、心を痛めた春日局は老中・松平信綱を呼び出して、米を食べることの重要性を説いた。そして家光の興味を引くために七色めしを作らせた。7種類の趣向を凝らしたご飯は健康への配慮も万全だった。
乾飯は体を温めると言われる餅米を炊いて乾燥させた後、熱湯をかけたもの。
茶飯は煎じた抹茶と一緒に炊いた飯。お茶のカフェインは脳の働きを良くし気分を爽快にする。
・雑穀の一つである粟を炊いた粟飯。白米に比べると食物繊維は7倍、ミネラルは5倍含まれ、鉄分も多いため貧血対策にもなる。
麦飯も栄養豊富でビタミンB1、B2、カルシウム、鉄分、食物繊維が多く含まれた健康食。
赤小豆飯は赤小豆と一緒に炊き込んだ赤いご飯。古くから滋養強壮、毒消しの作用があるとされていた。また赤い色は不老長寿をつかさどる神聖な色。厄除けの効果があるとも考えられた。
湯取飯は水を多く入れて米を炊き、それを水で洗いぬめりを流した後で蒸し上げたご飯。さらりとした食感で食欲のないときに食べやすいという。
引割飯は米を包丁で三等分ぐらいに割ってから炊いたもの。甘くて米本来の旨さが出る。粒が小さいため消化吸収も良かった。
・また春日局は大食いの人の食べっぷりを見れば食欲が出るかもしれないと、江戸城内に大食い自慢を連れてきて家光の前で食べさせて見せたりもした。こうした努力が実り、家光は健康を取り戻したという。

<5代将軍・徳川綱吉>
・5代将軍・綱吉は一説には身長が124cmで、成長ホルモンの分泌異常の低身長症だったとも言われているが、大きな病を患うことはなく64歳と当時としては長生きした。
・綱吉の時代に幕府の医官制度が整えられた。幕閣の重職である若年寄の下に将軍や大奥の女性たちを診察する奥医師、幕府の役人などを診察する御番医師、緊急事態に備える寄合医師、町で評判の名医から抜擢された御目見医師などがあった。
・こうした医師たちが江戸城内には常時少なくとも数十人、多いときで200人ほどいたという。その診療科目は本道と呼ばれる漢方内科が中心で次第に細分化されていった。
・綱吉は64歳で麻疹で亡くなったと言われている。麻疹は命定めと言われたほど、今と違い死に至る病とされていた。20年間隔で流行していたため治療法の研究も進まず、子どもだけでなく大人も大勢亡くなった。そのため最後は神頼みだったようで、霊験あらたかな神社で病魔退散の祈願を行ったり、おまじないの絵もあったという。

<9代将軍・徳川家重>
・9代将軍・家重の肖像画から彼の病が推察できるという。首を前に突き出し、唇は曲がり眉を寄せ、両目が内側に寄っている。手もどこかぎこちない様子。こうした特徴から脳性麻痺だったのではないかと考えられる。それを裏づける記述が、江戸幕府の公式記録「徳川実紀」にあった。

御多病にて御言葉さわやかならざりし故 近侍の臣といえども聞き取り奉ること難し

・これは幼少期に罹った脳性麻痺のため言語不明瞭だったと推察できる。そんな家重は尿の回数が多くなる排尿障害も患っていた。江戸城から徳川家の菩提寺である上野・寛永寺までの僅か5km余りの道中に23か所も厠を作らせたため「小便公方」と揶揄されたという。
・晩年は排尿障害が悪化。通常は尿とともに排出される老廃物が血液中に残り、尿毒症を起こして亡くなった(享年51)。

<10代将軍・徳川家治>
・10代将軍・家治には子がいたが次男は生後3か月で、長男は18歳という若さで亡くなった。嘆き悲しむ家治にその後、世継ぎが生まれることはなかった。

<11代将軍・徳川家斉>
・家治の跡を継いで11代将軍となったのは、はとこにあたる家斉だった。将軍在職期間は50年と歴代最長。在職中は風邪で数回寝込んだだけという健康体だった。
・精力も旺盛で正室の他に16人の側室を迎え、57人もの子をもうけている。家斉がそれほどまで子づくりに励んだのは、自分の子どもに将軍職を譲れなかった先代を反面教師にしたからだとか。
・家斉の元気の源の一つが白牛酪だった。牛乳を煮詰めて丸めたチーズのようなもので、タンパク質やビタミンB類、ビタミンE、亜鉛を含むほか精子の原料として欠かせないアルギンも豊富。精力増強や疲労回復に効いた。
・そしてもう一つが葉の付いた生姜、ハジカミと呼ばれるもの。家斉はこれを味噌漬けや蜂蜜漬けにして毎日欠かさず食べていたという。生姜にはタンパク質の分解酵素であるジンゲロンという有効成分が含まれていて、白牛酪と一緒に食べるとより効果的だったという。
・こうした食のお陰もあってか、家斉は50年もの長きにわたって将軍でいられた。

<14代将軍・徳川家茂>
・15人の将軍の中で、衝心脚気で亡くなったと思われる将軍が3人いるが(家治、家定、家茂)、中でも14代・家茂は21歳の若さで亡くなっている。
・家茂の脚気を悪化させた原因が羊羹やカステラ。無類の甘いもの好きだったという。昭和33年に増上寺で墓の改葬が行われた際、家茂の遺骨から30本もの虫歯が見つかった。
・彼が将軍となった頃は、風雲急を告げる幕末。幕府はすっかり弱体化し、朝廷の権威を借りて何とか立て直そうと公武合体に躍起になっていた。
・その一環として文久2年(1862年)17歳になった家茂は、孝明天皇の妹・和宮を正室に迎えた。政略結婚ながら夫婦仲は良く、料理が趣味だったという家茂は和宮にカステラなどを作って振る舞ったと言われている。
・結婚から2年、家茂は倒幕に傾いていた長州藩を討つため上洛、大坂城に入った。和宮は甘いもの好きの夫のために落雁を贈るなど、帰りを待っていた。
・しかしその翌年の慶応元年(1865年)4月、家茂は喉や胃腸に違和感を覚えるようになり、6月には足が腫れた。原因は脚気だった。

脚気はビタミンB1不足により起こる病気。全身倦怠感や手足の痺れ・むくみから始まり、末梢神経障害や心臓の障害を起こすことも。重症になると心不全を起こして死ぬこともある(若林氏)

・江戸中期以降の将軍たちに脚気が多いのは、食生活の変化が関係していた。1日2食から3食になり、主食である米は一粒一粒吟味。糠を徹底的に洗い落としてから将軍の御膳に出された。これによって米糠に含まれるビタミンB1が不足し、脚気を引き起こした。
・家茂に至っては真夏の暑さが脚気を悪化させ、さらに見舞いの品も追い打ちをかけた。無類の甘党である家茂のもとには羊羹やカステラ、金平糖などが次々と届けられた。

糖分はビタミンB1の消費を促し脚気を悪化させる。虫歯がもとで咽頭炎などの感染症があると発熱が起こり、それが脚気を悪化させることも(同上)

・甘いものを摂り過ぎたことでビタミンB1の欠乏が進行。虫歯からくる発熱も加わり、病状は悪化の一途を辿った。重篤となった家茂のために大坂城には医師が集められた。将軍の侍医だけでなく京都御所からも医師が派遣されたという。
・医師たちは24時間体制で看病にあたったが、交代せず傍にいて献身的に看病していた奥医師がいた。江戸医学所頭取で外科医の松本良順は家茂からとても信頼されていたため、引き止められ3週間近く付き添ったという。
・その後、危篤となった家茂は良順に看取られながらこの世を去ったという。21歳という若さだった。しかしその死は穏やかなものではなかった。死の間際、病床でうわ言を発するなど錯乱状態に陥った。
・場所がかつての豊臣家の居城だったこともあり「豊臣の呪いでないか」と囁かれたが、脚気の症状が脳にまで及ぶウェルニッケ脳症が疑われる。精神面にも障害を及ぼし錯乱状態を起こしたまま亡くなったのだ。

<15代将軍・徳川慶喜>
・家茂の跡を継ぎ15代将軍になった慶喜。慶応3年(1867年)10月14日、将軍在職僅か1年で大政奉還。翌年4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡され、260年余り続いた徳川幕府は終わりを告げた。
・慶喜はその後、静岡で写真などの趣味の世界に没頭。静かに余生を送った。そして大正2年(1913年)11月22日、風邪をこじらせて肺炎に罹り歴代最高齢の77歳でこの世を去った。

・15代にわたる徳川の将軍たちは食文化が豊かになったことで流行した病など、現代人と変わらない病気に悩まされていた。それを現代医学の目で紐解いていくと、とても興味深い。260年に及んだ太平の世。その戦なき江戸時代は将軍たちにとって病との戦いだったのかもしれない。

(2016/11/3視聴・2016/11/3記)

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