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【明日へ―つなげよう―】一人一人の“生きた証”を求めて~岩手県・大槌町~

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【明日へ―つなげよう―】
「一人一人の“生きた証”を求めて~岩手県・大槌町~」

(NHK総合・2016/9/4放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 岩手県大槌町で亡くなった町民の遺族から聞き取りをして最終的に冊子にまとめるという「生きた証プロジェクト」の話は以前、別のところで聞いたことがありました。地元の僧侶の方が中心になっているということも知っていましたが、あらためて今回の番組を通して髙橋住職のお話を聞くことができました。

 番組の中では、5年半経っても行方不明の家族の死を受け入れられないという方がいました。5年半経ったから諦めろというのは乱暴だと思います。しかし、だからといってこの取り組みそのものを否定したり、他にまだやるべきことがあるというのは私はどうかと思う。貴方の考えを尊重するのと同時に、「生きた証」を残したい人たちが活動していることは少なくとも尊重すべきでしょう。そう思いましたね。

 何かそのような声を出したのと関連があるのかどうか、さらにNHKが意図的に隠しているのかどうか分かりませんが、このプロジェクトには『アナザーストーリー』があるようです。

 実はこの事業は大槌町長の意向によって2015年度で町の事業としては打ち切られています(冊子化は2016年度に行う予算措置がありますが)。

 新聞報道によれば「遺族のつらさを考えれば、犠牲者全員分を聞き取る必要はない」(「河北新報」)、「必要性は感じているが、成果を出さなくてはいけない」(「毎日」)というのが町長の主張のようです。

 大槌町は昨年の町長選で町長の交代がありました。現職町長の復興事業の遅れを批判した元部下(町職員)の平野公三氏が当選。これまた新聞報道で知ったことですが、彼は被災した町役場を震災遺構として残すのには反対の立場で解体を主張、現在議会などで議論が進められています。

 大槌の町民の皆さんには申し訳ないのですが、私はどうもこの町長さんの物事の進め方については疑問を抱かざるを得ないですね。この「生きた証プロジェクト」だけでなく、先週の証言記録でのご本人のコメントの節々から感じます(→【明日へ―つなげよう―】証言記録 岩手県大槌町~行政機能を失った町役場~)。

 その辺りはNHKも触れたくなかったのでしょうね。復興というのはスピードが求められるのは分かります。しかし「心の復興」は嵩上げや防潮堤を築くのとは違う、そう思いますね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・震災で妻を亡くした男性の話に一人の僧侶が耳を傾けている。亡くなった人たちの記録を残そうという試み。岩手県大槌町、震災で1200人以上の死者・行方不明者を出した。その全員を対象に町が進めているのが「生きた証プロジェクト」。
・どんな人生を歩んできたか、あの日どんな行動をしていたか、そして今伝えたいことは、遺族から聞き取っている。
・中心となっているのが僧侶の髙橋英悟さん。残された人の心が軽くなるように。しかし今も心の整理がつかなかったり、家族の行方が分からなかったり、語ることを拒む人もいる。
・あなたの大切な人はどんな人でしたか?震災から5年半、残された家族の心を見つめる。

<妻を亡くし後悔している男性の証言>
・古くから漁師町として栄えた岩手県大槌町。名物は三陸の海の幸。中でもウニは最高だが、水揚げはまだ震災前の半分だという。
・港を見守るように建つ寺がある。曹洞宗「吉祥寺」。江戸時代、町の漁師たちが木材を持ち寄り、先祖を供養するために建てたと言われている。
・朝6時、住職の髙橋英悟さん(44)の1日は祈りから始まる。檀家の位牌を祀る位牌堂。経の後はお堂の奥へ。ここには震災で今も身元が分からない遺骨が安置されている。
・朝の勤めが終わると法要や葬儀に大忙し。約1000軒の檀家に一人で向き合っている。
・こうした日常を縫って髙橋さんは「生きた証プロジェクト」の聞き取りを続けている。この日やって来たのは、いち早く協力してくれた遺族の東谷藤右エ門さん。震災で50年以上連れ添った妻のケイさん(享年74)を亡くした。出来上がった文面に伝えたい思いが記されているか、本人に確認する。

俺から見れば頼りきった女房。決して子どもからも反抗されることもなかったし、女房の方がかじ取りというか、よくぞ育ててくれたな、感謝ですよ(東谷さん)

・最初に尋ねるのは、亡くなった方がどんな人生を歩んできたか。ケイさんは大槌町で生まれ、中学時代はバレーボールで県大会に出場。20歳で東谷さんと結婚し、3人の子どもに恵まれた。
・次に聞くのは、あの日の行動。震災の教訓とするため詳しく話してもらう。

言葉としては「母ちゃんすまない」。走馬灯のように浮かぶ、あの時は(同上)

・あの日の記憶はつらい思いも呼び覚ます。東谷さんにとっては「(家に)いろよ、保育園さ行くから」の一言。町の保育園の理事長を務める東谷さん、園児を避難させようと自宅を飛び出すときケイさんに「家で待つように」と言った。園児の無事を確認し戻ろうとしたとき、津波が自宅を襲った。

まさかここ(自宅)に来ないだろう、そう思っていたから「(家に)いろよ」「(保育園に)行くから」。近所の人が「ケイちゃんが外に出たり入ったりしていた」と言う。俺が戻って来ると思っていたんではないか。間違いなく思っていた。それが悔やまれる。長男が来た時に「申し訳ない。母ちゃんを殺してしまった」。子どもらに対して面目がなかったんだよ。何とおわびをしたらいいのか。もう癒えることのない、消えることのない(同上)

園児はみんな避難したんだもんね。藤右エ門さん頑張ったし、奥さんも頑張ってくれたなと思っている(髙橋さん)

・最後に聞くのは、亡くなった人への思い。東谷さんはケイさんのことをこう語った。

働き者で心の深い人でした。日本一の女房だと今でも思っています。

第三者に話すことによって心の中に閉じ込めていたものを出して、自分だけでは気づかないその人の良さとか、どんな生き方をしてきたか、改めて再発見できると思うんですよ。かけがえのない人であったということをしっかりと見つけることができると、前へ進むことができる(髙橋さん)

<「生きた証」寄せられたメッセージ(1)>
・聞き取りを始めて2年、震災の死者・行方不明者およそ1200人のうち650人の「生きた証」が集まった。

妻から亡き夫へ(享年55)

郷土愛が強い人で大槌の自然も好きで、それよりも人が好きで人情にあつく、人の和を大切にする人でした。「ご近所お花見会」を精力的に開催し、人と人とのつながりを大切にしてきました。

夫から亡き妻へ(享年50)

妻の夢は、毎日欠かさずに一生懸命書き続けた育児日誌を子どもたちの結婚式でプレゼントする事でした。「早く孫を抱きたい」と口癖のように言っていました。自分の家族を早く亡くしたから、余計に家族を大切に思っていたかもしれません。

娘から亡き父(享年61)・亡き母(享年60)へ

父は私が母とケンカすると必ず母の味方になっていました。「お父さんは何があっても幸せにしますからと言って、お母さんを嫁にもらったんだ。だからお前がいくら泣こうがわめこうが、お母さんを泣かせたらお父さんが守る」と言って母の味方をしました。母に毎日「愛している」のメールを送るほど、母の事が大好きな父でした。

<16年前に大槌町に移住してきた住職、そして住民とともに受けた震災>
・髙橋さんが住職を務める吉祥寺。月の一度の大掃除、地域の住民たちが我が家のように気持ちを込める。

今はみんな普段でも(寺に)来るから、心の拠り所っていうんだか。誰にも話せないことがある。和尚さんなら良いかって言ったり(住民の女性)

・しかしかつて髙橋さんと住民との関係は決して良好ではなかった。宮城県出身の髙橋さん、修行を終えて見ず知らずのこの寺にやって来たのは16年前。当初は住職としての務めを果たそうと意気込んでいた。
・「挨拶を欠かさない」「境内でたばこを吸わない」細かく礼儀作法を説いた。しかしそこは気性の荒い漁師町、反発もあった。

最初はとっつきにくい。雲の上の人か分からないけど怖かった(住民の女性)
きちんとしないで、だらだらやっていると厳しい(住民の女性)

今度の住職は生意気だから、昔からやっていることに逆らうなら「す巻きにして海に流してやるぞ」と、お祝いの席で豪語している人がいた(髙橋さん)

・町の人との距離を縮めようと、髙橋さんは子ども会や茶会を開いた。そのうち住職としてみんなを引っ張るより、共に歩もうという気持ちになった。この町に来て10年、ようやく信頼が築けたと感じていたときだった。
・東日本大震災。高さ10mを超える津波とその後の火災で、町は壊滅的な被害を受けた。犠牲者を供養するため、髙橋さんは町内4か所の遺体安置所を回った。おびただしい数の遺体。泣き崩れる遺族。自分を受け入れてくれた人々を襲った悲劇。髙橋さんは犠牲者を弔うことも、遺族に言葉をかけることも十分にはできなかった。

経にならない。私も泣いてしまって。頭の中では地獄っていうのは分かっていたつもりでも、実際目の当たりにしたとき、もちろん無力感を感じた(髙橋さん)

・亡くなった人々ともう一度向き合い、残された家族の力になりたい。その思いが髙橋さんを「生きた証」の取り組みに駆り立てている。

<長男の妻を亡くした女性、孫を育てる決意>
・しかし聞き取りに協力することを初めは躊躇する人も少なくなかった。釜石榮子さんは長男の妻、清美さん(享年38)を亡くした。話せば悲しみが蘇ると、聞き取りを拒んできた。

私にすれば最初は嫌だったけど(釜石さん)

・しかしよく寺に顔を出し、些細なことでも相談していた釜石さん。髙橋さんの勧めならと少しずつ清美さんのことを話すようになった。

(清美さんは)みんなに好かれたと思う。背は小さいけど肝っ玉がちゃんと据わっていて、あんなばか息子といてもちゃんとやってきたの(同上)

正さん(清美さんの夫)を支えて子育てしたって、ほんとすごい(髙橋さん)

・清美さんには2人の息子がいる。震災当時は18歳と15歳だった。この2人の子どものためにこそ母親の「生きた証」を残さなければ、釜石さんは次第にそう思うようになった。

自分の親っていうのは、こういう人だったのかなっていうのは必ず分かりたい時ってあると思う。私たちの口から聞くよりも、やっぱり形として残っていれば、こういう親だったんだなと分かる(釜石さん)

一番の関心事は「子育て」。働きながら学校の行事には必ず駆けつけました。子どもが大きくなったら一緒に海外旅行に行きたいと話していました。

・清美さんが大切に育てた2人の息子。釜石さんは懸命に親代わりを務めている。

和尚さんは「死んだ人は俺がみてやる」って。「あんたは残された孫たちをみてやれ」という言葉をかけてくれるの。楽というか支えというか、いつでも言ってくれるもんね(同上)

やっぱり役目というのはあって(髙橋さん)

孫が学校終わって社会に出るまで、ちょっと頑張ってみようかな。それが私の復興の第一歩かなって(釜石さん)

<自宅を再建できた檀家さんからの依頼も>
・今年に入って髙橋さんのもとには、これまであまりなかった依頼が増えている。やって来たのは間新しい住宅が建ち並ぶ一角。自宅の再建を果たした檀家から、新調した仏壇に魂を入れてほしいと頼まれた。

避難所生活をして仮設に入って、5年でやっとここに来られた状態。仏さんを(仏壇に)入れられた状態。一区切りついた感じ。ずっとカラーボックスみたいな所に位牌を置いていたんで、仮設は狭いから。ちゃんとしたのにできて、すごく良かった(檀家の女性)

<証言を拒む男性の思いは…>
・一方で町内にはまだ48か所に仮設住宅があり、今も2700人が暮らしている。生活の再建が立ち行かない中「生きた証」の聞き取りをと言われても、前向きになれない人が少なくない。
・川口博美さんは震災で母親と妻を亡くした。孫は今も行方が分からない。

俺はまだ孫は死んでないと思っているよ。当然じゃないですか。何も死んだっていう証どこにもないもん。証拠もないもん。死んだこと前提にしてね、やるということ自体、俺は気に食わないんだ。「死んだんだから諦めなさい。生きてるときのいい思いをここに出して下さい」。ふざけんなって言いたい。そしたらお前、帰ってくる場所がねえべや(川口さん)

・あの日、母親と妻、そして孫の翔也くんは海から200m離れた自宅で津波に襲われた。
・「家族を守れなかった」。その思いから地元の町づくりに携わっている。犠牲者を出さない方法を一心不乱に考えた。出した答えは防潮堤に加え、宅地を最大11m嵩上げすること。心から安心できる住まいを再建できなければ、失った家族と向き合うことはできないと、川口さんは言う。

(生きた証の)事業に対しては反対じゃない。その前にやるべきことがある。まだ(再建の)途中だから、それが終わってからでもいいんじゃないか。まず先に残された遺族が生活のめどが立つことを優先してやっていかないと、生きた証プロジェクトも何も成功しない(同上)

・造成が終わるのは11月。川口さんは以前と同じ場所に家を建て、家族を迎えたいと思っている。

孫が帰ってくる場所。孫が来ても、もとの家に間違いなく来られるように。万が一、例えば現実には死んでいても、孫の何かが戻って来て、小さな骨でも何でもいいの。間違いなくそうだったって認識したら、葬式は出そうかなって思っている(同上)

<夫と娘を亡くした女性はつらいけど「生きた証」を残すべきだと言う>
・聞き取りを始めて2年。今、「生きた証プロジェクト」は壁にぶつかっている。メンバーは髙橋さんのほか、元消防団長や町内会の役員など。地域の世話役が中心となって聞き取りを続けてきた。ところが最近新たに語る人は、なかなか現れない。犠牲になった全町民の記録を残すのが目標だが、このままでは難しそうだ。

みなさんの心が揺れ動いていると思うので、そこをどう私たちが捉えていくのか(髙橋さん)

・メンバーの一人、上野ヒデさん。津波の恐ろしさを伝えるため、遺族にはつらくても語ってほしいと考えている。上野さんも震災で夫・強三さん(享年69)と娘・芳子さん(享年33)を亡くした。

娘に先に逝かれるっていうのはつらい。逃げれば助かったものを、むざむざと命を捨ててしまった(上野さん)

・地震直後、上野さんは娘の芳子さんと町のコミュニティーセンターにいた。「津波が来るから逃げるように」と娘に伝え、高台に向かった。
・しかし町の職員だった芳子さんは役場に戻り、避難所設置の準備をした。そのとき津波に襲われた。
・上野さんは度々、津波の恐ろしさを伝えてきたにも関わらず、思いが届かなかったことを悔いている。

口で言っても伝わらない。私自身伝わらなかった。津波っていうのはこうだよっていうのを。例えば明治の津波も父親から聞いた話とか、昭和の話も関わった人からずっと聞いているの。後世のために残しておきたいの記録を。だから、つらいところを我慢して、やっぱりやるべきだと思っている。つらいですよ、ほんとに。無駄な命を捨てないために、私はただそれだけでやっている(同上)

・これまで集めた650人の「生きた証」。今年中に冊子にまとめることにした。語るのをためらっている人が冊子を見て「自分も大切な人の記録を残したい」、そう思ってほしいと願っている。

<「生きた証」寄せられたメッセージ(2)>
夫から亡き妻へ(享年54)

らなければならなくなってから、ようやくありがたみが分かった。老後に全国の温泉を一緒にめぐる事を約束していたので、写真を持って車で回っています。しかし、観光地に一人で行っても面白くない。一緒にいて欲しかった。

母から亡き息子へ(享年18)

誕生日もそうだけど、とりわけ成人式がつらかった。友人が遺影を持って成人式に出席してくれました。一つの大きな節目を乗り越えることができたかな。

息子から亡き父へ(享年55)

重機の運転がうまいと、評判でした。働いている父の姿を見て、それに勝ちたいと思って同じ会社に入りました。今は父の弟子のような人たちに教わっています。20年やっているけれど、親父には勝てないと思っています。

<息子を亡くした両親、徐々に語ってくれた思い出>
・家族の「生きた証」を残すことで一歩を踏み出した人がいる。竹澤ヒメさん、竹澤得彦さん夫婦。二人は震災で息子を亡くした。
・息子の康彦さん(享年49)は知的障害があり、心臓も悪かったため、二人は殆どの時間を息子と一緒に過ごしてきた。

全然離れたことないです。いつもそばにいて。「(医者に)いつ死んでもおかしくない」って言われていた子どもだから。「20歳までは保証します。それ以後はこの子の生きる力です」(ヒメさん)

・限られた時間を大切に過ごそうと、精一杯の愛情を注いできた二人。献身的な介助は、康彦さんが49歳になるまで続いた。あの日、障害者施設から他の利用者と一緒に送迎バスで家に帰る途中、津波にのまれた。

みんな元気な子どもたちで、自分で逃げられる子だったらいいけど、障害がある子どもたちだから(得彦さん)
それが一番かわいそうで(ヒメさん)

・ヒメさんは今でも息子の食事を用意している。康彦さんがそこにいるかのように食卓を囲む。

よその人はいいかげん(食事を出すのは)やめなさいと言うけど…(ヒメさん)

・得彦さんは自宅に引きこもるようになった。一日中誰とも会わず、ひたすら装飾品を作り続ける。色鮮やかな装飾品は息子が好きだったもの。同じ作業を繰り返す日々、ヒメさんは気分が変わればと「息子の『生きた証』を語ってみない?」と勧めた。しかし…。

(康彦のことは)言わないし言うな。言ったからって康彦は帰って来ない。俺が何を言っても(他人には)分からないから(生きた証を語る)必要ないと(ヒメさん)

・頑なになっていく夫の心を解きほぐすことはできないか。ヒメさんはすがる思いで髙橋さんに声を掛けた。「生前、何かと息子を気に掛けてくれた髙橋さんの言うことなら、夫も心を開くかもしれない」。
・髙橋さんは何気ない会話で二人の心をほぐす。髙橋さんの言葉は、得彦さんの心に染みていった。
・得彦さんがポツリポツリと語った息子への思い。

いくつになっても純粋で愛くるしい存在でした。子どもの頃、家庭は裕福ではなく苦労の連続でしたが、自分の子どもには苦労させまいと家族の絆を特に大事にしてきました。学園の工作の時間に制作したものを持ち帰ると、自慢げに見せていました。

かけがえのない息子を亡くし、すっかり気落ちし、外出もためらうようになりました。ふとしたきっかけで装飾品を作り始めました。遺影が置かれていくる空間はみるみるうちに彩られていき、アトリエかお店かと思うほどになりました。なぜ装飾をつくるのかといえば、康彦が喜ぶからです。この部屋でいつも康彦と対話をしています。


・得彦さんは今、庭いじりをしたり散歩に出掛けたりするようになった。そして何よりヒメさんに温かい言葉を掛けてくれるようになったという。

<震災から6度目のお盆を迎えて>
・震災から6度目となる盆。犠牲となった人たちの供養が行われる。地震の時刻に合わせ、遺族たちが寺に集まっていた。
・妻の「生きた証」を残した東谷さん、息子の思い出を胸に夫と手を携える竹澤さん。残された家族全員が前を向ける日まで、髙橋さんは寄り添って生きるつもりだ。

私たちのご先祖たち、父さん、母さん、おじいちゃん、おばあちゃんは、何度も繰り返している津波の中、どんなつらいことも、困難もやっぱり歯を食いしばって一生懸命、乗り越えて生きてくださったからこそ、今の私たちに命がつながっていると思う。私たちもここで負けるわけにはいかない(髙橋さん)

(2016/9/7視聴・2016/9/7記)

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