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【NNNドキュメント’16】3.11からの夢 よそ者の私ができること

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【NNNドキュメント’16】
「3.11からの夢 よそ者の私ができること」

(日本テレビ系列・2016/9/12放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 東日本大震災から5年半。被災地を取材し、現地の人たちと交流しながら「あなたの夢」を聞き取るという作業。私も被災地を何度か訪れ、多くの人たちと触れ合ってきましたが「夢」どころではないという人も当然いるわけで、彼女が抱えた葛藤は分かる気がします。

 でも、時間の経過と気持ちを寄り添うことで分かり合えることはあると思います。光さん、いい経験をしましたね。そしてこの本、私もぜひ読んでみたいと思います。


3.11からの夢

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・「あなたの夢は何ですか?」――彼女の仕事は夢を集めること。それを1冊の本にする。
・しかし、被災地は命が奪われ希望が失われた場所。よそ者である自分、彼女はそれでも被災地に足を運び続けた。
・あの日から5年半、彼女と出会った東北の人たちは、もう一度夢を描き始める。

<京都の出版社の女性編集者>
・京都にあるいろは出版。2年目の編集者、末永光(24)。

末永が入ってきたから、この企画をやろうっていう感じでした。もともと初めから厳しい企画っていうのは分かっていたし、本当に重たいテーマを乗り越えられないと多分できないので。この子だったら乗り越えられるからお願いした(いろは出版編集長・当時の大塚啓志郎さん)

・東日本大震災が起きた年、光は大学生だった。入社後すぐに任されたのが3・11の企画。悩んだ末、震災から始まった夢を集めることに決めた。
・これまでにも夢の本を制作してきたいろは出版。「1歳から100歳の夢」は10万部を超えた。一人でも多くの人を笑顔にすることが会社の方針。
・今年1月、光は自らが取り組む本の内容について社員に説明する機会が与えられた。

「3・11からの夢」は、そのタイトル通り3・11から始まった夢というのを聞いた、夢の本になっています。内容としては震災を始まりに変えて歩き出した30人の夢。被災地だけじゃなくて、本当に日本中を2年間かけて巡って夢を集めて来ました(光さん)

<ある少年の夢は発明家になること>
・東北には縁もゆかりもなかったけど、取材にかけた日数は2年間で延べ156日間にも及んだ。宮城県山元町は、これが10回目の訪問。光は一人の少年に夢を聞くことにした。
・佐藤禅介くん(10)が住む町は津波で大きな被害を受けた。町の4割近くが浸水、636人が亡くなった。当時4歳、お母さんと車に乗っていたとき大きな揺れに襲われた。高台の家は無事だったけど迫ってきた津波のことは、はっきりと覚えている。

3月11日からの夢は発明家です。理由は震災があってたくさんの人がいなくなったから、人を守れるものを作りたいと思ったからです。災害救助型ロボットとかですね。できれば大学とかに入って勉強したりして、大人になって発明家になったら、発明するための材料とかもお金がかかるので、まず働いたりしてお金を貯めてから発明家になって作ろうと思います。誰とかも関係なくたくさんの人を、一人でも多くの人を助けたいです(禅介くん)

<取材先で出会った女性>
・東北へ取材に行くと必ず会いに行く人がいる。禅介くんと同じ山元町に住む岩佐孝子さん(62)。みんなから「たかちゃん」と呼ばれている。世話好きで子どもが大好きなたかちゃん、毎朝通学路で子どもたちに声を掛け見守り活動を続けている。
・取材に行くといつもお弁当を用意してくれる。長年、町役場に勤め、公民館の館長をしていたたかちゃん。地元の人とはみんな顔見知りだ。

職員も犠牲になったんだよね、伝えに行って(岩佐さん)
津波?(光さん)
そう。町議、亡くなっちゃった(岩佐さん)
そうなんだ(光さん)

家が1軒あったじゃないですか、東の所に。あそこの息子も亡くなったの。亡くなった人の息子が中学校の卒業式だったの。行ったことないのに「たかちゃん、俺さ、中学校、息子、最後だから行ってくるね」って前の日の夕方に言うから「行っておいで、最後でしょ。ヒロキと一緒に過ごしておいでよ」って言ったの。そしたらそれが最後だったって(岩佐さん)


・たかちゃんは震災のことだけでなく、食べ物や風習などいろいろなことを教えてくれた。頼れる東北のお母さん。

<原発事故の影響を受ける浪江町へ>
・去年12月、福島県浪江町。原発事故の影響で町の全域が今も避難指示区域となっている。光は初めて足を踏み入れた。
・放射性物質による汚染を取り除く作業。先はまだ見えない。人けの全くない町を目の当たりにして、思わず逃げ出したくなった。
・夢を聞くことは愚かで浅はかなことなのか。

<気仙沼の高齢女性から話を聞くと>
・宮城県気仙沼市に住む熊谷カヨさん(87)は津波で家を失った。愛犬も津波にのまれた。大切なものを一度に奪われたカヨさんの夢。

健康で老後をしたいと思います。娘のあまり邪魔にならないように、あと何年か…うんうん(熊谷さん)

・夢を語った後、カヨさんは当時の記憶をしゃべり始めた。

屋上から我が家が流れるのを見たんですね。はぁ、流れたねぇ、流れたなぁ…。忘れられないねぇ。姪の一家も死んだし、その姉の旦那も本当に本当に…(同上)

・取材の後、日比康二カメラマンが言う。

夢を聞くために、一回当時のことを思い出させてしまう。思い出して、後の夢を考えてもらう作業をしてもらうんで、一旦そこで悲しませてしまう。思い出させてしまう(日比さん)

普通に暮らす分には普通に思い出さなくていいことなんですよね(光さん)


<福島県内で製造業を営む社長は>
・福島県大玉村で製造業を営む男性を取材したときのことだった。向山製造所社長の織田金也さん(51)。

寝た子を起こすようにね、あぶり出して、嫌な思い出をもう一回っていうことだけのために僕は必要ないんじゃないかなとかね(織田さん)

・もともと電子部品を作る会社。リーマンショックの後、社長は従業員の雇用を守るためにキャラメル作りも始めた。震災の3年前のことだ。福島産にこだわった生キャラメルは、国際線のファーストクラスのスイーツにも選ばれた。けれど震災で状況は一変、福島ということだけで売れなくなった。

福島の場合はね、違った問題があるから。みんなかわいそうだっていって哀れんでくれてさ、いろいろ「かわいそうね、かわいそうね」って、いろんなことやってくれるかもしんないけど。そうでもないのよ。今日会っても分かるじゃない。誰もそんな悲壮感の中で生きてないじゃん。みんな普通に、変わらないと思うよ、京都に住んでいる人たちと。ただみんなが哀れんでくれているだけで(同上)

・取材の後、光さんが言う。

いろいろ、その人らと話すときに「見たの?」って言われるんですよ、その津波の被害とか。「見てないです」って言ったら「だからそんなことできるんだね」とか言われたりして(光さん)

・一体、誰のための何のための夢なのか。出版は予定より1年も遅れ、経費は1000万円を超えた。よそ者の私に本を作ることはできないのかもしれない、光はそう思っていた。

<気仙沼のコロッケ屋さんのおばあちゃんの夢は>
・取材は行き詰っていた。それでも光は被災地へ。
・去年の3月11日のことだった。たまたま入った気仙沼のコロッケ屋さん。おばちゃんのふとした言葉が流れを大きく変えた。

おばあちゃん、コロッケ屋さんで働いていたので、朝ごはんを食べに普通に話しに行きました。で、何げなく「おばあちゃん夢ある?」みたいな話をして。そしたら初めは「もう何もなくなっちゃったし、夢なんてないわ」みたいな話をされたんですけど、いろんな話をしていくうちに「船で世界一周してみたいかなぁ」みたいなことを言ってくれて。「おばあちゃん、それ夢やん」っていう話をしてたら「こんなんやったらいっぱいあるよ」って言って。「寝る前とか…ご飯食べて寝る前とかって、ついうとうとしちゃうから、そんな余計なこと考えるぐらいやったら夢考えてみるよ」って言ってくれて。「希望の宿題もらったみたいや」と言ってくれました(発表する光さん)

<子どもと一緒に福島に帰りたいという女性>
・夢を考えることは、それだけで希望なのかもしれない。光は一歩前に進んだ。
・夢を語ってくれた人は2年間で150人。横浜に住む高見美香さん(33)は、実家のある福島に戻り子育てをすると決めていた。出会った人の言葉を通して、光は自分の生き方も見つめ直していた。

復興っていう意味合いでも、やぱり戻りたいなっていうのもありますし。今、地元で元気に育っている子どもたちと一緒に育てていきたいなという思いはすごくありますね(高見さん)

<もう一度、オール福島産の生キャラメルを作りたいという社長>
・福島で風評被害と闘う織田社長の夢は、オール福島産の生キャラメルをもう一度作ること。

僕らの話、小さな話で、自分たちの思いとかっていう話を、まあ、彼女が言うもんですから一応話をしたわけですよ。説明をしたんですね。そしたら彼女はそのことを一生懸命、受け止めようとするわけですよ。この地域に来て一生懸命、話を聞こうとするわけでしょ。なぜか彼女のその熱意があって、僕も話すか話すまいかと思いながらも、ついつい話してしまう。「夢を探しに来ました」って言って。僕はそのときに夢はあったと思うんですけど、彼女から聞かれて、あたためて夢をまとめた気がするんですよ。あらためて(織田さん)

<“東北のお母さん”の夢は>
・東北のお母さん、たかちゃんの夢。子どもが生き生きと暮らせる元気な町にする。

楽しみですよ、いろんな人たちが夢を持っているからこそ、前に進めると思っているの。後ろ向きじゃなくて、前向きになれるチャンスをいただいたような気がします。後ろばっかり向いてちゃいけないかなと思ったときに、声をかけてもらってポンと背中を押してもらったような気がする(岩佐さん)

<2年の月日をかけて出版された本>
・2年の月日をかけて光が作った本が全国の書店に並んだ。本を手にした人が被災地の現実を知るだけでなく、自分の人生を見つめ直すきっかけになればと願っている。
・3・11を始まりに変えた30人の夢。
・「あなたの夢は何ですか?」

今は一生懸命やっぱり仕事したくて。何か何で一生懸命仕事したいんやろうなって考えてたんですけど。何か一生懸命仕事したら、お母さんになってから伝えられるもの多いなと思って、子どもに。って思うと、だからやってんねんなあとかは思って。(夢は)お母さんになることですね(光さん)

・この夏、光は再び東北へ。夢の続きを静かに見守っていく。

(2016/9/13視聴・2016/9/13記)

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3.11からの夢

1歳から100歳の夢

※関連ページ(NNNドキュメント)
「移住女子~私がムラを選んだ理由~」
「記憶の回廊 徘徊と行方不明者」
「18歳…生徒手帳と私の一票」
「命の砂時計 ママの“がん”どう伝える」
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「汚名~放射線を浴びたX年後~」
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【ETV特集】武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~

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【ETV特集】
「武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~」

(Eテレ・2016/9/10放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<感想>

 アフガニスタンで様々な支援活動を続けている日本人医師のドキュメント。中村医師の話は殆ど知らなかったのを恥ずかしく思いました。彼の活動はノーベル平和賞に値するほどのものでしょう。本来、彼は医療に専念して誰か土木工学の専門家がアフガニスタンで活動すればいいものを、彼自身が独学で用水路を敷いてしまうというという行動力、本当に頭が下がります。

 日本人がこういう形で貢献できるのも、日本という国が非軍事分野で世界で貢献しているから信頼を得ていたからだと思います。これが(事実上の)軍隊が乗り込んでいって行えば作業的には効率的かもしれませんが、現地の人たちの信頼は得られないし、自立心も芽生えないのではないかと思います。

 そういう意味で、中村さんのような地道な活動を各地で続けていくことが大事なのであって、決して軍事部門で手を出してはいけない。この番組を観て本当に痛感しました。

 自衛隊=軍隊の本質は「暴力機関」です。今そういうことを言うと、東日本大震災や熊本地震などの災害救助の姿を引き合いに出して、為政者のプロパガンダにまんまと感化された人たちがヒステリックに騒ぎますよね。でも自衛隊はレッキとした軍隊であり、人を殺傷する道具をもった組織であることは紛れも無い事実です。否定するなら武装解除して災害救助や人道支援に特化した組織に改組すればいいのです。

 そうすると他国が攻めてくるとか言ってますね。中国、北朝鮮、ロシア?まともな神経があったらこの時代に単純な侵略行為をする国があるとでも。万万が一そんなことがあったときは、私は祖国を守るために徹底してレジスタンス運動に身を投じてやりますよ。そんな世迷い事を信じる方がどうかしていると思いますね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

9月11日の朝、
ジャララバードから
緊急の電話があり、
米国でのテロ事件を伝えられた。
テレビが
未知の国「アフガニスタン」を
騒々しく報道する。
ブッシュ大統領が
「強いアメリカ」を叫んで
報復の雄叫びを上げ、
米国人が喝采する。
みな何かに
とり憑かれているように思えた。
私たちの文明は大地から
足が浮いてしまったのだ。
それが無性に悲しかった。
(中村哲「医者、用水路を拓く」より)


あの状態であの地域で空爆を行うというのは、現場にいる者として考えられない状態だった。目の前で人が死んでるんですよ。そういう人たちを助けに来るとか、それならまだしも。そういう人たちの上に爆弾を落とすなんて信じられないような(中村哲医師)

・このときアフガニスタンは100年に1度と言われる大干ばつに襲われていた。飢えと渇きが既に多くの人々の命を奪っていたのである。
・中村哲は医師として何ができるのか、現地で考え続けていた。

診療所を100個つくるよりも用水路を1本つくった方が、どれだけみんなの健康に役立つのかわからないと医者としては思いつきますよね(同上)

・中村は白衣を脱ぎ、乾いた大地を潤す用水路の建設に乗り出した。

アフガニスタン!
茶褐色の動かぬ大地、
労苦を共にして
水を得て喜び合った村人、
尽きぬ回顧の中で確かなのは、
漠々たる水なし地獄の
修羅場にもかかわらず、
アフガニスタンが私に
動かぬ「人間」を
見せてくれたことである。
(中村哲「医者、用水路を拓く」より)


・あれから15年。干からびた不毛の大地は今、緑の沃野へと姿を変え始めた。戦乱のやまぬアフガニスタンで干ばつと闘い続けてきた医師・中村哲の記録。

<アフガニスタンで長年、医療活動を続けてきた日本人医師>
・(NHK取材班が)中村を撮影し始めたのは1998年。中村はアフガニスタンの山岳地帯に新たな診療所を建てようと考えていた。

あなた方が脈々と守ってきた文化があることは知っています。それを踏みにじるつもりは決してありません(中村)

私たちを気まぐれで助けて、すぐに去ってしまうのではないですか(現地の男性)

私がいつか死んだとしても、この診療所は続けていく覚悟です(中村)

・この地で長年にわたり医療活動を続けてきた医師・中村哲。中村とアフガニスタンの出会いは、今から32年前に遡る。1984年、国際医療NGOの医師としてアフガニスタンの隣国パキスタンに派遣された。そこで出会ったのが、戦乱の続くアフガニスタンから逃れてきた難民たち。ふるさとに戻っても医師も診療所もないと知った。

まあね、この…普通のドクターだとか医療関係者でね、この状態を見てほっといて逃げれるという人は、どうかした人でしょうな。他に誰もいないならね、やっぱり目の前で困っている人を見捨てるわけにはいきませんよね(中村)

・1991年、中村はアフガニスタンに診療所を開設し、医療活動を始めた。拠点としているのは東部のナンガルハル州。しかし活動はやがて一つの壁にぶつかることになる。
・2000年の夏、中村のもとに深刻な症状の子どもが次々に運び込まれた。

いつからですか(中村)
5、6日前からです(患者の親)
突然こうなったのですか(中村)
顔も胸も腰も全身です(患者の親)
接触性皮膚炎ですね(中村)


基礎に栄養状態が良くないというのがあります。それから衛生状態が良くないと。水で洗うだけでかなり良くなるんですが、しかし今それがなかなか言えない状態であるというのは、水そのものが欠乏している。こういうところにも影響が出てきているということでしょうね(中村)

・原因はアフガニスタンを襲った歴史的な大干ばつ。中村が村を回ると、飲み水のための井戸が完全に干上がっていた。水が出る数少ない井戸には人々が殺到し、僅かな水を巡り争いが生じていた。
・干ばつは農業にも壊滅的な打撃を与えた。全国で400万人が飢餓線上を彷徨った。

<3・11テロとアフガニスタン報復戦争>
・そんな中で起きたのがアメリカでのテロ事件だった。アメリカはオサマ・ビン・ラディンの潜伏先とされたアフガニスタンを報復攻撃。中村と日本人スタッフは隣国パキスタンに避難した。中村は当時の胸の内をこう綴っている。

「自由と民主主義」は今、
テロ報復で
大規模な殺戮戦を
展開しようとしている。
おそらく、累々たる罪なき人々の
屍の山を見たとき、
夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、
報復者その人であろう。
瀕死の小国に
世界中の超大国が束になり、
果たして何を守ろうとするのか、
私の素朴な疑問である。
(中村哲 手記より)


・空爆開始から3か月の2002年1月。タリバン政権が崩壊すると、中村はアフガニスタンへ向かった。パキスタン側の国境付近は、空爆によりふるさとを離れたアフガン難民たちであふれかえっていた。
・難民たちに対し、国連は帰還プロジェクトを開始する。1家族あたり現金100ドルと食糧を配給し、アフガニスタンへの帰還を促した。これにより周辺国にいた380万人のうち約半数の180万人が復興への希望を胸に帰国した。
・しかしアフガニスタンで中村が目にしたのは、途方に暮れる村人たちの姿だった。豊かな穀倉地帯だっったナンガルハル州の田畑には、何一つ実りがなかった。

ここには全く水がない。これでは農業ができない(現地の男性)

生活するためのものが何一つありません。ここでは暮らしていけません(別の男性)


・生きるすべを絶たれ、復興どころではなかった。

この干ばつは長老に聞くと、数世紀なかったと思われるくらいひどい。こういう地域がアフガニスタン全土に散らばっているとすれば、当然食えない人がカブールだとか大きな都市に留まるか、あるいはまた難民化、再難民化するという現象がもうすでに始まりつつあるわけですね。だから160万人帰ったからといって良かったでは済まないと思いますね(中村)
(今、一番必要なことは?)
はっきり言って食うことですね。他のことは語弊がありますが贅沢な部分としか私はこの状態を見れば思えないですね(中村)

<白衣を脱ぎ、用水路の建設を決意した理由は>
・中村は白衣を脱ぐ決意を固めた。食糧と水こそがアフガン復興の礎。用水路の建設に乗り出すことにしたのだ。彼のもとには活動を支えてきた日本のNGO「ペシャワール会」に寄せられた寄付金約3億円があった。

食糧生産が上がらないから栄養失調になる。それから水が汚い。下痢なんかで簡単に子どもが死んでいくわけですね。そういう状態を改善すれば医者を100人連れてくるより、水路を1本つくった方がいいですね。病気の予防という観点からすれば、水路1本が医者何百人分の働きをするわけで、これも医療と命を大切にするという意味では理屈ではなく、直結しているわけですね。もちろん医療が無駄だとは決して言わないけども、背景にあるものを絶たないと決して病気は減らない、悲劇は減らないですね(中村)

・中村が用水路の水源として目をつけたのは、アフガニスタン有数の大河クナール川。7000m級の山々が頂く氷河を源流とするこの川は、干ばつの中でも1年を通じて枯れることがなかった。
・クナール川の水を用水路で荒れた田畑に引き込むことができれば、農業が再開できるのではないか。中村は設計図の制作に取りかかった。しかし土木技術や用水路に関する知識は全くない。日本の専門書を参考に自分で図面を引いた。まずは最初の2年で12kmの用水路を開通させることを目標にした。

完璧な用水路を作ろうとすれば5年から7年かかる。重要なのは早く水を引いて難民たちを故郷に戻すことだ。とにかく早くやろう。無謀な計画だと恥じることはない(中村)

・中村の構想「緑の大地計画」。用水路はクナール川を出発点に干上がった大地を通って、最終目的地ガンベリ砂漠を目指す。完成すれば約3000ヘクタールの田畑を潤すことができ、10万人の生活を支えられる。無謀とも思える計画にスタッフから不安の声があがった。それでも中村の意志が揺らぐことはなかった。

毎日、数百人の子どもが命を落としています。さらに多くの人が水不足のために病気になっているのです。私たちの目的はただひとつ。自分たちで食べていけるようにすること。この用水路建設にアフガニスタンの未来がかかっている(中村)

・2003年3月、ついに緑の大地計画が動き出した。足りない人員を補うため、中村は周辺の農民たちに参加を呼びかけた。
・半信半疑ながらも田畑が蘇ることに一縷の望みをかけた農民たちが協力を申し出た。参加する農民の数は日に日に増えていった。噂は広がり、難民キャンプなどに避難していた人々が遠くからも通い始めた。
・働いた人たちには約240円の日当が支給された。干ばつで農作業ができない彼らにとって、家族を養う唯一の支えとなる。
・中村は用水路の出発点となる取水口の工事に取りかかった。取水口とは川から用水路に水を引き込む入口、失敗すれば用水路に水は流れない。ここで最も重要なのが水を安定して引き込むための仕掛けづくりだ。
・用水路に水を取り込むには、川の中に構造物を造る必要がある。それによって川の水が押し上げられ、用水路に水が流れる。この構造物を「堰」という。
・この日、中村は取水口の上流に堤防を築いていた。堤防で遮ることで川の流れを中州の向こうに押しやり、堰の建設地に水が来ないようにしようというのだ。そうすれば堰の工事をスムーズに行うことができると考えた。
・川に次々と土砂を投入していく。中州まであと20m、ここで予想もしない事態に陥った。これ以上、堤防が延びなくなってしまったのだ。いくら土砂を入れても流され、積み上がらない。中州との距離が縮まり川幅が狭くなると、川の流れは予想を超える激しさとなっていった。
・中村は次の手を打つことにした。重さ800kgのコンクリート資材、これならば流されずに川底に留まるはず。しかしクナール川の急流はそれさえも押し流した。圧倒的な大自然の威力に、中村は設計を見直さざるを得なくなった。
・計画では次の春までに取水口を完成させることになっている。残りあと2か月。
・春になり雪解け水が流れ始めると水の勢いは更に増し、工事は次の冬まで先送りするしかなくなる。
・一方、用水路の入口では護岸工事が進められていた。強い水圧から守るため、中村は「蛇籠」を取り入れた。江戸時代から日本で使われていた伝統的な治水技術だ。鉄線で編んだ籠の中に石を敷き詰めた簡単な構造だが、その強度はコンクリートに劣らない。石と鉄線さえあれば造れるため、壊れてもアフガン人自ら補修できるのが最大の利点だ。

農民全員が石工といってもいいぐらい日常生活の中に石造りのものが溶け込んでいまして、自分たちの家、畑の垣根、そういうのも全部自分たちで石で造るんですね(中村)

・今後、用水路を現地の人たちが維持・管理していけるよう、中村はあえて伝統的な工法を選び取っていた。
・この頃、アフガニスタンではタリバンが再び活動を活発化させ、治安が悪化していた。中村が活動するナンガルハル州でもタリバンと米軍による戦闘が散発していた。建設現場の前をテロ掃討作戦に向かう米軍の装甲車が頻繁に通るようになり、作業員に緊張が広がった。
・中村はあるとき米軍のヘリコプターから突然、機銃掃射を受けた。

私が見たのは5機だった。そのうち2機がプロペラ1つのやつでしたね。攻撃用っていうんですかね。それが旋回してきて、ここを機銃掃射したわけですね、危なかった(中村)

・戦乱の中でも干ばつとの闘いは続いた。中村が頼りにするのは、40度を超える炎天下でも働き続けるアフガニスタンの男たち。
・もともとタリバンの戦闘員だった者や、かつて米軍に協力していた元傭兵たちが、今は武器をツルハシに持ち替え加わっている。

自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ(男性)

農業ができるようになれば、子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに家族と一緒に暮らせるんだ(別の男性)

極端な話が今、治安が悪いって言ってますけれども、泥棒に入る人だって強盗に入る人だって、別に遊び金が欲しいわけじゃないんですね。家族を食わせるために人のものに手を出したり、米軍の傭兵になったり、あるいはタリバン派、反タリバン派の軍閥の傭兵になったりして食わざるを得ない。やむを得ずそうするけども、決して誰も望んでいない。とにかく平和に家族がみんな一緒にいて、飢饉に出会わずに安心して食べていけること。というのが何よりも大きな願いというか望みじゃないですかね(中村)

<乗り越えた壁はふるさとの堰だった>
・乗り越えなければならない壁がまだ残っていた。クナール川の急流の中で、どうやって取水口の工事を進めていくのか。模索し続けた中村は、ある答えにたどり着いた。

着想は筑後川の山田堰(中村)

・そのヒントは中村のふるさと、福岡県にあった。山田堰。200年以上前に完成し、現在も暴れ川と呼ばれる筑後川で崩れることなく1年を通じて安定した水量を用水路に送り続けている。重機もない時代に、どうやって先人たちはこの堰を築いたのか。
・江戸時代に描かれた建設中の山田堰の絵図、堰の先端部分が取水口から斜めに延びていることが分かる。ここに堤防で川の水を遮断しなくても急流の中に直接、堰をつくれる秘密が隠されていた。
・川の流れに対し直角に堰を築こうとすれば、まともに水圧を受け堰は壊れやすくなる。川の流れに対し斜めに堰を延ばすことで、水の抵抗を分散しながら工事を進めることができるのだ。
・中村は堰の工事に取りかかった。山から巨石が次々と運ばれてくる。この巨石を山田堰に倣い、川の流れに対し斜めに置いていく。巨石が川底に留まり堰となる。急流の中でも堰は順調に延びていった。
・つくり始めて1か月、工事は山場を迎えた。これから川の一番深い地点に堰を延ばさねばならない。選りすぐりの巨石を投入する。石が水面から消えてしまった。水深は優に5mを超える。次々と巨石を投入する。
・16km離れた山から重機に載らないほど大きな石を転がして運んできた。重さ約5トン、ようやく巨石が水面に姿を現した。一番深い部分が巨石で埋まり、ほぼ予定の地点まで到達した。

(一番大変なところは乗り切った?)
一番深いところは越して。やっぱり急がば回れで、江戸時代の技術書に書いてあった通りですね(中村)

・全長220mの斜め堰がクナール川に姿を現した。これで取水口の準備は整った。設計を見直してから2か月、川の水位が増す雪解けの季節にぎりぎり間に合った。果たして、この堰でクナール川の水は無事に用水路へと流れるのか。
・着工から1年の2004年2月、用水路を1.6kmまで掘り進めたところで中村は水を流してみることにした。
・クナール川の水は水門を通って用水路へと注ぎ込んだ。水は順調に流れ、乾いた大地を潤していく。
・中村は荒野を流れる美しい用水路となるよう「真珠」を意味する「マルワリード用水路」と名づけた。
・翌日、思わぬ事態が発生した。取水口から1.2km地点の水路が決壊していた。川沿いだったため埋め立てた地点だった。

蛇籠の隙間から水が入り込んでしまいました。下が岩盤ではなかったので、泥が溶けて蛇籠が倒れたのです(現地スタッフ)

・事態を聞きつけた村人たちが続々と現場に駆けつけた。男たちの動きは素早かった。

私は呆気にとられて見ていた。
彼らは本能的に
地盤の弱点を見抜き、
改修のやり方を知っているのだ。
流水と土石の性質を
幼いときから会得し、
この乾燥地帯で生きる術を
身につけているとしか思えない。
現地農民の驚くべき勘と根気は、
今後の作業を進める上で、
大いなる自信を与えたのである。
(中村哲「医者、用水路を拓く」より)


・その後も用水路を掘り進め、出来た所から水を流していった。

<用水路が完成、多くの人びとに恵みを運んだ>
・着工から7年の2010年、用水路は遂に最終目的地ガンベリ砂漠に到達し、総延長25kmの用水路が完成を迎えた。
・中村は用水路の両岸に柳を植えた。柳の根は蛇籠の石の間を通って根を下ろし、護岸の役割を果たす。せせらぎの傍らに涼しげな緑陰が広がった。
・そして、春。用水路周辺には緑の小麦畑が一面に広がっていた。干ばつにより干上がった大地が広大な緑の畑へと姿を変えた。
・ふるさとを離れていた人たちが続々と戻り始めた。

昔は毎日のどが渇いて死にそうだったけど、水が来て暮らしが180度変わったよ。今は草花がいっぱいで、こんなに美しい自然があふれている(男性)

・実りの秋。かつて不毛の地だったガンベリ砂漠に黄金色の稲穂の波が広がっていた。これまで用水路を掘り続けてきた男たちは今、米の収穫に汗を流す。

稲刈りするには、もっと体力をつけなきゃ(男性)

まさか砂漠で稲刈りができるなんて思ってなかった。このことを人に話しても信じてもらえないんだ(別の男性

・マルワリード用水路は5つの村落にまたがり、約10万人の人々に恵みを運んだ。

吾々は次の世代に
何を残そうとするのか。
沙漠が緑野に変わろうとする今、
木々が生い茂り、
羊たちが水辺で憩い、
果物がたわわに実り、
生きとし生けるものが
和して暮らせること、
これが確たる恵みの証しである。
世界の片隅ではあっても、
このような事実が
目前で見られることに感謝する。
(中村哲 手記より)


<モスク、学校づくりを進める>
・さらに中村は村人たちのたっての希望を受けて、ある施設の建設に取りかかった。イスラム教の礼拝所、モスクとマドラサと呼ばれるイスラム神学校だ。
・アフガニスタンの人たちにとってモスクは礼拝の場であり、心の拠り所でもある。人々が集い、時に村人同士の揉め事を解決するなど地域コミュニティーの中心的な役割を果たす。

本当に嬉しいです。モスクが出来ればお祈りができるし。本当に素晴らしいことをしてもらって、みんな喜んでいます(男性)

・この頃、米軍などがモスクやマドラサをテロリストの温床と見做し空爆していた。中村がそうした風潮にあらがい、地元の人々の依頼をあえて引き受けたのには理由があった。

水が来た時も勿論喜びましたけど、モスクが建つと聞いてもっと喜んだんですよ。「これで解放された」と言った。どういうことかと言うと、それまで自分たちが営んできた伝統的な生活が全て外国軍の進駐によって否定されてきたわけですね。イスラム教徒であることが悪いことであるかのような一種のコンプレックスが(村を)支配していたんですね。しかも周りがイスラム、イスラムって、何かもう蛇蝎のごとくというムードの中でね、やっぱり地元の人が元気が出るにはというのはありましたよね。一肌脱ぎましょうかと(中村)

・着工から2年、25kmの用水路の中央に位置する集落に収容人数800人の巨大モスクが誕生した。
・マドラサには約600人の子どもたちが通っている。授業料は無料で、イスラム教の他、国語や算数などの一般科目を学ぶことができる。この日行われていたのは、3年生の国語の授業。

「地雷は 人間にとって 隠れた 敵です」

・子どもたちは一語一語、身の回りにある危険について学んでいた。

地雷を見つけたらどうしますか?(先生)
近寄らない!触らない!(子どもたち)


・何の勉強が好きかと聞くと、全部です!と元気よく答える子どもたち。また算数が好きだという子、コーランの勉強が好きだという子もいた。

子どもたちは医者や科学者、技術者になるため頑張って勉強しています。この国の復興に貢献したいと思っているのです(先生)

・この日、用水路とモスクやマドラサの完成を祝う式典が開かれた。

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアフガン国民、そしてナンガルハルの人々のために、みなさん、ありがとう。万歳!(男性)

・中村はモスクとマドラサの運営を地域の人たちに託した。
・2015年。アフガニスタンで用水路の建設を始めて12年、マルワリード用水路は更に延び、総延長27kmとなった。
・かつて死の谷と呼ばれ、草木一本育たなかったガンベリ砂漠は、広大な緑の大地へと生まれ変わった。

<医療活動の延長が平和につながる>
・村では農作物の加工が始まった。工場では畑で穫れたサトウキビから砂糖を精製。長く途絶えていた地域の特産品・黒砂糖が蘇った。

甘くて美味しいよ(男性)

・畜産も再開。チーズなどの乳製品の生産が始まっている。さらに週末には市が立つようになり、再び賑わいを取り戻し始めている。
・この地域の村人の多くが、用水路が出来たことで治安が良くなり平和が戻ったと実感している。

人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません。仕事がないからお金のために戦争に行くんです。おなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません(男性)

・干ばつの中、母親の胸の中で次々と命を落としていった子どもたち。それから15年、白衣を脱いだ中村が追い求めてきた平和な光景が広がっていた。

これは平和運動ではない。医療の延長なんですよ。医療の延長ということは、どれだけの人間が助かるかということ。その中で結果としてですよ、結果として確かに我々の作業地域60万人前後の地域では争い事が少ない、治安がいい、麻薬が少ないということが言えるわけで、これが平和への一つの道であるという主張は私、したことは少ないと思います。ただ、戦をしている暇はないんですよと。戦をすると、こういう状態がますます悪くなるんですよと。それには、やっぱり平和なんですよ。それは結果として得られた平和であって、平和を目的に我々しているわけではない(中村)

<用水路づくりのシステムは各方面で役立つ一方、新たな脅威も>
・マルワリード用水路をはじめ、これまでに中村が工事や修復を手がけた用水路は計9か所。ナンガルハル州の3つの郡にまたがっている。
・これらの用水路によって潤う田畑の総面積は1万6000ヘクタール。実に60万人の人々の命を支えている。
・中村がつくる用水路のシステムは、東部ナンガルハル州に根づき始めた。国連機関やJICAとの連携も始まっている。

あなた(中村)は本当に真摯に建設をしてくださった。今までこれほど真剣にやってくれた人はいません。本当に感謝しています(男性)

ここには水がなく、お金もなく、食べ物もありません。しかし大事なのは生きることです。命こそ大切なのです。必要なのは武器や軍隊ではありません。ですから、私たちはこれからも支援を続けていきます(中村)

・しかしこの用水路の恩恵を受けているのは、アフガニスタン全体の人口の2%にすぎない。国連は2014年、国民の約3分の1が干ばつによる食糧不足に直面していると警告した。
・さらにアフガニスタンは今、新たな脅威に直面している。イスラム過激派組織IS(イスラミックステート)の台頭だ。中村が活動するナンガルハル州でもISは勢力を拡大している。その影響により、都市部に逃げてくる農民が後を絶たない。

ISの勢力はすぐ近くの村まで来ていて、略奪を行っています(男性)

ISは「話がある」と言って私の弟を外に連れ出し殺しました。村人の多くが殺されたり連れていかれました(別の男性)


・ISが勢力を拡大している地域は、干ばつのひどい地域と重なり合っていると中村は語る。

私たちの作業地で食べ物が十分に取れて自活できるようになった所ではそれほど強くないんで、やっぱり食べられない。そのために傭兵になる、という形で勢力が活発になっていくということはあるんじゃないかと思いますね。これはISだけではなくて、普通いわゆる政治勢力と一般的に言ってもいいですけども、我々は誰も敵にしないというスタンスで対応していきたいと思っています(中村)

・勢力を拡大するISに対し、アメリカを中心とした先進諸国は空爆で対抗しようとしている。今年8月にはアフガニスタンでも空爆が実施された。9・11テロから15年、出口の見えない戦争が続く。

<後継者づくりを進め、これからのアフガニスタンの未来を見据えて>
・中村は今、用水路のノウハウをアフガニスタン全土に広めるため、新たなプロジェクトを立ち上げようとしている。マルワリード用水路沿いに用水路建設の専門家を育てる職業訓練校を設立する計画だ。
・現在、学校で使用する教科書を作成中。アフガニスタン全土から生徒を募り、現地の若い専門家を育てるつもりだ。

これは長いプロセスが必要で、10年、20年、30年、東部だけではくて北部、西部にも広がる可能性はあります。自分はそんなに長生きしないので、それまでに研修体制を整えて、あとは自分たちでつくれるように。文字通り独立していくということですね。それを今、望んでいます(中村)

・干ばつと戦乱が続くアフガニスタンと向き合い続けてきた医師・中村哲、69歳。人々が緑と平和な暮らしを再び取り戻す日を夢みて、この地に立ち続ける。

作業地の上空を盛んに
米軍のヘリコプターが
過ぎてゆく。
彼らは殺すために空を飛び、
我々は生きるために地面を掘る。
彼らはいかめしい重装備、
我々は埃だらけのシャツ一枚だ。
彼らに分からぬ
幸せと喜びが、
地上にはある。
乾いた大地で水を得て、
狂喜する者の気持ちを
我々は知っている。
水辺で遊ぶ
子供たちの笑顔に、
はちきれるような
生命の躍動を
読み取れるのは、
我々の特権だ。
そして、これらが
平和の基礎である。
(中村哲 手記より)


(2016/9/14視聴・2016/9/14記)

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【にっぽん!歴史鑑定】家康が恐れた妖刀村正

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【にっぽん!歴史鑑定】
「家康が恐れた妖刀村正」

(BS-TBS・2016/9/12放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 「妖刀村正」を巡るエピソードという、なかなかマニアックで面白い話なんですが…TBSさん、毎回この番組を観ていて非常に気になるのが一つあります。それは再現VTRの役者さんたちの「カツラ」。


 今回の家康さんは酷かったですね、カツラの線、付け髭も目立ちすぎますよ(苦笑)
 衣装・美術担当の方、ちょっと何とかならないでしょうか…。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・愛知県名古屋市にある徳川美術館。徳川家康のほか、尾張徳川家を中心とした1万点以上の品を所蔵する美術館で最も人気があるものといえば、今ブームを沸き起こしている刀剣。
・中でも人々を惹きつけてやまない刀が「刀銘村正」。室町時代につくられ家康自ら所持していたといわれる名刀。その一方で村正は数々の伝説に彩られた不思議な力を宿す妖刀としても知られている。
・まさにそう思わせるような妖しい刀の佇まい。
・凄まじい切れ味と得体のしれない力を秘めた村正を心底恐れた男がいた。刀の持ち主である徳川家康その人だった。
・刀匠村正が鍛え上げた執念の日本刀。一体この刀の何が家康を恐れさせたのか。家康との不吉な因縁とは。
・村正を持つべからず。徳川に仇をなす妖刀伝説は家康の自作自演だった。その驚きの真相とは。
・流れる木の葉が真っ二つ。数ある日本刀の中で指折りの切れ味を持つと言われる村正に、どんな秘密が隠されているのか。
・村正が江戸幕府を滅ぼした?幕府滅亡と村正の知られざる関係にも迫る。

<名刀村正と徳川家康との因縁とは>
・日本刀を代表する村正は室町時代から江戸時代初期にかけて伊勢国桑名で作られた。凄まじい切れ味を誇り、武将たちがこぞって求めた刀でもあった。そのバリエーションは幅広く、刀はもちろんのこと短刀、脇差、さらに槍にまで及ぶ。
・さらに村正の魅力の一つが刀の姿。刃の模様である刃紋の表と裏が揃い、そのシンメトリーな美しさを際立たせている。
・そして刀身の前方で反る先反りは、振り下ろしたときの一気に肉に切り込む実戦的な形、武士に愛された所以だ。
・そんな村正と家康にはどんな因縁があったのか。それは天文18年(1549年)のこと。家康がまだ7歳で、駿府の今川家に人質に取られていたとき。驚きの知らせが飛び込んできた。三河国岡崎城主だった父・松平広忠が、謀反を企てた家臣の岩松八弥に刺し殺されてしまった。
・このとき岩松が握りしめていた刀が村正だった。父の命を奪った憎き刀、しかも村正の災いはこれが初めてではなかった。遡ること14年の天文4年(1535年)、家康の祖父・松平清康の異様な死。宿敵である織田家との合戦のさなかに忌まわしい事件が起きた。家康以前の徳川家の歴史を記した「三河後風土記」にはこう記されている。

清康君守山の御陣屋にて
千子村正の刀にて御肩より
左の脇まで一刀に切られ給ふ


・祖父もまた家臣に村正で斬り殺されていたのだ。
・時は流れて天正7年(1579年)、家康が37歳のときのこと。村正との忌まわしい因縁が蘇る。清須同盟によって盟友となっていた織田信長に、あろうことが正室の築山殿と嫡男・信康が武田家と内通していると疑われ、二人の処分を迫られた。
・22年間、家康に仕えてきた妻・築山殿。そして優秀な跡継ぎの信康。この二人を失うことは自らの身を切るより辛いことだった。しかし徳川家を守るためには仕方がない、家臣たちが築山殿を惨殺した。このときの刀が奇しくも村正。
・その半月後、家康は信康に対し切腹を命じた。まだ21歳の若さだった。家臣から我が子の死の報告を受けた家康は悲しみの中、ふと思い出したようにこう聞いたという。

「介錯に使った刀は誰の作か」
「村正でございます」


・またしても村正。なぜに村正は祖父、父、妻、息子と身内の命を奪い続けるのか。次はまさか自分では…。恐れをなした家康はこう家臣に命じた。

さてもあやしき事もあるものかな
いかにしてこの作の当家に
障りある事かな
この後は差料の中に
村正があらば皆取り捨てよ
(「徳川実紀」より)


・村正は呪われた刀であるとして、家臣が持つことを禁じた。こうして村正は徳川家に仇をなす刀として知られるようになり、いつしか妖刀と呼ばれるようになった。
・密かに天下取りを狙う家康にとってこの先、村正はどんな災いをもたらすのか。そんな家康の不安が現実のものとなる事件が起きた。
・関ヶ原の戦いで東軍に加勢し武功をあげた織田長孝を褒めたときのことだった。聞けば長孝の槍は鎧を着けた敵将を刺しただけではなく背中まで貫通し、刃こぼれ一つなかったという。
・家康がその槍を見分しようとしたとき、ふとしたはずみで槍を取り損ない手に傷を負ってしまった。まさかと思い聞くと、その槍は村正だった。
・それを知った家康は槍を叩き折ったとも、怒って立ち去ったとも伝えられている。家康と村正の不思議な因縁、遂に家康は村正に命を狙われることになる。

<大坂夏の陣 家康に突撃した真田信繁が手にしていたのは>
・慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣。家康は豊臣家を滅ぼすため、最後の戦を仕掛けた。その前に立ちはだかったのが打倒・家康に執念を燃やす豊臣方の武将。後に日の本一の兵と言われる真田信繁。
・決戦の舞台は大坂城。攻める徳川軍12万に対して守る豊臣軍は5万。兵力で圧倒する徳川軍。しかし信繁はまだ諦めていなかった。家康さえ倒せば敵は総崩れになると読んでいた。何が何でも家康を討ち取りたい、信繁の熱い思いは腰に差した刀に託されていた。「名将言行録」にはこう記されている。

真田信繁は家康の
滅亡を願っていて
徳川家に仇をなす
妖刀村正を持っていた


・信繁は家康への呪いを込め、村正を持っていたというのだ。そして遂に村正を使うときがやってきた。5月7日、1万5千の兵に守られた家康の本陣に、僅か3千5百の兵で信繁は決死の突撃を仕掛けた。反撃を受けながらもなお突き進み、遂に家康本陣へ。
・このとき信繁が家康に向かって投げつけた刀が村正だったと言われている。家康は間一髪、危機を逃れ命拾いしたが村正が家康を死の寸前まで追い詰めていた。

<なぜ家康自身が村正を持っていたのか>
・なぜ家康自身は徳川家に災いをもたらす村正を持っていたのか。日本中世史専攻で戦国時代の合戦や兵法に詳しい小和田泰経氏はこう指摘する。

家康自身、村正に惚れ込んで所持していたと言われていて、独占するために妖刀伝説を流したと言われている(小和田氏)

・江戸時代に「常山紀山」という逸話集があるが、その中で豊臣秀吉が五大老の刀をみて持ち主を当てたというエピソードがある。それぞれ次のような刀だったという。
・宇喜多秀家→華美な刀
・上杉景勝→長い刀
・毛利輝元→変わった刀
・前田利家→古い刀
・徳川家康→実用刀

<村正と正宗の切れ味の違いとは>
・名刀村正。天下人・家康がその凄まじい切れ味に惚れ込み、そして恐れた刀。これをつくり上げたのが伊勢国桑名で6代続いたとも言われる刀匠村正。
・初代村正が活躍した室町時代は、刀が大きな変化を迎えていた。日本刀は古代からつくられていたが、聖徳太子と言われる人物の肖像画に描かれているように、古い時代は太刀を腰からぶら下げ儀式の道具として使うことが主だった。
・それが武士の時代になり戦国の世となると、刀の鞘を腰の帯に差し込むようになる。抜き様に一気に相手を斬る、より実戦的な刀が武器として求められるようになった。
・やがて戦が頻繁に起こり、膨大な数の刀が使われるようになると武将は数十人の刀匠集団を引き連れるようになり、戦に赴いた。刀匠たちは刀をつくるだけではなく、戦で折れたり曲がったりした刀をその場で再生しなければならなかった。
・そんな時代、刀匠の村正が問いつづけたのが、実戦において求められる刀とは何か、真に強い刀とは何か、その問いの答えとしてつくったのが村正だった。
・村正は他の名刀とどこが違うのか。村正と並び称される刀匠に相州相模の正宗がいる。初代の2人が活躍した時代は大きく異なるものの、村正が正宗の弟子であったとするこんなエピソードが伝えられている。
・「どんな刀よりも切れる刀がつくりたい」村正はその技を磨くため、刀匠の頂点にいた正宗に弟子入りし、一心不乱に日々励んでいた。そんな弟子の刀をみて正宗は、村正の刀工としての将来を案じる。「この男のつくる刀は不吉である」と。
・そこで正宗は名刀とは何なのかを教えるために、互いの刀を川に突き刺した。すると1枚の木の葉が流れてきて、正宗の刀を避けるように流れていった。ところが木の葉は村正の刀に吸い寄せられ、真っ二つになった。
・正宗は「切れるだけでは真の名刀とはいえない」と諭した。必要以上に切れ味にこだわると、その心は邪気となった刀に宿る。切らなくていいものまで切ってしまうと。
・村正の刀には邪気が棲みつき、その邪気が無用な血を流してしまう。村正と正宗の目指す刀の違いがよく分かる伝説だ。
・しかし村正は自分の作風を変えようとはしなかった。では、村正の刀はなぜ正宗を越えるほどの切れ味を誇るのか。
・村正の切れ味とはどれほどのものなのか。今に残る村正は美術的価値が高く、切れ味を容易に試すことはできない。実際に村正を研いだことのある刀剣研磨師の人間国宝・永山光幹は、村正の切れ味についてこんな体験を明かしている。よく切れる刀で、しかも荒々しい切れ味。古名刀などだと研いでいて知らず知らずのうち手に食い込んで血を見て初めて痛みを感じるが、村正はこれと対照的に切ると即座に痛みを感じる。
・一体何がこの違いを生んでいるのか。かつて村正の謎を解明するため科学的な検証に挑んだ人物がいた。昭和の初期、金属学の権威として世界的に名を馳せていた東北帝国大学の本多光太郎は、切断した紙の枚数から切れ味を数値化する試験器を開発し、古来から伝わる日本の名だたる名刀の切れ味を測定した。
・すると他の名刀が一定の数値を示すのに対し、村正だけは切れ味が一定しなかったという。科学では解明できない村正の切れ味、金属学の権威をしてもその理由は分からなかった。

<解明 村正の切れ味の秘密とは>
・村正の切れ味の秘密はどこにあるのか。手がかりを求め、岐阜県関市の関鍛冶伝承館を訪ねた。鎌倉時代から700年続く関鍛冶の技を今に伝える施設。
・かつて美濃国は兼元、兼定などの名刀を生み出してきた刀の名産地。村正がつくられた桑名も元々は美濃系の流れを汲んでいたと言われている。室町時代から続く刀匠の末裔である吉田研さんは25年前、実際に村正を手にしたことがあるという。その印象は?

見た目でいうと、いかにも切れるなと。刃が高かったり低かったり、低いところだと刃紋があるかないかぐらいだった。それぐらい凄みが感じられた(吉田さん)

・吉田さんはそもそも実戦における日本刀の切れ味とは、単によく切れることではないという。

切れ味とは刃が欠けにくいことをいう(同上)

・何人もの敵を相手にしなければならない戦場では、鋭い切れ味が持続する刀が求められた。村正の切れ味がいいというのはよく切れるのはもちろんのこと何度使っても曲がらず、刀を受けても折れない丈夫なことを意味すると吉田さんは言う。

<村正はどのように作られたのか>
・古来から続く一般的な刀のつくり方は、まず材料となる砂鉄を炭の火で溶かし、刀の元となる玉鋼をつくる。その鋼をひたすら槌で叩いて延ばしていく、それをまた折っては延ばすという作業を繰り返すことで鋼を鍛え、より切れる刀に仕上げていく。
・使っていて曲がらないようにするには、刀身を硬くする必要がある。その硬さを左右するのが炭の火で溶かす際に鋼に含まれる炭素の量。少ないと柔らかくなり、多いと硬くなるため、曲がらない刀にするには炭素量を多くして硬くすればいいのだが、硬すぎると衝撃をまともに受け折れてしまう。
・そこで刀匠は炭素量の多い鋼に炭素量の少ない鋼を組み合わせることで衝撃を吸収して折れにくい刀をつくり上げる。刀匠村正は、その作業にある工夫を施していたのではないかと吉田さんは言う。
・古い時代の鋼は精錬技術が未熟だったため、鋼に含まれる炭素量が極端に多かったり少なかったりとムラがあった。刀匠村正は組み合わせる卸鉄のムラを上手く使うことで、硬すぎず柔らかすぎない絶妙な鋼をつくり、曲がらず折れずを成し遂げたと考えられる。
・さらに村正にはもう一つ、刀を強くする秘密があるという。刃文に村正の強さの秘密が隠されていた。刃文は刀の個性であり、武士たちはより美しい刃文を求めた。特に刀匠村正が活躍した戦国時代に好まれたのが刃文の高い部分と低い部分が交互に連続する波のような模様。こうした刃文は焼き入れの際に刀身に焼刃土を塗ることで生み出される。
・焼刃土とは耐火性のある土に砥石の粉や炭の粉を混ぜ合わせたもの。焼刃土を塗った刀を火で熱した後、水に入れて急激に冷やすことで刃文が現れる。その際、焼刃土を厚く塗った部分が広ければ刃文も高くなる。しかし焼刃土を厚く塗った部分は火が通りにくくなるため、刃文の高い部分は低い部分より鋼の結合が弱くなり、刀が折れやすくなる。つまり刀は刃文を美しく出すほど脆い刀になるということになる。
・ところが村正には刃文を美しく出しながら刀を強くするある工夫が施されているという。

刃文が高いところと低いところが出てくる。高いところの中にもいわゆるグレーゾーンをつくって折れにくくしているのではないか(吉田さん)

・グレーゾーンとは刃文のように見えながら地金に近い硬さを持つ中間的な部分のこと。村正の刀はこのグレーゾーンをつくることで脆い部分が減り折れにくくなっているのではないかという説もある。
・刀匠村正の計算し尽くされた緻密な刀づくりによって生み出された比類のない切れ味。良く切れ、かつ丈夫である。この2つの性質を兼ね備えた名刀だからこそ、村正は戦に命を懸ける武士たちの心を捉えたのだ。

<語り継がれる妖刀伝説 村正が幕府を救った>
・徳川家に仇をなす村正は、太平の世になっても様々な事件の影の主役として歴史にその名を刻み続けた。
・幕府の外交をまとめた「通航一覧」には、村正にまつわるこんな事件が記されていた。鎖国が始まったばかりの江戸時代初期、長崎での貿易を取り締まる長崎奉行の密輸が発覚。奉行は捕らえられ切腹を申し渡された。しかし切腹の罪状は密輸の罪ではなく別の罪にあったというのだ。

長崎奉行の自宅を調べたところ村正が24本見つかった。「通航一覧」の編者が言うには、村正について「御当家三代有不吉例」のため妖刀として禁止されていた。それが出てきたので自害を命じられたのではないか(小和田氏)

・こうしてまことしやかに幕府内で広がっていった村正の妖刀伝説が、今度は幕府の危機を救うことになった。江戸幕府の誕生から約50年後の慶安4年(1651年)、幕府は治安の乱れという問題に苦慮していた。政権の維持を図るため、反乱の可能性が少しでもある大名を次々と取り潰した結果、市中には浪人があふれ、中に生活苦から盗賊や追いはぎに身を落とす者も少なくなかった。やがて彼らは幕府に不満を持つようになった。
・そんなとき浪人たちの支持を集めたのが軍学者の由井正雪だった。正雪は幕臣としての取り立てを拒否し、塾を開いて浪人救済を唱えた。そしてこの年の4月、3代将軍・徳川家光が病死。11歳の家綱が4代将軍となると、正雪は今がチャンスと幕府の転覆を計画した。世に言う由井正雪の乱である。

・しかしこの企みは仲間の密告によって幕府に知られることになった。正雪は本当に幕府を倒そうとしているのか、その真意を質すため役人を送り込み、そのとき使われたのが村正だった。役人に村正を見せられた正雪はそれを欲し、幕府転覆計画が暴かれたという。

<なぜ村正の妖刀伝説が庶民に広まったのか>
・村正にまつわる数々の伝説は当初は武士たちの間で伝えられてきたが、それが突如、庶民の間にまで広まることになった。そこには江戸庶民の娯楽の中心だった歌舞伎が関係していたという。

「八幡祭小望月賑」という歌舞伎があり、深川の芸者を刺し殺ろすシーンで使われたのが村正だった(小和田氏)

・さらに村正が歌舞伎の中で恐ろしい力を見せつけるのが「籠釣瓶花街酔醒」。村正を持った佐野次郎左衛門がその妖力に取り憑かれ、自分を袖にした花魁の八ツ橋をはじめ次々と人を斬りつけ、100人も殺してしまうというもの。
・こうして村正は歌舞伎で過激に演出されたことで、災いをもたらす刀として知れ渡り、妖刀のイメージが定着してしまった。

<村正が江戸幕府を追い詰めた その理由とは>
・風雲急を告げる幕末、嘉永6年(1853年)、黒船が来航したことに端を発し、尊皇攘夷の思想が活発化。戦乱の世が途絶えて2百数十年、無用となっていた刀は再び武士の必需品となった。
・刀は飛ぶように売れ、中でも倒幕を目指す志士たちの人気を呼んだのが村正だった。しかし残る本数も少なかった村正は価格が高騰、本物を手に入れられず、やむなく手持ちの刀に自ら村正の銘を刻んだ者もいたという。
・そんな倒幕派の志士たちの中でも妖刀村正を特に欲したのが、薩摩藩の西郷隆盛。彼は複数の村正を手に入れるほどの収集家だったという。
・西郷のお気に入りは鉄の扇に仕込んだ村正。両刃づくりの短刀で茎(なかご)に村正の銘が刻まれている。その鉄扇の骨にはこんな詩が彫り込んであった。

七首腰間に鳴り
粛々として北風起こる
平生壮士の心
以て寒水を照すべし


・これは中国の戦国時代、衛の荊軻が燕の太子丹に頼まれ秦の始皇帝を暗殺すべく出発するときに詠んだ詩だった。荊軻が暗殺に失敗して殺されたように、自分もいつ殺されるか分からない倒幕への道。西郷の悲壮な決意を支えていたのは、徳川家に仇をなす妖刀村正だったのだ。
・そして慶応4年(1868年)4月11日、西郷を江戸城を無血開城へと導き、悲願の維新を成し遂げた。その後、西郷は新政府の中心となって国づくりを進めていくが、当時鎖国下にあった朝鮮国に対する征韓論を巡って政争が勃発。下野した西郷は鹿児島に戻ると、政府に反抗する西南戦争の総大将に担がれ、敗北。切腹し生涯を終えた。そのとき西郷が自らの腹を切り裂いた刀が村正だったとも言われている。

(2016/9/15視聴・2016/9/15記)

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美術刀剣-模造刀 刀匠「伊勢千子村正」写し

模造刀(美術刀) 名刀写し 千子村正【せんごむらまさ】

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】アメリカ同時多発テロ~ホワイトハウス 知られざる戦い~

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「アメリカ同時多発テロ~ホワイトハウス 知られざる戦い~」

(NHK・BSプレミアム・2016/9/7放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 まず、15年前のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなられた3000名近くの方に心から哀悼の意を表したいと思います。彼ら彼女らは全く罪のない人々であり、いかなる理由があってもテロは絶対に許してはいけないというのが、私の変わらないスタンスです。

 そのうえでこの事件のときのことを考えるとき、その前にアメリカが引き起こした湾岸戦争のことを思い出します。番組でも取り上げられていましたが、そのときの大統領はジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ。9・11のときのジョージ・ウォーカー・ブッシュの父親です。中東で繰り返された殺戮が憎悪の連鎖を生み、テロの温床となったことは紛れも無い事実です。

 そしてこのテロ事件の後、息子ブッシュはヒステリックで凄惨な報復戦争を引き起こしました。それがさらに憎悪を生み、未だにテロは世界から無くなりません。

 この負の連鎖を断ち切るためにはどうすればいいのか。その答えを導き出し実行できる人がいたら、ノーベル平和賞ものだと言ってもいいほど複雑で困難な状況になってしまっています。しかしそれでも、これ以上悪化させてはならない。人間の「良心」は「悪意」を上回ることを信じたい。決して諦めたくない、そう思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・2001年9月11日。あの日、ニューヨークはいつもと変わらぬ朝を迎えた。ワールドトレードセンターは、アメリカの繁栄を誇るかのようにそびえ立っていた。しかし…。アメリカ同時多発テロ事件。約3000人が命を奪われた。
・このときテロリストたちが狙った重大な標的がもう一つあった。それはアメリカ大統領官邸ホワイトハウスだった。民間人を乗せた飛行機がハイジャックされワシントンへ、ホワイトハウスは大混乱に陥った。逃げ惑う人々。
・しかもこの日、最高責任者の第43代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュは不在。それはまさにアメリカ最大の危機。ホワイトハウス秘密の地下室。政府の中枢はギリギリの決断を迫られていた。
・そのとき、人知れず戦いを続けた者たちがいた。ホワイトハウスに勤める一般の職員たち。危険を顧みずホワイトハウスに戻った男がいた。そしてみんなの命を救おうと力を尽くした男がいた。

<視点1 ホワイトハウスの番人 ゲイリー・ウォルターズ>
・様々な行政施設が集まるアメリカの首都ワシントンD.C.。大統領の館ホワイトハウスは、アメリカの自由を体現する場所だ。柵があるぐらいで高い塀もない。「人民の家」と呼ばれる。
・そこにあのテロを生き延びた男が久しぶりに訪れた。元執事長のゲイリー・ウォルターズ、ホワイトハウスに30年以上勤めてきた。

ホワイトハウスはアメリカの遺産であり、歴史そのものなんです(ウォルターズ)

・建物は地上4階、地下2階。全部で132の部屋がある。ウエストウィングは大統領が仕事をする官邸で、執務室はここにある。イーストウィングは主に大統領夫人が公務をする場所。大統領一家のための映画館もある。
・そして真ん中は大統領の公邸だ。3~4階が大統領一家の住まい。2階には来賓客をもてなす応接間や食堂がある。そして1階がウォルターズたち職員の主な仕事場だ。その数およそ90人。料理人や花屋、大工など役割は様々。
・そんな彼らを指揮していたのが執事長のウォルターズ。晩餐会の準備から大統領一家の身の回りの世話まで、あらゆる仕事に采配を振るった。ホワイトハウスに勤めて実に37年、数々の歴史的瞬間に立ち会ってきたウォルターズ。政権交代の度に職員が替わるホワイトハウスにあって、歴代6人の大統領に仕えた異例の存在だ。
・その中でも最大の出来事が、あのテロだったという。

内臓がひっくり返るような衝撃でした。とにかく悲惨でした(同上)

・あの日、ホワイトハウスで何があったのか。人々は様々な場所でテロと向き合っていた。官邸では政治家が、そして軍人が。さらに一般の職員たち。その激動の一日を関係者の証言をもとに紐解いていく。
・まずはテロ発生からホワイトハウスがその危機に気づくまでの時間。執事長のウォルターズは、いち早くその危機を察知した人物。しかし逃げずに職場に踏みとどまることを選ぶ。

【9月11日午前6時30分(テロ発生2時間前)】
・ウォルターズがホワイトハウスに出勤したのは朝6時半。その日はホワイトハウスにとって特別な日だった。

これはあまり知られていないのですが、その日の午後は野外食事会が行われる予定でした。連邦議会の全ての議員が参加するイベントです(同上)

・野外食事会とはホワイトハウスの庭で行われる毎年恒例のイベント。与野党の議員とその家族を招き、料理でもてなす。主催者は就任したばかりのブッシュ大統領、議会との交流を深める大事な行事だった。

2000人以上が参加する大がかりなものでした。わざわざ大統領の地元テキサスからバーベキューの業者も呼んでいたほどです(同上)

・この朝、ブッシュ大統領は1200km離れたフロリダにいた。その頃、ちょうど日課のジョギング中。ホワイトハウスには午後戻ることになっていた。

【9月11日午前7時35分(テロ発生1時間前)】
・ワシントンの空港の監視カメラにこんな映像が残されている。淡々と手荷物検査を受ける男たち。あのテロを引き起こしたハイジャック犯である。同じ頃、ボストンの空港にも。彼らは数人ずつに分かれ、4機の航空機に乗り込んだ。

※7:59 AA11便  ボストン発LA行
※8:14 UA175便 ボストン発LA行
※8:20 AA77便  ボストン発LA行
※8:42 UA93便  NY発サンフランシスコ行


・7時59分発の便を皮切りにテロリストを乗せ、4機は離陸した。
・ウォルターズは食事会の準備に追われる中、大統領夫人のローラと、きたる行事の打ち合わせをしていた。

私はローラ夫人とクリスマスの飾りつけの相談をしていました(同上)

・「今年はどんな飾りつけにしようか?」だが、そのとき事態は始まっていた。

航空管制官:アメリカン航空11便、呼んだか?

ハイジャック犯:我々は複数の航空機を乗っ取った。おとなしくしていれば問題ない。空港に戻る。もし少しでも変な動きをすれば、お前や航空機は無事ではいられない。

・そして航空管制官から軍に衝撃の情報が伝えられた。

航空管制官:航空機がハイジャックされ、ニューヨークに向かっている。F-16戦闘機に緊急発進を要請する。

アメリカ空軍軍曹:これは実戦か?それとも訓練か?

航空管制官:いや、これは訓練ではない。

【9月11日午前8時46分】
・ワールドトレードセンターに1機目が突入。
・そのときホワイトハウスのウォルターズは、公務で出かけるローラ夫人を見送るところだった。

警備の担当がこう言ったんです。「ニューヨークで飛行機がビルに衝突する大きな事故があったようです」とね。こんないい天気なのに、なぜそんな事故が起きるのか。航空管制システムはどうかしてしまったのかと思いました(ウォルターズ)

・不思議に思ったウォルターズはテレビを見ようとオフィスへと戻った。ウエストウィングにいた副大統領ディック・チェイニーは、机に足を放り出し呆然と映像を見つめていた。

【9月11日午前9時3分】
・ワールドトレードセンターに2機目が突入。
・この映像を執事長のウォルターズは自分の部屋で見た。

みぞおちにパンチを食らったようでした。航空システムの問題でも偶然の事故でもないと初めて悟ったんです。アメリカは狙われているとね(同上)

【9月11日午前9時37分】
・30分後、ホワイトハウスのウォルターズは更なる危機に気づいた。

玄関を出ると、ちょうど南西の方角から低い音がドンと聞こえました。見上げると大きな黒い煙と炎が噴き上がっていたんです(同上)

・ウォルターズが見た煙はホワイトハウスから3kmの距離。煙が上がったのは信じられない場所だった。3機目が国防総省(ペンタゴン)に突入。世界一の実力を誇るアメリカ軍の中枢も攻撃された。

被害の状況がよく分からないので、私は余計心配になってみんなに大声で「避難しろ!」と叫びました。これはニューヨークだけじゃない。次のターゲットはホワイトハウス、さらに議事堂もやられるとね(同上)

・「次はここが狙われる」。ウォルターズの直感だった。
・だがホワイトハウスで指揮を執るべきブッシュは、まだ遠く離れたフロリダ、小学校の授業を視察中だった。テロの第一報を聞いたときの表情が映像に残されている。7分間、無言だった。
・ホワイトハウスは騒然としていた。チェイニーたち政府の中枢は、すぐさまイーストウィングの緊急用地下室に避難。だが本館には一般の職員たちが大勢働いていた。まだ何が起きているのか誰にも分からない。だが、ウォルターズは全員に避難を指示する。

携帯電話でオフィスに連絡し、ホワイトハウスの最上階から下までくまなく部屋を回り「全員避難しろ」と指示しました(同上)

・このときホワイトハウスの意外な弱点があらわになった。その弱点に直面したのがメイド長のクリスティン・リメリック。23人の部下を安全に避難させる責任があったのだが…。

実はあのときホワイトハウスには職員の避難計画が全くなかったのです。通信手段はひどいもので、無線を持っていた人はごく一部でした。連絡を取るために出来るだけのことをしましたが、自分の無力さを思い知りました。悲しく、とても怖かったです(リメリック)

・この混乱に全く気づいていない男が1階のキッチンにいた。パティシエのローランド・メスニエ。そこにはテレビがなく、まだテロすら知らなかった。

スタッフから避難してと言われるまで気づきませんでした。冗談を言っているかと思い「やめろよ、忙しいんだ」と言ったら、私の白衣を握りしめて「ふざけないで早く逃げて!」と追い出されました。でも他の部下は2階の別のキッチンにいたんです。そこは隔離されたような場所なので、捜すのが大変なんです。心配でした。何とか助けないと(メスニエ)

・散り散りに逃げることになったメスニエ。みんなの目印になるようコック帽を被り、ホワイトハウスの前の通りに立ち続けた。
・職員が一斉に避難する中、執事長のウォルターズはホワイトハウス南のゲートに一人で向かっていた。テロの危険に気づかずにいる職員以外の人々を守るためだった。

食事会の準備をする外部のスタッフがゲートに到着し始めていたんです。ホワイトハウスにもうこれ以上、人が入るのを止めなければなりませんでした。「止まれ!中に入っちゃいけない」と言い続けました(ウォルターズ)

・切羽詰った状況で、なぜそれほど冷静な判断ができたのか。実は執事になる前、彼はホワイトハウスを警備するシークレットサービスだった。危機管理のプロならではの勘が働いていた。ウォルターズは独自にこんな指示を出している。

警官はみんなを北の公園に誘導していましたが「北に行っちゃダメだ」と言いました。飛行機が突っ込むなら南からだと思ったんです(同上)

・理由はホワイトハウスの構造。北側は2階分しか見えない。周囲に建物も多く、飛行機が突入しにくい。一方、南側は開けているうえ、建物が3階分見える。テロリストはこちらから突っ込むはずだと考えたのだ。

飛行機が突っ込めばその残骸は北側に飛んで、たくさんの人々が犠牲になります。だから「北に行くな、南に逃げろ」と言い続けました(同上)

・「ここが狙われる」というウォルターズの勘は当たっていた。

航空管制官:ユナイテッド航空93便はどこだ?

93便:緊急事態!緊急事態!ここから出ていけ!

・別の飛行機がハイジャックされ、ホワイトハウスに向かっていた。最大の危機が迫ろうとしていた。

<視点2 地下室の最終指令 ロバート・ダーリング>
・ウォルターズが避難を呼びかけていた頃、ホワイトハウスの地下に向かう軍人がいた。向かったのは政治家たちが集まる秘密の地下室。
・今回、その内部を撮影した300枚以上の写真を入手した。写っているのは、未曽有のテロを前に対策に追われるアメリカ政府の中枢メンバー。
・ここからの20分、それはあの一日の中で最も緊迫した時間となる。その地下室に居合わせた軍人、苦悩する政府の赤裸々な姿を目撃することになる。
・地下室に入ったのは元海兵隊中佐のロバート・ダーリング。今回、日本の取材に初めて応じた。

私が入ったのは国家に危機が及んだとき、大統領が指揮を執る緊急シェルターです。しかしそれがどこにあるのか正確には明らかにできない国家機密の部屋です(ダーリング)

・そこで彼は何を見たのか。当時ダーリングは、大統領の移動手段を確保する連絡係。ブッシュの動向を確認するため、その地下室に向かっていた。
・地下シェルターは第二次大戦中、核攻撃にも耐えられるよう設計された部屋だ。そこにいたのは、大統領の留守を預かるチェイニー副大統領やブッシュの側近コンドリーザ・ライス補佐官など政権の中枢にいる政治家たち。ダーリングは彼らの議論を間近で目撃することになった。

みんなバタバタとしていました。パソコンや机がずらりと並び、次々にかかる電話に対応していました(同上)

・情報収集に追われるスタッフたち。その中でフロリダのブッシュ大統領と電話するチェイニーは、かなりいらついた様子だったという。

この地下室は最新の通信機能が備わっていなかったので、電話がしょっちゅう切れていたのです。かなり前につくられた部屋なのでアナログな通信手段しかありませんでした。大統領も副大統領もイライラするばかりでした(同上)

【9月11日午前9時52分】
・一本の電話が鳴った。取ったのは、たまたまそばにいたダーリング。

ハイジャック機をピッツバーグ上空で発見。ワシントンに向かっているというのです。大変なショックでした。大型のトマホーク巡航ミサイルが狙っているようなものです(同上)

・それはサンフランシスコ行のユナイテッド航空93便。乗員乗客40人を乗せたまま、進路を大きく変えワシントンに向かっていた。計算するとあと20分で到達する。

受話器を塞いで振り向くと、副大統領がそばにいました。すると副大統領はペンタゴンに電話をかけました。国防長官を捜していたんです(同上)

・この事態に軍事力を行使できるのは、ブッシュ大統領と国防長官ドナルド・ラムズフェルドの2人だけ。大統領がフロリダを離陸し電話が繋がりにくいため、チェイニーは国防長官に判断を仰ごうとしたのだ。

でも国防長官は司令室にいませんでした。外に出ていて被害に遭った負傷者たちの救助を手伝っていたんです(同上)

・ペンタゴンでは救助活動の真っ最中。死者は100人を超え、多数の負傷者が出ていた。本来、司令室で指揮を執るべき国防長官までが持ち場を離れるほど、現場は混乱していた。
・軍への指揮権を持たないチェイニーたちは焦り始めた。予想される残り時間は18分。ホワイトハウスの周辺には緊急の警備線が敷かれた。ホワイトハウスに誰一人近づかないよう厳重警戒。
・メイド長のリメリックは怯えていた。

ちょうどこのゲートから出たところでした。突然、爆発音を聞いたんです。後ろを振り返ることもできず、そばにいた部下に「走って!」と叫びました(リメリック)

・周囲にはスクランブル発進した戦闘機の爆音が。その度、人々は爆発かと怯えた。

カオスでした。みんな叫び合っていましたが、どうしたらいいか分からない。ここでも街のあちこちでも爆発音が聞こえてきて、もう全てが大混乱でした(同上)

【9月11日午前9時58分】
・到達予想時刻まであと15分を切った。ハイジャックされた93便には罪のない多くの乗客が乗っている。どう対処すべきか。ギリギリの状況の中でチェイニーは重い決断を下した。

戦闘機が93便を追跡しているという連絡が入ると、彼は迷わず命令しました。「撃墜しろ」と(ダーリング)

・アメリカ史上初めて民間人を乗せたまま飛行機を撃墜する命令だった。

みんな静まり返りました。どうなってしまうのか、固唾を飲んで見守りました(同上)

・ハイジャックの情報に誤りがあれば、致命的な非難は免れない。それでもチェイニーは決断を下した。
・そんなとき、空の上では予想もしないことが起きていた。

航空管制官:93便が翼をゆすって飛行をしている。どうなっているのか?

【9月11日午前10時3分】
・93便が左右に揺れ、進路を目まぐるしく変えていたのだ。そしてその3分後、ピッツバーグの平原に煙が上がっていた。93便が墜落したのだ。
・ニューヨークの事態を知った乗客たちが、さらなるテロを防ごうと犯人と格闘した結果だった。乗員乗客40名全員が死亡。命と引き換えにホワイトハウスは守られた。

誰もが言葉を失い、沈黙しました。テロは防がれましたが、犠牲になった人たちのことを思うと、悲しみで複雑な思いでした。副大統領も顔が真っ青でした(ダーリング)

・その後もテロの情報は続々と入ってきた。敵がどこにいるのか分からない。

例えば別の飛行機がホワイトハウスに近づいているとの情報がありました。また危機だということで、急いで対応できる戦闘機を探しました。でもそれは誤報で、ドクターヘリだと分かりました。みんなとても混乱していたんです(同上)

・政府高官たちの顔には疲労の色が濃くなっていく。そのとき、人知れず動いていたのはウォルターズだった。

みんながずっと食事をしていないことに気づきました。朝食すら摂っていない人もいたでしょう。だからあの男に何とか戻ってほしいと連絡しました(ウォルターズ)

・あの男とはホワイトハウスの料理長ウォルター・シャイブ。料理の腕はもちろん、スタッフをまとめる統率力でも高い評価を受けていた。この日もスタッフを連れて、いち早くホテルに避難していたシャイブにウォルターズは電話をかけた。

戻ってきてくれ(ウォルターズ)

戻る?どこへ?どうやって戻ればいいんだ?(シャイブ)

・シャイブがいたホテルとホワイトハウスの距離は約2km。既に警備線は厳重で殺気立っていた。その中をホワイトハウスに近づけば、射殺される恐れすらあった。彼は去年、事故で他界。だが妻のジーンがあの日のことをはっきり覚えている。

街じゅうで自動車の爆弾テロがあるという噂が流れ、みんなが怯えていました。次の攻撃があると思うと心配で、夫にホワイトハウス周辺から避難してほしいと願っていました(ジーン)

・それでもシャイブはホワイトハウスに向かって歩き出した。

あたりはショットガンや
ライフルを抱えた
警官ばかりだった
私は飛行機が
降ってくることも
心配だったが
過敏になった彼らに
撃たれることも
同じくらい恐れていた
(「大統領の料理人」ウォルター・シャイブ著より)


・命の危険を冒して一人ホワイトハウスに戻ったシャイブ。

夫はプロ意識の高い人でした。仕事場であるホワイトハウスに戻りたかったのでしょう。素晴らしいと思います。自分を優先するのではなく、プロとして何が一番大切なのかを見極めたんです(同上)

・シャイブは、たった一人で料理を作り始めた。

シャイブは言いました。「食事会で準備していた肉を出してもいいかい?下ごしらえ済みだし、後は焼くだけで手っ取り早いよ。それなら大勢の人に振る舞える」とね。彼は結局、650人分の食事をこしらえました(ウォルターズ)

・シャイブが作った料理は、地下室の政治家たちやシークレットサービス、さらに周囲で救助にあたっていた消防士にも届けられたという。

安全な場所にいた私たちを、安全が確保されていない場所にいたスタッフがずっとサポートしてくれました。私にとって彼らは英雄です。私が学んだ最大の教訓は、どんなに国が準備しようとも危機のときに大きなことを成し遂げるのは普通の人たちだということです。私は決して忘れません(ダーリング)

・だが、まだ危機は続く。ホワイトハウスはその機能を取り戻せずにいた。

<視点3 大統領の決断 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ>
・ハイジャック機による攻撃が防がれた頃、遠く離れた上空でその男は何を思っていただろうか。アメリカの最高権力者・第43代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ。
・この未曽有の危機にも関わらず、いるべき場所にいられなかった男。あの一日、ブッシュは何を考えたのか。苦悩の末に下した決断とは。
・ブッシュが大統領に就任したのは、テロの8か月前。父親に続いての大統領就任だった。
・皮肉にも、あのテロの遠因となる戦争を始めたのは父親(第41代大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ)。中東を舞台にした湾岸戦争で、多くの市民が巻き添えとなった。そんなアメリカに敵意を抱いたイスラム過激派が報復としてテロを企てるに至った。
・アメリカ史上でも稀な親子2代の大統領。その政治手腕に不安を持つ人は多く、支持率は当初から低迷した。が、その人柄はホワイトハウスの職員たちから愛されたという。

ブッシュ大統領はとても気さくな方で、いつもたくさんの友人をホワイトハウスに招いていました。愛情深くて、愛犬が死んだときは大変でした。私と2人のシークレットサービスが立ち会いましたが、大統領は愛犬のそばに横たわり、頭をずっと撫でていました(ウォルターズ)

・そんなブッシュが力を入れていたのが初等教育。学力低下が叫ばれるアメリカで、子どもにしっかりと読み書きを教えたい。そう願って、多くの学校を自ら視察する熱の入れようだった。
・だからこそあの日も、フロリダで小学校の授業に参加していた。そんなブッシュを突然襲ったテロの知らせ。後に記した回顧録に当時の心境をこう綴っている。

私の意識は教室をはるかに離れて駆けめぐっていた。

【9月11日午前9時40分(テロ発生から1時間)】
・ブッシュがフロリダを離れたのは、これは事故ではなくアメリカへの攻撃だと分かり始めた頃だった。
・だがブッシュを乗せた飛行機は、ワシントンとは全く違う方向へと向かう。ブッシュはホワイトハウスに戻りたかったが「テロの標的になっているワシントンに来るのは危険すぎる」とチェイニーたちが強く反対した。

テロリストに脅されて逃げるのはまっぴらだと私はいった。テロリストに追われて逃げる自分の姿を想像したくなかった。(「決断のとき」ジョージ・ウォーカー・ブッシュ著より)

・結局ブッシュは進言を受け入れる。

【9月11日午前9時59分】
・ブッシュが離陸して19分後、ワールドトレードセンター南棟崩壊。その惨状をブッシュは機内のテレビで見つめるしかなかった。
・さらにホワイトハウスに危機を知らせる電話が入った。電話を取ったのは、またしてもダーリング。

信頼する情報筋から「次のターゲットはフロリダのエンジェルだ」という連絡が来ました。「エンジェル」とは大統領専用機エアフォース・ワンのコードネームです(ダーリング)

・次の標的は大統領専用機。つまりブッシュ本人だという情報だった。

私はライス補佐官にその情報を伝えました。すると彼女は「エンジェルって誰よ?」って言ったんです(同上)

・「ブッシュ政権最高の頭脳」と呼ばれたライス。当然知っているべきコードネームを忘れるほど混乱していた。

ワシントンD.C.に戻るべきだと強く感じていた。ホワイトハウスにいて、対応の指揮をとりたい。

・しかしチェイニーたちとの協議で、そのプランは再び退けられた。その頃、撮影された機内の映像が残っている。窓の外には護衛の戦闘機がぴたりと付いている。自分は軍に守られているのに、国民を守る指揮すら執れないジレンマ。

【9月11日午前10時28分】
・ワールドトレードセンター北棟、崩壊。そのときのブッシュはこう綴っている。

とぎれとぎれの映像を見ているうちに、アメリカ国民がどんな恐ろしい光景を眺めているかがわかりはじめた。彼らの苦しみと絶望がまざまざと感じられた。私は世界一強大な国の大統領なのに、彼らを助けられない無力さを味わっていた。

・大統領が絶望に暮れていた頃、ホワイトハウスの庭で動き始めた男がいる。執事長のウォルターズは、あることを信じていた。

このような危機に直面すれば、大統領は必ずホワイトハウスに戻ってくると私は信じていました。ホワイトハウスの執務室から国民に向けて演説するはずだと(ウォルターズ)

・危機にあたっては直接、国民に話しかけるのが通例。だが大きな壁があった。通常、大統領は空軍基地に降り、車かヘリコプターでホワイトハウスに向かう。緊急事態ではヘリを使う可能性が高い。
・だがヘリの着陸に使う南の庭には、このとき野外食事会のテーブルが大量に放置されていた。既に殆どの職員が避難し、ホワイトハウスは閑散。残っていたのはウォルターズと数名のスタッフだけだった。ウォルターズは決意した。

ヘリが来たときに備え、テーブルを全て撤去しなければと思いました。手作業で運びました。1台の重さは160キロもあります。かなり大変でしたが、それでもやらねばならないと思ったんです(同上)

・いつ攻撃を受けるか分からない。その中でウォルターズたちは160キロのテーブルを一つ一つ片付けていった。

もし飛行機が襲ってきたらどうしようと聞かれたのですが、逃げる所なんてどこにもありません。私は「噴水にダイブしよう。水中なら少しはましかもしれないよ」と言いました。なんとかみんなの緊張をほぐしたかったんです。ただ大統領への務めを果たしたい、それだけでした(同上)

【9月11日午後2時55分(テロ発生から6時間)】
・ブッシュは給油のためにネブラスカ州の空軍基地にいた。そこで重大な決断を下した。いかなる危険があろうとも、ホワイトハウスに戻る。

信じられませんでした。副大統領や補佐官もみんなワシントンに戻らないよう説得しましたが、大統領はカメラをまっすぐ見据え、こう言ったのです。「今日の夕方、必ず戻る」と(ダーリング)

今回は私も折れなかった。国民に向けて話をしようと決意していた。アメリカ国民には、首都にいる大統領の姿を見せる必要がある。

・間もなくウォルターズにある指示が下った。

ホワイトハウスに戻るからテーブルを片付けてくれるかと聞かれたので「もう片付けてあります。安心して着陸してください」と答えました。とても誇らしい思いでした(ウォルターズ)

・ウォルターズたちは5時間かけ、着陸場所を完璧に整えていた。

【9月11日午後6時55分(テロ発生から10時間)】
・ブッシュ大統領は、ようやくホワイトハウスに戻ってきた。ブッシュが歩くその奥にウォルターズたちが命を懸けて片付けたテーブルが積まれていた。

【9月11日午後8時30分】
・ブッシュは国民に語りかけた。

今日、私たちの生活が、そして自由が、テロリストの攻撃を受けました。しかしその攻撃はビルを揺るがすことはできますが、アメリカの根幹に触れることはできません。今こそ全ての国民が正義と平和を求めて団結するときです。

・アメリカがようやくその機能を取り戻した瞬間だった。

・このテロで失われた命は2973。

※ワールドトレードセンター:2602人
※ハイジャック機の乗員乗客:246人
※ペンタゴン:125人


・そしてこの日からテロとの長い戦いが世界で始まることになった。

・あの日から15年。ニューヨークのテロの現場は、犠牲者を追悼する記念公園となっている。捧げられる平和の祈り。だが世界は憎しみの連鎖を断ち切れずにいる。
・いつどこでテロが起こるか分からない時代。新たな対立が煽られ、世界から自由と寛容さが失われつつある。
・あのテロの後、ホワイトハウスでも安全のため一般見学を中止しようという動きがあった。それに真っ先に反対したのはウォルターズだった。

私は大統領に申し上げました。「国民が前に進むためにホワイトハウスは決して閉じてはいけません」とね。私たちの社会は開かれているべきです。たとえそこに新たなテロがやってくるとしてもです。戦いを終わらせるためには、これまでと違う何か特別なことをしなければならないのです(ウォルターズ)

・この戦いはどうすれば終わるのか。世界はその答えをまだ見つけていない。

(2016/9/16視聴・2016/9/16記)

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【歴史秘話ヒストリア】妻よ、私がバカだった 石川啄木と妻・節子

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【歴史秘話ヒストリア】
「妻よ、私がバカだった 石川啄木と妻・節子」

(NHK総合・2016/9/16放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

盛岡駅

 はい、まずは石川啄木ゆかりの場所を訪れたシリーズ(?)。ふるさとの渋民は行ったことがありませんが、まずは盛岡駅。

石川啄木碑

 盛岡駅前には碑もあります。

港文館

 続いて北海道編。釧路の港文館。1908年(明治41年)に竣工した旧釧路新聞社(現北海道新聞社)の煉瓦造りの社屋を復元した建物です。

港文館

 啄木の銅像。港文館竣工の年に記者として勤めたとのことです。

 さて、今回のヒストリア。石川啄木役・溝端淳平さん、妻の節子役・川島海荷さん、なかなか好演だったと思います。再現ドラマもこんな感じだと、エピソードに華を添えるような形でいいですね。

 とはいえ、石川啄木ご本人は大変すぐれた作品を残してはいますが、私生活は全く共感できませんね。というか、自分が女だったら絶対に結婚しないタイプ。それどころか、友達としても近寄りたくないし、親戚としても縁を切りたい男ですね。

 ちなみに妻・節子さんは啄木の印税で晩年を過ごす…ということもできず、啄木死去の翌年に亡くなっています。よほど心労がたたったのかもしれません、本人が好んでしたこととはいえ気の毒にとしか言いようがありませんね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今から100年以上前、ある男女の出会いが日本文学を代表する歌を生み出した。

はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る


・明治の歌人にして詩人・石川啄木。人の弱さや悲しみに寄り添う多くの歌を今に残している。そのほとばしる才能を誰よりも信じ、育て上げたのは妻の節子だった。
・二人は若くして親の反対を押し切り結婚。しかし夫となった啄木はろくでなしだった?度重なる裏切りに節子は遂に啄木の目を覚ます行動に出た。
・天才と呼ばれた石川啄木と彼を生涯支えた妻・節子、二人の愛の物語。
・石川啄木の故郷、岩手県盛岡市渋民。姫神山など美しいふるさとの景色を詠んだ歌をたくさん残している。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな


・石川啄木は教科書にたくさんの歌が載せられ、日本人に最も親しまれている歌人の一人。実はその才能を開かせたのは妻の節子だった。

<若きふたり 愛は永遠なり>
・節子13歳。盛岡の女学校に通い、教育熱心な親のもとで何不自由ない生活を送っていた。特技はバイオリン、厳しく育てられた節子は礼儀も正しく、まさに申し分のない女性に育っていた。
・そんなある日、盛岡中学校に通う文学青年の石川一(後の啄木)13歳と出会った。啄木から手紙を貰い続ける節子、初めは消極的だったものの啄木の言葉に次第に引き込まれていった。

夜静かにして
想ふの羽のみぞ北の空にかける
乙女の美しきを
恋しと思ひぬ
(啄木の日記「秋らく笛語」より)
※らくは「音」に「出」

(静かな夜、私の思いをのせた翼があなたの住む空へとかけています。あなたを恋しいと思いながら)

小百合ぞと袂に掩ふて一花は
はなたざるべき世とも思ひし
(同上)


(百合のように愛おしい節子さんとともに僕の人生はある)

・盛岡という日本の小さな町から世界を夢みる啄木、そんな男性は節子の周りにはいなかった。
・ところが文学に熱中するあまり勉強をおろそかにした啄木は試験でカンニング、16歳で中学を退学となった。
・それもどこ吹く風、文学で身を立ててみせると啄木は自分の才能を信じて疑わなかった。
・中学を退学し、決まった職もない男との恋。節子の親は娘を家に閉じ込め、啄木と別れるよう言って聞かせた。

あのときの節子の熱心さには
全くどうしようも
仕方がありませんでした。
結婚を許してやらなければ
若い者同志のことだから思いつめて
どんな事をしでかすかわからないと説かれ、
仕方なく承諾したような次第でした。
(節子の父の話「啄木の妻 節子」より)


・明治37年(1904年)、婚約した後、啄木は一人、東京へと旅立った。文学の道で節子とともに生きていけるかを探るためだった。
・もうすぐ啄木の妻になれる。節子は半年あまりの間、愛する人の東京からの帰りを待ち続けた。
・明治38年(1905年)、結婚式。節子の元に啄木が東京をたったという知らせが届いた。
・ところが思わぬ事態を迎えた。啄木は現れなかった。結婚式に一人で臨んだ節子、その態度は堂々としたものだったという。啄木は一体何をしていたのか。
・結婚式の10日前には、啄木は確かに東京を出発した。しかし心は苦渋に満ちていた。というのも父親が失業したため、親の面倒を見なければならなかったのだ。現実を受け止めきれなかった啄木は盛岡行の汽車を途中で下車。行方をくらませた。
・「こんな無責任な男と即刻別れるべきだ」。友人たちは口々に啄木と別れるよう勧めた。しかし節子はこう言ってのけた。

私はあくまで愛の永遠性を信じています。
(節子が友人に宛てた手紙)


・結婚式から5日後、啄木は悪びれる様子もなく節子の前に現れた。啄木はちゃんと自分のもとに帰ってきた、節子は啄木の愛を信じていた。
・啄木のデビュー作ともいえる歌がある。

血に染めし歌をわが世のなごりにて
さすらひここに野に叫ぶ秋
(雑誌「明星」より)


・勉強を怠り中学を退学になった啄木だったが、当時文学青年の憧れの雑誌だった「明星」に16歳で掲載された。
・若くして文学の才能を褒め讃えられた啄木は、次第に「自分こそは選ばれた文学の天才だ」とうぬぼれていくようになった。

<オレは天才だ!>
・明治40年(1907年)、啄木は教員の仕事を見つけると、節子とともに北海道に移り住んだ。
・この頃、啄木の家には文学に魅せられた青年たちが連日集まっていた。啄木のうぬぼれは更にエスカレートしていった。
・その文才が買われ、今度は小樽で新聞記者になった啄木。些細な町ネタも啄木の手にかかると面白い読み物に。例えばこの頃、小樽の街に出没していた不審な女について記事はこんな感じ。

どんな魔法を身につけているのか。雲のごとく現れ、雲のごとく隠れる出没自在の女がいる。どこの柳の陰から出てきて人を驚かせるかわからない。行き当たりばったり、知り合いであろうがなかろうが、人の家を訪ねてでまかせを言っては一晩ほど世話になっていくのだそうだ。あるところでは看護婦、またあるところでは教師、さらには代議士の弟の息子の嫁とぬかすため、もはや手のつけようがない話。この出没自在の美人は、高下駄を履いた天狗が20世紀に化けて出ているのかも知れません。皆さんよくよく気をつけましょう。
(「小樽日報」啄木が書いた記事より)


・やがて啄木は「石川が書くと新聞が売れる」と言われるまでになった。

周りの人間を自分よりも劣っている、自分とは違うというまなざしで対人関係が、恐らくいろんな周囲との軋轢というかトラブルのもとになったと思いますね。例えばニワトリ小屋の中のクジャクあるいは鶴というようなプライドがあった(天理大学名誉教授・日本文学の太田登氏)

・「俺は天才だ」。啄木は遅刻と無断欠勤を繰り返した末、新聞社を辞め、今度は一人で釧路に行ってしまった。
・節子への仕送りは殆どなかった。結婚して3年、身の回りのもの全てを質に入れ、借金するしかなかった。
・啄木は節子のことはよそに毎晩飲み歩いていた。
・そんな節子を友人たちはとても心配した。

束髪が額にみだれて
痛々しく見え
頬のやせ 眼のくぼみ
一つとして精神の苦悩を
かたらぬものはない
(昭和13年8月『中央公論』「啄木の妻」より)


・小樽でも釧路でも、またもや啄木は仕事を休むようになった。そして明治41年(1908年)春、小説家になるために一人で東京へ行ってしまった。
・なかなか理解しがたい性格だった啄木だが、意外な一面も持っていた。新聞記者になる前は故郷の渋民小学校で代用教員をしていた。啄木はとても人気のある先生で、課外授業で英語も教えていた。これからをしっかり生きていくには小学校から英語を学んでおくことが大切だと訴えていた。

<啄木と節子 愛のうた>
・今度は小説家を目指し一人で東京にやって来た啄木、22歳。1か月で原稿用紙300枚、6つもの小説を一気に書き上げた。
・しかし出版社からは甘ったれた小説だと言われてしまう。当時ベストセラーになっていた小説の多くは、人間の本性や心の底をあらわに描いた作品だった。人間の愚かさに迫った夏目漱石、己の弱さや苦悩・醜さをさらけ出す島崎藤村などの文学が一般大衆の心を掴んでいた。
・一方、啄木が書いた小説「雲は天才である」。こちらはいわば理想のかたまり。現実味は乏しく、読者の共感は得られなかった。
・「自分は天才だ」。啄木は現実から目を逸らし、逃げるように浅草の繁華街へ足を運ぶようになった。
・啄木が上京して半年余り、節子は働きに出るようになった。啄木からは頼りはおろか仕送りも殆どなかった。明治41年(1908年)の大晦日、節子の手元に残ったのはたった一枚の硬貨だった。
・明治42年(1909年)6月、節子は意を決して東京へ向かった。啄木とは1年ぶりの再会だった。

恐らく第一印象は私の夫ではない。というぐらいの衝撃があったと思うんですね。今まで何のために耐えてきたのか。幻滅に近い失望感(前出の太田氏)

・東京で啄木と暮らして4か月、節子は娘を連れて家を出て行った。

啄木は節子に去られるなんて夢にも思ってなかったと思うんです。いつも自分を信じ待っててくれた女性ですから。ですから、信じ切っていた母親に突然置き去りにされた子どものように非常に不意をつかれて狼狽し、そして呆然としていたと思いますね(国際啄木学会理事の山下多恵子さん)

私は実に一個の憐れなる
卑怯なる空想家でした。
あらゆる事実
あらゆる正しい理を回避して
自家の貧弱なる空想の中に
かくれてゐたにすぎません。
古い自分といふものを
新しくして行きたく思ひます
(この頃 啄木が書いた手紙)


・最愛の人・節子の家出によって目を覚ました。啄木の文学は大きく変わった。明治43年(1910年)12月、歌集「一握の砂」を発表。

はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ


(友だちがみんな自分よりえらくみえる日。花を買って妻と愛でながら自分の心を慰めた)

・啄木の歌は小さな一人の人間の正直な言葉で紡ぎ出されていた。「一握の砂」から1年余り後…結核だった。

眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
(啄木直筆の原稿より)


(絶望のあまり現実を見たくなくて、眼を閉じてみるが心には何も浮かばない。淋しくなってまた眼を開けてみる)

あなた、イチゴのジャムですよ(節子)

美味いなぁ…。僕の体はまた良くなるのかな。良くなったら田舎でイチゴを植えて、たくさんジャムをこさえよう。いいだろ?(啄木)

・明治45年(1912年)4月13日、こう言葉を交わし啄木は息を引き取った。啄木と節子、二人が初めて会ってから14年目の春だった。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
(歌集「一握の砂」より)


<啄木が描いた将来妻と叶えたい夢とは>
・亡くなる10か月前、啄木は将来節子と叶えたいと願った夢を詩「家」に綴っている。

ふるさとの村外れに建てた西洋風の木造の家。そこには広い階段とバルコニー、そして座り心地の良い椅子がある。

妻が泣いている子どもに乳をあげるための一間も設けよう。その幸せを思うと自然と笑みが浮かんでくる。

広い庭の片隅には大きな木を植え、白塗りの腰掛を置こう。そこで妻から食事の知らせがあるまで、うつらうつらと過ごすのだ。


(2016/9/17視聴・2016/9/17記)

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【ドキュメント72時間】女子刑務所 彼女たちの素顔

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【ドキュメント72時間】
「女子刑務所 彼女たちの素顔」

(NHK総合・2016/9/16放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 約1か月ぶりの「ドキュメント72時間」の舞台は女子刑務所。時系列というよりも刑務所の様々な場所、職業訓練や更生に向けた取り組み、また受刑者やその家族、刑務官など人間模様を伝える濃い内容でした。

 ボランティアや受刑者の作業製品の購入などを別にして、率直に言って一般の人が刑務所にお世話になる確率というのはそう高くないと思います。しかし、全然無縁だと言い切れる人はいません。車を運転する人はどんなに注意しても交通事故を起こす確率はゼロではないし、交通以外の刑事犯もゼロではない。いわば自分たちと塀の向こうで罪に服している人たちとは紙一重であって、決して見下したり差別する対象ではないわけです。

 何で私がそんなことを書くのかといえば、今この国は経済的に貧困であったり、体に障害を負っていたり、様々な社会的な弱者を差別しバッシングする風潮が酷すぎると思うからです。

 どこかの機会で書こうと思っていましたが、このタイミングで書いておきます。先日、片山さつきとかいうゲスが、NHKの番組で取り上げられた女子高校生を「ニセ貧困」と決めつけて攻撃し、それに同調する連中と溜飲を下げたということがありました。

 そういう連中にとっての「貧困者」というのはユニセフのCMに出てくるような、柄杓で注がれたミルクを金属製の器に入れて貰って飲むような状態の人でなければ認めないとでもいうのでしょうか。

 片山某が国会議員であることが信じられないことですが、それ以前に人間として、いや生きとし生けるものとしての資格が問われると言っても過言ではないクズだと思います。

 そんな状況ですから、この番組の制作サイドも受刑者の映し方に相当気を遣って制作しているように思えました。私の気のし過ぎかもしれませんが、「こいつは自業自得だ」とか「この人はやむを得ない」とか、さらには「税金使って暮らしているくせに贅沢だ」とかバッシングする、造語ですが「受刑者ソムリエ」みたいな歪んだ性格の視聴者が、残念なことにこの社会にいるからです。

 そういう社会の風潮を無くすのは戦争やテロを無くすのと同じぐらい大事ですが、とても根気のいることだと痛感します。最後は番組の感想から逸れてしまいましたが、つくづく感じていることを書きました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・一枚の塀に隔てられた世界がある。女だけの刑務所。485人の受刑者が一つ屋根の下、生活している。

「覚醒剤です」「窃盗です」「殺人です」

・罪を償う場所ってどんな所なんだろう。知られざる女たちの空間に3日間、飛び込んでみた。
・その建物は街から切り離されたように、ひっそりと建っていた。日本最大級の女性刑務所・和歌山刑務所。
・女性の受刑者がこの20年で倍増していると聞き、訪ねてみた。まず通されたのは応接室。密着取材が許されたのは今回が初めて。

あらかじめ所長の許可を受けた場所および場面以外の撮影または録音は行わないようにしてください(刑務官)

・受刑者への勝手なインタビューはNG。一体どんな3日間になるんだろう?

・7月27日(水)8時20分。受刑者たちが過ごす場所へ。「観察工場」と書いてある。入所したばかりの受刑者が集められる場所。手先は器用か、どんな仕事ができそうか観察するという。服の畳み方一つまでチェックするらしい。
・細かい手作業が得意な女性には、工場での労働が待っている。若い女の子からお年寄り、外国人まで。みんな黙々と働いている。
・手を挙げる受刑者。トイレに行くのに許可が必要。みんな一様に無表情。心の中はうかがい知れない。
・体力のある受刑者たちは重い洗濯物を扱う仕事。食事作りや身の回りのことも全部自分たちで行うという。

トマトソース煮、ブロッコリーのドレッシングあえ、食事は案外いいですよ。(味が)濃いものもありますし(刑務官)

・ご飯は米と麦を混ぜたもの。実は3種類あるという。

(仕事の)作業の量によって変わってきます(刑務官)

・立ち仕事をしている人は大盛り、座り仕事をしている人は中、仕事が困難な人は小。食べ物までも一つ一つ管理される。これが彼女たちの日常だ。
・10時。案内されたのは刑務所内の小部屋。受刑者への面接が行われるらしい。

めでたく(刑務所を)出ていったら何食べたい?(刑務官)
食べるもんですか。何か軽いもんな、軽いもん。ケーキやったらシュークリームくらいかな(受刑者)


・にこやかに話すのは80代の受刑者。インタビューを申し込んだら初めて許可が下りた。

(どういった経緯で刑務所に入られたのか教えていただいてもいいですか)
いいですよ。覚醒剤です。お宅さんらには分からないと思うんですけども、終戦と同時なんですよ。ものすごいはやりまして、いまだにこうなんですわ。やめられないという恐ろしさが身にしみて今、思っておりますよ(受刑者)

・17歳のときから刑務所への出入りを繰り返しているという。

(刑務所に合計で何年くらいいらっしゃったんですか)
合計ですか。あまりそれは言いたくないんですけど。人生半分くらい行ってるんじゃないでしょうか(受刑者)

・優しそうな表情のおばあさんだけど…。ここはやはり刑務所だった。
・16時20分。女性たちは一日の仕事を終え、それぞれの部屋に戻っていく。
・夕食の時間、あちこちから笑い声が聞こえてきた。みんな笑顔。何だかこれまでと違う雰囲気。
・夕食後は唯一の自由な時間。旅とグルメ番組が人気なんだとか。
・こうしていると、ごく普通の女性に見えるけど…。心の奥ではみんな何を考えているんだろう。
・21時、消灯。刑務所の一日が終わった。

・7月28日(木)6時45分。点呼から一日が始まる。
・今日は刑務所にとって大切な日だという。部屋に呼ばれていたのは私服姿の2人の女性。

ただいまより仮釈放許可決定書授与式を行います(刑務官)

・日頃、行いのいい受刑者が刑期より早く仮釈放される。2人とも緊張した表情。どんな気持ちなのかインタビューを申し込んだけど、何も話したくないと断られた。

二度と刑務所に戻らないように、善良な社会の一員として頑張ってやってください(刑務官)

・この瞬間から元受刑者。一歩出たら外の世界が待っている。表情は硬いまま。待合室で家族が待っていた。今、彼女たちの目に外の世界はどう映っているんだろう。

・10時。刑務所の中には1か所だけ、一般の人が自由に入れる場所がある。ちょっと気さくな雰囲気の美容室。髪を切るのは受刑者たち、刑務所内で美容師の資格を取って一般のお客さんを相手に働いている。カットもカラーリングも1000円台と格安。丁寧な接客と仕事ぶりで結構人気らしい。
・お客さんは彼女たちのことをどう見ているんだろう。

やっぱりここで習うということは、相当罪が重いというかな。そうでなかったら、軽い人やったら(美容技術を)習っている間に刑が終わってしまう。そんなこと言うたら悪いけどね、この人何でこんなに感じのいい人やのに何を起こしたんやろうなと思うときもあったけどね。今はそんなこと思えへんわ(50年来の常連客の女性)

・美容師の中にひときわ若い女性がいた。20代の頃、密輸、密売の罪で逮捕されたというともこさん(仮名・30代)。服役して10年以上、一から勉強して美容師の資格を取ったらしい。

美に関することが好きだったので、自分でおしゃれをしたり髪の毛を触るのが好きでしたし、人の(髪の手入れ)をやってあげたりすることも好きだったので(ともこさん)

・小さい頃はクラスに一人はいる、おしゃれ好きの女の子だったのかな。手首には無数のリストカットの痕。
・ともこさんに犯した罪のことを聞いてみたけれど、一切答えてくれなかった。唯一語ってくれたのは将来の夢のこと。

外へ出ても、このまま美容師の仕事に就いて、いつかは自分で美容師のお店を自分で持てたらなって。笑顔で笑顔があるお店に(同上)

・塀の中で過ぎ去った青春。夢が叶う日を思いながら一人、勉強を続ける。

・7月29日(金)9時30分。刑務所の外で受刑者との面会に来た人に声をかけてみたが、みんな口を開こうとしない。

ここへ来るっちゅうことはそれなりの事情があって来てるし、世間様に説明できるようなことちゃうねんし、堪忍して(男性)

・ようやく1組の夫婦が話を聞かせてくれた。

(どのくらいのペースで来られてるんですか?)
1か月にいっぺん。正直に言って、うちの母親なんです。結構年齢もいってるんで、そのへんもあって(男性)

・お母さんは80歳。夫と死に別れ、ずっと一人暮らしだった。出所後はお母さんを引き取ることに決めたけど、一つ不安なことがあるという。

もう(同居後)大変だと思います。他の人に(母の犯罪が)分かると、母親もつらいけど僕らも仕事に影響したり、近所づきあいが無くなってしまうところが出てくる。なかなか現実は厳しいと思います(同上)

・刑務所を出ても全てが解決するわけじゃない。そんな現実と直面しようとしている人に出会った。もうすぐ仮釈放になるみのりさん(仮名・40代)。ここで1年と1か月過ごしてきた。

(なぜ刑務所に入ることになったんですか?)
あの、具体的なことですか?(みのりさん)
(あなたが話せる範囲で・刑務官)
私は覚醒剤です。今、社会問題になっている。たくさんの人が逮捕されたとかニュースでよく見ますが、同じ覚醒剤です(みのりさん)

・この日、みのりさんは刑務官に付き添われてハローワークを訪れた。社会に出てからの就職先を探すのだという。熱心に求人票を探すみのりさん、実は元看護師。出所後もできれば同じ仕事に就きたいという。

(久しぶりに外に出られてどうでした?)
不安な気持ちもありましたけど、刑務所に入って社会とは隔たれているというか。社会との距離ってすごくどうなのかなって、いろいろ想像してたんですけど。そんなに感動は少なかったように思います(同上)
(行かれる前は感動があるかなと?)
思いました、すごく(同上)

・交錯する希望と不安。

・13時30分。刑務所の美容室で働く人を再び訪ねることにした。この日、髪を切っていたのは50代のみえこさん(仮名)。刑期は12年9か月、重い罪を犯してここに来た。

(なぜ刑務所に入られたんですか?)
ちょっと事件のことは申し訳ありません(みえこさん)

・元専業主婦。シングルマザーになってからは保険や住宅のセールスで2人の娘を育ててきた。事件の後、娘たちを塀の向こうに残してきたみえこさん。猛勉強して美容師の資格を手に入れた。

出所したら娘のカットをしてやりたいなと思います。喜んでくれればいいんですが、喜んでもらえるように、技術向上するように努力したいと思います(同上)

・いつか来る出所の日。その先に何が待っているのか、誰にも分からない。

・7月30日(土)5時30分。撮影最終日、勤続35年のベテランの刑務官(50代)に質問された。

3日間どうやったですか?だいぶ(思っていた)ストーリーと変わってしもうたんちゃいます?(刑務官)

全然違いました。外国の人もいれば、お年寄りもいれば、若い受刑者もいたりして、私たちが生活している場所と何ら変わらない(取材者)

ありがとうございます。ちょっとは変わったんや。うちら深海魚のごとくに、この熱い35年、生きてきてるから。あそこの門を入るじゃないですか。(心の中で)「スタート」って言って、映画のカチみたいに(仕事の)スイッチ入って、そこからは「よし」って(刑務官)

・最後に見せたいものがあると予定外の場所に案内してくれた。力強く咲いた1本のひまわり、受刑者が植えたもの。彼女たちは毎朝それを見て、それぞれの持ち場に就くという。

(2016/9/17視聴・2016/9/17記)

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【ブラタモリ】#47 高尾山~高尾山はナンバーワンの山!?~

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【ブラタモリ】
「#47 高尾山~高尾山はナンバーワンの山!?~」

(NHK総合・2016/9/17放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>


 高尾は昨年の11月に訪れたばかりなので、今回のブラタモリは興味深く視聴しました。


 もちろん日本一の急勾配のケーブルカー、私も乗りました。


 紅葉の季節だったので人多かったですね。ブラタモリの撮影は平日の早朝だったのでしょうか。周りにそれほど人が多くなかったですね。


 かろうじて見えた富士山。


 そして新宿のビル群とスカイツリー。

※訪問時の記事は→高尾登山電鉄・ケーブルカー【清滝~高尾山】

 京王線が高尾山口へのアクセス抜群だというのは京王御陵線という路線があったからという話は、今回の番組で初めて知りました。登山というよりもケーブルカーやリフトを使えば気軽に登れるスポットですからね。

 次に行くときは植生の分布や地層にも注意して見てみたいと思いました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・スタート地点は高尾山のケーブルカー駅前。
・お題は「高尾山はナンバーワンの山!?」。
・案内は八王子市郷土資料館主査の尾崎光二さん。
・高尾山は年間300万人が訪れる日本一登山者数が多い山と言われている。
・一行はケーブルカーに乗車。31度18分、ケーブルカーの傾斜としては日本一の急勾配。
・ケーブルカーを下車して最初の展望台へ。東京都庁やスカイツリーが見える。

・2人目の案内人は八王子自然友の会副会長の菱山忠三郎さん。79歳になった今でも年100回以上登っている。
・カシ(広葉樹)暖かい太平洋側に広く分布。高尾山に生えているカシは6種類。
・道を挟んで森の明るさが違う。暗い森はカシやヒイラギなどの常緑広葉樹(暖かい気候を好む広葉樹。冬に落葉しないので葉が厚く色が濃い)。
・一方、明るい森はイヌブナなどの落葉広葉樹(冷たい気候を好む広葉樹。冬に落葉するので葉が薄く色が明るい)。
・登山道が山の尾根筋で東西に走っている。そのため太平洋側の暖かい風を受ける南斜面と、日当たりが悪く冷たい北風を受ける北斜面では、それぞれの気候に合った木が育ちやすい。
・極めつきは高尾山のある場所。広葉樹の分布は年平均気温およそ13度を境に分かれる。高尾山はその境の近くにあるため、北斜面では落葉広葉樹がより育ちやすく、南斜面には常緑広葉樹がより育ちやすい。
・標高599m、面積2600ヘクタールの小さな山に1598種もの沢山の植物がある。

・続いて登山道を山頂に向けて歩く一行。3人目の案内人は首都大学東京名誉教授(地震地質学)の山崎晴雄さん。
・高尾山を形成している地層「小仏層群」(約1億年前、海底に堆積した砂と泥の地層。砂岩と泥岩が交互に重なった互層が特徴)。
・1億年ほど前、海の底で小仏層群のもととなる水平な地層が出来た。それがプレートで運ばれ海溝に沈む込むときに一部が陸地に押し上げられ、縦の地層が生まれた。さらにその地層に力が加わり縦の割れ目や細かいヒビが生まれる。この地層に刻まれた無数の隙間こそ、ナンバーワンの植物の種類を育てる鍵だ。

・高尾山だけ自然林が残された理由を探るため、一行は高尾山薬王院へ。奈良時代に僧、行基が開いた寺。修験場の道場としても有名。
・執事長の菅谷秀文さんの案内で、戦国時代に関東を治めた大名・北条氏の書状を見せてもらう。八王子周辺の土地を薬王院に寄進すると書いてある。
・実はこの北条氏のおかげで高尾山の自然林が残った。北条氏にとって国境にある軍事上、重要な拠点だった。そこで高尾山にある薬王院との関係を大切にした。
・徳川の時代になっても高尾山は大切な山として守られてきた。明治以降も天皇家や国が所有する林となり保護された。その結果、自然林が残り植物の種類ナンバーワンの山になった。

・さらに一行は薬王院の奥へ。境内にいくつもの神社がある薬王院。実はその中の一つに注目すると高尾山を多くの人が目指した理由が分かるという。
・それは富士信仰だった。もともと富士山は女人禁制の山、しかし高尾山は女性も登ることができたので美しい富士山をのぞむ山頂を目指した。
・大見晴園地トイレ(山にあるトイレとしては初の2階建て。第1回日本トイレ大賞受賞)。
・山頂から天気が良ければ富士山が見える。
・冬至の日にダイヤモンド富士(富士山頂に太陽が重なって輝く現象)が見えるという。

・一行は高尾山から10kmほどの住宅街に移動。新しい案内人は八王子市郷土資料館学芸員の中村明美さん。
・住宅街の中に鉄道の橋脚の跡が残されている。
・八王子に沢山の人がやって来た理由は天皇陵。昭和2年、大正天皇陵がつくられた。そしてお参りする人のために新宿と八王子を結ぶ京王線を分岐させ、昭和6年につくられたのが京王御陵線。この開通で近くにある高尾山の登山客も増え、東京でも有数の観光地になった。
・御陵線が出来たことで登山客が増えた高尾山。路線は戦争が激しくなった昭和20年に運転休止となった。
・線路跡を辿ってみると、京王高尾線と一部が共通している。御陵線の線路の敷地は廃線になったあとも残されていた。その線路跡を利用して昭和42年に開通したのが京王高尾線だった。

・鉄道で麓ギリギリまで行けるアクセスの良さ。巨大都市のすぐそばになる豊かな自然。標高599mの小さな山にいくつもの奇跡が重なっている。

(2016/9/18視聴・2016/9/18記)

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【大河ドラマ】真田丸・第37話「信之」

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【大河ドラマ】真田丸・第37話
「信之」

(NHK総合・2016/9/18放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 ドラマとはいえ歴史を大きく変えるわけにはいきません。ということで、第二次上田合戦で徳川秀忠軍をコテンパンにやっつけた真田昌幸&信繁でしたが、関ヶ原の戦いは東軍の圧勝だったため史実通り、九度山に配流となりました。以下、登場人物たちの感想を。

【西軍】
石田三成:まさか「ナレ死」にするわけにはいかないということで、正室うたが回想するという形で最期のシーンがありました。山本耕史さんの無念ながらもサバサバとした表情が印象に残りました。
大谷吉継:こちらも「ナレ死」は免れました。娘で信繁の正室・春が回想する形で自刃のシーンが。片岡愛之助さん…無念(涙)

【東軍】
真田信幸改め、真田信之:父と弟を助けるために粉骨砕身するシーンに思わずグッときました。頼もしいお兄ちゃん、九度山への仕送りも頼むよ。
本多忠勝:舅殿は本当に漢の中の漢だと思いました。
徳川家康:一方で、ちっちぇ~男だな。本当にムカツク(怒)
小早川秀秋:今さら良心の呵責に苛まれても…自業自得(怒)

【その他】
出浦昌相:生きていてくれただけでも嬉しかったです、寺島さん(涙)
:アレの件もあり、もう出番いいですから…今後は薫に関わる部分は、全部ナレーションで代用しましょう。

 そして来週は、すっかり白髪になった昌幸が出てくる予告…泣きそうです。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・真田は上田城において、またしても徳川軍を撃退した。勝利に沸く真田家に、関ヶ原の合戦で石田三成の軍勢が惨敗したという知らせが届く。

・関ヶ原の戦いの結果は沼田城にいる真田信幸(大泉洋)にも伝わった。上田城にいた真田昌幸(草刈正雄)は降伏はしないと言い、残っていた秀忠軍の残党を掃討する。
・しかし大坂城が徳川の手に落ち、石田三成(山本耕史)が捕らえられたとの知らせを聞いた真田信繁(堺雅人)は、父に最早これまでだと諭し、後のことは兄・信幸に任せようと言う。
・昌幸からの降伏の申し出を聞いた徳川家康(内野聖陽)は息子の秀忠(星野源)が上田攻めを失敗したことを遠回しに咎める。
・平野長泰(近藤芳正)は上田城に入り、城の明け渡しが行われた。昌幸、信繁は蟄居となり、処分については後日ということになった。
・信幸は家康に対して父と弟の命乞いをすると義父である本多忠勝(藤岡弘、)に伝えると、忠勝も口添えしてくれることになった。
・家康は昌幸、信繁の助命を聞き入れなかったが、本多忠勝は聞き入れてくれないなら上田城に立て籠るとまで言った。そこまで言われた家康は折れたが、信幸に親子の縁を切るよう申し渡し、名も改めることになった。
・そして信幸は、大坂城で薫(高畑淳子)、きり(長澤まさみ)と再会する。
・上田城を訪れた信幸は、昌幸と信繁に高野山に流罪となったことを伝える。
・小山田茂誠(高木渉)は信幸のもとへ、堀田作兵衛(藤本隆宏)は村に戻り、高梨内記(中原丈雄)は昌幸たちと付いていくことに。さらに生き残った出浦昌相(寺島進)は沼田で養生することになった。
・信繁は梅(黒木華)との間の子であるすえ(恒松祐里)と会い、行く末を作兵衛に頼む。
・慶長5年12月13日、上田城は正式に徳川に明け渡された。徳川家康を上田領を信幸に与え、真田伊豆守信幸は9万5000石の大名となり、名を「信之」と改めた。
・高野山へ向かった昌幸と信繁は、家康に呼ばれ大坂に立ち寄る。家康は昌幸に、一切の兵と馬と武具と金と城と今後戦に出る一切の機会を奪うと言い、残りの人生を高野山の麓の小さな村の中で過ごせと告げる。
・城内で信繁は片桐且元(小林隆)と会い、関ヶ原の戦いで小早川秀秋(浅利陽介)が徳川方に裏切ったことを知る。秀秋はそれから2年後、自分のしたことの罪の重さに苛まれ、21歳で謎の死を遂げる。
・信繁は真田屋敷で春(松岡茉優)と再会する。彼女の父・大谷吉継(片岡愛之助)は敵に首を渡すなと言い残し自害したという。
・信繁のもとを加藤清正(新井浩文)が訪れ、三成の正室うた(吉本菜穂子)を連れてきた。彼女は三成の最期を見届けたと言い、信繁に伝える。
・慶長6年の初め、昌幸とその一行は高野山の入口にある紀州・九度山村の屋敷に入った。信繁たちの新しい暮らしが始まろうとしている。

<真田丸紀行>
・和歌山県九度山町。真田親子の新しい生活の舞台となったこの町は、高野山参詣の玄関口だった。
・九度山町の慈尊院は弘法大師の母親ゆかりの地として知られ、古くから女性の参拝客でにぎわった。
・妻子を伴った信繁たちもこの地で暮らすことになった。
・昌幸の屋敷跡とされる地に立つ善名称院。地元の人々は真田庵と呼び、親しんでいる。
・敷地内の社には昌幸、信繁、その息子大助が祭られている。
・毎年、多くの人が集まる真田まつり。老若男女が赤備えで町中を練り歩く。
・信繁たちが14年を過ごした九度山からは、今も真田の息遣いが聞こえてくる。

※善名称院(真田庵)真田昌幸屋敷跡(南海電鉄「九度山」下車 徒歩7分)
※慈尊院
※町石道 高野山へと続く表参道
※真田地主大権現

(2016/9/18視聴・2016/9/18記)

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【ETV特集】アンコール 忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦“満州難民”を描く

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【ETV特集】
「アンコール 忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦“満州難民”を描く」

(Eテレ・2016/9/17放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<感想>

 2016年4月2日に放送されたETV特集のアンコール。ぜひ観たいと思っていたのですが見逃してしまっていたので、今回改めて視聴できてよかったです。

 諏訪敦さん、写実を超えるリアリズムを追究している画家さんという話は聞いていましたが、その突き詰め方はモチーフをとことん緻密に取材していくというもの。冒頭の作品「恵里子」もそうですし、今回のドキュメントの中心となった作品「哈爾濱(ハルビン)1945年 冬」は祖母の足跡を中国に訪ねるというもの。

 そこから分かってくることは当時、満蒙開拓団として旧満州へ渡った日本人が悲惨な目に遭ったということ。これは先日放送されたNHKスペシャルでも取り上げられていました(→【NHKスペシャル】村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~)。

 そして完成された作品をテレビを通して観ました。諏訪さんは「召喚」という言葉を使って祖母の姿をリアル感溢れる「遺体」という形でキャンバスに描き出しました。自分の身内の死をここまで「えぐり出せる」ことができるということが凄いというほかないです。たぶん凡人の感覚としては美しい姿を想像して絵にするのでしょうけど、彼は違いました。そこがやはりこの画家の凄まじさなのかもしれません。

 ぜひ生で彼の絵を観てみたいですね。何だか引っ張り込まれてしまいそうな力を感じます。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・髪の毛が一本ずつ生み出されていく。画家・諏訪敦、リアリズムを限界まで突き詰める。描き始めたのは女性、諏訪自身の祖母だ。70年前、旧満州で悲惨な死を遂げた。

彼女は兵士ではないけど、明らかに本人は望まないところで国の盾にされた人間なわけでしょ(諏訪)

・飢えと感染症に苦しんだ祖母を、絵の中で再び死に追いやる。

満州の出来事というのは、ひどい歴史なんだけれども、関心がなければ知らない。誰も残そうとしない歴史の中にも、やっぱり重要だったりするものというのはあるわけで、だからせっかく自分が画家を仕事にしているわけだから、やっぱりやれることはやろうかなという(諏訪)

・忘れられた者の肖像を描くため中国へ。大地に埋もれた記憶をつかみ取る。

<写実を超えていると言われている画家・諏訪敦>
・画家・諏訪敦は古典的な写実絵画の技法を使いながら、常に挑発的な作品を発表し続けてきた。その描写力は写実を超えているとも言われる。
・「恵里子」。結婚を間近に控え交通事故で亡くなった女性。両親から「娘を蘇らせてほしい」と依頼された。今は亡き娘を描くにあたり、諏訪は膨大な遺品をあらため、聞き取りを進めた。
・それだけではない。両親をデッサンする。骨格に触り遺伝子を探ろうとする。例えば手を描くために、残された画像を調べ尽くす。さらに義手を作る職人に頼んで、彼女の手を精巧に再現してもらった。

本当に指の先が綺麗なんですよね(諏訪)

・執拗なまでの徹底した取材。その追究の果てに諏訪の作品は生み出される。
・取材と対話を繰り返すことで蘇った娘の姿。

一つのものを描くにしても絵には表れない、いろんな事情を持っていたりするわけですよね。そのモチーフになる人、モデルになる人に関しては。それを全て知っておくということは最終的に絵に表れないにしても、とても重要な情報というか重要な内容を含んでると思うし、それを一つ一つ知った上で納得して描きたいという気持ちが強いんだと思います(諏訪)

<中国大陸で亡くなった祖母を描くことに>
・2016年1月3日、諏訪は新たな大作に挑み始めた。まず粗くキャンバスに筆を走らせる。それは女性が横たわっている姿だった。諏訪が描こうとしているのは終戦直後、中国大陸で死んだ祖母である。諏訪が生まれる20年以上も前に死んだ祖母に、諏訪はもちろん会ったことがない。
・艶のある黒髪、祖母は亡くなったとき31歳だった。美しい女性の姿が現れてきた。しかしこれはまだ祖母ではなかった。

最初、普通のというか、むしろすごく健康状態のいい人を描いているわけだけれども、この状態というのは。これからこの人に自分の祖母になってもらうというか。だからこれから少しずつ殺していくんですよ。健常者をこれから病的にしていくわけだから。一枚の絵で時間系列で言うと、次第に殺していくような感じ。仮想的に(諏訪)

・絵の中で殺す。事の始まりは17年前に遡る。

こういう感じで原稿用紙に鉛筆で書いていたものなんですね(諏訪)

・平成11年、父親ががんで死亡する直前、諏訪に手記を託した。そこには諏訪の知らない家族の歴史がしたためてあった。

結構びっくりはしましたよ、やっぱり。何となく家族には何も話してない内容だったので(諏訪)

・手記によれば、諏訪の父の家族は山形で和菓子屋を営んでいた。その一家が大陸に渡る。国が推し進めていた満蒙開拓団に参加したのである。そのとき父の豊さんは8歳だった。
・その目の前で母と5歳の弟が飢えと感染症に苦しみ命を落とした。大陸に渡ったのは既に敗色が濃厚だった昭和20年4月、そんな時期になぜ満州に行ったのか。手記には父の怒りがにじんでいた。

「昭和二十年敗戦の年に渡満すると危険な事は政府ではわかっていた事ではなかったのだろうか」「歴史上の事として諦めの付かない現在の自分の思いから、もう一度言いたい。責任者出て来いと」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

・今際の際で父はなぜこの手記を託したのか。詳しく聞きたくても父の病状が悪化してしまった。
・諏訪は病床の父の姿を描いた(「father」)。父が息を引き取った後も何度も描き続けた。すると「父の無念を晴らしたい」という思いが膨れ上がっていった。

忘れ去られていったりとか、無かったも同然のことになっていく人生ってたくさんあるじゃないですか。たぶん父親もそのうちの一人なんですよ、きっと。だけども、ちょっとそうしてしまうにはあまりに…っていう内容がここにあるので。画家なりのやり方で一矢報いることはできないかなということを考えるようにはなりましたね(諏訪)

・父たちと同じような体験をした人がいるはずだ。諏訪は話を聞こうと考えた。父と同じ昭和20年に満州に渡った人がいた。西村増雄さん(86)。

終戦の年になぜ皆さんは…恐らく危ないと思いませんでしたか?その年になぜ?(諏訪)

全然思わないです(西村さん)

行ってみて、その満州に入ってみて最初の印象はどうでした?(諏訪)

それは平和で、日本ではこうりゃん飯やら大豆がらの飯で弁当持っていっとったんでね。それが白飯で腹いっぱい食えるし。腹いっぱい食えることはもう幸せを感じる(西村さん)

そうですね(諏訪)


・満蒙開拓団。かつて日本が満州と呼んでいた中国東北部に送り込まれた約27万の開拓民。「五族協和 王道楽土」をスローガンに国策として進められた。日本にはなかった広大な大地、多くの人々が夢を抱いた。終戦間際まで開拓団は続々と送り込まれた。
・しかし昭和20年(1945年)5月、大本営は既にある決定を下していた。ソビエト軍が侵攻してきた場合、軍は南に後退。つまり開拓村の大部分を放棄するとしていたのである。この決定は開拓民に知らされなかった。
・8月9日、恐れていたソビエト軍の侵攻が始まった。人々は逃げ惑い、死の恐怖に直面することになる。

国やぶれて山河ありというけど、そんなきれいごとな話じゃなしに。国やぶれたら国民はゴミくずよりひどいんだ。捨てられてしまうんだからね(西村さん)

・満州に取り残された人々の中に諏訪の一家もいた。ソビエト軍に追われ、略奪の恐怖におびえながら逃避行の末に辿り着いたのは難民収容所だった。ここで父・豊の母、つまり諏訪の祖母は命を落とすことになる。
・そのときの様子を聞くため、満州へ行った家族の中で唯一今も健在な叔母に連絡を取った。博子さんは父・豊の一つ違いの妹だ。

収容所のときに、まずおばあちゃんが亡くなったと思うんですけど、そのときにはおじいちゃんいた?(諏訪)

いたの。寒い冬だと思うのね。とにかく雑なものだったわね。チフスだったから。結局みんなチフスよ、それでバタバタ亡くなってね(博子さん)

おばあちゃんに何か言われました?亡くなるときに(諏訪)

「いつでも笑ってなさいね」って言われたね。私いつでもブスッとしてたからね。「博子は笑いなさい」ってね。何も面白くないもんね、だってね(博子さん)


・「いつでも笑ってなさい」。息絶える直前まで我が子を案じ励まし続けた祖母。その人柄が伝わってきた。

ぼんやり。本当にぼんやりした感じ。ただ確実に生きていた人なんだなというのは、今まで写真の映像しかないから。そういう手触りはあるから。ちゃんとその時その時、特に過酷な状況で必死になって子どもを守って、我々につないでくれたんだなというような手触りは感じたんで、そこはよかったと(諏訪)

・このとき諏訪の中で祖母の存在が大きなものになった。父・豊の怒りは優しかった祖母の死が火をつけたのではないか。

<旧満州を訪ねて>
・旧満州、中国東北部。かつての南満州鉄道のレールの上を今も列車が走る。一家はこの鉄道に乗ったはずだ。

70年前と一緒ですね。川、凍ってる。広いよね(諏訪)

・ふるさと山形からやって来た家族は、この風景をどんな気持ちで見たのか。家族が入植した村を目指す。ロシアとの国境まで300km足らず、かつて馬大(マータイ)と呼ばれていた村。家族の痕跡を探す。村の中心部に来ると人々が集まっていた。寒い冬を越すため豚肉を分け合う。昔からの習慣だという。

日本人が住んでいた家などは残っている?(通訳)

あそこにシベリアニレの木が見えるでしょう。あれは日本人が植えたらしいよ。日本人が来る前、中国人はあちこちに住んでいた。管理するために、みんなを集めて開拓団のために働かせたんだ(村人)

働くのは中国人?日本人?(通訳)

全員中国人だよ(村人)


・満蒙開拓団には広い土地が用意されていた。それは地元の農民からひどく安い値段で買い取ったものが多かった。

日本人はどこに住んでいました?(諏訪)

日本人が住んでいた家はもう壊してしまった(村人)

一つも残っていない?(諏訪)

この村にはもう一軒も残ってないよ(村人)

本当に一掃されて何もないってことね。痕跡見つからず(諏訪)


・諏訪が日本で調べた資料に、祖父は醤油工場で働いていたという記録があった。醤油工場の跡地、今は空き地になっていた。

土台も何も残ってないなあ。井戸か何かですかね。アスファルト引かれてるわけでもないから土は一緒ですよね、きっとね。耕作した跡はないし。だけどこういう感じで見てたんだね(諏訪)

・凍てついた土と果てしない寒空。結局、家族の痕跡はそれだけだった。
・ソビエト軍が攻めてくると、開拓団の人たちは避難を開始した。諏訪の家族も殆ど着の身着のままで脱出したとみられる。250km離れたハルビンに辿り着いた一家は、一時的に小学校に避難した。当時のままの建物が今も残っていた。

「2日目の夕方、ソ連の兵隊が来て父たち大人の男を連れていってしまった。その時から父なしの家族は食事にも窮した。母はそれほど深い知り合いでもない人に、頭を床にこすりつけんばかりにして金を借り、私たちの鮭缶と握り飯を買い与えてくれたのであった」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

・祖母はここで踏ん張っていた。夫が連れていかれても一人で子どもたちを守っていた。祖母の目にはどんな世界が見えていたのか。

実はここからディテール見えないんですよ、煙ってて。煙ってるというか、外の汚れと窓ガラスについた汚れとここの歪みで正確に見えないんで、スケッチを描くという意味では最悪のものなんですけど。だけど彼らが見た風景というのはこうなんですよ、絶対。だから窓を開けてないんです(諏訪)

・追い詰められた祖母の視線を画家は描くことで体に記憶させていく。諏訪はまた少し、祖母の感触に近づいた。
・2月8日、絵を描き始めて1か月。キャンバスには横たわる裸婦像が描かれていた。透き通るような肌の質感。色調は暗いが若く健康的な女性だ。
・これからこの女性を殺していく。逃避行の末、多くの開拓民は難民収容所に身を寄せた。そしてそこで飢えに苦しんだ。豊な肉づきをそぎ落としていく。

絵を通して、絵の仮想の人物に同じ経験をさせるということは、僕が経験することと一緒じゃない。祖母と一緒に悩むということでもあるから(諏訪)

・頭蓋骨を取り出した。こけて浮き立つ頬骨の形を探る。そのとき諏訪が意を決したようにキャンバスに向き直った。
・祖母はどのように死んだのか。諏訪は同じ難民収容所にいた人を訪ねていた。松下成司さん(86)、新香坊収容所での生活は日に日に過酷さを増した。

お墓の穴掘りをした、あれも思い出だ。寒中になると凍ってしまって掘れないもので暖かいうちにな、穴をいくつも掘ったね。100個くらい掘ったんじゃないかな。だいぶ掘ったで。冬になったら、ぞろぞろ穴に埋めるように。大勢死ぬってことが分かっていたもんで(松下さん)

・諏訪は家族の写真を見せ、記憶にないかと尋ねた。

申し訳ないけど分からんね(松下さん)

・取材を重ねても家族のことを知る人は現れなかった。

<父や祖母の当時を知る人と出会うことができた>
・長野県にある自動車部品の工場。経営者の鈴木俊寛さん(82)は12歳のとき、約1年間を新香坊収容所で過ごした。

豊くんはね小学生1、2年くらい大きかったよ(鈴木さん)

えっ?「豊くん」って言いました?(諏訪)

うん、印象はあるよ…豊くんはまだ子どもだもんで、おじいさんは和菓子職人で。言葉が長野県から見るとズーズーがかっとったな。この人は開拓団としての籍は持っとらん(鈴木さん)


・逃避行のどさくさで所属していた開拓団とはぐれてしまった諏訪の一家は、新香坊収容所で鈴木さんたちの開拓団に潜り込んだという。

開拓団の書類をごまかして入れとるけども、全く一緒とこでは…ちょっと離れたところでな、静かに目立たんようにおった(鈴木さん)

・家族の消息を知る人にようやく出会うことができた。鈴木さんは諏訪の取材に同行してもいいと協力を約束してくれた。
・中国・ハルビン郊外。新香坊収容所のあった場所に向かう。鈴木さんは13年前に収容所の跡を訪れたことがあった。しかし近年の急速な発展で、辺りは様変わりしていた。戦後、収容所から生きて帰った人たちが作った地図が手がかりだ。

基礎も何にも残ってないですね。イメージするの難しいですよね(諏訪)

あの煙突の立っとるような所から1棟2棟といってね、2~3におったね、千代開拓団は(鈴木さん)

・鈴木さんの開拓団が避難生活を送っていた場所、今は工場になっていた。諏訪の家族もここにいた。

宿舎の中は暖房設備はどんなものでしたか?(諏訪)

室内にはないよ(鈴木さん)

ない、室内にはなくて…(諏訪)

耐えられない者は死ぬだけだ(鈴木さん)

収容所に最後までいた子どもで生き残った子どもというのは少なかったんですか?(諏訪)

7歳以下では、うちの開拓団では総勢何人おったか知らんが、生き残ったのは1人だけ。それもよく生き残ってきたなって今でも言う(鈴木さん)

そんなに確率低かったんですか?(諏訪)

菜っ葉みたいなもんだ、子どもなんて。青菜っ葉みたいなもんで、ちょっとしたことですぐ死んじゃう(鈴木さん)


「元気いっぱいだった弟の具合が悪くなっていきました。弟は5歳になっていました」「弟のそばに寝ていた私は、夜中『サワサワ』という音に目覚めました。冷たくなった弟の体から近くに居る私の体へ移動するしらみの出す音だったのです」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

・11月、祖母・信子さんが発疹チフスにかかった。飢餓に苦しめられた体に抵抗力はなく、3日目に亡くなった。
・収容所で死亡した人々が埋葬された場所を鈴木さんが覚えていた。鈴木さんの母親も冬を越せず、この収容所で亡くなっていた。

おふくろが2月23日に亡くなった。寒いときに。巡回の看護婦さんが来て今晩が最後だよって。栄養失調で死んでくっていうのはボケてないんだよ。30いくつだから。頭ははっきりしておって、兄弟4人は残っているもんでな。「4人で玄界灘を泳いでお母さんの最期を伝えてください」て言って、我々の名前を呼び呼び、息を引き取っていった。毛布みたいなの被せてあるけど、さあ死んだで担ぎ出そうっていったら骨だな。骨の上に皮がかぶってるだけ。本当に骨。最初はゴボウの穴へ置いといて、それはくぼんでいるから雪かぶせて。私だけじゃない、みんなそうね(鈴木さん)

そのときは、ちょっと立ち入ったことを聞きますけれども、そのときにはどう思いましたか?(諏訪)

人が死んでそうするって珍しいことでも何でもない。当たり前のことだもんね。毎日4~5人、今日は2人か3人かっていうようなもんで(鈴木さん)


・祖母たちもここに埋められたとみられる。新香坊収容所で死亡した人は3338人を数える。
・遺体をどんなふうに運んだのか、諏訪は教えてほしいと言い出した。画家の本能が動き出す。諏訪は執拗に再現を試み、埋葬の様子を何度も質問し続けた。

<絵の中で祖母の姿を殺していく>
・2月22日。諏訪が描こうとしているのは、あの埋葬地に横たわる祖母の姿だった。既に飢えて痩せ細った体。これからこの体を病気にしていく。
・祖母の死因となった発疹チフスとはどんな病気なのか。諏訪は感染症の専門家を訪ねていた。

あまり体験者に聞いても特別、その発疹という話は出てこないんですけれども(諏訪)

体のこう体幹部と私ども言ってますけど、体の中心部と言うんでしょうか、ここから発疹が出始めるという(国立国際医療センター 国際感染症対策室の加藤康幸さん)

顔には現れない?(諏訪)

出ないみたいなんですね。だから気がつかなかったってこともあるかもしれませんし(加藤さん)


・当時、満州の収容所で発疹チフスの致死率は50%を超えていたと言われる。既に衰弱した体が容赦なく死病に蝕まれていく。諏訪の絵筆が祖母の命を削り取る。

やっぱり身に起こったことは事実なんで、ちょっと削除ではできないかなっていう。感情的には描きたくないですけどね、正直。やっぱり気持ちのいいものではないので。何か生理的にくるものあるじゃないですか、発疹というのは。それをこう身内の体に施すというのは、ものすごく抵抗があるものだけど。だけど、もうそこはやるしかないなというふうには(諏訪)

・敵国の追跡、略奪、そして飢えと病。祖母はむごい運命にのみ込まれても常に子どもを守ろうとし「笑っていなさい」と言い残して死んだ。
・諏訪の筆が止まった。

これぐらいかな…髪の毛がこんな艶々でいいのかとかさ、尊厳めいた美しさみたいなのを残しつつ、やりたいとは思っているんだけど。例えば陸路で逃げてきた人たちというのは、ソ連兵の暴行を避けるために髪の毛を切ったりとか、そういうことをしていたという話は随分聞くんだけれど、それは収容所の中でも一緒だったのかということだったり(諏訪)

・諏訪はこれ以上、祖母の姿をおとしめることにためらいを感じ始めた。せめて黒髪だけは残したいと葛藤していた。
・電話の相手は一緒に中国に行った鈴木さんだった。

ちょっとお伺いしたいことが、いくつか出てきて…。女の人というのは髪の毛を切っていた人が多かった?(諏訪)

別に取り立てるほどの問題じゃない。当たり前だよ(鈴木さん)

それは鈴木さんのお母さんもされていました?(諏訪)

はさみでジャキジャキ切ってな。バリカンがあるわけじゃないもんでな(鈴木さん)

じゃあ開拓団で来てる人、特に鈴木さんと行動をともにしていた人たちというのは、大体それは…髪の毛切ったりはしていたということですよね(諏訪)

だいたいじゃない。全部強制だわ(鈴木さん)

強制なんだ(諏訪)

みんな言うこと聞かなきゃ、何かというとき協力してもらえんじゃ。団長もおったしな。あの当時、生きとったのが不思議なくらいだでね。画像にすると、ある程度みじめさがにじんでないとと思うな(鈴木さん)


<完成した絵に込められた思いは…>
・3月1日。1週間が過ぎた。若き日の祖母の写真を貼る。

いろいろ考えました?(取材者)

それはずっと考えてはいるんだけど…。うん、頭の中ではね、結論は出てるんですけど、結構前から。どっちにしろ、やってみなきゃ分からないので(諏訪)


・キャンバスに筆を進めた。

僕の頭で考えた結論というものは切らないという方向だったんですよ、実際は。何かでも、やってみると違いましたね。いいんだって思いました。かえってこう…何て言うんだろう力強いし、情緒的な部分がね無くなってしまったから、かえって…この方向の方がいいような気がします。だから事実を尊重する方向でいこうかなというふうに(諏訪)

・結局、諏訪のまなざしは祖母を見つめ続け、絵筆は事実を選び取った。

努力して思い出したりとかしない限り、僕とは関係がなかった人間でしょ。彼女が死んだ土地に行っても、何の情報も出てこないということは完全に抹消されてるということだよね。抹消したのは誰なのかというと、それはその当時の政府でもあるだろうけれども、我々でもあるんだよね、きっと。思い出そうとしなかったということでしょ?だけど確実にこの人がいないと、僕自身が存在できなかったから。もうこのタイミングを逸したら召喚する機会を永遠に失うんで。せっかくこういう仕事をしているわけだから、それはやるでしょ(諏訪)

・父の無念を知ってから17年。追い求めた家族の肖像は白くかすむ大地の向こうにいつも消え入りそうになった。かすかな残響を辿ってきた画家は、旅の終わりにようやく手を合わせた。
・3月13日。絵を描き始めてから2か月と10日、間もなく完成するという連絡が入った。
・「哈爾濱(ハルビン)1945年 冬」。諏訪が描き出した女性の遺体。そこにはその女性が辿ってきた過酷な時間が込められた。腹部に描かれた妊娠線は愛する子どもたちの記憶。歳月の中に埋もれようとしていた存在の重さ。それをこの絵は弔い埋葬したのか。それとも忘れさせまいと掘り起こし、よみがえらせたのか。

彼女が持っていた、そういう無念だったであろうとか、自分の子どもたちに馳せた思いとかを何て言うのかな、簡単に代弁したくないという気持ちはあるの。ただ過去の彼女と祖母と何かをやり取りしているという実感は、そう意味では手ごたえはありました(諏訪)

(2016/9/19視聴・2016/9/19記)

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【NHKスペシャル】自動運転革命 日・独・グーグル覇権をかけた攻防

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【NHKスペシャル】
「自動運転革命 日・独・グーグル覇権をかけた攻防」

(NHK総合・2016/9/17放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 雨模様の連休最終日、この週末に放送されたNHKスペシャル2本を立て続けに視聴しました(正確には今日も「私たちのこれから♯健康格差 あなたに忍び寄る危機」の放送がありましたが、こちらは一応視聴しましたが記事を起こしません)。

 ということで、まずは「自動運転革命」。自動車が文字通り「自動」で運転する「車」となることが現実のものとなりつつある、その最前線を追ったドキュメント。非常に興味深く視聴しました。

 もちろん全てのメーカーの動向を追ったものではないので、どのぐらいこれが実用化できる状況になっているのかは鵜呑みには出来ませんが、例えば既に衝突防止機能などは実用化されていますし、番組でも紹介されていた日産が8月に発売した「セレナ」は高速道路での巡航走行を自動制御するものとなっています。

 今後、議論しなければならないことは数多くあるでしょう。例えば「事故発生時の責任をどうするのか」という点は一番思いつきやすい話ですね。単なるアシスト機能とみれば、あくまで運転者に責任があるということになりますが、最終的なレベル4段階では、もはやソフトウェア側(つまり自動車メーカーもしくはソフトウェア開発会社)の責任になるでしょう。

 そういった法的整備もそうですし、自動車保険の問題、運転免許をどうするのか、乗務員が飲酒や睡眠をすることの可否とか、自動運転を悪用しようとする者に対するセキュリティーなど何だかこの話をするだけで飲み会で話題が尽きないぐらいネタが盛り沢山です。

 また番組でも触れていましたが、自動車業界という日本の基幹産業にも大きな影響が出てくる話も尽きません。ミラーを製造しているメーカーが業態転換を求められるということは、何だか電子書籍やスマートフォン、タブレット端末の普及によって印刷・出版業界が紙媒体から大きな転換を求められている話と似た話に思えました。

 さらにバス、タクシー、トラックなどの「運転手」という職業が近い将来すべて自動化されて無くなるということも決して非現実的な話ではないですね。そうなると車に限らず、鉄道や飛行機などもどうなるのか。

 私が老後を迎える頃、どんな時代になっているのか。自動化が進むことで人間が便利さを享受でき、今よりしゃかりきになって働かなくてもいい世の中になっていればいいのですが、逆に人工知能が世の中を支配して、人間がそれに駆使されていたりして(苦笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・60年前、アメリカの自動車メーカーが制作した映像。スイッチを入れると「自動運転に切り替わりました。ハンドルから手を離して下さい」と音声が。人が操作しなくても走る自動運転、当時は夢の車だった。
・今、夢は現実になろうとしている。世界中で加速する自動運転の開発競争。人に代わってコンピューターが走行をつかさどる自動運転。これまで車づくりとは大きく異なる技術が求められる。
・自動車メーカーがしのぎを削る開発競争。世界に先駆けて市街地での自動運転の実現を目指すのが日産自動車。NHKはその開発現場を独占取材した。開発の鍵を握るのはカメラによる画像認識。車や人などの動きを捉え、運転を制御する最先端の技術。人と同じか、それ以上の分析力、判断力が求められる。
・自動車メーカーにとって今、大きな脅威となっているのが、ITの巨人グーグルの参戦。市街地に数多くの車を走らせ、地球70周分を超える膨大な走行データを収集。人間の経験値を超えたソフトウェアを作り、自動運転の市場を一気に制しようとしているとみられている。
・車づくり、そして私たちの社会をも変えうる自動運転革命。その最前線に迫る。

<独占密着 自動運転開発の舞台裏>
・神奈川県にある日産の開発センター。一部の関係者以外、入ることを厳しく制限された中枢に初めてカメラが入った。開発中の自動運転車、後部にはコンピューターがぎっしり積まれている。自動運転をつかさどる、いわば頭脳。
・これまで自動車メーカーはエンジンの性能や燃費などの開発を競ってきた。しかし自動運転では運転を制御するソフトウェアの開発が中核となる。
・車の周囲には数多くのカメラ、センサーが取り付けられている。自動運転では人に代わって車自らがハンドルやブレーキなどを操作をする。人の目にあたるのがカメラやセンサー、周囲を認識する。その情報を人の頭脳にあたるソフトウェアが分析、判断。それがハンドルやブレーキに伝えられ、人の手や足のように操作する。
・ドライバーが運転から解放される自動運転。高齢者や障害者などの移動手段としても期待されている。さらに運転ミスを防ぎ、事故が大幅に減るとされている。
・20年後には4台に1台、年間3000万台を超えるといわれる自動運転車。いち早く実用化すれば、世界で大きなシェアを奪うことができる。

とにかく早く実現することです。ライバルの先を行けば大きな利益を得られますが、後れを取ればそれは停滞を意味します(日産のカルロス・ゴーン社長)

・自動運転のレベルは4つの段階に分けられる。ハンドル、アクセル、ブレーキのいずれかを自動で操作するのがレベル1。既に普及している自動ブレーキはこれにあたる。
・複数の操作を自動で行うのがレベル2。ハンドルとアクセルを操作し、車線変更するケースがこれにあたる。
・そして全ての操作を車が自動で行うのがレベル3。ここまではドライバーの乗車が必要。
・さらにドライバーすら不要になるのがレベル4。完全な自動運転だ。
・今、世界中の自動車メーカーが開発を競っているのは、レベル2から3の間。
・日本のトヨタ自動車やホンダ、アメリカのフォードやGM、ドイツのアウディやメルセデス・ベンツなど世界の名だたるメーカーが攻防を繰り広げている。
・最先端のIT企業が集まるアメリカ・シリコンバレー、自動運転の激しい競争の舞台となっている。
・日産の自動運転開発チームの責任者、飯島徹也さん。日産もここを拠点にして世界各国の技術と人材を投入している。日本の研究開発拠点と連携しながら、試行錯誤を繰り返している。

この車の価値は世界最高の頭脳が余すところなく注ぎ込まれている。とにかく一番先を切り開くには世界中の英知を結集して全力でやるということ(飯島さん)

・飯島さんたちは2年前から実際の公道でテスト走行を重ねている。決められたコースをドライバーが全く操作せずに走り切るのが目標。コースは高速道路や一般道からなる約20km。カメラなどで捉えた周囲の情報を基に、ハンドルやブレーキが的確に操作されるよう調整していく。

周りの車との関係をどう判断するか、どのタイミングで動き出すか。どれくらいの距離に近づいたら減速して安全な距離を取り始めるか、細かい判断のタイミングの調整になります(同上)

・カメラで白線を認識し、車が進むルートを決定。前の車を確認して止まる。高速の合流地点にさしかかると、車間距離を保ちながらスピードを調整し、車の流れに入っていく。
・しかし大きく曲がったカーブの出口で車が急にふらついた。

ここは難しいところなんですよ(同上)

・思わずハンドルに手をかけた。カーブの形状を車が十分認識できなかった可能性がある。
・日産が目指しているのは、2020年に市街地での自動運転を実現すること。まだどのメーカーも実現していない高い目標。
・高速道路に比べて市街地では、ソフトウェアが処理しなくてはならない情報量が圧倒的に増える。前後左右の車との間隔やスピードはもちろん横断歩道を渡る歩行者の動き、そして信号や標識を読み取らなければならない。これら全てを的確に把握し、運転を制御する能力が自動運転車には求められる。あと4年で実現するには、乗り越えなければならない課題が山積している。

精度を上げていく。基本的な動きは出来るようになっているが、まだ粗い。ここから先が一番苦しいところ(同上)

<激化する開発競争 リードするドイツ勢>
・今、自動運転の開発で一歩リードしているのがドイツ勢。アウディが時速200kmを超えるスピードで自動走行を実現。ドイツでは国が自動運転を産業政策の柱に置くなど開発をバックアップしている。
・メルセデス・ベンツはレベル2、複数の操作を自動で行う車を他社より早く市場に投入した。今年春に発売した新型車、市街地での自動運転はまだ出来ないが、高速道路での車線変更などを自動で行う。
・さらにメルセデス・ベンツはレベル4、完全自動運転のコンセプトカーも発表している。自動運転モードに切り替えるとハンドルは格納され、車内はリビングのようにくつろぎの空間に変わる。
・その車が実用化された未来の社会を描いた映像。朝、家を出ると車が玄関まで出迎える。目的地を指示すると車が自動で連れて行ってくれる。歩行者を検知したら自動で停止。安全性が高まり、事故も大幅に減らすことができるという。

私たちには歴史と経験があり、世界をリードしています。これからも世界をリードし続けるでしょう。世界のどのライバルにも負けません(メルセデス・ベンツ開発責任者のミハエル・ハーフナーさん)

<“世界市場を制する”巨人グーグルの衝撃>
・世界の自動車メーカーがしのぎを削る自動運転車の開発。そこに全くの異業種から参入してきた企業がある。ITの巨人グーグルだ。得意とするビッグデータの解析や人工知能などを武器に開発競争に乗り込んできた。

何十万という歩行者や車のデータから、それぞれがどんな姿をしているか理解し、見えているものが何かを推測します。さらにそれぞれがどう動くか予測するモデルも作りました。この技術を早く実現したいと思っています(グーグル開発責任者・当時のクリス・アームソン氏)

・自動車メーカー各社はレベル1から4に向けて、一歩ずつ技術を高めている。それに対してグーグルは全く違うアプローチで一気にレベル4、完全な自動運転を目指すというのだ。
・その武器はビッグデータ。市街地を走行して交通に関わるあらゆるデータを収集する。例えば、子どもと大人ではどんな動きをするのかなど、人間が経験によって獲得する予測能力も備えたソフトウェアを開発しようというのだ。
・開発はどこまで進んでいるのか、NHKは取材を申し入れたがグーグルは応じなかった。開発拠点の駐車場、自動運転車と見られる車が何台も止まっていた。
・毎日ガレージからその車が次々と出てくる。NHKはそのうちの1台を追うことにした。車の上には周囲を認識するためのセンサーが付いている。車は時速30kmほどで公道を走っている。信号のない交差点にさしかかると、ぴったり一時停止線の上で止まった。道路を横切る歩行者を検知したのか車が減速した。自転車に近づくとスピードを落としながら距離を取り、追い抜いていった。

自動運転の車ですか?(記者)
そうですよ(ドライバー)
完全な自動運転ですか?(記者)
完全自動運転です。レベル4です。私たちの車は常に制限速度を守り、とても安全です(ドライバー)

・開発がどの段階まで来ているかは、定かには分からなかった。しかしテスト走行に使っている車は50台以上、走行距離は延べ300万km以上、地球70周分を超えていることが分かった。
・世界の自動車業界に詳しいアナリストは、グーグルの狙いは車そのものを開発することではないと言う。

グーグルは自動運転システムのプロバイダーになるつもりでしょう。スマートフォンのアンドロイドと同じことです。グーグルは自動運転のプロバイダーになりたいのです(自動車アナリストのサム・アブールサミッドさん)

・自動運転システムのプロバイダー。それはグーグルが開発した自動運転の頭脳にあたるソフトウェアを世界中の自動車メーカーに供給するということだ。グーグルが自動運転車の中枢を握れば、自動車メーカーの地位が脅かされかねないと専門家は指摘する。

(自動車メーカーはグーグルの下請けになってしまうのですか?)
いずれはグーグルと組んだ方がいいと考える自動車メーカーも出てくるでしょう。メーカーは当面は自動運転車なしでもやっていけるでしょうが、いずれ自動運転車が必要になります。自社で開発できなければパートナーを見つけるしかありませんからね(同上)

<独占密着 自動運転開発の舞台裏>
・グーグルも参入し、激しさを増す自動運転の開発競争。日産は開発スピードを上げるため、強力なパートナーを探していた。
・軍事技術を基にハイテク産業を育ててきたイスラエル。ここに日産の自動運転の開発責任者、飯島さんの姿があった。
・市街地での自動運転をいち早く実現しようという日産。特別な技術を探し求めてやって来た。

ハイテクが密集して新たな技術が反応を起こして生まれていく場所になっているから、そういう意味でここに来れば新たな技術に触れるチャンスがある(飯島さん)

・飯島さんが訪れたのは、カメラによる画像認識で世界トップレベルの技術を誇るモービルアイ。目標を早く達成するため、自動運転の鍵を握る画像認識の分野でこの会社と組むことにした。会議は企業秘密だとして撮影は断られた。
・交渉の末、開発現場の一部にカメラを入れることができた。トップクラスのエンジニアたちが集められ、プログラミング作業などを行っていた。
・モービルアイの画像認識技術。映っているのは市街地の道路、車やバイクなどを一つ一つ確実に識別している。さらにそのスピードや自分の車との距離も瞬時に割り出す。突然バックしてきた車も捉え、次の動きを予測する。

私たちの技術は完璧と言えるレベルに達しています。他社が私たちに対抗するのは、とても難しいでしょう。日産とは非常に緊密な関係です(モービルアイのアムノン・シャシュア会長)

世界で最も進んだ技術を使わずして、その先を作ることは出来ないと考えています。今までにない自動運転の世界というものを早く実現したいと思っているんです(飯島さん)

・アメリカ・シリコンバレーにある日産の開発拠点。モービルアイのエンジニアも加わり、その技術を開発中の車に搭載することにした。
・テストカーに同乗したモービルアイの技術者。そのパソコンにはカメラで捉えた画像が映し出されている。車が交差点にさしかかった。前の車を確認した上、赤信号を認識して自動で停止。信号が青に変わると周囲の車の動きを確認、発進した。
・順調に進むテスト走行。しかしこの日、課題が明らかになった。カーブを曲がりきれず膨らんでしまった。隣のレーンを他の車が走っていたら接触事故を起こしかねない動きだった。
・このとき一体何が起きていたのか。人の目にあたるカメラで認識した情報を頭脳であるソフトウェアが判断し、ハンドルやアクセルに伝える自動運転車。モービルアイが担うカメラで捉えた情報がソフトウェアにうまく伝わらなかったのか。それとも日産が担うソフトウェアからハンドルへの指令がうまく伝わらなかったのか。早速、走行データを取り出して原因を突き止める作業が始まった。

ハンドルの制御も改善しますが、カメラによる画像認識も改善が必要です。解決策はあると思います(飯島さん)

カメラの画像認識とハンドルの制御をうまく調整していきましょう(モービルアイの技術者)

・モービルアイの技術者はプログラムの修正をイスラエルの開発チームに依頼。日産の技術者も車を制御するソフトウェアの修正を進めた。

これで今イスラエルにデータを送って、時差が8時間あって、ちょうど向こうは昼前なので(飯島さん)

・一つの不具合が見つかると24時間以内に解決する。
・翌朝、それぞれが修正したプログラムを車に搭載しコースに出る。前日、膨らんでしまったカーブにさしかかった。スムーズに曲がり切ることができた。
・こうした課題を一つ一つ改善していく日々。人の目や脳と同じレベルに到達するには、まだ長い道のりがある。
・開発チームにとって節目となる日がやって来た。現れたのはゴーン社長。自動運転の鍵を握る画像認識のシステムなど、どの段階まで進んでいるのかアメリカまで確認にやって来た。飯島さんはゴーン社長を隣に乗せ、公道に出て行った。

(ばっちりですか?)
大丈夫です(飯島さん)
(ゴーンさんも何かおっしゃってました?)
impressed(感動した)。実際の道路で難しい環境にチャレンジすることが実用化に向けて技術開発していることだということで、よく理解していただきました(飯島さん)

・既にこのとき世界のメーカーは自動運転機能が付いた車の市販を始めていた。ゴーン社長からは、開発をスケジュール通り進めるよう改めて求められた。

非常に長い戦いになると思いますし、その手前で一つずつ実現に向けてステップを上っていかなければいけないということになると思います(同上)

<自動運転の衝撃 日本の基幹産業は>
・これまでの車づくりとは大きく異なる技術が求められる自動運転。そのインパクトは日本の基幹産業、自動車業界全体を揺るがしかねない。
・自動車産業はトヨタや日産などを頂点に数多くの部品メーカーが連なっている。その規模は50兆円にのぼり、日本の輸出全体の20%を占める。自動運転革命は部品メーカーにも大きな変革を迫っている。
・静岡県にある自動車ミラー最大手の村上開明堂。国内シェア40%を占めるこの会社も自動運転革命の波にさらされている。自動運転車が普及すれば、周囲を認識する機能はミラーからカメラに置き換わる可能性があるからだ。

9割がミラーの生産で企業が成り立っているものですから、それが無くなるということなんですけど。今の企業の成り立ちで大丈夫かと言われると大丈夫じゃない。別のことは考えていかないといけない(村上開明堂の奥野雅治常務)

・こうした危機感を背景に、会社では自動運転時代に対応した部品の開発を急いでいる。今、開発しているのがカメラで捉えた周囲の映像を映し出す装置。これまで磨いてきたのとは別の技術を投入して、生き残りを図ろうとしている。

自動運転が出てきてから、産業の構造が変わってくるだろうと。目に見えない電子制御部品がどんどん増えるようになってくるので、なんとか後れないようにやっていこうと(同上)

<自動運転の衝撃 ドイツメーカーの攻勢>
・自動運転によって変革を迫られる日本の自動車産業。今、海外の部品メーカーが着々と進出してきている。500を超えるメーカーが参加した自動車部品の展示会、多くの関係者の注目を集めているブースがあった。ドイツの部品メーカー、コンチネンタル。もともとはタイヤメーカーだったが、今はカメラやセンサーなど自動運転に必要な部品を開発している。
・コンチネンタル・ジャパンのクリストフ・ハゲドーンCEO。最近、日本の自動車メーカーからの引き合いが多いという。

スズキも我が社のセンサーを採用しています。ここにあるセンサーもそうですね。マツダは私たちのセンサーの日本で最初の顧客です(ハゲドーン氏)

・国を挙げて自動運転の開発を後押しするドイツ。コンチネンタルは売上高4兆円を誇り、年々業績を伸ばしている。

これはカメラとレーザーの一体型センサーです。自動運転に必要なものを部品でも一括したシステムでも提供できます(コンチネンタル開発責任者のアルフレッド・エッカートさん)

・コンチネンタルの強みは個々の部品だけでなく、カメラやセンサー、ソフトウェアなどをセットで供給できる点。一方、日本の多くの部品メーカーは専門性の高い部品をそれぞれ供給してきた。一括して部品を供給できるコンチネンタルは、その強みを生かして日本市場に分け入ろうとしている。
・日本の公道で既に自動運転のテスト走行を始めているコンチネンタル。ナンバープレートに記されているのは「2020」。東京オリンピックに向けて、自動運転の開発を加速する日本を大きなターゲットにしている。
・トヨタ自動車の本社がある愛知県豊田市。コンチネンタルは去年、ここに営業などの拠点を開設した。従業員は約50人、今後2倍に増やす予定だ。さらに自動車メーカー本社の近くに次々と営業拠点を開設している。

私たちの狙いは日本市場だけでなく、日本の自動車メーカーが持っている世界市場なのです。今後5年で売上を2倍に増やす目標です。既に売上は大幅に伸びています。私たちの技術力をもってすれば確実に実現できます(ハゲドーン氏)

<自動運転時代 新たなステージへ>
・2020年、市街地での自動運転を目指す日産。先月、高速道路の自動運転機能を搭載した車を発売した。その車に搭載されたのは、最先端の画像認識技術を持つモービルアイのカメラ。目標に向けた第一歩を踏み出した。
・そして世界は自動運転時代を見据え、大きく動き出している。東京で開かれた国際会議、各国の政府関係者や自動車メーカーの責任者が一堂に会し、自動運転の安全基準など共通のルールづくりについて話し合った。自動運転は夢の技術から現実へと新たな段階に入ろうとしている。

ここが変革のターニングポイントだと思います。ここでさらに新たな力をつけることができるかできないか、それが将来に向けて今問われていると思います(飯島さん)

・18世紀後半、ヨーロッパで誕生した自動車。時代とともに進化しながら、私たちの暮らしや社会を大きく変えてきた。自動運転革命、今かつてない変革の時代が到来しようとしている。

(2016/9/19視聴・2016/9/19記)

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【NHKスペシャル】完全解剖 ティラノサウルス~最強恐竜 進化の謎~

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【NHKスペシャル】
「完全解剖 ティラノサウルス~最強恐竜 進化の謎~」

(NHK総合・2016/9/18放送)
※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/

<感想>

 先週末から毎晩続いたNHKスペシャル。日曜の晩は、今をときめくディーン・フジオカ様がナビゲーターで、事前の番宣も大変多かった「ティラノサウルス」。土曜日は未来のお話、日曜日は古代に思いを馳せるという、なかなか粋な番組編成に思いましたね、NHKさん。

 ついでに上野の博物館の特別展とタイアップなのかなと思いましたが、それも無いようです。ただ恐竜の博物館として有名な福井県立恐竜博物館ではちょうど(この記事を書いている時点で)ティラノサウルスの特別展があります。むしろこっちかと思いました(笑)

 恐竜博物館は一昨年の年末に福井を旅したときに寄りたかったのですが、時間の都合で諦めたのでまだ行ったことがありません。ここは1日掛けて見学するぐらい充実した展示だと聞いていますので、ぜひ行ってみたいところです。それまでに新たな発見が日本で起こってほしいと思いますね。

 で、本題の番組の感想。多くの科学者が登場し、縱橫にティラノサウルスの諸説を語る内容ですが…中には「これちょっとホントなの!?」と思いたくなるものもありましたが、まあ突っ込むのは野暮ということで、喧々諤々するのは専門家の皆さんに任せることにしたいと思います。

 一つだけ特に印象に残ったのは「共進化」の話。ティラノサウルスとトリケラトプスが共に競争し合うということで進化していったというのは、これは私も間違いない話だと思いました。そのダイナミックな競争が繰り広げられている足許で、私たちの祖先は身を小さくして過ごしていたということなのですが(笑)

 最後にディーンさん、ナビゲーターよりもドラマの方が向いていますね。ぜひまたNHKの良質のドラマでの活躍を期待しています。どうやら再来年の大河ドラマの主人公が西郷隆盛になったようですから、五代友厚で再登場というのも面白いですね!

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・去年7月、長崎県で驚くべき恐竜の化石が発見された。その恐竜こそ地球の歴史で最強ともいわれる生物・ティラノサウルス。全長約13m、体重6トン、圧倒的な力を持つ恐竜界の王者だった。大ヒットした映画「ジュラシック・ワールド」の中でも大暴れした。
・今、科学の世界ではティラノサウルスの研究ブームが起きている。生物がどれほど大きく強くなれるのか、生命体の極限の可能性がここから探れるというのだ。
・日本をはじめ世界各地でティラノサウルスに関する新発見が相次ぎ、科学的な解析技術の進歩から謎に包まれていた真の姿が明らかになってきた。
・例えば生物の常識を覆す卓越した身体能力。さらに驚異的な脳と知性を持ち、それを使って獲物を狩っていたことも分かってきた。
・そして最大級の発見はティラノサウルスの祖先。信じられないほど小さく、ひ弱な恐竜だったという事実。一体何が敵におびえるか弱い生物を最強の王者へと変貌させたのか。そこには1億年にわたる驚くべき進化のドラマがあった。
・そして最後に待っていた思いもかけない結末。史上最強の恐竜ティラノサウルス。その謎に迫る知の冒険。

<最新科学で迫る 最強恐竜 進化の謎>
・ティラノサウルス・レックス(通称T・レックス)は全長13m。その大きさにも驚くが、目を引くのは体を覆う羽毛、最新の研究で明らかになってきた事実だ。
・実は今、世界中の科学者がティラノサウルスの研究に夢中になって取り組んでいる。その理由は地球に生命が誕生して約40億年。何百万種、何千万種とされる生物の中で、このティラノサウルスが最強と言われているからだ。そこには生物の進化の秘密が詰まっている。
・アメリカ・シカゴにある恐竜研究の一大拠点、フィールド自然史博物館に最も完全に近いティラノサウルスの全身骨格が展示されている。約1.5mの巨大な頭蓋骨をはじめ、250以上の骨が緻密に組み合わされて出来ている。1990年にアメリカ中西部の荒野で発見されたものだ。
・こうした骨格を世界中の恐竜研究者が調査し、ティラノサウルスの姿の復元に挑んできた。ティラノサウルス研究の第一人者、イギリス・エジンバラ大学のスティーブン・ブルサッテ博士。

ティラノサウルスはどんな恐竜だったのか。長い間、古生物学者たちは見当もつきませんでした。しかし近年、新たな発見によりその見方は根本的に変わりつつあります(ブルサッテ博士)

・最新の研究成果は、太く発達した2本の後ろ足で立つのが基本姿勢。体は地面とほぼ水平で、尾を上げた状態で移動する。かつては尾を引きずって歩いたと考えられていたが、骨格の精密な分析などから、これが基本姿勢だと分かってきた。
・そして体の大部分は羽毛に覆われている。羽毛は2012年に中国で発見されたティラノサウルスの仲間の化石から導き出された。化石の保存状態が極めてよく、そこに羽毛が確認された。

羽毛は体温を保つだけでなく、求愛や威嚇にも使っていたと考えられます。“自然の驚異”ともいうべき姿が明らかになってきました(同上)

<タイムトラベル 太古の恐竜世界へ>
・ティラノサウルスが闊歩していたのは、今から約7000万年前。恐竜の時代はどんな光景だったのか。
・恐竜は1億6000万年以上にわたり地球上で繁栄を極めていた。植物を食べる恐竜は約1000種類いたと推定されている。ちなみにこの頃、我々ほ乳類はちっぽけなネズミのような姿だった。
・植物食恐竜やほ乳類を襲って食べていたのが肉食恐竜たち。1000種類以上が登場し、厳しい生存競争を繰り広げていたという。
・そうした肉食恐竜の中で最も強く生態系の頂点にいたとされるのがティラノサウルス。なぜティラノサウルスが最強と考えられるのか。

<史上最強の恐竜 圧倒的なパワー>
・生物の筋肉や骨格を研究してきたリバプール大学のカール・ベイツ博士が注目したのは、恐竜たちの噛む力だ。恐竜の化石からは巨大な歯で噛んだ跡が数多く見つかっている。獲物を狩るとき、とどめを刺したのは噛むという行為だとベイツ博士は考えている。

歯型が骨まで深々と食い込んだ化石がたくさん見つかっています。とどめを刺すときは獲物にのしかかり、凄まじい“噛む力”で食いちぎったのでしょう(ベイツ博士)

・噛む力を生み出すのは巨大な顎。ベイツ博士が注目したのは頭蓋骨の形や構造。そこから上下の顎を繋ぐ筋肉の付き方を復元した。それを基にコンピューター上でシミュレーションを行い、噛む力の数値化に挑んだ。
・ニュートンという力の単位で表すと例えばサバンナの王者ライオンの噛む力は約4000ニュートン。水辺の殺し屋の異名をとるアリゲーターは約6000ニュートン。
・では恐竜たちの噛む力はどうなのか。ティラノサウルスの登場以前、最強と見られていたアロサウルスは約9000ニュートン(アリゲーターの1.5倍)。

(ティラノサウルスの噛む力は)最大で約6万ニュートンあることが分かりました。とてつもない力です(同上)

・実にアロサウルスの7倍の破壊力。シミュレーションによれば獲物を噛むとき顎にかかる重さは6トン、アフリカゾウ1頭分に相当する。
・これだけの荷重がかかれば、顎の骨が砕けてもおかしくはないが、ティラノサウルスの体にはそうならない秘密が隠されていた。頭蓋骨が40以上のパーツに分かれていて、あちこちに僅か数ミリの隙間が空いている。この隙間が噛んだときの力を逃し、ショックを和らげる効果を発揮していた。

驚くべき精密なメカニズムが噛む力を生み出していました。ティラノサウルスは、地球の生物史上最高レベルの攻撃力を持っていたのです(同上)

<史上最強の恐竜 驚異の身体能力>
・もう一つ、生物の強さを測る尺度がスピード。逃げる獲物を捕らえるとき、走るスピードは欠かせない。しかし体が巨大なティラノサウルスは動きが遅いと考えられてきた。従来の研究によると時速18km、人間より遅い数値だ。
・ティラノサウルスはのろまだという説に異議を唱え、新たな研究手法を生み出したのがイギリス・マンチェスター大学のビル・セラーズ博士。

恐竜の骨格のみから正確なスピードを割り出すのは困難です。そこで生きた動物の筋肉の動きから、ヒントを得ることにしました(セラーズ博士)

・現在の生き物の中でティラノサウルスと体の動かし方が似ているものは何か。セラーズ博士が辿り着いた動物がダチョウだった。

実はダチョウとティラノサウルスは体のつくりが似ていますどちらも巨体を2本足で支えています。ティラノサウルスの運動能力を理解する上で、ダチョウはとてもよいモデルなのです(同上)

・セラーズ博士はダチョウの動きなどを参考にして、ティラノサウルスの走り方をコンピューター上でシミュレーションした。そこからティラノサウルスがどの筋肉を使っているかが明らかになってきた。セラーズ博士が注目したのは腿と尾を繋ぐ筋肉。これまでこの筋肉は尾を動かすだけだと思われていたが、走るときに大きな力を生み出していることが分かった。

この尾の筋肉が足を後ろに引っ張り、凄まじい力を生み出していたのです。いわばティラノサウルスの主電源、エンジンのようなものです(同上)

・シミュレーションの結果、これまで考えられてきた時速18kmをはるかに超え、最速で50kmに達する可能性が明らかになった。

<史上最強の恐竜 世界で発見 繁栄の証し>
・ティラノサウルスを巡る最新の研究は、その驚くべき繁栄ぶりも明らかにしている。かつてはアメリカの一部の地域だけで発見されていたティラノサウルス。ところがここ数年、世界各地で仲間の化石が次々と見つかっている。
・例えば極寒のアラスカ北部。真冬には氷点下40度に達するこの地で小型のティラノサウルスが発見された(ナヌークサウルス)。餌が少ないため小型化したと考えられる。
・中国南部の江西省では不思議なティラノサウルスの化石が見つかった。特徴は細長く伸びた鼻先、童話の「ピノキオ」にちなんでピノキオ・レックスという愛称が付いた(キアンゾウサウルス)。T・レックスとは外見は異なるが、骨格の分析からティラノサウルスの新種と判明した。
・こうして発見された仲間は合計28種に上るという。最強の恐竜ティラノサウルスの仲間たち。約2000万年もの間、恐竜界を席巻していたことが分かっている。
・2000万年と一口で言うが、とてつもない長さだ。私たちホモ・サピエンスが誕生してから約20万年。ティラノサウルスがいかに長い間、この地球を支配していたかが分かる。

<最強恐竜 進化の謎 驚きのルーツ>
・ティラノサウルスは成長のスピードが極めて速かったという。卵から孵った後、成長期には1年に最大約800kgも増えていく。どれだけの獲物を食べていたのか。まさに最強の恐竜だ。
・ところが最強のイメージを一変させるような発見が中国であった。不思議な化石が出てきたのだ。
・中国・新疆ウイグル自治区にあるジュンガル盆地。近年の発掘調査でここから様々な恐竜の化石が見つかっている。発掘チームを率いる中国科学院の徐星博士はある日、未知の化石に出会った。

突然、仲間が大声で私を呼びました。近づいてみると、ずらりと並んでいる歯が見えました。見事な肉食恐竜の歯で、とても興奮しました(徐星博士)

・1億6000万年前の地層から姿を現した小型の肉食恐竜。歯や骨格などを詳しく分析したところ、この小さな恐竜がティラノサウルスの祖先にあたることが判明した。頭部に冠があることから冠竜グアンロンと名づけられた。
・研究から浮かび上がってきたグアンロンの姿、それはティラノサウルスとは似ても似つかぬひ弱なものだった。全長はティラノサウルスの13mに対して僅か3m、体重は80分の1にあたる75kgと推定された。

ライオンとネコほどの違いがあります。食物連鎖のピラミッドの頂点からは程遠い存在でした。本当に小さく、弱々しい生き物だったのです(ブルサッテ博士)

・このひ弱で頼りないグアンロンが一体どのようにして恐竜の王者ティラノサウルスへと姿を変えたのだろうか。最新の科学が進化の謎に挑んだ。ブルサッテ博士は、これまで発見されたティラノサウルスの仲間28種の骨の特徴を細かく分析し、進化のプロセスをあぶり出そうと考えた。系統解析と呼ばれる手法だ。

恐竜の骨には際立った特徴がいくつもあります。骨に突起があるか断面はどうか千差万別です。その全てが手がかりになります(同上)

・ブルサッテ博士はティラノサウルスの骨格から366もの特徴を抽出。膨大な骨のデータを解析し、ティラノサウルスの仲間を進化していった順番に並び替えた。
・そこから浮かび上がった系統樹。最も原始的な種がグアンロン、最強のT・レックスが最も進化した姿であることが分かった。
・それを世界地図にマッピング。1億6000万年前、中国で暮らしていたグアンロン。その子孫はアメリカ大陸に渡り、約7000万年前にはT・レックスへと進化したと考えられる。

<最強恐竜 進化の謎 新天地への壮大な旅>
・なぜ中国にいたティラノサウルスの祖先たちは、遠く離れたアメリカ大陸へと大移動したのだろうか。地球科学を専門とする海洋研究開発機構(JAMSTEC)の大河内直彦博士は、ティラノサウルスの大移動には地球に起きた大規模な環境変化が関わっていた可能性があるという。
・今から約1億2000万年前、火山活動が活発化。ティラノサウルスの祖先が暮らしていたユーラシア大陸でも大規模な噴火が相次いだ。このとき火山ガスに含まれる大量の二酸化炭素が地球温暖化の引き金を引いたという。

二酸化炭素の濃度が現在の約2.5倍から5倍。それによって温室効果が起きまして、植生を大きく北極圏まで広げ、最終的には恐竜の生態を変えて進化を引き起こしたと考えても不思議ではないと思います(大河内博士)

・地球温暖化がもたらしたのは、緑豊な森の拡大だった。シベリアから北極圏の地域がどんどん森へと変わっていったと考えられる。
・この植生の変化がティラノサウルスの移動に関係しているというのが徐星博士。ティラノサウルスの祖先が獲物としていた植物食恐竜に着目した。

ティラノサウルスの獲物になっていたのは、植物食恐竜トリケラトプスの祖先です。ティラノサウルスは肉食なので、獲物とともに移動したと考えられます(徐星博士)

・巨体が印象的なトリケラトプス。しかしその祖先は体重僅か15kg。ティラノサウルスの祖先はこの小型恐竜を食べていたと考えられる。
・森が北に広がるとともに、トリケラトプスの祖先の活動範囲が拡大。それを追ってティラノサウルスの祖先たちの一部は北へ向かった可能性がある。辿り着いたのはユーラシア大陸の東の外れ、現在はベーリング海峡で隔てられている地域だ。しかし当時は陸続きだったということが、地質学などの研究から分かっている。
・植物食恐竜を追ってアメリカ大陸に足を踏み入れたティラノサウルスの祖先たち。新天地での姿を示す化石が2013年にユタ州で発見された。見つけたのはアメリカ・ノースカロライナ州立大学のリンゼイ・ザノ博士。その化石はグアンロンの時代から6000万年も後の時代の地層に埋まっていた。

これがその歯の化石です。歯のサイズから考えると子馬くらいの大きさだったと思います(ザノ博士)

・後に登場するT・レックスの歯と比べると、長さは僅か10分の1程度だった。

この小さな歯を見る限り、他の恐竜たちの影に隠れた目立たない存在だったでしょう(同上)

・アメリカ大陸に渡った後もひ弱だったティラノサウルスの祖先たち。その後、どのようにして最強のT・レックスへと進化するのか。大きな謎が浮かび上がってきた。
・中国のグアンロンとアメリカ大陸で見つかった子孫。この2つの間には6000万年もの時が流れている。しかし多少大きくはなっているが、形は殆ど変わっていない。
・これが約3000万年経つと巨大なティラノサウルスに進化する。一体彼らに何が起きたのだろうか。実は今、進化を加速させる、ある現象が注目されている。2つの種が影響し合って共に進化する「共進化」。
・例えば花とハチドリ。ハチドリに受粉の手伝いをさせる花は花粉がハチドリの体にたくさん付くような姿に進化した。蜜をどんどん花の奥にしまい込んだ。一方ハチドリは、その奥の蜜が吸えるような長いクチバシを持つ姿に進化していったと考えられている。

<最強恐竜 進化の謎 立ちはだかる“怪物”>
・長い間、姿形が変わらなかったティラノサウルスの祖先たち。それがなぜ3000万年の間に急速に巨大化したのか。実はこの3000万年は、ティラノサウルスをはじめ恐竜の化石が殆ど見つからない「空白の期間」だった。そのため長らくアメリカ大陸の恐竜たちの様子は、謎に包まれていた。
・しかし最新の研究からこの期間に未知の巨大な肉食恐竜が君臨していたことが判明した。その恐竜の化石は2013年、小さなティラノサウルスの祖先と同じ地層から見つかった。

これらの骨が3年前に発見した巨大な肉食恐竜の骨格の一部です。当時の生態系のトップに君臨した恐るべきハンターだったでしょう(アメリカ・フィールド自然史博物館のピーター・マコヴィッキィ博士)

・体長は推定で最大11m、アメリカ先住民の言葉で怪物を意味する「シアッツ」と名づけられた。鋭い爪とナイフのような歯を持つ強大な肉食恐竜だったと考えられている。
・小さなティラノサウルスの祖先は、この怪物と同じ時代、同じ場所で生きていかなければならなかった。力の差は歴然だった。

ひ弱だったティラノサウルスの祖先がシアッツに出くわすのは、キツネがライオンに出会うようなものです。シアッツを乗り越えない限り、ティラノサウルスが生態系の頂点に立つ日は永遠に来なかったでしょう(同上)

・当時の恐竜界の頂点に立っていたシアッツ。ひ弱なティラノサウルスの祖先はその影におびえ、小さな植物食恐竜を獲物としながら生き延びていたと考えられる。

<最強恐竜 進化の謎>
・しかしその3000万年後、シアッツに代わり王座についていたのはティラノサウルスだった。一体何が起きていたのだろうか。
・この謎の解明に挑んだのがアメリカ・ユタ大学のマーク・ローウェン博士。彼が注目したのは、アメリカ大陸に起こった大異変だった。

ティラノサウルスの進化の決定的な分岐点。それはアメリカ大陸が分裂し、恐竜たちが孤立した状況に置かれたことです(ローウェン博士)

・当時、温暖化の進行により海水面が上昇。アメリカ大陸の水没が進み、分裂した。数多くの恐竜が暮らしていたアメリカ西部、広い地域が険しい山岳地帯だった。恐竜たちは平地として残された狭い地域に閉じ込められ、孤立してしまった。
・狭い場所に多数の恐竜が密集すれば、獲物である植物食恐竜とハンターである肉食恐竜が遭遇する機会は急激に増加する。このことが両者の急速な進化を招いたとローウェン博士は考えている。

狭くなったアメリカ大陸が進化のるつぼとなって、恐竜たちは劇的な変化を起こしました(同上)

・爆発的な進化は様々な形で起こった。例えば硬く分厚い皮膚で身を守る姿に進化した「よろい竜」の仲間。足腰を進化させ時速60kmで敵から逃れたという「ダチョウ恐竜」の仲間。
・こうした劇的な進化は、ティラノサウルスの祖先が獲物としていたトリケラトプスの仲間でも起こった。彼らが生き残るためにとった戦略は、体を巨大化させ攻撃を跳ね返す力を手に入れることだった。アメリカにやって来た後、トリケラトプスの祖先は100kgから6000kg以上に増加した。
・一方、ティラノサウルスの祖先はどうなったのか。今から3年前、その進化を示す新たな化石が見つかった。この化石は進化の空白期間にあたる8000万年前の地層に眠っていた。化石から導き出された姿は全長8m、ひ弱な小型恐竜だった祖先から明らかに大型化していた。
・巨体となったトリケラトプス、それと競うように大きくなっていったティラノサウルス。種と種が影響し合って共に進化する、いわゆる「共進化」が起こっていたと考えられる。

いわばハンターであるティラノサウルスと獲物となるトリケラトプスの“軍拡競争”です(同上)

・ティラノサウルスの巨大化を支えていたのは、ハンターとしての能力の向上にあったと考えられている。それまで華奢だった頭部が横に広がり約3倍に拡大。そのことが視力に劇的な変化をもたらした。

頭蓋骨の幅が拡大した結果、ティラノサウルスの両目の視野は大きく前方に広がりました。このとき両目の視野が重なり合う範囲では奥行きを認識できます。これが獲物を狩るときに大きく役に立ちました(同上)

・奥行きを認識できれば立体的に物を見ることができ、獲物との距離を正確に掴むことが可能になる。これによって獲物を捕らえやすくなり、狩りの成功率が大きく向上したと考えられる。
・その結果、十分な栄養が確保されどんどん巨大化が進んでいったとみられる。そして今から約7000万年前、私たちが知っているあの姿、最強の恐竜T・レックスとなった。
・絶え間ない進化を重ねたT・レックスは、大きいだけの恐竜ではなかった。動物解剖学を専門とするアメリカ・オハイオ大学のローレンス・ウィットマー博士は、ティラノサウルスの脳に注目している。化石をCTスキャンにかけ、脳の構造を詳しく分析した。そこから浮かび上がってきたのが、大脳の飛躍的な発達だった。恐竜の脳と体の比率から賢さを測る指数。ティラノサウルスは他の恐竜と比べて明らかに優れていた。

私たちほ乳類にもある大脳は知的能力や問題解決の能力を左右します。この大脳がティラノサウルスは大きく発達していました。狩りのときは高度な知能を使って作戦を練っていた可能性があります。集団で狩りを行い、奇襲や待ち伏せによって獲物を追い詰めるくらいのことはできたと考えています(ウィットマー博士)

・ウィットマー博士らの研究を基に狩りの様子を再現すると、知的能力に加え鋭い嗅覚を持っていたティラノサウルスは例え夜でも獲物を探知することができたはず。獲物を追跡するときに役立ったのが優れた視力だった。待ち伏せしていた仲間が逃げ道を塞ぐ。こんな光景が繰り広げられていたと考えられている。
・進化を遂げたティラノサウルス。もしも怪物シアッツと出会ったとしても、逃げ出す必要はなかったという。かつてひ弱で小柄だった恐竜が、最強の地位に上り詰めたのだ。
・ティラノサウルスの仲間の繁栄は頂点に達する。しかし彼らを待っていたのは意外な現実だった。去年、そのことを示す証拠がカナダのアルバータ州で見つかった。ティラノサウルスの仲間の化石、頭部のあちこちに戦いの痕跡が残されていた。頭蓋骨を貫通するほどの深い傷、後頭部の一部は噛みちぎられていた。
・恐竜界の王者にこれほどの傷を負わせたのは一体何者なのか。イギリス・ロンドン大学のデイビッド・ホーン博士が辿り着いた犯人は意外なものだった。

傷は明らかに別のティラノサウルスによって付けられたものです(ホーン博士)

・噛み痕の形や大きさから、ティラノサウルスの仲間同士が戦ってついた傷だと結論づけられた。

縄張りを巡って争い、命を落とすこともあったでしょう。殺しあった末“共食い”をしていた確かな証拠まで残されていたのです(同上)

・ティラノサウルスは1億年にわたって進化を続け、地球史上最強の恐竜となった。しかし頂点に立ったその先にあったのは、お互いをも殺し合うという姿だった。
・そして今から6550年前、恐竜の時代に予期せぬ幕切れがやって来る。巨大な隕石が地球に落下。その後の環境変化によって恐竜は絶滅に追い込まれ、ティラノサウルスの時代は終わりを迎えた。

<最新科学が挑む 進化の謎>
・ティラノサウルスが初めて見つかってから約110年。今も世界中の研究者が、その進化の謎に挑戦し続けている。
・長崎県の発掘現場で去年見つかった、ティラノサウルスの仲間の歯の化石。この日本でどのような進化を遂げ、どんな能力を獲得していったのか。
・発掘を指揮する福井県立恐竜博物館の宮田和周博士は、これまでにない新種のティラノサウルスが日本で見つかる可能性は高いと考えている。

ティラノサウルスの仲間が日本を含むアジアでも、その先のアメリカ大陸でも、大陸をまたいで旅をしながら進化を遂げていたことが分かってきています。この日本で誰も見たことがない新しいティラノサウルスの仲間が見つかる可能性は十分ある。それが今後の研究の中で分かるかもしれない。とても楽しみです(宮田博士)

・さらに遺伝学の側面からも研究が進んでいる。アメリカ・ノースカロライナ州立大学の研究チーム。T・レックスの脚の骨に残されていたタンパク質から遺伝子と関係が深いアミノ酸配列を特定したと発表した。そこからティラノサウルスと驚くほど近い遺伝的な特徴を持つ生物が明らかになったという。

※この研究成果については今も議論が続いている。

・最新の骨格の研究でも鳥とティラノサウルスが極めて近い共通の祖先から枝分かれしていたことが確認された。鳥とティラノサウルスが強い繋がりを持っていた可能性が見えてきた。

地球上にいた恐竜は全て絶滅しました。しかし鳥は生き延びました。鳥はいわば“生きた恐竜”です。つまりティラノサウルスは姿を変え、今も生きているといえるのです(ブルサッテ博士)

・史上最強の恐竜ティラノサウルス。はるかな時を超え、生命に秘められた無限の可能性を私たちに告げようとしている。

(2016/9/19視聴・2016/9/19記)

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【明日へ―つなげよう―】復興サポート 放射能汚染からの漁業再生~福島・いわき市 Part3~

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【明日へ―つなげよう―】
「復興サポート 放射能汚染からの漁業再生~福島・いわき市 Part3~」

(NHK総合・2016/9/18放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/

<感想>

 1年前に放送されたこちらの番組(→【明日へ―支えあおう―】復興サポート 放射能汚染からの漁業再生~福島・いわき市 Part2~)の「続編」ということで、関係者の話し合いから1年経ってどうなったかという視点で観ました。

 昨年、提起された「海の産直」が実現していたのは凄く感心しました。相馬の情報誌づくりとともに風評被害と立ち向かう漁業者の方々の努力に頭が下がる思いです。

 そして学生たちが主催するスタディーツアーもいいですね。私も福島の被災地を訪れたのは駆け足で通り過ぎただけなので、やはりじっくりと時間を掛けて現地を訪れたい。海産物の状況についてこうしてテレビで知る「正しい情報」だけでなく、自分の五感で直接感じることで受ける側から発信する側に微力ながらなりたい、そう思いました。

 ホッキガイ美味しそうでした。ぜひ行きますよ。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・東京電力福島第一原発の事故から5年余り経った福島の海。週1回から2回、漁に出る試験操業が続けられている。モニタリング調査によって国の基準1kg当たり100ベクレルを長期間にわたって安定して下回った魚種のみを獲っている。その数は83種にまで増えている。しかし週に1~2回の漁とあって沿岸部の出荷量は震災前の5.8%にすぎない。
・県漁連は国より厳しい50ベクレルを基準とし、漁協が抜き取り検査をしてきた。今年に入って県漁連の基準を超えた魚は5検体。国の基準を超えた魚は見つかっていない。それでも福島産の魚へのイメージは元に戻っていない。
・そうした中、消費者の信頼を取り戻そうと漁師たち自身が動き始めている。全国から消費者を福島の海に招き、検査体制の説明をした上で美味しさを実感してもらう。
・漁師の中には自ら情報誌を作って福島の海産物の魅力を全国にアピールする取り組みを始めた人たちもいる。
・今月初め、どうしたら福島の漁業がもう一度消費者の信頼を取り戻すことができるのか。話し合いの場が設けられた。福島の海の最新の科学的なデータを基に漁業再生について話し合う。集まったのは漁業者、小売店、水産試験場や自治体の職員。地元の大学生も参加した。

<地元の人たちは現状についてどう感じているのか>
・番組ナビゲーターはNHKの後藤千恵さん。はじめに会場に集まった人たちから発言があった。

魚はいっぱいいても毎日出られない状況とか、週に1回ぐらいしか出られないとか、その辺が歯がゆいです。今まで通りの水揚げできるときがくれば本当はありがたいです(漁業者・男性)

この福島県、地元は震災だけでしたらもうとっくに復興できていると思うんですけども、原発事故という大きな問題があって未だにまだ汚染水とか廃炉の問題が尾を引いていますので、本当に階段を一歩一歩上るように、できることを少しでも足元から少しずつやっていこうということで、やっております(漁業者・男性)

やはり震災と原発事故で、うちのお店も結構業績は悪いのはあまり変わらないのですけども、地元のいわきの方がいわきの魚を食べる機会が結構減っているので、地元の人が地元の魚を食べるという食文化を育てていきたいかなというふうには思います(小売店・男性)

<福島県沖の放射線量はどうなっているのか>
・一人目の復興サポーターは海洋学者で東京海洋大学の石丸隆特任教授。氏は原発事故直後から海水や魚、そして魚のエサとなるプランクトンなどのデータを分析し、海の汚染のメカニズムを研究してきた。
・石丸氏は、福島の海で行った科学的な調査によって得られた新しい事実を紹介した。今回対象にするのはセシウムの137。事故のときに大量に放出され、しかも半減期が非常に長いため影響を与えるといわれている。
・初めに事故直後の海をシミュレーション画面で見ていく。最初の汚染は大気中に放出された放射性物質が海に入ったもの。3月26日頃から高濃度の汚染水が流出したと見られている。セシウムの量は様々な推計があり、2.9~5ペタベクレルとされている。
・4月6日に汚染水を止めたが、その後も小規模な流出が続いたと見られている。以後、急速に汚染水は希釈されていった。今回の事故で陸や海に放出されたセシウムの総量は、18~25ペタベクレルと推定されている。

これはチェルノブイリの総量である85ペタベクレルに比べて少ないとは言えませんけれども、大体4分の1ぐらいの値だということであります(石丸氏)

・次に2015年1月~2016年5月までの海水の汚染状況。0.01ベクレルという非常に低い濃度になっているが、多少は流出があるので、ごく少量だが沿岸を中心に汚染が続いているのが若干見られると石丸氏は指摘した。

・さらに現状はどうなのか。事故直後は30kmの沖合で1リットル当たり186ベクレルという高い値が検出された。それが2015年には15km沖で0.0055ベクレル。30km沖では0.0022ベクレル。さらに今年5月は0.004ベクレルとなった。事故前の水準は0.001~0.002ベクレルだった。

2016年ですけれども、若干増えたようにも見えますけども、これは変動の範囲内ですね。事故前の水準に相当近くなってて、濃度は非常に下がっているということが言えると思います(石丸氏)

<セシウムが魚に取り込まれた原因は>
・震災以前に近いレベルまできれいになっている福島の海。しかし魚は今も県漁連の基準値50ベクレルを超えるものが、今年に入って5検体見つかっている。その全てが沿岸の海底に住む魚。これはどうしてなのか研究が進められている。
・海の放射能汚染を調査している東京大学海洋探査研究センターのブレア・ソーントン准教授。細長い装置を海底に沈め放射能を測定する。3年前から福島第一原発の沖合の海底を調べてきた。装置を海の底を這うように移動させ調査する。
・2013年のデータによると、原発の近くは汚染の値が高く沖合にも高い所が点在していることが分かった。
・続いて2015年と比較してみると、値が低い部分が増えていることが分かる。どのように変化したのか、汚染が高かったポイントの海底を見てみる。
・2013年、放射能は岩場と泥地の境界から急激に濃度が高くなっていた。海底の縦横に装置を這わせてみると、同じように段差の所から高くなっている。セシウムは台風や海流などによっても拡散されず、こうした場所に溜まっていた。
・2015年、同じ場所を測ってみた。すると値は約半分に減っていたが、海水に比べると海底の汚染の低下は遅いことが分かった。
・こうした海底に溜まったセシウムが何らかの形で魚に取り込まれた可能性が指摘された。

【仮説(1)ゴカイからの移行】
・まず考えれた仮説は泥の中に住むゴカイなどの生き物が汚染され、それを魚が食べたのではないかというものだった。しかしゴカイなどを調べても高い値は検出されず、この仮説は否定された。

【仮説(2)マリンスノーからの移行】
・次に注目されたのが海中の浮遊物マリンスノー。海の生き物のフンや死骸が集まったもの。これにいち早く注目したのが石丸氏。海中のマリンスノーを採取し、どれだけ放射能に汚染されているかを調べてきた。すると高いもので1kg当たり1550ベクレルのセシウムを含んでいた。
・石丸氏の仮説ではセシウムに汚染されたマリンスノーがアミなどのエサになり、食物連鎖によって基準値を度々超えた魚シロメバルなどの体内に蓄積されたと考えた。
・石丸氏はマリンスノーを分析し、さらに研究を進めた。乾燥させて汚染の原因となっている物質を細かく調べた。放射線を出している物質が1ミリにも満たない小さな粒であることが分かった。調べてみるとこれは「ホットパーティクル」と呼ばれる極めて小さな粒子だった。
・ホットパーティクルは原発事故での爆発によって飛び散ったもので、放射性物質を含む非常に細かな粒子。こうした粒子を含んだマリンスノーが海に浮遊していることが初めて分かった。

陸上だと(事故後)ホットパーティクルが見つかっているが、それと同じものが海にもあるのではないか(石丸氏)

・マリンスノーの中に含まれるホットパーティクルの発見によって、これまでの仮説は大きな変更を迫られた。ホットパーティクルは魚の体内に入っても水に溶けないため、筋肉には移行せずフンとともに排出される。
・食物連鎖による汚染という仮説は否定された。

(ホットパーティクルは)水に溶けない粒子なので、魚のエサとなるような生物が食べたとしても、そのまま通過して出ていってしまう。生体(筋肉など)には移っていかない(石丸氏)

【仮説(3)事故直後に汚染された寿命の長い魚】
・食物連鎖による汚染がないとすると、今まで見つかっている魚の汚染原因は一体何だったのか。石丸氏が注目したのは魚の寿命だった。今、見つかる汚染された魚は寿命に長い魚種に限られていた。度々基準値を超えたシロメバルは、10~15年という寿命の長い魚だった。
・現在の石丸氏の仮説。事故直後、海に大量の汚染水などが放出された。ホットパーティクルと違い、水に溶けたセシウムはエサなどを通して魚の筋肉に蓄積する。このとき汚染された魚の生き残りが5年以上経った今も見つかっていると考えている。
・石丸氏は福島の海の高い値で汚染された魚は今後減り続け、魚の寿命が尽きる10年ほど後には居なくなっていくと考えている。

今までの話をまとめますと、どうしてかなり長い間シロメバルが汚染していたかということを考えますと、恐らく高濃度の汚染水が出たときに、たまたまそこにいたメバルが水を飲んだり、その水によって汚染されたエサを食べて非常に高い濃度で蓄積した。事故当時、汚染された魚の寿命が尽きれば、高い値の汚染魚はいなくなっていく(石丸氏)

<試験操業の状況はどうか>
・続いて福島県水産試験場の根本芳春氏に、出荷制限が解かれ試験操業の対象になっている魚がどれだけ増えてきたか話をしてもらった。
・市場に出荷されている試験操業の対象種は、コウナゴなどの沿岸の魚10種、ヒラメなど沿岸の底魚13種、そしてアワビ・ウニ・ホッキガイなど沿岸の軟体類、甲殻類9種。さらに沖合の回遊魚や底魚など合わせて83種。

今年の今年はヒラメやマアナゴ、そういう重要種類が対象種にどんどんなってきていますので、これから試験操業の拡大とか、あるいは本格操業に向けて大きく動いていくような年になるのかなということで期待しております(根本氏)

<消費者との信頼回復、風評の払拭に向けて>
・海の水が震災前に近いレベルまできれいになった福島の海。出荷量はまだ震災前の5.8%だが、地元では本格的な操業の再開に向けて期待が高まっている。
・そのとき課題になるのが消費者の信頼をどう取り戻すのか、福島の魚への風評をどう払拭するかだ。漁業関係者の中では最新鋭の全量検査機を導入し、信頼回復に努めようという動きも始まっている。
・二人目の復興サポーターは水産経済学が専門の北海学園大学の濱田武士教授。氏は震災後、福島の漁村に通い再生への道を模索してきた。特に消費者との信頼関係をどう築き直せばいいのか、風評の払拭について研究をしてきた。

この原発事故自体が日本全体の問題でありますけれど、この漁業についても、やはり広くいろんな人に考えてもらわなければ漁業の復興はないと。風評、よく皆さんお聞きになっていると思いますけれど、これは非常に実態のつかめない話で正体の分からないものです。この風評に向かってどう再生させるかということについて、考えていきたいと思います(濱田氏)

・濱田氏は原発事故が収束しておらず汚染水対策の出口が見え中、福島の魚に対する負のイメージがなかなか払拭されない。たとえ安全性が証明されても風評のもとは消えないのではないかと述べた。どうすべきかという点では、時間をかけてでも理解を深めていくしかないと。地域全体の復興として捉えていくことが必要だと指摘した。

<福島の大学生が取り組んだスタディーツアー>
・漁業者と消費者と交流を進めていくためには具体的にどうすればいいのか。先月末、福島の大学生が取り組んだ福島の漁業を学ぶスタディーツアーが紹介された。その名も「スタ☆ふくツアー」には、たくさんの人が集まった。約半数が関東や関西など県外からの参加者だった。

兵庫県から(参加者の男性)

愛知県から、名古屋(参加者の男性)


・このツアーを企画したのは地元・福島大学の学生たち。

地域の方々も参加者の皆さんにお会いできるのを楽しみにしていますし、私たちも嬉しく思います(大学生の女性)

・福島の魚に対するイメージを変えたいと、このツアーを始めた。向かったのは福島を代表する港の一つ、いわきの小名浜港。震災で大きな被害を受けたが、去年3月に新しい魚市場がオープンした。
・しかしその一方で、沿岸漁業の出荷量は震災前の1割以下にすぎない。未だにある放射能汚染への不安に応えるために作られた検査室がある。今年に入って国の基準を上回る魚は見つかっていない。県漁連の基準を上回る魚は県全体で5検体見つかっている。

まれに高い魚がある。そういうのは(参加者の男性)

もし高ければ、こちらの方でも(出荷を)すぐ止められるような形で大丈夫なようにはなっています(関係者の男性)


・もし基準を上回る魚が出ても、市場からその魚種全てを回収できる仕組みになっている。
・次に向かったのは車で40分ほど離れた四倉漁港。このツアーを20人以上の漁師たちが出迎えてくれた。この日はあいにくの天気で漁の見学は中止となったが、少しでも雰囲気を味わってもらいたいと安全な場所で乗船体験をした。
・大きなホッキガイ、参加者を喜ばせたいと漁師たちが用意してくれた。

めちゃ食感がいい!(参加者の男性)

初めての感触です(参加者の女性)


・バーベキューで親交を深めた。漁師たちの前向きな姿に触れて、参加者たちも福島に対する思いを新たにした。

すごく明るくて、こっちが驚きました(参加者の男性)

こういう風評被害があったからこそ、改善できることを徹底的にして。兵庫県から来てるんですけど、どれだけ伝えていけるかなというところですかね(参加者の男性)


・この取り組みについて、濱田氏はこう述べた。

1粒で3度おいしい取り組みになっている。1つはまず福島・現場に来て、そして緻密な安全対策があって、こうやってやっているんだということを県内外の人に知ってもらえる。さらにそういう人たちが地元に帰ったとき、「風評」という見たこともない人が勝手に作っているものに対して実際に見た人が(本当の姿を)言える。そういう拡散効果がある。3点目は実際に食べることで「福島産は美味い」ということに気づくと、また食べることになる(濱田氏)

・さらに非常に大事な点として、こうした取り組みを学生団体とかボランティアの方々がやっているというところに意義があると強調した。

<相馬市の漁業者が始めた情報誌づくりと産直便>
・次に地元の漁業者の取り組み事例が紹介された。福島県相馬市の磯部漁港。この日、週1回の試験操業に出ていた船が戻ってきた。どうすれば漁業を再生できるのか、若手漁師たちが新たな取り組みを始めている。
・漁師の菊地基文さん(40)が風評被害を乗り越えるために始めたのは、全国の消費者と直接つながり福島の漁業への理解を広げていくこと。水揚げされたばかりのホッキガイや漁師の長井さんをカメラに収めていく。菊地さんは、ホッキガイの宅配便に同封される小さな情報誌「そうま食べる通信」の編集長を務めている。
・相馬で獲れる海産物や農作物の情報が載せられている。漁の様子や漁師たちの思い、さらに料理の仕方なども写真付きで紹介されている。年に4回、全国120人の会員に届けている。
・菊地さんはインターネットでも情報を発信している。ホームページ用の動画も撮影、すぐにネットで配信された。

漁師、農家さんが胸張って出すものを食べてもらいたいし、やっぱり現場も知ってもらいたい(菊地さん)

・ホッキガイは獲れたその日のうちに情報誌とともに発送する。菊地さんたちは放射能汚染に対する自分たちの考え方を「そうま食べる通信」にこう記している。

現在福島県では、県内産の農作物・食肉・海産物など、すべて種類ごとに厳正な放射性物質検査を続けています。(中略)そこで私たちは消費者のみなさんにそうまの食べ物を育て・収穫する現場を見て(知って)いただき、感じ・判断してもらいたいと思っています。

「東北の魚、食べない」とか、そういう書き込み見たことあるし。だけど拾った情報を自分でかみくだいて勉強して、本当なのかどうかをちゃんと自分で調べて、人それぞれが判断してもらいたい(菊地さん)

・インターネットを通して会員と直接やり取りする中で、相馬のファンが増えている。相馬のファンを自認する千葉県佐倉市の岩渕靖子さんのもとにホッキガイが届いた。

大きいですね、立派ですよね(岩渕さん)

・実は震災以前から福島を訪れ、海産物を食べ歩くことが好きだった岩渕さん夫婦。しかし原発事故後は食べることを躊躇せざるをえなかったと言う。
・そんなとき目にしたのが「そうま食べる通信」だった。漁業者の頑張る姿に触れ、福島の食べ物の安全性について自分でも調べるようになった。

「これは危ないよ」という意見も両方読んでみましたけど、全部を合わせてみたときに、心配する必要は今はないというふうに考えています(同上)

・岩渕さんは情報誌を片手に初めてホッキガイを捌いた。菊地さんおすすめの料理にも挑戦した。完成したのはお刺身、ほっきみそ、炊き込みご飯の3品。

「相馬産ですよ」というほっきを自分で料理して食べるのは初めて。とっても念願かなって嬉しいです(同上)

・さっそく料理の写真を撮り「そうま食べる通信」のサイトに送った。感謝の言葉も添えた。
・岩渕さんは菊地さんたちと交流する中で、生産者に対し親しみとともに尊敬する気持ちを抱くようになったと言う。

「ごちそうさま」って、こちらが言える。向こうも「食べてくれると嬉しいよ」とか。大げさに言えば、私の命をつくって下さる方々。食べ方とかいろいろなことに関する先生でもありますね(同上)

・原発事故から5年半。菊地さんはこれから消費者との繋がりをさらに深めていきたいと考えている。それが未来を築くことに繋がると思っている。

俺は子どもには「お父ちゃん、面白いことやってるな」とか「お父ちゃんの仕事かっこいいな」とか、そういうふうに見せたい。子どもたちがそこに住まないと後継者にもならないし。相馬を好きになる、相馬を誇りに思う、そういうところが一番重要(菊地さん)

・会場に菊地さんが登場した。

首都圏の消費者というのは、スーパーに行けば何でもあって。その食べ物がどうやって作られているのか、どんなこだわりがあってとか、どんなしんどい思いしてとっているのかというのは伝わらなくて。基本の食べ物作る人、とる人っていうところにスポットを当てているので、友達とか親戚付き合いみたいな感じで、密に交流を図っているというか、もっと知ってもらいたいと思っています(菊地さん)

風評問題というのは、我々が人の気持ちを変えるということはなかなかできないというところに、乗り越えられないところがあるわけですけれども。安全だ安全だと言っても、なかなか安心してもらえないというのが現状だと思うのですね。そこを乗り越える手段というのは、あのような形で心で繋がっていくといいますか。遠隔地でも風評がある程度取り除かれていくということにも繋がるし、そうすることによって厄介な風評と向き合って戦っていくみたいなことができるのではないかと思っています(濱田氏)

<グループに分かれての話し合い・発表>
・グループごとに分かれ、どうすれば福島の漁業を再生することができるか話し合った。意見をまとめて発表した。

【A班】
・やはり今の状態では生き残りできない、アピールしていかなければいけないので、まずブランドをつくる。そして試験操業の拡大、PR活動。
・魚を無料配布を東京で主に行う。東京で行うことによってもちろん日本全国にもアピールできる。
・地域間交流への協力。どんな小さなことでもいいんで、やっぱり漁業者が顔を出していろいろ説明する。漁業者の元気な顔を見せるということが大事ではないか。

【B班】
・「ぼくらが復興させるぞ!」
・本格操業に向けた漁場拡大、試験操業の拡大。
・地元水産物の流通販売の拡大。魚をただ売ってお金もらうだけじゃなく、この魚はこうやって食べると美味しいんだよというのを魚屋自らPRする。

【C班】
・自分たちから情報を発信することが必要。
・若い人の育成。
・未利用魚の有効利用。魚で捨てられているような部位を使った加工食品やブランディングを図って、有効に新たな価値の創造する。
・浜ごとの食文化を生かした商品開発。

・最後に会場から発言があった。

昨年も参加させていただいたが、今年の場合は去年と違って試験操業の拡大、とにかく魚を獲りたい。その獲った魚を鮮度よく消費者の皆さんに届けたいという熱意というのが伝わってきた。いろんなイベントの拡大、PRをお互いに協力し合ってどんどんしていければ、もっと良くなっていくのではないかと思った(漁業者・男性)

問題点も2年目3年目より変わってきたと思う。これからはどうやってアピールし販売してみんなに食べてもらうのか。漁業者だけでなく福島全部でタッグ組んで向かっていかないとなかなか難しい。そういうことを考えるいい機会になった(漁業者・男性)

漁業者、小売り、仲買人や漁協、行政それぞれの立場のやるべきことが発表の中で見えてきたかなと。これから風評に立ち向かう部分はまだまだ残っているが、地域間交流を増やして草の根的にミクロに動いていく部分と、行政としてマクロに動いていく部分を相乗効果させていきたいと感じた(自治体職員・男性)

魚を揚げるということが自分たち漁業者の一番の仕事だし、このような場で2次、3次産業の方との横の繋がりを作り、行政も一緒に地域ぐるみで事を起こせば大きな波になると思う(漁業者・男性)

・話し合いの後、漁師の菊地さんたちは新たな挑戦に踏み出した。漁協の婦人部と協力して、相馬産の魚を使った様々な特産品の開発に取り組もうとしている。
・再生に向けた歩みが一歩ずつ前に進んでいる。

(2016/9/20視聴・2016/9/20記)

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【NNNドキュメント’16】おしゃべりアパート~学生がつくる名物夫婦の学生寮~

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【NNNドキュメント’16】
「おしゃべりアパート~学生がつくる名物夫婦の学生寮~」

(日本テレビ系列・2016/9/19放送)
※公式サイト:http://www.ntv.co.jp/document/

<感想>

 昨年放送された北海道大学の恵迪寮(→【ドキュメント72時間】北の大地の学生寮)を彷彿とさせる昔ながらの学生寮を営むご夫婦と、建て替えの設計を託された学生たちの取り組み、そして新たに入居した学生の心の変容を巧くまとめたドキュメンタリーでした。

 私が通った大学にも学生向けの寮や下宿がありました。私はアパートを借りて初めての一人暮らしをしたのですが、今から考えたら寮や下宿で「同じ釜の飯を食う」という4年間を経験しても良かったのかなと思いました。というのは、社会人になってから当時の同級生とは疎遠になってしまいました。何だか勿体なかったなとつくづく感じています。

 私が学生の頃ですらアパートの方が人気がありましたから、学生寮なんて今時の若者は全く受け入れられないのではと思いましたが、はじめは歓迎会を開いた席でスマホいじりをしていたような(失礼な)学生たちが、次第に綿野さんご夫婦のマジックに惹き込まれて「管理人室=おしゃべり場」に立ち寄るようになり、そして同級生の仲間の輪が出来てくる。そんな姿をみると、時代が変わって様々な便利なツールが出てきても、人間は誰かと繋がらなければ生きていけないものだし、人と人との繋がりはフェイス・トゥ・フェイスが基本なんだなと思いましたね。

 SNSに過剰に人の繋がりを求めている方は要注意です!(苦笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

※見出しは当方で付けました。

・金沢工業大学の学生が暮らす綿野寮。風呂も台所も洗面所もトイレも共同という時代遅れの学生寮。それでも入居者を繋ぎ留めているのは月約2万円という格安家賃と、寮を営むご夫婦。綿野信子さん(75)と夫・勀さん(78)とのおしゃべり。
・そんな綿野寮も誕生から43年。プライバシー重視の今どきの学生には敬遠され、地震の心配もあって建て替えることになった。
・綿野さん夫婦が設計を依頼したのは、金沢工業大学で建築を学ぶ学生たちだった。親代わりのような綿野さん夫婦の管理人室を残したい。「もう時代が違う」と信子さん。
・学生寮の名物夫婦と建築家の卵たち、2年間の物語。

<往年の学生寮を営む夫婦 そして建て替えることに>
・石川県野々市市にある金沢工業大学。建築デザイン学科 宮下研究室では、学生が学生アパートを設計する実践教育が行われている。これまでに手掛けた物件は10棟以上。同世代の目線で設計された学生アパートは、どれも人気物件となっている。
・その評判を聞きつけ、建て替えを依頼した綿野さん夫婦の寮。2014年4月、設計を担当する学生たちが下見にやって来た。普段彼らが住んでいるのは普通のアパート、初めて見る往年の学生寮に目を白黒させた。

一人としてここに入りたいと思わないやろ(信子さん)

面白いかなと思うけど、いざ住むってなったらどうかな(男子学生)

アパートの方がいいかな…(女子学生)

・10日後、そんな綿野寮にやって来たのは30年前の寮生たち。寮が取り壊されると聞き、遠方から誘い合わせてやって来た。

30何年経ってもこういう繋がりがあるのは、寮(ここ)にいたから(OBの男性)

自分が帰ってきたら(他の人が)いるんだもん(OBの男性)


・綿野寮で絆を深めてきた先輩たち。その様子を学生たちに見てもらった。

(寮の)思い出話をしている人の方が輝いている(男子学生)

寮の要素を無くしてしまうのは本当に勿体無いな…(女子学生)


・その寮の魅力は何といっても綿野さん夫婦とのおしゃべり。学生たちが「建て替えた後も管理人室を残す気はないか?」と尋ねると…。

ない!若い子ら、こんなおばさんとしゃべりたないって(信子さん)

・自分たちはもう引退の潮時。後は息子に任せ、自宅に引っ込むという。

<設計を任された学生たちのアイデアとは>
・綿野さん夫婦抜きでどうやったら寮の良さを残したアパートがつくれるのか?学生たちはアイデアを練り始めた。

・キッチンを共有し寮のような交流を深める案、シェアハウスを参考にする学生も。

カタチを一軒家みたいなカタチにしてしまおうかなと…(男子学生)

・みんなが共有スペースで寮の良さを出そうとする中、4年生の藤井清香さんがこだわったのは…。

おばあちゃん家に帰りたくなるような感じのアパートにしたい(藤井さん)

・そこで藤井さんが考えたのは…。

門番みたいな(藤井さん)

門番って部屋があるんだな(宮下智裕准教授)

部屋があって、談話室みたいな。大家さんと話そう室みたいなのがあって(藤井さん)


・綿野さん夫婦のほっこりした管理人室は、やっぱり残したい。
・コンペ方式で決めるアパートの設計、締切が迫る。

(昨日寝ている?)
おとといは寝ました(男子学生)

・徹夜続き。食べる間も惜しんで10数人の学生たちがそれぞれの設計案づくりに励んだ。
・管理人室は要らないと言う信子さんを藤井さんは説得できるだろうか。

<学生たちのプレゼンに大家さんの反応は>
・2014年9月、いよいよ学生たちのプレゼン開始。
・まず提案したのは各部屋に縁側があるアパート。続いてはキッチンをシェアする案。3つの部屋で1つのキッチンを使う。そして藤井さんの番が来た。

タイトルが「わたののおばあちゃん おじいちゃんち」(藤井さん)

管理人室は要らん気がして…ダメ(信子さん)

・あえなく却下。
・そんな中、信子さんの心を捉えたのが4年生の小竹麻世さんの案。

掘りごたつを学生生活の中にちょっと取り入れてみようと考えました。居室の真ん中に掘りごたつがあります(小竹さん)

・交流をテーマにする案が多かった中、掘りごたつ案が気に入った信子さん。しかし夫の勀さんは…。

友達同士が交流するっちゅうことを、やっぱり考えなイカン(勀さん)

・夫婦の意見は割れていた。
・一方、学生たちは…。

テーマは掘りごたつのある家じゃないような気がしていて。掘りごたつがあるということは一つの手法(宮下准教授)

・依頼主の要望は一番大切。でも交流というテーマも捨てがたいのではないか。数日後、悩んだ末に絞り出した答えは、世間話ができる縁側と掘りごたつのある管理人室。

大家さんと会話するというのが、ここのアパートの魅力。学生はここの玄関から入って、大家さんのそばを通って1階に行くなり2階に行くなり。ここを通らないと自分の部屋に行けないような動線にしました(藤井さん)

<再チャレンジの反応は…>
・2014年11月、もう一度チャレンジした。

大家さんのおじいちゃん、おばあちゃんのお部屋というのをぜひ造りたいなと思っていて(藤井さん)

ダメなのに(信子さん)

えーっ?聞いてください。縁側チックな所に腰掛けて「今日何々あった~」とか(藤井さん)

そんなもの今の子ら全然しゃべってくれない(信子さん)


・大ピンチ。と、そのとき…。

家におっても、お前誰も相手してくれん。思い切って頑張れ(勀さん)

・勀さんが助け舟を出してくれた。さらに息子さんの代になって、管理人室が要らなければ学生部屋にできる設計にすると伝えると…。

ここの共有(管理人室)の所は、すいません。いろいろ思いもあるかと思いますが…一応(管理人室)ある方向でいいですか?(宮下准教授)

はい(信子さん)


・思いを受け入れてくれた信子さん。後日、お礼も兼ねて伺うと…。

4月になったら社会人やろ。決まったんやろ就職(信子さん)

はい、決まってます。地元福井なんで、福井に戻ります(藤井さん)

これで2回目やね聞いたの?(勀さん)

そうです(藤井さん)

ハハハハ(信子さん)

また遊びに来て、ここ(管理人室)におるわ(信子さん)


・綿野さん夫婦の管理人室にこだわった藤井さん、アパート完成を前に卒業した。後は在校生たちが引き継ぐ。

<30年ぶりに訪れた元寮生>
・2015年3月下旬。寮の取り壊しまであと10日。最後のお客さんは玉井明寿さん(55)と近江英人さん(52)。30年ぶりに東京と愛知から訪ねて来たOB。

この臭い、一瞬何か昔の臭いを感じる。30歳ぐらいのときまで、この寮の臭いが記憶にありましたね。これ綿野寮の臭いだって(近江さん)

・空いている部屋に入る2人。

全然変わってない。懐かしい。何も変わってないですね(近江さん)

・蘇るあの頃…。パソコンもスマホもなかったけれど、みんな笑顔で繋がっていた。

学生って、いつもしゃべりたいわけじゃない。でも何か「しゃべりたいな」と思ったときに(信子さんは)しゃべらせてくれる。心のケアをしてくれていた。

・その夜は管理人室で2人で寝た。

<新しいアパート建設に現実の壁が…>
・生まれ変わる綿野寮。でも現実の壁にぶつかった。

設計変更がありました。予算のお話です。金額的なものとデザインをどう折り合いをつけるか(宮下准教授)

・見積が思っていた金額よりかなり高かった。管理人室を無くす案も出たが、勀さんは…。

繋がりの元というものを、やっぱりあった方がいいと思う。掘りごたつを抜くことによってドンと予算は減る(勀さん)

・全ての部屋の掘りごたつを無くし、そらに部屋数を2つ減らしても管理人室は残すことに。しかし掘りごたつをやめたため床が下がり、交流の場にと考えた管理人室の縁側が作れなくなった。
・そこで縁側の代わりにと考えたのは、箱型の椅子。これらを管理人室の入口に置き、自由に動かせば車座になって話すことも。ピンチを乗り越え、設計をやり遂げた。

<完成したアパート、新しい入居者たちは>
・学生たちと綿野さん夫婦の思いがこもった学生アパート、急ピッチで工事が進んだ。苦労の末、実現させた管理人室。そこにいたのは…。

満足です。なんか恥ずかしいね、だめーだめーって言っていた(信子さん)

・そして今年3月、綿野さんのアパートが完成。学生たちは「わたぼうし」と名づけた。建築会社に就職した藤井さん、福井から駆けつけた。さっそく縁側代わりの椅子が大活躍。

(設計が実現して)うれしいやろ(信子さん)

嬉しいです。でも最初(管理人室)いやって言っていた(藤井さん)

40年のキャリアがあるから、それくらい反対しないと(信子さん)


・入居者たちの引っ越しが始まった。建築費が高い分、家賃も上がったが学生の設計が人気を呼び、17ある部屋は満室に(家賃5万5千円・1LDKロフト付・9畳相当)。今度はお風呂にトイレも付いている。
・4月、綿野さん夫婦が寮の時代から続けてきた入居者たちの顔合わせ会。

北海道の函館から来ました(男子学生)

神奈川県の横浜です(女子学生)

普通のアパートと違って出入口は一つなんで、ひとつの家族と思って、どうかよろしくお願いします(勀さん)


・ところが学生たちはいつしかスマホの画面に。ゲームを始める者も。

<時代が変わっても交流や繋がりは…>
・顔合わせ会でスマホを手放さなかった黒川瑞貴さん。福井の親元を離れ、機械工学を学びにやって来た。

まあ、大体俺からしゃべることがないので…。自分からいって何かなるのも嫌だし(黒川さん)

・友達が欲しくないわけではないけれど…。
・おせっかいなアナログ夫婦の出番。

おかえり~。入らんか~(信子さん)

・黒川さんも誘われた。最初は居心地が悪そうだったが、少しずつおしゃべりの輪に入り、そして仲間の部屋に。アパートに交流の輪が広がっていた。

たぶんしゃべりかけなかったら、しゃべらなかったです(男子学生)

しゃべりたくなかったわけじゃない。交流があればしたいなあと…(黒川さん)


(他のアパートだったら?)
ずーっと俺ひとりです(黒川さん)

・建築家の卵たちと綿野さん夫婦が願った、繋がりが生まれるアパート。ここにはパソコンやスマホでは埋められない大切な何かがある。
・日当たり良好、おしゃべりアパート。

(2016/9/21視聴・2016/9/21記)

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【にっぽん!歴史鑑定】武将が愛した美少年たち

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【にっぽん!歴史鑑定】
「武将が愛した美少年たち」

(BS-TBS・2016/9/19放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 昨今LGBTという言葉もあるように、人それぞれ性愛に関して様々な価値観があると私は思っています。有り体にいえば同性愛に対しては寛容です。なお自分自身は異性愛者です。

 今回の内容についても戦国武将や将軍様、お殿様に対して興味本位でいやらしく思ったりするするような気持ちは感じませんでした。本郷先生も仰っていたように、当時の人々の価値観に男同士の衆道の契りを許容する儒学の影響があったということですから。

 それでもこうしたテーマを取り上げて特集を組めるのは民放BS局ならではでしょうね。NHKではちょっと難しいでしょう、いろいろと視聴者との間でハレーションを起こしかねないテーマですから。

 同性・異性愛に限らずちょっと気の毒だなと思うのは、有名人の方々は私生活で書いた手紙を暴露されるということですね。現代でも芸能人と呼ばれる人たちがメールやLINEのやり取りを週刊誌に書かれたりするわけですが、歴史に名を残す人たちは後世まで小姓に送ったラブレターが「歴史資料」として保存され、歴史学者たちがそれを研究の材料にする。

 伊達政宗が只野作十郎に送ったラブレターも…まあ、何というか。最後に「読後破棄するように」と書いておけばよかったのに(苦笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・戦国時代、命を懸けて天下を争った織田信長、武田信玄、伊達政宗。戦に明け暮れた勇猛果敢な武将たちだが、実は美少年が大好きだった。武将たちが残した熱烈なラブレターから明らかになる、妖しくも誇り高き男色の世界。
・主君に愛された美少年たちが次々と出世。男色は出世の近道だったのか。
・戦場で利用された美少年への純粋な愛。男色ハニートラップで敵将を殺害。その驚きの戦術とは。
・江戸幕府3代将軍・徳川家光を巡る三角関係。男たちの嫉妬が巻き起こすトラブル続出で、幕府がとった苦肉の策とは。

<伊達政宗の美少年愛>
・まずは独眼竜の異名を持つ奥州の雄・伊達政宗の美少年愛。彼には只野作十郎という身辺の雑用や世話をする小姓がいた。しかし二人の仲は主君と家臣の関係以上のもので、衆道の契りを交わした仲だった。
・衆道とは武士同士、男と男の恋愛関係のこと。肉体よりも精神的な繋がりを大事にしていた。そのため一度契りを交わせば通常、衆道の相手は一人だけ。浮気は許されなかった。
・なので浮気が発覚すると大変。筆まめとしても知られる政宗が作十郎に宛てて書いた、こんな手紙が残されている。花押から政宗51歳頃のものと考えられているが、その内容は…。

思いもよらぬご丁寧なお手紙
また起請文まで頂戴し
誠にかたじけなく存じます
さて先夜は酒の席で
私が何と申しましたか
酒を飲んだ勢いで随分失礼なことを
申してしまったのではないかと思います


・作十郎から受け取った手紙のお礼と酒の席での失言へのお詫びが綴られている。固い絆で結ばれていた政宗と作十郎だったが、こんな事件が起きていた。
・ある日、政宗のもとに作十郎に横恋慕する男がいるという密告が入った。これに起こった政宗は、酒の席で作十郎を激しく非難、罵倒した。すると後日、作十郎は身の潔白と政宗への愛を証明するため刀で自らの腕を突き、その血の付いた起請文を作って手紙とともに政宗のもとに送り届けた。政宗は愛する者を疑った自分を恥じ、すぐに返信したのだ。
・こうした衆道の契りについて、日本中世史に詳しい東京大学史料編纂所の本郷和人教授に伺った。

衆道の契りを交わした男同士の間では、普通は誓いの言葉である誓紙を交わす。髪を切ったり、刺青を入れたり、さらに極端になると爪を剥ぐ。もっと痛そうなものでいうと貫肉、腕引という自分の腕や股を刺したりして、痛みを通じて相手との愛を確かめるようなことが行われていた(本郷氏)

・密告によって浮気を疑い、酒の席で作十郎を罵ってしまった政宗だったが、それについても手紙でかなりくどくどと釈明している。

密告した者が作十郎のことを知っていたから
もしやとも思ってしまい、酒の勢いもあって
貴方を荒い風にも当てないほど可愛いと思っているけれど…


・そして酒の席で全く覚えていないと酒のせいにしながらも、作十郎への愛を赤裸々にしたためている。

憎くて非難したわけではなく
愛の絆を一層強くしたいという思いがこうさせた
こうなったからには私もせめて指を切るか
股か腕を刀で突くかして
そなたにお返ししなければならないが
私も既に孫を持つ身で人の噂も気になる
行水などのとき小姓たちに傷跡を見つけられ
「年甲斐もなく」と冷やかされでもしたら
子供たちにも迷惑をかけかねない
そう考えて思い止まっている


<なぜ小姓に美少年が多かったのか>
・政宗だけではなく、戦国時代の中には小姓と衆道の契りを結んでいる者が多かったようで、一説では羽柴秀次は不破万作と、木村吉清には浅香庄次郎、蒲生氏郷は名古屋山三郎と契りを結んでいたが、この小姓たちはみな美少年だったという。衆道の相手が美少年だった理由とは。

もともと小姓は様々な主君の用事を行わなくてはならない存在だから、利発で機転が利く人物。身近にいるのなら美しい方がいい。しかも主人に忠節を尽くす小姓をはべらせているのが、当時の大名のステータスのようなものだった(本郷氏)

<武田信玄の美少年愛>
・伊達政宗と同じように小姓に宛てた手紙が残っている武将がもう一人いた。甲斐の虎と讃えられた武田信玄。
・信玄が20代の頃、衆道の契りを結んでいた16歳の小姓、春日源助に宛てて書いた手紙。信玄は源助がいるにも関わらず弥七郎という別の小姓にも想いを寄せ、言い寄ってしまった。これが源助の知るところとなり怒らせてしまったため、焦った信玄はすぐに手紙にこうしたためた。

弥七郎には
繰り返し何度も伝えたが
腹痛を理由に了解を得られなかった
これは嘘ではない


・信玄は弥七郎に何度も言い寄ったことを認めつつ、ずっと断られ続けたと言い、さらに…。

弥七郎と床を共にしたことはない
これまでにもない
言うまでもなく昼や夜にも
そういう約束をしていない
ひとつでも嘘があれば
神罰を受けるものとする


・信玄は必死の釈明をした。

信玄はこの文書をつくるのに当時の起請文の裏に書く正式なやり方でしたかった。しかしたまたま祭りの日で探しに行けなかったため手許の紙に書いたという(本郷氏)

<衆道は出世の近道だったのか>
・一説では春日源助は後に武田家の名臣として知られる高坂昌信だったとも言われ、武田軍の大将の一人として出世を果たしている。
・しかしその地位を得たのは戦功によるものではなく、信玄と性的関係にあったからだと敵にまで非難されていた。果たして衆道は出世の近道だったのか。

身近にいる可愛い子だから、みんな全てではないがそういうことになったのだろうと思われる(本郷氏)

(織田信長と森蘭丸は?)
二人は“ガチ”の関係だった。信長は自分が認めた人しか周りに置かなかった。認めるというのは美しいだけでなく才能のある人を置いた。結局、織田家において出世していくような人は彼の男色相手から輩出された(本郷氏)

(豊臣秀吉は?)
秀吉は全く興味がなかったようだ。よく小説などで石田三成とそういう関係だと言われているが、それは無かったと断言できる(本郷氏)

(徳川家康は?)
家康が男性を愛したという記録はあまり残っていないがただ一人、井伊直政の出世ぶりを見てみると普通ではない。特別に家康から引き立てを受けている。これはやっぱり出来ていたのではないかと思われても不思議ではない(本郷氏)

・主君の寵愛を受けた者が小姓になり側近になり、出世していく者はたくさんいた。それは当然の成り行きだったようだ。

<敵将を狙う男色ハニートラップとは>
・美少年好きな戦国武将たち、その愛は戦術にも利用された。宇喜多直家は相手を欺く策略の限りを尽くし、備前国を支配する戦国大名にのし上がった。
・しかしどうしても従わない一人の武将がいた。龍ノ口城の城主であるサイ所元常(サイは「禾」に「最」)。手をこまねいていた直家は元常が無類の美少年好きだということを知り、これを利用することにした。16歳の美少年、小姓の岡清三郎を刺客として送り込んだ。
・直家はまず清三郎をあらぬ不義の罪で捕らえ、打首の刑を言い渡した。何も知らされていない家臣たちは当然ながら清三郎の無罪を言い立てた。しかし直家がこれを聞き入れなかったため、家臣たちは清三郎が脱獄したと見せかけて逃がした。もちろん全て直家の計算通りだった。
・牢から逃がされた清三郎は直家に言われた通り、敵の居城近くの庵に行き尺八を吹いた。これを耳にした元常は、誰が吹いているのか家臣に見に行かせた。
・家臣から「尺八を吹いているのは、無実の罪で斬首を命じられ脱獄した宇喜多のお気に入りだった美少年」と聞いた元常は、家臣が用心するよう諌めるのも聞かず、清三郎を城に呼び寄せた。
・元常は酒を飲み、清三郎の膝枕でうたた寝をした隙に首を打ち落とされた。清三郎はその首を袴に包んで直家にもとに戻ったという。

<様々な事件を起こした蘆名盛隆>
・会津蘆名家18代当主の蘆名盛隆。当時の奥州は群雄が割拠する激戦区。会津地方を有していた蘆名家は、伊達家、南部家と並ぶ奥州の有力大名だった。
・16歳のとき当主となった盛隆は、無双の美少年と伝えられる美貌の持ち主。そのためか様々な男色事件を起こしている。

【盛隆男色事件(1)戦で一目惚れ 敵将と男色関係に】
・常陸国の佐竹家との合戦の際のこと、盛隆は鬼の異名を持つ敵の大将・佐竹義重に一目惚れされてしまった。義重から届いた熱烈な恋文に対し、盛隆はこう返事をした。

早速同心にて契りふかし

・何と想いを受け入れ、敵将と男色の契りを結んだ。

【盛隆男色事件(2)横恋慕の末 美少年が自害】
・盛隆は一目惚れされるだけでなく、一目惚れすることもあったようだ。その相手は家臣の息子・松本行輔、15~6の美少年だった行輔を盛隆は小姓に迎えようとしたが断られた。諦めきれない盛隆は行輔に恋文を送り続けた。
・そんなある日、行輔には衆道の契りを結んでいる栗村盛胤という相手がいることを知り激怒。その怒りの矛先を相手である栗村に向けた。
・これを知った栗村は行輔とともに謀反を起こし、盛隆の居城である黒川城を攻めて乗っ取った。しかし盛隆はすぐに制圧。栗村は戦死し、行輔は自害した。実に悲惨な男たちの三角関係の末路だった。

【盛隆男色事件(3)浮気の末路 元カレに殺される】
・盛隆はかつて4年ほどかけて口説き続け、ようやく小姓に取り立てた大庭三左衛門という18歳の美少年がいた。
・しかし生まれつきの浮気性だった盛隆は別の小姓が好きになってしまい、三左衛門に冷たく当たるようになり、さらに三左衛門との蜜月を笑い話にまでしたという。
・耐えられなくなった三左衛門は、盛隆を斬り殺してしまった。このとき盛隆はまだ24歳という若さだった。蘆名家は生まれたばかりの嫡男が継いだがすぐに亡くなってしまい、お家は滅亡した。

<遊女より高かった美少年の実態とは>
・戦乱が終わり江戸という太平の世が訪れても、武士たちは相変わらず美少年を追い求めた。求めた先は当時人気のあった若衆歌舞伎。若衆とは一般には元服前の少年のことだが、若衆方と呼ばれる少年役の歌舞伎役者のこと。
・小舞や小唄を演じる若衆方は何より美しさ、その容姿が重要視された。女装をし、振袖を着るその姿は男女の区別が付かないほど。
・そんな彼らの一番のご贔屓は大名たちだった。中には若衆役者を迎えるために奥座敷に舞台をしつらえる殿様までいたようで、越後村上藩の藩主・松平直矩などは屋敷に十数人の役者を呼んで芝居をさせ、器量のよい者の名を朱で印をつけて物色していたという。若衆たちは舞台が終わると座敷に呼ばれ、役者修行の一環と称し、乞われるままに体を売っていた。
・多くの大名、旗本が若衆歌舞伎に夢中になったことで、若衆を巡る痴情のもつれが多発。刃傷沙汰にまで発展した。相次ぐ武士の男色スキャンダルは風紀を乱し、体制への批判に繋がりかねないと幕府は恐れた。
・そこで若衆スター数人を町奉行所に呼び出し、前髪を剃り落としてしまった。その理由を多摩大学客員教授の河合敦氏はこう指摘する。

若衆の性的魅力の源が前髪にあると見做されたから。それでも事態が収まらなかったので。若衆歌舞伎自体を禁止。以後、月代を作った成人男性だけの野郎歌舞伎が主流となった(河合氏)

・前髪を剃られてしまった若衆たちは、その姿があまりにみっともないと紫の布を額にあて、剃跡を隠して舞台に上がった。するとその姿がまた美しいと人気に。若衆役者が舞台に登場すると客たちは「御来迎」と菩薩に見立て喜んだという。
・一向に人気の衰えない若衆たち。江戸ではそのキャリアによって呼び名が分かれていた。芸が未熟で役者としてまだ使いものにならない者は新部子と呼ばれた。
・親方に預けられた少年たちは芸を磨くのと同様、様々な指南を受ける。10歳頃から鼻を高くするため鋏板で毎晩鼻を挟んで寝かされ、背が伸びるといけないからと寝ながら伸びをすることを禁じられた。
・12歳になると床入りの訓練が始まった。容姿を整え、歌の詠み方や手紙の書き方、歩き方や髪の結い方など遊女になる鍛錬と殆ど変わらなかった。
・舞台に上がる前に田舎を回り芸の修行をする者を飛子という。兄弟子などの古着を着て付き人をつけて諸国を回った。興行主から夜伽の相手を頼まれれば、決して断れなかったという。また若衆との男色が禁止だったご城下では、彼らを長持などに隠してこっそり座敷に呼び、酒も飲ませず歌や三味線も楽しまずにただ床入りだけを務めさせたという。
・端役ながらも舞台に上がり始めた若衆は舞台子と呼ばれ、舞台の後で芝居茶屋や料理茶屋の座敷に招かれ、客の求めに応じ春を売った。若衆を買うなら歌舞伎の舞台に出ている舞台子が最高で、当然ながら人気も高かったようだ。
・江戸中期になると舞台に上がらずに売色を専門にする者が現れた(陰間)。陰間を呼んで酒宴を催すことのできる陰間茶屋も登場。茶屋に呼ばれると編笠を被って顔を隠して行くのが決まりで、お供には金剛という男が付いていった。今でいうところのマネージャーで、かなりの実権を握っていたようだ。陰間の揚げ代は2時間で1分(約2万5千円)、店外に連れ出すと2両(約20万円)、1日独占すると3両(約30万円)というのが相場だったという。吉原の店の遊女より高いとされ、金持ちにしか手が出せなかった。

陰間茶屋があったのは芳町(現在の日本橋人形町)。明和元年(1764年)には12軒もの陰間茶屋があった。他にも芝の神明町や赤坂、市ヶ谷、浅草馬道、湯島など茶屋があった。宝暦~天明期(1751~1789年)の最盛期には江戸に10か所、230人の陰間がいたと言われている。常連たちの中には武士の他に女性と関係を禁じられていた僧侶たちもいた。中には熱中するあまり代々寺に伝わる金目の物を売るほど熱中した者もいたという(河合氏)

<徳川家光の男色 三角関係>
・若衆歌舞伎に興味があったという江戸幕府3代将軍・徳川家光は、自ら化粧をし歌舞伎の真似事をしていたと言われている。もともと男性好きだった家光は、宴会で舞う数十人の小姓たちに興奮。次々と頬ずりを繰り返すなど奔放で、男色関係を持ったと言われる相手も数知れず。中でも可愛がっていたのが堀田正盛と酒井重澄だった。
・家光より4年下の正盛は13歳のとき、家光が将軍になる前から仕え寵愛されていた。その後、正盛は元服。前髪を剃り月代をつくったのを見た家光はこんな歌を詠んだ。

散りはてて
その名は残る
いにしへの
志賀の都の
花の面影


・前髪を落とし様変わりしてしまった正盛の容貌を嘆くとともに、もはや正盛が愛の対象ではなくなってしまったことを惜しんだ。

ルールがちゃんとあって、前髪を落とすというのは大人の男になるということ。精神的な絆は深くなることはあっても衆道の交わりは止めるというのがルールだった(本郷氏)

・しかし二人の関係は元服後も続いた。家光は正盛の登城が待ちきれず贈り物を持ち、深夜自ら堀田邸に出向き逢瀬を重ねたという。
・この正盛と同じ時期に仕え、同様に家光からの寵愛を受けたのは酒井重澄だった。家光は重澄の家にもお忍びで通っていたという。
・二人の小姓と同時に衆道の契りを結んだ家光、この三角関係が事件になった。ある日、家光は堀田正盛と酒井重澄を揃って茶に招き、点てた茶をまず正盛に与えた。するとこれを見た重澄が嫉妬、怒りのままに茶碗を取り上げ割ってしまった。
・将軍を前に無礼千万な行為だが、家光は笑って許したという。家光が重澄に送ったこんな歌が残されている。

山賤の
折かけ垣の
かた思ひ
幾たびゆふも
幾たびゆふも


・こんなの好きだと言っているのにと、歌に詠むほどぞっこんの相手。怒れるはずもなかった。
・その後、重澄は病気になり出仕をやめてしまった。しかしその静養中、4人の子をもうけてしまったから大変。家光の怒りを買い、改易となってしまった。恥じた重澄は食を断ち自害したと言われている。

武家の男色をまとめて考えてみると江戸時代、儒学が奨励される。儒学においては男と男の魂の触れ合い、精神の繋がり、絆というのを非常に高く評価していた。それに伴って男同士の性愛が男女の性愛よりもさらに一層気高いものであるという考え方が当時の一般的な認識としてあったようだ(本郷氏)

・重澄は家光と結んだ気高き愛のために自ら死を選んだが、堀田正盛は家光を看取っている。臨終の際、家光は正盛の膝を枕にしていたと言われている。
・その後、正盛は家光の後を追って殉死。小姓は主君と死を共にするという殉死が美徳とされていた。その際、正盛は亡き君と契りを交わした身であるからと、肌脱ぎせずに腹を切った。家光に許した肌を他の誰にも見せないためだった。
・男性の膝の上で亡くなった将軍・家光だが、子どもも残している。家光が女性に全く興味を示さないことを危惧した乳母の春日局が、女性に興味を持ってもらおうと大奥に美人を集めたりいろいろと苦心したからだ。
・もし家光が生涯男色にしか興味がなかったら、徳川家はどうなっていたのか。歴史は変わっていたのかもしれない。

<男色関係のもつれ 死傷者21人の大惨事とは>
・明暦2年(1656年)、富山藩で男色を巡る大事件が起こった。藩主の前田利次には、梶原左内と橋本朱殿というお気に入りの小姓がいた。
・ある日、利次は新たに美少年の速水助之丞を小姓に召し抱えることに。しかし何と梶原と速水が恋仲になってしまった。
・そのことを橋本から伝え聞いた利次は梶原を呼び「今度だけは許すから以後慎むように」と恩情を示した。
・事なきを得たのかのように思えたが、梶原は告げ口をした橋本への怒りがどうしても収まらなかった。
・そこで宴席を設け、橋本に斬りかかるという暴挙に出てしまった。宴席は修羅場と化した。斬り合いの末、二人はともに絶命。その場にいた者たちも巻き込まれ、死者9人・負傷者12人を出す大惨事となってしまった。
・こうした美少年を巡る刃傷沙汰や仇討ちは後を絶たず、幕府や諸藩は何度も男色の禁令を出した。しかし男色は気高きものとして、その文化が絶えることはなかった。
・男色が影を潜めたのは、日本が西洋と並ぶ近代国家を目指し始めた明治時代から。徐々に風当たりが強くなり、男色は減っていったという。

(2016/9/21視聴・2016/9/21記)

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【空から日本を見てみよう+】秋田県秋田市

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【空から日本を見てみよう+】
「秋田県秋田市」

(BSジャパン・2016/9/20放送)
※公式サイト:http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

<感想>

秋田新幹線

 秋田はちょうど今年の春に行ったばかりです。秋田新幹線(E6系)の見える民家いいですね。この赤いボディーはグリーン系のE5系、H5系と同じく好きな車体です(笑)

 それから秋田といえばお米やお酒もそうですし、ハタハタ、きりたんぽなど食べ物も美味しいものが多い印象です。ついつい食べ過ぎ&飲みすぎてしまいます(訪問時の記事は→こちら)。

秋田市ポートタワー

 秋田市ポートタワー。中には入りませんでしたがすぐ近くを訪れたときの写真です。

寝台特急あけぼの

寝台特急あけぼの

 あとは秋田と直接関係はありませんが定期運行から廃止されてしまった寝台特急「あけぼの」。客車が秋田港からコンゴ民主共和国で第2の人生(?)を過ごすのですね。ぜひ現地の人たちの愛される車両でいでほしいです(寝台特急「あけぼの」乗車時の記事は→こちら)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

<秋田県秋田市周辺>
・人口:315,389人(県1位)面積:906.09平方キロメートル(県5位)(2016年6月1日現在)
・乾うどん・そばへの支出金額が日本一。
・窓から秋田新幹線が見える民家。
・秋田スギ専門の製材工場アスクウッド。秋田県はスギの蓄積量が日本一。年間14万8千立方メートルの秋田スギを製材。
・秋田駅西口バスターミナルや国際教養大学中嶋記念図書館も秋田スギを使用している。
・秋田ふきを観光客を見てもらうために駅前で栽培している。秋田ふきは大きいもので茎の長さ約2m、葉の直径は約1.5mにもある。収穫後1日水に浸けておき柔らかくする。
・1958年に始まった蕗刈り撮影会。
・銀線細工の竹谷本店。秋田県には最盛期に日本最大の銀産出量を誇った院内銀山があった。0.2mm程の細い銀線を2~3本より合わせたものを使用。作ったそれぞれのパーツをロウで接着する。
・久保田城御隅櫓。秋田市は江戸時代、久保田藩の城下町として栄えた。旭川を境に武士が住む内町と商人や職人が住む外町に分けた。
・旧金子家住宅。江戸時代後期には質屋・古着商、明治初期からは呉服店を営んでいた。
・川反の芸者さんたちは色白で肌がきれいだったため秋田美人と呼ばれていた。
・秋田市立赤れんが郷土館。旧秋田銀行本店だった建物。1階は白の磁器タイル、2階は赤レンガ。
・秋田市民俗芸能伝承館。秋田竿灯まつり(国重要無形民俗文化財)は約260年前に真夏の病魔や邪気などを払うために行われた祭りが起源。現在は五穀豊穣を願うものとして継承されている。各町内で妙技会のための練習が行われる。
・もじゃハウスの喫茶店・異人館。2階は脱毛サロン。
・原油を汲み上げる機械。八橋油田は南北13km、東西600mの油田。昭和30年前後には年間25万キロリットルを超える原油を生産。戦前から現在までの累計生産量は581万キロリットルで日本一。現在でも年間約1万キロリットルの原油を生産。
・秋田市立体育館。プロバスケットボールの試合にも使用されている。
・秋田いなふく米菓。煎餅やおかきを製造している。
・付け替え前の雄物川は蛇行が激しく度々氾濫していた。22年の歳月と当時の金額で1170万円に及ぶ莫大な費用、延べ397万人の労力をかけて雄物川放水路が完成。
・石英ルツボを製造しているSUMCO JSQ事業部。石英ルツボとは半導体に使われる単結晶シリコンを作るための容器のこと。ルツボに傷があると半導体の回路パターンに支障が出るため、非常に高い純度が求められる。ルツボに入れて溶かしたシリコンを長時間かけ引き上げ単結晶シリコンを製造。単結晶シリコンを薄くスライスしたものが半導体の基板になる。
・秋田市ポートタワー セリオン。
・秋田港駅。秋田臨海鉄道は貨物輸送を行うため主に臨海部に路線を持つ地方鉄道。日本製紙秋田工場との間を1日4往復。紙製品はJR貨物によって全国へ運ばれる。
・秋田臨海鉄道は港の近くを通るため鉄道と船の連携輸送に便利。使わなくなった車両を秋田港駅まで運び、近くの埠頭まで移動し船で海外へ輸出している。
・寝台特急「あけぼの」に使われていた車両はコンゴ民主共和国へ輸出予定。
・亜鉛を製造している秋田製錬。鉱石を焙焼炉で1000度の高温で焼き液体に溶かし不純物を取り除く。不純物を除去した液体を循環させている槽にアルミと鉛でできた板を交互に入れ電気を流す。年間21万トンの亜鉛を製造。

(2016/9/22視聴・2016/9/22記)

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】そして女たちは伝説になったSP

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「そして女たちは伝説になったSP」

(NHK・BSプレミアム・2016/9/21放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 以前放送された3本を再編集して「3人の女性たち」に焦点を当てたスペシャル。3人とも文字通り「運命の分岐点」に立ち、懸命に生きたという点と既にこの世にいないという共通点があります。それぞれの感想を。

(1)映画「エマニエル夫人」の主演、シルビア・クリステルさん。
 本当につくづく思います。若い女性とりわけ貧困のあえぐ女性を食い物にする男がいつの時代もいるのだということを。どんなに取り繕っても、私にはそうとしか見えない。シルビアさんを裸にした男たちの罪は大きい。

 今でも騙されてAVに出演して心と身体に深い傷を負っている女性がたくさんいます。そういう女性を食い物にするようなゲスな人間は、この世からとにかく消えてほしい!他にどんなに優れた面があったとしても性を商品にする人間をNHKをはじめ公的機関が是認するんじゃないよと言いたい。怒り心頭です。

(2)ジョン・F。ケネディ大統領夫人のジャクリーン・ケネディさん。
 大統領が撃たれたシーンの映像は何度観てもショッキングなものでした。この元になった番組はシークレットサービスの方に焦点を当てた内容だったので、あらためてジャクリーンさんの視点での再構成で観ると、あらためて彼女に対するリスペクトが深まりました。

 本当にその場に居合わせ、自ら命の危険に晒されたにも関わらず、血染めのスーツを決して着替えずに気丈に振る舞い、そして暴力には屈しないという姿をみせたジャクリーンさん。決してテロでは歴史は動かないというのは私の持論ですが、それを体現したといっても過言ではないと思います。

(3)ラストステージの美空ひばりさん。
 昭和が終わり、平成という時代が訪れ、そして美空ひばりさんという歌謡界の女王がステージを降りた。リアルタイムでその瞬間を経験している私としても、まさに一つの時代が終わったと当時感じました。

 そして「川の流れのように」。テレビで流れるとついつい口ずさんでしまうのですね。名曲だと思います。それは、やはり99.9999%の部分で「美空ひばり」の歌だからだと思います。

 少なくとも作詞者が良かったとは思いません。作詞は、なんちゃら48のプロデューサーの人物で「私の大嫌いな奴リスト」の登載者ですから(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・彼女たちはその笑顔で、その体で、その歌声で世界を魅了した。しかし、大統領の夫を暗殺された妻、スターの座から落ちた女優、病魔と闘った女王。3人が歩いた道はイバラの道だった。
・人は時に運命の分岐点に立つ。世界を震撼させたあの事件、日本中が熱狂したあの日。今回はそんな運命の分岐点に立ち、懸命に生きた3人の女性たちの物語。

<STORY-1 エマニエル夫人という重荷 シルビア・クリステル>
・1人目はシルビア・クリステル。彼女が42年前に出演した映画は「エマニエル夫人」。それは全編通してセックスシーンが描かれる過激な内容だった。フランスでは12年間にわたってロングラン上映され、世界では延べ3億人以上が観たと言われている。
・しかしこの映画でいきなり世界的女優となったシルビアは、ある重荷を背負い一生苦しむことになった。

・シルビアの故郷であるオランダ・ユトレヒト。町外れにひっそりと墓はあった。享年60。彼女は晩年がんを患い、最後は脳卒中になり4年前に亡くなった。
・晩年、彼女はこんな姿を撮られていた。一般の人に混じって地下鉄に乗るシルビアが元女優だと気づく人もいない。しかし彼女は確かに頂点を極めたスターだった。
・彼女を一気にスターにした「エマニエル夫人」とは一体どんな物語だったのか。主人公は外交官の夫を持つ若妻エマニエル。異国の地で奔放な性を重ね、自らの欲望を自由に解放させながら大人の女性へと変貌していく。そこに当時女性たちが共感した。
・そんな女性たちで映画館は初日からあふれかえった。フランスでは「今年世の中を変えた人」という雑誌の特集で表紙に大統領とエマニエル夫人の顔が並んだほどだった。
・そもそもなぜこのポルノまがいの映画が作られ、彼女が出演することになったのか。話は映画製作の数年前に遡る。当時フランス・パリは反体制運動が盛り上がり、製作される映画も難解なものばかりになっていた。
・しかしそんな時代だからこそ、一般大衆に向けた娯楽映画を作れば一獲千金を手にできると考える男がいた。当時コマーシャルの世界にいた、若く無鉄砲なプロデューサーのイヴ・ルーセ=ルアール(当時33歳)。
・全ての始まりは仲間と飛行機に乗ったとき、たまたま美しい女性を目にし思い浮かんだ、あるばかばかしい妄想だった。それが映画の中に出てくる機内で…のシーン。人間なら誰しもが時に思い描く、ちょっとエッチで淫らな妄想。それを映画にしたら、意外にみんなが喜ぶのではと思ったのだ。

私は映画業界の常識について何も知らなかったよ。だから先入観を持たずにチャレンジできたんだ。とにかく多くの人たちに観てもらえるような映画を作りたかったんです(イヴ)

・しかし原作はさらに過激なものだった。飛行機のシーンばかりでなく全編、赤裸々な性的欲望や妄想が描かれていて、フランスきっての有名プロデューサーでさえ映画化を断念したといういわくつき。
・しかも大統領は超保守派のポンピドゥー。表現への検閲も熾烈を極めた。映画の配給会社を経営するイヴの友人セルジュ・シリツキーは、検閲をくぐり抜ける道は一つしかないと考えていた。

エマニエルという作品は官能的ではあってもワイセツではないと私は思っていました。だからとにかく美的に優れたものを撮ることが最も重要だったのです(シリツキー)

・官能かワイセツか、その壁を乗り越えるために何よりも先に探さなければならないのは、魅力ある女優だった。しかしなかなか見つからない。あまりにもセックスシーンが多いため、殆どの女優が出演を断ったのだ。
・しかし奇跡が起こる。監督を任されたジュスト・ジャカンがオランダまでオーディションに出向き、ようやく一人の女優と出会ったのだ。

彼女と初めて会ったときです(ジャカン)

・シルビア・クリステル、当時20歳。ジャカンは殆ど女優経験のない彼女に強く惹かれた。

一目でグッときたんです。彼女は純粋でナイーブな女性だったからです。タブーを乗り越え、いろんな経験を積むという役にぴったりでした。他の女優は裸のシーンが多いというだけで、みんな出演を断ってきましたからね。ですからシルビアが勇敢にも出演してくれるとなったときは、心から嬉しかったです(同上)

・出演を了承したとき撮影されたヌード。実はこのときシルビアは、ある思いを懸命に押し殺していた。後に自叙伝に綴っている。

私が原作を読んだのは
キャスティングが決まり
出演を了承した後だった
本当は裸になることに
耐えられなかった
撮影のために裸になることが
好きな自分になるしかない
(自叙伝「Nue」より)


・しかもシルビアは裸になることを望んではいなかった。断らなかったのは、映画の出演が人生の一発逆転を懸けた挑戦だったからだ。
・シルビアはユトレヒトの駅前で、宿を営む両親のもと3人きょうだいの長女として生まれた。両親は昼間、宿の仕事に追われ、夜はバーにやって来る客の相手でいつもべろべろ。シルビアのことは放ったらかしだった。夜眠れずクズると、コニャックを口に含ませ寝かせられた。複雑な家庭環境から逃れるように修道院の寄宿舎へ。シルビアは眠れなくなると、こう言ってシスターを驚かせたという。

コニャックを1杯いただけませんか?

・11歳にして既に壊れかけていたシルビアに、さらに追い打ちをかけたのが両親の離婚。きょうだい3人は貧乏のどん底に追いやられた。

あの当時は本当に貧乏でした(弟のニコ)

ほんとに何もなかった。夕食は焼いたジャガイモ1個と豆の缶詰と小さいソーセージを4人で分けて食べていました(妹のマリアンヌ)


・そんな生活から抜け出すためにシルビアは、お金を稼げるスターを夢みるようになった。

シルビアはいつも鏡の前でダンスのステップをしてみたり、バレエのポーズをとってみたりして、どうしたら自分が一番よく見えるかを研究してたわ(マリアンヌ)

(あなたたちもシルビアがきれいだと思っていました?)
そんなことないわ(マリアンヌ)

いや、きょうだいだからね。本人もそう思ってなかったんじゃない?(ニコ)

でも、絶対に何者かになって成功してやるんだって、そんな感じだったわ(マリアンヌ)

・だからこそ、たとえ裸であろうと断るわけにはいかなかった。
・そして1973年12月、撮影が始まった。初日からエマニエルと夫が交わる場面。ワイセツではなく、いかに官能的に撮るか、カメラマンは工夫を凝らした。

映画全体のほぼ全てを自然光にし、しかも逆光で撮ることにしたんだ。いつも光は後ろから当てて髪を輝かせた。物語より映像の質を優先したかったんだ(撮影監督のリシャール・スズキ)

・もう一つの特徴が、暗さが排除されたカラフルな映像だ。その中で女性たちは自らを解放し、屈託なく微笑み、人生を謳歌している。そうして新たな性に目覚めていくエマニエルを美しく撮る。それが映画の核心部分となっていった。

シルビアはスクリーンを突き抜けるような魅力を持っていました。それと同時に純朴さも併せ持っていたんです(イヴ)

・しかしシルビアの挑戦がいかに無謀なものだったか。共演したマリカ・グリーンは、はなから気づいていた。彼女は撮影中の出来事を詳細な日記に綴っていた。

「段取りの悪さとシルビアの集中力のなさで撮影終了」だって(マリカ)

・シルビアの演技は稚拙なうえ、実はある弱点を隠したまま現場に臨んでいた。

周りの役者も彼女の弱点に気づいていました。なぜなら彼女はフランス語をあまり話せなかったんです(同上)

・実はシルビアのセリフ全てが別の女性による吹き替えだった。現場で追い込まれていたシルビアの様子をプロデューサーのイヴはよく覚えていた。

彼女は撮影が終わっても、スタッフと交わろうとはしませんでした。おそらく静かな環境にいたかったんでしょう(イヴ)

・何者かになれることを証明するため、シルビアにできることは一つしかなかった。

私は彼らが
探しているエマニエル。
彼らの欲望の中に溶け込み
違う女性になり演じる。
私はエマニエルになる。
(自叙伝「Nue」より)


シルビアは女優として演じているというよりも、エマニエルそのものだったわね。そうすることでしかエマニエルを演じ続けられなかったんだと思うわ(マリカ)

・そうしてシルビアが美しきエマニエルになりきったとき、映画は官能とワイセツの壁を乗り越えた。なんと18歳以上という制限付きではあったが、一般映画館での上映が許可されたのだ。
・そして公開されるやいなや劇場は観客であふれかえり、その1年間で400万人を動員。興行成績はぶっちぎりの1位を記録した。
・演技すらまともに学んだことのなかったシルビアが、一夜にして世界的スターになった。そのとき彼女は確かに人生の一発逆転に成功した…はずだった。
・シルビアの私生活を追いかけたドキュメンタリー番組がある。ベッドから起き上がってくるシルビアは、まるでエマニエルのようないでたち。
・恋愛も映画同様、奔放に。年の離れた恋人と不倫にも関わらず、堂々と交際宣言。エマニエルになりきったシルビアは、もはやエマニエルと同化し、そこから逃れられなくなっていた。恋人との間に息子もできたが、母として育てることはできなかった。

だから、おばあちゃんとおばさんが一緒になって僕を育ててくれたんだ。母はお土産を持って時々やって来る人という感じでした(息子のアルチュール)

・そしてシルビアは子どもを置いて、単身ハリウッドへ。世界的ヒットを飛ばした実績から幾つかの作品に出演はしたが、認められることはなかった。彼女はどこまでいっても、エマニエルでしかなかったからだ。
・その後はもうボロボロ。映画プロデューサーと結婚するが、金遣いの荒い夫のおかげで自己破産にまで追い込まれる。ゴシップ記事は無一文になったかつてのスターをあざ笑った。当時ふるさとオランダのテレビに出演、心境をこう語っている。

(自分自身をスターだと思ってる?)
スター…。周りを囲んでいた使用人たちもいないし、自分で掃除もしなくちゃならないし、スターではないかな。今は言ってみれば人間らしい人間かな(シルビア)
(それでも大物だと思ってるでしょ?)
思ってるわ(シルビア)

・プライドは失っていなかった。
・栄光と転落。自らに全てをもたらしたエマニエルとは、シルビアにとってどんな存在だったのか。
・晩年、オランダ・アムステルダムのボートハウスでよく過ごしていたという。最後の恋人ピーター・ブリュル。

ここがシルビアのアトリエでした。いつもここで絵を描いていました。そこの机の上で(ピーター)

・部屋の至る所にシルビアが描いた絵が飾られていた。その殆どが若い女性像だった。

そういえば彼女はよくこう言っていました。「2つの人生はもう要らない」とね(同上)

・シルビアとエマニエルという2つの人生。どちらを生きたかったのか。恋人ピーターとの暮らしの中で、彼女が最後に描いた絵が残されている。籐の椅子に座る自分だった。

・亡くなる数年前、彼女はインタビューにこう答えている。

エマニエル夫人から逃れようとしましたが、3億人以上がみて愛したものからは逃れられなかった。あれだけ成功したものに対して、どうして嫌悪できるでしょう。今ではとても感謝しています。あの映画こそが私を生かしているのですから(シルビア)

・エマニエル夫人を世界中の誰よりも愛していたのは、彼女だったのかもしれない。
・シルビア・クリステル。2012年10月17日没。享年60。

<STORY-2 ファーストレディの愛と決意 ジャクリーン・ケネディ>
・世界を揺るがす、その運命の分岐点が訪れたのは53年前の秋だった。暗殺者の銃弾がケネディ大統領の体と頭を貫いた。
・そのとき大統領の傍らにいたのは妻・ジャクリーン。彼女は吹き飛ばれた夫の一部を懸命に拾い集めようとしていた。

国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるか考えようではありませんか(ケネディの演説)

・第35代アメリカ大統領ジョン・F。ケネディ。その存在こそがアメリカの希望だった。大統領である夫が暗殺者の凶弾に倒れたとき、妻・ジャクリーンがどれほどの絶望を味わったか想像もつかない。
・しかしその夜、彼女がとった行動は驚くべきものだった。夫の血の付いたスーツを着たまま決して脱ごうとはしなかった。それこそが絶望の中で貫いた夫への愛と、ある決意の証しだったからだ。

・2011年、ある音声テープが初めて公開された。ずっと口を閉ざしてきたジャクリーン、実は事件の数か月後にあるインタビューを受けていた。

私はかつて夫にこう言ったの。「あなたを失うくらいなら、あなたと共に死にたい」(1964年6月2日収録)

・悲劇のファーストレディ、ジャクリーン。知られざる真実が50年の時を経て明らかとなる。
・事件の3時間半前、運命の日の朝、大統領歓迎の朝食会。ジャクリーンが現れると会場に歓声が鳴り響いた。彼女が着ているピンクのスーツは、大統領がこの日のために選んだ1着。ジャクリーンの美しさに皆、魅了された。

私が彼女のお供でやって来たようだね。誰も私が着ているものには興味がないでしょう(ケネディ)

・当時ジャクリーンは絶大な人気を得ていた。20代の頃、あるパーティーでケネディと出会い恋に落ち結婚。当時34歳、若く美しいファーストレディに人々は魅了され、そのファッションは注目の的だった。2人の子どもにも恵まれたジャクリーン、理想の女性像だった。
・実はジャクリーンは、あの悲劇が起きたテキサスへと出向くことに乗り気ではなかった。今回公開されたインタビューの中でこう語っている。

夫が亡くなる前日、彼に言ったの。「テキサス州知事の口先だけの態度に耐えられないの」。でもそのとき彼は優しく私の背中をさすりながら言ったわ。「テキサスに行くのは政治的逆風を治めるためなんだ。そんなこと言ったら全てがダメになる。嫌っていてはダメだよ」と(1964年3月4日収録)

・しかし結局ジャクリーンはケネディに説得され、運命の地・ダラスに舞い降りた。
・パレードは大盛況の中行われ、笑顔で市民に応えるジャクリーン。しかしこの映像の僅か90秒後…。
・愛する夫が撃たれ動転するジャクリーン。突如、何を思ったのか座席から飛び出し、トランクに乗り出す危険な状態となった。
・そのすぐ直後、シークレットサービスのクリントに守られジャクリーンは難を逃れた。車から転落し、彼女までもが命を落としていたかもしれなかった。
・あのときジャクリーンは何をしようとしたのか?

ミセス・ケネディは大統領の頭から飛び出したものをつかもうとしていたんです。彼女と銃弾の距離はこのくらいでした。だから恐ろしいショックを受けたのは当然です。その後、車の中で「あなた 何て事をされたの」「あなた 愛しているわ」と言っていました。彼女はただひたすら打ちのめされていました(元シークレットサービスのクリント・ヒル)

・事件から2時間後、大統領専用機に夫・ケネディの棺とともに戻って来たジャクリーン。しかし悲しみに暮れる時間はなかった。機内ではすぐさま次期大統領の宣誓式が行われた。ジャクリーンは夫が死んだばかりだというのに、立ち会わねばならなかった。
・そして大統領専用機でワシントンへ。その日の夜、空港に到着。多くの人々が見守る中、飛行機の中から姿を現したジャクリーン。そのとき彼女の異様ないでたちに人々は息を飲んだ。事件から5時間も経過していたのに、ジャクリーンは夫・ケネディの血が付いたスーツを着続けていたのだ。着替える時間は十分にあった。にも関わらず、なぜ?その理由を側近にこう明かしていた。

この服は決して着替えない。犯人が大統領にいかに残酷なことをしたのか見せつけるの。残酷な犯罪には決して屈しない。

・それは気丈なジャクリーンの決意だった。
・その後、ジャクリーンは夫・ケネディの検視解剖を経て翌日の明け方4時、ホワイトハウスに戻って来た。一人の女性がジャクリーンの帰りを待っていた。彼女の私設秘書プロビデンシア・パレデス、悲劇の直後ジャクリーンが心の内を打ち明けた数少ない人物の一人だ。
・去年亡くなったが、当時の様子を遺族が伝え聞いていた。息子のグスタヴォ・パレデスは小さい頃からジャクリーンのそばで育ち、彼女が亡くなるまで交流が続いていた。

ミセス・ケネディは「どうして人はこんなにも残酷になれるのか」と泣き崩れていました。公の場では毅然と振る舞っていましたが、母の前では自分をさらけ出し涙を流して感情的になっていました。そしてミセス・ケネディは「自分も殺されるかもしれない」と言って怯えていました。暗殺は誰かの陰謀で、次は自分と家族が狙われると感じていたのです(グスタヴォ)

・しかしジャクリーンには、まだやらねばならぬことがあった。1963年11月24日-25日。暗殺の2日後に行われた夫・ケネディの葬儀を取り仕切ることだった。彼女はここでも決然と振る舞った。群衆の中、夫の棺とともに歩いて見せた。周囲は危険すぎると反対したが、それでもあえて先頭を歩んだ。失われた正義を取り戻すために。

ミセス・ケネディが歩いたのは、大統領がそうであったように国民とつながる機会にしたかったからです。民衆と悲しみを分かち合い、国民一人一人と大統領を追悼するために歩くことが大切だと考えたんです。大統領が殺され恐怖に怯えていましたが、それでも歩きたかったんです。命の危険を恐れないという姿勢を見せたかったんです。彼女の行動は本当に力強く勇敢でした(同上)

葬儀全体にわたってミセス・ケネディは気丈でした。「頑固なだけよ」と、あの方なら言うかもしれませんが顔をしっかり上げて堂々としていました。時折泣くことはありましたが、でも本当によく持ちこたえていました。悲劇に直面したとき人はどうしたらいいのかのお手本のようでした。私は彼女を誇りに思いました(クリント)

・毅然と前を進むジャクリーンの姿は、アメリカ国民の目に焼き付いた。彼女はケネディの棺と共に歩み、愛する夫との永遠の別れを告げた。
・棺は戦没者が眠るアーリントン国立墓地に埋葬された。墓標にはジャクリーンの願いによって、永遠の炎がともされた。ケネディ大統領の意志は未来永劫、語り継がれていくことになった。
・その後、ジャクリーンは第二の人生を歩み出した。ワシントンを離れ、5年後に再婚。本の編集者として活躍した。64歳で他界、あの悲劇のことを公に語ることはなかった。彼女の遺体は夫が眠る墓の隣に埋葬された。

私はかつて夫にこう言ったの。「もしあなたに何か起きたとしても私は離れないわ。あなたと一緒に居たい。あなたを失うくらいなら、あなたと共に死にたい」(1964年6月2日収録)

・ジャクリーン・ケネディ。1994年5月19日没。享年64。

<STORY-3 ラストステージ 緊迫の舞台裏 美空ひばり>
・歌謡界の女王・美空ひばり。彼女に訪れた壮絶な運命の分岐点、それは命を懸けて上がった人生最後のステージだった。

皆様、本日はようこそお起しくださいました。ちょっと…後ろに腰掛けがございます。せっかく用意してくれたもんだから、ちょっと座らせてもらいます。20代はこんなことなかったんですけど…(録音音声の美空ひばり)

・27年前に録音された美空ひばりのラストステージでの肉声。そのとき女王は、もう立っているのがやっとだった。その日、そこにいた人たちは女王の何を目撃したのか。

・美空ひばりは現れたときからスターだった。大人顔負けの歌唱力。戦後、焼け野原からの復興を目指す日本を励ました。昭和の時代とともに歩み、歌謡界の女王として燦然と輝き続けた。
・しかし時代が平成へと移り変わる2年前の昭和62年(1987年)4月22日、ひばりは体の不調を訴え入院。検査の結果、肝硬変と股関節の骨が壊死する病が見つかった。
・翌日、記者会見が開かれた。「歌謡界の女王が倒れる」。マスコミは「再起不能」と騒ぎ立てた。
・しかし約3か月後の8月3日に退院。

もう一度歌いたいという信念が私の中にはいつも消えないでおりました(美空ひばり・当時)

・昭和63年(1988年)4月11日、ひばりは東京ドームで再びステージに返り咲く。完全復活、誰もがそう信じた。だからこそ全国ツアーが始められた。
・そしてこのときは、まだ誰も、ツアー2日目となる福岡・小倉が美空ひばり最後のステージになろうとは考えてもいなかった。そのため平成元年(1989年)2月7日、当日の映像は残されていない。
・しかし、テープを録音した男がいる。チャーリィ脇野、ひばりを長く支えた専属バンドの指揮者だ。脇野は最後のステージを誰よりも近くで見守った。ホールを訪れるのは、あの日以来だった。ここで何が起きていたのか。
・当日、脇野には、ひばりの体調のことは知らされていなかった。ひばりの到着を待っていた脇野のもとに知らせが届いた。

(ひばりさんが)ヘリコプターで来たんだよって。それ聞いただけで「あっ、相当悪いな」と思いますよ(脇野)

・1日目の会場となった福岡から小倉までは車で1時間余り。その移動時間を短縮するため、ひばりはヘリコプターでやって来た。
・脇野は楽屋へ急いだ。いつも開演10分前にステージ内容の確認をすることになっていた。しかし、いつもと様子が違った。状況をつかめずにいる脇野に、ベッドに横たわるひばりが口を開いた。

「無法松カットね、今日」と(同上)

・「無法松」とはステージの21曲目に予定されていた「無法松の一生」のこと。小倉が舞台の歌で、この日のためにひばりが用意していた。
・「地元のファンが第一」と常日頃、口にしていたひばりからは考えられない変更だった。
・開始直前、ステージ上でも思わぬことが起きた。いつもは無いはずのものが運び込まれた。

あのときだけ、ここに椅子が出た。周りの人がみんな言うわけ。「チャーリィさん、お願いね。何かあったら頼むね」っていうのは、もしも何かあった場合は、やっぱり支えなきゃならないでしょ。だけど僕自身は他の方ほどは重病が分かってないわけですよ(同上)

・立っていられなくなったときの椅子。こんなことは今まで一度もなかった。
・この日のステージは昼と夜の2回公演。しかし昼の部の開始時間を過ぎても、楽屋からのゴーサインが出ない。ひばりの身に一体何が起きているのか。バンドメンバーの間に動揺が走った。
・そして予定より遅れること15分、演奏開始の合図が出た。1100人のファンを前に鳴り響くオープニングメドレー。そしていよいよ、ひばりの登場。状態はどうなのか。
・客席のファンは、いつもと変わらぬひばりの歌声に酔いしれた。最前列で見ていたファンがいる。

やっぱりいいですね。一番前でほんと、すぐそこで見えるでしょ。何年経っても同じなんですよね。若い頃からの歌い方というかね(40年来のファンの益田征子さん)

・しかし脇野は、ひばりの歌声に異変を感じた。

ひばりさん、必死に声を出してる。意識が遠くなったり、また戻ったり。あれは音響さんと僕ぐらいしか分からないんじゃないかな(脇野)

・ひばりの異変に気づいたもう一人、音響スタッフの末松光廣。

普通はスタンドマイクで歌わないんです。いつもは手に持って。(マイクを)スタンドに差したまま歌ってた(末松)

・アップテンポの曲では、いつもマイクを手に持ちステージ狭しと歌い踊るひばり。しかしこのときはスタンドに差したままだった。
・そして5曲目を歌い終えたあと…。

本日はようこそお起しくださいました。ちょっと…せっかく用意してくれたもんだから、ちょっと座らせてもらいます。43歳になったら息切れします。これだけ大きいのを作ってくれると、横になりたくなっちゃいますね(録音音声の美空ひばり)

・ひばりが43年の歌手人生で初めてステージの椅子に自ら座った。

「座らせてもらうわね、私ももう40いくつだから」(※実際は52歳)って冗談言って。大変悪いなと思いましたよ、僕自身はね。だけど次の公演が今年いっぱい全部なくなるとは想像もしてない(脇野)

・ひばりの身に一体何が起きていたのか?昼の公演を終えたひばりの体力は限界だった。楽屋に戻り点滴を受けた。付き添った看護師の平田はるみは、ひばりが息苦しさを訴えていたのを覚えている。

「息ができない」というのと、「声が出ない、伸びない」と言ってました。「前みたいに声が出ないのよね」と先生に言われてました(平田)

・緊迫した状況の中、楽屋では夜の部の中止が検討されていた。音響スタッフの末松は、楽屋から漏れる声を聞いた。

当時だいぶ揉められたんじゃないですかね、楽屋で。関係者が「(夜の部は)止めよう」と言っていたけど、ひばりさんが「中止することはダメ」と(末松)

・ひばりは夜の部を強行した。楽屋からステージに向かう僅かな段差にカーペットを敷き歩きやすくしたものの、越えるのもやっとだった。それでもひばりはファンの待つ舞台に向かった。

私は初めてね、ヘリコプターっていうのに乗っちゃったの。早く会場へ着きたいなと思ったし、乗ってみたかったんですよ。快適でしたよ。お天気も良くて、風も無くてね。そしたら味しめちゃってね、夜も乗って帰ろうかしら(録音音声の美空ひばり)

・ひばりの体調は刻々と悪化していた。2階の音響調整室にいた末松は、音のプロでなければ分からないひばりの異変に気づいた。

美空さんは裏声がきれいなんですけど、僕の中では返らなかったですね、裏声が。声が出なくなったんだと思うんですよ。美空ひばりさんの声がバンドに負けてしまうんですよ(末松)

・ステージの続行が危ぶまれる緊急事態、音響スタッフは対応に追われた。末松は状況を把握するため、ひばりが舞台袖に引っ込む早着替えの隙にステージへ急いだ。この状況をどう乗り切るか仲間と話していたとき…。

入ってきたら、もう倒れそうな…さっと抱えられて。引きずられるといったらおかしいですけど、すごいしんどそうというか、痛いのを我慢するような。あの表情は忘れられないですね(同上)

・女王が倒れた。もうこれ以上は無理か…。誰もが諦めかけていた、そのときだった。ひばりが再びステージに向かい「愛燦燦」を歌い始めた。歌声はいつもと変わることなく、聴く者たちの心に沁みわたった。
・それが女王最後のステージだった。生涯にレコーディングした楽曲数1500。膨大な曲を残し、美空ひばりは僅か52歳でこの世を去った。
・ひばりがこの世を去った1か月後の平成元年(1989年)7月22日、東京・青山で葬儀が行われた。ファンや関係者、約10万人が参列。歌謡界の女王を万感の思いを込めた。
・会場に流れた「川の流れのように」。誰からともなく口ずさんだ。そして思わぬことが起きた。外で大合唱が起きたのだ。
・この曲の発表から僅か1か月、ひばりはステージを去った。だから人前でこの歌を歌ったことは数えるほどしかない。だがその歌声は、今も私たちとともに生き続けている。川は大海原へと注ぎ込んだ。

ひばりが歌ってる限りは、見守ってくださいますよう、よろしく、よろしくお願いいたします(録音音声の美空ひばり)

(2016/9/22視聴・2016/9/22記)

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【歴史秘話ヒストリア】京都 まぼろし大仏の旅

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【歴史秘話ヒストリア】
「京都 まぼろし大仏の旅」

(NHK総合・2016/9/23放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/historia/

<感想>

 京都に大仏があったという話は「方広寺鐘銘事件」と並んで知っていましたが、今回あらためて京都大仏4代にわたるエピソードが紹介されて面白かったですね。「ブラタモリ」を観ている人にはお馴染みの梅林さんも登場しましたし、井上あさひさんの「ブラあさひ」も結構いいかも(笑)

 それにしても秀頼はお人好しというか、大仏造っている暇があったら家康の寝首を掻く算段を取っていればよかったのに…と「真田丸」の影響からか私の「アンチ家康」心は急上昇中です。本当にイヤな奴!三方ヶ原の戦いでウ○コ漏らすどころか討ち死にしてればよかったのに(怒)

 さて、前々回の放送では「ケンドーコバヤシ秀吉」でしたが、今回は割と豊臣秀吉役で何度もお見掛けする役者さん。テロップで川上哲(かわかみさとし)さんというのが初めて分かりました。調べてみると、時代劇などの出演豊富なお方のようです(→https://narrow.jp/talent/3263)。なかなかコミカルな秀吉を演じてくれる役者さんです。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・大仏といえば奈良や鎌倉だが、京都にも大きな大仏があった。鎌倉11m、奈良15mに対し、京都は18mもあったという。
・そもそも京都の大仏が造られたのは、今から400年以上前の戦国時代。一体誰が何のために大仏を造ったのか。一体どんな願いが込められているのか。その知られざる謎を巡る。

<ブラあさひ 京都の大仏>
・井上あさひアナウンサーの「ブラあさひ」。案内は「ブラタモリ」でもお馴染みの京都高低差崖会崖長の梅林秀行さん。
・京都の町の南東、鴨川のほとりにある正面橋。大仏様の真正面にあったことから名づけられたという。
・橋の先にある方広寺は400年ほど前に創建された由緒あるお寺。戦国の頃の文化財も数多く残されている。
・明治時代に撮影した写真に大仏殿が写っている。高さ約10m、江戸時代の終わり頃に木で造られた。胸から上だけだったが、親しみのあるお顔。
・江戸時代の京都を描いた絵図にも大仏様が載っている。大仏殿を造るため、木材を川から引き上げている。京都の大仏はたくさんの町の人たちの力で造られたが、4代目の大仏だという。
・続いてやって来たのは公園。そこに高さ18mの3代目の大仏があったという。その大きさがよく分かる絵図が残っている。大仏殿が京都で一番大きな建物として描かれている。
・3代目の大仏は京都一の人気者だったという。弥次さん喜多さんでお馴染みの江戸時代のベストセラー「東海道中膝栗毛」。二人も3代目大仏の見物に訪れている。旅の思い出に大仏殿の柱の穴をくぐろうとしたものの、大わらわ。とんだ大仏詣でになった。
・大仏にあやかって「大仏餅」まで登場。当時のガイドブックに紹介されるほどだった(都名所図会)。そのお餅は今でも江戸時代から変わらぬ製法で作られていて、食べることができる。
・江戸時代に京都に来たドイツ人医師ケンペルが描いた絵が残されている。姿をできるだけ正確に記録しようと残したスケッチ。彼は日記にこう驚きを記している。

大仏はインド風に足を組んで、蓮の花に座っていた。信じられないほどの大きさで、全身金色に輝いていた。そして手のひらは畳3枚分あった

・他にも方広寺周辺には大仏前郵便局、大仏前交番も。
・最後にやって来たのは京都の東の端。565段の階段を上ると大きな塔があった。豊臣秀吉のお墓「豊国廟」。高さ約10mもある。
・今から400年前、この一帯全てが京都大物を中心とした祈りの空間だった。その様子が当時の屏風絵に描かれている(洛中洛外図屏風)。頂上には秀吉の墓、山の中腹には秀吉を祭る神社、そして三十三間堂を敷地に収めた巨大な大仏殿。秀吉の壮大な大仏ワンダーランドが、かつて京都にあった。
・京都には何代にもわたって大きな大仏があった。4代目は幕末に近い時期に町人が造ったもの、3代目が江戸時代の中頃に観光名所となったもの、そして初代は豊臣秀吉の手によるものだった。どれも火事で焼けたり地震で壊れたりして今は残っていない。

<なぜ秀吉は大仏を造ったのか>
・天正13年、当時随一の勢力となった秀吉は天下人の道をひた走っていた。その力は西は九州、東は東北の一部にまで及び、後は徳川氏などを残すだけとなっていた。各地の大名が武将たちが秀吉の家臣にしてもらおうと次々にやって来た。
・そんなある日、突如大地が激しく揺れ動いた。天正地震は中部地方から近畿東部にかけ、強いところで震度6強の揺れが発生したと推定されている。マグニチュードは約8(地震考古学者の寒川旭氏の推定)、日本史上最大級の直下型地震だった。
・強い余震が2週間近く続いた。建物の中にいることができず、秀吉自身も屋外で避難生活を送っていた。
・現在の滋賀県長浜市。琵琶湖のほとりに秀吉ゆかりの長浜城を中心に賑やかな城下町が広がっていた。ところが地震で城は崩壊、城下町は半分が焼け野原になり大きな被害が出た。
・長浜城から北へ1kmの湖岸では現在、天正地震の被害調査が行われている。湖の底には地震で沈んだ家々が今も眠っている。全長30cmほどの石の仏像や、五輪塔と呼ばれる石塔の一部も見つかった。墓地のあった場所が地滑りに遭い、湖に沈んだことを物語っている。
・当時の人が使っていたすり鉢などの食器も見つかった。天正地震によって多くの人々の暮らしが奪われたことが分かってきた。

沖合100m以上、おそらく150mが沈んでいると思いますし、場合によっては長浜市の今の湖岸線の2kmくらいにわたって沈んだ可能性というのは、やはり高いのではなかろうかと。それだけの土地が1回の地震で沈んでしまうというのは、かなりのエネルギーですよね(琵琶湖水中考古学研究会代表の中川永さん)

・この地震を目の当たりにした宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。

かつて見聞きしたことがない すさまじい地震だった。人々は桁外れの揺れに異常なほど恐れおののいた。

・一刻も早く人々を不安から救わなければならない。秀吉は知恵を絞った。相手は未曽有の大地震、並大抵の手段では人々を安心させることはできない。
・ひらめいたのが奈良の大仏だった。実は奈良の大仏はこの頃、戦国の戦乱で焼け落ちて雨ざらしでボロボロになっていた。
・「奈良より大きい大仏を京に造れば、地震は収まり民の心も安気(気持ちが楽になる)」と秀吉は考えた。

(民衆の不安を)収めるのに仏や神の加護をもたらすような造寺、造仏を為政者が行うのは当然の行為。秀吉は大きな大仏を造り、天下を治め平穏にする人物として民衆に大きなメッセージを与えた(国際日本文化研究センター准教授の磯田道史さん)

・このとき秀吉が大仏を造る場所に選んだのが京都の南東、鴨川のほとり。方広寺の前の通りには当時の巨大な石垣が残っている。一つの石の高さが3m以上、重さも20トンはあると言われる。石垣は本来、秀吉が大仏殿の入口に築いたものだった。京都郊外から大きな石を1週間がかりで運んできたと言われている。
・大仏を造るための木材も大量に集められた。秀吉が毛利氏に出した手紙には、16mの檜の柱など1322本を速やかに用意するようにと描かれている。
・そして大仏自体は中国・明からやって来た仏師が担当。秀吉は最高の技術で大仏を造らせた。
・まず木の大仏像の上に漆喰を塗る。漆喰とは城の壁などを美しく塗り固めるために使われる建築材料。その上から高価な黒漆を大仏全体に塗る。そして最後に金箔を隙間なく貼ったと言われている。漆の上に金箔を貼る手法は金閣寺(鹿苑寺)にも使われている技。秀吉は人々のためにこれほどの大仏を造ろうとした。
・天正地震から10年後の文禄5年(1596年)、京都初の大仏工事が終了。残るは大仏に魂を入れる開眼供養だけとなった。
・ところが開眼供養の1か月前、再び大地震が襲った。伏見地震は京都南部から大坂、兵庫・淡路島にかけ強いところで震度6強。天正地震同様、マグニチュードは約8と推定されている(前出の寒川氏の推定)。
・秀吉は地震が起きるやいなや、急いで我が子・秀頼を抱いて走り出た、かろうじて潰れた建物の下敷きになることからは免れたと記録は伝えている。
・しかしこのとき、開眼供養を間近に控えた大仏は崩れ落ちてしまった。
・その2年後、大地震から人々を救いたいと願い続けた秀吉は、その願いを叶えぬままこの世を去った。

<京都大仏 再建の果てに>
・秀吉が亡くなった翌年、息子の秀頼は京都大仏の再建に乗り出した。秀頼は父とは違う方法で大仏を造ろうと考えた。記録には「大量に青銅を買い集めた」とある。
・青銅は銅にスズを混ぜた合金で、加工しやすく耐久性に優れている。秀頼は地震でも壊れない金属製の頑丈な大仏を造ろうとしたと言われる。
・しかし秀頼の大仏は造るのに時間もお金もかかる。10年経っても完成の目処は立たなかった。秀頼の妻・千姫は徳川家康の孫だった。秀頼は祖父にあたる家康に力を借りることにした。

秀吉の造った天下太平のための大仏を再興することが自分たちの責務だと、秀頼と母は考えた(磯田氏)

・家康は秀頼の求めに応じ、中井正清を派遣した。当時、日本一の大工の棟梁として知られた男だった。江戸城や二条城といった数々の巨大建築も中井が手掛けたものだった。
・中井は大工仕事だけでなく、職人の手配から材料の調達まで全てを担う、いわば大建築プロデューサー。大工を3000人、木を製材する木びきを2000人集め、大仏建立に当たった。
・こうして慶長19年(1614年)、京都に秀頼の大仏が完成。地震に苦しむ人々を救いたいという親子2代の願いが実現しようとしていた。
・ところが「大仏の開眼供養は日延べすべし」との申し入れが家康からあった。書状によれば梵鐘の銘が徳川家に不吉なためだというものだった。
・このとき家康が不吉だと言ってきたものが方広寺に残っている。大きな鐘は2代目の大仏にあわせ造られたものだった。その鐘には秀頼は大仏に込めた願いが刻まれている。

「国家安康」(この国に安らかな暮らしをもたらしてほしい)

・この一節を家康は許さかなった。「家」と「康」の字が別の字で引き裂かれている。これは家康を真っ二つにしようという秀頼の呪いではないというのだ。そのような思いはないと秀頼は弁解したが、家康には届かなかった。
・慶長20年(1615年)大坂の陣。豊臣家は家康によって滅ぼされた。秀頼もまた大仏開眼を見ることなくこの世を去った(享年23)。

<秀頼の大仏は残された>
・しかし秀頼の造った大仏はその後、京都の町に残された。人々の心の拠り所として、壊れてもその度に造り直されて3代、4代と続いていった。
・方広寺には秀頼の大仏の一部が今も大切に安置されている。高さ50cmほどの仏像(眉間籠もり仏)、大仏の眉間の奥に埋め込まれていたものと伝えられている。幻の京都大仏は小さな仏像に姿を変え、400年の時を超えて受け継がれていた。
・天災を鎮め人々を不安から救おうとした豊臣秀頼。その全てが幻となったわけではない。1000年以上の歴史がある大阪府泉大津市の泉穴師神社。美しい彫刻が施された本殿は戦国時代に焼失。その後、再建された。神社の宝は本殿の由来を記した棟札。戦乱で失われた本殿を慶長7年に秀頼が本殿を再建したと伝えるものだ。
・秀頼は大仏建立の折、合わせて各地の神社仏閣の再建や修復に取り組み、人々の心の拠り所を取り戻そうとした。国宝・五重塔で知られる京都・東寺、世界遺産の和歌山・熊野本宮大社、島根・出雲大社などその数は約100に及んだ。もし秀頼が取り組まなければ、こうして見ることができなかったかもしれない。
・奈良の大仏は江戸時代の中頃に再建された。大仏殿には外から大仏様の顔が見られる四角い窓があるが、その窓の上の屋根。この造りは秀頼の代に大仏殿に取り入れられたもの。京都から奈良へ大仏を造る技が受け継がれていった証しだと言われている。
・古くは奈良の時代から1200年余り。いつの世もその大きな姿であまたの思いを受け止めてくれている。

(2016/9/23視聴・2016/9/23記)

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【ドキュメント72時間】長崎 お盆はド派手に花火屋で

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【ドキュメント72時間】
「長崎 お盆はド派手に花火屋で」

(NHK総合・2016/9/23放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/72hours/

<感想>

 長崎のお盆の花火の風習。初めて知りました。他の地域でも聞いたことがないので全国で長崎だけなのでしょうか。お盆といえば自宅の前で藁を燃やしたり、野菜を使って馬を作るというのが関東在住者である私のスタンダードです。といっても、何だかんだ言って厳密にやったりせずに省略気味になってしまっています。

 それに比べて精霊船と花火、爆竹で亡くなった家族を盛大に供養するという長崎の皆さんのパッションに本当に感服しました。しかも若者が面白半分に爆竹を鳴らすのではなく、番組で紹介されていた人たちはみんな本気で家族のために行っていることに、ちょっと感動しました。こういう伝統は地域のお祭りと同様に代々受け継がれて、長く続いてほしいと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・8月、お盆の長崎。お墓の前で手を合わせる人。と思ったら…花火!?。長崎では亡くなった人を花火で弔う風習があるという。
・この時期、大忙しなのが町の花火屋さん。訪れるのは1日1000人以上。みんな抱えきれないほど買っていく。
・買った花火は賑やかに、そしてド派手に使う。不思議な長崎のお盆、花火とともに3日間過ごしてみた。

・8月13日(土)11時。お盆の初日に撮影開始。カメラを据えるのは大正時代から続く老舗の花火屋さん。香りつき花火から巨大な打ち上げ花火まで700種類以上が揃っている。
・お盆は楽しいイベントみたい。嬉しそうなのは子どもだけじゃないようで…。
・地元のテレビ局も生中継。お盆は長崎の町じゅうが盛り上がるという。
・一人迷いながら花火を買う48歳の男性。去年の11月に父親が亡くなった。初めて迎えるお盆なので特にたくさんの花火を準備するという。考えた末に選んだのは、赤と金に光る派手な打ち上げ花火。
・江戸時代から続く長崎の花火。ルーツは中国、大きな音が邪気を払うという。
・来日して2年の英語教師、オーストラリアは空気が乾燥しすぎているから花火をすると山火事になってしまうという。
・16時16分。スーツ姿の歯科医師の56歳男性。手持ち花火ばかり熱心に見ている。去年亡くなったお母さんを思いながら選んでいたみたい。結局カラフルなものを4万5千円以上購入。花火を持って向かった先は、お母さんのお墓。亡き人の魂が帰ってくるお盆。お母さんの好きだった素朴な花火で迎える。83歳で亡くなったお母さん、大家族をずっと陰で支える働き者だったという。
・見渡せば、お墓のあちこちで花火をする人たちが。賑やかな声とともにお盆の初日が暮れていく。
・19時30分。ようやく客足が落ち着いてきた。明日、お盆の中日は1年で一番花火が売れる日になるらしい。

・8月14日(日)8時23分。開店と同時に次々とお客さんが。お目当ては赤い箱が目印の爆竹。実はお店一番の人気商品、数十箱まとめて買っていく人も多いという。
・店頭で札束を数えている男性。爆竹代に消えていくという。買った爆竹は40万円分、最後の親孝行なんだとか。
・爆竹を囲んで家族会議をする人たちがいた。86歳で亡くなったおじいちゃん、波乱万丈の人生だったらしい。合計400箱以上の爆竹をお買い上げ、おじいちゃんも喜んでいるかな。
・お店の前の通りに何かが運ばれてきた。この1年で亡くなった人の魂を乗せて運ぶ「精霊船」を作るらしい。花火屋の隣の公園には精霊船がたくさん集まっていた。
・2人の男性が船を作って。今年2月がんで亡くなったお母さん。26年前に離婚し、働きながら2人を育ててくれたという。2人をいつも笑顔にしてくれたお母さん。お盆の終わりには魂をこの船に乗せて見送るんだって。
・午後、花火屋の客足は最高潮に。精霊船を送るとき爆竹が欠かせないという。
・亡くした母のために100箱購入した男性。寂しい気持ちがあるからこそ、派手にやるという。
・長崎のお盆は残りあと1日。

・8月15日(月)9時57分。お店の前の公園が何やら騒がしい。クレーンで運ばれてきたのは巨大な精霊船。船の持ち主が花火を買いにやって来た。さだまさしさんの弟さん・佐田繁理さん。戦後中国から引き揚げ、苦労を重ねたさださんのお母さん。今年の春、90歳で亡くなった。
・巨大な精霊船を横目に小さな船を作り続ける人たちがいた。神奈川県でスポーツ用品の販売をしていた旦那さん、仕事を辞め故郷の長崎に戻ったやさき、病に倒れたという。旦那さんが亡くなって1年、お盆はどうしても長崎で一緒に過ごしたかったそう。
・正午、終戦記念日の黙祷。
・お盆の終わり、欠かせないのが耳栓。
・17時4分。町じゅうで爆竹の音が鳴り始めた。亡き人の魂が船に乗ってあの世へ帰っていく。1000万発以上が僅か数時間で消えていく。
・公園で船を作っていた兄弟に出会った。
・爆音とともに散る長崎のお盆。大好きな人を賑やかに送り出す。
・手持ち花火を買った男性。静かに母を送り出す。叶えたい思いがもう一つ。3年前に亡くなった父親と一緒に送ってあげたかったという。
・花火屋さんに3日間で訪れた人は3000人。
・亡き人の別れを終え、また1年を生きていく。

(2016/9/25視聴・2016/9/25記)

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【ブラタモリ】#48 広島~広島はステキなシティ!?~

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【ブラタモリ】
「#48 広島~広島はステキなシティ!?~」

(NHK総合・2016/9/24放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/buratamori/

<感想>

 オバマ大統領も訪れ、野球では25年ぶりにカープが優勝と今年何かと話題になった広島。ブラタモリ初登場ということで前回の予告から楽しみにしていました。

 広島の町をみるときに、やはり原爆からの復興という観点が大きいので今回の「三角州」を干拓してきた歴史という話は非常に新鮮で驚きました。そういえば私が4年ほど前に訪れたときも川が多い印象を持ちました。乗りませんでしたが、観光客向けの海上タクシーも多くありました。今度の番組をみて合点がいきましたね。

原爆ドーム

 ということで、何枚か私が撮った関連写真を。原爆ドームと雁木。確かに船の発着場のような階段が多いなという印象はありました。こちらが広島藩の米蔵跡だったとは。

白神社

 続いて一行が訪れた白神社に偶然ですが私も訪れています。広島平和記念公園から徒歩で行ける近いところにあります。

白神社

 私が訪れた理由は「被爆樹木のクスノキ」があるからでした。

白神社

 狛犬も被爆していていて、所々に傷がついています。

白神社

 偶然にも本殿の岩場を写真に収めていました。まさか岩礁だったとは…この番組で知るまで全く気づきませんでしたね。

広島電鉄

 ラストは広電。私もタモリ氏同様に鉄道大好きなので乗りまくりましたね。路面電車が網の目のように広島の町を張り巡らされています。新交通システムの路線もあるにはありますが、地下鉄路線はありません。三角州の土地の性質上つくることが難しかったのでしょう。たいへん勉強になりました。

 それにしても被爆電車(651号)に乗車できて羨ましいです。私も乗りたかったのですが、なかなか乗り合わせることができませんでした。次回訪れたときは是非乗りたい。生ビールが飲める電車も(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・広島平和記念公園がスタート地点。原爆ドームがある。
・旅のお題は「広島はテキなシティ!」
・案内人は広島市郷土資料館学芸員の本田美和子さん。広島の歴史に詳しい生粋の広島っ子だという。
・三角州は大きな川に運ばれた山からの土砂が海の浅瀬にどんどん溜まって出来る地形。その形が三角に近いので三角州やデルタと呼ばれている。
・広島は北から流れる太田川がつくった三角州の町。もともと海だった場所に川が枝分かれして、いくつもの三角州が出来た。

・一行はまず平和記念公園のある三角州から隣の三角州へ。市役所や繁華街のある町の中心部。実はここに広島に町がつくられる以前、430年前の姿が分かる痕跡があるという。
・白神社の本殿、もともとは岩礁だったという。430年前、三角州が広がり岩礁が海岸線の岩場となった。当時は神社の辺りを境に南側に海が広がっていた。
・430年前に人のあまりいなかった三角州に中国地方一帯を治めていた毛利氏が新たな拠点として広島城をつくった。ここから城下町の整備が始まり、広島の土地が広がっていく。

・続いて一行は一番東側の三角州。ここで江戸時代にどうやって土地を拡大したのかよく分かるという。
・三角州なのに坂道があり、その上の道路だけ高くなっている。そこは干拓堤防の痕跡だという。
・三角州は河口付近に土砂が溜まって出来た地形。海の中にも土砂が溜り干拓しやすい遠浅の海になっている。この特徴を生かして江戸時代に干拓堤防をつくり、陸地を広げた。
・干拓で出来た土地の多くは畑となり、広島藩に大きな利益をもたらした。現在は都市開発により姿を消している。
・干拓堤防をタモリが「江戸堤」と命名。
・さらに歩いて行くと山があるが、もともとは仁保島だった。干拓によって陸続きとなり、黄金山という山になった。
・もともと島にあった漁村のため江戸堤を曲げて入江をつくり港を残した。昭和55年に完全に埋められ、現在は公園となっているが、海から陸に上がるための足場が痕跡として残っている。
・江戸時代の広島でもともとの暮らしを守りながら行われた大規模な干拓。三角州だからこそ出来た一大事業のおかげで広島が現在のような大都市になった。

・続いて一行は広島城のある三角州へ。広島はどう発展したのか、三角州をつくった川に注目することに。
・縮景園。広島藩主の別邸として元和6年(1620年)に作庭。名前は数々の景勝を凝縮して表現したことに由来。
・進んでいくと川岸に階段状の船着場「雁木」がある。江戸時代の広島は川が網の目のように広がる三角州のおかげで水運が盛んだった。しかしある問題があった。遠浅の海に出来た広島では潮の満ち引きとともに川の水位が変化する。その差は最大4m。
・雁木は水位が変わっても船に乗れるようにした三角州の町・広島ならではの工夫だった。

・一行は船に乗り上流へ進み川の分岐点へ。サギの住む小さな中州がある。三角州と同じく川が運ぶ土砂が溜まって出来た。
・船は下流へ。三角州の川がもたらす意外な恩恵をみることが出来るという。広島の川は広い範囲で海水と淡水が混じり合う汽水域。そのため海から6km離れた場所でも汽水域に生息するヤマトシジミが獲れる。

・続いて船は平和記念公園の近くまでやって来た。水運が盛んだった江戸時代、この辺りは特別な場所だった。
・広島城に近く川に囲まれた今の平和記念公園周辺には、多くの雁木が並んでいた。ここは多くの船と物資が行き交う一大商業地だった。
・出発点の原爆ドームに戻った。江戸時代、広島藩の御米蔵(年貢米を収める蔵)があった。広島藩の米蔵だった場所に大正時代、広島県産業奨励館が建てられた。ここが江戸時代から続く経済の中心地だったからこそ建てられた。
・昭和になっても多くの人で賑わっていたこの場所に原子爆弾が投下された。
・71年前、ゼロからの出発を余儀なくされた広島。今や人口100万を超す中国地方一の大都市となった。奇跡的な町の復興そして発展には、あるものが大きな役割を果たした。実はそれも三角州と大きく関係している。

・一行は宇品港へ。復興を牽引したものがあるという。
・2人目の案内人として登場したのは日本路面電車愛好会中国支部代表の加藤一孝さん。
・三角州は地盤が弱いため、地下鉄をつくるのに向いていない。その反面、土地が平らなので電車が走りやすい。路面電車は長らく広島市民の足となってきた。1日平均で約15万人が利用。車両数も136編成あり、いずれも日本一となっている。
・広島電鉄651号。戦前に製造された被爆電車。
・原爆投下の僅か3日後、路面電車は一部の路線で運転を再開した。焼け野原となった広島の町を走るその姿は、多くの市民を勇気づけた。
・651号を貸切って広電本社へ。広島では福岡をはじめ京都や大阪など地下鉄ができたことで路面電車がなくなった都市の車両を大切に使っている。各地で愛された路面電車が今日も広島、三角州の町を走っている。

(2016/9/25視聴・2016/9/25記)

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【大河ドラマ】真田丸・第38話「昌幸」

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【大河ドラマ】真田丸・第38話
「昌幸」

(NHK総合・2016/9/25放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

<感想>

 先週から登場人物の死去が相次いでいます。関ヶ原の戦いから一気に10年以上経ってしまうという今回も見逃したら大変なぐらいの回でした。

本多忠勝:まさかの「ナレ死」。忠勝さん演じる藤岡弘、さんが今日行われた千葉・大多喜城のお祭りにゲストで訪れたということです(→藤岡弘、が忠勝ゆかりの大多喜町で武者行列・毎日新聞より)。
 本当に家康の家臣にするのは勿体無いぐらいの“漢”でした。合掌。

加藤清正:彼も「ナレ死」しかも謀殺、あの世で石田三成に「ばか者」と言われているよ。

板部岡江雪斎:史実では慶長14年没ですから、今回が恐らく最後の登場となったのでしょう。北条氏のよきブレーンとして信繁と沼田裁定で対峙、そして家康の間者になったとはいえ憎めないキャラクターでした。

上杉景勝&直江兼続:史実ではまだ登場します。しかし家康に完全に牙を抜かれてしまい…残念。

 そして真田昌幸。「表裏比興の者」として最後の最後まで戦乱の世を生き抜こうとしたことでしょう。そして九度山での生活は彼の一番の生き甲斐を奪うものであったことは言うまでもありません。あともう少し長く生きていれば、或いは家康が死んじゃってくれていれば、昌幸が再びという機会があったのかもしれません。

 しかし歴史は歴史ですから変えられません。本当に残念ですが、回想シーンがあるかもしれませんが草刈正雄さんクランクアップでございます。お疲れさまでした。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・関ヶ原は徳川の圧勝で終わった。敗軍の将となった昌幸親子は、徳川に付いた信之の助命嘆願の末、紀州の九度山に幽閉されることとなった。

・慶長6年(1601年)正月。紀州・紀ノ川の奥、高野山の山裾にその九度山の村はあった。
・真田昌幸(草刈正雄)と真田信繁(堺雅人)たちは小さな屋敷を与えられ、村から外に出ることは許されなかった。
・信繁は村長の長兵衛(木之元亮)に挨拶に行くが、あまり歓迎されていない様子だった。
・真田信之(大泉洋)から書状が届く。信之は「幸」を捨てたことを昌幸は残念がる。
・一方、上杉景勝(遠藤憲一)は徳川家康(内野聖陽)に謝罪し、会津120万石から米沢30万石に減封されることになった。いずれは上杉を頼るつもりだった昌幸の思いは潰えた。
・この年、春(松岡茉優)は信繁との最初の子を身ごもっている。
・慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍に任ぜられた。同じ年、孫娘の千姫を豊臣秀頼(中川大志)に輿入れさせ、その権勢は絶頂を迎えようとしている。
・信之は本多正信(近藤正臣)を通して昌幸親子の赦免を願い出たが家康は応じなかった。
・さらに2年後の慶長10年(1605年)、家康は征夷大将軍を秀忠(星野源)に譲った。
・信之は再び赦免を願い出たが、家康や秀忠は拒否。
・慶長11年(1606年)、豊臣秀頼主催による大掛かりな鷹狩りが催された。
・信繁のもとに板部岡江雪斎(山西惇)が訪れる。北条氏の供養のために高野山に来たというが、信繁にいずれくすぶっている火が燃えるときが来ると言う。
・その一生を家康のために尽くした本多忠勝(藤岡弘、)は、大坂の陣を待たずに慶長15年(1610年)この世を去った。
・加藤清正(新井浩文)は成長した秀頼と家康が会うことを願い、片桐且元(小林隆)を通して面会するよう願い出たが、家康は二条城に秀頼を呼びつける。
・慶長16年(1611年)4月8日、家康は秀頼と二条城で会見した。秀頼が立派な若武者に成長した姿に家康は危惧する。
・また、加藤清正がバックにつくことを恐れた家康は服部半蔵(2代目)を使い、清正を謀殺するよう仕向けた。清正は二条城での会見後、肥後へ戻る船の中で発病し2か月後に死んだ。
・そんなある日、昌幸が倒れる。願わくばもう一度、戦場に出たかったと昌幸は言い、いずれ必ず豊臣と徳川がぶつかるときが来る。そのときは村を出て豊臣に付くよう信繁に伝える。
・そして昌幸は信濃の上田の城に帰りたかったと言い残し、この世を去った。

<真田丸紀行>
・和歌山県高野町。1200年の歴史を持つ高野山に真田家とゆかりの深い寺・蓮華定院がある。蟄居の身となった真田親子が頼った寺である。
・いつの日か信濃に戻ることを願っていた昌幸は、家康からの許しを待ち望んでいた。
・しかし慶長16年6月、蟄居生活およそ10年。昌幸はその生涯を終えた。
・蓮華定院よりさらに奥深く、奥之院参道には真田家が忠誠を誓った武田信玄・勝頼親子の供養塔がある。
・信玄が「我が両目のごとき」と愛でたと言われる希代の武将・真田昌幸。戦国の世であがき続けた男の野望は、信繁に託されることになる。

※蓮華定院(南海電鉄「高野山」からバス「一心口」下車すぐ)
※武田信玄・勝頼の供養塔

(2016/9/25視聴・2016/9/25記)

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第37話「信之」
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第2話「決断」
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※真田ゆかりの地関連
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