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【にっぽん!歴史鑑定】戦国の世をつくった女帝 日野富子

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【にっぽん!歴史鑑定】
「戦国の世をつくった女帝 日野富子」

(BS-TBS・2017/2/6放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 室町幕府の屋台骨を支えようと奮闘し、そして結果として彼女の失脚によって室町幕府滅亡への道を進むことになったといってもいい日野富子。今回の特集も、とても面白く視聴しました。

 おそらく彼女には個人的な野心はそれほどなかったのではないかと思います。名家に生まれ将軍家に嫁ぐことになってから、その血筋を守りたいという一心だったのでしょう。金の亡者、守銭奴というのも、余りにもルーズだった男どもに代わって幕府の財政を支えたいという思いだったのでは。そして敵の敵は味方というような形で手を結ぶ相手を変えていったのも、利己的なものではなかったのではないかと思います。

 鎌倉の北条政子、室町の日野富子、戦国の世ではお市の方か淀君でしょうか。こういう歴史を彩る女性たちの存在はとても興味深く感じられます。ぜひ日野富子もNHKでドラマ化を…と思ったら、1994年に既に大河ドラマになっていたのですね(「花の乱」)。なかなか錚々たるキャスティング、観たくなりました。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・時は室町時代後期。未曽有の災害や民衆の暴動が相次ぎ、世は乱れに乱れていた。足利将軍家の権威は地に落ち、遂には将軍暗殺事件まで起きた(6代・足利義教)。
・そんな中、影の権力者として君臨することになる女性が現れた。8代将軍・足利義政の妻、日野富子。強欲・淫乱・独裁者など後世に伝わる悪名の数々。本当に彼女は悪女だったのか。
・将軍の後継者を巡る富子と側室との壮絶なバトル。その裏に隠された陰謀とは。
・京の都を壊滅させた応仁の乱、その張本人といわれる富子。定説が覆り、仕掛けた人物が別にいた?
・金銭に執着し、守銭奴そのものだった富子。莫大な財産をどのように築いたのか。その使い道と応仁の乱との関係は?
・室町幕府の女帝・日野富子の生涯を辿る。

<日野富子vs今参局 女の戦い>
・代々、朝廷に仕えてきた日野家は将軍の正室を輩出する中級公家の一つだった。中でも富子の叔母にあたる日野重子は6代将軍・義教に嫁ぎ、8代将軍・義政を出産。将軍の生母として権力をほしいままにしていた。
・ところが義政が側室に今参局を迎えると彼女にご執心となり、母の重子より今参局の意見を聞き入れるようになってしまった。

「このままでは日野家の権勢が奪われてしまう」

・そう案じた重子は姪の富子を嫁がせることで今参局から義政を取り戻そうと画策。日野家の女性を母とする世継ぎを生ませようと考えた。
・康正元年(1455年)8月27日、富子は16歳のとき将軍・義政の正室となった。このとき義政は20歳、大層な美男子で芸術にも通じた教養ある人物。富子もすぐに気に入ったという。
・しかし富子を待ち受けていたのは屈辱的な結婚生活だった。夫・義政には既に数人もの側室がいて、中でも今参局にいまだ夢中。富子は見向きもされず孤独な日々を送ることとなった。
・しかも義政は政治に全く関心がないダメ将軍。昼間から酒を飲み、趣味の庭づくりなどに莫大な金をつぎ込む始末。富子は耐えるしかなかった。自分の権威を高める手段はただ一つ、正室として世継ぎを生むこと。
・しかし側室・今参局も黙ってはいない。親族の若い娘を新たに側室に迎え富子に対抗。まさに将軍の子種争奪戦ともいえる女の戦いが繰り広げられた。
・そして富子が将軍家に嫁いで4年目の長禄3年(1459年)待望の男子を出産。義政の後継者となる男子の誕生は富子の勝利を意味していた。
・ところが喜びも束の間。富子の子は生後まもなく亡くなってしまった。このとき都じゅうに不吉な噂が広まった。当時の記録(「安位寺殿御自記」)にはこう記されている。

彼の仁の調伏と称し
若君腹中にて死去せらる


・今参局が自分の地位を守るため若君を呪い殺したというのだ。この噂を信じ込んだ義政は怒り心頭。大した取り調べも行わず、今参局を流罪に処した。今参局派の側室やお付きの侍女たちも全員都から追放。今参局は身の潔白を証明するため、まもなく自害したと伝えられている。この今参局事件によって富子は将軍正室としての権威を回復。女帝への道を歩み始めることとなった。
・実はこの事件にはある陰謀が隠されていた。この噂を流したのは日野重子だった。世継ぎの死というピンチを逆手に取り、噂をでっち上げて義政に告げ口。一気に今参局の勢力を将軍御所から一掃したのだ。
・今参局の失脚で権勢を振るうことになった富子だったが、まだその立場が安泰というわけではなかった。「世継ぎを産んでその子を次の将軍に」という使命をまだ果たしていたわけではなかった。

<義政の隠居計画と2人の世継ぎ候補が>
・長禄3年(1459年)夏、日本全土を天変地異が襲った。豪雨に地震さらにはその後、3年にも及ぶ日照り。これにより大飢饉が発生。死者は都だけで8万人以上と伝えられている。この国難に際しても将軍・義政は対策を施さなかった。

「将軍なんて今すぐにでも辞めてしまいたい」

・将軍の職を譲り、自分の好きなことに没頭したいと願っていた。しかし正室である富子にはまだ世継ぎとなる子がいなかった。そこで義政は一刻も早く隠居を実現するため、富子に相談せず自分の跡継ぎとなる養子をもらうことに。
・白羽の矢が立ったのは当時仏門に入っていた弟の義視。しかし兄の優柔不断な性格を知り尽くしていた義視は、養子になることにこんな条件を付けた。

「後に男子が生まれてもその子は出家させ、決して跡継ぎにはしないでください」

・義政はこの約束を受け入れ、義視を還俗させ養子として迎える準備を進めた。義視の後見人には幕府の実力者で将軍を補佐する管領職にあった細川勝元が就任。義政の隠居計画は順調に進んでいた。
・そんなとき富子が懐妊。もし男子が生まれてくれば本来ならこの子が世継ぎとなるはずだと彼女は考えた。そして願い通り男子を出産(足利義尚)。将軍・義政の当時の心境を室町・戦国時代の歴史に詳しい静岡大学名誉教授の小和田哲男氏はこう推測する。

義政は富子になかなか子どもが生まれなかったから早く政治から身を引きたいと義視を次の将軍に考えた。自分に子どもが生まれたことで窮地に立たされた(小和田氏)

・将軍の世継ぎ候補が2人。これが幕府を揺るがす大事件へと発展していった。

<「応仁の乱」が勃発 その真相とは>
・応仁元年(1467年)室町幕府は日野富子が男子を生んだことで、次期将軍の座を巡り大混乱をきたしていた。候補は2人。8代将軍・義政と富子の間に生まれた義尚に、義政の弟・義視。
・それぞれの後ろ盾に幕府の実力者・細川勝元(義視側)と山名宗全(義尚側)が付き対立。そこに有力大名の畠山氏が内部分裂して加わったことで、一触即発の事態に陥っていた。
・そして5月26日、遂に両者が京の都で衝突、戦いが始まった。世に言う「応仁の乱」。激しい戦いが繰り広げられ、当初は山名氏が率いる西軍が細川氏率いる東軍を圧倒したが、やがて東軍が将軍御所と朝廷を掌握。権力の中枢を押さえたことで形勢が逆転した。
・我が子・義尚を将軍とするため西軍に肩入れしていた富子だったが、将軍御所が東軍に包囲されると為す術も無く戦いを見守るしかなかった。
・総勢27万もの兵が動員されたともいわれる応仁の乱。京の都は瞬く間に灰燼に帰し、その争いは全国へと広がった。将軍家のお家騒動が大乱に発展してしまった。
・戦が始まってから6年の文明5年(1473年)長引く戦況に嫌気が差した義政は、ようやく決断した。後継者に9歳になった息子・義尚を選び、将軍職を譲り正式に隠居した。幾万もの命そして京の都の被害と引き換えに、遂に富子は我が子・義尚を将軍の座に就けるという望みを果たした。

実は後継者争いが起きる前に既に細川対山名の対立構造はあった。もはや武力衝突は避けられなかったので、日野富子が応仁の乱の張本人とはいえない。むしろ細川、山名は戦いのきっかけを探していた。そこで後継者争いを戦の口実として利用したのではないか。むしろ張本人は細川勝元で、彼にとっては富子や義尚は邪魔な存在だったのではないか(小和田氏)

<富子が応仁の乱で大儲け その使い道とは>
・長引く戦に将軍・義政の政治への無関心。お陰で室町幕府の財政は逼迫していた。そんな中、富子は応仁の乱で莫大な富を蓄えたという。諸説あるが現在の金額にして約70億円。どうやってそんな財産を築いたのか。

【富子の蓄財法(1)米の買い占め】
・戦によって米相場が急騰すると読んだ富子は、米を買い占めた。こうして価格を吊り上げて売り抜いて大儲け。

【富子の蓄財法(2)関所を設ける】
・戦のための物資の運搬が多くなると、京の七口といわれる町の入口に関所を開設。人や物資に通行税にあたる関銭を課した。

【富子の蓄財法(3)商人から税金を徴収】
・将兵に酒を売る酒屋や高利貸しなどが儲かっていると聞けば税金を徴収。そればかりか幕府に入る金を着服していたという噂も。

【富子の蓄財法(4)大名同士の訴訟に介入】
・更には大名たちが用地問題などで訴訟を起こした際、判決を有利にする見返りとして賄賂を受け取っていたとも言われている。

・彼女は強欲な金の亡者、守銭奴と言われるようになった。

富子の権力の源泉が財力にあるということで、頼りない夫に代わって蓄財に励み幕府の財政を支えていた。富子は稼いだ金を大名などに貸し付け、利息で財産を増やした。金利が高く返済が滞ると貸し剥がしも行っている。財産を差し押さえて力づくで取り立てた。まさに富子は金融資本主義の先駆けとも言えるのでは(小和田氏)

・足利義尚が9代将軍となっても、なお収束をみせない応仁の乱。京の都はすっかり荒廃し、公家や役人も多くが家を失って路頭に迷っていた。
・すると富子は貯め込んでいた財産を活用。焼け出された公家や幕府の人々を将軍御所で室町第に迎え入れ、食事や物資などを振舞った。
・そしてもう一つ富子が莫大な財産をつぎ込んだのは、戦をしている大名たちにだった。

戦いに参加した大名たちは領地を留守にしていたため、領地は荒れて戦費はかさんでいた。京都で多額の借金をしながら戦いを続けていて、そんな状況から早く抜け出したかった(小和田氏)

・例えば富子は戦費がかさみ財政が逼迫していた西軍の畠山義就に1千貫(約1億5千万円)という大金を貸し与えた。資金を得た義就はすぐさま京の都から引き揚げ、領国である河内国に帰っていった。
・富子が大名たちに金を貸したのは利息で儲けるためだけでなく、彼らに国許に帰る費用を与えて早く戦を終わらせようという狙いもあった。
・大名たちは富子から資金を得たことで、まるで潮が引くかのように次々と自分の領地へ戻っていった。こうして文明9年(1477年)11月11日、応仁の乱が収束。戦いが始まってから10年もの月日が流れていた。
・その後も富子は荒れ果てた京の都を復興させるため、寺社などに対し多額の寄進を行った。富子は決して強欲な女ではなかった。

<富子と天皇の密通疑惑の真相とは>
・応仁の乱のさなか、将軍御所である室町第で大きなスキャンダルが持ち上がった。富子が時の後土御門天皇と密通しているというのだ。
・将軍の正室と天皇との密通疑惑。応仁の乱の混乱を避け、天皇が富子が暮らす室町第に御座所を移したことで一気に噂が広まった。
・宮中に仕える女官たちが記した「御湯殿上日記」には二人が「御ひしひし」(ぴったり寄り添って)と記されている。つまり天皇が風呂あがりの富子を呼んで親密に酒を酌み交わしていたというのだ。これはただならぬ関係。噂はあっという間に広まり、夫・義政の耳にも入った。
・しかしこの密通疑惑はデマであったことが、やがて明らかになった。実は天皇の相手は富子ではなく、富子に仕えていた侍女だった。彼女が天皇の子を身ごもったことで富子の疑いは晴れた。

<息子・義尚のその後はどうなったのか>
・応仁の乱のさなか、息子の義尚に将軍の座を譲った義政。その後も相変わらず大酒を飲み、遊びに夢中。銀閣を建てたのも隠居後のことだった。
・そんな夫ではあてにならないと富子は幼い将軍を支え、幕府を取り仕切るようになっていた。これが独裁者といわれる所以だった。
・富子は義尚の教育にも熱を入れた。父親のような将軍にはならないでほしい。我が子を立派な将軍に育たねばと身を削って働き続けたが、次第に彼女が思い描いたシナリオが崩れ始めた。
・幼い頃は富子の言うことなら何でも聞いていた義尚が、成長するにつれコントロールができなくなっていた。そして父親同様、酒に溺れるようになった。しかもすっかり反抗的になり、気に食わないことがあったとき自分の髪の毛を切り落としてしまったという。富子は大いに悩んだ。
・しかしある出来事が変化をもたらした。長享2年(1488年)義尚が病に倒れたときのこと。1か月の闘病の後、奇跡的な回復を遂げた。すると死に直面したことで心を入れ替え、酒を断ち武芸にも励むように。将軍としての自覚が芽生えた。
・そして翌年、義尚は戦に出陣。幕府の権威を取り戻すため、近江国の六角高頼が寺社の所領を横領しているという訴えに応じ、1万の兵を率いて攻め込んだ。それは富子が夢にまで見た将軍の雄姿。
・ところがこの戦が長期戦となったため、義尚は陣中で酒を飲むことが多くなり再び体調を崩した。富子が駆けつけ懸命に看病したが、義尚は25歳の若さでこの世を去った。
・将軍に代わり、毅然と幕府軍撤退の指揮を執ったのが富子だった。我が子の亡骸とともに京に戻った富子は、ここでようやく人目を憚らず涙を流したという。

<最愛の息子が死去 富子の次なる作戦とは>
・将軍としての将来が嘱望された矢先、義尚は病死。悲しみに暮れる富子だったが、幕府安泰のための工作も怠ってはいなかった。
・実は義尚に万が一のことがあった場合に備えて、かつて義尚と将軍の座を争った義視の子・義材を義尚の養子に迎えていた。夫の義政には一言も相談しなかった。

何とか室町幕府を続けていくには自分がかつて争った相手ではあるが、義視の子どもの義材を養子にして丸く収めるしかないと思った(小和田氏)

・足利将軍家を絶やさないための富子の苦渋の決断だった。富子の勝手な行動に怒った義政は、自らが将軍に復帰すると主張。しかし翌年の延徳2年(1490年)1月、長年の不摂生がたたり、息子を追うように息を引き取った。
・義政の死を機に出家した富子は、相変わらず影の実力者として義材を10代将軍に就けるため暗躍した。その甲斐あって義材は将軍の座に。ところが富子はまたもや疎んじられた。将軍となった義材は富子に対しこう言い放った。

「今後政治への口出しは無用に願いたい」

・義材は富子を権力の座から引き摺り下ろすため、幕府の財政を管理する権利を剥奪。更に将軍が政治を行う室町第の近くにあった富子の住まい・小川殿を破壊。義政の別荘だった東山山荘に追いやった。

「こんな仕打ちを受けるとは」

・延徳2年(1490年)6月、富子の怒りに火をつける事件が起きた。親しい人たちを招き、観世座を呼んで能を楽しもうとしたときのこと。義材の実父の義視が観世座に圧力をかけ参加を止めさせた。集まった人々は散会することになり、富子の面目は丸潰れとなった。

義材の父・義視が大御所的な存在で裏で糸を引いていたことも考えられる。義材を養子にし将軍にした富子は読み誤ったのではないか(小和田氏)

・屈辱的な仕打ちに対し復讐に燃える富子は、義視のライバルであった細川政元と共謀し反撃の機会を待った。そしてチャンスがやってきた。大御所の義視が亡くなった。

これを機に義材は強権を発動した。自分に従わない大名を武力で制圧しようと河内国の畠山氏を征伐するために京都を離れた。それを知った富子が一気に動き出した。突如として義政の異母兄である政知の子・足利清晃(のちの義高)を担ぎ出して新たな将軍であることを発表した(同上)

・留守中に将軍を取り替えてしまうという大胆な奇策。これに諸国の大名が従ったため、義材は降伏を余儀無くされた。こうして権力の座に返り咲いた富子は観世座を招き盛大な祝賀会を開いたと伝えられる。
・クーデターによって再び権力を手にした富子だが、これも誤算だった。新たな将軍となった義高(義澄)は、かつて富子が義材に肩入れし将軍としたことを根に持っていた。富子に東山山荘から立ち退くように命じた。
・さらに富子の協力者だった細川政元も、自分が義高の後見人になると掌を返したように富子と敵対した。幕府で女帝として君臨した彼女は明応5年(1496年)失意のうちに生涯を終えた。57歳だった。
・富子が応仁の乱を終わらせようとしていた頃に詠んだ歌がある。

偽りの
ある世ならずは
ひとかたに
たのみやせまし
人の言の葉
(偽りが全くない世の中であれば、これほど人の言葉を頼みにしないでしょう。裏切りや偽りが多いからこそ私は人の言うことを大切にしたいのです)


・そう望んだ富子だったが結局、最後まで裏切られ、失意のうちにこの世を去った。富子の死後、今度は11代将軍・義高と後見人だった細川政元が対立。
・弱体化する幕府に代わって、諸国の実力者たちが台頭。いよいよ群雄割拠の時代に突入していった。皮肉にも室町幕府の安泰を願い続けた富子の死が、戦国の世の幕開けとなった。

(2017/2/8視聴・2017/2/8記)

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