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【にっぽん!歴史鑑定】蘇我入鹿暗殺事件

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【にっぽん!歴史鑑定】
「蘇我入鹿暗殺事件」

(BS-TBS・2016/12/19放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 ハードディスクに溜め込んだ録画番組を1日1番組は視聴するという日々を送っております。年末で何かと忙しいのですが、このペースでいくと年内に消化するのは厳しいかもしれません。お正月も帰省やら外出やら予定があるので、ハイペースでというわけにもいかなそうです。こんな拙いブログですから、待っている方はいないとは思いますが…気長に更新していきます(と言い訳を言っておきます)。

 さて今回は先週の「にっぽん!歴史鑑定」。蘇我入鹿暗殺事件、といえば私が学校で日本史を学んだときは「大化の改新」と言われていたものです。645年「朝廷のむし(64)をこ(5)ろす大化の改新」なんて語呂合わせがあった記憶があります。

 しかし現在ではこのクーデターそのものは「乙巳の変」。しかも今回の番組でもクローズアップされましたが、中大兄皇子と中臣鎌足は単なる実行犯で事件の黒幕は別にいるというのが定説になっているようです。しかも「日本書紀」の虚実を正面切って指摘されるとは、時代も変わったものだとつくづく思います。

 それでもやはり番組ナビゲーターの田辺誠一さんが仰っていたように「歴史は勝者によって語り継がれる」というのは尤もだと思いますね。どうしても蘇我氏に対するイメージは、あまりいいものではないのが正直なところですからね。

 さて、年内のこの番組の放送はもう1本あります(この記事を書いている時点で私のハードディスクに既に保存されています)。それを視聴した感想と合わせて、この間いくつか史跡巡りをしてきたので、そのときの写真をアップしたいと思います。お楽しみに(笑)

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・今から約1370年前、皇極天皇4年(645年)。飛鳥宮でのおごそかな儀式の最中、暗殺事件が起こった(乙巳の変)。殺害されたのは時の権力者、蘇我入鹿。
・これにより4代にわたって強大な権勢を振るった蘇我氏が滅亡。古代の日本を大きく変える政治改革、大化の改新が始まった。
・古代史上最強の豪族と呼ばれた蘇我氏。皇位簒奪を企む逆臣として討ち取られた入鹿は本当に悪人だったのか?
・入鹿暗殺の首謀者は教科書でお馴染みの中大兄皇子と中臣鎌足ではなかった?事件の裏で糸を引いていた驚くべき人物とは?
・天皇の目の前で起こった暗殺事件。しかしクーデターともいえるこの事件で処罰者はなし。その理由とは。
・入鹿暗殺後、死に追いやられた父・蘇我蝦夷。一切反撃しなかったのはなぜだったのか。暗殺グループの緻密な計画と目論見を徹底検証。

<蘇我氏の繁栄と滅亡>
・あまたの遺跡が残る奈良県明日香村。古代史のロマン溢れるこの地で近年、注目を集める古墳がある。都塚古墳は古くは金鳥塚と呼ばれ長い間、誰の墓か分からなかった。ところが2014年、明日香村教育委員会と関西大学の合同調査により新たな発見があった。
・都塚古墳はこぶし大から人の頭ほどの石をピラミッド状に積み上げた、国内では非常に珍しい構造の古墳だと判明した。さらにこれまでは一辺が28mほどの正方形の方墳と考えられていたが調査の結果、東西41m・南北42mもあることが分かった。これらの発見により、かなりの権力者の古墳だと考えられるようになったが、一体誰の墓なのか。
・手掛かりとなったのが都塚古墳から400mほど離れた場所にある石舞台古墳。7世紀初頭につくられたこの古墳の特徴は30数個もの巨大な岩を組み合わせた石室。その大きさから蘇我馬子の墓だと言われている。近くには馬子の住居跡である島庄遺跡もあり、この辺り一帯は蘇我氏の勢力圏だったことが窺える。
・ということは、今まで誰の墓か分からなかった都塚古墳は蘇我稲目の墓ではないかという説がある。稲目はその後4代にわたる蘇我氏の繁栄の礎を築いた蘇我本宗家の祖。蘇我一族は宗我都比古神社があるこの地域から急速に勢力を伸ばしていったと考えられている。
・宣化天皇元年(536年)、蘇我稲目は大臣(おおまえつぎみ)に就任。大臣とは天皇の命を受け、群臣と呼ばれる他の豪族たちとともにヤマト政権を司る最高職。政治のトップに立った稲目は、2人の娘を時の天皇に嫁がせることでその地位を堅固なものにし、大小50ほどいた豪族の筆頭格として権勢を振るった。
・稲目の死後、後を継いだのが息子である馬子。聖徳太子の名で知られる厩戸皇子とともに、やはり政権の中枢で活躍した。日本最古の仏教寺院、飛鳥寺を造営するなど、伝来したばかりの仏教を広めることに尽力。
・そして大陸との交流を盛んに進め、先進の技術を取り入れて様々な施設を建設。公共事業を一手に担うことでさらに権力を拡大していった。
・こうした稲目、馬子が築き上げた強大な権力基盤は蝦夷とその息子・入鹿へと受け継がれる。女帝である皇極天皇が642年に即位すると入鹿は父・蝦夷から大臣の職を譲られ、その力をほしいままにした。
・しかし僅か3年後に暗殺。父・蝦夷も命を落とし、栄華を極めた蘇我本宗家は滅びてしまった。乙巳の変と呼ばれるこの暗殺事件を詳細に記しているのが、最古の歴史書「日本書紀」。殺害された蘇我入鹿と蝦夷はもちろんのこと、事件の鍵を握る人々にまで言及している。
・時の天皇である皇極天皇に弟の軽皇子と天皇の息子・中大兄皇子、そして入鹿のいとこにあたる古人大兄皇子に藤原氏の祖である中臣鎌足、さらに入鹿と同族の蘇我倉山田石川麻呂まで事件に関わっていたという。

<中臣鎌足が蘇我入鹿を殺した理由とは>
・日本書紀によるとこの暗殺事件は、中臣鎌足の激しい憤りが発端だったようだ。

蘇我入鹿が王と臣下 年功序列の道理をわきまえない

・鎌足は入鹿が天皇を蔑ろにして数々の越権行為を行っていると腹を立てていた。その一つは宮中を見下ろす甘樫丘の上に蝦夷と入鹿が屋敷を建てたこと。
・2つ目は大勢の民を動かして墓をつくり、天皇の墓を意味する「陵(みささぎ)」と呼んだこと。さらに先祖をまつる廟で天皇の儀式でしか披露されない「やつらの舞」を舞わせたこと。そして日本書紀はこう続く。

入鹿が国を奪うための謀を企んでいる

・謀とは皇位継承に関わることで、このとき皇極天皇の次の天皇は舒明天皇の息子の古人大兄皇子か、厩戸皇子の息子の山背大兄王のどちらかと目されていた。そこで入鹿はいとこである古人大兄皇子を皇位に就けて権力を強化しようと画策。
・そして643年、入鹿は独断で驚くべき行動に出た。家臣に命じ山背大兄王の宮殿を襲撃、一族もろとも自害に追い込み滅亡させた。入鹿の暴走行為に父・蝦夷もさすがに驚き苦言を呈した。
・そして入鹿の一連の行為に激しい憤りを抱いた鎌足が遂に蘇我氏打倒を決意した。しかしこのとき鎌足は中堅の豪族。時の権力者である入鹿暗殺は謀反にあたるため、まずは皇族を味方につけようと考えた。最も力があったのは、皇極天皇の後継者に決まった古人大兄皇子だったが、蘇我氏と姻戚関係にあるため難しいと判断。
・そこで近づいたのが皇極天皇の弟、軽皇子だった。鎌足はすぐに宮殿を訪ね、その決意を打ち明けた。厚いもてなしを受け、強い味方を得たと確信した鎌足はさらに一押し。

天下の王には(軽)皇子をおいて相応しいお方は他にいないでしょう

・こうして軽皇子の心を掴んだ鎌足だったが、相手は強大な力を持つ蘇我氏。万全を期すため皇極天皇の子・中大兄皇子も取り込むことに。そのチャンスは間もなく訪れた。
・日本書紀によれば、たまたま参加した飛鳥寺での蹴鞠の会で中大兄皇子の靴が偶然鎌足の近くに飛んできたという。鎌足はそれを拾うと皇子の前に膝まずき手渡した。これを機に鎌足は中大兄皇子との距離を縮め、入鹿暗殺をともに計画する仲となった。
・さらに鎌足は入鹿暗殺の実行役として宮殿の護衛を担当していた佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田を仲間に引き込んだ。また蘇我一族を内部分裂させようと、一族の有力者である蘇我倉山田石川麻呂まで取り込んだ。この5人が入鹿暗殺実行部隊だ。

<入鹿暗殺 その作戦を徹底検証>
・蘇我入鹿暗殺決行の日、その詳細を日本書紀で辿っていくことにする。現場は皇極天皇の宮殿、飛鳥板蓋宮の大極殿。朝鮮の3か国(高句麗、新羅、百済)の使者が朝廷に貢物を献上する儀式「三韓の調」が執り行われる日だった。
・大臣である蘇我入鹿は当然のことながらこの儀式に参列しなければならなかった。鎌足たちはこのときを狙い襲撃しようと考えていた。
・入鹿殺害の実行部隊である佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田は事前に宮殿内に剣を隠し、身を潜めてその時を待つことに。首謀者である鎌足と中大兄皇子も、入鹿が現れるのを物陰に隠れて待っていた。
・皇極天皇と古人大兄皇子が鎮座する大極殿。暫くして入鹿はやって来た。しかし腰にはやはり剣が。すかさずそれを外す役目を任された俳優(わざおぎ)が近づき、おどけた仕草で「入鹿殿の立派な腰のものを預からせてほしい」と言った。俳優のユーモアに気が緩んだのか、入鹿は剣をあっさりと預けてしまった。
・そして儀式は始まった。蘇我倉山田石川麻呂によって貢物の内容が記された文が読み上げられた。実はこれを入鹿が聞き入っている間に襲撃するという作戦だった。中大兄皇子は人を入れないため、門番に命じて宮殿の12ある門を全て閉めさせた。
・これが襲撃の合図、しかし実行役である佐伯子麻呂たちは怖じけづいてしまった。動揺して手が震え、滝のような汗を流す蘇我倉山田石川麻呂。不審に思った入鹿は「なぜそんなに震えているのだ?」と言い、びっくりした石川麻呂は声を震わせながら「天皇に近く恐れ多いため、不覚にも汗が流れ出ているのです」と。
・このままでは勘付かれてしまう。その瞬間、物陰に隠れていた中大兄皇子が任せておけぬと突進。猛然と入鹿の頭を斬りつけた。気を取り直した子麻呂も続き、入鹿の片足を斬りつけた。
・入鹿は血まみれになりながら皇極天皇の前に這っていき「私が何の罪を犯したというのでしょうか?」。困惑した皇極天皇は中大兄皇子に何故かと尋ねた。すると中大兄皇子はこう答えた。

入鹿は皇族を全て滅ぼして天皇の地位を傾かせようとしているのです

・これを聞いた皇極天皇は黙って立ち去った。こうして蘇我入鹿は皇位簒奪を企てた逆臣として殺された。

<日本書紀の記述に“異議あり”>
・このように日本書紀には記されているが、検証していくうちに幾つもの矛盾点が見つかった。一つは事件現場。日本書紀には宮中にあった大極殿と記されているが、このときはまだ大極殿と呼ばれる建物はなかった。大極殿が出来たのは奈良時代以降。
・日本書紀は奈良時代はじめに完成しているため、その後に書き加えられたと考えられる。日本書紀にはこうした事実とは違う記述が他にもあると、古代史に詳しい学習院大学講師の遠山美都男氏は言う。

日本書紀では蘇我氏が天皇家に取ってかわろうとしたため滅ぼされたと描いているが、これは全くのでたらめ(遠山氏)

・つまり日本書紀に記された入鹿殺害の理由までもが事実を大きくねじ曲げたものだというのだ。

まず問題にすべきことは乙巳の変の1年半前に起きた、入鹿による山背大兄王殺害事件。日本書紀には「入鹿独謀」と書かれているが、入鹿の一存でということはなかった(同上)

・遠山氏は大臣である入鹿が皇極天皇から山背大兄王襲撃の命令を受け、それを他の群臣に相談せずに一人で実行したと考えている。なぜ群臣に相談しなかったのか。

内容が軍事的な機密に関わったため、大夫(群臣)たちに諮ることを避けたと考えられる。当時の天皇家は敏達天皇系と用明天皇系とで皇位が争われていた。皇極天皇は敏達天皇系、山背大兄王は用明天皇系。つまり敏達系が用明系を滅ぼそうとしたというのが、この一件の動機だった(同上)

・実は蘇我氏が自らの墓を天皇陵のように呼ばせたなどの数々の越権行為も、天皇の地位を脅かそうとして行ったわけではないという。

確かに日本書紀には蘇我氏の横暴を伝える記事が幾つか見られる。しかしそれらは天皇家が蘇我氏に与えた、許した特別待遇を伝えているもの。決して蘇我氏の方から天皇の地位を脅かそうとしたわけではないと考える(同上)

<入鹿暗殺 真の首謀者とは>
・日本書紀には中臣鎌足と中大兄皇子が先導し、蘇我入鹿暗殺が遂行されたと記されている。しかし彼らは単なる実行部隊で、首謀者は他にいたと遠山氏は言う。
・そのヒントも日本書紀にあった。それは入鹿が暗殺された後の記述。儀式の際、皇極天皇とともに大極殿に鎮座し、入鹿殺害を間近で目撃した古人大兄皇子は自分の宮殿に戻ると「韓人が入鹿を殺してしまった」と言ったと書かれている。
・韓人とは一般的に朝鮮半島南部の人たちのことを指す。しかしこの儀式で朝鮮の使者たちには天皇との謁見が許されておらず、入鹿殺害の現場に入ることはできなかった。そのためこの記述の矛盾点は大きな謎として「韓人が誰なのか」という議論が研究者の間で行われてきた。

私は蘇我倉山田石川麻呂だと思う(遠山氏)

・石川麻呂は儀式の際、天皇の御前で貢物のリストを読み震えていた人物。蘇我入鹿の叔父にあたり、朝廷の蔵を管理する蘇我一族の有力者だった(※馬子の孫という説もある)。
・蔵には朝鮮からの貢物を収める場所という意味もあったため、古人大兄皇子は石川麻呂を朝鮮の貢物の管理人「韓人」と呼んでいたというのだ。

石川麻呂の立場にたってみると、蝦夷や入鹿が居なくなれば石川麻呂にも蘇我氏の族長や大臣の地位が巡ってくる可能性が生じる。ここに石川麻呂の動機が生まれたのだと思う(同上)

・さらに入鹿暗殺事件には、もう一人首謀者がいたという。

乙巳の変の直後に即位した軽皇子(孝徳天皇)だと思う(同上)

・皇極天皇の弟である軽皇子にも入鹿殺害の動機があった。それが皇位継承問題だった。このとき次期天皇には皇極天皇や入鹿が推す古人大兄皇子が決まっていた。
・しかしこのまま古人大兄皇子が天皇になってしまうと、年上だった軽皇子にはもう皇位に就くチャンスがなくなってしまう。

それだけに軽皇子は焦りを募らせていたと思われる(同上)

・そこで軽皇子は後ろ盾である蘇我氏を滅ぼせば、古人大兄皇子に代わって自分が皇位に就けるかもしれないと考えた。
・こうして利害が一致した軽皇子と蘇我倉山田石川麻呂が手を組み、入鹿暗殺は計画された。すなわち中大兄皇子と中臣鎌足は2人が考えた計画に協力し実行した脇役に過ぎなかった。
・というのも鎌足は軽皇子とは主従関係にあった。軽皇子から命じられれば断ることなどできなかった。一方、中大兄皇子はもちろんメリットがあったため暗殺計画に加担したのだという。

古人大兄皇子が天皇になってしまえば、中大兄皇子の即位の可能性も当然乏しくなってしまう。それよりは叔父にあたる軽皇子が即位した方が即位できる可能性がより多く残される(同上)

<蘇我蝦夷を死に追いやった作戦とは>
・入鹿暗殺のその日、父・蘇我蝦夷は甘樫丘にある堅牢な屋敷の中にいた。襲撃グループは入鹿殺害後すぐ甘樫丘に近い飛鳥寺に入り、軍備を固めて全面対決に備えた。
・しかしこのとき戦う意欲を失っていた蝦夷は一切抵抗することなく、あまりにもあっけない最期を迎えた。なぜ蝦夷は反撃しなかったのか。

このとき皇族や豪族の主だった者たちは政変を起こした側に付いていて、蝦夷は孤立無援の状態に陥っていた。さらに蝦夷の戦意を喪失させる出来事があった。将来の皇位を期待していた古人大兄皇子が飛鳥寺で出家して事実上、皇位継承を放棄してしまった(遠山氏)

<なぜ皇極天皇は入鹿暗殺を黙認したのか>
・時の権力者であった蘇我入鹿の暗殺はいわば政変(クーデター)だ。現場にいた皇極天皇は殊の外、入鹿を信頼していたというから暗殺者たちに重い罪が科されてもおかしくなかった。しかし事件後、天皇は誰一人処罰しなかった。
・蘇我蝦夷、入鹿親子を殺害した軽皇子たちは、皇極天皇に黙認させるだけのメリットを用意していた。蘇我氏が握っていた公共事業を行う権限を天皇家に渡すというもの。
・当時大陸では唐が中国を統一。高句麗征伐を実現するなど軍事的脅威が高まっていた。万が一、半島の戦争に巻き込まれたときのためヤマト政権も軍事力の強化が必須だった。
・そのためには土地の整備や建物の建造など公共事業の権限を天皇家が掌握し、政権をまとめる必要があった。蘇我氏滅亡によりその望みが叶うと知った皇極天皇は、暗殺計画に目をつぶった。
・事件後、皇極天皇は弟の軽皇子に後を託し退位を表明。軽皇子は孝徳天皇となり、大規模な政治改革を行った。後に言われる「大化の改新」だ。日本は天皇を中心とする律令国家への第一歩を踏み出した。
・そして事件から23年後の天智7年(668年)、入鹿暗殺実行部隊の一人、中大兄皇子が天皇に即位(天智天皇)。実はこのことが事実とは反する日本書紀の記述を生んでしまったのだという。

日本書紀は7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて編纂された。朝廷の中では天智天皇と藤原氏(中臣鎌足の子孫)が崇められていた。そのため乙巳の変も権威を高めるため事実が脚色された(遠山氏)

・日本書紀によって悪人となった蘇我氏とは、どのような政治家だったのか。

これまで蘇我氏は天皇家に潜在的に対立するような存在と言われてきたが、そうではなかった。むしろ仏法の管理や宮殿や寺院の造営など、天皇家に大変貢献のあった有力な存在だったと考える。もし蘇我氏が乙巳の変で滅びることがなければ、大化の改新は彼らの手で行われていたかもしれない。それぐらい言ってもいいと思う(同上)

・事件の後、蘇我氏の身内でありながら暗殺を主導した蘇我倉山田石川麻呂は右大臣という職を与えられたが、4年後に中大兄皇子暗殺未遂の容疑をかけられ自害に追い込まれた。
・そして飛鳥寺で出家した古人大兄皇子もまた、中大兄皇子から謀反の疑いをかけられ殺された。結局、事件に関わった蘇我氏の縁者はみな殺されてしまった。歴史は勝者によって語り継がれる。

(2016/12/27視聴・2016/12/27記)

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