【ETV特集】
「漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~」
(Eテレ・2016/12/3放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
→【ETV特集】漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~(1)からの続き
<伊藤博文暗殺事件を漱石はどう受け止めたのか>
・満州と韓国の旅を終えた漱石は、朝日新聞に「満韓ところどころ」の連載を始める。その矢先、大事件が起きる。1909年10月、伊藤博文がハルビンの駅で韓国の青年アン・ジュングン(安重根)に暗殺された。
・日露戦争後、伊藤博文は韓国統監となり韓国併合への準備を進めていた。一方、アン・ジュングンは独立を求め活動していた。
・伊藤暗殺事件に衝撃を受けた漱石。その思いが新たに見つかった「韓満所感」に記されていた。
伊藤公が哈爾賓で狙撃されたと云ふ號外が来た
哈爾賓は余がつい先達て
見物に行つた所で
公の狙撃されたと云ふプラットフォームは
現に一ケ月前に 余の靴の裏を
押し付けた所だから
場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた
・漱石が満州の旅の途中、ハルビン駅に降り立ったのは伊藤暗殺事件の1か月前だった。
アン・ジュングン(安重根)が伊藤博文を暗殺した場所です。この場所です。アン・ジュングンはここに立ってこの三角が指す方を向きました。伊藤博文はあの四角のところに立っていました。伊藤博文がプラットホームをこちらに向かって歩いていた時、人ごみに隠れていたアン・ジュングンは前に出て銃で3発撃ったのです(ハルビン市社会科学院研究員の張※さん ※「隹」の下「乃」)
この距離は僅か2~3mぐらいでしょうけど、これが歴史を大きく変えて何か日本と韓国との距離を示しているような気がしますね。ここが歴史の場所か。漱石が自分の足の下をここに置いた。漱石がここを訪れて程なくして、いわば歴史的な悲劇が起きた。大事件が起きた。それに対するある種のアクチュアリティ(現実味)が、とても彼の関心を引いたんだと思う(姜氏)
・伊藤暗殺事件の裁判は旅順で行われた。その間、アン・ジュングンが収監されていた旅順監獄が今も残っている。アン・ジュングンの独房が復元保存されていた。
この旅順刑務所の中に刑の執行場があるんでしょうか?(姜氏)
アン・ジュングンの処刑はその前で執行された。この窓から見えるグレーの建物がその場所です。彼はこの監獄で処刑された初めての朝鮮人です(副館長の周愛民さん)
・アン・ジュングンは独房で「東洋平和論」を書いた。日本と中国、韓国の3国が団結し、西欧列強に立ち向かうべきだと主張する。
・「安重根事件公判速記録」。実は漱石は裁判の記録を入手していた。表紙の裏には「材料として進呈 夏目先生」と記されている。送り主は満州日日新聞社長の伊藤幸次郎だった。
私自身はそれは一つの余白を埋めていく作業。漱石が文字として残したものと残していないものがある。しかしいくつかの状況証拠的なものもある。どうして公判記録をわざわざ漱石は手に入れたのか。伊藤公を射殺したアン・ジュングンという人物が韓国の人間だというのは知っている。実際に自分が見たその光景、それから人の暮らし。そこから重ね合わせていくと、やっぱりアン・ジュングンという人物について彼がなぜそれをそうせしめたのか。これは当然のことながら、小説家的な発想からすれば、その動機ということをやはり知りたいと思うんじゃないでしょうかね(姜氏)
・漱石は伊藤暗殺事件について、小説「門」の中で触れている。主人公・宗助と妻のお米、宗助の弟・小六の3人が食卓を囲む。小六が切り出した。
「時に伊藤さんも
飛んだ事になりましたね」
「どうして
まあ殺されたんでせう」と
お米は小六二向かつて聞いた
「短銃をポンポン
連発したのが命中したんです」と
小六は正直に答へた
「だけどさ 何うして
まあ殺されたんでせう」
宗助は落付いた調子で
「矢つ張り運命だなあ」と云つて
茶碗の茶を旨さうに飲んだ
お米は「さう でも厭ねえ
殺されちや」と云つた
「己見た様な腰弁は
殺されちや厭だが
伊藤さん見た様な人は
哈爾賓へ行つて殺される方が
可いんだよ」
「あら 何故」
「何故つて
伊藤さんは殺されたから
歴史的に偉い人になれるのさ」
「たゞで死んで御覧
斯うは行かないよ」
(小説「門」より)
<漱石が東アジアの近代文学に果たした役割とは>
・漱石が「門」を書いた1910年、韓国併合が行われる。同じ頃、国内では社会主義者が次々と検挙されていた。日露戦争に反対した幸徳秋水は韓国併合の翌年、大逆事件で処刑される。社会主義運動への弾圧が厳しくなっていた。
・漱石は小説「それから」の中で幸徳秋水に触れている。幸徳の動向に目を光らせる警察の慌てぶりを記した。
・大陸への進出を本格化させていく日本。漱石はこの時代をどう見たのか。作家の黒川創氏は小説「暗殺者たち」の中で、伊藤暗殺事件や大逆事件と漱石との関わりについて読み解いている。
幸徳を取り上げる、あるいは伊藤を取り上げる、これはもう取り上げざるをえない。ただそれにしても、どうして伊藤をあんなふうに、ちょっとこう突き放すような言い方をするんだろうかとか、日本の大陸への進出がまさしく本格化する突先、そういう中での漱石はどういうスタンスを取ったんだろうかという(姜氏)
大事なのは、やっぱり当時の漱石っていう問題ですよね。日露戦争、一応勝ったことになってるわけだ。すると日本中に凱旋門ってあるんですよ。パリの凱旋門みたいなね。新橋の駅前にもあるんですけど。あれ石造りに見えるんだけど、大体は中は「ほんがら」(からっぽ)で、竹で造ってあって、だからもう張りぼての凱旋門ですよね。だからそういうあさましさっていうのに、漱石は相当嫌だったというのは一つありますね。そういう意味では、例えば民族差別っていう意味ではどうですかねっていうか、やっぱりそういうのはあんまりなかった人だと僕は思いますね(黒川氏)
僕もそう思います(姜氏)
世の中、偏狭になっていく。こんなんでいいのかという漱石のフェアネス(公平さ)が働いている(黒川氏)
そういう点では、その張りぼての近代をどんどん作っていく果てに、これはやっぱり人間が内側から壊れていくんじゃないかという。それは漱石の中にあったんでしょうね(姜氏)
そうですね。それが文学の問題ですよね。ある意味でね、漱石が考えた。文学っていうのは黄表紙みたいにね、小説読んで楽しむっていう問題じゃない。社会それこそ世間って何か。そこでものを考えていくときに共通のものっていうのは何。共通の言語っていうかな、社会観という。そのときに日本はまだ無いっていう中で作ったのが漱石であり、鴎外であり。そういうまだ「私」っていう言葉もないし、僕とか君とかっていうやり取りもない中で、漱石は僕とか君とかっていう今、普通に僕らが読める作品をつくったんだっていうのは、非常に大きい問題で国際語なんですよね。当時の、ある意味では東アジアのね(黒川氏)
・文学で社会を見つめようとした漱石。黒川氏は、漱石が東アジアの近代文学に果たした役割が大きかったと言う。日露戦争の前後、日本では中国、韓国、台湾の1万人を超える留学生が学んでいた。その中には漱石の文学に親しんだ人も少なくなかった。後に「朝鮮近代文学の祖」と言われた韓国のイ・ガァンス(李光洙)、「阿Q正伝」を書いた中国の魯迅。
お互いに漱石を読んだ、例えばイ・ガァンスはそれを応用して自分の近代文学、自分の私っていうのはまた朝鮮語で書くわけでしょ。中国では要するに五・四運動の中で魯迅が新文学運動で出てくる(同上)
そういう点で日本という磁場が、近代というものの中での自分たちの国の言語をつくっていかなきゃいけないときの一つこう、大きな発酵しているそういう場の中に中国からも朝鮮半島からも台湾からもいろんな人が。で、そういう中での漱石文学の果たした役割っていうのは、ものすごくあると思うんですが(姜氏)
要するに中国からの留学生、韓国からの留学生、みんな使う「共通のハブ(結節点)の言語」として、言語ってそういうものだから。だからもうちょっと日本の国境を超えた問題として文学っていうのは何だったのか、社会の共通の言葉であり文学は社会を作っていく。それが大事だったわけですね。そういうものとして漱石は文学に興味があったわけで。そこのところはもうちょっと真面目にというか、国境をまたぐ問題として考えていく必要がある(黒川氏)
<魯迅と漱石 二人の関係を研究している学者は>
・国境を超え、東アジアに影響を及ぼしたという漱石の文学。姜氏は北京の魯迅博物館を訪ねた。魯迅と漱石の関係を研究している貴州大学教授の李國棟氏。魯迅が東京で住んだ家の写真がある。そこは以前、漱石が住んでいた。
魯迅は漱石をとても崇拝していたので、弟たちとこの家を借りて住んだのです(李氏)
この2人の、それぞれを代表する国民的な文学者が東京で、あるすれすれの近い所にいたということが、何か一つの歴史の奇跡みたいなそういう感じがしますね(姜氏)
夏目漱石の「吾輩は猫である」が雑誌に連載されたとき、魯迅はちょうど日本に留学中でした。彼の弟の周作人の回想では、魯迅は必ず毎回読んでいたといいます。特に影響が大きかったのは「吾輩は猫である」に見られる創作の態度、社会に対する批判精神です。漱石と魯迅は反体制の色を持っていました。当時の政権と一定の距離を置き、政府が進めた近代化制作に批判的でした。ですから魯迅は漱石の影響を明らかに受けたと言えるでしょう(李氏)
漱石を今もう一度この東アジアという、これは中国、朝鮮半島、韓国、日本も含めて見直すときにどういう意味がおありになるとお考えですか?(姜氏)
漱石は非常に重要な問題提起をしています。近代化の性質を2種類に分けて論じています。1つは外発的、もう1つは内発的な近代化です(李氏)
・漱石は「現代日本の開化」と題する講演の中でこう述べている。
日本の開化は自然の波動を描いて
甲の波が乙の波を生み
乙の波が丙の波を押し出すやうに
内発的に進んでゐるかと云ふのが
当面の問題なのですが
残念ながら
さう行つて居ないので困るのです
我々の遣つてゐる事は
内発的でない
外発的である
一言にして云へば
現代日本の開化は
皮相上滑りの開化である
実はこの問題に関しては中国も同じです。同じ東アジアの国から見れば近代化は西洋から来たものです。魯迅と漱石の認識はとても似ています。魯迅は中国の国民が全部奴隷だと思いました。自分なりの考え方や価値観がない。統治者に好きなだけ操られる。漱石も小説「野分」の中で同じことを言っています(李氏)
西洋の理想に圧倒せられて
眼がくらむ日本人は
ある程度に於て皆奴隷である
外発と内発という漱石の問題提起は、今も考えなければならない東アジアの重要な課題なのです(李氏)
<漱石の文学は韓国ではどうなのか>
・漱石の文学は韓国ではどう評価されているのか。韓国における漱石研究の第一人者、ソウル大学教授のユン・サンイン氏に聞いた。
日本留学から帰国した韓国の文学者の多くが、夏目漱石を読んでいたと考えられます(ユン氏)
漱石の影響あるいは漱石のそういう近代と向き合ったアジアのテーマというのは、イ・ガァンスのような文学の中にも共通して流れているんじゃないかと思うのですが、その辺りはどうですか?(姜氏)
私も同じ意見です。夏目漱石は近代化、西洋文明中心主義にどう立ち向かうか悩みました。その結果を日本語で文学として表現しました。そのことは非西洋世界から見ると非常に大事な遺産だと思います。ですから夏目漱石をアジアという観点、そして世界文学という視点に基づいて分析し、今一度読んで評価することが必要だと思います(ユン氏)
<漱石ゆかりの地を訪れた姜尚中氏が思うことは>
・夏目漱石は1916年、49歳で世を去った。小説、俳句から文明批評に広がる漱石の世界。姜氏は旅を通して近代を鋭く見つめ、東アジアに影響を与えた漱石の姿を改めて感じていた。
当時の満州やそして韓国、朝鮮半島。奴隷になっていくかもしれないその地域や国々から、例えば中国の場合であると漱石に影響を受けた魯迅がおり、そして韓国では後々もう少し時代が下りますけどもイ・ガァンスがいたりする。で、かろうじて日本はいわば主の側に回りつつある。それは漱石はよく分かっていたと思うんです。でも、これでいいんだろうか。そのまま行けば、自分がかつてロンドンで感じた近代の奈落のようなものが、もしかして待っているかもしれない。漱石であれば、たとえ今この韓国や朝鮮半島が日本によって他律的にあるいは外圧的に近代へと引き込まれていくにしても、やはりそこに何かアクションがあればリアクションがあるように、何かが起きてくるかもしれないと。そういうことも含めて私は日本の行く末がそう簡単ではないのではないかと思ったと思うんですね。
その上で私は、それはやはり日中韓の、この近代の運命の分かれ道から作られてきた隙間。今もその隙間は埋まっていない。その漱石の中にある隙間、そこに何か我々が今、この東アジアの一角に生きていて、彼が抱えた問いを我々もやっぱり今、抱えざるをえないし、漱石が抱えたその隙間のようなものの中から何か将来を見通せる手掛かりが、もしかしたら我々は見い出せるかもしれない。やはり私は日本にいる漱石に私淑している一人の人間として、それをしっかり受け止めながらもっと内在的に漱石の世界に入っていければと考えています(姜氏)
(2016/12/6視聴・2016/12/6記)
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