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【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】本能寺の変スペシャル

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【THE歴史列伝~そして傑作が生まれた~】
「本能寺の変スペシャル」

(BS-TBS・2016/3/11放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/retsuden/

<感想>

 今回は2時間スペシャルで「本能寺の変」を取り上げましたが、それほど目新しいものが感じられなかったのが正直なところでしたね。

 それどころか、信長による家康暗殺計画とか、信長や明智光秀が生き延びていたという説を展開していましたが、どうも根拠に乏しい説に思えます(番組内で本郷教授にも否定されていましたしね)。異説を唱えるためにはもう少し史料を出さないと…。うっかり信じる視聴者が出てしまいますよ。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・1582年6月2日未明、歴史を揺るがす事件が起こった。京都・本能寺で天下統一を目前とした織田信長が、予期せぬ謀反によって自害に追い込まれた。日本史上最も劇的な驚天動地の政変「本能寺の変」。
・その瞬間、武将たちはかつてない危機に立たされ、人生を懸けた究極の選択を迫られた。討つか逃げるか死ぬか、男たちの苦悩と葛藤を解き明かす。
・信長の嫡男・織田信忠、偉大な父を追い続けた世継ぎの苦しみ。運命を決めた最悪の決断とは。
・徳川家康も絶体絶命の窮地に。僅かな家臣とともに敵地の真ん中に放り出された男は、一か八かの賭けに出た。命懸けの逃亡「伊賀越え」、最大の危機を救った恩人とは。
・覇権を目指した明智光秀の天下はなぜ僅か3日で終わってしまったのか。
・そして一世一代の離れ業に挑んだ羽柴秀吉、驚異の「中国大返し」。
・一夜にして武将たちの運命を変えた本能寺の変。生き残りをかけた死闘。

<一の鍵 信忠の別心>
・徳川家康に仕えた武将・大久保彦左衛門が記した「三河物語」。そこに本能寺で敵の襲撃を知った信長が思わず「上之助が別心(謀反)か」と発したと記されている。上之助とは、嫡男・織田信忠のこと。信長が咄嗟に疑ったのはわが子の謀反だった。
・1557年、信忠は尾張で誕生した。幼少の頃から織田家の後を継ぐ者として帝王学を学んでいた。初陣は15歳のとき、父に伴われ北近江の浅井攻めに参戦。17歳で長島一向一揆の討伐、18歳で長篠の戦いと天下統一に突き進む織田軍団の激戦の中で成長していった。
・そして1576年、20歳になった信忠は織田家の後継者として美濃・尾張の2か国、約100万石の領主となった。
・しかし信忠の胸には喜びとともに大きな重圧がのしかかった。これまで数々の戦に参陣したが、父の期待に沿うような大きな武功は挙げられなかった。天下布武を掲げ自ら激戦を制した父の足元にも及ばない。戦国の世を差配するものとして致命的だった。
・何よりも家臣たちから自分に向けられる目がそれを物語っていた。農民出の羽柴秀吉、浪人から這い上がった明智光秀、みな実力で地位を勝ち取った重臣たちを従わせるためには目にみえる武功を挙げなければならなかった。
・1582年2月、焦りの中にあった信忠に大きなチャンスが訪れた。父・信長から武田攻めの総大将を命じられた。武田信玄亡き後も息子・勝頼が関東から信州一帯を支配し大きな脅威となっていた。
・この戦で何としても武勲を挙げなければ、失敗すれば家督を譲られた自分の立場も危うい。信忠は甲斐の国へ進軍を開始。信濃にある武田の高遠城を3万の兵で取り囲んだ。守るは信玄の息子で猛将として名高い仁科盛信、敵兵は僅か3000、負けるはずのない戦だった。
・ところが10倍の戦力にも関わらず一向に高遠城が落とせなかった。険しい山の上にあった高遠城、城の周りには堀が幾重にも作られ侵入を阻んでいた。堀の上には頑丈な塀が設けられ、その上から放つ武田の鉄砲や矢が織田軍に降り注いだ。死傷者は1000人を超え、堀は死体の山で埋め尽くされた。
・兵の数で圧倒しておいて城を落とせないとあれば、父のどんな叱責が待っているか。武将たちからも見下される。このまま敗れるわけにはいかないと信忠は覚悟を決め、自ら塀をよじ登り始めた。大将の決死の行動に軍勢は奮い立った。武田の鉄砲をものともせず続々と突入していった。敵味方が入り乱れる壮絶な斬り合いの末、高遠城はついに落ちた。勢いに乗る信忠は一気に武田勝頼を追い込んだ。
・ところが意気込む信忠に父・信長は待ったをかけた。自分の到着まで待てという命令だった。しかし信忠は天目山の戦いで父を待つことなく武田勝頼を追い詰め自害に追い込み、武田家は滅亡した。
・父の命に背いて成し遂げた武田攻め、このとき信忠26歳。本能寺の変の3か月前だった。

<二の鍵 家康暗殺計画!?>
・信長の天下を確実なものとした武田攻めで嫡男・信忠と並んで大きな武勲を挙げた武将が徳川家康。幼少期に織田家の人質となった頃から信長を知っていたが、その後まるで家臣のように扱われてきた。軍事同盟を結ぶものの立場は決して対等ではなかった。
・信長最大の危機と言われた金ヶ崎の戦いでは、家臣でもない家康がしんがりを務め窮地を救った。天下統一に大きく踏み出した長篠の戦いでは、信長の作戦に協力して武田軍に大打撃を与えた。
・そして今回の武田攻めの勝利、それは信長にとっても家康にとっても宿願であった。家康は信長から武田攻めの論功として、それまでの領地であった三河・遠江に加えて駿河国を与えられた。
・ようやくこれで一安心かと思ったのも束の間、家康には新たな不安が持ち上がっていた。武田の脅威がなくなった今、家康は信忠と並ぶ大勢力となった。信長にとって自分はもはや用済み、いや邪魔者ではないのか。
・本能寺の変の1か月前、家康は武田攻めの褒美に祝宴を催したいと信長の居城・安土城に招待された。僅かな家臣団とともに訪れた家康は、その威容に圧倒された。地上6階建の天守閣は見たこともない奇抜なつくりで黄金の装飾がふんだんに施されていた。まさに豪華絢爛。
・そしてその祝宴の席には、次の天下人を約束された信忠もいた。もはや天下は織田家のもの、だとすれば自分が生き延びるための策はただ一つ、信長の敵意を削ぐためにひたすら恭順の意を示すこと。家康は平身低頭するしかなかった。
・このとき家康の饗応役を務めたのが明智光秀だったが、突然姿を消した。備中で毛利氏と戦闘中だった羽柴秀吉の援軍に出陣するよう命が下った。秀吉の援軍とは、すなわち格下だった秀吉の配下になるということ。光秀は武功を挙げていたにも関わらず、信長から言われなき叱責を受けるなど冷遇されていた。家康は光秀への理不尽な仕打ちに震撼する。あれだけ働いた光秀ですらこの仕打ち、一体この先どうなるのか。
・安土に来て既に5日、そろそろ三河に引き返すときかと考えていたところ、信長からゆっくり京や堺を見物するがよいと言われた。
・信長による徳川家康の暗殺計画があったという説がある。宣教師ルイス・フロイスの記述がある。
・家康は信長が差し回した織田家奉行衆の案内で京都や堺に向かわざるをえなくなった。それはいわば見張り役を付けられての道行であった。
・こうして家康は本国・三河からさらに離れることになった。京都に入った家康に宿泊先として信長が庇護したイエズス会の建てた寺南蛮寺が用意されていた。しかし家康は京都の豪商・茶屋四郎次郎の屋敷に宿泊した。
・家康は茶屋四郎次郎らを伴い堺の町に足を踏み入れた。そして家康は大茶人として知られた今井宗久と津田宗及の茶会に招かれた。行く末の不安を押し殺し静かな時を過ごした。本能寺の変の前日のことだった。

<三の鍵 敵は本能寺にあり>
・信忠の奮戦により成し遂げられた武田攻めは、間もなく本能寺の変を起こした張本人・明智光秀の運命をも変えることになった。
・光秀は尾張の守護代でしかなかった信長のために、朝廷や将軍などとの関係を取り持ち、時には信長に代わり鬼となって比叡山を焼き払った。
・そして今回の武田攻めでも家康ら諸将とともに従軍し信長を支えた。武田攻めは光秀のさらなる出世を約束する戦いのはずだった。
・だが、本能寺の変の約2か月半前に事件が起こった。信忠ら諸将を集めての祝宴の席でのこと。光秀が祝いの言葉を述べると、突然信長が激高。光秀を廊下に引きずり出し、頭を幾度も欄干に打ち据えた。家臣として比類なき功績をあげてきた光秀に突如降りかかった言われなき叱責だった。
・そして安土城で家康の饗応役を託されていた光秀は、突然信長から秀吉の中国攻めに加わるよう命じられた。それは格下の秀吉の軍門に下れというに等しい命だった。
・今まで才能ある者は出自に関わらず登用してきた織田政権、しかし今や信忠を始めとした織田親族が台頭。それに伴い信長は佐久間信盛や林秀貞など古参の家臣でさえ、武功がないとの理由をつけ追放された。
・光秀自身も丹波、山城、坂本などこれまでの領地を召し上げられ、その代わりにまだ毛利の領地である出雲と石見を与えられた。この次は間違いなく自分が追放されると悟った。そして遂に決断した。
・本能寺の変の前日、光秀はこの日に信長が僅か2~30名の家臣とともに本能寺に宿泊するとの情報を得た。武田を滅ぼしたことで慢心した信長が僅かな兵のみで本能寺にいた。
・信忠はすぐ近くの妙覚寺に宿泊していたが、信長と信忠の兵の数を合わせても500強。さらに信長が援軍を求めようにも秀吉は備中で毛利と、筆頭家老の柴田勝家は越後で上杉と戦闘中だった。
・光秀にとってまさに「天与」のチャンスだった。

「敵は本能寺にあり!」

・その日の夜、丹波・亀山城から1万3千の軍勢を出陣させた光秀は、一路京を目指した。
・6月2日午前4時、明智軍本隊は信長が宿とする本能寺を包囲。光秀は時の声を上げ一斉に銃撃を開始。塀を乗り越え寺の中へと雪崩れ込んでいった。

<四の鍵 信忠の決断>
・本能寺の変の前日、信忠は京にいた。家康とともに堺に向かう予定だったが、信長が公家や商人を集め茶会を開くことを知った。聞けば護衛は2~30人、自分の領地とはいえ無防備すぎると感じた信忠は京に留まった。
・その宿泊先は本能寺から約700m離れた妙覚寺。手勢は500人だった。そして翌日の朝、信忠は戦国の世の運命を決する重大な選択を迫られることになった。
・明智光秀の謀反を聞き一刻も早く本能寺に行き父を救い出さなければならないと妙覚寺を飛び出そうとしたとき、京都奉行の村井貞勝から御殿が焼け落ちたことを知らされた。それは信長の死を意味していた。
・あの偉大なる父が天下統一を目前にあっけなく死んだというのか。悲しみに浸る間もなく、信忠は危機を察した。信長亡き後、光秀が狙うのは自らの首。すぐにも明智の大軍が押し寄せてくるだろう。
・いかにしてこの危機を乗り越えるのか、手勢500では到底太刀打ちできない。混乱の中、信忠は究極の二者択一を迫られた。
・一つは一旦安土城に逃げ戻り態勢を整えて逆襲に転じる。しかしこの選択には大きな問題があった。京を出て安土城に向かうためには、光秀の領地を通らなければならなかった。用意周到な光秀のこと、既に道は塞がれているに違いなかった。無事に辿り着ける可能性は万に一つだった。
・そしてもう一つは二条御所に陣を構え防戦すること。妙覚寺の隣には二条御所があった。ここは元々信長が将軍のために作った強固な城郭、周辺の織田家の兵が集まれば1000にはなる。そこで籠城すれば反撃の機会を得られるかもしれなかった。
・しかし予想される明智の軍勢は10倍以上、果たしてどこまで持ち堪えられるのか。退却か籠城か信忠が下した決断は、二条御所での籠城だった。
・二条御所に信忠が立て籠って数刻、明智軍1万3千が取り囲み一斉攻撃を仕掛けてきた。信忠は自ら太刀を持ち敵兵と果敢に戦い、1人で18人を討ち取ったと伝えられる。
・しかし明智軍の鉄砲隊が火を噴いた。逃げ場のない信忠の兵は次々と倒れた。そして「もはやこれまでか」信忠は遂に自害を決意した。こうして織田家の天下布武の夢は潰えた。

<五の鍵 神君伊賀越え>
・かつて江戸城の搦め手門つまり裏門である半蔵門。その名前の由来となったのは、家康の重臣の一人・服部半蔵正成である。家康は半蔵に江戸城の裏門の警護という最後の命を預ける重要な任務を与えていた。それは家康にとって半蔵が人生最大の危機を救った、最も信頼する家臣だったからだ。
・家康が本能寺の変を知ったのは、その日の午後とされる。商人・茶屋四郎次郎と重臣・本多忠勝が馬を飛ばしてきた。場所は大坂の東に位置する飯盛山、堺から京に戻る途中だった家康はそこで信長の死を知らされたといわれる。
・その瞬間、家康は自分の周りが敵だらけとなったことを悟った。権力者・信長の死によって巨大な織田家の領土は一瞬にして危険地帯と化した。北の丹波は光秀の本拠地であり、摂津には池田、大和には筒井、いずれも光秀指揮下の大名たち。まさに四面楚歌であった。
・光秀はすぐにでも同盟者である家康を亡き者にしようと大名たちを動かすだろう。しかも家康の脅威はそれだけではなかった。槍や刀で武装して土民土豪によるいわゆる落武者狩りが横行していた。家康の首を取り明智方に渡せば相当な恩賞が預かれる、牙を剥いた土民たちが至る所で待ち構えていた。
・このとき家康一行は僅か30人、武器もなく丸腰同然だった。もはや生きて戻ることは不可能、絶体絶命の窮地に家康は「自ら腹を切る」と死をも覚悟した。
・だが家臣たちが猛反対し、明智を討つために即刻本国・三河に戻り兵を挙げよう進言した。そして三河に戻るという、僅かでも生き残る可能性に賭けた。
・しかし最大の問題は逃走ルートだった。三河への主要な街道は既に明智の軍勢に掌握されているはずだった。そこでで選んだのは、伊賀の山々を越える最短ルート「伊賀越え」。飯盛山から宇治田原を経由して伊賀の山中を越え伊勢湾に向かい、その後は船で岡崎城に戻るというルート。しかし多くの落武者狩りが潜む伊賀周辺を突破しなければならず、多くの危険をはらんでいた。
・とはいえ、もはや選択肢は無かった。こうして家康最大の危機、世に言う「神君伊賀越え」が始まった。6月2日夕刻、家康一行は飯盛山を出発。京都・宇治田原町には、家康が通ったと言われる旧街道が残されている。その道は薄暗く、家康の恐怖をしのばせる山道であった。
・道沿いには家康一行が束の間の休息をとったのではないかという寺院・遍照院がある。寺の住職によればこの街道は昔から裏街道として使われていたという。
・家康一行は人影もまばらな裏街道を警戒しながら進んでいった。宇治田原までの40kmを1日で歩き切り、この後最大の難所に差し掛かった。多くの落武者狩りが待ち受ける伊賀越えであった。
・そこで動いたのが先祖を伊賀に持ち、伊賀流忍者の当主である服部半蔵正成だった。彼には家康に大きな恩があった。信長が伊賀で起こった大規模な一揆に対する徹底攻撃(天正伊賀の乱)のとき、落ち延びた伊賀者を手厚く保護し、配下に組み入れたのが家康だった。その恩顧に報いようと伊賀衆200人を護衛に付かせ、また甲賀衆にも声を掛け150人を集めたという。
・家康一行は落武者狩りの待ち受ける山道を進み、度重なる襲撃に瀕したものの、山の中の戦いを熟知した伊賀者、甲賀者の奮闘により危機を脱した。
・家康は最大の難関・伊賀を突破。約210kmに及ぶ危険なルートをたった3日で踏破した。こうして無事に三河・岡崎城に帰還した家康、本能寺の変から3日後のことであった。

<六の鍵 大返し>
・本能寺の変のとき、各地で激戦を繰り広げる武将たちはどのような決断を迫られたのか。
・筆頭家老の柴田勝家は京から310km離れた越中で上杉景勝と交戦中。事件を知ったのは2日後だった。すぐにも光秀討伐へと動こうとしたが、信長の死は上杉軍へも伝わっていた。勝家は越中に留まるという苦渋の決断を下した。
・京から僅か55kmの場所にいた丹羽長秀は、1万4千の兵を率いて織田信孝と四国攻めの準備をしていた。知ったのは当日の夜、誰よりも早く光秀を討つチャンスがあった。ところが京から近すぎたため、動揺した足軽たちが一斉に逃亡、あっという間に兵力を失ってしまった。
・一番遠くにいたのは重臣・滝川一益。京から440km離れた関東。知らせを受けたのは1週間も経ってからだった。信長の死を知った北条軍に攻め込まれ、主君の死に混乱する滝川軍は大敗を喫し敗走を重ねた。この失態により滝川はその後、没落の一途を辿っていった。
・そして羽柴秀吉は2万の兵を率いて京から235km離れた備中・高松城にいた。本能寺の変を知った秀吉は信長が生きていると嘘の情報を流し、一方で宿敵・毛利との和睦に動き始めた。
・電撃的奇襲を成功させた光秀は、次の一手を打った。3日後には信長の居城・安土城を制圧。さらに朝廷や影響力のある寺院に金銀を献上し、一気に権力の基盤を固めていった。誠仁親王から京都守護の勅命も受け、支配は確実なものとなるはずだった。ところがここから運命を思わぬ方向へ進んでいった。
・京都を掌握した光秀の次なる備えは、織田家の有力家臣との決戦だった。だが光秀は勝利を確信していた。娘・玉(後の細川ガラシャ)を嫁がせ最も信頼していた細川家を味方に出来ると思っていた。
・ところが細川藤孝(幽斎)が突然出家、度重なる要請にも関わらず支援を拒否された。さらにかねてから合流を申し合わせていた筒井順慶からも約束を反故にされた。
・誤算が生じ始めていた光秀に秀吉の大軍が京に迫っているという信じられない知らせが届いた。毛利との激戦中であり1か月はかかるはずだった。ところが秀吉は短期間で和睦を成功させ、1万の兵を謀反から僅か10日足らずで京へと戻したのだ。これが世にいう「中国大返し」である。
・6月12日、山崎の戦いで両者が激突した。明智軍1万6千、対する秀吉は丹羽長秀の軍らも加わり4万に膨れ上がっていた。先手を取ったのは秀吉軍、ゲリラ戦法で要の地・天王山を先取し総攻撃を開始。圧倒的な兵力の猛攻で光秀軍は総崩れとなった。秀吉が天王山の戦いを制したのである。
・そして敗走した明智光秀は農民の落武者狩りに遭い、あっけなくその生涯を終えた。本能寺の変から僅か11日目のことであった。
・一夜にして歴史が塗り変わったこの大事件により、究極の大選択を迫られた戦国武将たち。その勝者となったのは本能寺の変をチャンスと捉え光秀に真っ先に戦いを挑んだ羽柴秀吉であった。
・明智光秀を討った羽柴秀吉、後継者を決める清洲会議では織田信忠の息子、僅か3歳の三法師を担ぎ出し主導権を握った。
・遂には対立した柴田勝家を打ち破ると天下統一を果たした。しかし豊臣政権は長くは続かず、天下はやがて徳川家康のもとへ。信忠、秀吉、家康、本能寺の変で武将たちが下した決断こそが歴史を動かした傑作だったのかもしれない。

・日本史上最大の事件、本能寺の変。その衝撃ゆえに後世に様々な謎や憶測が生まれた。遺体が見つからなかった信長は本当は生き延びたのではないか、家康の側近として仕えた南光坊天海は実は明智光秀だったのではないか、そして400年経った今もその真相を探るべく研究されている。
・本能寺の変は人々の心を捉え、歴史ロマンを掻き立て続けているのだ。

(2016/3/17視聴・2016/3/17記)

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