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【ETV特集】路地の声 父の声~中上健次を探して~

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【ETV特集】
「路地の声 父の声~中上健次を探して~」

(Eテレ・2016/11/26放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/

<感想>

 中上健次さん。名前は聞いたことがあるものの、どんな小説を書いたのか(不勉強ながら)知りませんでしたので、まずその基本的なところから知るところからという感じでした。

 被差別部落で生きてきた5人の女性たちの話はどれも壮絶なものに思え、それを聞き取りそして小説にプロットしていくという中上さんの執念というか、すごい力が伝わってくるように思えました。

 そんな彼の作品を原作に野外演劇に取り組んでいる女性が言っていましたが「想像する」ということ。正直に言って証言した女性たちの話は私もあまりに自分の身の回りからかけ離れすぎてイメージが出来ないのですが、それを「想像する」ということ。中上さんの作品に限らず、社会の暗部をえぐるような作品は数多くある中で、それを直視するうえで最も大事なことではないかなと感じましたね。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・一人の作家の声が見つかった。作家・中上健次の長女で同じく作家の中上紀さん。健次が46歳で没してから24年が経った。中上さんの死の直後にしまい込まれ、そのままになっていたカセットテープを紀さんは発見した。
・被差別部落に生きてきた5人の年老いた女たち。33歳の中上さんが話を聞いていた。5時間に及ぶ聞き取りは、昭和55年「路地」で録音されたものだった。
・作家・中上健次は熊野の被差別部落出身であることを明らかにし、そこを「路地」と名づけた。生涯をかけて路地を舞台とする作品を生み出した。
紀さん:路地の女性たちは何を支えにして過酷な日々を生き抜いたのか。父・健次はなぜその人生に耳を傾けたのか。確かめたいと思った。36年前に声が録音された路地へ旅に出た。

<中上健次が聞き取りをしてきた女性たち>
山々が重なる
不意に海がある
(「紀州弁」より)


・中上健次は熊野の荒々しい自然を愛した。中上の故郷・和歌山県新宮市は、古くから人々を引き付けてきた熊野信仰の中心地だ。
・中上が「路地」と名づけた新宮市春日。昭和50年代、同和対策事業によって建設された「改良住宅」が並んでいる。江戸時代この地区の人々は身分制度の下に置かれ、明治以降も差別が根強く残った。大正時代、杉皮ぶきに石を置いただけの家が軒を連ね、住民の大半が日雇いや下駄の修繕などの職に就くしかなかった。昭和53年頃、改良住宅が建設される直前の路地を中上は自らフィルムに収めていた。

この私が生まれ育った
私のすべての愛の対象
知と血の源泉の熊野の中の熊野
(「異界にて」より)


小説のことごとくを
この春日と覚しき
路地を舞台に取って書いてきたが
愛おしさの熱病のようなものに
かかっているのに気づく
(「祖母の芋」より)


紀さん:36年前、健次を家に迎え入れ聞き取りに答えた5人の女性は、皆さん亡くなっていた。健次が一番長く時間をかけて話を聞いた人の遺族が新宮市内に住んでいた。池口勝久さん(69)。健次と1歳違いで幼馴染みだ。
・勝久さんの母・池口さかゑさんは大正8年生まれ。昭和初期にかけての少女時代を中上に語っている。娘の紀久子さんをはじめ遺族が録音を聞いた。

おばさんら、学校行くとき春日だっていうことを絶対言わなかった。学校におっても1つも交わりがない、友達と。じっと遊ぶの見たり「あんたんとこどこ」いうたら「駅、駅」言うた。「駅前、駅前」。ご飯食べに来んの見られたら悪いさか走ってくる。入るとこ見られたら、だから走ってくる、ご飯食べに(さかゑさんの音声)

・さかゑさんには日雇いで土木作業をする兄がいた。その兄に米を食べさせるため、自分はお湯同然のおかゆで我慢したという。

米をささげて土方して働くもんに食わさんならん。おかゆをお兄さんにささげる。わたしら食べるいうたら、よそってくれるの顔映すようなん。のんでも米が出てこん。10日も15日も続くと情けないようになってくる。親に言えん。鏡みたいな茶碗持つ。飲みよったら情けのうなって、米粒が2、3ぼしかない。涙がいっぱい出てきて、おかいさん(おかゆ)が見えん。今でも覚えたある。涙こぼしたら親に「どしたんな!」(涙を)落としたらあかん、流したらあかん、こらえる、未だに忘れない(同上)

この話よく聞いた、母さんに(娘の紀久子さん)

おかいさん(かゆ)の話、僕によう言うとった。自分らは米入ってないしゃぶしゃぶの。何回もつらかったやろね、よっぽど(勝久さん)

<「岬」で芥川賞を受賞>
・中上健次が「路地」に生まれたのは、敗戦翌年の昭和21年。母親は女手一つ、行商をして子どもたちを育てた。その子どもたちが、木くずや鉄くずを拾って家計の足しにする貧しさだった。
・しかし中上を取り巻く環境は、7歳を境に大きく変わった。母親が末っ子の健次一人を連れて再婚。隣の地区に移り住んだ。
・義父は高度経済成長の波に乗って土建業者として成功。中上は姉が兄が行くことのなかった高校に進学し、本を読みあさった。

不遜を覚悟で言えば 私は
部落が文字と出会って生れ出た
初めての子である
(「生のままの子ら」より)


・昭和40年に高校を卒業すると上京。カウンターカルチャーの発信地だった新宿に足を踏み入れた。モダンジャズにのめり込み、ジャズ喫茶に入り浸りながら作家修業を重ねていった。
・目の前の東京の風俗を小説に書いても、中上の筆はすぐ路地へと向かった。姉や兄を書き、土地の匂いを書いた。
・22歳で作家デビュー。そして濃密な人間関係に結ばれた路地を真正面から描いた小説を発表した。「岬」で戦後生まれ初の芥川賞作家が生まれた。昭和51年、中上健次29歳。

地虫が鳴き始めていた
耳をそばだてると
かすかに聞こえる程だった
耳鳴りのようにも思えた
姉が肉の入った大皿を持ってきた
「奥さん一杯いかんかい?」
管さんが
ビール瓶を片手に持ち上げた
「酒はあかんのやよ」と
姉は七輪の横に皿を置く
玄関も窓もあけっぱなしだった
路地に面つき合わせて
車座になっているようなものだった
(「岬」より)


<「千年の愉楽」で描いたオリュウノオバとは>
・芥川賞から4年。中上は路地を神話のような世界として描き出す新しい小説に挑んでいった。「千年の愉楽」、超人的な記憶力を持つ老婆オリュウノオバが語り起こす物語。
紀さん:オリュウノオバのモデルとなったオバがいた。新宮市内に住む、その人の孫を訪ねた。田畑りゅうさん。寺を持たないお坊さんだった夫のために、りゅうさんは路地の人たちの命日を何代にもわたって記憶していたそうだ。

おばあさんは読み書きもようせんし「よう書かんから余計覚えておかな」って気持ちがあった。村の人も頼りにして、いつ亡くなった、何月何日まで覚えてて(孫の松根洋子さん)

・中上はりゅうさんに聞き取りをしていた。その録音を路地の人たちに再生して聴かせる様子が残されている。

シンイチいうた。シンイチの上がノブイチ。ノブイチの上がレイジ(りゅうさんの音声)

・中上が路地に作った部落青年文化会。被差別部落の生活文化を掘り起こし、その豊かさを確かめたいと考えていた。

僕テープをとりに行ってびっくりした。オリュウノオバさんの語り言葉、字を知らなくて読み書きができない。字を知らない人間の、記憶してなおかつ人を見る目。世界的な規模で新しい文学の問い直しとして試みられている。同じ次元に立つものだと思う。それがオリュウノオバの語りの中に入っている。確かに僕は入っていると思った(中上の音声)

・「千年の愉楽」は、路地の「語り言葉」の持つ力によって紡ぎ出されていった。息の長い文体でオリュウノオバは路地をうたいあげる。

明けてくると
まるで瑠璃を張るような声で
裏の雑木の茂みで鳥が鳴く
それが誰から耳にしたのか忘れたが
昔から路地の山に夏時に咲く
夏芙蓉の花の蜜を吸いに来る
金色の体の小さな鳥の声だと教えられ
オリュウノオバは
年を取ってなお路地の山の脇に
住みつづけられる自分が
誰よりも幸せ者だと思うのだった
(「千年の愉楽」より)


・りゅうさんに「路地の言葉の力」を見い出した中上は、聞き取りを広げていった。「千年の愉楽」を書き始めたのと同じ年に、今回発見された5人の女性への聞き取りを録音している。

<遊郭に売られたと言う女性>
・中上は、学校から走って帰りお湯のようなおかゆを食べたと語ったさかゑさんの姉・岡本キクエさんにも話を聞いていた。明治42年生まれ、このとき71歳。

(父さん、商売何やった?)
わしとこの父さんは博打うち。博打ばっかりして、博打で暮らしてきた人。わしの父親は(キクエさんの音声)
(紡績行ったんやろ、名古屋か?)
あちこちの紡績歩き回った(同上)

・キクエさんが10代だった大正の頃、春日から多くの少女が名古屋、大阪などの紡績工場へ親元を離れ、働きに出た。

12ぐらいで行った。昔の人は12や13で行った。14の時はおばさん子ども産んだ。父無し子を産んだ。奉公に行った伊勢で。そいで、あの子腹に入れて帰ってきて(同上)
(その時はショックやったろ、びっくりしたやろ)
わからん。「腹おっきい」「妊娠や」言われたけど「なにないね」という気持ち(同上)
(親も最初はびっくりしたやろ。「腹大きなって帰ってきた」)
びっくりしたってしょうない。色街みたいなとこに奉公にやった。素人娘でおったらそんなこと絶対無い。そやから(子どもの)親も知らん(同上)

・キクエさんは父親の手で色街に売られた。妊娠し、春日に帰って14歳で出産した。

産んで(春日で)1年ほど養うて、また母親に任せといてよそへ行った働きに(同上)
(せやけど14で子ども、ネネ産んで、行くとき情も出てきたやろ、1年も育てたら)
わからん(同上)
(わからんか。14、15やね、1年育てたら)
わからん、そやけど、どこへ働き行ったって「子どもがある」って頭は離れてなかった。物買うて送ったり、お金(子どもを)見てもらわなあかんさか送ったり、子どもがあることだけは忘れてなかった(同上)

最初遊郭言うのは嫌やったんか。だんだん聞かれていくうちに言うた。最初紡績って言うたけど(甥の勝久さん)

・キクエさんは5人姉妹。実は遊郭に売られたのはキクエさんだけではなかった。キクエさんの妹・さかゑさんは息子の勝久さんにそれを話していた。

お袋が言うのには「上のお姉さんは3人、遊郭に売られた」「博打うちの親父がおったおかげで」「私は末っ子やから売られなんだけど」そう言うてました、お袋は(同上)

「そのおかげで自分は売られなんだ」(勝久さんの妻・あさ子さん)

感謝しとった、お姉さんらに。姉妹げんか聞いたこともないし、かばい合うし。仕事もなかったんかな、おじいちゃん。下駄の修繕とか、そんな仕事しかなかったんちゃうんかな(勝久さん)

・キクエさんは30歳で春日に戻って結婚。母親が育ててきた病気がちな息子の世話をし続けたという。平成8年、87歳で亡くなった。

いろんなその痛みを抱えてらっしゃって、その痛みがあるからこそ、妹たちに優しくできた。キクエさんもね。その妹も姉たちの苦労を見てて、つらさに寄り添って自分たちの子どもにもちゃんと教えて。すごい仲の良い家族というか(紀さん)

<国が進めた同和対策事業とは>
・キクエさんへの聞き取りで中上の横にいた向井隆さん。春日に生まれ育ち市役所に勤めていた向井さんを中上は頼りにし、部落青年文化会をともに立ち上げている。向井さんはキクエさんの録音を36年ぶりに聴いた。

ここまですごい生活やったんやなっていうのは、これで初めて分かったね。自分のおばあさんとかっていうのはおったけども、そんな話ね…こういう話ってそんな聞きもせんしね(向井さん)

・向井さんと中上が聞き取りをしていた頃、路地は6年間に及ぶ大規模な工事のただ中にあった。被差別部落の生活の改善を目的に、国が進めていた同和対策事業の一環だった。路地と町とを隔てていた山を削り取り、新しい道を通し54戸の改良住宅を建設していった。
・一方、共同井戸や盆踊りを踊った広場が無くなっていった。中上はこの工事を「路地の解体」と呼び、解体前の路地をフィルムに収めた。
紀さん:山を削って路地を一変させた工事をどう受け止めたのか。春日に生まれ、今もここに暮らすお二人に聞いた。

いいこと。絶対もう100%(松根晋吾さん)

そうやね。今まで行き来なかったやつが行き来できるようになったからね(速水茂さん)

やっぱり私たちはね差別された人間としてはね、どこの…ここだけでなしね、ほとんどの被差別部落は山にぶち当たったとこに家があるんです。僕の信念では、山取ってくれたら一般の人の道路へ行けると。それがこの開発してくれたおかげで一般道路とつながって、一般の人も同和地区に入ってきて。そういうとこ、今思ったら変わってしまったね。理解もしてくれたし。それまで一般の人は同和地区に入らなかった。怖いっちゅうイメージで。この山を取ったおかげでね、一般の人がこの中に家をぎょうさん建て出した。それだけでも大きな。それは自分の故郷を失うのは一番さみしいんやろうけどね。健次さん、それがあるんじゃないかと思うわ(松根さん)

そっか、一回出て(紀さん)

出て。やっぱり「良かったな。あそこでこんなご飯食べさしてもろうた。ここでお茶飲んだ」いう思い出があると思うんですよ。その寂しさ(松根さん)

紀さん:差別をなくそうとする工事が進む中、同時になくなっていくものに健次は目を向けた。聞き取りを続けた健次には、特別な思いがあったに違いない。

貧困とか、つらい過去を私たちが想像の範囲を超えたものであるからこそ、新しくなることを受け入れる。受け入れざるをえない、積極的に受け入れようとなさってる。それを全部踏まえての路地のオバ達の聞き取りであった。ひしひしと共感するからこそ、形あるものが消えると精神的なものも消えてしまう。「俺が残さなくて誰が残す」っていうことをしたんだと思うんですね(紀さん)

<中上健次の向かいの家に住んでいた女性>
・中上がキクエさんの次に時間をかけて聞き取りをしたのが、入相チエさん。明治41年に生まれたチエさん、家は日雇いや草履作りなどで生計を立てていた。チエさんの姿を中上はフィルムにも残していた。

8つになったら子守に行った。学校行く人があるか。学校はひと月にいっぺん二度いくかいかんか、皆おばさんらの年だったら。そやからおばさん、今あかんわ、字よう書かん(チエさんの音声)
(子守歌やとか、ようさんあるんやろ、春日)
無いわそんなん。歌って遊びでまわるか、子どもは。せわしいのに。働きに出さるのに。百姓の娘やったらまりつきしたりどうしたりして遊ぶけども、そんな暇ない。みな働かんならん。おば10の時から紡績働きに行った(同上)
(つらかったやろね、10で行ったら。おれ18ぐらいで東京行って、さみしいな)
世の習慣になってた、どうなるかよ。そいで朝起きたら今と違って6時から6時、仕事(同上)

・中上の家とチエさんの家は溝1つを隔てた向かいだった。

健次、ちいとしっかりせいよ、ほんまに(同上)
(そんなもん)
「健次やい」わしとこと溝1つへだてたった(同上)
(あれもっと狭かった)
狭かった。「健次悪い、健次」おめきった。子産んだ、病気した、つい枕元へ上がり込んで「おまえ養生せなあかんぞ」我が家から汁わかして行ったり、おかず炊いて持って行ったり、きてもろたり。昔は他人も何もない。村で住む人やったら兄弟のような気持ちで付き合うた。我が身にひっかぶってでもしてくれた(同上)
(おば、どう思う。この家らもこぼたれるんやろ)
こぼつんやだ。時の時節しょうないわ(同上)
(山も取ってしまうし)
時にまかせなしょうない。いつまでも古い頭用いたらあかん。年寄りやさかいうたって、この時勢についていかな。そう思わな仕方あるか。わしゃ、くよくよせん性。きょうび昔のこと言うの大間違い。古いこと捨てていかんことには、これからようなっていかん。古いこといつまでもほじくり出してたら絶対ようならん。昔のこと言うな。50年も70年も昔のこと、ほじくり出したらろくなことは出てこん(同上)
(ろくなことないんかい、ろくなことしかないんかい)
ろくなことあるか、昔のことらに(同上)
(ロクはないけど、ナナはあるかもわからん。オチエノオバ行ってから言うんやね俺も。負けるよ、ほんまに)

紀さん:チエさんは紡績工場から19歳で路地に戻り、8人の子どもを育てた。健次もタジタジなチエさんの声が、前向きに強く生きろというエールのように胸に響いた。

<中上健次の抱えていたテーマを引き継ぐと明言する作家>
紀さん:路地聞き取りの録音を私が是非聴いてほしいと思った人がいる。星野智幸さん、中上健次の抱えていたテーマを引き継ぐと明言している作家だ。
・星野さんは6年前、ホームレスの人たちを対象とした文学賞を立ち上げた(路上文学賞)。ボランティアが手分けして応募を呼びかける。ホームレスの人たちが自分の言葉で表現する場を作ろうというのだ。これまで100を超える作品が路上から生まれている。
紀さん:星野さんには5時間の録音全てを聴いてもらった。星野さんが特に強く感じるものがあったのが、チエさんの言葉だった。

今はどこ行っても「私春日ですよ」どこでも堂々と言う。きょうび卑下するとこどっこもない。一分一厘違ったとこない。きょうび昔のこと言うの大間違い。古いこと捨てていかんことには、これからようなっていかん。古いこといつまでもほじくり出してたら絶対ようならん(チエさんの音声)
(負けるよ、ほんまに)

中上さんがいろいろ聞けば、チエさんは実によく語ってくださる。「また蒸し返されて、いつまでも自分たちのイメージとして繰り返されるのはもうごめんだ」。一方で「無かったことにされるんじゃなく、語って誰かに覚えていてほしい」気持ちとが、せめぎ合っている感じ。両方の気持ちをお持ちになっている。この言葉から感じた。きっと多くの人が同じような気持ちをお持ちだったかなと思うんですよね。

路上生活の方でも自分の人生について語りたくないって思う人は多々いるし、だからお互いに過去のことは聞かないっていうのが原則なわけだけども、でも一方でこうやって路上文学賞みたいに紙と鉛筆を渡すと、やはり書いてくる人はたくさんいるわけですよね。だから本当はそれを忘れないでほしい。こういう自分がいたことを残してというか記憶して、誰かに受け入れて記憶してほしいって気持ちとか絶対あると思うんですよね。何かそういう矛盾した状況に人が置かれるっていうこと自体が何か間違っているというかね、そこなんだけども。

それがすごく素直にというか正直にチエさんから出てて。「負けるよ」っていうね、あの中上さんの言葉がそれが全てですね。本当に誰も見えないし、誰も気にも止めようとしない。そういう存在に対して中上さんはすごく敏感で、人が目を向けない場所っていう意味での現場にいつでもすぐ行っちゃって身を置いて、その人たちがどんなふうに生きてるかをもう自動的に感じちゃうというか、自動的に動いちゃうというか、そういうところがすごくあったと思うんですよね。

そういう感触が小説にの中にも存分に描かれていて。僕が中上さんの小説から学んだことは、そういう感性ですよね。もう1行読むだけでも、その感性が迫ってきて。こうぐっと胸が詰まるっていうような体験を何度も何度もして。だから小説はそういうものなんだっていうふうに、僕はまず中上さんに関して感じたんですよね(星野さん)


<新たな小説「日輪の翼」とは>
・消えゆく路地のオバたちの記憶。中上はそれを受け止め、新たな小説「日輪の翼」を生み出した。新宮から車で30分ほど、那智勝浦町にあるマンション、聞き取りをした昭和55年に中上は仕事場として買い求めた。

「わし十三になったばっかしの時
サンノオバら行っとる
紡績に行たんやど…
別の工場に廻されて
何遍も何遍も泣いたんや」
キクノオバが
「コサさん わしと一緒に男親に
お女郎に売られたんやァ」と言う
「わしの男親とコササンの男親
バクチの朋輩やったさか
二人で組くんで紡績へ来て
それで売られたんやァ」
(「日輪の翼」より)


「日輪の翼」が出たのは84年ですよね。それで聞き取り調査のそのテープは80年。そうすると、まあ、3年とか時間があると思うんですけど。すごい多分悩んだと思うんですね。聞き取りした瞬間に、全ての構想が表れるとかでは全くなくて。ただもう、キクエさんのお話をきいたとき本当にもうショックで、声からショックが分かるような感じですよね。このオバさんをやっぱりつらいことばっかりあって、このオバさん幸せにしてあげたいなって、せめて物語の中だけでも何かす素晴らしいところに連れてってあげたい(紀さん)

・諏訪、恐山など全国の聖地を巡礼していくオバたち。「路地の解体」で居場所をなくしていた。オバたちを連れ出すのは、路地の若い男ツヨシ。

ツヨシはオバたちに可愛がられて育てられたということになってますけれども、父もやっぱりね路地に生まれて、みんなオバたちが「健次よ、健次よ」って言って、そうやって育ててもらった。路地にね生まれて、みんなに育ててもらったようなところがありましたから、もしかしたら本当にね、ツヨシにねそういったことも全部託したのかもしれないですよね(同上)

・ツヨシの運転するトレーラーに乗ったオバたちは、7人連れ立って知らない土地の人々と出会い神々に祈る。路地と外の世界を繋ぐ摩訶不思議な物語が書かれていった。

<「日輪の翼」を原作に野外演劇に取り組む人たち>
紀さん:「日輪の翼」を原作に野外演劇に取り組んでいる人々がいた。健次の学んだ小学校で稽古が続けられていた(新宮市の神倉小学校)。
・演出家・美術家のやなぎみわさん。本物のトレーラーを舞台とし、原作さながらに全国を旅する公演を始めた。
・キクエさんをモデルにしたキクノオバ。オバたちは皆、少女のときに親元を離れ、紡績工場に働きに出た経験を持っている。ツヨシがそんなオバたちを連れ出す。中上は書いている。

老婆らが
思い出して話をはじめると
そこは路地になる
(「日輪の翼」より)


・やなぎさんもまた、路地の世界を旅公演の行く先々で出現させようとしている。路地の女たちの声を蘇らせるために、やなぎさんと俳優たちは聞き取りの録音を聴いた。

オバたちが何か中上健次さんから質問されても「よう分からん」「しゃあない」よくおっしゃる。生き抜く術を語っておられる。自分の輪郭をはっきりさせて何かと戦うより、今この現実をとにかく乗り切っていく。サバイバル。

中上健次さんが小説の中で書いて下さって、それを何十年後かの私たち、うちの俳優とかはもっと若いですよね。全く自分が経験したこともなければ全く周りにもない。一生懸命想像しています。本当に人間のすごい所、最後に残された希望。「想像する」という種を残してくださった(やなぎさん)


・8月6日、新宮の港に近い造成地。中上健次70回目の誕生日を故郷で祝う一夜限りの野外演劇が始まった。

<中上健次が物語で蘇らせてきた人々>
・熊野の路地に生きた5人のオバたちの声。誰も耳を傾けなかった記憶を中上健次の物語は蘇らせた。中上が生まれた家の向かいに住んでいた入相チエさん。子どもを育て上げた末の72歳の自分を語っていた。

2代も3代も昔の人間あくか(あかん)(チエさんの音声)
(そんなことない。これから貴重品になってくる)
根性は18、おばさん。気は若い(同上)
(ほんと若い。背筋がぴっと立ったある)

・チエさんは山を削り取る工事の後も、新しく建った改良住宅に住んで路地を離れなかった。平成17年、96歳で亡くなった。

今の方が気強い。おとろしいもんない(同上)
(そりゃそや、7人8人も育てた)
今の方がえらい。「誰でも来てみよ」いう根性、今やったら(同上)

紀さん:私が好きな父の写真。芥川賞の「岬」を書いた直後に撮られたものだ。路地に向き合うことを決意したこの場所から、父・健次の文学は始まった。読み書きを知らないオバたちの記憶に宝石の原石のようなものを見つけた父は、その輝きを文字に写し取った。路地が放つ強さは、今を生きる私たちにもきっと力を与えてくれるはずだ。

何もかもがつらかった。聴いた話の何もかもがつらく。でもその中で優しさを感じまして、いたわり合い、慈しみ合い、顧みられない人たちに対して愛情を注ぐ。痛みを知っているからこそあるものだと。今しかない、いろんなつらいこともやっぱりあると思うんですね。だからそこを繋げていくよって父に声をかけたいなとは思いますね。

何か父の話をすると、とんびが鳴いたりとか鳥が飛んできたりとかするんですよね。小説にもね金色の鳥が出てきたりとかしますけど、こう何か重要な場面に必ず鳥が鳴いたりとか(紀さん)


(2016/11/27視聴・2016/11/27記)

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