【東日本大震災から5年】
「甦れ!東北の鉄路 1750日の記録」
(BSフジ・2016/3/12放送)
※公式サイト:http://www.bsfuji.tv/100rail/
<感想>
BSフジで放映されている「全国百線鉄道の旅」の特別版という形で「甦れ!東北の鉄路」というタイトルで毎年放映されています。被災地の鉄道路線と周辺地域の現状を知る上で、たいへんためになる良質の番組です。地上波で放映しないのがおかしいぐらいです。
基本的に番組キャプチャは当ブログでは一切使わないので、視聴メモと合わせて私が撮影した関連写真を紹介します。なお、訪問時の記事はこことは別に私が作成しているブログにリンクしてあります。
さて三陸鉄道については2014年の全線復旧から2年、山田線(宮古~釜石間)をJRが復旧した上で三陸鉄道に移管するという「第2ステージ」に入っています。不採算路線を引き継ぐという懸念材料はありますが、私は南北リアス線が一つに繋がるという点での利点を生かした展開を期待したいところです。もちろん開通したときには訪れたいですね。
次にJR気仙沼線、大船渡線のBRT(バス高速輸送システム)への転換が事実上決まりました。これも苦渋の選択だったのではないかと思います。私も何度か乗車しましたが、残念ながら鉄路で復旧するほどの乗客が見込めない印象でした。今後の課題はバスならではの利便性を高めること(例えば停留所の増設や通勤・通学時間の増発など)ではないかと思います。
最後に常磐線、JRが復旧工事を進めている中で唯一不通区間の路線となっています。福島第一原発事故の影響が多分に絡むので非常に見通しとして厳しい中、2020年までの全線復旧を政府が明言した点は大きいと思います。もちろん鉄道を敷いただけで終わりではありません。原発の廃炉、除染、廃棄物の処理、問題は山積です。これらとともに沿線の地域の復興に責任を持って取り組むべきです。
地方創生大臣が出演されていましたが、被災地に限らず地方のローカル線はどこも厳しい経営の中で努力しています。モーダルシフトを掲げるなら、その職責を言葉だけでなく実行で示してほしいですね。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
【宮古駅・2014/8/1撮影→訪問時の記事】
・JR山田線と接続する宮古駅に三陸鉄道の本社がある。2016年1月、南リアス線のダイヤ改正に向け検討会が行われた。主にJR釜石線との接続に重点が置かれたダイヤとなる。震災5日後から復興支援列車を走らせ全線復旧に向け陣頭指揮を執ってきた望月正彦社長、東日本大震災から5年を迎えた。
定期客は半分しかいない。やはり駅前に町が戻ってこないと本当の意味での復興には向かっていかない(望月社長)
・JRから三陸鉄道に移管される山田線(宮古~釜石間)の復旧は3年後。望月社長にはそれまでにやらなければならないことが山積している。
・BRTで仮復旧しているJR大船渡線と気仙沼線について去年7月JRは鉄路を廃止しBRTで本復旧すると発表した。
・かつて「陸の孤島」と呼ばれていた東北の三陸沿岸、震災前は岩手県の八戸から宮城県の前谷地まで1本のレールで結ばれ、三陸縦貫鉄道と呼ばれていた。
・あの日三陸鉄道は今日と変わらぬ朝を迎えていた。そして14時46分、このとき三陸沿岸の各線には15本の列車が走っていた。三陸鉄道南リアス線の列車は、吉浜~唐丹間を走行中だったが、鍬台トンネル内で緊急停車した。
・南リアス線・鍬台トンネルを出たところにある荒川橋梁は津波に流されていた。列車はトンネル内で停車し間一髪で助かった。
・常磐線の新地駅では駅舎が全壊し、停車中だった4両編成の車両は津波に流され大破した。
・田んぼに流された気仙沼線の列車、乗客・乗務員約30人は避難して無事だった。
・仙石線・野蒜駅に停車中の列車は駅近くの住宅地に流された。
・毎朝登校する大勢の高校生でホームが溢れていた山田線の陸中山田駅、津波とその後発生した火災で駅は焼失、無残な跨線橋を残すのみとなった。
・石巻線の終点・女川駅に停車中の列車は、駅から200mほど離れた墓地で横倒しになっていた。
・山田線・大槌駅全壊、この他に大船渡線の陸前高田や大船渡などJR東日本管内での駅舎全壊は23か所、損壊は25か所に及んだ。また線路や橋梁などの被害は1,680か所にのぼった。
・一方、常磐線は福島第一原子力発電所の事故で震災当時は避難区域での被害状況について調査すら出来なかった。
・東日本大震災は東北の鉄路に深い爪痕を残した。しかしあの日から鉄道マンや被災した沿線に住む人々は、鉄路の復旧を信じ未曽有の困難に立ち向かった。これは1,750日に及ぶ長い闘いの記録である。
<東日本大震災で甚大な被害を受けた三陸鉄道>
・三陸鉄道は当初から津波を想定して建設された。そのため海岸線を走っているもののトンネル区間が多く、また高架区間の橋梁なども当時の最新技術で強固につくられていた。誰もが津波に耐えうる鉄路だと信じて疑わなかった。
・震災当日は走行中だった列車の安全確認や乗客の救助、そして社員の安否確認に追われ、沿線の被災状況は殆ど把握できていなかった。大津波警報が解除された3月13日、望月社長は沿線の状況を知るため現場に出た。そこで目の当たりにしたものは、信じられない光景だった。
・トンネルを抜けると島越の駅舎があった。駅舎もホームも消えていた。被害総額は100億円を超えると判明、三陸鉄道はは会社存亡の危機に立たされた。
このままいったら、おそらく会社として存在できない可能性があるなと(望月社長)
・しかし望月社長は公共交通機関の使命を再優先することに決めた。それは1日でも早い復旧だ。彼が下した決断は震災5日後に北リアス線・久慈~陸中野田間(11.1km)の運転を再開させることだった。
・震災から18日後の3月29日、北リアス線の起点・宮古から小本間(25.1km)の運転を再開した。しかし信号・通信ケーブルが切れていたため、運転手が交代で手旗信号を振った。
毎日、学校に行く手段なのでありがたい(女子生徒)
私は(車を)持っていない。(三鉄が)無くなると困る(男性)
・一部区間の運転を再開したものの、全線復旧への見通しは立っていなかった。
<常磐線の早期再開を願った住民たち>
・常磐線の岩沼~亘理間は震災から1か月が過ぎた4月12日に運転が再開された。しかし当時、亘理から先の復旧の目処は立っていなかった。
・亘理の次の駅・浜吉田、当時まちづくり協議会の会長を務めていた渡邉さんは震災から半年が過ぎた頃から、ある危機感をいだいていた。
このまま電車が来ないと実際にどこか仙台近くや子どもの通学のために移るという人もいた(渡邉さん)
・あの日から時間が止まっていた浜吉田駅、駅構内や線路内は雑草が生い茂り線路も錆び付いていた。渡邉さんは亘理~浜吉田間の早期復旧を願う住民の意気込みをJRに示そうと、駅構内の草刈りや清掃を呼び掛けた。悪天候にも関わらず多くの住民が参加した。凍てつくような寒さと雪の中、住民たちは黙々と草刈りに励んだ。走っていて当たり前の列車が来なくなって、住民たちは改めて鉄路の大切さを思い知らされたという。
もう大変です。亘理までバスで行って電車に乗り換えて、また仙石線に乗り換えて医者に行くとなると大変なんです(女性)
不便なんです。駅がないと仙台に行くにも車でしか行きようがない(女性)
<常磐線・原ノ町~相馬間の運転再開>
・不通区間となっているJR各線では代行バスが運行されていたが、JRは常磐線・原ノ町~相馬間の運転を2011年12月に再開すると決めた。しかしこの区間には運行できる車両がなく、また不通区間に挟まれていたため東北本線の郡山にある車両基地から大型トレーラーで車両が陸送された。台車と車体は別々に運ばれてきたが、クレーンで車体を持ち上げ、線路上に置かれた台車と組み合わせた。この組立作業の1週間後の2011年12月21日、原ノ町~相馬間は運転を再開した。
<上下分離方式で国費での復旧工事費が認められた三陸鉄道>
・三陸鉄道が生き残れるか、全線復旧に懸かっている。望月社長は何度も国に陳情し頭を下げた。その結果、三陸鉄道の資産である土地・線路などを自治体が所有し、運営を三陸鉄道が行う、いわゆる上下分離方式で復旧工事費が認められた。
<2012年3月・全線復旧したJR八戸線>
【JR八戸線・2012/5/24撮影→訪問時の記事】
・震災から1年が過ぎた2012年3月17日、久慈で三陸鉄道と接続するJR八戸線が全線復旧を果たした。そこには早期復旧を願う学校関係者や保護者の熱心な働きがあった。
・八戸線の沿線である洋野町立中野中学校、当時の校長だった那須川淳精さんは復旧が決まるまで生徒の進路を案じる日々を送っていた。
八戸線がこのまま運休が続いていると、八戸の公立高校または私立高校を受験して合格したとしても、通学に不自由ではないか。その部分でも高校選択の幅が狭まり、生徒の自己実現の機会が少なくなる(那須川さん)
・代行バスは本数が少なく通学時間が掛かるため生徒に負担が掛かっていた。沿線の4つの中学のPTAらとともに署名活動を行い、JRに要望書を提出。JRはこれを重く受け止め早期復旧を目指した。
八戸線が復旧することで挑戦(高校選択)の幅が広がる(女子生徒)
・生徒たちが鉄路で高校に通える、そんな当たり前のことがいかに大切か、那須川校長(当時)はこの震災で痛感したという。
・1年ぶりに列車が久慈駅に帰ってきた。八戸線はJRの在来線で初の全線復旧となった。
<2012年4月・三陸鉄道北リアス線の部分再開>
【三陸鉄道北リアス線・2012/5/24撮影→訪問時の記事】
・八戸線の全線復旧に合わせるように、三陸鉄道北リアス線も津波で線路が流された陸中野田~田野畑間の復旧工事が完了し、久慈~田野畑間の信号ケーブルも繋がった。折り返し運転のため運転士がポイントの切り替えを行っていた陸中野田駅、この作業も2012年3月31日で終えた。
・2012年4月1日、久慈~田野畑間(35.4km)の運転再開。
嬉しいですけれども、まだ全線開通ではないのでスタートにも立っていないという感じもありますけど、嬉しいのは嬉しいです(運転士)
・時刻通りに久慈を出発、また一つレールが繋がり日常が戻ってきた。震災から1年が過ぎても沿線の各所にはガレキが山積みされていた。
・あの日から387日目、列車は田野畑に帰ってきた。厳しい顔を崩さなかった望月社長も、この日は笑みがこぼれた。大漁旗で鉄路復旧を喜ぶ人たち、縦横に鉄道網が張り巡らされた大都会と違い、三陸沿岸はこの1本のレールが人々の暮らしを支えている。
<BRTでの仮復旧を受け入れた自治体と受け入れなかった自治体>
・JR山田・大船渡・気仙沼の各沿線自治体は、早期の鉄路復旧をJRに要望してきたが、1年を過ぎても全く動きがなかった。その最大のネックは巨額の復旧費、国交省の試算によると1,500億円という膨大な額だ。JRは現状復旧費については負担すると明言してきたが、各自治体の復興計画や安全確保に伴うルートの移設については国に公的資金を要望してきた。
現位置復旧を超える部分(線路の移設など)については、公的な資金をお願いしたいということで、社長から国土交通大臣にお願いしたり、これまで取り組んできたが、なかなか難しい状況です(東日本旅客鉄道復興企画部の熊本義寛部長)
・国は一貫してJR東日本が黒字会社であることを理由に公的支援を拒否し続けた。
・こうした中、JRは仮復旧を前提にBRT(バス高速輸送システム)を提案した。これに対し大船渡線、気仙沼線沿線の自治体はBRTはあくまで仮復旧とした上でJRの提案を受け入れた。
・一方、山田線沿線の自治体はBRTを拒否した。
鉄道網、交通網というものは自己完結型の事業ではない。隣町と繋がって一体性を持って他地域と一体性を持って一つの交通網。そういう中でBRTという部分は、いくら山田がBRTを標榜したとしても、隣町の方では鉄道ですよとなった場合に、そこに一貫性が無くなる(山田町の佐藤信逸町長)
【気仙沼線BRT・2013/4/19撮影→訪問時の記事】
・2012年8月に気仙沼線で、2013月3月に大船渡線でBRTの運行が始まった。JRはその後、BRTの専用道を延ばすため鉄路の撤去を続けた。
・BRTを拒否した山田線沿線の唯一の公共交通機関は路線バス、この地域で有数の進学校である岩手県立釜石高校の生徒の多くは路線バスや家族が送迎するマイカーで通学しているが、やはり通学時間や交通費の負担から遠方から通う生徒が激減した。
遠方からの入学者がゼロ、または半減した(釜石高校の佐々木和哉副校長・当時)
・毎年200人ほどいた入学者が震災の翌年は165人と2割近く減った。鉄路の長期運休は生徒の進路選択にも大きな影響を及ぼしていた。
・こうした中、JR山田線早期復旧を求める市民が立ち上がった。署名活動では約40万人の賛同を得て復興庁・国交省に署名を提出した。また釜石市との共催で市民集会を開催、約200人の市民が参加し鉄路の重要性を訴えた。
(鉄路が)無くなれば町全体が廃れていく。鉄路は絶対に無くせない(市民の会代表の村上幸三郎さん)
・宮古で三陸鉄道北リアス線に、釜石で同・南リアス線に接続するJR山田線がBRTになれば、2つの路線が分断される。三陸鉄道の経営にも影響を及ぼしかねない。
山田線がもし無いならば、震災直後に試算したところ運賃収入の1割以上影響がある。もちろん地域の皆さんにとっても鉄道が無くなることよりは鉄道が繋がることが大きな意味があると思う(望月社長)
<石巻線の復旧計画と女川の町づくり>
【女川町内・2013/11/23撮影→訪問時の記事】
・津波で被災した石巻線と仙石線、JR大船渡、気仙沼、山田の各線とは対照的に鉄路での復旧が決まっていた。
・石巻線の終点・女川町の中心街は津波で全て流された。そこで土地を約10m嵩上げし、港の近くにあった駅を150m内陸部に移す計画を立てた。
駅があって町の賑わいがある。町の計画でも駅を中心に公共施設、シビックコア(公共公益施設の集約)の建設を考えている(女川町の阿部一正副町長)
・女川町では2015年3月の町びらきを目指してカウントダウンが始まっていた。
<2013年3月・常磐線の部分再開>
【浜吉田駅・2014/3/11撮影→訪問時の記事】
・震災から736日、2013年3月16日に常磐線の浜吉田に電車が帰ってきた。署名や草刈りなど粘り強い活動をしてきた住民たちの苦労が報われた。
こんなのが普通だったのかと思う。やっと叶えられた(乗客の女性)
鉄道はこんなに町を活性化するのか、失って分かった気がする(男性)
<鉄路での復旧を前提とした山田線沿線>
・一方、時間だけが過ぎていき、鉄路復旧への動きが全く無かったJR山田、大船渡、気仙沼各線。しかし土地の嵩上げなど沿線各自治体の復興事業は進んでいた。山田町では鉄路での復旧を前提に町づくりを進めていた。BRTになれば町の復興計画にも大きな支障となる。
(鉄道が)復旧しないことは考えに入れていない(山田町商工会の阿部幸栄会長)
<2014年4月・全線開通した三陸鉄道>
【島越駅付近築堤・2014/8/2撮影→訪問時の記事】
・2014年1月、三陸鉄道の復旧工事は大詰めを迎えていた。真新しいコンクリート製の枕木と線路の敷設も終えていた。島越の駅舎は津波の避難路を確保するため山側に移された。北リアス線も南リアス線も盛土だった区間は堤防としての役目を果たせるようコンクリート製の築堤となった。
震災から3年で全線復旧できるというのはかなり早いと思うので、復興の先頭を走って観光面でもいろんな面で三陸沿岸に貢献できればと思う(南リアス線運行部の黒坂誠氏)
・2014年3月12日、不通だった吉浜~釜石間の試運転が、17日には北リアス線の試運転(田野畑~小本間)も始まった。これらの区間に列車が走るのは3年ぶりだった。
・島越に列車が帰ってきた。当時変わり果てた島越で呆然と立ち尽くしていた望月社長、3年後のこんな光景は想像すらできなかった。
【三陸鉄道南リアス線・2014/8/1撮影→訪問時の記事】
・2014年4月5日、三陸鉄道南リアス線が全線運行再開を果たした。早期復旧は公共交通機関の使命だとして会社存亡の危機の中、震災から僅か5日後に運転再開した三陸鉄道。三鉄はこの地で暮らす人々にとって生きる支えでもある。だからこそ三鉄は決して諦めることなく、コツコツとレールを繋いできた。そして国内外の支援を受けながら、全社一丸となって三陸復興への使命を果たしてきた。
【三陸鉄道北リアス線・2014/8/1撮影→訪問時の記事】
・2014年4月6日、北リアス線も全線運行再開。三陸を鉄路で繋ぐ、その悲願の開業から奇しくも30周年。三陸鉄道は震災から1,123日目に完全復活を果たした。
公共交通サービスを提供できる安堵の思いがある一方で、実はこれからが大変。まだ復興が進んでいなくて、乗客は震災前の6割に満たない。全線運行再開した後の方が経営は厳しい。社員を含めて気を引き締めていく思いが強い(望月社長)
<山田線の三陸鉄道への移管が決定>
・望月社長が立てた3年での全線復旧は計画通りに進んだ。しかし思わぬ事態が起こった。JR東日本は北リアス線と南リアス線を繋いでいるJR山田線をBRTではなく鉄路で復旧すると発表。さらに復旧後は三陸鉄道に移管、つまり無償で譲渡すると提案した。望月社長にとっても山田線沿線の自治体にとっても青天の霹靂だった。JR東日本管内で赤字ワースト3の山田線、自治体の中には三陸鉄道による経営を不安視する声もあがった。
町民の中には、非常に経営というものに不透明さを残した三陸鉄道に、それぞれの自治体が負担金を出す中において本当に入ることがいいのか。むしろ経費のかからないバス高速交通システムも考えた方がいいのではないかということも、町民はじめ議員さんの中にいたことも事実(山田町の佐藤信逸町長)
・三陸鉄道が1本のレールで繋がる効果は大きいが…。
不採算路線を引き受ける、正直厳しい(望月社長)
・岩手県や沿線各自治体はJRと何度も協議を開き、鉄路での早期復旧では合意。自治体や三陸鉄道の負担軽減が焦点となっていた。
・三陸鉄道移管の提案から協議すること1年、2014年12月にJRから新たな支援内容が示されたのを受けて、三陸鉄道の望月社長も出席し首長会議が開かれた。JRは山田線の継続的な支援や移管協力金の大幅な上積みなどを示した。しかし新たに三鉄の株主となる自治体は、JRの支援を評価しつつも三鉄への移管は苦渋の決断だった。
見方によってはJR山田線から撤退ということの意味も含んでいる。いささか疑念が残る。沿線の市町村が連携して、まずは鉄路復旧の完成を目指す。また利用促進を図りながら被災地三陸全体の活性化を目指していく。まさに鉄道が一つの契機になって三陸沿岸全体が一つにまとまる(釜石市の野田武則市長)
・2015年3月7日、4年近くにわたる沿線自治体と住民の鉄路復旧への熱意がJRを動かし、三陸鉄道の南北リアス線を繋ぐ山田線の復旧工事着工の日を迎えた。
・当初部分開通する案もあったが、JRは2018年度内に全線開通させるとした。山田線復旧後の三陸鉄道はJR八戸線と接続する久慈から宮古、釜石を経由してJR大船渡線と接続する盛まで全長163kmを結ぶ長大路線となる。
<2015年3月・石巻線の全線再開と新女川駅の開業>
【女川駅・2015/7/29撮影→訪問時の記事】
・あの日から1,471日の2015年3月21日、女川に列車が帰ってきた。漁業の町・女川、大漁旗で記念列車を迎えた。
・この日、女川の町びらきと新たな女川駅の開業を祝して式典が行われた。
・この警笛は新たに生まれ変わる女川の町に向かう出発合図でもあった。
→(2)へ続きます。