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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】山一破たん たった1つの記事から始まった

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【アナザーストーリーズ 運命の分岐点】
「山一破たん たった1つの記事から始まった」

(NHK・BSプレミアム・2016/10/19放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/

<感想>

 1986年生まれの沢尻エリカさんがバブル経済絶頂期を知っているというようなことを言ってましたが、幼児期に弾けているでしょうとツッコミを入れておくとして、バブルの恩恵を殆ど受けることがなかった団塊ジュニア世代が通りますよっと(苦笑)

 携帯電話のCMでリバイバルしていたディスコで扇子フリフリは、ちょっと背伸びして「社会見学」した友人がいましたが、私はちょっと行けなかったですね。

 あとよく覚えているのは、高校の教育実習に来た大学4年の先輩方の殆どが大手企業に内定決まっていて「教職免許はついでに取っておくつもり」とか言ってましたから。まあ、私たちのちょっと上の世代の人たちは謳歌していたようです。でもバブルが弾けてからは本当に冷え冷えとなってしまいました。いわゆる就職氷河期というやつでしたよ、とほほ(苦笑)

 そんな中、山一證券の破たんは本当にびっくりポンな出来事でした。よく覚えています。ただあの頃は野澤さんが3か月前に何も知らずに社長になったことを知らなかったので、あの号泣会見を見て「何言ってんだ」と思ってしまいました。本当に社員のことを思っていたのですね。まだご存命のようですが、ぜひ当時の心境など語ってほしいと思いますが、おそらく苦労した元社員のことを思うと表に出ることは控えているのでしょうね。

 混沌とした時代、今もまるで「大富豪ゲーム」のように巨万の富を得ていた者が一夜にして大貧民になったり、その逆もあったり。私は波乱万丈の人生よりも細く長く生きたいと思っていますが、どうなることやら…。ちょっと人生の分かれ道に差し掛かっているような気がしている今日この頃です。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・それは歴史的な倒産劇だった。巨大証券会社の突然の破たん、負債総額は戦後最大となる3兆5000億円。グループ社員1万人以上が職を失った。
・全ての責任を負った山一證券の野澤正平社長(当時)。

私らが悪いんであって社員は悪くありませんから!どうか社員の皆さんに応援してやってください。お願いします。

・この涙の裏に一体何が…。
・山一證券が破たんした後、全国の支店の前で「俺たちの資産を返せ」と多くの人々の怒号が響き渡った。「バブル」という狂乱の時代が終わったことをはっきり告げたのが、この破たん劇だった。
・東京・茅場町にある特徴的な形をしたビルに、かつて日本を代表する証券会社があった。100年の歴史があり、業界トップを誇ったこともある名門・山一證券。
・1980年代後半、空前の好景気バブルが到来。日本中で株などを運用する財テクがブームになり、証券業界は沸きに沸いた。四大証券の一角だった山一も桁外れの収益を記録する(営業収益5735億円・90年3月期)。
・しかしバブルは崩壊。そのとき山一の経営陣は損失を隠すという重大な不正に手を染める。それがやがて会社を破たんへと導いた。
・この破たん劇には、あまり知られていない事実がある。全ての責任を負った社長は、3か月前に就任したばかり。しかも肝心の不正を全く知らされてはいなかった。

<視点1 雑誌記者 衝撃スクープの舞台裏>
・破たん劇の引き金を引いたのは、実はたった1つの雑誌記事(週刊東洋経済・1997年4月26日-5月3日合併号)。

「山一に不正の重大疑惑あり」

・このスクープから僅か7か月で、100年の歴史を誇った山一は廃業に至る。記事を書いたのは木村秀哉記者。これまでテレビ取材を一切断ってきた。山一證券を潰したとも言われる男は今、何を語るのか。

最初から潰したくて書いた記事じゃない(木村記者)

・木村記者は今も現役の経済記者だ。スクープの元となった内部資料を見せてくれた。帳簿の数字や生々しい会話の記録が重大な疑惑の根拠となった。なぜ彼はこの資料を手にするに至ったか、衝撃のスクープの舞台裏を負った。
・木村記者が所属する東洋経済新報社。ビジネス関連の書籍を主に扱う老舗だ。破たん11か月前の1996年12月、当時36歳の彼を指名して掛かってきた1本の電話が全ての始まりだった。その相手はこう告げた。

「とにかく見せたいものがある。会ってもらいたい」

・呼び出されたのは、都内のホテルにある喫茶店。間もなくその男が現れた。聞けばかつて投資顧問会社を経営していたという。

怖そうな人だな。いろんな人生経験している人だろうなと思った。ガラガラ声、声でかい。大丈夫かなこの人と思いますよね、どこの会社もそうですけど。マスコミであればタレコミの類いはあると思いますけど、タレコミを鵜呑みにして記事にしているわけじゃない(木村記者)

・男は金融業界からつまはじきにされたことを恨んでいるという。そして封筒から30枚ほどの資料を取り出した。帳簿のコピーらしきもの、山一證券社長の印が押された契約書の写し、そして生々しい会話のやり取りが記録されたメモがあった。

「いっぺんに返せんから2~3百はやると、あんた言いはったでしょ」「詐欺で訴える」

・山一證券の社長に向けて発せられたとされる、赤裸々なやり取りが並んでいた。

そこだけ読むと怪文書なんです、ヘンな話。この手の怪文書は過去にも見たような話だよね。噂にもなったよねっていうところで、こっちは切ろうとするんだけれども。いやそうじゃない、ちゃんと資料もあると。でも本当かなって思うじゃないですか(木村記者)

・一連の資料は山一が法律違反にあたる「損失補てん」を行っているという疑惑をにおわせていた。株価がぐんぐん上がっていた80年代後半、日本中の投資ブームに火を付けたのが証券会社だった。「儲かりますよ」とうたって投資家に株の売買を勧め、その手数料で莫大な収益を誇った。
・だがバブル崩壊、株価は一気に下落した。このとき収益が急落することを恐れた山一が行ったのが、損失補てんだ。例えばある顧客に5000万で売った株の価値が下がってしまったとする。本来その責任は株を買った客の側にある。だが山一はその損失を補てん、その代わりに引き続き株を買ってもらえるよう頼んでいた。ただしこれをするのは大口の顧客だけ。いわば一部の取引先だけを不当に優遇していた。

「いっぺんに返せんから2~3百億ずつ」

・その文面は、山一の損失補てんをにおわせるものだった。
・だが木村記者は、なおも慎重だった。本当に本物なのか?すると2度目の接触で、男は更に衝撃的なものを持ち出してきた。会話のやり取りを一部始終録音したというカセットテープだった。

さすがにテープまで用意しているというか、あるということ自体、内部に協力者がいるということだよね。しかも隠し録りしているわけだから。でもこれ本当に本人の声かと思ったけど、社長とかよくテレビに出ていたんで社長の声とかを確認できるわけよ。だからこれは、ほぼ間違いないとの感触は持ちましたよね(木村記者)

・記事にするには、他方面からの裏付けがほしい。だが取材の壁は恐ろしく分厚かった。相手先とされる企業を直撃するが、社長は全否定。さらに山一にも取材を申し込んだが、事実無根だと一蹴された。
・しかし木村記者は決めた。記事を出す。相手は認めなくても、テープで聴いた声は確かに本物だという確信が彼にはあった。

全否定は覚悟のうえで書かなきゃいけないかな。訴えられてもしょうがないかなというのは思いましたけど(同上)

・1997年4月21日(破たん7か月前)、木村記者による山一不正疑惑追及の幕が上がった。山一に運用を委託していた企業の実名を挙げ、いつどのくらい損を被ったか。その企業が山一がいくら補てんしたか金額入りで疑惑を報じた。
・山一の反応は早かった。内容を否定するとともに、東洋経済を名誉毀損で告訴する構えを見せた。真っ向から対立する両者の攻防は、世間の注目を浴び始めた。木村が自分の会社が訴えられそうになったとき、妻から言われた言葉が忘れられないという。

「これ、あなたの会社ね」って。「誰が書いたの?大丈夫?」って。自分が書いたとは言えず「大丈夫なんじゃないの」としか返事はしませんでした(同上)

・このまま追撃できなければ、相手の言い分が通ってしまう。何としても山一の不正を裏付ける証拠がほしい。しかし、どうすれば…。
・焦る木村記者にチャンスが訪れたのは、2週間後のことだった。彼の記事を読んだ人物が新たな情報を持ち込んできた。ある会社で経理部長を務めていたという男。山一との間で不正な取引を長年担当していたが、突然その責任を取らされ会社をクビになったという。男が持参した資料は、山一が更に重大な不正を行っていることを示唆していた。損失補てんを重ねた結果、山一は巨額の赤字に陥っている可能性があるというのだ。

これ大きいよね。ここはもうやった!と思いますよ。そのときはやっぱり驚きというか、きた!って感じ。ついに追加で協力者が出てきた(同上)

・最初の記事から2か月後、木村記者は第2弾の記事を出す(週刊東洋経済・1997年6月28日号)。山一が決算には表れないよう、巨額の損失を方々で隠しているという疑惑。これはまだ氷山の一角。以後、彼の狙いは損失の全貌を明かすことに絞られていく。
・間もなく木村記者に1本の電話が入った。相手は山一證券の幹部、どうしても直接会いたいという。呼び出されたのは、江東区にある雑居ビル。指定された時刻は深夜0時を回る頃だった。

夜中なんか誰もいないようなところ。シーンとしたところで普通の会議室(同上)

・そこで山一の幹部は、木村記者にある取引を持ちかけてきた。

「まさに今、山一證券は外資系と資本の提携を結ぼうとしている。もうちょっと待ってくれ、決まったら東洋経済にスクープをとらせてあげる」(同上)
(山一側としては本当のことを言うので書かないでくれと?)
正直、そういうニュアンスですよ(同上)

・木村記者は答えをはぐらかす。そして逆に本丸のあの疑惑についてカマをかけた。

「帳簿外の損失5000億円はあるでしょう?」

・男は答えた。

「そんなにはない。せいぜい2000億円だ」

認めちゃったわけですね、これで。簿外損失を(木村記者)

・木村記者は更に核心を突く。

「今、提携を進めている相手には損失を明かしているのか?」

「いやそれは言ってない」と。それじゃ詐欺みたいなもんじゃないですか。それじゃ交渉はまとまらないし、まとまった後でも大問題になりますよね。それじゃあ、絶対に無理だって。昔“法人の山一”、当時の四大証券の中でもかなり実力のあるというか評価の高い証券会社だったわけですよね。それが何でここまで腐りきってしまったのだろうか(木村記者)

・11月17日(破たん7日前)、木村記者は書くなという要求を跳ねのけ、渾身の第3弾を発表する(週刊東洋経済・1997年11月22日号)。山一が存続を危うくするほどの損失を抱えていることを、隠蔽の方法とともに詳しく報じた。そして記事をこう結んだ。

「再生への道の第一歩は『過去の懺悔』から始まらなければならない…後は本当に『自然死』を待つのみである」

・山一に警鐘を鳴らすつもりだった木村記者。だがこの直後から、事態は想像を超えたスピードで動き始める。記事発売から2日後の11月19日、一時3000円以上あった山一證券の株価は節目とされた100円を一気に割り込んだ(終値65円)。信用不安が広がった。
・さらに2日後、アメリカの格付会社が山一の社債を「投資不適格」にまで格下げ、ショックが走った。直近の山一の株価の下げ方は、もはや会社の息の根を止めるに等しいものだった。
・そして記事の発売から7日後の11月24日。100年の歴史を誇った山一證券は、あっけなく破たんした。会見場でこの様子を見ていた木村記者、複雑な思いだったという。

最初から潰したくて書いた記事じゃない。これだけは間違いないです。だってあんな大会社、一記者がどんなに潰したくたって潰れるわけないんだから普通は。だけど変な話、小人でもものすごい大巨人・大企業が弱っていると、ちょこっと押しただけでぶっ倒れたっていうような、そういうときもあるじゃないですか。それはたまたま、それはタイミングっていうだけの話であって(木村記者)

・全3回に渡って木村記者が書いた渾身の記事は全部で13ページ。具体的な金額や企業名を挙げて、不正の疑いを報じた。

<視点2 元経営陣 崖っぷちの攻防>
・社長の最も近い場所にいた男、最後まで会社を立て直せると信じていた。元山一證券常務取締役の藤橋忍氏(73)。

まさか破たんするなんて思ってないですから。最後の最後まで思ってないんですから、当事者である私がね。私の暦は11月24日の破たんから全部戻るんですよ。あのときこうすればよかった、その思いばっかりですよ(藤橋氏)

・山一廃業以来、ずっと口を閉ざしてきた藤橋氏。役に立つなら今、事実を伝えたいと取材に応じた。
・木村記者によるスクープ記事が出てから3か月後、山一は経営陣の刷新を図った。後に粉飾決算の容疑で逮捕される行平次雄会長(当時)、三木淳夫社長(当時)が辞任。この2人を含めて会社の膨大な損失の存在を知る者は、ごく僅かだった。
・辞任した2人の指示で突然社長になったのが野澤正平氏(当時59)。営業畑一筋、社長レースに名前が挙がったことはなく意外な人選と噂された。
・藤橋氏は山一の中枢と言われる企画室長(当時54)、早い段階で損失の存在を知らされていた。新体制になって数日後、藤橋氏は同僚から耳を疑う情報を聞かされる。

「社長は損失隠しを知らされていないらしい」

そんなことあるかな。引き継がれていないこと自体、えっという感じしかなかったですから。それはだって言わないわけにはいかないでしょう(藤橋氏)

・藤橋室長は野澤社長に洗いざらい事実をぶちまけた。会社は損失を帳簿上隠していること、その額はもはや会社の存続が危ういほどにまで膨れ上がっていること。そのときの社長の表情が忘れられない。

私は今でも覚えているんだけど、野澤さんは話を聞いていくたびに、だんだんだんだんこうやって頭が下がってね。もともとそんなに色は黒くないけど、青い顔してね。全部説明を聞き終えた後はね、何にも発言しなかったと思う。がっくりきたんじゃないのかな(同上)

・なぜ前任の社長が野澤社長に損失を教えなかったのか、理由は謎だ。だが彼には落胆している時間はなかった。会社が倒れればグループ社員1万人が路頭に迷う。その2日後、野澤社長は藤橋室長を呼んだ。

「社員を守るための極秘プロジェクトを立ち上げたい」

会社の規模が小さくなってもいいからという話が冒頭あったんですよ。リストラもやると。会社のトップというのはリストラが一番嫌なんですよね。社員のクビを切るというのは一番悩むところ。もしそこまでトップが腹を決めるんならね、役員も半減。その代わり人もこれだけ切る。店舗もこれだけ切る。全部具体的に出てきましたからね。だからもしかしたら、実行できる案になるかなという感じを私は持ちました(藤橋氏)

「社員の半分を私の責任でリストラする」「非難は自分が辞めることで受け止める」

・野澤社長たちはギリギリの生き残り策を練り始める。まずは誰かに暴露される前に、隠してきた2600億円の損失を公表すること。記者会見で謝罪し、併せて抜本的な再建策を発表することでギリギリの信用を守る。
・しかし9月、あと数日で公表すると決めた矢先、総会屋への利益供与で取り調べを受けていた三木前社長が逮捕。山一は非難の的となる。謝罪に追われた野澤社長たち。この逆風の中で、新たな火種になる損失隠しを公表できなくなった。
・10月、野澤社長たちはメインバンクに救済を申し込むが、返答は厳しかった。

「御社にはいろんな噂が飛び交っているが、事実はどうなのか?」

・正直に損失を申告したものの、既に信用は失われており救済は断られた。
・やむなくヨーロッパに向かい、外資系金融機関と提携を交渉するも進まず、自主再建の道は絶たれた。
・11月14日、野澤社長たちが向かったのは最後の砦・大蔵省。

「社員を半分にする」「自分も辞める」「だから助けてほしい」

・全てを証券局長に報告したとき、こう言われた。

非常に優しく聞いてくれましたからね。それからもう一つは「バックアップをしましょう」と(藤橋氏)

・野澤社長たちは、その言葉を救済だと受け取った。
・だがその3日後、思いがけない事態が…。木村記者のスクープ第3弾。損失を隠していたことが大々的に報じられ、世間の空気が一変した。
・2日後、再び大蔵省を訪ねたとき、告げられたのは前回とは全く逆の言葉だった。

「感情を交えず淡々と申し上げます」と。「社長にはつらい決断だけれども、自主廃業を選択してもらいたい」と。「何とかなりませんか」って野澤さんが言ったときに「いや、これは内閣の判断です」と(同上)

・会社の存続を許さない自主廃業。バブル期以降、不祥事が多かった金融業界への見せしめだったとも言われる。

一瞬、本当に頭が全然回らない。そんなことを話にきたわけじゃなくてこちらの状況報告と、もし大蔵省さんで何かあるならばアドバイスをもらおうと思って。立って話を聞いていたのかな、向こうももちろん立っていましたからね。ちょっとクラっときたくらいでしたね。僅かあのとき5分か10分ですから(同上)

・奇しくもこの年、創業100年を迎えた山一證券。その歴史は、ほんの5分で幕が引かれた。自主廃業の発表は5日後と決まった。
・11月23日、会見前夜。野澤社長と藤橋室長は本社18階にある部屋に泊り込み、カップ麺をすすりながら会見の準備を続けた。

明日からどうなるのかなという恐怖感がありましたね。カップラーメンの味も覚えてないです。ちょうどあの部屋は18階だったのかな。野澤さん「そこから飛び降りてしまいたい」と言ってたから。「今ここを開けて飛び降りてしまいたいよ」と言ってたから。もうずっと張りつめていたんですよ(同上)

・突然、社長に指名されてから3か月。何も知らない社員だけは守りたいと奔走してきた野澤社長が初めて吐いた弱音だった。藤橋室長が床に就くと、会見に備え一生懸命練習する野澤社長の声が聞こえた。

間違わないように、間違わないようにって夜中まで練習しているわけですよ。野澤さんはそういうことに慣れてない、ずっと営業の人ですから。それを聞いてますからね。殆ど一睡もしてないんじゃないかな、彼は(同上)

・1997年11月24日午前11時30分。

当社誠に残念ながら、この度、自主廃業に向けて営業を休止することを決定いたしました。図らずも当社100周年を迎えて、このような事態になりましたことは、誠に断腸の思いでございます(野澤社長)

・経営責任を追及する厳しい問いにも淡々と答え続けた野澤社長。2時間が経った頃、記者から…

「社員についてどう思うか」

との質問が出たときだった。

これだけは言いたいのは、私らが悪いんであって社員は悪くありませんから!どうか社員の皆さんに応援してやってください。お願いします(野澤社長)

あれ見た瞬間、涙が出ましたね。最後に涙を流したのは、野澤さんの無念さが全部つまったものが最後にきて吐き出したんですよ。あれは気持ちですから。自分でつめて、つめて、つめてきたんですよ。つめてきて最後に。だからあれが彼の本音なんですよね。「お客さんと社員には申し訳ない」と(藤橋氏)

・無念を押し殺して頭を下げた社長の思いは計り知れない。

<視点3 元トップセールスマン 執念の復活劇>
・山一證券の中でひた隠しにされていた損失、約2600億円。膨大すぎるがゆえに上層部は公表するタイミングを失い、その隠蔽工作が結果的に会社の命を奪った。
・そしてその破たんは何も知らされていなかった1万人の社員から突然、生活の糧を奪った。あの涙の記者会見をぼう然とテレビの前で見つめていた男がいた。
・千葉駅から歩いて10分の繁華街に職場があった。元山一證券のトップセールスマン・永野修身(58)。破たんした後、最初に出勤した日の光景は今も脳裏に焼き付いている。

ザーッとね、人がね、取り付けで。ものすごい数百人ですね、行列していて。会社が潰れるってこういうこと。昔はお客さんを呼ぶのに一生懸命だったんだけど、会社が潰れたらこんなにいっぱいお客さんが向こうから来てくれるってね(永野氏)

・永野氏はあの日をバネに復活の人生を歩んできた。山一證券に入社したのはバブル前夜の1982年、バリバリ働く証券の仕事に憧れた。持ち前のバイタリティーで全国トップのセールスを記録した永野氏。39歳の休日、突然あの時を迎えた。

本当に皆さんとタイミング的には一緒のことです。まるっきり知らなかったです、潰れるということは。目の前に封が切ってないウイスキーがあったの、バーボンね。困ったなと思って、しょうがないからプチっと切って、そのウイスキーを生で飲んでたのよ。そうしたら1本空いちゃってさ。会社で60歳までやっていくんだろうなっていうふうに思ってたのが、いきなり潰れたわけですね。住宅ローンとかさ、いっぱいあるわけですよ。そういう借金みたいなものが(同上)

・4人家族、下の子どもはまだ小学3年生。この先、家族をどう食わせていくか、ぼう然とするばかりで何も考えられなかった。
・野澤社長の会見後、初めての出社日。支店に近づくと解約を求める客が殺到していた。

「早く資産を返してほしい」

・全国の支店で同様の光景が繰り広げられた。永野氏には、そのときの屈辱的な記憶がある。解約を待つ客にライバル社の営業マンが「うちへどうぞ」と声を掛けていた。

ある証券会社いわゆる大手4社といわれるところなんだけど、あえて名前は言わないけど、全国的に回ってました。行列に名刺を配ってました。火事場泥棒だよな、行列の整理している横でそんな名刺配って「ぜひ当社に資産を持ってきてください」とやられたら、ちょっとカチンとくるわね。そういうのは正しい営業のやり方ではないねと俺は思います。もっと志の高い営業をしたらいいのにな(永野氏)

・怒った客に殴られもした。だが永野氏がしなければならないのは、客の対応だけではなかった。このとき部下82人、それぞれに生活がある。彼が向かったのは地元の証券会社、自分たちの支店を丸ごと買ってくれないかと頼み込んだ。

中央証券ってあるのね、今のちばぎん証券。そこの社長に資料を持って行って「千葉支店を全部買ってくれ」と言って。そうしたら社長が「千葉支店の資産が中央証券の資産より大きい」と、非常に大きすぎると言われて諦めた(同上)

・金融関係に限らずメーカー、鉄道。業種は度外視して社員を雇ってくれそうな会社を当たり続けた。千葉都市モノレールも当時、永野氏が足を運んだ一つだった。

アポなしの飛び込み。そうじゃないと、なかなかアポイント入らないからね。山一って100年の歴史があってね、最後はきれいに終わりたいという気持ちがあったからね。従業員のためにも最後は一生懸命にやって、それが生き様っていうかね、そういうことなんだと思います(同上)

・永野氏が紹介した元山一社員は今でもこの会社で働いていた。彼は破たん後4か月をかけて社員の再就職を支援。希望者全員の就職を見届けた後、会社を辞めた。
・しかしその後、いろいろな噂が入ってきた。転職先で不条理な仕打ちを受けたり心を病んだ仲間の噂。「自分は全てをやり切ったのか」と葛藤した。
・外資系証券会社などを転々とした後、永野氏は2003年、自ら会社を立ち上げた。声を掛けたのは旧山一の仲間たち。彼の会社は金融分野の人材の転職を助ける紹介業。元山一の社員をはじめ、職場に馴染めなかったり不運にも職を失ったりした人々のサポートを続けている。
・会社の破たんの理由を考えると、今でも悔しくてたまらないという永野氏。でもあの頃、正々堂々と働いていたという自負はある。彼はもう一度、山一證券という会社を復活させることを本気で夢見ている。

会社が潰れちゃったからさ、会社があればOBになってもどんどん来られるじゃない?でも会社がないんで、そういうふうな意味で日々、いろんな人が元山一の(人が)来てくれて。プラットフォームですね、止まり木的な存在になれたらこの上ない幸せ(同上)

・一夜にして人生が全く別のものに変わってしまう。信じていたものが突然崩れたり、愛していたものが失われたり、正しかったはずのことが悪に変わったり。そういったことが確かにある。

<元社員のアナザーストーリーは今も続いている>
・空前のバブルから破たんへ、数奇な運命を辿った山一證券。でも会社は消えても、元社員1万人の物語は終わらない。一人一人のアナザーストーリーは今も続いている。
・今や「大企業なら安泰」という時代は過ぎ去った。混沌とした時代が続く。19年前、その混沌を先駆けて経験した元山一の社員たちは今…。
・石山智志氏(50)は今、さいたま市内でコンビニエンスストアを経営している。自主廃業後は虚無感に襲われ、1年以上仕事に就くことができなかった。再就職先では心ない中傷も受けた。だがその後、コンビニエンスストアを複数経営。そのかたわら大学生の就職活動を支援している。今、地域貢献にやりがいを感じる日々だ。

運が悪かったなとは全然思えません。自主廃業のおかげで今があると思ってるんでね。独立してやって来られたのも自主廃業のおかげ。だから何があっても怖くないような、自主廃業以降そうなっちゃいましたね。必ず安定はないんだってことですよね。どんなに大きいところにいても何をやってても(石山氏)

・金融専門の人材紹介で奮闘する永野氏。この日また一人、元山一の営業マンが。転職先探しの依頼は引きも切らない。みんなあの自主廃業に決着をつけながら生きている。
・会社は消えても抱いていた誇りは消えない。今、あの場所にはビルだけが建っている。

(2016/10/21視聴・2016/10/21記)

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