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【にっぽん!歴史鑑定】大奥スキャンダル~絵島生島事件~

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【にっぽん!歴史鑑定】
「大奥スキャンダル~絵島生島事件~」

(BS-TBS・2016/10/17放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 さすが抜群の安定進行の「にっぽん!歴史鑑定」。再現映像のカツラの境目が目立つのは相変わらずですが、山本博文教授も登場して「絵島生島事件」の真相を取り上げ、きちんと検証した内容でした。

 この事件については(事実上の)国営放送でも取り上げられましたが、そっちの方は「学芸会」みたいな稚拙な出来だったのでその対比が際立ちました(→【歴史秘話ヒストリア】愛と悲しみの大奥物語)。

 なお、大奥そのものについてはこちらが詳しいです(→【にっぽん!歴史鑑定】大奥の女たち)。

 ところで、以前も書いたのですが晩年の絵島は、徳川吉宗によって一定の恩赦がなされています。高遠藩から江戸に戻ることは叶わなかったのですが、藩内では一定の自由が許され、城に勤める女中たちの指導にあたったという話が残されています。それでも華やかな大奥から地方に送られた27年間、彼女の心中はどうだったのか。こればかりは想像する以外にありませんが、私は出世や誰かを蹴落とすような世界から離れ、心穏やかに暮らせたのではないかと思います。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・江戸時代、政の中心だった江戸城本丸。その閉ざされた扉の奥には、将軍の夜の生活の場として独自の文化を築き、時に3000人の女性たちが暮らした大奥があった。華やかな女性たち。しかし、その心の中は欲望や嫉妬が渦巻いていた。
・そんな大奥で起きた様々な事件。中でも史上最大のスキャンダルとされたのが絵島生島事件。大奥を取り仕切る御年寄・絵島が前代未聞の門限破り。
・さらには人気歌舞伎役者・生島新五郎との度重なる密通。絵島が男子禁制の大奥に生島を忍び込ませていたというのは本当だったのか、その真相を徹底調査。
・事件の発端は、大奥の女中たちの暮らしにあった。籠の鳥だった彼女たちの楽しみ、知られざるプライベートとは。
・処罰された人数は1500人。大事件となった裏には女たちの意地とプライドを懸けた内部抗争があった。それを陰で操っていた真の黒幕とは。
・深い闇に落ちていった絵島、その悲しい末路にも迫る。

<絵島の生い立ち>
・事件の主役となる絵島は、天和元年(1681年)甲府藩士の娘として生まれた。そのままいけば歴史に名を残すこともなかった絵島の人生は、甲府藩主だった徳川綱豊が叔父である5代将軍・綱吉の後を継ぎ、6代将軍・家宣になったことで大きく変わった。家宣に従い奥女中として大奥に入ることになった。
・奥女中は将軍とその妻である正室、そして将軍の子どもといった将軍家族の世話をするのが役目。大奥は食事担当、衣装担当など細かく役職が分けられたピラミッド型の厳しい序列社会だった。
・絵島は6代将軍・家宣亡き後、その側室で7代将軍・家継の生母である月光院に仕えて出世。奥女中のトップである御年寄として大奥を取り仕切ることになった。

<絵島事件の経過とは>
・そんな中、正徳4年(1714年)1月12日、事件は起きた。朝早く絵島は将軍の菩提寺である芝の増上寺に代参に行くことになった。代参とは正室や将軍生母の代わりに神社仏閣などに参拝することで、重要な参拝の場合には10万石の大名と同じ規模の100人以上の行列になったという。
・このとき絵島も月光院の代わりとして奥女中や自分の兄弟、江戸城内の男性役人である添番など130人ものお付きを引き連れていた。
・増上寺で亡き6代将軍・家宣の菩提を弔った絵島たち一行だったが、そのまま帰らずある場所へ向かった。それが木挽町にあった芝居小屋・山村座だった。絵島は事前に芝居小屋の2階にある上等な桟敷席を貸し切るよう手配していて、当初から歌舞伎の初春興行を楽しむ予定でいた。
・本来、代参の後でこうした寄り道をするのは幕府の決まりで禁止されていたが、実際は黙認されていたという。その理由は大奥の厳しい生活にあったと東京大学史料編纂所の山本博文教授は言う。

大奥女中たちは容易には外出できなかった。一般の女中は奉公3年目で一時的に親元に帰る「宿下がり」が認められたが、御年寄などは一生奉公で実家に帰れず窮屈な生活を送っていた(山本氏)

・そんな奥女中たちの楽しみといえば琴や生け花といった芸事だった。ときには大奥内で歌舞伎が上演されることもあったが、役者は遊興担当の奥女中たちが演じるという自分たちだけの狭い世界だった。
・自由な外出も許されない、まさに籠の鳥。そんな暮らしの中で外に出られる数少ない機会だった代参は、何よりの息抜き。そのため、ついでに買い物をしたり親類縁者に会ったり、芝居見物をするなどは大目に見られていた。
・絵島たちも芝居に興じ、桟敷席で山村座から接待を受け大いに羽を伸ばしていた。何より奥女中たちを喜ばせたのが、人気役者・生島新五郎が加わったことだった。生島は二枚目の歌舞伎役者で、その美貌のみならず演技力も抜群。当代きっての大スターとして男女を問わず人気を博していた。
・そんな生島の接待に絵島をはじめとする女中たちの胸は躍り、酒が進むにつれ宴は芝居小屋中の注目を浴びるほど賑やかになっていった。

大奥御年寄を取り込んで自分たちを取り立ててもらおうという接待もあったのではないか(同上)

・江戸城本丸、その広さは1万3千坪。政治を行う場所である表に、将軍が執務や生活をする中奥、そして女性たちが暮らす大奥から成っていた。大奥内は正室など将軍の家族が暮らす御殿向と、奥女中たちの居住エリアである長局向、そして大奥の実務などを行う男の役人が詰める御広敷向という構造になっていた。
・その大奥への出入口は基本的に3か所だけで警備は厳重だった。中奥と大奥を繋ぐ上御錠口は、将軍が大奥へ行くときにだけ使われる出入口。御広敷向と御殿向を繋ぐ御錠口は外側には添番と伊賀者が、内側は奥女中が番をする二重扉になっていて、午後6時に閉門する決まりだった。3つ目の御広敷向と長局向を繋ぐ七つ口が奥女中たちの出入口。
・すっかり帰りが遅くなってしまった絵島一行は、江戸城へと急いだ。幕府の正式記録「徳川実紀」にはこう記されている。

「女中たちを伴い木挽町の劇場に参り薄暮に及んで帰った」

・薄暮れ時は日が暮れる少し前の午後5時頃、江戸城内に戻ってきた絵島たちは大急ぎで大奥の入口である七つ口へと向かったが扉はすでに閉じられていた。七つ口と言われる所以は閉門の時刻にあった。門が閉じられるのは夕七つ(午後4時頃)。つまり絵島たちは1時間も遅刻、門限破りを犯していた。
・ただし幕末に書かれた江戸城内の噂話をまとめた「三王外記」によると、絵島が仕えていた将軍生母・月光院の計らいで当初は問題にはされなかったという。
・しかし安堵したのも束の間、事件は蒸し返された。数日後、芝居見物の奥女中の大騒ぎが江戸中の噂となり、さらに絵島に連れられ山村座に同行した添番の男が幕閣のトップである老中・秋元喬知にそのときの遊興の様子を言いつけた。
・大奥の風紀の乱れを知った秋元は大奥への怒りをあらわにし、すぐさま目付や町奉行などに絵島の周辺の聞き込みと取り調べを行わせた。

「絵島が門限を破ったのは初めてではなかった」

「外出の際には芝居小屋に行き役者と慣れ親しみ、吉原遊郭にも繰り出し遊女を呼び酒宴を開くことがよくあった」

「休みをもらった時には縁もゆかりもない家に泊まり、相手の身分にも構わず誰でも人を近づけた」


・さらに厳しい取り調べを受けていた生島が絵島との密通を自白しまった。

<絵島は本当に大奥に生島を忍び込ませていたのか>
・絵島は大奥内でこんな噂まで囁かれてしまった。

「生島を大奥内に忍び入れて頻繁に会っていた」

・2代将軍・秀忠の代に制定したは大奥法度によって奥女中たちの暮らしは統制されていた。大奥は原則として将軍以外は男子禁制。御広敷向には事務や警備を担当する約300人の男性役人が常時詰めていたが、もちろん彼らも奥女中のいる場所の行き来は出来なかった。
・しかし将軍以外の男性が絶対に入れなかったわけではなかった。奥女中の身内で8歳以下の男の子は申し出れば入ることが許され、また老中も監視のため月に一度は大奥に入った。さらに老中に任命された留守居は3日に一度警備のため、長局などを見回り、力仕事や掃除を行う御下男も頻繁に出入りしていた。
・「山王外記」によると絵島は生島を長持(衣装や調度品などを保管する箱)に入れて大奥に忍び込ませたというが、長持などの物の出し入れの規定「御奥方御條目」で10貫目(約38kg)以上は蓋を開けて改めるとあり、成人男性である生島が入っていれば点検されるはずだった。
・この事件について江戸城内で諜報活動を行う御庭番を務めていた川村帰元も実際にはありえないと証言している。長持の話は噂に尾ひれがついたものでは、実際にはなかった話。明治時代以降に歌舞伎の題材になり脚色されたものだった。

また、絵島と生島が密通していたという話も生島が拷問されて自白しただけで、実際にはなかったものだと思われる(山本氏)

・午後4時という大奥の門限に1時間も遅れてしまった絵島一行だったが、この程度の遅れが咎められることは普段ならなかったと思われる。
・しかし絵島は幕府の重要事項を扱う評定所の審理にかけられた。そして僅か1か月後、死罪というスピード判決が下った。
・その後、遠島(島流し)に減刑されたがそれでも重かった。遠島は誤って人を殺した者や人に命令されて殺人を犯した者、台八車で人を轢いて殺した者などが科せられるような刑罰だった。

<大奥による陰謀説とは>
・6代将軍・家宣には公家の最高の家柄の一つである近衛家から迎えた正室・近衛熙子(のちの天英院)がいた。二人の仲は睦まじく、家宣が甲府藩主だったときに一男一女をもうけたが、ともに幼くして亡くし跡継ぎには恵まれなかった。
・44歳になった熙子は家宣が将軍に就任したことで大奥に入ることになり、将軍の正室として大奥トップに君臨した。
・しかし家宣が将軍になってから共に過ごす時間は減ってしまった。華やかな大奥の暮らしは、ただ孤独なだけの寂しいものとなった。
・そんな中、宝永6年(1709年)7月3日、側室の一人であるお喜世の方(月光院)が家宣との間に世継ぎとなる鍋松を生んだ。
・そしてその2年後、家宣が亡くなった。落飾した熙子は天英院、側室・お喜世の方は月光院と号した。家宣の後を継いだのは月光院の生んだ鍋松だった。僅か4歳で息子が7代将軍・家継になると月光院は将軍生母として力を持った。
・大奥内は天英院派と月光院派に分かれ、奥女中たちが激しく対立するようになっていった。優位に立ったのは現将軍の生母である月光院派だった。それに伴い月光院派のトップである絵島も大きな力を持つようになった。
・この頃、絵島は月光院から御年寄のさらに上の特別職である大年寄になることを勧められたという。一方、天英院派の女中たちの嫉妬心は激しくなった。その強い妬みによって足をすくわれ、絵島と生島の密通というあらぬ噂を生んだというのだ。

<表による陰謀説とは>
・絵島生島事件の真の黒幕と目されたのは、譜代大名であり6代将軍・家宣を補佐し幕府内で実権を握っていた老中・秋元喬知。しかし家宣が亡くなり、4歳の家継が将軍になると側用人の間部詮房に実権を奪われた。
・秋元がいきり立つ中、間部は男子禁制の大奥へ足しげく通っていた。実は家継が幼かったことから将軍の居住場所である中奥へは移らず、これまで通り月光院のもとで過ごしていた。そのため異例ながら間部は大奥への出入りを許されていた。そして江戸城内で月光院と間部の間にも密通の噂が立つほど蜜月の関係を築いていた。
・何とか実権を取り戻したいと秋元が目を付けたのが、大奥内での対立だった。月光院と対立する天英院側に付き、絵島を陥れることで間部の後ろ盾である月光院、ひいては間部自身の力を削ごうと暗躍。そして1年余りが経ったとき、江島が代参に行くという絶好の機会が訪れた。

<絵島の悲しい末路とは>
・江戸城内の絡み合った表と大奥の派閥争いにより、大事件に仕立て上げられた絵島生島事件では多くの者たちが罰せられた。
・絵島に近い奥女中67人が大奥を追われ、絵島の兄は斬首、弟は追放という重い刑に処せられた。絵島の行動を制すべき立場にあるにも関わらず、ともに遊興に及んだという理由からだった。
・その他にも接待をした山村座の座元など、処罰を受けた者たちは1500人に及んだ。絵島との密通を噂された生島新五郎は三宅島に流され(遠島)、山村座は取り潰しになった。
・事件の当事者である絵島は、月光院の嘆願により遠島から信州・高遠藩へのお預けと刑は軽くなったが、絵島を失ったことで月光院の求心力はすっかり衰えた。
・さらに虚弱だった将軍・家継が8歳で亡くなると生母の権威は薄れ、大奥は天英院派のものとなった。彼女の発言力は絶大で、次期将軍を選ぶ際にも「家宣様のご遺言である」との一言で紀州藩主である徳川吉宗が8代将軍に決まった。
・新将軍の登場によって間部詮房は失脚、全ては秋元の思い通りとなった。
・この絵島生島事件を受け吉宗は大奥法度を改定。風紀の乱れを正し、事件が再び起きないよう厳しく取り締まっていった。
・普段なら黙認されただろう小さな事件。しかしそこには権力という名の欲望が蠢き、1500人もの人たちが処罰されるという大事件になってしまった。ただ一人、絵島を陥れるために残りの人たちは巻き添えを食ったともいえるだろう。
・信州・高遠藩にお預けになった絵島が暮らした屋敷が復元されている(絵島囲い屋敷)。屋敷は忍び返しの付いた塀に囲まれ、嵌め殺しの格子戸が取り付けられていて、まるで牢獄のようだった。
・外出は一切禁止。食事は朝夕一汁一菜。着物も木綿という質素なものに限られた。大奥とは天と地の生活を27年、絵島は寛保元年(1741年)4月10日、波乱の生涯を終えた(享年61)。
・その間、江戸のことは一切語らなかったという。

(2016/10/20視聴・2016/10/20記)

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