【明日へ―つなげよう―】
「すべてが流されたこの場所から~福島・南相馬~」
(NHK総合・2016/10/16放送)
※公式サイト:http://www.nhk.or.jp/ashita/
<感想>
津波で両親と2人のお子さんを亡くした男性の心の変容を追ったドキュメント。震災当初は怒りと悲しみしかなかった男性、その思いは激しく深刻なものでした。
ちょっと尋常ではない気がしたのでネットで調べてみると、あるサイトに出会いました。そこにはマスコミから土足で自宅を踏み入れられたり、がれき撤去のための重機を「放射能がうつる」と貸してもらえなかったということもあったといいます。番組の中で「ずーっと、置いてけぼりですよ」という言葉は、そうした中で出てきたもののようです。
そんな状況のもとで負った心の傷を5年半かけて癒やしてきたのだろうなと。それが仲間たちや、菜の花畑、花火大会に来る人との交流だったのかなと推察いたします。
一点だけ同意できないのは、東京電力のこと。復興本社の方々の取り組みは分かりましたが、代表の言う「天然資源のない日本において原子力発電を捨て去ることは好ましくない。当分一定の割合は必要」という原発政策は根本的に間違っている。勇気のあるなしに関わらず世論をミスリードしないでいただきたい、それだけは指摘しておきます。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
※見出しは当方で付けました。
・2557。東日本大震災によって行方不明となっている人の数だ(2016年9月警察庁調べ)。
・福島の海岸で今も家族を捜し続ける男がいる。津波で両親と2人の子どもを失った。雨の日も風の日も、どんなに暑くても寒くても、海岸を歩き続けた。抱きしめて一言謝りたい、それができれば死ぬつもりだった。
・しかも原発事故によって消防団による行方不明者の捜索は中断。怒りの矛先は事故を起こした東京電力に向けられた。心は固く閉ざされていた。
・いつしか男の周りには大勢の仲間たちが。それぞれがそれぞれの事情を抱えながら寄り添う。
・震災から5年半、絶望と怒りに苛まれてきた男は何を思うのか。
<津波で両親と2人の子どもを亡くした男性>
・福島県南相馬市萱浜地区。かつて田んぼや畑、一面の緑に覆われていた。津波で約7割の家屋が流され、77人が犠牲となった。
・更地の中に家が2軒建っていた。震災後に建てられた新しい家、隣は津波の爪痕を残す古い家だ。この家に住んでいた上野敬幸さん(43歳)。両親と妻、子ども2人、一家6人の思い出が染みついた家を取り壊せずにいた。
・2011年3月11日、福島を襲った最大震度6強の大地震。農協に勤めていた上野さんは自宅に戻り、両親と子どもに避難するよう伝えた。そして消防団の一員として救助にあたるために家を離れた。その直後、萱浜は12mの津波にのみ込まれた。
・夕方、上野さんは病院で看護師をしていた妻と合流し、避難所に向かった。しかし両親と子どもたちの姿はなかった。2日後、母・順子さんが遺体安置所で、長女・永吏可ちゃん(当時8歳)が自宅のすぐそばで見つかった。
自分の子どもが亡くなっている姿を見るというのは、本当に全て持っていかれるような状態だし。俺はもう泣きながら永吏可の顔を拭いたり、ずっとしていたので。鼻の穴とかに入った泥を取ったりとか、顔を拭いてあげてきれいにしながら安置所に抱いたまま運んでいったので(上野さん)
・なぜ一緒に逃げなかったのか、なぜ守ってあげられなかったのか。
・震災から3日後、福島第一原発3号機が水素爆発、周囲に大量の放射性物質が放出された。原発から20km余りの萱浜では屋内退避指示が出され、消防団による行方不明者の捜索は中断された。住民の多くが被ばくを恐れて町を離れる中、上野さんは残った。
被ばくしようが何しようが、自分の命はもう別にいいって思ってるので。離れてしまったら誰も捜す人がいないので、見つかる人もいなくなるだろうし。当然、倖太郎(長男)も行方不明だったから捜さなきゃという気持ちも当然あるし。避難をしなきゃというよりも、避難する方が恐怖でした(同上)
・「倖太郎!倖太郎!」誰も居なくなった萱浜で泣きながら捜し続けた。近所の顔馴染み40人以上の遺体を見つけた。しかし倖太郎くん(当時3歳)には会えなかった。
<被災地を取材していた写真家>
・当時の様子を知る人がいる。写真家の渋谷敦志さん(41歳)は震災から3週間が経った4月上旬、被災地を取材するため萱浜に入った。
人ひとり居ない景色が広がっていて、茫然自失としていた。人は何処へ行っちゃったんだろうと。で、この写真を撮ったときに「あっ」と思ったんですよ(渋谷さん)
・誰も居ないと思っていた場所で撮った一枚。よく見ると友人と捜索を続ける上野さんの姿が写っていた。
「何をしているんですか?」って声かけたんだと思うんですよね。で「何をしてるって見りゃ分かるだろう」と。「人を捜してんだよ」って言うわけですよ。もうその雰囲気が怒っているわけですよね。今にも殴られそうな雰囲気があって。実際そんなことしないですけど、鬼気迫るものがあって。特に目ですよね、上野さんの目には(同上)
・見たこともない激しい怒りと深い悲しみ。渋谷さんはそれ以上、自分からはカメラを向けることができなかった。
・「なぜこんなことになったしまったのか」、来る日も来る日も上野さんは考え続けた。地獄だと思った。
当然、親だから子どもを守るのは親の務めだし、子どもを守ることができなかった最低の親でもあるし。そこで永吏可は見つかったときにちゃんと抱きしめて「ごめんなさい」って謝ることができたけど、倖太郎にも謝らなければいけない。倖太郎を見つけて抱きしめて謝ることが、自分の中の全てだったような気がします。あの状態で自分一人で捜していて倖太郎が見つかったら、多分もう自分ではおかしくなっていると思うので。死んでいただろうなとは思ってますけども(上野さん)
<原発事故を起こした東電への怒り>
・上野さんにはもう一つ拭いきれない思いがあった。原発事故を起こした東京電力への怒りだ。
・震災後に生まれた子どもがいる。次女の倖吏生ちゃん(5歳)、倖太郎くんの「倖」と永吏可ちゃんの「吏」それに「生きる」の文字を付け倖吏生と名付けた。
・震災当時、倖吏生ちゃんを身ごもっていた妻の貴保さん。原発事故による放射能の影響を避けるため、茨城の親戚に身を寄せた。そのため貴保さんは永吏可ちゃんの火葬に立ち会うことができなかった。それが上野さんは悔しくてならない。
嫁さんはね母親ですからね、お腹を痛めて生んだ子の殆ど顔も見ないまま避難をしてしまったので。火葬にも立ち会うこともできないし、最後の別れもできないまま避難して、戻ってきたときには火葬は終わっているので。最後の別れをさせてあげることができなかったことは、すごく許せないです。東京電力のことは許すことができないし、今でも憎い(上野さん)
・倖太郎くんの捜索を遅らせ、永吏可ちゃんの別れすら阻んだ原発事故。激しい怒りの矢面に立った人がいる。東京電力復興本社代表の石崎芳行さん(63歳)。
・復興本社は被災者への賠償や除染、地域の清掃など復興関連の業務を担うため東京電力がつくった組織だ。石崎さんは東京電力の副社長でもある。上野さんと出会ったのは3年前。赴任した直後、被災地の現状を把握するため地元住民を訪ねて回っていたときのことだった。
上野さんは差し出した名刺を受け取ると非常にお怒りで、その名刺を…記憶が定かではないですが、投げ捨てられたような記憶がありますけども。ただそのときの上野さんの表情が非常に厳しい表情。例えると目が本当に狼のような目だなっていうふうに思ったのが、失礼ながら第一印象でした(石崎さん)
もう本当に言葉悪いですけど、東京電力の職員の人たちなんて殺していいと思っていました。こんなにつらい思いをさせて(上野さん)
・原発事故によってどれほど苦しめられたのか。仏壇の前で3時間、石崎さんは上野さんの訴えを聞いた。その別れ際…。
上野さん自身が「俺はあなたが今後、復興本社の代表としてどういうふうに行動していくのかいつも見ていますよ。常に見続けていますよ。それだけは忘れないで下さいね」と最後に仰ったんですね。それは私はものすごく重い言葉として受け止めて、今でも忘れられない言葉の一つとして私の胸に常にあります(石崎さん)
・子どもを守れなかった自責の念と東京電力への怒り。
<ボランティアや同じ境遇の人との交流>
・上野さんは誰にも心を開かなかった。周りにはいつしか人が集まるようになっていた。捜索を手伝うボランティアだ。震災から2か月が過ぎる頃、週末になると10人ほどが入れ替わり立ち代わりやって来た。しかし作業中、会話を交わすことは殆ど無かった。
まず話すことはなかったね。俺の気持ちは分かってもらえない、当事者じゃないと分かんないと思っているから。話す気もないし、何もする気もなかった。ただただ手伝ってくれているというだけであって(上野さん)
・春には上野さんは自宅の周りに菜の花を咲かせるようになった。捜索に専念しようと勤めていた農協を辞め、友人とも殆ど会わなくなった。次第に一人でいることが耐えられなくなったと言う。
何もなくなってしまった場所なので、家も人も。全てが流されてしまった場所にどうしても寂しくて。最初は寂しくて花でも植えたいなと思って(同上)
・菜の花の隣には鯉のぼり、倖太郎くんの形見だ。上野さんは願う。子どもたちを安心させるため、いつか自分も笑える日がくるように。
・震災から2年、閉ざされていた上野さんの心を動かす出来事があった。それは萱浜から20km離れた大熊町に暮らしていた、ある人との出会いだった。
・原発のある大熊町への立ち入りは震災直後から厳しく制限されている。町の大半は帰還困難区域に指定され、手付かずのまま放置されている場所が多い。
・先の見えない中にその人はいた。木村紀夫さん(51歳)、津波で父親と妻、そして娘を失った。当時7歳だった娘の汐凪ちゃんは、大熊町でただ一人行方不明となった。
・しかし震災直後、町への立ち入りは禁止され、木村さんは娘を捜すことができなかった。立ち入りが許可されてからも一人で捜索を続けていた。そのことを聞いた上野さんが手伝いを申し出た。
ボランティア全く入れてなかったんです、当時。入れることに対しても普通の場所よりも被ばくする場所なので、それをボランティアに入ってもらって捜してもらうというのは、なかなか自分としては出来ないなと思っていて。だけど上野さんがどうしても入りたいって、捜してほしいのに言えない世の中がおかしいと言って(木村さん)
・上野さんたちの協力で遺品が次々に見つかるようになった。子どもを捜す気持ちは誰にも分からないと思っていた上野さん、娘を捜すことすら出来なかった木村さんに手を差し伸べずにはいられなかった。
木村さんに最初に会ったときに、最初の頃の自分を見ているような感じがしたんですよ。当然あんまり笑うこともなかったし、本当に笑ったとしても笑顔もぎこちないし。僕とは違ったつらい思いをしている人だなと思いました(上野さん)
・上野さんの捜索を手伝うボランティア、活動を通じて自分を見つめ直すようになった人がいる。永井克昌さん(46歳)は、東京のIT企業で働くシステムエンジニアだ。
・震災後、がれきの処理など何度も被災地に通った永井さん。しかし原発事故のあった福島は、それとなく避けていたという。考えが変わったのは、インターネットに掲載された上野さんの記事だった。ある言葉が永井さんに刺さった。
「ずーっと、置いてけぼりですよ」
それを見て自分も置いてけぼりにしていたと感じたんですね。こんなに困っている人がいるのに、こんなに苦労してこんなに地獄を見た人がいるのに自分はそれを知らなくて、ちゃんと勉強もしないまま何も調べないまま線量が怖いからっていう理由だけで、なかなか行かなかった福島(永井さん)
・上野さんを手伝う理由はもう一つある。永井さんは5歳のとき父親を病気で亡くした。幼心に可愛がってくれたことをはっきり覚えている。上野さんの息子に懸ける思いに、死んだ父親の姿が重なるという永井さん。毎週のように片道4時間の道のりをやって来る。
上野さんとは全く逆の立場ですけど。でも本当に可愛がってくれましたから、父親はこういうものなんだろうなというのは何となくは思います。そういう気持ちがあったので、もうここで暫くはお手伝いさせてもらおうかなと思いました(同上)
<写真家やボランティアの人たちとの関わりの変化>
・震災直後、上野さんの姿を偶然撮影した渋谷さん。それが縁で上野さんに大きな影響を受けた。
・それまで渋谷さんは、紛争や貧困の悲惨さを写真を通じて世界に訴えてきた。しかし取材した人との関係はその場限りのことが多く、自分がどこまで本質に迫れたのか常に問い続けてきたという。
・上野さんと出会ったとき、それ以上カメラを向けられなかった渋谷さん。自然とシャッターを押せるようになるまで通い続けると決めた。
上野さんの姿を見ていると僕自身がそれに問いかけられているような気がして。自分自身はちゃんと生きているのか、本当にちゃんとした意味で強く生きているのかっていうのを聞かれているような気がして。それは自分の家族であったり、仕事への向き合い方であったり、或いは写真に対してももっと本気で誠実で出来ているのかって。何か聞かれているような気がするので(渋谷さん)
・渋谷さんが上野さんの写真を撮れるようになったのは、1年が経ってからのことだった。自分が訴えたいことではなく、取材した人のありのままの姿を大事にしたい。そう思うようになった。
時の流れを記録することで、きっと僕が伝えようとするもの以上の何かがそこに写り込んで記録されていくような気がするので、そんなに今はもう強い主張があるというよりも、長い時間をかけて一緒に過ごしていけばいいんじゃないかと(同上)
・上野さんのもとに集まるボランティア。
・若くして妻を亡くし、茨城から通い続けている人。
・阪神・淡路大震災のとき無力だった自分を悔やみ、大阪から移住してきた人。
・それぞれの事情を抱えながら、同じ時間を過ごす。
・いつしかボランティアは“仲間”に変わった。
少しずつ。急に変わったわけではないので、少しずつ少しずつっていう感じだと思います。そこから笑えるようになったりだとかということに繋がっているので、みんなの存在は大きいと思いますけどね(上野さん)
<福島第一原発の視察で感じた思い>
・少しずつ心を開いてきた上野さん、それでも消し去ることができない思いがあった。原発事故を起こした東京電力に対する怒りだ。去年の夏、上野さんは仲間と一緒に初めて福島第一原発の視察に向かった。
第一を自分の目ではっきりと見てこようとは思ってましたけど。こいつがそういうことを起こしたんだっていう、自分の目で見なきゃいけないものだと思っている(上野さん)
・案内役を務めたのは復興本社代表の石崎さん。「あなたをいつも見ている」と上野さんに言われた人だ。視察後の質疑応答で、事故を起こした原発についてどう思っているのかと上野さんたちは問い詰めた。石崎さんは自分の考えを伝えた。
天然資源のない日本において、エネルギー源として今すぐ原子力発電を捨て去ることは、日本にとって好ましくないと思っていますと。ある意味、原子力は必要悪かもしれませんけども、当分一定の割合は必要だと考えていますということを申し上げました。私も殴られるかなと思ってましたけども、そこで自分が逃げてはいけないし、やはりどういう状況であれ誠実に自分の考えをお話することが一番大事だというふうに思ってますので(石崎さん)
・上野さんにとって、石崎さんの発言は思いがけないものだった。
僕もね、あの発言は別に許す許さないで言ったら、それはねえだろっていう部分はあるんだよね。それは言っちゃダメだろうって思うけども、東京電力が何を言ってんだっていう部分だと思うんですけど。いい悪いは別として、正直な人だと思った。すごいなと思って。相当勇気が要る発言だと思うし、怖かったと思います。僕は、多分石崎さんはあそこでその話をするのはすごい勇気が要ったし、すごい怖かったと思うし。それでも自分がこう思っているということを正直に言ってくれたときに、信用できる人だと思って。それからは本当に信用していますけど(上野さん)
・上野さんと石崎さんの距離が少しずつ縮まっていった。寂しさに耐えかねて咲かせるようになった菜の花。誰でも自由に立ち寄って楽しめる場所になった。そこに石崎さんの姿が。菜の花畑に集まる人たちの案内を復興本社の社員たちが手伝うようになっていた。
・上野さんが仏壇の前で石崎さんに怒りをぶつけてから3年。東京電力は許せないが、いつまでも人を憎み続けるのは違う。そう感じ始めていた。
東京電力だっていっても、やっぱり人だからなと思って。人として東京電力の人も社員を見るようになったのは、それが大きかったと思いますけど。かといって、別に初めからみんな東京電力だから許すというわけではないですけどね。やっぱり許さないですよ、しゃべってみてちゃんと自分の意見を言ってというのがあってこそ、信じるようになったりだとかなるので(同上)
<亡くなった人を供養する花火大会>
・震災前、一家6人で暮らした家。今年2月、取り壊すことにした。震災から5年を過ぎると解体費用の補助がなくなる。迷った末の決断だった。
・8月、萱浜に久しぶりの賑わいが戻ってきた。津波で犠牲になった人たちを追悼するための花火大会。震災の年、花火が大好きだった永吏可ちゃんと倖太郎くんのために上野さんが始めたものだ。
・行方不明の娘を捜す木村さんと写真家の渋谷さん、ボランティアの永井さん。復興本社の石崎さんは今年初めて上野さんに招かれた。
・クライマックスは笑顔の花火。全てが流されたこの場所に、たくさんの笑顔が戻りますように。
別にそれを見て、ここは被災地っていうか津波でたくさんの人が亡くなったなんて考えてもらわなくていい。笑ってもらえればそれでいい。喜んでもらえればそれで十分(上野さん)
・上野さんは仲間と一緒に捜索を続けながら、新しい活動を始めている。原発事故でふるさとを追われた人たちが早く戻れるように家の片付けを手伝っている。
・震災から5年半、絶望の淵にいた男は今…。
倖太郎に救われたと思っている。死ななかったというのは。倖太郎がもし見つかってたら多分死んでると思ってて。倖太郎は俺を救うために出てこないんじゃないか。今はもう倖吏生も生まれたし、自分でそうやって命を絶つことはしないから、もう見つかってもいいよとは言ってるんだけどね、なかなか…(同上)
(2016/10/19視聴・2016/10/19記)
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ファインダー越しの3.11
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