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【にっぽん!歴史鑑定】日本人の心・富士山ミステリー

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【にっぽん!歴史鑑定】
「日本人の心・富士山ミステリー」

(BS-TBS・2016/8/29放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kantei/

<感想>

 富士山といえば昨年「ブラタモリ」で3回にわたって放送されました。そのときにもぜひ富士山に登ってみたいなと思いつつ、結局今年の夏も行けませんでした。まずは「富士塚」辺りからかな(苦笑)

【ブラタモリ】#21 富士山頂~人はなぜ富士山頂を目指す?~
【ブラタモリ】#20 富士山の美~富士山はなぜ美しい?~
【ブラタモリ】#19 富士山~富士山はなぜ美しい?~

 「かぐや姫」の話も興味深いですね。もちろん私が子どもの頃に読んだ話では姫は月へ帰っていくというものですが、実は富士山の女神様だったとは。そう思うとますます富士山の神々しさが増すような気がします。

 そしてもう一つの富士山エピソード。宝永の大噴火のときに幕府が全国から集めた莫大な救済金を復興以外のものに流用していたという話。いつの時代も変わらないふざけた話だなと思いました。

 しかしそんな中、伊奈忠順という役人が文字通り命懸けで復興に尽力した話は感動しました。この話どこかで聞いたことがあったような気がしたのですが、調べてみると「歴史秘話ヒストリア」で3年ほど前に放送されていたようです。たぶんそれを観たのだと思いますが、被災地だった御厨では彼の神社や銅像が建ち、彼の功績は小学校でも教えられている…ような(記憶が曖昧ですみませんが)。

<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・古より日本人を魅了してきた名峰・富士。その歴史の中には闇に埋もれてしまった様々なミステリーが存在している。
・日本最古の物語「竹取物語」のヒロイン、かぐや姫は実は富士山の神様だった。
・江戸時代に描かれた1枚の浮世絵。この絵には天下取りを進める徳川家康の壮大な企みが隠されていた。
・富士山大噴火。甚大な被害に遭った庶民たちを救うべく、江戸幕府が集めた救済金。その驚くべき使い道とは。
・江戸時代に湧き起こった空前の富士登山ブーム。そのきっかけをつくったのは、一人の男の壮絶な死だった。

<浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメだが>
・静岡県富士宮市にある山宮浅間神社には、神を祭るための建物である本殿はない。参拝者は遥拝所と呼ばれる場所から彼方に見える富士山を拝む。
・古くから日本人はこうして富士山自体を神と見做し「浅間大神」と呼んで崇拝してきた。この浅間大神と同じ神とされているのが、古事記などに登場する女神コノハナサクヤヒメ。そのため現在、全国に約1300あるという富士信仰の拠り所、浅間神社ではコノハナサクヤヒメが祭神として祭られている。
・しかし江戸時代までは富士山の祭神は竹取物語で知られるかぐや姫だったというのだ。

【富士山ミステリー(1)かぐや姫は富士山の神様?】
・光る竹の中から生まれたかぐや姫。その人生を描いた竹取物語は作者も成立した時期もはっきりしていないが、平安時代初頭には今の形になっていたと考えられている。
・物語の中で美しく成長したかぐや姫は8月の十五夜の日、月の使者に付き添われ天へと登っていくが、富士山周辺ではこれとは違う物語が伝わっているとう。
・「富士山大縁起」では、かぐや姫伝説の舞台を駿河国とし「かぐや姫は(富士山の)釈迦嶽南の角にある大岩に入り浅間大菩薩となった」と記されている。
・さらに竹取物語と同じ平安時代に都良香という貴族が記した「富士山記」に「仰ぎて山の峯をみるに白衣の美女二人ありて」と富士山に美女がいたと記されていることから、これが竹取物語の美しいヒロインかぐや姫と重なり、かぐや姫は富士山にいてその女神となったと信じられるようになった。
・さらに、かぐや姫が神様であったという証拠が富士山麓の忍野村にある忍草浅間神社にあった。本殿に祭られている3体の御神像のうち現在、木花咲耶姫命であると言われている御神体が元々はかぐや姫だったという。
・鍵を握るのは犬飼と鷹飼という他の2体の御神像。実は「富士山大縁起」では、かぐや姫を育てた竹取の翁は鷹を、その妻は犬を可愛がっていたため、それぞれ鷹飼、犬飼という祭神になったと記されている。この地元の伝承に従うと、鷹飼と犬飼つまり竹取の翁とその妻とともに祭られているのは、かぐや姫だと考えられる。
・こうしたことから富士山の麓に暮らす人々は、かぐや姫こそが富士山の祭神であるとし崇拝してきた。
・ではなぜ富士山の神様は、かぐや姫から今のようなコノハナサクヤヒメに変わってしまったのだろうか。江戸時代の儒学者である林羅山の影響によるものだと考えられる。
・林羅山は徳川家康のブレーンとして江戸幕府の政策にも大きく関わった。羅山は神道を重んじていたため、世の中から仏教の影響を排除しようとしていた。その標的となったのが富士山の女神であり、かつ浅間大菩薩であるという神道と仏教が混交したかぐや姫。
・羅山はこれを否定し、古事記や日本書紀に記されている山の神を父に持つコノハナサクヤヒメこそが富士山の祭神であると主張した。これが幕府や多くの知識人へと広がり、浅間神社の祭神、富士山の神様はかぐや姫からコノハナサクヤヒメへと塗り替えられていった。

【富士山ミステリー(2)富士山は徳川家康の守り神?】
・1600年(慶長5年)天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川家康は石田三成の西軍を制圧すべく、富士山麓にある富士山本宮浅間大社で勝利祈願をした。全国にある浅間神社の総本社であるこの神社に家康は深く帰依していたという。
・関ヶ原の戦いに勝利した後は、その御礼として本殿や拝殿など30余りの建物を寄進。さらに家康はある特権まで与えたという。

富士山火口に入れられた賽銭を回収できる権利を与えた(東京大学史料編纂所の山本博文教授)

・家康と富士山との縁は幼少時代まで遡る。三河国で岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた家康は、7歳のとき今川義元の人質として駿府へ送られた。付き添った伴はごく僅か。親元から離された家康は多感な時期を駿府で孤独に過ごした。
・そんな家康を励ましたのが間近にそびえる富士山だった。泰然自若やその姿に励まされながら自らも精神の鍛錬に努め、毎日のように近くの浅間神社にお参りをしたと言われている。
・まさに富士山は家康の心の拠り所。それは天下を取った後も変わらなかった。

【富士山ミステリー(3)富士山が江戸のシンボル?】


◎復刻木版画「歌川広重」浮世絵『する賀てふ』
・江戸随一の浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景する賀てふ」から。町を突き抜ける広い道、その向こうには堂々たる富士の姿。余りにも見事な風景には、家康が関係しているという。
・東京・日本橋。広重が浮世絵に描いた場所だが、今では正面にビルが建ち富士山は見えない。しかし同じ場所を描いた浮世絵では必ず富士山が描かれているように、江戸時代には実際にここから見えていた。
・古地図を見ても駿河町の通りは確かに富士山の方角を向いている。この富士山の絶景を拝めるようにした人物こそが徳川家康だった。
・1590年(天正18年)家康は秀吉から領地替えを命じられ江戸に移ることになったが、当時の江戸は湿地が広がる未開の地。
・ところが家康はこれを好機と捉え、大規模な開発を行った。江戸の北側にあった神田山を切り崩し、その土で海を埋め立て町を拡大。
・このとき働き手として集められたのが、家康が治めていた駿府や三河の職人たちだった。家康は彼らに江戸に移住するよう命じるが、辺境の田舎町に住みたがる者など居なかった。
・そこで家康は駿河の人たちを住まわせる町を駿河町と名づけ、そこから彼らが地元で日々眺め、誇りしていた富士山をよく見えるようにしたのだ。その絶景には駿河の人々も大満足。
・そして江戸に幕府を開いた家康は江戸城の建設を進めた。城造りを任されたのは築城の名人と謳われた藤堂高虎。一説によれば、家康は高虎に江戸に目印となるよう、大坂城より高い天守閣を造るよう注文をつけたという。
・皇居東御苑はかつて江戸城があった場所。現在は天守閣の土台である天守台のみが残っている。東西約41m、南北約45m、その上にそびえていた天守閣は二度建て替えられたが明暦の大火で焼失後、再建されることはなく家康の建てた天守閣がどのようなものであったのか、殆ど分かっていない。
・しかし調査の結果、青森県弘前市の図書館に家康の天守閣にまつわる貴重な資料が保管されていることが判明した。「江戸御天守絵図」を開いてみると型紙のよう。家康が築いた天守閣の設計図。弘前藩が建設に携わったため、この地に残されていたと言われている。そこには柱の骨組みや、壁には白土を使い釘を隠すようにといった細かい指示が記されている。
・その高さは石垣と合わせて30間4尺余(約55m)。40mほどだったと言われる大坂城天守閣を優に超える今の20階建のビルに相当する高さだった。

「慶長見聞集」という資料によると、まさに雪山のような天守閣だったと言われている。江戸湾から見ると富士山のような見事な景観だったという。江戸城を富士山に見立てるということは、戦乱の世を収めて江戸を中心とした新たな国づくりを目指すという家康の天下泰平への道の第一歩だった(山本教授)

・家康はさらに日本橋を五街道の起点とし、そこから江戸城と富士山が並んで見えるようにしたと言われている。江戸にやって来た人々は、日本一の富士山と並び建つ江戸城に驚愕、徳川の強大な力を視覚的に見せつけられた。
・そしてその評判は再び街道を通り、参勤交代の武士や旅人たちによって全国に広がった。こうして家康の狙い通り、幕府の威信は長きに渡り保たれることになった。

【富士山ミステリー(4)富士山大噴火!消えた救済金?】
・富士山は延暦大噴火(800年)、貞観大噴火(864~866年)など古くから噴火を繰り返してきた。人々はそれを神の仕業と畏れ、富士山そのものを神様と崇めてきた。
・江戸時代中期にあたる1707年(宝永4年)11月23日、富士山は五合目付近で噴火した。このとき江戸でも異変を感じたようで、旗本の伊東祐賢が日記にこう書き残している。

南西の方に青黒き山のような雲が立ち上り、強風でもないのに家が震え、戸や障子が強く鳴った。

・相当な規模だったようで、夜になると噴火口から火柱が上がりその後、12月8日まで16日間にわたり噴火が続いたと言われている。
・富士山が噴火する49日前の10月4日、東海から四国にかけての太平洋沿岸で巨大地震が発生。規模は現代の地震学に基づく研究によるとマグニチュード8.7だったと推測され、この地震により富士山直下のマグマ溜まりが刺激を受け、中のマグマが岩盤を割りながら上昇。
・そして11月23日10時頃、富士山は大噴火を起こした。その噴煙は上空の偏西風に乗って東へと流されていった。2時間後には江戸上空に到達、町に灰が降り始めた。
・人々は突如起きた異変にこの世の終わりだと噂し、泣き叫ぶ者までいたという。800年ぶりの富士山の噴火。人々にはこの天変地異の原因が分からなかった。江戸はその後10日間にわたり灰が降り続き、灰を吸い込んだため気管支炎を患う人が続出したという。
・この富士山の大噴火により、宝永火口からは約7億立方メートルもの溶岩や火山灰が放出された。最も被害が大きかったのが火口の南東側、小田原藩領の御厨と足柄地方だった。特に御厨の被害は甚大で家屋は焼失。最大で3mもの灰や砂が降り積もり、田畑の作物は全滅した。
・もはや小田原藩が単独で処理できるレベルを超えていた。そのため幕府は被災地を直轄領とし、復興に乗り出した。まず全国の大名に命じ、救済金として石高100石に対し2両を徴収。これにより総額50万両(約500億円)もの大金が幕府のもとに集まった。
・しかし幕府が救済金を集めた裏には復興とは別の、ある思惑があったというのだ。

実際に救援や復興に使われたのは8分の1の6万両に過ぎなかった。残りは江戸城改築や幕府の財政運営の資金に使われた。幕府は当時赤字だったので流用してしまった。当時は5代将軍・綱吉だった(山本教授)

・幕府が本格的に復興に乗り出したのは8代将軍・吉宗になってからで、最終的に復興が完了して領地が小田原藩に返還されたのは噴火から80年近く経ってからだった。
・幕府からの救済金が乏しい中、被災地の復興指揮を任された男がいた。関八州の治水工事などを担当する関東郡代の伊奈忠順は、幕府から小田原を流れる酒匂川の改修工事を命じられた。酒匂川は大噴火による火山灰などが川底に溜まったことで大氾濫を起こすようになり、小田原の町に大きな被害を及ぼしていた。
・そのため小田原を通る東海道の往来にまで支障をきたし、上方からの商品が江戸に入らなくなって、江戸では物価の高騰や品不足といった深刻な問題が起きていた。
・幕府は江戸で起きている問題の解決を最優先し、酒匂川の改修工事を急がせたため、被害の大きかった御厨などの復興は後回しとなった。田畑には火山灰が積もったまま、農業もできず困窮する者が続出した。
・耐えかねた人々は連日のように忠順のもとを訪れ、田畑の火山灰の除去が必要であることを訴え続けた。しかし彼らを救うための予算はなかった。農民たちの訴えにすぐさま応えることのできない忠順は、まず農民たちを飢えから救おうと酒匂川の改修工事に従事させ賃金を支給した。
・その一方で勘定奉行ら幕府の役人に直訴を重ね、忠順はようやく復興予算を引き出すことに成功した。忠順がその予算を投じて行ったのが、天地返しというものだった。積もった火山灰と畑の地中深くにある土を入れ替えること。これを何度も繰り返すことで土を蘇られせた。
・こうして土壌改良は進んでいったが、依然として幕府の支援は乏しく飢えで死ぬ者は一向に減らなかった。その惨状を目の当たりにした忠順は居ても立ってもいられず、遂に独断で幕府の米蔵から米を出し、飢えで苦しむ農民に配った。そしてその責任をとり切腹したと御厨では伝えられている(1712年・正徳2年死去)。富士山大噴火から5年目のことだった。復興の裏には庶民を思う一人の武士の命懸けの行動があった。

【富士山ミステリー(5)富士登山ブームを起こした男?】
・1733年(享保18年)、一人の男が富士山頂にほど近い烏帽子岩の洞窟で約1か月の断食の末、命を絶った。男の名は身禄、実はこの一人の男の死こそが江戸に空前に富士登山ブームを巻き起こしたという。
・油売りの商人だった身禄(本名 伊藤伊兵衛)は、17歳のときに富士講に入った。富士山信仰の信者たちの結社で、彼らは現世利益を願い富士山への集団巡礼を行っていた。身禄も商売の傍ら44回も富士山に登り、厳しい修行を積んだ。
・そして1717年(享保2年)富士講の指導者である行者になると弥勒菩薩の生まれ変わりであると称し、江戸・巣鴨の自宅前に「身禄の世 到来を告げる」と書かれた表札を立て、熱心な布教活動を行った。
・しかしそのさなか、身禄は突如命を絶った。直筆の書「御添書之巻」の中で幕府の政策を厳しく批判している。

かみだつものばかりよきようにして、あらため とがにおとし。ぼさつ(米)も高値にして金銀をもつうよういたさぬ
(上に立つものばかりに都合のいい政策を行い、身分の低い者はちょっとしたことでも調べ上げ罪に陥れる。米の値段を釣り上げて金銀が通用しないようにしている)

・当時は8代将軍・徳川吉宗の時代。吉宗がとった米価対策により米の値段が高騰。農民に対する年貢の負担は増え、厳しい取り立てが行われていた。
・さらに1732年(享保17年)に発生した大飢饉により大勢の餓死者が出るなど、庶民の社会への不満と不安は頂点に達していた。
・身禄はこうした苦しみから庶民を救うため、自らの命を絶った。自ら死ぬことで富士山の神仏と一体化するという思いからだった。
・その教えを富士山で断食をする身禄から弟子が聞き、書き残している(「三十一日ノ巻」)。富士山の前では老若男女みな平等であると。その教えのもと、自らの死をもって幕府に抗議し、また神である富士山と一体化することで庶民を救おうとした身禄に多くの人々が感銘を受けた。江戸では次々と身禄派の流れを汲む富士講が結成され、富士山へ参拝する人が増えていった。そしてこれを機に富士登山が空前のブームを迎えた。

<江戸の町には富士山がいっぱい!その理由とは?>

富士山に一度も登らぬ馬鹿 二度登る馬鹿

・そう言われるほど江戸後期になると人々は富士山に登ることを夢見ていた。当時の富士山への登山口は4つ。最も江戸に近い吉田口が賑わった。
・登山口のある上吉田には最盛期86軒の宿坊があり、そうした宿坊は御師の家と呼ばれた。御師とは富士山信仰におけるいわば祈祷師だが、祈祷だけでなく宿泊や食事など富士登山のための様々な手配を行った。
・富士登山はあくまで修行の一部。御師の家に着いた一行は、まず水垢離で穢れを祓いその後、御師とともに神前でお勤めし翌朝の富士登山に備えた。
・では人々はどのように富士山に登ったのか。出発は朝6時頃、麓の浅間神社に参拝後「六根清浄 お山は晴天」という掛け声をかけながら頂上を目指した。
・途中3~4合目付近で持参した弁当を食べ、7~8合目の岩屋や山小屋に宿泊した。
・深夜2時頃、山小屋を出発。山頂で御来光を拝む。そして富士山の火口に向けお祈りを捧げた。
・こうした富士登山を誰もが夢見ていたが、体力のない者には厳しく、さらに費用も往復1両半(約15万円)と庶民には高額だった。
・また富士山の頂上は女人禁制だったため、女性は途中までしか登れなかった。そこで江戸っ子たちは登れない人たちのため、ある画期的な方法を思いついた。
・東京・千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社にその答えがあった。境内にある小高い山は富士山の形を真似てつくった富士塚と呼ばれるもので、富士山から運ばれた土や石でつくられている。本物の富士山と同じように山頂の奥宮や釈迦の割れ石、金明水、銀明水、中腹には身禄像まで再現されている。
・富士山に行くのが大変なら富士山を江戸に持ってこようとミニチュア富士をつくってしまった。その始まりは身禄の弟子にあたる高田藤四郎と言われ、富士塚に登れば同じ御利益が得られると9年5か月の歳月をかけ、富士山から土や石を運び江戸戸塚に最初の富士塚をつくった。
・その後、富士講の広がりとともに江戸市中に約50か所以上もの富士塚がつくられ、新たな人気スポットとして大いに賑わったという。

(2016/9/1視聴・2016/9/1記)

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