【にっぽん!歴史鑑定】
「吉原の花魁」
(BS-TBS・2016/3/7放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/
<感想>
「にっぽん!歴史鑑定」で昨年放送された【にっぽん!歴史鑑定】遊女たちの一生の続編のような話でした。重なる部分もありますが、両方を観ることで江戸時代の幕府が事実上公認していた公娼制度の実態がよく分かる内容となっています。
前回の感想でも書きましたが、歴史的な事柄として知る分にはいいのですが「女性の身売り」という本質は今も昔も変わらないと思いますので、私はその存在は過去・現在・未来も含めて許したくありません。今も社会的弱者につけ込むビジネスが暗躍しているということで、その根絶が強く求められると思います。男の欲望による「必要悪」よりも人間の「理性」が優れるような社会であってほしいですね。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
※見出しは当方で付けました。
・1日に落ちる金は千両(約1億円)、江戸の男たちを虜にした幕府公認の江戸の遊郭・吉原。広さ約2万坪、東京ドーム2個分の広大な敷地につくられた浮世の地だ。
・そこで春をひさいでいた遊女、中でもトップの花魁になるための厳しい道のりとは。
・そして吉原には、遊女の稼ぎにぶら下がる者がたくさんいた。店を取り仕切っていた遣り手婆とは。
・伝説の花魁・二代目高尾太夫、遊女になったのは江戸を襲った大事件が関係していた。量り売りされたという悲しい末路とは。
・花魁たちの光と影、その全貌に迫る。
<最高位の遊女・高尾太夫とは>
・江戸の町にはかけ蕎麦2杯の値段(24文・約360円)で客を取る夜鷹などの私娼を含め、1万人以上もの遊女がいたと言われている。
・最も格式が高いとされたのが幕府公認の遊郭・吉原で、約3千人ともいわれる遊女たちの中にも厳密な格付けがされていた。江戸初期は「格子」以上の上級遊女が「花魁」と呼ばれた。その中でも最上級が「太夫」で、3千人の中でも数人の限られた者しかなれなかった。
・長い吉原の歴史の中で数々の伝説によって語り継がれているのが、吉原随一と謳われた妓楼・三浦屋の高尾太夫。高尾は三浦屋が代々名乗らせた太夫名で、6代までとも11代まで居たとも言われている。
・初代は「子持ち高尾」と言われ、遊女としては珍しく吉原で子を産んだ。その子を乳母に抱かせともに歩いた花魁道中は人気を博したと言われている。
<二代目高尾太夫の生い立ちとは>
・二代目高尾太夫についてこんな記述がある。
すらり しゃんとした
身なりそぶりが優雅で
眉目はくっきりして
玉のようである
情愛の細やかさは
ひときわすぐれて
気だてのいいのは
普通ではない
人の扱いも場のもてなしも
この人より勝る者はない
・2代目高尾太夫は1641年、下野国湯本村(塩原温泉元湯)に生まれたと言われている。幼名はあきといい、8歳のとき湯治に来ていた客にその聡明さと美しさを見い出され、江戸・吉原に連れて行かれた。
・このときちょうど妓楼・三浦屋の主人である四郎左衛門に子どもが居なかったため、その養子となり三浦屋の娘として大事に育てられることになった。
・しかし17歳のとき運命を大きく変える事件が起こった。江戸の町を焼き尽くしたといわれる明暦の大火によって傾いた妓楼を立て直すために、彼女は自ら志願して遊女となり吉原随一の花魁へと成長した。
・しかしこれは特別なケース、花魁になるには厳しい道のりがあった。
<花魁への道~身売り~>
・遊女の多くは生活苦のために親に売られた貧しい農民の子どもで、女衒と呼ばれた中間業者を通して吉原に売られていった。身売りの相場は江戸中期で5~10両(約50~100万円)だが、人身売買は幕府によって禁じられていたため、表向きは奉公人として遊郭に入った。
<花魁への道~禿~>
・10歳までは禿(かむろ)と言われ姉女郎に仕え、付き人として部屋の掃除や客に手紙を届けたり身の回りの様々な雑用をこなした。夜は茶屋に付いていき、客とのやり取りを見聞きすることで吉原のしきたりを学んでいった。
<花魁への道~新造~>
・15歳頃になると新造としてお披露目された。その10日ほど前に赤飯や蕎麦を配り、当日は店の前に豪華な反物を飾った。このとき既に「振袖新造」「留袖新造」と格付けがされ、格下の留袖新造はこのときから客を取らされ、将来は料金の安い中級以下の遊女となった。
・一方、禿時代に姉女郎に才能を認められた者は振袖新造となり、上級遊女、店の看板花魁になることが期待された。17~18歳で遊女としてデビュー。初めての床入り・水揚げは店側が女の扱いに慣れた40歳以上の男に頼んだという。
・そして一人前の遊女になると、吉原のトップである花魁になるため様々な努力と苦労をさらに重ねていかなければならなかった。
・花魁になるために必要なのは「一に顔 二に床 三に手」と言われた。一番は器量で、美人であることが重要だった。次に床さばき、どんな男でも満足させられる技を身につけなければならなかった。三つ目の手とは「手練手管」で、客を惹きつけるための嘘や駆け引きのこと。別れ際に目を潤ませ「あちきの身はぬしさん一人のものでありんす」などと言うことも手練手管の一つだ。
・さらに花魁になるには重要な要素があると、江戸の遊郭に詳しい自由学園最高学部長で立教大学名誉教授の渡辺憲司氏は言う。大名や文化人を相手にするため、当時は珍しい機械式の仕組みまで知っている高い知識と教養が求められた。まさに花魁は別格の遊女、吉原のスターだった。
<上客でも従う遊郭の習わしとは>
・二代目高尾太夫は、その美貌と手練手管で江戸の男たちを虜にしていった。一番ご執心だったのが仙台藩主・伊達綱宗で、太夫ともなると遊べるのは大名や豪商などの上客と呼ばれる男たちだった。上客は1回1両2分(約15万円)という揚代の他、揚代の5~6倍(約50~60万円)のチップ・床花を払えるだけの財力のあるお大尽な客。大金を積み馴染みになるまで何度も通うが、上客といえども吉原のしきたりには従わなければならなかった。
・妓楼は大見世、中見世、小見世と格付けがされていて、江戸中期頃までは花魁は大見世にしか居なかった。大見世は江戸町や京町にあるが、直接行っても会うことはできず、上客はまずは一旦、引手茶屋に行き芸者などを挙げるのが習わしだった。そこから贔屓の居る大見世に連絡してもらい、指名を受けた花魁が上客を迎えに行く、これがいわゆる花魁道中だった。
・そして上客は花魁とともに羨望の眼差しを浴びながら大見世へと向かった。そこでもまた大金をはたいて酒宴を開き、その後でようやく床入りすることができた。
・なぜ花魁と遊ぶためにわざわざ引手茶屋を通さなければならなかったのだろうか。前出の渡辺氏によれば、この時代は遊興費を引手茶屋が立て替えて、後でまとめて請求するという方式をとっていたという。上客も財布を持って行くのは野暮だと考えていたため、後払いで済む引手茶屋は重宝されたのだ。
<吉原を仕切る「遣り手婆」とは>
・一方、初めての客は直接店に行き、通りに面した張見世の中にいる遊女から選んだ。張見世はいわばショーウィンドウで、籬(まがき)と言われる格子によって店のランクが分かるようになっていた。
・格子で全て覆われているのが大見世、中を余り見せないことでプレミア感を出した。中見世は籬の一部がなくなり、一番ランクの低い小見世では上半分がなかった。張見世に座っているのは比較的料金の安い中級以下の遊女たちだった。
・遊女を決めた客は店の中に入ると待合室のような2階の引付部屋に通され、遣り手と呼ばれる遊女のマネージャーが交渉をしに来た。30過ぎは大年増とされていたため「遣り手婆」と呼ばれた。
<遊郭で働く他の人々とは>
・高尾太夫の居た三浦屋には、遊女や奉公人など合わせて100人ほどが働き暮していたという。店の前に居るのが「妓夫(牛太郎)」と呼ばれた客引き。掃除などもする雑用係と危なそうな客を見極めるガードマンの役目もしていた。
・1階の張見世の中に居るのが「見世番」、客に遊女の名前を教えたり指名を取り次いだ。
・番頭は従業員のリーダーで優秀な男が務め、帳場を預かり使用人を監督していた。
・遊女たちの部屋や宴会場がある2階には「二階回し」という男が居た。燭台や火鉢を配るほか料理の配膳を担当し、酔って暴れる客をなだめたり客の愚痴を聞くなど2階の騒ぎを収めていた。
・店を経営する楼主がいるのは1階の内所。ここで常に楼内全体に目を配っていた。
・他にも「下足番」「不寝番」「風呂番」「飯炊き」などがいた。
・こうした従業員の給金は全てが遊女たちの稼ぎから支払われていた。店は遊女たちから揚代全額と、さらに客から貰ったチップの半分以上を吸い取っていた。大きな店になればそれだけ経費もかかった。そのため年間7千万円以上稼ぐと言われた高尾太夫のような売れっ子の花魁を育てることに店は躍起になった。
<吉原独自の驚きの商法とは>
・吉原の遊女はその格によって店から与えられる部屋が違った。中級以下の遊女は数人で大部屋、花魁のような上級遊女には個室が与えられた。さらに高尾太夫のような最上級の花魁になると二間与えられたという。
・吉原の店では売り上げを伸ばすために考えられた独特の商売の仕組みがあった。その一つが「廻し」と言われるもの。人気のある花魁が同時に指名が入ったとき、先客の相手をしている間に後の客を大部屋に入れて待たせるというものだった。
・そして待たされる客に対して花魁は、自分の配下の新造を話し相手に行かせて場を繋いだ。これを「名代」という。しかし客は絶対に名代には手を出してはいけない決まりとなっていた。もしもその禁を犯せば、新造が手酷い折檻を受けた。
・他にも遊郭には大きなタブーがあった。他の遊女との浮気は許さないというもので、客と遊女はいわば“擬似結婚”のような形をとった。3回通って馴染みになると三三九度や客の名前を入れた箸など擬似的な婚礼を行ったり、禿を自分の子どもに見立てたという。
<当時のファッションリーダーでもあった花魁>
・高尾太夫のような花魁たちは、いつでも身だしなみに気を遣っていた。最高級の着物、べっ甲のかんざしで総重量は30kgにもなったという。その高価な着物や装飾品は全て自前。花魁たちが手にする煙管が異常に長いのは煙草の火で焦がさないためだったと言われている。
・着飾ったその姿を人々に見せつける花魁道中、お供の禿にも華やかなものを身に付けさせた。
・さらに商売道具である体の匂いを気にし、ネギ・ニンニクなど臭いの強い食べ物は口にせず、朝風呂も欠かさずに入り常に匂い袋を持っていたという。
・自分を美しくみせるために化粧や髪型にもこだわった。紅は口元だけでなく目元や爪にも使い華やかに、遊女の名が付いた独特の髪型も生み出した(勝山髷)。
・そんな花魁たちは浮世絵の格好の題材となった。江戸の女性たちはその浮世絵を買い求めて、化粧や髪型を真似たという。江戸の女性たちのファッションリーダーだったのだ。
・しかし華やかな裏で彼女たちにも寿命があった。17歳位にデビューしてから約10年働くと、吉原に入る前の借金を返したことになり自由の身となった。
・これを「年季明け」といったが、その10年は「苦界十年」とも言われた。耐え切れずに逃げ出してしまう遊女もいたため、吉原では遊女が逃げられないように四方に「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅3.6m、深さ1.8mの堀が巡らされた。彼女たちがお歯黒の汁を堀に捨てていたため水が真っ黒になったことに由来している。
・さらに吉原唯一の出入口である大門の横には「四郎兵衛会所」と名付けられた監視のための番所があった。女之介と呼ばれる男装して逃げ出す遊女はここで捕えられ妓楼に連れ戻されてその後、厳しく折檻された。
<花魁の末路はどうなったのか>
・無事に年季を勤め上げた遊女たちはどうなったのか。自由の身とはいえ一度遊女に身を落とした人生、普通の生活に戻るのは難しかった。多くの者は番頭新造と呼ばれた遊女たちの教育係となり、裏方として働いた。
・しかしそれも限られた者だけで、さらに身を落としていく者もいた。その行き先は吉原の東側・羅生門河岸と西側・浄念河岸という最低ランクの店だった。
・狭い路地の突き当たりに遊女たちが居る棟割長屋があり、建物の中を区切った二畳ほどの空間が切見世女郎の生活の場となり仕事場となっていた。線香1本燃え尽きるまでの約10分、100文(約2千円)という値段で遊女は客を取っていたという。
<2代目高尾太夫の末路とは>
・2代目高尾太夫は仙台藩主・伊達綱宗に見染められた。彼女が送った句がある。
きみはいま
駒形あたり
ほととぎす
・綱宗の藩邸があった駒形から吉原までは2kmほどで馬ならすぐの距離だったが、それでも待ち遠しいという高尾の手練手管の一つ。彼女に夢中になった綱宗は高尾を身請けすることにした。
・遊女の人生で最も幸せなのは身請け。年季明けを待たずに借金の肩代わりをして身を引き受けるというものだが、実際はなかなか無かったという。
・高尾太夫が綱宗に身請けされる様子の浮世絵には、彼女が天秤に乗っている姿が描かれている。同じ体重分の金が身請け金で、一説には7千両(約7億円)にのぼったという。
・こうして身請けされた高尾太夫だったが、こんな話も伝わっている。綱宗に連れられ仙台に行く船の中で斬られたというものだ。実は彼女に別の意中の人が居て綱宗を怒らせたためと言われているが、真相は定かではない。
・日本橋箱崎にある高尾稲荷神社は、高尾の余りにも悲しい末路に同情した人々がここに遺骸を祀ったと言われている。また彼女の墓と言われる場所は他にもあり、今でも様々な伝説に彩られて語り継がれている。
・井原西鶴の遺作といわれる「西鶴置土産」の序文にこんなことが書かれている。
世界の偽固まって
ひとつの美遊となれり
これを思ふに
真言をかたり
揚屋に一日は
暮らしがたし
・嘘が一つに固まって美しい遊びとなった吉原、そこでは本当のことを語っていたら一日だって暮らすことができないと。
・多くの男を惹きつけた吉原と夢の国をつくった花魁たち。その一方で苦界と言われた場所で、花魁といえども身を削った商売。血と汗と涙を流す決して夢とは言えない現実的な場所だったのかもしれない。
(2016/3/8視聴・2016/3/8記)
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