【にっぽん!歴史鑑定】
「松井須磨子はなぜ大女優になれた?」
(BS-TBS・2016/6/13放送)
※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/
<感想>
松井須磨子さん、まさに波瀾万丈の人生に思えます。当時の人々にとっては若くして亡くなったことと、しかも病死した恋人の後を追うというセンセーショナルな死もあって、彼女を「伝説」のものにしたのかもしれません。
客観的にみて彼女が不倫に走ったことは決して許されることではないと私は思います。現在でも世間的には厳しい目を向けられるでしょう。今年に入って不倫が発覚した某女優が活動自粛に追い込まれたのは記憶に新しいところです。
ましてや当時はそれに加え「姦通罪」というものもあったわけで、今より厳しく干されてもおかしくない状況だったわけです。島村抱月の妻や子どもたちの心境を慮れば、女優だろうが何だろうが他人の家庭を破壊した悪人であることは紛れもない事実です。
でも、それでも須磨子という人物に何か魅力を感じてしまうのが不思議なところです。おそらく彼女の演劇を観た人々がそう感じたから、こうして後世まで語られる人物になったのでしょう。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
・テレビもラジオもなかった明治の末、流行をつくり出す最先端の娯楽といえば演劇だった。そんな演劇界に彗星の如く現れたのが、日本初の近代劇女優といわれる松井須磨子。絶世の美女とはいえない彼女がなぜ時代を背負うスター女優になれたのか。そこには涙ぐましい秘策があった。
・国民的スターに襲いかかるバッシングの嵐。須磨子は本当に金に汚い悪女だったのか。
・日本の流行歌第1号「カチューシャの唄」。音痴といわれた須磨子の歌がなぜ大ヒットしたのか。
・そして大学教授・島村抱月との不倫スキャンダル。禁断の恋の衝撃的な結末とは。
<松井須磨子の生い立ち>
・明治時代末期、歌舞伎などの古典的な演劇からの脱却を目指して、ヨーロッパの演劇を取り入れた新劇運動が盛んになった。その中心人物が文学界の重鎮・坪内逍遥だった。彼はヨーロッパから帰国したばかりの愛弟子・島村抱月らとともに文芸協会を設立。自宅に演劇研究所を設け、新劇俳優の第一期生を募集した。
・明治42年、その初めての選考試験にやって来た女性の一人が小林正子(後の松井須磨子)だった。演劇の経験は殆どなく、器量も十人並みだった彼女がなぜ女優を志すことになったのか。
・須磨子は明治19年(1886)、長野県清野村に小林藤太の5女として生まれた。小林家は江戸時代、松代藩に仕えていた武家。彼女は厳格な躾を受けて育つが、やがてその運命が一変した。16歳のとき父親が亡くなり、この子は都会で暮らした方がいいという父の遺言に従い上京することになった。
・東京では姉が嫁いでいた麻布飯倉の高級洋菓子店で働きながら、裁縫学校に通い花嫁修業。暫くして千葉県木更津の割烹旅館「鳥飼楼」の若旦那・鳥飼啓蔵に嫁いだ。やがては女将となり母となり平凡な日々を過ごしていく、そんな人生が待っているはずだった。
・ところが須磨子の結婚は僅か1年で破綻してしまった。夫に性病を移されたことが原因で子どもが産めない体になり、まるで追い出されるように離縁された。
・心身ともに傷ついた須磨子は暫く療養生活を送るが5年後、同じ長野県出身で東京俳優学校の日本史の講師だった前沢誠助と出会い、再婚。この新しい夫が彼女の人生を大きく変えることになった。
<松井須磨子が女優になるために行った秘策と努力>
・芝居好きの夫と舞台を観に行くうちに、須磨子は役者という仕事に興味を抱くようになった。ただ当時は江戸から続く歌舞伎が主流で、男が女役を演じるのが一般的だったが、彼女は男が女を演じるなんて不自然ではないかと思うようになった。
・やがて須磨子の中に女優になりたいという強い思いが芽生えていった。しかし我が身を振り返れば、演劇経験もなく器量も十人並み。そこで彼女は女優になるために、鼻を高くする隆鼻術という整形を行った。
・須磨子の夢を応援していた前沢は、坪内逍遥が設立した演劇研究所が研究生を募集していることを知り受験を勧めた。こうして彼女の女優への挑戦が始まったが、その試験は英語や小論文など難易度の高いものだった。
・試験の10日後、いよいよ合格発表。早稲田大学の掲示板には12人の合格者が貼り出された。その中に小林正子(須磨子)の名があったのだ。
・念願の研究所合格だったのだが、実は須磨子の成績は合格点に達していなかった。採点を担当した研究所の講師たちの殆どが不合格と判定する中、坪内逍遥が「我々は歌舞伎のような女形を使わないのだから、女性は一人でも多い方がよい」と主張。女優になろうとする女性が殆どいなかった時代、坪内の一声で彼女の合格が決まった。
・無我夢中で飛び込んだ新しい翻訳劇の世界。研究所での講義は勉学とは縁遠かった須磨子にとって未知の世界だった。芸術論や朗読法、心理学などハイレベルな講義が連日続いた。
・それでも負けず嫌いの須磨子は、不得意だった英語を克服するため知り合いを頼って独自に習い、文法を覚えるのが難しいと分かると文章を丸ごと暗記。他の研究生に追いつき追い越せと必死で食らいついていった。
・寝ても覚めても頭の中は演劇のことで一杯。もはや家庭生活のことは眼中になかった。家事が二の次三の次になり、夫の食事も納豆や味噌汁などを用意するだけ。ときには夕食がたい焼き一つだったこともあった。そんな生活に堪りかねた前沢は家を出てしまい半年後、正式に2人は離婚。僅か2年の結婚生活だった。
・女優として成功するためならどんな犠牲も厭わない。そんな須磨子の執念が実を結んだ。一期生の卒業試演会で「ハムレット」のオフィーリア役に抜擢された。恋人のハムレットに自分の父親を殺され、正気を失って死んでしまう悲劇の女性オフィーリア。彼女はこの役を全身全霊で演じ切り、無事試演会を成功に導いた。
・するとさらなるチャンスが舞い込んだ。たまたま試演会に来ていた帝国劇場の関係者から文芸協会に公演の申し入れがあったのだ。当時の帝国劇場といえば流行の最先端をいく国内最高の大劇場。この舞台での公演は新劇を世に知らしめる絶好の機会だった。
・こうして明治44年(1911)5月、文芸協会の記念すべき第1回公演の幕が上がった。そして7日間の公演は、旗揚げしたばかりの劇団にも関わらず好評を博した。
・ハムレットの成功で新劇の可能性に自信を持った文芸協会は、第2回公演の演目を決定した。それがノルウェーの劇作家イプセンの「人形の家」。弁護士の妻ノラが人形のように束縛される生活から抜け出すため、夫と子を捨てて家を飛び出し自立の道を歩もうとする物語。ハムレットのオフィーリアとは異なり、ノラは殆ど出突っ張りの重要な役どころだった。そのため研究所の3人の女性の中から誰が選ばれるのか、注目を集めた。
・激しい議論の末、ノラ役に選ばれたのは須磨子だった。一旦舞台に上がると輝きを放つ須磨子の存在感が高く評価された。
・演出を担当したのは、早稲田の教授で翻訳も手掛けた島村抱月。彼は大学の講義そっちのけで須磨子の演技指導に没頭した。
・明治44年11月28日・帝国劇場。「人形の家」の公演には多くの観客が詰めかけ、ノラを演じた須磨子の演技が大絶賛された。無名の須磨子が一躍、新劇界を代表するスター女優に駆け上がった。
<島村抱月との禁断の恋 その顛末とは>
・無名の研究生から瞬く間にスター女優となった松井須磨子。すると彼女を取り巻く男たちの目も変わっていった。文芸協会の有力スポンサーだった医師の酒井谷平は好色家として知られていて、彼女ものにしようと激しくアプローチ。また研究所の講師であり舞台の共演者でもあった東儀鉄笛も交際を迫ったが、彼女は全くなびかなかった。
・須磨子は文芸協会の設立メンバーだった島村抱月に想いを寄せていた。彼は早稲田大学初の留学生としてヨーロッパに渡り、帰国後は文芸誌「早稲田文学」を復刊するなど日本有数の知識人の一人。しかしその恋は許されないものだった。彼には妻と5人の子どもがいたのだ。
・さらに文芸協会内には恋愛禁止という決して破ってはならない掟があった。「男女七歳にして席を同じゅうせず」が常識だった当時、会長の坪内は恋愛問題が発覚しスキャンダルとなれば、世間から批判され文芸協会の存続が危うくなることを恐れていた。
・そのため掟を破った者に対する処分は厳しいもので、研究生の家で男女一緒に酒を飲んでいるのが二度見つかると退学。研究所の建物を移動する際、雨のときでも男女が一緒に傘に入っただけで退学となった。
・それでも須磨子は抱月への想いをどんどん募らせていった。恋の始まりは「人形の家」の公演のとき。何としても舞台を成功させたい演出家・抱月と、何としても女優として有名になりたい須磨子。二人の芝居の稽古は熱を帯び、互いがかけがえのない存在になっていった。
・舞台に懸ける二人の思いはやがて恋愛感情へと変わり、移動中に体を寄せ合ったり、人目に付く楽屋で接吻するなど二人の仲は文芸協会の中で公然の秘密となっていった。
・須磨子と抱月、互いに愛し合っていた二人だったが、抱月には離婚できない事情があった。実家が貧しかった彼は進学費用を援助してくれた恩義のある島村家の養子となり、その縁から島村家の娘・市子と結婚していた。さらに市子との間に5人の子どもがいたこともあって、簡単に離婚できる状況ではなかった。
・やがて抱月の妻も二人のただならない関係を知ることになった。抱月の留守中、市子が書斎の机の引き出しの中から決定的な証拠を発見した。それは便箋20枚に及ぶ、熱い須磨子へのラブレターだった。
<不倫発覚 須磨子へのバッシングとは>
・大正2年(1913)6月、スキャンダル記事が売り物の「萬朝報」には「松井須磨子引退」の見出しが。文芸協会が抱月との恋愛問題の責任をとるよう須磨子に退会を申し渡したと報じた。
・それ以後、妻子ある大学教授とスター女優との道ならぬ恋は新聞の恰好の餌食となり、社会的事件へと発展していった。一気に吹き出した文芸協会の不倫スキャンダル。その波紋は抱月と坪内を取り巻く早稲田大学内部の対立にまで広がっていった。
・事態を憂慮した早稲田大学の学長は話し合いの場を設けるため抱月を自宅に呼び、解決の糸口を探ろうとした。そのとき彼は須磨子を愛していると答え、さらに彼女とは今のところ肉体関係はないが将来どうなるか約束できないと言ったという。
・結局、坪内はこのスキャンダルが元で文芸協会の会長を辞任。協会の解散を宣言した。
<なぜ須磨子は悪女と言われてしまったのか>
・不倫スキャンダルの渦中にあった須磨子に対し、世間からバッシングの嵐が巻き起こった。差し入れや祝儀を独り占めしている、稼いでいる金を貯めこむ貪欲な女、さらに唯我独尊・わがままな女など、悪女だという噂が広まった。
・文芸協会の中心だった抱月を奪い、直接的な要因となって協会は解体してしまった。坪内は私費を投げ打ってまでつくったものを壊した須磨子に対し逍遥の弟子たちの反発は大きく、彼女の悪女伝説を広めたという。
<劇団解散の危機を救った名曲とは>
・大正2年(1913)7月、松井須磨子は島村抱月とともに芸術座を設立した。しかしそれは新たな波乱の幕開けでもあった。
・大学教授の職を捨て不慣れな劇団経営を始めた抱月は、不倫関係が続いていた須磨子を劇団の看板女優にした。するとスキャンダルの渦中にある須磨子を観てみたいという観客も多く、第1回公演は何とか席が埋まった。
・しかし続く第2回公演の評価は芳しいものではなく、観客数が激減。さらに須磨子の横柄な態度が劇団員の反発を呼び、中心となっていた俳優たちが次々と退団。深刻な資金難にも陥った芸術座は、次がダメなら解散という危機的状況に追い込まれた。
・抱月はラストチャンスともいえる第3回公演で起死回生を狙った。それがロシアの文豪トルストイの代表作「復活」の舞台化だった。当時トルストイは青年層を中心に大きなブームとなっていたからだ。
・ただ「復活」は社会の不条理や魂の復活をテーマにした重厚な小説。そのまま舞台化したのでは難しくて、客の入りは見込めない。そこで抱月は大衆受けを狙い、ヒロインのカチューシャと青年士官の恋を中心にした恋愛ドラマとして脚色した。
・さらにより娯楽性を持たせるため、劇中歌をカチューシャを演じる須磨子に歌わせることにした。歌詞は抱月自身が作詞し、作曲は後に「しゃぼん玉」「背くらべ」など童謡の作曲で知られるようになる中山晋平に依頼した。彼は早速作曲に取り掛かったが、なかなかメロディーが浮かばず1か月以上悪戦苦闘した末、ようやく曲を完成させた。
・それが「カチューシャの唄」だったのだが、一つ大きな問題があった。中山は「歌い手としての松井さんは正直のところ余りカンのよい方ではなく、声の質も上乗とは世辞にも云はれない」と語っている。
<なぜ「カチューシャの唄」はヒットしたのか>
・歌が決して得意ではなかった須磨子が歌う「カチューシャの唄」。ところがその歌はたちまち日本中に広まり、流行歌の第1号と言われるまでになった。
・理由の一つは、劇中で歌われた構成にあった。5幕構成の「復活」の舞台で「カチューシャの唄」は第1幕に一度歌われ、第4幕でもう一度歌われた。
・主人公に感情移入した観客に二度聴かせることで、より強い印象を与えることができた。
・この効果について中山は「ひとつの歌を程経てもう一度味わう場合、必ずその歌につきまとったもろもろの情景を思い出させずにはおかない」と言った。
・そして最大の理由は、欠点であるはずの須磨子の歌声だった。当時の劇評には「『カチューシャ可愛や』の唄哀調が、いかにもしみじみした幕切を見せていた」(読売新聞より)「『カチューシャ可愛や、わかれの辛さ』を唄ふ愛嬌は流石暖き味あり」(東京毎夕新聞)と、須磨子の歌声が感動を生んだと絶賛していた。
・上手くない歌声が逆に哀愁を帯びていると評価され、聴く人の心を打ってヒットした。
・こうして抱月の狙いは当たり「復活」の舞台は大入満員。芸術座の危機は救われた。
・その後「カチューシャの唄」はレコード化され、当時としては破格の2000枚を売り上げたという。蓄音機が高価で台数が少なかった時代、異例の大ヒットだった。須磨子は歌う女優第1号として、その人気を不動のものにした。
<人気絶頂の須磨子を襲った悲劇とは>
・「復活」で不動の国民的スターとなった須磨子だったが、抱月との関係は平行線を辿っていた。いつになったら結婚できるのかと不安を抱いた彼女はたびたび抱月に誓約書を書かせた。その実物が残されている。
私たち二人は一日も早く正式に夫婦となるように努め、万一芸術座不成立となるときは直ちに両人結婚の手続きをなし、二人の夫婦関係を破らざるようにすべし。
・何があっても抱月に寄り添っていきたい、それが須磨子の願いだった。
・芸術座を設立して2年、抱月が新劇運動の拠点にしようとする芸術倶楽部が完成した。この劇場には舞台や客席に加え、2階には須磨子の部屋や抱月の書斎などもあり、完成の暁には一緒に住む約束を交わしていた。まさに二人にとって夢の劇場。
・芸術座はその建設費を返済するため、国内はもちろん満州、ロシアなど175か所以上もの都市で巡業。人気もどんどん高まっていく須磨子に突如として悲劇が襲いかかった。
・大正7年(1918)、それまで過酷なスケジュールをものともしなかった須磨子が1か月後に向けての稽古中、スペイン風邪に罹り寝こんでしまった。スペイン風邪は今でいう新型インフルエンザのことで、この年に世界的に大流行し膨大な死者を出した。
・幸い須磨子はすぐに回復したが、今度は抱月にスペイン風邪が移ってしまった。
「僕のことはいいから、あなたは稽古に行きなさい」
・11月4日、須磨子は後ろ髪を引かれる思いで舞台稽古に出掛けた。そして稽古を終えた須磨子に知らされたのは、抱月の死だった。彼の死後、須磨子はこんな言葉を漏らしたという。
「私はもう死んでいるの。生きていても私の精神は、先生と一緒に死んでしまっているんです」
・それから2か月後の大正8年1月5日。須磨子は芸術倶楽部の大道具置場で自ら命を絶った。32歳の若さだった。女優として残りの人生を生きるより、愛に殉じる道を選んだ。
・松井須磨子の死は世間に大きな衝撃を与えた。新聞は号外を出し、須磨子の歌がつくられ、本が書かれ、映画もつくられた。まさに須磨子の人生そのものが芝居となったのだ。
・そして何より当時の世の女性たちの心を打ったのは、演劇での成功よりも抱月との恋を選んだ彼女の生き様だった。最後に女優の道を捨てた須磨子は、自らの死によって皮肉にも永遠の大スターとなった。
(2016/6/17視聴・2016/6/17記)
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松井須磨子物語
松井須磨子―女優の愛と死 (文春文庫 (292‐5))
松井須磨子―芸術座盛衰記
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